Web評論誌「コーラ」46号/哥とクオリアア/ペルソナと哥 第66章 純粋言語/声と文字/アナグラム(その1)

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Web評論誌「コーラ」
46号(2022/04/15)

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《音というものは、消えていく。…その音と音をある論理で繋いでいくときには、どうしても時間というものを考え、横の軸というか、水平的な時間、過去から現在、現在から未来へ継起していく直線的な時間──それは近代的な時間認識なのかもしれないけれども、僕はそうじゃなくて、消えて、積み重なって、垂直に立ち上がっていくというふうに音を考えてしまうのです。》(吉増剛造との対談における武満徹の発言、ちくま学芸文庫『武満徹 対談集』305頁)
■アダムの言語と人間の言語
 
 本論に入る前に、これまでの議論を「復習」しておきます。
 
◎永井(均)哲学の概念を使って、「純粋経験」を「固有名で置きかえることができる単独性の《E》ではない、独在的な存在〈E〉をめぐる直接経験」(E=感情・現実・今・私)ととらえ、そのような語り得ない純粋経験を語る(示す)言語として「私的言語」を定義した。(第62章参照)
 
◎永井−入不二(基義)哲学、そしてミシェル・アンリの議論を援用して、「私的言語」を、無内包の現実性(純粋なアクチュアリティ)を語る(示す)「詩的言語」と、存在するものの事象内容=実在性(リアリティ)を語る(それのみを語る)「公的言語」との中間にあって、それらをつなぐ媒介として、公的言語では語れない無内包の現実性の「お零れ」(痕跡)を語る(示す)ものとして位置づけた。(第63章参照)
 
◎ベンヤミン、ド・マンに準拠して、「私的言語」(の少なくともその半面)を「アレゴリー」に見立て、そこに「夢のパースペクティヴ」の静態論と動態論を導入し、四つの私的言語の(発展)過程をめぐる次のような「地勢図」[*]を作図した。(第64・65章参照)
 
【第一段階・第〇フェイズ─世界(時空)の創出】
 ・〈感情〉をめぐる私的言語:<アレゴリー〇>
【第二段階・第1フェイズ─空間と時間の析出】
 ・〈現実〉をめぐる私的言語:<アレゴリーU>
 ・〈 今 〉をめぐる私的言語:<アレゴリーV>
【第二段階・第2フェイズ─名の制定】
 ・〈 私 〉をめぐる私的言語:<アレゴリーT>
 
 こうしてあらためて振り返ってみると、私的言語をめぐる実質的な議論がそこから完璧に抜け落ちていることに、愕然とさせられます。もちろん、それは確信犯的にそうしたことなので、(なにしろ、私的言語が相手にするのは言詮不及の「空虚な器」(〈 〉)なのだから)、当然のことではあるのですが、そうだとしても、大切な論点をいくつも先送りしたことは、やはり片手落ちだったのではないかと思います。
 たとえば、「文字像」もしくは「夢の中の文字」としてのアレゴリー(≒私的言語)と音声言語との関係如何、あるいは、私的言語の最終段階に位置づけた〈私〉をめぐる私的言語のことを、「〈私〉の名を告げる言語」とか「名の制定」を担うものと規定し、個別存在の「名」を通じて公的言語への接続を果たすのだと、論証や釈明を加えず断定していること、そもそも「アレゴリー」をめぐる記述があまりに薄すぎること、等々。
 そういう次第で、ここでいったんベンヤミンのアレゴリー論に立ち帰り、貫之現象学B層・第二相の議論の起点を据えたいと思います。
 
