Web評論誌「コーラ」48号/哥とクオリアア/ペルソナと哥 第69章 人間の言語の三帯域論(マテリアル篇)

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Web評論誌「コーラ」
48号(2022/12/15)

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■「水波の比喩」をめぐって
 
 人間の(諸)言語の三つの稼働帯域について、以下、前章の《図》を念頭におきながら、マテリアル篇、メタフィジカル篇、メカニカル篇の順に考察していきたいと思います。が、その前に、この図の地勢学的解釈、すなわち「マテリアルな帯域/メカニカルな帯域/メタフィジカルな帯域」∽「海/波/風」の対応関係に関連して、ソシュールとドゥルーズの思考を、いずれも孫引きのかたちで拾っておきます。
 
 その一、石田英敬著『記号論講義──日常生活批判のためのレッスン』[*1]。
 いわく、ソシュールは、「シニフィアン」(意味スルモノ=記号表現、音声・音調・音響イメージ)と「シニフィエ」(意味サレルモノ=記号内容、観念・概念)との、表裏一体で互いに切り離し得ない対応関係を「水」と「大気」の関係に喩えた。
《ソシュールは、言語記号の領域を、人間の心理内容や観念がかたちづくる領域と、人間の身体が聞きとり発することができる音調の領域との中間に位置づけます。言語記号はそれら双方の領域をお互いに関係づけ、その関係を形式化することによって、固有の次元を構成するものだと考えています。記号による‘関係づけ’と‘形式化’がなければ、観念も音声も不分明なマグマの状態にとどまって、意味作用が成立することはないと考えられるのです。ソシュールは、観念の次元を大気に、音調の次元を水に喩えてこの事態を説明します。そして、言語記号の次元は、それら二つの連続体の間に、両者の関係づけのかたちとして生まれる波に喩えられます。言語は、精神的実体としての観念でも、物理的実体としての音調でもなく。その間を関係づける形式である。記号とは、二つの異質な次元の間に結ばれる関係性の形式であるというのです。》(『記号論講義』(ちくま学芸文庫)78-79頁)
 原典にあたる(と言っても、これまた丸山圭三郎著『ソシュールの思想』からの孫引き)。いわく、「ソシュールは、第二、三回講義で、あの有名な波動の譬えを用いて、「コトバとは関係を樹立する活動である」という真理を説明した」。
《二つの無定形な塊の譬えとして、水と空気を考えてみよう。気圧が変われば、水の表面は一連の単位へと分解される。これが波である。これは空気と水の中間に介在する連鎖であって実質を形成しはしない。この波動が二つの結合を表わし、言ってみれば、思考と、それ自体は無定形な音の連鎖との合体を表わしている。二つの組み合わせが、一つの形相[フォルム]を生み出すのである。》(「第二回講義」、『ソシュールの思想』122-123頁)
 その二、平倉圭著『かたちは思考する──芸術制作の分析』第8章「普遍的生成変化の〈大地〉──ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』」。
 いわく、『意味の論理学』では「ニーチェ−アントナン・アルトーの「大地−大海」と、ソクラテス−プラトンの「天空」との間に、ストア派−ルイス・キャロルの「表面」を描き出すこと」が賭けられていた。だが『シネマ2』においてドゥルーズの思考は決して「表面」にとどまることができない。なぜなら映画はこの世界を撮影するものだからだ。キャロルが描く言葉の世界とは異なり、この世界は重力で満たされている。私たちの身体は「大地」に落下する。(204-205頁)
 「海」もまた『シネマ2』のなかでは私たちを待ち構える崩壊の場所として描き出される。「海」は私たちを深く呑み込み、記憶の彼方へと連れ去ってしまう。「記憶のあらゆる広がりのむこうには、それらをかきまぜる波の音があり、一つの絶対を形づくる内部のあの死があり、それをまぬかれえたものは、そこから復活するということを理解しなくてはならない。」[『シネマ2』訳書289頁](206頁)
 『シネマ2』第9章「イメージの構成要素」では「現代映画において視覚的イメージから切り離されていく、音声的言語行為の諸相」が論じられる。なかでもストローブ=ユイレの『モーゼとアロン』は、天空の言葉=音声的イメージ(モーゼ)と大地の視覚的イメージ(アロン)との乖離そのものをテーマとしている点で範例的だ。「出来事とは、つねに抵抗であり、言語行為がもぎとるものと大地が埋め隠すものとの間にある。それは天空と大地の間、外の光と地下の炎の間の循環であり、それにもまして音声的なものと視覚的なものとの間の循環である。」[『シネマ2』訳書352頁](213-214頁)
《問題は、言葉が立ち昇る「天空」と、諸々の視覚的イメージを埋め隠す「大地」との間に、「中空の高さ」を発明することなのだ。いわば‘中空’を発明すること。出来事とはそこにある。
 だが中空など存在するのだろうか。映画の重力を前にして、中空にとどまることなどできるのだろうか。同じ第九章で論じられるデュラスの映画において、〈大地〉は流体化して、〈海〉へと変わる。(略)
 〈海〉の波は、すべての過去の諸層をかきまぜ、彫像たちを底に沈める。──ただ「言語行為」だけをあとに残して。(略)
 第九章の最後でドゥルーズが語るのは、「叫び」というモチーフである。言葉とイメージの乖離の第二段階において、言葉は、もはや「イメージの構成要素」であることをやめる。そうして狭義の言語を突き抜け、「失語症者や記憶喪失者」の「叫び」に達する。そこでは視覚的イメージもまた特異な形で不可視となり、「盲者」の「透視」へと変貌する。(略)語ることのできない者の言語と、見ることのできない者の視覚が接触する。不可能と不可能の接触。そこに中空が現れるだろう──。》(『かたちは思考する』215-216頁)
 ──これらの議論のあいだには、微妙または明白な違いがあります。たとえば、ソシュールの「音声」は下方に位置づけられ、ドゥルーズの「音声的なもの」は天空に立ち昇る、といった具合に。それらの差異を強引に結びつけ、かつ独自の拡張をおりまぜ「整合」させると、次のような図式が得られます。
 
