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■感覚の分布と四色相応─メカニカル篇2
人間の(諸)言語のメカニカルな帯域における「感覚の分布」をめぐる「私見」を、天下り式に披瀝します。
1.光の領分と音の領分
〇上方(メタフィジカルな帯域との界面)を「光」の領分、下方(マテリアルな帯域との界面)を「音」の領分ととらえる。(伝導の媒質としての光と音。あるいは、意味と身体[*1]。)
〇マーク・チャンギージー著『〈脳と文明〉の暗号──言語と音楽、驚異の起源』(第一章)によると、世界中の言語が視覚(光)ではなく聴覚(音)を軸にしている理由は次のとおり。(私は、チャンギージーの言う「聴覚」を「触覚」[*2]もしくは「内部感覚」(三木成夫)、「体性感覚」と捉えたい。あるいは、「視覚=遠隔感覚」に対する「聴覚=近接感覚」。)
・視覚に頼ると、背後や物陰や暗闇で役に立たない。聴覚を活かせば、たとえ背後、物陰、暗闇でも、意思の疎通ができる。
・視覚が長けているのは「これは何か?」「どこにあるか?」という疑問に答えること。反面、「何が起こったか?」に答えることは苦手にしている。
・その理由はごく単純で、ようするに光のせいだ。その場のあらゆるものが光を反射する。だから、目に映っている情景の中で移動や変化が起こっても、現実世界で何かが発生したとは限らない。
・聴覚は「何が起こったか?」をつかむのに向いている。ある現象が実際に生じたときだけ信号を感知するからだ。
・コミュニケーションは一種の出来事だから、やはり聴覚を活かすのが自然だろう。しかし文字は違う。ふつう、わたしたちは自分の考えをもっと長期的に記録しておきたいときに用いる。
・自然界では出来事の発生が音によって伝わる仕組みだから、言語も、文化的な淘汰のすえ聴覚に頼るようになった。
〇光の領分は「物語」の時空(出来事の配置、本質の認識と記録)であり、音の領分は「構成」[*3]の空間(出来事の発生・移動・変化の認知)につながる。これらの領分の融合によって生み出されるのが(純粋にメカニカルな)「今、ここ」の知覚の領分、すなわち「遊動空間」[*4]である。
〇光の領分はアポロ的な夢の世界(形象世界)における造形芸術の、音の領分はディオニュソス的な陶酔の世界における音楽・舞踊の舞台であり、両世界の融合によって生み出される芸術形式が(純粋にメカニカルな)演劇である。
《表1》メカニカルな帯域の三葉構造(Ver.5)
≪メタフィジカルな帯域≫
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★光(意味)の領分
・「物語」の時空(出来事の配置、本質の認識と記録)
・アポロ的な夢の世界(形象世界)における造形芸術
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★知覚の領分
・「今、ここ」の知覚の領分=「遊動空間」
・(純粋にメカニカルな)演劇
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★音(身体・律動)の領分
・「構成」の空間(出来事の発生・移動・変化の認知)
・ディオニュソス的な陶酔の世界における音楽と舞踊
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≪マテリアルな帯域≫
[*1]あるいは、意味と律動。──以下は、松岡正剛著『千夜千冊エディション 面影日本』第二章「をかし・はかなし・無常・余情」に収められた「吉田兼好『徒然草』」の一節。
《兼好は「もののあはれ」を思索するほうへは、あえて進まない。では無常思想を狭めているかというと、まさに限界している。しかし、そこに限界していることこそが実は『徒然草』の本懐だった。視界がつねに絞られていることが、何度でも『徒然草』が読める所以になる。
これはきっと兼好にディマケーションがあるということだろう。ディマケーションとは「分界」ということであるが、大和絵でいえば画面に金雲をたなびかせて伏せ場をつくったり、絵巻に斜めの区切りを入れて転換をはかったり、等伯や宗達のように平気で余白をとって、他の事象との関係を自立させたりすることをいう。日本語にはこれを巧みにあらわす「配分」「配当」とか「割り当て」という言葉があった。日本に和歌俳諧などの短詩型文芸がおおいに発達したのも、このディマケーションによる。ここには律動と意味がふたつながらディマケーションした。》
[*2〜4]柿木伸之著『断絶からの歴史──ベンヤミンの歴史哲学』第五章「切断からの像──ベンヤミンとクレーにおける破壊と構成」から。
いわく、ベンヤミンは映像技術が「無意識の領野」を解放し、映像のうちに「自由な遊動空間[シュピールラウム]」を切り開くことの重要性を強調した。そしてその区間を開き、想像を解き放つ映像を構成する技法としてモンタージュを重視した。
《ベンヤミンは、「技術的複製可能性の時代の芸術作品」において、アウラを消滅させる切断にもとづく映像の構成の技法として、モンタージュを重視するだけにとどまらず、『パサージュ論』においては、「十九世紀の根源史」を描く「像」を構成する自分自身の方法としても、「モンタージュ」を採用しようとしている。「この仕事の方法、それは文書による[リテラーリッシュ]モンタージュである」。そして、エピソードやテキストの引用という切断の操作にもとづいてモンタージュされた像の作用としてベンヤミンが挙げるのが、触覚的な「ショック作用」である。思いがけないものどうしを隣接させ、時に時系列をも錯綜させる像の出現は、時間の流れを断ち切り、主体を震撼させる。しかし、この衝撃を潜り抜けてこそ、想像が「自由な遊動空間」に解放される。ベンヤミンによれば、大衆文化としての映画とは、そのための「練習の道具」でもある。