 『ドイツ悲劇の根源』第二部末尾の「神秘的均衡」の項で、ベンヤミンは、創造を終えた神は自ら造ったすべてのものを見て「よし」とされたのだから、そのとき悪についての知見はいかなる対象ももってはいなかった、と書いています。
《したがって、善と悪についての知見は、事柄に即した〔神が創造した事物に即した〕知見の対極〔すなわち抽象的知見〕である。善と悪についての知見は主観的なものの深みに拠り所をもっており、根本的には、悪についての知見にほかならない。それは、キルケゴールの言う深い意味において、「お喋り」〔『現代批評』〕なのである。主観性の勝利、および、事物に対する専制的支配の始まりとして、この知見は、すべてのアレゴリー的な見方の根源をなしている。〈認識〉の木の前における、罪と意味することとの一致は、抽象として、〔アダムとエヴァの〕堕罪そのものにその源を有している。抽象のなかにアレゴリー的なものは生きており、抽象として、言語精神そのものの一能力として、アレゴリー的なものは堕罪を故郷としている。というのも、善と悪は名づけえぬものであって、名をもたぬものとして、〈名−言語〉(Namensprache)の埒外にあるからである。楽園の人間〔アダム〕はこの〈名−言語〉において事物を名づけたのだったが、かの問い〔何が善で何が悪か、という問い〕の深淵のなかで、この〈名−言語〉を見捨てる。名こそ、言語にとって、具象的な要素が根づいているただひとつの基盤にほかならない。これに対して、言語の抽象的な要素は、裁く言葉のうちに、すなわち判決(Urteil〔判断〕)のうちに、根ざしている。》(浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫『ドイツ悲劇の根源 下』175-176頁、〔 〕は訳者による補足)
 ベンヤミンの叙述は極度に圧縮され、容易に接近し難い謎めいた奥深さを湛えていますが、それでも、この短い文章から、ベンヤミンの言語論のエッセンスを、すなわち人間の言語の二つのあり様を抽出することができるでしょう。第一に、楽園における人間すなわちアダムの言語、つまり事物に具象的な「名」をあたえる「名称言語」(Namensprache)。第二は、堕罪(楽園追放)後の人間の言語で、アレゴリカルな見方の根源をなす抽象的な「おしゃべり」。
 
[*]肝心なことはいつも後からやってくる。この「地勢図」を整理しているうち、私の脳内にカントの超越論的感性論(空間と時間)と超越論的分析論(12個のカテゴリー)が浮上してきた。とくに「量・質・関係・様相」のカテゴリーの四つ組と四つの私的言語の生成過程との関係が怪しい(カテゴリーとアレゴリーの関係も)。このことはいずれ、貫之現象学C層で「言語ゲーム」について考察する際、あらためて取りあげることになるのではないかと思うが、ここで一点、備忘録として書き留めておきたいことがある。
 『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU』の鼎談のなかで、永井均氏が、カントのカテゴリー表を「勝手に」二つに分類している(199頁)。
 
☆世界の側
 1.量 {単一性・数多性・全体性}
 3.関係{内属と自体存在(実体と偶有性)・因果性と依存性(原因       と結果)・相互性(能動的なものと受動的なものとのあい       だの相互作用)}
☆ロゴス(言語)の側
 2.質 {実在性・否定性・制限性}
 4.様相{可能性─不可能性・現実存在─非存在・必然性─偶然性}
《私の考えでは、1と3は世界の側にあり、カントの言うような意味で超越論的なものではなくて、たまたま与えられたこの世界の事実に遡ることができる。本当に遡ることができないのは2と4で、例えば否定、「〜ではない」とか、4の様相、さらにそこから派生した時制と人称で、これらは世界の側にあったのではなく、われわれのロゴスが作り出したものだと思います。》(『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU』211-212頁)
 永井氏が言う「世界の側」を公的言語の方に、「ロゴスの側」を詩的言語の方にそれぞれ引き寄せて考えると、四つの私的言語の生成過程は、カントの四つ組のカテゴリーのうち「質」と「様相」の二つのグループにのみかかわることになる。
《僕は以前にツイッターでこんなことを書いたことがあるんです。ブッダが諸行無常とか諸法無我なんて、そんな幼稚で混乱した言い方ではなくて、あらかじめアリストテレスやカントの仕事を踏まえて、「カテゴリーは離脱可能な約束ごとにすぎない」というふうに言っていたら、話はもっとはっきりしていたのに、と。カテゴリーは離脱が可能な規約にすぎない、というのが仏教の主張だとも解釈できます。》(『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU』213頁)
 カテゴリーを離脱可能と見る立場(パースペクティブ)が「言語ゲーム」論の起点になる(と思う)。
 
■アダムの言語と人間の言語、承前
 
 ここで、「きわめて難解であるとともに、おそらく舌足らずでもある」(細見後掲書184頁)ベンヤミンのテクストを、「ルーペを押しあてるようにして」(同181頁)読み解いた、細見和之著『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む──言葉と語りえぬもの』の議論を参照します。
 細見氏によると、先に引いた『ドイツ悲劇の根源』の文章は、「言語一般および人間の言語について」の第一九段落と呼応しています。以下、関連するベンヤミンの文章を同書の細見訳で引用し、それぞれに対する細見氏の解読・解釈・解説を抽出します。
 