◎ソシュールの「記号学」
 ・観念(精神的な実体)の次元:大気=メタフィジカルな帯域(原型+反復)
 ・記号(関係性の形式)の次元:波 =メカニカルな帯域
 ・音声(物理的な実体)の次元:水 =マテリアルな帯域(模倣+母型)
 
◎ドゥルーズの「シネマ」
 ・天空からの〈声〉(精神性):メタフィジカルな帯域(反復)
 ・流体化した視覚像(物質性):マテリアルな帯域(模倣)
 
◎ドゥルーズの「シネマ」(拡張版)
 ・刻印としての文字(受肉性、複製性):メタフィジカルな帯域(原型)
 ・地下世界からの聲(憑依性、復活性):マテリアルな帯域(母型)
 
◎ドゥルーズ−平倉の「中空」
 ・語ることのできない者の言語(叫び(命名)[*2]):メカニカルな帯域(母型/反復)
 ・見ることのできない者の視覚(透視(仮象)[*3]):メカニカルな帯域(模倣/原型)
 
   《図1》人間の言語の二契機と三帯域(Ver.2)
 
        ≪純粋言語≫
          ↓
   δ==== <受肉> ====
          ↓
     原 型  │  反 復
          │
   γ━━━━━━┿━━━━━━
          │
     模 倣  │  母 型
          ↑
   β==== <憑依> ====
          ↑
        ≪私的言語≫
 
 ※γ〜δ=メタフィジカルな帯域:大気(風)
  γ  =メカニカルな帯域  :波
  β〜γ=マテリアルな帯域  :水(海)
 
[*1]「私の考えでは、ソシュールの同時代人であるクレーの「造形思考」には、記号とかたちについてのある本質的な問いが含まれている」(『記号論講義』62頁)。石田英敬氏は、ソシュールの記号学を取り上げた同書第2章の冒頭でそのように語り、記号すなわち「二つの異質な次元の間に結ばれる関係性の形式[=かたち]」の意味作用を探究したクレーの「造形思考」の(ソシュール記号学と共通する)エッセンスを、「分節」(差異にもとづく構成単位、音素と形態素)と「反復」(記号結合、範列と連辞)と「布置」(記号実現、文の成立=記号と世界との関係づけとしての意味の出来事)として摘出している。
 ライナー・クローンは「意味のかけらの宇宙──パウル・クレーの音節について」で、ソシュールの言語論と重ね合わせながらクレーの「建築的絵画」について論じている。
《クレーは、言語の構造と絵画形態の構造を結びつけた。彼は、この二つの構造のいずれもが、より低次元の分割的なレベルが休みなくより高次元の非分割的なレベルに繰り込まれていくというレベルの位階制度を持っていることに気づいたのだ。これを支配している関係の原理は、おおまかなところ、ラカンにおけるシニフィアンの連鎖のイメージと比較しうるものである。上方に向かってはより次元の高い認知可能な統一体へ、形態素[モルフェーム]へ(さらにはテクストへ)とつながり、下方に向かってはそれを組み立てるブロック、記号素[フィグラエ]へとつながっている連鎖である。(略)クレーの意見では、形態の分節が持つ二つのレベルは、分析のためには分けることもできるが、事実上は分離不可能なものである。》(岩波現代文庫『パウル・クレー 記号をめぐる伝説』38-39頁)
 「上方」すなわちメタフィジカルな帯域に棲息する「形態素(morpheme)」もしくは「記号素(moneme)」、「下方」すなわちマテリアルな帯域に蠢く「形成素(figurae)」もしくは「文字素(grapheme)」+「音素(phoneme)」。
 
[*2]「叫び(命名)」は「名は言語の究極の叫びであるだけでなく、その本来の呼びかけでもある」というベンヤミンの議論に依ったもの(「言語一般および人間の言語について」第九段落、この文章は前章の註でも引用した)。
 
[*3]「透視(仮象)」(あるいは「透視される死」と書くべきか)の出典は、森田團『ベンヤミン──媒質の哲学』。森田氏は、イメージ(仮象)と冥界的なもの(死)との結びつきを論じた第六章「イメージにおけるハデス的なもの──前期ベンヤミンにおけるイメージ概念」で次のように書いている。
《イメージとはつねに不在者の現前であり、その意味で仮象であり、フィクションである。この認識を徹底させるとき、世界はその起源において、フィクションとして、仮象として現れるのだと言うことができる。(略)
 イメージの現実性を問うた際には、過去の存在の総体がイメージを介して働きかけることがこの現実性であるとした。(略)たとえば、ベンヤミンにおける「ハデス的なもの」は、イメージの奥底にある限りなく無に近い実在のようなものだが、まさにそれが現実性の根拠となっているのだ、
 臆することなくベンヤミン的な認識を徹底させるとするならば、この現実性の根拠は死である。世界が世界として現れるという出来事が、このような現実性を体験することにほかならないならば、その核心には死の体験があるのだ。そうであるなら、世界が世界として開かれること、イメージの現実性の出来は、同時に死の出来事であり、あるいは死が死として知られることであると言うべきだろう。》(『ベンヤミン──媒質の哲学』210頁)
 同じこと(と私には思われる)が、吉田裕氏の「イマージュの経験──バタイユはラスコーに何を見たか?」(『洞窟の経験──ラスコー壁画とイメージの起源をめぐって』所収)では次のように論じられている。「イマージュは実現されることのない対象を捉えようとする運動であり、そのために描線は反復されて錯綜し、その中から仮象としての形象が現れる。」(83頁)
《イマージュの生成は死の衝動と結ばれている。動物の形象はあらかじめ死の見通しのうちに置かれているとの記述[「先史時代の宗教」における記述──引用者註]は、バタイユにおいては、形象の生成の中にはあらかじめ死が作用していると考えられていたということだ。形象は死の予感から生まれ、描かれた動物たちは死へと運ばれる。その動きのために、動物たちは、描く者──狩人でもある──のうちに暴力と殺戮への情熱を呼び覚まし、狩りの獲物の豊富さを暗示する作用を持ち、付随的にではあれ、後に呪術的に使用されることを可能にした。
 この結びつきは、近代絵画を論じることの中にも浮上する。…バタイユは同時期に「マネ」を書くが、この画家の仕事の中に死が現れるのを感知する。》(『洞窟の経験』84頁)
■「マイナス内包=形相なきマテリアル」と「無心の形而下学」─マテリアル篇1
 