こうして、想像が解放されるなかにこそ、近代の「進歩」の歴史によって消し去られた者たちも、その潰え去った希望とともに、一つの緊張を孕んだ像を結ぶかたちで想起され、その記憶が分かち合われうる。「文書によるモンタージュ」を近代の「根源史」の認識の方法として語るベンヤミンは、そう考えていたのではないか。だとすれば、彼が「技術的複製可能性の時代の芸術作品」において美学を「知覚論」と定義するとき、この知覚は、無意識の領野と結びついた、さらには過去を想起する働きをも含んだ想像にもとづくことになろう。
ベンヤミンは、複製技術の浸透を前提とした同時代の芸術の動向──そこには言うまでもなく、ダダとシュルレアリスムの動きが含まれる──、とくに映像芸術の展開をその可能性において考察しながら、知覚経験そのものを、マルセル・プルーストが語った「無意志的記憶」とも結びついた想起をも含む想像から捉え返し、『パサージュ論』に結実するはずの歴史認識の方法を研ぎ澄ましていたのではないだろうか。》(『断絶からの歴史』199-200頁)
柿木=ベンヤミンの議論を、本文の議論に(強引に)対応させると次のようになる。
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★光の領分 :想像 無意識の解放
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★知覚の領分:モンタージュ(切断・引用・構成)
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★音の領分 :想起 触覚的なショック
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■感覚の分布と四色相応(承前)─メカニカル篇2
2.四色相応
〇メカニカルな帯域の四方に四つの感覚を配置する。北方(表)に「視覚」、南方(裏)に「触覚」、東方(右)に「聴覚」、西方(左)に「共感覚」。
〇チャンギージー前掲書(『〈脳と文明〉の暗号』第三章)によると、色彩と感情は強く結びついている。
「わたしは、過去の研究や前著『ヒトの目、驚異の進化』の中で、わたしたち霊長類の色覚──とりわけ、新入りの霊長類であるヒトの赤と緑に対する敏感さ──がこれほど発達した理由は、皮膚の下で起こる血液の生理学的な変化を察知するためであろう、と論じてきた。そういう色の信号をつかめれば、他人の心理状態のありかたや変わりようがわかるからだ。つまり色彩は人間的で、生活と深いつながりがあるからこそ、わたしたちの感情を動かす。」
〇メカニカルな帯域の四方に四つの色彩を配置する(本稿第68章第5節の註4参照)。北方(視覚)に「白光」、南方(触覚)に「黒一色」、東方(聴覚)に「赤色」、西方(共感覚)に「緑色」、そして中間に「灰色」もしくは「薄墨色」[*1・2]。
《図1》メカニカルな帯域における感覚の分布と四色相応
≪視覚≫
〔白光〕
┃
┃
≪共感覚≫ ┃ ≪聴覚≫
〔緑光〕━━━━〔灰色〕━━━━〔赤色〕
〔薄墨色〕
┃
┃
┃
〔黒一色〕
≪触覚≫
[*1]パウル・クレー著『造形思考』(土方定一他訳、ちくま学芸文庫)から、黒と白、赤と緑をめぐるクレーの言葉を抜き書きする。
光と闇とがまだ未分離な「カオス(無秩序)」の基本的状態は「灰色」である。この「世界の神話的な原[ウア]状態」から徐々に、あるいは突然に「宇宙(秩序)」が形成される。「白から黒へ」と「赤から緑へ」という運動・流動を通じて。「カオスのなかの灰色」から「宇宙のなかの灰色」へ。(上巻68-69頁)
水彩画「夕べ、夜と昼の分かれ目」(1922年)をめぐる訳註。「運動と反対運動(上昇と下降)が起れば、対立するものは互いにせめぎ合う。暗から明にいたる段階では、最終的には両者の融合を生む。これが、「黒と白との中間にある、銀色を帯びた顫音であり、そのとき幅広い静止は規準から離れがちである。」」(上巻72頁)──「顫音」(せんおん)すなわちトリル。
同書からいま一つ、クレーの言葉を抜き書きする。
「観念的手段[線、明暗、色彩]は、物質から完全に離れるわけにはいかない。物質的手段[水、金属、ガラスなど]によらねば、いったい、どうやって「書く」のか。わたしがぶどう酒という言葉をインクで書くとしよう。すると、このときインクの果す役割は主役とはいえないまでも、ぶどう酒なる概念を恒久的に定着させうるのはインクである。したがって、インクはぶどう酒に永遠性を与える。文字と絵、すなわち書くことと描くことは、根本的にはひとつなのである。」(上巻81頁)
岡田温司氏の文庫版解説「「中間領域」の思索と創作」から。
「クレーにとって、形態とはそもそも運動にして行為にしてエネルギーなのだ。」(上巻341頁)
「これ[ルネサンスの透視図法(パースペクティヴ)が、固定した視点(観察者としての主体=画家の視点)から安定した世界像を描きだすものであったこと]にたいして、クレーが思い描いているのは、動く画家の視線──もしくは身体──とともに変化していくダイナミックな世界のイメージである。」(下巻343頁)[*3]