1.「人間の語」の誕生
《善悪に関する知は名前のもとから立ち去る。それは外側からの認識であって、創造する語の非創造的な模倣である。この外側からの認識という姿で、名前は自分自身の外に歩み出る。すなわち、堕罪とは‘人間の語’の誕生の時なのである。この人間の語においては、名前はもはや無傷で生きていることはなかった。この語は名称言語、認識する言語から抜け出して、つまり、こう言ってよければ、それに内在している固有の魔術から抜け出して、はっきりといわば外側から魔術的となったのである。この語は(自分自身のほかに)‘何か’を伝達するとされる。これこそほんとうに言語精神の堕罪である。外的に伝達する言葉としての語は、徹底的に直接的な語、神の創造する語にたいする、徹底的に間接的な語によるいわばパロディであって、それは至福の言語精神、この両者のあいだに立っているアダムの言語精神の失墜である。つまり、蛇の約束にしたがって善悪を識別する語と、外的に伝達する語のあいだには、実際のところ同一性が存在しているである。》(「言語一般および人間の言語について」第一九段落)
○楽園において「神の創造する語」と「人間(アダム)の認識(命名)する名称言語」と「存在する(沈黙する)事物の言語」が三層構造をなしている。アダムの言語は、天地創造ののちに神が世界を「良きもの」と認識(絶対的に肯定)したように、あるいは親が子をかけがえのない存在として認識し“固有名”を与えるように、神の創造の語によって形づくられた事物をかけがえのないものとして認識(命名)することを使命とする。(細見前掲書第5章第二節)
 
〇これに対して善悪に関する知は、対象をかけがえのない存在として認識するのではなく、他の対象と相対的な価値評価のもとに置く「外側からの認識」である。堕罪後の人間の言語は「徹底的に間接的な語」であり「外的に伝達する語」であって、神の創造の語の非創造的な、いやむしろ破壊的・壊滅的な模倣である。(細見前掲書第5章第二節)
 
2.おしゃべりと裁きの言葉
《事物の認識は名前のうちに宿っている。それにたいして、善悪についての認識は、キルケゴールが理解している深い意味において「おしゃべり」であって、それはただひとつの浄化と高まりの場を知るのみである。実際、あのおしゃべりになった人間、あの罪に墜ちた者〔アダム〕もまたその場に立たされた。すなわち、裁きの場である。ただし、この裁く語にとって善悪の認識は直接的である。この語の魔術は名前の魔術と異なっているとはいえ、同じくらいに魔術的である。この裁く語が最初の人間たちを楽園から追放するのだ。この裁く語が自分自身を目覚めさせることを唯一のもっとも深い罪として罰し──また期待している、というひとつの永遠の法則にしたがって、人間自身がこの裁く語を呼び起こしたのである。名前の永遠の純粋さが傷つけられたがゆえに、堕罪において、裁く語の、判決の、いっそう厳格な純粋さが生じたのである。》(「言語一般および人間の言語について」第一九段落)
○認識の木の実を齧った人間が善悪をめぐる「判断=判決」を下す。この人間の言語による小文字の「裁き」もしくは「外的に伝達する語」による「おしゃべり」が、神の大文字の「裁き」すなわち大いなる「判決=判断」を引き起こす。(細見前掲書第5章第三節)
 
〇かつて楽園において「名前」が保持していた絶対的な真理(「永遠の純粋さ」)は失われたが、堕罪後の人間の言語が絶対的に誤っていると「判決」する、その裁きの正しさ・厳格さ(「厳格な純粋さ」)だけは逆説的に保持されている。(細見前掲書第5章第三節)
 