 人間の(諸)言語の稼働圏域を下支えするマテリアルな帯域、その色調もしくは音調(音象[ネイロ])を体感させる素材。
 
 その一、入不二基義著『現実性の問題』第7章「無内包・脱内包・マイナス内包」。
 入不二氏はそこで、クオリアを第〇次内包として捉えた永井均氏の説を拡張し、「マイナス内包としてのクオリア」という概念を呈示する。いわく、マイナス内包としてのクオリアとは、特定の概念による明確な括りの下で(たとえば赤の赤らしさとして)感じられるようになる(ありありと現前するようになる)より「以前」の、「(概念なき)潜在的なクオリア」あるいは「クオリアの潜在態」を言う。もしくは「クオリアの闇」であって、そこから無数の顕在的な(ありありとした)クオリアが発現してくると想定される存在論的な「無尽蔵」である。(261頁、279頁、292-293頁)
《マイナス内包のクオリアは、第〇次内包に残る「概念」の括りを解かれた、概念化されない「何らかの感じ」であり、さらにその感じの「潜在的な原質」であった。クオリアのこの潜在的な次元は、「物」のほうの潜在的な次元──形相なきマテリアル──と地続きである…。概念による区画化以前であるという点で、マイナス内包と形相なきマテリアルは、同じ一つの潜在性の場である。その場は‘物でも心でもなく’、そこから心と物の区別やその領域間の緊張関係が創発するような源泉である。
 物理主義・機能主義が依拠する「物質や情報(第一次内包や第二次内包)」は、すでに科学的な概念による区画化がなされた「形相を持つ何ものか」である。それは、第〇次内包としての「心的状態」が心的な概念の括りの下で「感じられるもの」であることと、パラレルである。そのパラレルな水準から「奥底」へと降りていくと、「物と心」はそれぞれの(物としての/心としての)形相を失っていき、潜在性の場において通底する。》(『現実性の問題』295頁)
 文中の「形相なきマテリアル」は「形相なき質料的現実」[*1]とも言い換えられる。人間の(諸)言語の第一の稼働帯域は、この「形相なきマテリアル=形相なき質料的現実」と「マイナス内包=無尽蔵のクオリアの潜在態」が同じ一つのものになる場、つまり物と心が通底し地続きになる「潜在性の場」[*2・3]に根差している。
 
 その二、井筒俊彦著『意識と本質』Z、禅の分節論。(本稿第29章ですでにとりあげた議論なので、ここでは文脈に即して簡単に要約する。)
 いわく、禅は「無心」の「形而下学」である。ここで「無心」とは、「有心」すなわち「分節意識」に対する「絶対無分節的意識」もしくは「純粋無雑なノエシスそれ自体」を言う。
 禅の実在体験(悟り、見性体験)の全過程を分析すると、「分節T」(=有「本質」的分節)→「無分節」(=形而上的「無」)→「分節U」(=無「本質」的分節)となる。「山は山である」→「山は山ではない」→「山は山である」。
 分節Uの次元ではあらゆる存在者が互いに透明である。花は花として現象しながら、しかも花であるのではなく、花のごとし(道元)である。この花は存在的に透明な花であり、他の一切にたいして自らを開いた花である。
《…無「本質」的分節は、本来、自由分節である…。花が無「本質」の花として分節され、鳥が無「本質」の鳥として分節される。「本質」をもたぬ花は、花‘である’ことを強要されないし、無「本質」の鳥は、鳥でなければならぬということはない。凝固点のない存在は流動する。どこにも遮るもののない世界で、事物は浸透し合う。それは、花が鳥に浸透し、花が鳥であり、他のすべてのものであり、そして、「無」である世界。分節は、現実の事態としてたしかに実在することはするが、この世界に事物を現出させる存在分節には、常識では考えられないような自由さがある。》(岩波文庫『意識と本質』173頁)
 井筒俊彦が「無「本質」の花」と呼ぶもののことを、私は前章で「詩的物質(マテリアル)」と名づけた[*4]。自由分節の世界、すなわち「詩的物質」が相互浸透し合うマテリアルな帯域。そのような存在の「かたち」をめぐる「流動・浸透」の原理を、私は「模倣」の名で呼びたいと考えている。
 