「[クレーにとって]灰色は、創造と終末、はじまりと終わり、生と死をつかさどる色なのだ。この色は「次元を持たぬ点として、つまり多次元の間に位置する点として」、「わたし」と同じ中心の位置を占めている。「わたし」と「灰色」は、生成変化の起点であるという意味で一致している。」(下巻344頁)
[*2]今福龍太著『薄墨色の文法──物質言語の修辞学』から、薄墨色(の文法)をめぐる今福氏のリリカルでポエティックでマテリアルな文章をいくつか抜き書きする。
「すべての色彩を混ぜ合わせてできた漆黒、それを水で薄く解きほぐしていった淡い薄墨の微細な濃淡」(11頁)。「薄墨は、生命世界を彩る黄色も、褐色も、灰色も、そして薄紅色ですら、それ自身のうちに内包することができる」(12頁)。
「これらすべてのモノと動作と言語の連関のなかに、植物に代表される自然界の螺旋力にたいする人間意識の根源的な浸透を私はみる。ことばの音を媒介にして、具体的なモノの力と特性がさまざまな心意や観念を呼び出し、それらが相互に結び合いながら意味の螺旋状の体系がつくられてゆく。薄墨色の文法を持つことばとは、そのような無数の具体の音と事物の連接によって豊かな彩を獲得する、書き言葉とは異なる平行世界をつくりなしているのだ。」(110頁)
「ことばが、意味世界に着地することで論理的な体系をつくりあげる手前で、オノマトペの擬音に依った宇宙音としてのノイズが、薄墨色の文法をつかさどる「ことば以前」の音域をどこかで支えている。ロイ・ロイ[ブラジルのインディオ起源の楽器]を鳴らして踊るダンサーの暗闇の身体に共鳴する私は、このことば以前の音と律動に還ろうとする自分が体内にたしかに存在することを感知する。」(119頁)
「この斑の蛇、薄墨色の迷彩模様に光る螺旋運動の結晶体。蛇であり、ジャガーでもあり、悪魔でもある、それらが挙げる持続する唸り音、ゴー音、ガラガラ音のなかに、人間がその生命の端緒で触れたはずの始原の闇を想起しつづけること。言語が発生する以前の、意識の蠕動の響きを聴き取ること。それは、言語情報の洪水のなかでノイズとしての唸りを切り捨て、暗闇の楽器のあげる咆哮にたいして耳を閉ざしてしまった人間にたいする、新しい言語文法への誘いでもある。」(122頁)
「こうした自然現象のなかに、視覚的な渦や螺旋の形状と、唸りという音響的な実体とが、見事に結ばれている。私たちの身体は、水の流動や大気の流れとしての風のなかに、螺旋と唸りとを、同時に感知しているにちがいない。風の声を移すロイ・ロイやトゥールゥーウーのような唸り玩具=楽器が内にはらむカルマンの渦。その不可視の気流と波動の螺旋形を音の彼方に感じながら、私はふたたび北風に向かって身体を立てる。」(128頁)
「…真の創造的な反復は、充満への注視を生み出し、充満という状態のなかに置かれた無数の句読点を発見させることができる。その句読点こそが豊穣な空虚だ。だからこそ、反復を呼び出す空虚は、まさに体内の虚空を鳴らす声=風によって生成されねばならないのである。アリア[ジョン・ケージの声楽作品]はそのための至高の歌である。いかなる言語も、この始原の風を生成させる原言語、分節言語以前の「声腔」の吐息を内蔵している。薄墨色にゆらぐひとつの音韻の文法として。」(141頁)
[*3]クレーの「動く画家の視線」は、パイロットすなわち「空飛ぶ人間」の視覚につながる。
三浦雅士著『スタジオジブリの想像力──地平線とは何か』第四章「地平線という主人公──ギブソンと宮崎駿」から、「生態学的知覚論、いわゆるアフォーダンスの心理学」を提起したジェームズ・J・ギブソンに関する記述を引く。
《ギブソンがやったことの迫力を、本書の主題に即して簡単にいえば、デカルト、ロック、ヒューム、カントといった哲学者[僧院の独房や書斎の暖炉のそばでじっと考える哲学者──引用者註]連中をみんなまとめて、小型飛行機の操縦訓練に駆り出したということになります。
まったく宮崎駿の「紅の豚」の世界、パイロットの世界ですね。ヘーゲルだろうが、マルクスだろうが、おかまいなく、操縦席に座らせ、離陸させ、飛行させ、着陸させる。これで人間の視覚がどのようなものか。体感させる。世界の真っ只中に存在するということがどういうことなのか、分からせる。》(『スタジオジブリの想像力』128頁)
空飛ぶ人間の視覚とはどのようなものか。それは「ルネサンスの透視図法」すなわち線遠近法に基づくものではありえない。
《ギブソンは…行為と連動しない知覚は存在しないことを確信してゆきます。…さらに、感覚と知覚を強引に区別するという考え方が、いわば西洋近代哲学の宿痾から発生したものであることを、結果的にですが、暴いていきます。
主観と客観の区別そのものが視覚から発生しているにもかかわらず、その主観と客観、自己と環境の区分を動かぬ前提として視覚なるものを改めて研究しようというのでは、哲学者の仕事なんてものは、まさに本末転倒というほかありません。感覚は外側、知覚は内側、さてこの二つは脳のなかでどんなふうに繋がっているのかな、と長年考えてきたというのは、つまり噴飯ものです。この噴飯ものだということを、ギブソンは空を飛ぶ人間の視覚体験を研究したことではっきりさせたのです。
飛行機は大きく揺れます。ときには上下が逆転する。にもかかわらず飛行士の世界は安定している。それは地平線を安定したものとする視覚フィールドならぬ視覚ワールドが確立されているからなのだと、ギブソンはいうのです。視覚フィールドというのは眼前するものを画家のタブローのように受け取っている。要するにひとつの静止画面にすぎない。対するに、視覚ワールドは視覚者の全身を取り巻いていま動いているこの世界の全体のこと。》(『スタジオジブリの想像力』112-113頁)