3.言語論にとっての堕罪の三重の意味
《言語の本質連関にとって、堕罪は三重の意味をもっている(他の意味にここでは触れないとすれば)。第一に、人間は名前という純粋な言語から歩み出ることによって、言語を手段(つまり、人間にはふさわしくない認識)とし、それによってまた、言語を少なくともある部分では‘たんなる’記号にしてしまう。このことはのちに言語の複数性をもたらすことになる。第二の意味は、堕罪から、そこにおいて傷つけられた名前の直接性の回復として、新たな直接性が、判決の魔術が、生じるということである。この魔術はもはや至福の状態で自分自身のうちに休らってはいない。第三の意味は、こう推測するのは大胆なことかもしれないが、言語精神のひとつの能力としての抽象化の起源もまた堕罪のうちに求めうるだろう、ということである。つまり、善と悪は名づけえぬもの、名前を欠いたものとして、名称言語の外側に位置しているのだ。人間は、まさしくそういう問いかけが開く深淵において、名称言語から立ち去るのである。いまでは、現存している言語に関して名前が示しているのは、その言語の具体的要素が根ざしている基盤のみである。これにたいして、抽象的な言語要素は──おそらくこう推測できるだろうが──裁く語、判決に根ざしている。抽象の伝達可能性がもつ直接性(この直接性こそが言語の根なのだが)は、裁く判決のうちに置かれているのである。》(「言語一般および人間の言語について」第一九段落)
○堕罪によってもたらされるのは、@「言語の記号化」すなわち言語が個々の対象の姿・形と具体的・内在的(すなわち“媒質”的)に結びついたものではなく、外側からあてがわれたたんなる任意の記号と化してしまうこと、A「判決の魔術」すなわち判決がそなえている直接性、有無を言わせない絶対的な正しさ、そしてB「抽象化の能力」である。(細見前掲書第5章第四節)
 
○堕罪の第三の意味の大枠は言語の「具体的要素」を「名前」に、「抽象的要素」を「判決」にそれぞれ割り振るという発想である。これらの要素を「名称言語」(楽園における人間の言語)と「現存している言語」(堕罪後の人間の言語)の区分に即して整理すると次のようになる。(細見前掲書第5章第四節、筆者=中原による表記等の加工あり。)
 
【楽園における人間(アダム)の言語】
・事物の姿形と具体的内在的に(すなわち“媒質”的に)結びついた言語
・具体的な直観にもとづいて事物に〈名〉を与える「名称言語」
 (Namensprache)
  *〈名〉=「言語の具体的要素が根ざしている基盤」
【堕罪後の人間の言語】
・外側からあてがわれるたんなる任意の記号と化した言語
・事物の具体性から遊離した「名前」という形で〈名〉の痕跡を示して
 いる言語
・「抽象的要素」である概念が〈名〉の記憶を自らの抽象性のうちに
 アレゴリカルに保持する言語
  *「アレゴリー」が〈名〉を瘢痕として露出させること=「抽象の
   伝達可能性がもつ直接性」
 
○「抽象」は必ずしも否定的な意味合いばかりで語られているのではない。ベンヤミンが述べている「言語精神のひとつの能力としての抽象化」を、「名前」がもつ「偽りの具体性を解体ないし回避する、ひとつの迂回路を構築しうる否定性」と呼ぶこともできる。この「言語の抽象的要素」、またそれをもたらした堕罪こそアレゴリー的なものの故郷である(『ドイツ悲劇の根源』)。(細見前掲書第5章第四節)
 
■アダムの言語と人間の言語と私的言語、小括
 
 謎めいた「土星的」思考世界に、深入りしすぎたかもしれません。
 ベンヤミンの初期言語論と、細見氏によるそのスリリングな読解に寄りかかることで、私が確認したかったのは、細見氏が最後に指摘していた「アレゴリー」(=言語の抽象的要素)がたどる「迂回路」──私はこの迂回路を、バベル後の人間の諸言語から楽園におけるアダムの言語への昇天、あるいは「名」から〈名〉(=言語の具体的要素)への浄化もしくは救済のベクトル、と解しています──こそが、かの私的言語が果たすふたつの媒介作用のうちのひとつ、すなわち公的言語から詩的的言語への遡行の道筋(復路)にほかならないのではないか、したがって、私的言語のもうひとつの媒介作用である、詩的言語から公的言語へといたる生成の道筋(往路)は、実はアレゴリーのはたらきと直接的にかかわるものではなくて、だからこそ、「私的言語=アレゴリー」ではなく「私的言語≒アレゴリー」(前々節の註の議論を踏まえるならば、「私的言語=カテゴリー(往路)+アレゴリー(復路)」)だったのではないか、ということでした。
 以上に述べたことを、前章の《図2》を使って表現してみます。
 