[*1]「形相なき質料的現実」には次の註が付いている。「私がここで念頭においているのは、永井均が「物理学主義(physicalism)」と対比させて述べた「究極の唯物論(materialism)」である。」(337頁)
 入不二氏が「念頭においている」永井均の議論(「聖家族──ゾンビ一家の神学的構成」)を引用する。
《『なぜ意識は実在しないのか』で私が使った「第二次内包」という語はチャーマーズに由来しているが、そのもとになっているのは『名指しと必然性』におけるクリプキの理論である。クリプキによれば、ある種の語が指している対象の本質は、その語に関してわれわれの側が持つ概念(さしあたっては第一次内包)によってではなく、世界の現実のあり方の側によって決まっている。われわれは「水」の何であるかを知らずに水を指し(指示を固定し)ており、水の何であるかはそれに関するわれわれの概念とは独立に世界の側で決まっているのだ。だが、クリプキに反して、世界の側で決まっている‘それ’に、われわれが辿り着ける保証はどこにもない(第二次内包といえども単に「第二次」であるにすぎない)。
 にもかかわらず、‘それ’は在る。と考えるとき、この強い実在論が要請しているのは、第二次内包の方向に、第〇次内包に対するマイナス内包に相当するものを想定することだろう。ビンゾ[「完全にフィジカルな存在者」であるゾンビの逆、意識は存在しているが身体が存在しない「完全にメンタルな(フェノメナルな)存在者」(250頁)──引用者註]は、概念としてはそれを持つが、にもかかわらず、現実のそれを欠く。第一次内包から出発して、第〇次の方向にも、第二次の方向にも、ともに到達できない「彼方」が在ることになる。しかし、そのように考えるとき、「痛み」や「酸っぱさ」や「赤さ」のマイナス内包の想定が実は無内包の〈私〉の現存在から生じていたように、「水」や「金」や「熱」に関するその「マイナス内包に相当するもの」の想定もまた、じつは無内包の現実世界の現存在から生じていることになるだろう。この究極の唯物論(materialism)は物理学主義(physicalism)と徹底的に対立する。そして、[ゾンビに欠けているのが「質的な意識」(概念としてではなく現実の)であったのに対して──引用者註]ビンゾに欠けているのはまさに‘それ’(materia)である。》(『〈私〉の哲学 を哲学する』277-278頁)
[*2]入不二氏によると、「現実性(actuality)」と「潜在性(potentiality)」の対照には、認識論的な水準と存在論的な水準がある(76頁)。認識論的な水準における現実性は潜在性の発現(manifestation,realization)・現前(presence,appearance)としてあり、そこでは現実性と潜在性は相互排他的である。これに対して存在論的な水準におけるそれは一番外側で透明に働く現実性であり、発現・現前するしないに関わらない「純粋現実」である。そこでは潜在性は現実性の働きの内にあって「‘現に’潜在している」のである。
《一番外側で透明に働く現実性こそ、内容化・様相化から退避する仕方で、最も潜在的に働いている。また、どれほど「深度」の大きい潜在性であっても、発現・現前としての現実性からは退却できるとしても、それでもなお現実性のうちで働いている。つまり、‘現実性はどこまでも潜在的であり、潜在性はどこまでも現実的である’。現実性と潜在性は、相互に排他的であるどころか、純粋であればあるほど(深くなればなるほど)接近し合い、互いに似てくる。
 一番外側で透明に働く現実性が、自己顕現化(現実性の受肉化)を行うやり方は、特定の命題内容(e.g.ソクラテスは哲学者である)や個別的な輪郭(e.g.可能世界)を身に纏って、一定の制約された姿で現れることである。…現実性の転落とその逆の遡行が、現実性の「受肉化」とその逆の「脱受肉化」に相当する。
 同様に、潜在[性]とその発現・現前の間の関係にも、自己限定による顕現化と(その逆の)退隠化、すなわち潜在性の受肉化と脱受肉化を見て取ることができる。潜在性の「深度」の深まりが脱受肉化に、その反対(発現との結合度の高まり)が受肉化に相当する。現実性と潜在性それぞれの「受肉化」は、認識論的な水準へと差し戻されることに相当し、現実性と潜在性それぞれの「脱受肉化」は、存在論的な水準へと差し戻されることに相当する。》(『現実性の問題』79頁)
 入不二氏の「潜在性の受肉化」は、私のターミノロジーでは「憑依」に該当する。
 
 ここで前章の《図》をめぐる場違いな註を加える。私がそこで【空】の語をあてがったのは(ベルクソン−ドゥルーズ的な意味合いでの)「潜在性(virtuality)」の領域を言い表わすためである。そして「空/現」の垂直軸全体が(広義の)「現実性(actuality)」の働きを、【現】が(狭義)の「現実性」の領域を表現している。したがって、オリジナルな発想は入不二氏が言うところの「存在論的な水準」にあったが、一方で、(「無」ではなく「空」の語を採用したように)、「空」の発現・現前としての「現」という「認識論的な水準」の発想を重ね合わせてもいた。
 これまで何度か伝導体もしくは伝導体類似の概念図式を作製してきたが、そのたび感じたのは、本来平面に描けない(そもそも三次元であれ四次元であれ静止画像では示せない)事態を表現していることの座りの悪さだった。まだ模索段階ではあるが、入不二氏の議論を援用し、次のような思考の手順に従い修正することで、事柄の実相に少しでも迫り得るのではないかと思う。
 
・《図》中の「虚−実」の水平軸(横軸)は本来三次元の空間に時間を加えた世界を縮減して表現したもの(それを私は「モンタージュの時空」と呼んだ)。
・そこに「存在論的な水準」における「潜在性/現実性」の動性が、すなわち純粋な現実性としての力の作用(憑依と受肉)が第五の次元として書き加えられる。
・しかしこの五次元世界は存在すると同時に崩壊し、「空/現」の垂直軸(縦軸)として《図》中にその痕跡を残す。
 
・《図》中の「空/現」の垂直軸(縦軸)は「認識論的な水準」における「潜在性/現実性」の動態を、すなわち「顕現化(「空」の憑依)/退隠化」(と、その鏡像反転形である「脱受肉化/(「現」の)受肉化」)を示している。
・存在論的な水準における「現」は《図》の中心点から手前に(この文章の読み手が位置する側に向かって)立ち上がり、存在論的な水準での「空(無)」は《図》の中心点から彼方=奥底に(この文章の読み手が位置する側とは反対側に向かって)その深度を深めていく。
・しかしこの存在論的な水準における「空(無)/現」の力の作用は存在すると同時に崩壊し、「空/現」の垂直軸(縦軸)として《図》中にその痕跡を残す。(以下、同様のプロセスを繰り返す。)
 
[*3]「形相なき質料的現実」(潜在性の場)と「無内包の現実」(一番外側で透明に働く現実性)の違いについて、入不二氏は次のように論じている。
《…「形相なき質料的現実」とは、「物質」[すでに言語を介して概念化・差異化を被っているもの──引用者註]もまたそこから切り出されてくるしかない「〈地〉としてのマテリアル」である。そのような…「生[なま]の原質」は「ただ一つの現実」である。(略)
 とはいえ、この「形相なき質料的現実」は、概念化・差異化に対して開かれてはいて、概念化・差異化を‘待っている’。その意味で、「形相なき質料的現実」は、概念化・差異化以前の存在ではあっても、概念化・差異化が原理的に可能な何かであり、概念化・差異化のための原・素材を提供する。
 それに対して、…「「現に」という現実性の力」「無内包の現実」は、質料的現実のように「概念化・差異化を‘待って’」などいない。むしろ、「概念化・差異化」とは無関係に働く力が、「現に」である(たとえ、「現に」というこの書記自体は概念化を被るとしても)。…「マテリアルな現実」も…「無内包の現実」も、ともに「区別なきベタ(無差異)」という点では同じである。しかし、その「ベタ性」自体が異なっている。区別(境界・差異)が‘まだ入っていない’という「ベタ」と、区別(境界・差異)は‘入りようがなく意味がない’「ベタ」との違いである。…「現に」という現実性の力は、一番外側で働く力であることによって、区別(境界・差異)とは無関係に遍在する「透明なベタ」である(一方、…[マテリアルな現実]は「塗り潰されたベタ」である)。》(『現実性の問題』338-239頁)
 私の考えでは、入不二氏が言うところの区別・境界・差異がまだ入っていない「ベタ」が、吉本隆明の「意味多様体のアモルフなかたまり」につながる。
 