少し先回りした話題になるが、同書第五章「恋愛の地平線──「天空の城ラピュタ」」に次のような記述がある。「地平線を発明しそれを乗り越えること、それこそ視覚に潜んでいた能力であり、その能力を対象化し眼に見えるかたちにしたのが人間の言語なのではないか」(196頁)。
■間奏─第四の時間と第四の声
ここで二本、補助線を引きます。
(あるいは議論を広げ深めるための工具の蒐集。──ほんとうは伏線と言いたいところだが、これまで何本も張りめぐらせては放置してきているので気が引けた。その回収は次章以降に丸投げすることになる。貫之現象学B層第二相「純粋言語〜人間の言語篇」は、第一相「純粋経験〜コトバ篇」ともども、実はまるごと第三相「言霊〜やまとことば篇」の議論ための長い伏線である。と、これは後追いの自己弁解。)
補助線その一、第四の時間。
野村直樹氏は、『ナラティヴ・時間・コミュニケーション』に収められた講演録「時間論編 「生きた時間」とはなにか」のなかで、マクタガートの時間論(A系列、B系列、C系列)を拡張した第四の時間、すなわち「E系列の時間」を提唱しています。以下、野村氏の発言を拾います。
◎A系列の時間──心理的な時間、内在化されたもの(例:自伝)
・時制と順序と方向性を持つ時間(過去・現在・未来による時間把握)
・「いま、ここ」を前提とした意識の世界の時間、語ることによって意味をもつ主観的時間
◎B系列の時間──物理的な時間、外在化されたもの(例:動画)
・時制がなく順序と方向性を持つ時間(「より前」「より後」による時間把握)
・時計の時刻、客観的な時間、直線的な時間
◎C系列の時間──非時間、停止したもの(例:静止画)
・時制と方向性がなく順序を持つ時間(区切るごとに何かが増えて行く場合はD系列(例:カレンダー))
・時間になる以前の時間、前に進まず繰り返している時間
◎E系列の時間──対話的な時間、同調化したもの(例:ダンス)
・時制と順序と方向性を持たない時間(生きていることを示すリズムと変化があるだけ)
・最大の特徴は他者や環境との同調化=同期化(シンクロナイゼーション、エントレイメント)
・自ら区切ることで生まれる「生きた時間」、生命のリズムを刻む時間(鼓動、呼吸、脈拍、体内時計)
・カーニバル的な時間、祭りの時間[*1]、遊びに夢中になっている時間
E系列の時間の一例、“We had a great time!”と表現されるコンサートの経験。これは、野村直樹氏と橋元淳一郎・明石真両氏との共著論文「E系列の時間とはなにか──「同期」と「物語」から考える時間系」( 『時間学研究』第8巻(2015年3月)で挙げられたもの。
《「素晴らしいひととき」と言わしめるのは、演奏会が時間通り (B系列)に始まったからではない。自分だけの固有の時間 (A系列)に浸たれたからでもない。また、楽譜(C系列)がすぐれていたわけでもない。この「素晴らしいひととき」の正体? それは、団員同士の息の合った演奏とともに、聴衆として個 (A系列)を超えて会場が一体化(シンクロ)して感動したひととき。演奏会全体が同期し一つの空気に包まれ呼吸した時、私たちはそれを「素晴らしいひととき」と呼ぶのではないか。演奏者同士が、そして演奏者と観客が、そしてまた観客と観客が、みなが一つになった状態を感動という経験として引き取るのではないだろうか。》(「E系列の時間とはなにか」)
野村氏の時間論のエッセンスを、この共著論文から抽出すると、次の三点に整理できるかと思います。
@マクタガートのように時間の実在を間いただす哲学的論考ではない。
時間という実体があってそれを時計が計るのではなく、時計という「運動体」が発する「言語」が、つまり「区切り」(punctuation)や句読点が時間をつくっていくという見方に立っている。(現実という実体があってそれを言葉が表象するのではなく、言語・非言語を通した相互行為やコミュニケーションが現実を作っていくとする認識論、いわゆる「物語的転回(ナラティヴ・ターン)」と同じ論法。)
区切る、リズムを刻む、記すといった行為を通して世界を秩序立てていく時間(「物語として時間」)が論じられる。
《マクタガートの系列時間では、ある種の刻み方がある種の時間(何系列かの時間)を生成していく。時間を「区切り」「句読点」の文法もしくは形式として理解すれば、A系列では経験や記憶に残るイベントでもって句読点が打たれ、B系列は 1分を60秒、 1時間を60分という等間隅の刻みが句読点を打つ。また、C/D系列の文法は、刻みや桝目のシークエンスが作る模様(デザイン)が時間を区切り、E系列では「私+あなた」、あるいは「細胞+環境」における相互作用が句読点を打つ。前述のとおり、E系列では、会話やダンス、その他の生態学的インターアクションが時の刻みを入れていくから、「個」や「主体」なるものが句読点を打つA系列とは対照的である。相互作用するシステムという単位が時を刻むからだ。異なる文法によってそれぞれの時間が作られていく。》(「E系列の時間とはなにか」)
AE系列の時間は「同期」(synchronicity)=「引き込み」(entrainment)から創発する。
相互作用が同期を誘発する。リズムとリズムが出会ったときに起こる事象が同期である。
同期は物理世界(振子の共振)、生物世界(心拍・生命時計・群れ)、人間世界(ダンス・合唱・会話)に共通する。