   《図1》人間の言語の二類型と私的言語
 
          〈 名 〉
 【A】=== ≪アダムの言語≫ ===
           ↓↑
       「堕罪」↓↑「浄化」
           ↓↑
           ↓↑
          「 名 」
 【R】━━━━≪人間の言語≫━━━━
           ↓↑
           ↓↑
          〈 私 〉
       〈 今 〉↓↑〈現実〉
           ↓↑
 【M】=======━=======
           ↑
          〈感情〉
           ↑
 【V】…………………・…………………
 
 ここでは、ヴァーチュアリティ(【V】=詩的言語)とリアリティ(【R】=公的言語)の中間地帯において、両者の媒介、すなわち、往路(V→R)および復路(V←R:アレゴリーのはたらき)として稼働する私的言語の動態が、上下反転して、人間の言語の二類型の相互連関のうちに、すなわち、アクチュアリティ(【A】=楽園)とリアリティ(【R】=地上)をつなぐ、受肉ならぬ「堕罪」および「浄化・救済」(アレゴリーのはたらき)の二本のベクトルのうちに、あたかも鏡像のごとく重ね描かれています。
(ここに、かの貫之現象学の地勢学的布置の拡充版、すなわち「地/海/空」(「物/心/詞」)の貫之三体に定家論理学の世界を繰りこんだ貫之=定家四体をもちこむと、「【V】/【M】/【R】/【A】」≒「地/海/空/天(月)」の対応関係が成り立つ。)
 
■ベンヤミン・コラージュT─媒質・翻訳・純粋言語
 
 私的言語から人間の言語への「橋渡し」を終え、これより本題に入ることになったわけですが、あと少し、ベンヤミンの言語哲学の深みに留まっていたいと思います。
 前章の「補遺と余録」に、「四つのベンヤミン的概念」なる思いつきを書き記しました。そのうち貫之現象学のC層でとりあげるべきもの、「アウラ(複製)」と「想起(歴史)」を除いた残りの概念、すなわち「アレゴリー(廃墟)」と「翻訳(純粋言語)」、そして本章の前々節でダブルクォーテーションマークをつけて強調しておいた“固有名”と“媒質”、これらの概念群に関するベンヤミンの思考に浸ります。
 といっても、私には、ベンヤミンのテクストに身をもって沈潜し、そのエッセンスを自力で掴んで浮上する力はないので、細見前掲書を中心として、これに柿木伸之著『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』や村岡晉一著『名前の哲学』といった書物を参考書に加え、それらの論考のうちにちりばめられた洞察や思考細片を任意にいくつか切り出し、モザイク状にコラージュすることで、ベンヤミンの思考の凄みを擬似体験したいと思います。
 
★媒質
 
<言語理論の根本問題>
《…それぞれの言語は自己自身‘の姿において’[in]自らを伝達しているのであって、言語はすべて、もっとも純粋な意味において伝達の「媒質[Medium]」なのである。中動相的なもの[das Mediale]、これこそがあらゆる精神的伝達の‘直接’性をなすとともに、言語理論の根本問題をなしているものである。》(「言語一般および人間の言語について」第四段落)
〇「水が熱を伝える」という言い方があるが、そのつどの水(湯)と別に「熱」という実体があるわけではない。水は自らがぬくもるという形でしかまわりの水に熱を伝えることはできない。この水に相当するものが言語すなわち「媒質」ないし「中動相的なもの」である。(細見前掲書23頁)
 
〇世界は言語というゼリー状の媒質からできている。いっさいは言語という媒質のなかの出来事である。このベンヤミンの思想のもとで、芸術とは媒質を変形し加工すること、変形・加工を通じて媒質を圧縮させ、その密度を高めること(あるいは希薄にすること)である。(細見前掲書27-29頁)
 
〇言語を「媒質」として考えるベンヤミンの思考を徹底すると、純粋な媒質にまで一元的に還元された言語において、伝えられているものはそのまま伝えているものであり、その表現形式と切り離された内容それ自体といったものは存在しない。たとえばアルタミラの洞窟に描かれた絵画からパウル・ツェランの難解な詩にいたるまで、そこに現に表示されている「内容」を捨象するならば、それらは「伝達可能性そのものを伝達している」としか言いようがない。(細見前掲書70頁,72頁)
 