[*4]この論考群の地下水脈の一支流をなす「イマージュの四分類」の議論──「像(イマージュ)/喩(フィギュール)/象(パライメージまたはパンタスマ)/肖(アケイロポイエートスあるいはホモイオーシス)」(第42章、第58章、第59章参照)──に関連づけると、「詩的マテリアル」(もしくは「意味多様体のアモルフなかたまり」)は「象」に該当する(第36章、第37章参照)。
 
■「アモルフな意味多様体」と「大洋のような母音の波の拡がり」─マテリアル篇2
 
 その三、吉本隆明著『宮沢賢治』第Y章「擬音論・造語論」。
 「物」(形相なきマテリアル)と「心」(クオリアの潜在態)が地続きになる潜在性の場。花が鳥に浸透し、花が鳥であり、他のすべてのものであり、そして、(「水素よりももっとすきとおっ」た)「無」である世界。このような、透明な花(詩的マテリアル)が咲き添い、透明な鳥(詩的マテリアル)が飛び交う形而下の世界をめぐる極限的表現(「文字の記述」)を、吉本隆明は「意味多様体のアモルフなかたまり」と名づけた。
《ある伝えたいことがらを書きあらわそうとして、文字の記述ははじまる。するといまほんとに書きあらわしたいとおもっているのは、そんな単純な限定されたことばではない。同時に多重に折り重なった記述が多重なまま書きあらわせないかぎり、いま記述したいことはあらわせないという焦燥がやってくる。そこでまたべつの言葉を書きつらねる。それでもまだ充たされないで、べつの系列の言葉をさがし書きつらねる。それでも充たされない。ほんとは同時に重層している意味多様体のアモルフなかたまりは、書かれてしまうと、時間にそって線状にひきのばされる。そのため書きあらわしたときには、書こうとおもっていたものと似ても似つかぬゆるやかにのびたものになってしまう。そこで充たされない状態は、どこまでもつづいてゆく。そしてここにのびてゆるんでしまった‘もの’とはなにか。それは概念のなかに折り畳まれていた生命の糸のようなものだ。
 話し言葉も話し言葉を書くという操作も、意味多様体の一部分の断面をあらわせるだけで、けっして充たされることはない。ここには言葉の発生にまつわる本来的な条件がふくまれている。それといっしょに資質の問題があるにちがいない。この資質はひとから制止されなければ、ふたつの脱出口にむかうだろう。
 ひとつは、言葉の意味をあいまいにしてもいいから、意味多様体のアモルフなかたまりを、じかに記述する普遍言語のようなものをさがそうとすることだ。もうひとつは、話したい(言いあらわしたい)ことがらを、言葉のたくさん重なった層(系列)をつかってあらわすことで、同時に多重な表現にちかづくということだ。
 宮沢賢治は擬音と造語の世界を限度をこえてひろげていった。それは普遍言語をもとめて、それで意味多様体をつくりたいという桁はずれた願望と、乳幼児の資質とがからんだ記述自体がドラマになった世界のようにおもえる。賢治はじぶんの思考を他者に伝えたいと願ったとき、その願いは瞬時にかなえられるはずだというかれのユートピアを、条件からきめてゆきたかった。意味多様体のアモルフなそして重層したかたまりを、いっきょに表音で実現できたらという願望が、じぶんのユートピアと一致できる言葉の場所が、かれの擬音と造語の世界だった。》(『吉本隆明全集23』576-577頁)
(本稿のこれからの議論に関連づけると、「擬音と造語の世界」はテレパシーに、「同時に多重な表現」はアナグラムにつながっている。)
 