物理学の法則は時間対称で過去と未来の区別がないから、その時間(相対論的時空)はA系列でもB系列でもない。観察者と無関係な客観的な時空、すなわちC系列も存在しない。
このような「観察者がいる空間での出来事」であるかぎり、物理世界に限らず生物世界でも人間世界でも、そこで創発するのは相互作用を通して局所的に同期する時間、すなわち「E系列の時間」である。
《同期事象はこのように時間と空間を「時空」としてつなげ、 離れた場所における時間はお互い相対的、局所的、個別的になる。経験世界における時計は、いつも観察者を含んだものだから、時計と時間と観察者との三項関係をつくるが、どこにでも当てはまるとして普遍時計(B系列)を携えてあらゆる分野に分け入っていく科学者たちは、観察者抜きの二項関係を描成することになる(松野孝一郎『内部観測とは何か』,p164-166)。経験世界の時計の方は─それがダンスであれ、細胞同士であれ─他から独立したものではなく、 内部からの観察者を想定し、その時間の読み方は「読み手」に依存している。喩えとして、時計を「言語」に、銀察者を「話し手」に、時間を「意味」に準えたらわかりやすい。辞書にある言葉の定義がその会話での意味には必ずしもならないように、経験世界の時計では、時間は、言葉の意味に似て、観察者抜きに同定することはできない。》(「E系列の時間とはなにか」)
B『正法眼蔵』に「いはゆる有時(うじ)は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」とある。「時は姿、様相をもっている。生きているさまも、物が存在することも、時の姿である」。
すなわち、A系列からE系列までの「時間」は「時」の「姿、様相」である。「時」はこれらより一段上の「メタ時間(有時)」である。
「時間」をリズムに喩えるなら、それぞれの系列時間が異なるタイミングで拍子をとることで重層的な「ポリリズム(複合リズム)」の領域が形成される。
「時間」を声に喩えるなら、それぞれの系列時間の「声」が相互に闘争する「ポリフォニー(多声性)」の世界が出現する。
私見を挿みます。
興味深いのは論点Bですが、共著論文や前掲書では、必ずしも心ゆくまで論じ切られていません。私の勝手な解釈によると、「時(有時)」はアクチュアルな次元に属しており、「物語の時間」を構成する四つの時間系列が帰属するリアルな次元とは、それこそ存在の次元が異なります。(厳密に言うと、A系列に属する〈今〉は本来アクチュアルな次元に属する。)そして、E系列の時間は「物語の時間」の根源にあって、その「原型」をなしている。E系列の時間の上に、いわば「倍音」のようなかたちで、異なる他の系列の時間が「(時の)姿」と「(時の)リズム」と「(時の)声」の三つの領域にわたって多層的に堆積している、というのが私がいだいているイメージです[*2]。
付言すると、「声=ヴォイス(voice)=態」のつながりから(?)、E系列の時間は、(このすぐ後でとりあげるヴァレリーの「第四の声」ともども)、「中動態」(middle voice)と密接な関係を切り結びます。この点は、かの「やまとことばの幼体成熟性」に深くかかわってくるのではないかと、私は直観しています。
《表2》メカニカルな帯域の三葉構造(Ver.6)
★C系列(非時間)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
★A系列
※モワレ ※ライム(韻)
────────────────────────────
★B系列
◎文字言語 ◎音声言語
────────────────────────────
★E系列
※姿 ※リズム(律) ※声
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
《パランプセスト》 《ポリリズム》 《ポリフォニー》
[*1]「イントラ・フェストゥム(祭のさなか)」(木村敏『時間と自己』)的時間と呼んでいいかもしれない。
そうだとすると、A〜C系列の時間と「アンテ・フェストゥム(祭りの前)」的時間や「ポスト・フェストゥム(祭の後)」的時間との関係、さらには「コントラ・フェストゥム(祭のかなた)」(野間俊一『身体の時間──〈今〉を生きるための精神病理学』)的時間や「インター・フェストゥム(祭と祭の間)」(斎藤環『ヤンキー化する日本』)的時間との関係が気になる。(この論点は、かの「伝導体の(私製)理論」における五つの推論とも関係してくるのではないかと思う。)
[*2]三浦雅士氏の論考「カニングハムまでの数万年──建築の身体1」(『考える身体』所収)から。
・建築と舞踊はともに人類の歴史と同じほどに古い表現の様式である。
・神殿も人家も意味の濃い空間(宇宙や森羅万象への畏敬の念の体系の象徴)であり、何よりもまず舞踊を、狩りや刈り入れの仕草を、その立ち居振る舞いの優雅な反復を要求した。
・言葉は身振りとともにあった。詩人は舞踊手であり、舞踊教師だった。
・文字の登場以前、言葉と身振りと建築物はほとんど同じものと見なされていた。いずれも、森羅万象に呼応する意味として同等であったからだ。
・文字登場後、印刷の発明が均質空間という幻想をばらまき、その幻想にともなって舞踊から音楽と絵画が分化し、商業施設、コンサート・ホール、美術館が建設された。
《絵画は視覚に、音楽は聴覚にもっぱらかかわるが、舞踊と建築はともに触覚にかかわることによって、いまなお密接な関係にある。触覚という言葉が奇異に響くならば、五感といってもいい。建設は、そこに入るもの、居住するものの全身を、全感覚を支配する。舞踊もそうだ。舞踊は見るものの呼吸を支配し、全身の筋肉を支配し、そのうえで感情を支配する。舞踊と建築のこの関係は、いまなお重要な研究課題としてあるといっていい…。》(河出文庫『考える身体』144頁)