<媒質の密度、媒質的な関係>
《さまざまな言語の相違はさまざまな媒質の相違であって、それらの媒質はいわばその密度にしたがって、それゆえ段階的に、区別されている。しかもこの区別は、伝達において伝達しているもの(命名しているもの)の密度および伝達において伝達可能なもの(名前)の密度という、二重の観点にしたがってなされている。》(「言語一般および人間の言語について」第一〇段落)
〇一羽の鳥が空を飛ぶとき、その鳥は風を、木々を、空を「名指している」。その関係は逆に、風が、木々が、山々が、空が、その鳥を「名指している」と言うこともできる。この「名」は存在それ自体に密着した密度の低いものであるが、鳥が風を、風が鳥をそのつど名指しているからこそ、彫刻家はその鳥を石に刻み、画家はそれを絵の具で描き、音楽家は音で、詩人は文字で描くことができる。この「〜で」が手段の関係ではなく、「〜という姿で」というそれ自体「媒質的」な関係である、というのがベンヤミンの基本である。(細見前掲書74-75頁)
 
★翻訳
 
<言語理論のもっとも深い層>
《翻訳という概念を言語理論のもっとも深い層に基礎づけるのは、不可欠のことである。(略)この翻訳の概念が十全な意味を獲得するのは、あらゆる高次の言語は(神の語を例外として)他のすべての言語の翻訳と見なすことができるという洞察がなされるときである。さきにさまざまな言語の関係を異なった密度のさまざまな媒質の関係であると述べたが、この関係とともに存在しているのは、さまざまな言語のあいだの相互的な翻訳可能性である。翻訳するとは、ある言語をさまざまな変態の連続をつうじて他の言語へと移行させることである。抽象的な同一性の領域や類似性の領域ではなく、変態のさまざまな連続こそを、翻訳は踏破するのである。》(「言語一般および人間の言語について」第一七段落)
〇言語を「媒質」とする発想と「翻訳」の概念が重ねられる。連続した媒質としての言語のなかで、事物の言語から人間の言語をへて神の語へと、つぎつぎと変身・変態を遂げてゆく翻訳の過程。翻訳は媒質において生じるのではなく、媒質そのものの変身・変態として実現されてゆくのである。(細見前掲書142頁,144頁)
 
〇フランス語からドイツ語への翻訳を、単語と単語、言い回しと言い回しの同一性や類似ではなく「変態の連続」として捉えること、通常の「水平的な翻訳」ではなく「垂直的な翻訳」へとそれ自体「変態」させること、それがベンヤミンの眼目である。(細見前掲書144-145頁)
 
<名を欠いたものを名へと翻訳すること>
《事物の言語を人間の言語に翻訳するということは、沈黙しているものを音声をもつものへと翻訳することだけではない。それは、名前を欠いたものを名前へと翻訳することである。したがってそれは、ある不完全な言語をいっそう完全な言語へと翻訳することであって、それは何かをつけくわえないわけにはいかない。すなわち、認識である。》(「言語一般および人間の言語について」第一八段落)
〇ドイツ語の「翻訳(Ubersetzung)」の原義は「越えて(uber-)渡すこと(setzung)」。まさしく人間の言語は事物の言語を名なきものの岸辺から名をもつものの岸辺へと「越えて渡す」のである。それによってつけくわえられるものが「認識」である。(細見前掲書147頁)
 
〇芸術表現の場面で考えてみよう。朝の光を浴びて冷たい輝きを放っているランプ、夜の暗闇のなかで炎を揺らめかせているランプ等々の移ろいゆく存在を新たな「媒体(映像、音声、文字)」のうちへ移し換え再現・表象すること、これが「翻訳=認識」である。芸術家(詩人)はそれぞれの方法・媒体を用いて事物に「名」(表現)を与えることにとってそのような認識を添える。事物を再現・表象する「名」は決して任意の「記号」ではない。(細見前掲書147-149頁)
 
★純粋言語
 
<純粋言語、名づける言語>
《人間は名づけるものであって、この点において私たちは、人間のうちから純粋言語が語っていることに気づく。すべての自然は、それが自らを伝達しているかぎり、言語という姿で自らを伝達しているのであって、結局のところ人間において自らを伝達しているのである。だからこそ、人間は自然の主人であって、事物を名づけることができる。》(「言語一般および人間の言語について」第八段落)
○人間が事物や出来事に名を与えるというのは、親が子に名を与えるように、それらをかけがえのない個として「認識」することである。この名づける言語(認識の言語)が「純粋言語」である。事物の言語の一瞬一瞬の移ろいをそのつど定着させたものが「名」であって、純粋言語は事物とその名の正しい一致を前提にしている。(細見前掲書44-45頁)
 