 その四、吉本隆明著『母型論』「大洋論」。
 前々章で引用した文章のなかで、安藤礼二氏は、「吉本が宮沢賢治のうちに見出した、意味多様体のアモルフで重層した「詩語」の姿は、この後、『母型論』において、より科学的にそしてよりポエティックに展開されることになる。母音の「大洋」に浮かぶ、自然の風物をすべて音としてとらえることを可能にする「胎児」の喜びに満ちた世界として」(『吉本隆明』101頁)と書いていた。
《わたしたちはここで、種族語や民族語の差異を超えた母音の共通性を、ヒトの類としての共通性に対応するという仮定にたてば、その共通性は咽頭(腔)(のどぼとけ)から口(腔)や鼻(腔)にかけての洞腔構造が同じということに帰着するとかんがえるのが、いちばん理に適っているようにおもえる。そしてこの仮定はもっとさきまでおしすすめることができる。
 ひとつは母音は波のように拡がって音声の大洋をつくるというイメージだ。そして母音が咽頭(腔)(のどぼとけ)から口(腔)や鼻(腔)までの微妙に変化する洞腔のあいだでつくられ、発音されたにもかかわらず、大洋の波のような拡がりのイメージを浮べられる理由は、この母音が内蔵系(腸管)の前端に跳びだした心の表象[「発生学者三木成夫によれば顔の表情は、腸管の末端があたかも肛門の脱肛のようにめくれ返って腸管の内面を露出したものにあたっている。」(43頁)──引用者註]というだけではなく、咽頭(腔)から口(腔)や鼻(腔)の筋肉や形態を微妙に変化させる体壁系の感覚によってつくりだされるものだからだ。いいかえれば母音の大洋の波がしらの拡がりは、内臓管の表情が跳びだした心の動きを縦糸に、また咽頭(腔)(のどぼとけ)や口(腔)や鼻(腔)の形を変化させる体壁系の筋肉の感覚の変化を横糸にして織物のように拡がるため、大洋の波のイメージになぞらえることができるのだ。
 わたしたちが展開してきた論議に沿って、それぞれの種族語や民族語における母音の共通性と末端でのヴァリエーションがどこから生れ、どんな根拠をもっているかをいってみれば、母親と胎乳児のあいだの関係の本質とその種族や民族の習俗のわずかな、あるいはおおきな差異のほかからは生みだされないことがわかる。いいかえれば母音とは胎乳児と母親の関わりの、種族や民族を超えた共通性と、習俗の差異のつみ重なりから生みだされた言語母型の音声にほかならないといえる。》(『母型論(新版)』43-44頁)
 この、大洋のような「母音(=言語母型の音声)の波の拡がり」は、それ自体で言語といえるだろうか? 吉本はそのように問いを立て、自ら答えていわく、内蔵系(植物系)の情感の跳び出しである心の動きと、筋肉系(動物系)の筋肉の動きの表出である感覚の変化から織りあげられた母音の波は、「「概念」に折りたたまれた生命の糸[*1]と出合えないかぎり、言語と呼ぶことはできないはずだ」(45頁)。
 ここで吉本は、角田忠信の研究を踏まえ、本来それだけでは意味をなさない母音の波の響きを、言語優位の脳(左脳)で意味(前意味)をもったものとして感受する、旧日本語族やポリネシア語族の「特異な」事例をもちだし、そこから垣間見える「新しい地平」を論じている(47頁)。[*2]
《わたしたちは大洋のイメージの世界を、ソシュールのシニフィアンやラカンのシニフィアンの意味づけを拡大した「父」の世界のエディプス複合とはちがい、「母」と(胎)乳児との関係から発生した心と感覚の錯合した前意味的な芽ばえをもった世界とみなしてきた。そしてその世界では母音は言語的な皮質の優位で感受され、また「母」の像の根源にはあらゆる自然事象と現象を擬人化し、命名せずにはおられない発生機[ママ]の習俗が関わってくるものとみなしてきた。それは母音そのものが言語として意味をもつという二重の機能をもった個有言語の世界へと展開されてゆく。
 だがそれ以前に、この大洋のイメージの世界はすくなくとも二つの段階[第一段階:乳児の「アワワ」言葉の世界、第二段階:幼な言葉や耳言葉の世界──引用者註]を包括している。》(『母型論(新版)』50頁)
 
《この大洋的な心の動きと感覚の動きとが織り出すイメージの世界には、言語がつくられるために、このイメージに対応できるような「概念」の凝集された天抹線が生れてこなくてはならない。これを母親と乳児との関わりのところで小鳥を例にいえば、乳児が大洋のイメージのなかの小鳥と、空をとぶ実在の小鳥と、紙のうえに描かれた小鳥とを、おなじ小鳥の「概念」として同定できるようにならなくてはならない。だが母親の乳房をなめまわし、触れたり、嗅いだり、味わったりした感受性と感覚の胚芽ともいうべきものの体験は、つぎの段階ではこの「概念」の同定を容易にするにちがいない。第一段階の「アワワ」音声の水準も第二段階の擬音や前意味的な音声の段階も、この第三の段階にきて言語としての意味形成にむかうことになるが、それと同時に大洋のイメージの世界は、その特色のうち、とても重要とおもわれる波動を失ってゆくことになる。》(『母型論(新版)』52-53頁)
 吉本隆明による言語(へ)の発展段階を、かの私的言語の三段階(本稿第65章、第66章参照)と対比させると、次のようになるだろうか。
 
【第一段階】「アワワ」音声の水準
  ・〈感情〉をめぐる私的言語
【第二段階】擬音や前意味的な音声の段階
  ・〈現実〉をめぐる私的言語
  ・〈 今 〉をめぐる私的言語
【第三段階】「概念」の同定、言語としての意味形成
  ・〈 私 〉をめぐる私的言語
 
[*1]この「生命の糸」が「母型」と「詩語」(同時に重層している意味多様体のアモルフなかたまり)を繋ぐ媒質となる。そして、あたかも細胞の内部に折り畳まれたDNAを思わせる「生命の糸」が紡ぎだすものの名を「時間」という。(あるいは時間の胎内に宿るものこそが生命の糸であり、そして詩語であるのかもしれない。)
 ──ここで「アモルフなかたまり」から連想した話題を挿む。安藤礼二氏は『熊楠──生命と霊性』に収録された「粘菌・曼陀羅・潜在意識」のなかで、「熊楠の粘菌の起源」(18頁)となったエルンスト・ヘッケルの「モネラ」(無機物と有機物のミッシング・リングとなる生命の原初形態)をとりあげている。
 スティーヴン・J・グールド著『個体発生と系統発生』を踏まえていわく、「一つの原初的な生殖細胞のなかには、太古から続く生命の無限の記憶が「波動=原子」として、つまりは粘菌の「原形体」のように絶えざる流動を続けながら、蓄えられていた」(21頁)。
 また佐藤恵子著『ヘッケルと進化の夢』に依っていわく、ヘッケルはむき出しの「原形質」(plasma)として存在するモネラをモナドと同様なものとした。「ヘッケルは、そのようなモネラ=モナドは、精神を有する物質の基盤である、とさえ述べている。ヘッケルは、物質と精神の分割を拒み、非生命から生命(モネラ=モナド)の「自己発生」を推定している。」(24頁)
 非生命と生命、死と生、物と心、男と女、植物と動物、等々を媒介するヘッケルの「モネラ=モナド」と熊楠の「粘菌=曼陀羅=潜在意識(アラヤ識)」をめぐる安藤氏の議論は、ヘッケルとパース(アブダクション)、パースと熊楠(萃点の思想)の方法論的類似性、そして熊楠と大拙の出会いと交流(未発見の往復書簡)へと進んでいく。
(未解決の論点群──吉本隆明の「母型」と鈴木大拙の「(日本的)霊性」の関係性、あるいは「詩的マテリアル」(詩語)と「霊的マテリアル」(霊性)との関係性、さらには「詩的・霊的マテリアル」としての「プラズマ」(モネラ=原形質、物質の第四状態)と「エーテル」との関係性。)
 