(文中に「舞踊と建築のこの関係」とある箇所は、「舞踊と建築のこの‘中動態’的な関係」と書き換えてよいと思う。)
──三浦氏の議論を、本文の《表2》の上に強引に(吉本隆明の「構成論」(詩・物語・劇)を組み入れて)落とし込むと次のようになる。
★C系列(非時間)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
★A系列
※モワレ ※ライム(韻)
【建築(劇場)】 【絵画】 【物語】
────────────────────────────
★B系列
◎文字言語 ◎音声言語
【劇】
────────────────────────────
★E系列
【建築(神殿)】 【音楽】【舞踊】 【詩】
※姿 ※リズム(律) ※声
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
《パランプセスト》 《ポリリズム》 《ポリフォニー》
【音楽】と【絵画】は、【建築】の場合と同様、それぞれ下層と上層の双方に属すると解すべきかもしれない。たとえばマテリアルな音楽(松籟)と絵画(洞窟壁画)、メタフィジカルな音楽(ヴェーベルン)と絵画(クレー)といったかたちで。
【劇】は、おそらく三つの層のすべてにかかわる複層性を孕んでいる。たとえば下層に根ざす呪術的祭祀、上層の悲劇(デウス・エクス・マキナが降臨する?)、中間層における仮面劇や人形劇(能や歌舞伎を含めて)といったかたちで。
【映画】については、三浦氏が前掲書所収のエッセイ「書かれた顔──映画の身体1」の末尾に「文庫版付記」として記した次の一文が参考になる。(「小説=演劇」の説を含めて、私は三浦氏の議論に説得力を感じている。)
《詩は舞踊、散文は歩行と言われる。展開すれば、詩は舞踊、小説は演劇となるだろう。すると、映画は歩行や演劇のほうに与するとどことなく思われるわけだが、これは違っている。(略)映画は、不思議なことに詩や舞踊のほうに近いのである。小説の映画化はあっても詩の映画化はないのでいよいよ面妖の感が強いが、これは事実である。おそらく画面構成のほうが、表向きの特徴である物語構成よりも、映画にとってははるかに本質的だからなのだろう。映画は近現代に発明されたものであるにもかかわらず、表現においては始原的であり、詩や舞踊や音楽に近い。これは多くの人に論じて欲しい問題である。》(河出文庫『考える身体』161頁)
ちなみに『スタジオジブリの想像力』第八章「地平線の比較文学──フォード・黒澤・宮崎駿」で三浦氏は、萩原朔太郎が天才的な直観力をもって「映画というものがじつは地平線に深くかかわっている、いや、地平線こそ映画を成立させる決定的な要件なのだ」と見抜いていたと指摘し(329頁)、その少し後で次のように書いている。
《先ほど朔太郎の例を引きましたが、単刀直入にいえば、朔太郎は映画に舞踊を見出したのです。これは要するに、朔太郎は映画に詩と同じものを見出したということです。現われ方は非常に違いますが、詩と舞踏は同じ場所、すなわち生と死を結ぶ場所から生まれました。同じことが映画にも言えることを、朔太郎は直観的に見出した。
この事実から、詩や舞踏や映画においては鮮明に登場する地平線が、なぜ小説や[現代]演劇においては登場しないのか、その理由が推測できます。詩や舞踏や映画に較べて、小説や[現代]演劇は新しいのです。小説や[現代]演劇は現代に属している。詩や舞踏や映画は、近現代に属すと同時に、古代、というより神話に属している。》(『スタジオジブリの想像力』349頁)
■間奏─第四の時間と第四の声(承前)
補助線その二、第四の声。
塚本昌則氏によると、「ヴァレリーは声のうちに、いくつかの層があることを指摘している」(「〈第四の声〉──ヴァレリーの声に関する考察」、塚本昌則他編『声と文学──拡張する身体の誘惑』所収)。
1.「私」が自分で感じる声
2.他人が聞きとる「私」の声
3.録音などの音響テクノロジーによって定着され、分析の対象となる、もはや「私」の声とは思えない声
4.以上のいずれとも異なり、他処からやってくる未知(虚構)の声と自分の話す現実の声の境界にある声
以下、塚本氏の言葉をいくつか抜き書きします。
「声には、個別の存在に深く根ざし、その個別存在の消滅とともに消えてゆく部分と、個別の存在を超え、時間を超えて語りつづける部分が共存しているのではないだろうか。」(145頁)
「一方には外からやってくる声があり、もう一方にはその声に対応する状態を自分のうちに創りだそうとする聞き手がいるというこの二重性は、ヴァレリーが自我というものに抱いている概念そのものである。」(147頁)
「…とりわけ興味深いのはこの[自己と他者との境界で構成される第四の声の]構造が時間を超えて声がよみがえる[声の蘇生]という現象に深く関わっているとする視点である。他処からやって来る声は、聞き手と話し手に分裂した〈二重の一者〉であるような自我を創りだす。その自我の語る声は、複数の人物が対話を交わす舞台で自らの思考を展開する。」(150頁)
「自分に対して話す言葉を、他人もその人の心のなかで繰り返せることが、文字の集積から声がよみがえることの基盤となると[ヴァレリーは]いうのである。」(153頁)