〇晩年のセザンヌがサント・ヴィクトワール山の正しい名を求め、プルーストが自らの生涯に名を与える営みに没頭したのと同じように、私たちは自らの生涯や人生のひとこまに名を与えようとする志向をもつ、長大な小説という姿で、あるいは小さな短詩という姿で。(細見前掲書46頁)
 
<純粋言語、透明な意味の次元>
《彫刻の言語、絵画の言語、文芸の言語が存在する。文芸の言語は人間の名称言語に基礎を置いている──名称言語だけではないにしろ、いずれにせよ他の言語とともに名称言語に基礎を置いている。それと同様に、彫刻や絵画の言語は、ある種の事物言語に基礎を置いており、それらの言語においては、事物の言語の、無限に高次の言語への翻訳、とはいえおそらくは同じ圏内にある言語への翻訳が存在している。このように考えることは十分可能だろう。ここで考えられているのは、名前を欠いた非音響的なさまざまな言語、物質からなるさまざまな言語である。》(「言語一般および人間の言語について」第二二段落)
○彫刻や絵画が石や木や絵の具で対象を描くように、文芸は音声(空気の振動)や文字(インクという物質の染み)で対象を描く。ゴッホがカンバス・絵の具という媒質にヒマワリを描くことでそのヒマワリを命名するように(無限に高次の言語への「翻訳」)、彫刻や文芸の言語は名称言語に基礎を置いている。とはいえ、文芸の言語と彫刻や絵画の言語では、その素材ないし物質の果たしている役割に大きな違いがある。『罪と罰』が黒いインクで印刷されている場合と青いインクで印刷されている場合でその内容に本質的な違いはないからである。(細見前掲書212-213頁)
 
〇文芸の言語において、音声や文字はそれぞれの物質性(物音、染み)に依拠しながらも、それを超えたもの、それを偶然的な要素とするような次元、すなわち物質的に透明な「意味」の次元で聞き取られ、読み取られるのである。ここにさらに、ドイツ語、フランス語といった言語体系をも偶然的と見なしうるような意味の次元を想定すれば、特定の言語体系を超越した「純粋言語」という発想がそこに描かれることになるだろう。『罪と罰』を「翻訳する」とは、ロシア語という特定の媒質からドストエフスキーの作品を解き放つことにほかならない。(細見前掲書213-214頁)
 
<純粋言語、媒質としての言語の自己形成の運動>
 
〇ベンヤミンの翻訳概念が示しているのは、「母語」の観念が制度化し、人々を一定のアイデンティティのうちに閉じ込めている虚構の境界を突破していくような翻訳の重要性である。このような翻訳こそが、それぞれの言語自体を構成する、「媒質」としての自己形成の運動──それを最も純粋なかたちで実現させるのが「純粋言語」である──を再び活性化させる。(柿木前掲書217頁)
 
〇ベンヤミンの言う翻訳を生きる一つの言語は、他の言語に呼応しながら絶えず新たに自己を形成し、自己自身を伝え、二つの言語の関係を媒介する「媒質」として生成し続ける。「翻訳者の課題」の翻訳論は、バベル以後の世界の内部に踏みとどまりつつ、そこに走る分割線を揺り動かしながら、このような「媒質」としての言語の根源的なダイナミズムを呼び覚ますような言語的実践の可能性を、詩的作品の翻訳という場面に定位しながら切り開いている。(柿木前掲書217頁)
 
■ベンヤミン・コラージュU─固有名・廃墟・アレゴリー
 
 柿木伸之氏は『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』[*1]で、純粋言語を次のように規定しています。「自己自身以外に語るものを持たない仕方で再帰的に自己を形成し、語ることがそのまま現実を語り出すことになるような、純粋な「名」としての言語、自己以外の何らかの情報を伝達する記号となる以前の、それぞれの言語が「言語」となる根源的な次元を示す言語」(244頁)。
 語ることがそのまま現実を語り出すことになるような、純粋な「名」としての言語。──ここで言われる「純粋な「名」」すなわち「純粋言語としての〈名〉」こそ、「固有名」にほかなりません。いや、精確に述べるならば、〈名〉(もしくは、〈名〉への浄化・救済)こそが、固有名的なものの「故郷」である、ということにほかなりません。(それは、かのアレゴリーが、〈名〉から「名」への堕罪を「故郷」としつつ、同時に「名」から〈名〉への浄化・救済の起点となっていたことと、ある奇妙でパラレルな、あたかもメビウスの帯かクラインの壺を「通り越して短絡」するような関係をとり結んでいる。)
 ベンヤミンは「言語一般および人間の言語について」の第一六段落で、「固有名は人間の音声という姿における神の語」であると述べています。
 