[*2]本文では割愛した吉本隆明の議論を書き留めておく。
《旧日本語族やポリネシア語族では、自然現象、たとえば山や河や風の音や水の流れの音などを、すべて擬人(神)化して固有名をつけて呼ぶことができる素因があり、また自然現象の音を言葉として聴く習俗のなかにあったことが、母音の拡がりを言語野に近いイメージにしている根拠のようにおもえてくる。日本神話のうち旧日本語の世界を語るところでは、「語[こと]問ひし磐[いは]ね樹立[このたち]、草の片葉[かきは]をも語止[ことや]めて」(「祝詞[のりと]」)、いってみれば〈言葉をしゃべっていた岩や木立や、草の葉のようなものも言葉をやめて〉という世界であり、高い山、ひくい山から落ちて泡立つ水の瀬は「瀬織つ比売[ひめ]」という神であり、海の瀬がより集まるところは「速開[あき]」つ比売」という神であり、根の国のしぶきが立ちこめてひろがるところは、「速さすらい比売」という神だということだ。そこでは自然現象は擬人化され、自然物の発する音は、言語になった音の世界だとみなされる。この特性は母音の波の拡がりが自然音とともに言語化された世界になぞらえられて左脳(言語脳)優位でうけとられる世界をつくる根拠だとみることができる。》(『母型論(新版)』45-46頁)
 
《わたしたちがここでかんがえてきた母音の波の拡がりである大洋のイメージは、ソシュールやその心理的な理念としてのラカンのシニフィアンにはなりえたとしても、おなじ意味はもっていない。ただシニフィアンという概念との対応をしめすことはできる。ひと口に「神」の代りに擬人化され、命名もされたすべての「自然」の事象と現象が登場し、「父」の代りに胎乳児に反映された「母」の存在が登場するところに、わたしたちの大洋のイメージがある。そしてわたしたちが設定させたいのは前意味的な胚芽となりうる事象と現象のすべてを包括し、母音の波をそのなかに含み拡張され普遍化された大洋のイメージなのだ。そのために完全な授乳期における母と子の心の関係と感覚の関係が織り出される場所を段階化してみなくてはならない。》(『母型論(新版)』47-48頁)
■間奏─ベンヤミン的概念と吉本隆明的概念の融合
 
 吉本隆明著『宮沢賢治』の末尾の文章を抜き書きしているちょうど同じ時期、山口裕之著『映画を見る歴史の天使──あるいはベンヤミンのメディアと神学』第6章「歴史的時間とメシア的時間」の、「想起[Eingedenken]」の概念をめぐって書かれた文章を読みすすめていた。そして、私の脳髄のなかで、吉本隆明が言う「同時に重層している意味多様体のアモルフなかたまり」とベンヤミンの「アレゴリー的形象」の概念がオーバーラップしていった。
 山口氏はそこで、「歴史的時間」から「メシア的時間」へという、想起(目覚め)と歴史認識にかかわる「コペルニクス的転換」(『パサージュ論』[K1,2])について論じている。それは「時間によって規定されるわれわれの「歴史」の世界をその外側から見る歴史の天使のまなざし」(239頁)にかかわるものだ。
《ベンヤミンがいう〈かつてあったもの〉は、単に歴史の素材となるような過去の事実的なものとして「想起」の対象となるのではない。それは、この──神学的な意味においても──歴史の世界のなかのアレゴリー的形象と結びつくとき、〈かつてあったもの〉ははじめてその潜在的な力を発揮する。》(『映画を見る歴史の天使』239頁)
 ここで山口氏は、『パサージュ論』のなかの次のメモを引用する。「過去がその光を現在に投影するのでも、また現在がその光を過去に投げかけるのでもない。そうではなく形象のなかでこそ、〈かつてあったもの〉が〈いま〉と閃光のごとく一瞬に出会い、一つの布置を作り上げるのである。言い換えれば、形象は静止状態にある弁証法である。なぜならば、現在が過去に対してもつ関係は純粋に時間的・連続的なものであるのに対して、〈かつてあったもの〉がこの〈いま〉に対してもつ関係は弁証法的だからである。」([N2a,3])
《…「想起」ははっきりと「静止状態にある弁証法」の形象、すなわちアレゴリー的形象と結びつけられている。アレゴリー的形象は、時間の流れる歴史の世界のなかに置かれたものであるとともに、無時間的な根源を指し示し、かつそれ自体も無時間性が空間化し、弁証法的な両極を自らのうちに「静止状態」で保持している。》(『映画を見る歴史の天使』240頁)
 再び、「歴史の概念について」の議論が挿入される。「時間が胎内に何を宿しているのかを時間から聞き出した預言者たちは、まちがいなく、時間を均質なものとしても空虚なものとしても経験していなかった。このことをありありと思い描く者は、おそらく、過ぎ去った時間が「想起[アインゲデンケン]」においてどのように経験されてきたか、わかるだろう。つまり、まったく同じように経験されてきたのだ。」(補遺B)
《想起[アインゲデンケン]はもともと、均質で空虚な時間の対極にある礼拝的なものの領域に関わっている。そのような領域にある「預言者たち」が〈かつてあったもの〉を想起することを教えるとき、それは過ぎ去った時間へと遡行することを意味するだけではない。この想起の行為は、「引用」とまったく同質のものである。引用されるもの、想起されるものは根源と結びついていると同時に、引用や想起によって「現在」の次の段階へともたらされる。》(『映画を見る歴史の天使』241頁)
 以上の議論を念頭に置いて、ベンヤミン的概念・布置と吉本的概念・布置を適宜組み合わせると、下図の(仮設的な)構図を得る。
(ここで私は、ベンヤミンが言う「メシア的時間」をハンナ・アーレントが『過去と未来の間』の序文で述べた「非時間の空間[ノン・タイム・スペース]」に(本稿第49章、第65章参照)、また〈かつてあったもの〉=〈いま〉を永井均氏の独在性の〈私〉や〈今〉に(もしくは入不二基義氏の「純粋な現実性」の概念に)関連づけて考えている。)
 
   《図2》人間の言語の二契機と三帯域(Ver.3)
 
        ≪アウラ≫
         [δ]
          ┃
       U  ┃  T
          ┃
 [α]━━━━━ 〇 ━━━━━[β]
          ┃
       V  ┃  W
          ┃
         [γ]
        ≪根源≫
 