「〈第四の声〉が聞こえて来る場所は、注意を凝らすことそのものが注意の対象を生みだす場所、時間が流れているという感覚が宙吊りにされるような場所である。」(154頁)
「記号表現は、デリダ[『声と現象』]によれば記号内容への理解によって伝播するのではない。ある人が自分に話す言葉を、他人も自分に話すことができる──この構造が反復されることによって伝播するのだ。〈自分が話すのを聞く〉という構造そのものが、別の人間にそのまま波及しえるというのである。ヴァレリーの考察は、この反復を声の蘇生と結びつけている点に特徴がある。」(155頁)
「他処からやって来た声に耳を澄ませ、聞こうとする姿勢から、…他者の言葉を源泉とするひとつの心的構造が生成する、とヴァレリーは主張する。」(156頁)
「存在として姿を消した作者は、多数のものとなってたがいに対話を交わす存在となっている。…読者もまた複数のものとなり、〈第四の声〉となって、自分のなかにある他者との会話を始める…。」(156頁)
「内的言語が、〈同一者〉のなかに〈他者〉を作りだすことそのものには、病的なものはない。自らが他者となり、他者の話す言葉を自分のものであるかのように引き受けることによってしか、人は言葉を話せるようにはならないからだ。問題は、聞き手が自分のなかに響く声を、自分とはまったく無縁の他者の声とみなすようになるときである。」(157頁)
「〈第四の声〉は、現実だったり虚構だったりするさまざまな人物の声が交錯する場所なのだ。」(159頁)
《ヴァレリーにとって、「詩の微妙な点は、声の獲得である」(…)。「いま発せられている声に、ある種の固有の生命、自律していて、親密で、非個人的な…生命をあたえること──それが目的であり、欲望であり、合図であり、命令である」(…)。他者からやって来る声を言葉に変え、他人が心のなかで繰り返すことができるような調子とリズムをあたえることができれば、それは時を超えて再生する力をもった声となるかもしれない。一本の樹への変身は、そのような〈第四の声〉を獲得するプロセスの象徴である。》(「〈第四の声〉」160頁)
最後の引用文に「一本の樹への変身」とあるのは、ヴァレリーの対話篇「樹をめぐる対話」で、ルクレティウスが語る樹への変身を指しています──「一本の植物とはひとつの歌、リズムが確実な形態を繰りひろげ、空間のなかで時間の神秘を開示するひとつの歌なのだ」。
塚本氏は、「ヴァレリーが声の再生そのものを象徴する主題として変身のテーマを繰り返し取りあげていること」に注目し、その「数限りない例」の一つとして、同じく対話篇「エウパリノス」で、建築家エウパリノスが自分の建てたヘルメスの神殿を見て語った「懐かしい変身」とともに挙げているものです──「この優美な神殿は、…ぼくが幸せな恋をしたコリントスの娘の数学的形象なのだ。この神殿はその娘の独特の身体の均整を再現している。この神殿はぼくにとって生きているのだ!」。
──「声=ヴォイス(voice)=態」のつながりを介して、「第四の時間」と「第四の態」(中動態もしくは「無態」( 第62章参照))を連結し、その勢いに乗って「第四の人称」へと接続する。そんなおぼろげな「構想」をもって抜き書きを始めてみたものの、どうやら確たる着地点を見出せないまま失速してしまったようです。(削除することなく徒労の痕跡を残しておいて、後の議論につながるかどうか見守ってみる。)
ヴァレリーにはまた「第四の身体」という概念があって(「身体に関する素朴な考察」)、これが「第四の声」や、この論考群でかつて取りあげた「錯綜体」の概念(ヴァレリー・オリジナルのものと、市川浩によるその拡張版「顕在的(現実的)統合+潜在的統合+可能的統合+不可能な統合(夢)」( 第45章参照))ともつながっています[*]。これも掘り下げてみたい興味深い話題ではあるのですが、手際よく処理できそうにありません。
[*]武田梵声著『野生の声音──人はなぜ歌い、踊るのか』第9章「アルトーと未来的祝祭演劇」から。
《「錯綜体」とは何か。たとえば私たちは、自分の顔を「見る」ことができない。つまり、自分のものでありながら、自分のものではなく、他人のものではないにも関わらず、他人のものでもある(自分の身体は他人のものではないが、他人は自分の身体を見ることができる)というように、主客が錯綜するものとして、ヴァレリーは身体を捉えた。
ヴァレリーは身体を4つの段階に分ける。まず、自分が実感している第一身体。他者から見た私の身体である第二身体。客観的、解剖学的、生理学的な身体である第三身体。そして、それ以外のあらゆる身体感覚のレベルを内在した第四身体の4つである。この4つめの身体こそが「錯綜体」だ。
卓越した芸能者は、洋の東西を問わず、世阿弥が言うところの「離見の見」すなわち、我見と離見を融合した境地に立つと言われる。ヴァレリーの身体論においては、客から見た演者の身体である「離見」は第二身体にあたり、「我見」は第一身体に相当する。そして、錯綜体までを自在に行き来できるようにならなければならないと述べている。
実は、こうした錯綜体の概念と通ずる捉え方は、古今東西の身体論にも、見出すことができる。禅竹の六輪一露論やアルトーの精神のアスリート論などがそうだ。近代では、和辻哲郎が、古代日本人の身体感覚は心=身体=自然が不可分な一体性を持っていたと指摘している。和辻は上代歌謡の分析からそのような身体感覚を導き出したわけだが、これは旧石器時代人の思考法であり、身体感覚であると言われる浸透概念や流動概念とも重なるものだ。あるいは、中国における体内神の実感やその瞑想技法である存思[そんし]とも重なる。