 ※α−β:歴史的時間
      連続的・事実的なものの世界(空間化された無時間)
  γ/δ:メシア的時間
      γ=無時間,δ=非時間(時間の停止、一瞬、永遠)
  〇:アレゴリー的形象
      ≒同時に重層している意味多様体のアモルフなかたまり
  T:原型(かつてあったもの)の反復(複製)
  U:原型(かつてあったもの)の受肉=引用(想起)
  V:母型(かつてあったもの)の模倣(復活)
  W:母型(かつてあったもの)の憑依=翻訳(想起)
 
■「根源的産出」と「原ミメーシス」─マテリアル篇3
 
 その五、森田團著『ベンヤミン──媒質の哲学』。
 
 序論。──ベンヤミン哲学の核心に「媒質 Medium」をめぐる思考がある。ベンヤミンにとって媒質とは関係する二項(自然と人間、等々)をはじめて根源的に産出する母胎であった。「媒質を絶対的に、かつ根源的に思考することによってあらわになるのは、媒介者であるものが、逆に媒介するはずの二項を構造的に含み込んでいることにほかならない」(16頁)。
 
 第九章「イメージとミメーシス」。──ベンヤミンは初期言語論(「言語一般および人間の言語について」)において「言語(名[Name])」としての媒質を論じ、後期言語論(ミメーシスと言語の根源的な関係を述べた短いメモ「模倣の能力について」とその初稿「類似性の理論」)において「イメージ[Bild]」としての媒質から「言語(文字)」への変転過程の解明(読むことがいかにしてイメージを言語へと変転させるか)に取り組んだ。(334頁)
 
・無意識的なミメーシス、すなわち息子が父に似ていると言われる場合、生物学的類似性を除いてもなお「似ること」の生起のうちで秘かに働いている潜在的なミメーシスを、森田氏は「原ミメーシス」と呼ぶ。
《ベンヤミンによれば、線の受容は身体の模倣可能性と深い関連を持つ。このような発想を発展させれば、たとえば自然の音が音‘として’聞き分けられるためには、声による模倣が潜在的に前提となっていることになる[*]。おそらく模倣は、根源的には、この〈として als〉を可能にするような行為、あるいは行為以前の行為なのだ。個々の〈として〉を可能にする模倣に先だち、むしろ自然や世界が、それらそのもの‘として’現れることを可能にするようなミメーシスもまた想定できるし、しなければならないことになろう。それは個々の直観を可能にする模倣可能性に先立つはずであり、かつそれらを可能にするようなミメーシスでなければならない。つまり、自然を自然として現象させるような、〈として〉一般を産み出すような原初的ミメーシスの存在を考えることができるのである。
 〈として〉一般を生じせしめるのが、原初的なミメーシス的な行為、正確に言えばミメーシス的な出来事であるならば、自然の原初のイメージは、この出来事にこそ根源的に与えられていることになり、そこで与えられるイメージこそが原像にほかならないことになろう。[「セザンヌによって描かれたサント・ヴィクトワール山の原像[Urbild]は、セザンヌが‘直観’し、描こうとした対象であるが、実際に存在するサント・ヴィクトワール山の‘知覚’に存するものではない。また原像はセザンヌの作品において単純に知覚されるわけでもない。知覚の対象としての作品には、基本的に原像は見出されることはないからである。」(352頁)──引用者註]この自然を自然として現象させるミメーシス的な出来事、原像を産み出すようなミメーシス的な出来事を、以下では通常のミメーシスから区別するために〈原ミメーシス Urmimesis〉と呼ぶことにしたい。》(『ベンヤミン──媒質の哲学』359-360頁)
 ──次章へ、続く。
 
[*]森田氏はここに註をつけ、これと「ほぼ同じ見解」を小池澄夫氏の「ミーメーシス」(『コピー 現代哲学の冒険6』所収)から引いている。興味深い議論なので、森田氏が引用した箇所の前後の論脈も含めて抜き書きしておく。
 小池氏によると、ミメーシスは「似像[エイコーン]系」(視覚と手の動きに対応するミメーシスの系統)と「再帰系」(声・聴覚に代表される身体運動に対応するミメーシスの系統)に二分される。後者は「まねる」=「自分自身(の声、姿かたちなど)を……に似せる」が再帰的動作をあらわす中動態動詞であることに依る。
《…間接自己再帰は外的目的語をとり、外的対象に関係する。しかしそれが「外的」だというのは能動/受動の観点から、つまり動作主の同定をともなってはじめていえることである。したがってそのような観点を排してみるならば[バンヴェニスト(「動詞の能動態と中動態」)が、中動態動詞の主語で示されるものは動作の起点をなす動作主ではなく動作の場であると論じた、そのような観点からみれば──引用者註]、外的な対象というものは消え、一続きの動作とその動作が波動状にひろがる圏域が残る。そしてこの圏域は身体と連続し、この全体に潜在的な「自分自身」がひろがっている。いわばこれもまた「全身」であるということができるだろう。
 動作が全身を占拠し、全身が反響する。ところで動作も圏域も連続的であるとすれば、動作は同定不可能になるのではないだろうか。その通りだ。空間的には同定できないといわなくてはならない。このような動過程の同定は、空間的な起点と終点によるのではなく、動作のパターンによってなされるだろう。動作のパターンを条件づけているのは、反復である。
 このように反復によって条件づけられた動作を、反響的動作と呼ぶことにしよう。【たとえば、聴こえるということは、そのような反響的動作のカテゴリーに帰属する。話し、歌うことができなければ、話も歌も騒音として響くだけだ。】知らない外国語はノイズとしか聴こえない。【虫の音や鳥の声を聴くとは、その擬音をつぶやくことだといえよう。】そして幻聴といわれるものは、自分がはっきり声を出すならば、そのときは聴こえないようなエコーではないだろうか。》(『コピー』233-234頁、【 】は森田氏が引用した箇所)
 ここで言われる圏域、すなわち反復によって条件づけられた「反響的動作」(=中動態的身振り?)が波動上にひろがる「全身」のことを、私は人間の言語のマテリアルな帯域と捉えている。
 
(第70章に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」48号(2022.12.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第69章 人間の言語の三帯域論(マテリアル篇)(中原紀生)
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