折口信夫もまた、内外の境界が、生理的な皮膚ではなく、身体感覚的に拡張されたり縮小されたりするような身体感覚、すなわち透過的身体性を持っていたと言われているが、こうした身体感覚はこれまでにも空手家であり武道研究者であった南郷継正や、ゾーン・フロー理論で研究されてきたものに通じている。》(『野生の声音』245-246頁)
本論考のこれからの議論にとって見逃すことのできない概念群が(無造作に)散りばめられていると思うので、少し長く抜き書きした。
ちなみに、場違いの註を加えると、前章の《表5》で用いた「グノーシス的身体」という語は、武田氏の次の文章から引いたもの。「アルトーはカバラの技法により精神の至高に至り、至高の身体であるグノーシス的身体とも称される器官無き身体を発動させ、自在な心の運動選手としての俳優を創造しようとしたのだ。」(241頁)
■綻びを繕う─メカニカル篇(落穂拾い)
他者の議論の引用(工具の蒐集)に終始して、肝心のメカニカルな帯域の特性をめぐる考察がおろそかになった。このあたりで人間の(諸)言語の三帯域論を閉じて、中断していた貫之現象学B層第二相の議論に戻らないといけない。が、その前に、このところずっと喉元に刺さった小骨のように気になっていた理論的不整合、というか「綻び」を二つ繕っておきたい。
第一、人間の(諸)言語における声と文字、聴覚と視覚の位置関係をめぐって。
前章の《表3》で、私は「非人称の文字空間」をメカニカルな帯域の上方(表)に、「沈黙の声」を下方(裏)に位置づけた。また本章の《表1》では、「光」すなわち文字や視覚にかかわる領分を上方に、「音」すなわち声や聴覚にかかわる領分を下方に設定している。ところが同章の《図1》では、視覚の位置づけはそのままだが、聴覚を右方にもってきた。第71章の《図3》にいたっては、メカニカルな帯域の右方に「声」を、左方に「字」をあてがっている。
これらの「混乱」もしくは「矛盾」について整頓しておくと、まず、聴覚と視覚の位置関係は必ずしも声と文字のそれに連動するわけではないので問題はない。(音と光は微妙だが、少なくとも「音」は聴覚だけでなく触覚(振動)にも関係する。)次に、声と文字の位置関係についてだが、これも実は一貫している。声が右方で、文字は左方。「(非人称の)文字空間」を左上方に、「(沈黙の)声」を右下方にずらすことで問題は解決する。
以上に述べたことを図示すると、次のようになる。(下図は、 第71章の《図3》が人間の(諸)言語の三帯域に関して示した事柄をメカニカルな帯域の三葉構造のうちにフラクタルに「縮約」して表現したもの。「純粋文字」は、イスラームやカッバーラーの文字神秘主義の世界を一言で言い表わそうとした語。また「〈声〉」と「聲」は、第69章の第1節で「天空からの〈声〉/地下世界からの聲」と対比させて用いた表記。)
《図2》メカニカルな帯域の三葉構造(Ver.7)
[メタフィジカルな帯域]
┃
━━━━━━━━╋━━━━━━━━
★メカニカルな帯域(広義・表)
[非人称の ┃
文字空間] ┃
◎純粋文字 ┃ ◎神の〈声〉
────────╂────────
★メカニカルな帯域(狭義)
┃
[字]━━━━◎文字言語━━╋━◎音声言語━━━━━[声]
┃
────────╂────────
★メカニカルな帯域(広義・裏)
┃ [沈黙の声]
┃
◎象形文字 ┃ ◎聲、オノマトペ
━━━━━━━━╋━━━━━━━━
┃
[マテリアルな帯域]
第二、私的言語論との「地勢学」的なねじれをめぐって。
第64章で、夢のパースペクティヴをめぐる動態論を私的言語論に導入し、〈感情〉と〈現実〉と〈今〉と〈私〉をめぐる四つの私的言語相互の「位置」関係を確定した。 第66章の《図1》で示したように、これらのうち〈現実〉をめぐる私的言語は図の右上方を、〈今〉をめぐる私的言語は左上方を志向している。
そのどこに「理論的綻び」があるのかというと、第64章で私は次のように規定していて(現時点の論脈に沿って一部手を入れている)、「声が右方で、文字は左方」で一貫していると断言したことに明らかに反している。
◎〈現実〉をめぐる私的言語
・右上方に向かって「可能性」のベクトルが発出
・反事実的な可能性を含む〈現実〉を物語る言語(文字もしくはカタリ)
◎〈 今 〉をめぐる私的言語
・左上方に向かって「時間性」のベクトルが発出
・濃厚な時間性(〈今〉)を帯びた感情の物語を語る言語(聲もしくはウタ)
この「問題」は、以前に述べたように( 第69章第2節註2)、本来平面図では描写できない動態(立体図でも四次元図でも描写できない事態、おそらく五次元の世界の出来事)を無理して表現していることから生じる表面的なものである。
私的言語が稼働する「深層」と、ここで議論している人間の(諸)言語のメカニカルな帯域とでは次元が異なる。だから第66章の《図》のように、これらを同じ平面に書き込むことは本来できない。言葉遣いを間違えているかもしれないが、分界(ディマケーション)もしくは「配分」をしなければいけないはずだ。
(75章に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。
Web評論誌「コーラ」50号(2023.08.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第74章 人間の言語の三帯域論(メタフィジカル篇・承前)(中原紀生)
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