〇ベンヤミンの語っていることをストレートに受け取るならば、子をかけがえのない絶対的な存在として保証する固有名のなかには、当の親にも知ることのできない運命が、つまり神からのメッセージが書き込まれている。このようなベンヤミンの「固有名の理論」から汲み取ることができるのは、あらゆる名は元来「固有名」だったのであり、その固有名の記憶を掘り起こすことで、媒質としての言語の密度は高まってゆく、ということである。(細見前掲書129-130頁)
 
 私は、ベンヤミンの固有名の理論が告げているのは、次のようなことなのではないかと考えています[*2]。
 
 ……「固有名」すなわち「〈名〉の記憶をどどめるもの」は、「本質」(「事象内実」もしくは「水平的な次元」に属する事柄、実在性=リアリティ)を語る言語ではない。それは本来、「神の語」あるいは「表現を欠いた創造的な言葉」(山口裕之訳「翻訳者の課題」第一一節)のように、「内的な本質」(「真理内実」もしくは「(絶対者との)垂直的な関係」、現実性=アクチュアリティ)を語る(示す)言語だった。
 それ、つまり固有名とは、「純粋言語としての〈名〉」と、その頽落態である「名」との中間において稼働するところの、いわば「もうひとつの私的言語」の少なくともその半面(末路:A→R)なのである。そして、「固有名の記憶」(あるいは〈名〉の痕跡、断片、破片、瓦礫、屑、等々)を「かたち」としてとどめる廃墟もしくは墓碑銘こそ、「もうひとつの私的言語」の逆ベクトル(遍路:A←R)としてはたらく「アレゴリー」にほかならないのだ[*3]。……
 
 ベンヤミン・コラージュの編集作業をつづけます。
 
★固有名
 
<名、言語それ自体のもっとも内的な本質>
《名前[Name]は、言語の領域において唯一、この意味[人間の精神的本質を神に伝達するという意味]を、そして、言語それ自体のもっとも内的な本質であるという比類のない高い意義を、有している。それを‘手段’として自らを伝達しているものはもはや何ひとつなく、その‘姿において’言語自身が絶対的に自らを伝達しているもの、それが名前である。(略)したがって、人間言語[=アダムの言語──訳者・細見氏の解釈]の遺産である名前は、‘端的に言語こそが’人間の精神的本質であることを保証している。(略)私たちは名前を言語の言語と呼ぶことができる(この「の」という所有格が手段の関係ではなく、媒質の関係を示しているならば)。》(「言語一般および人間の言語について」第八段落)
〇「言語の言語」とは、事物の存在の言語にもとづく人間の認識=翻訳の言語(名称言語)を指している。この両者の関係を、ベンヤミンは任意の手段的・道具的なものではなくそれぞれの連続的な言語本質にそくした媒質的なもの(ゼリー状のものの圧縮)と考えている。事物の言語ではなく音声言語を語るのが人間であって、その人間の語る言語はすべて名である。(細見前掲書47-48頁)
 
<固有名の理論、水平的な次元と垂直的な関係>
《この神の語のもっとも深い模像[Abbild]であるもの、人間の言語が純然たる語のもつ神的な無限性にもっとも内的に関わる地点にあるもの、[それでいて]人間の言語が有限ではない言葉にも認識にもなりえない地点にあるもの、それが人間の名前[der menschliche Name]である。固有名の理論は、有限な言語が無限な言語にたいして有している境界[Grenze]についての理論である。》(「言語一般および人間の言語について」第一六段落)
〇表現するとは、生涯や場面、世界に「名」を与えることではないか。「オドラデク」や「ジョセフィーネ」はカフカが自らの境涯に与えようとした名ではなかったか。いや、「名」自体ではなく、それを軸にして語られている物語こそが名なのだ。『審判』や『城』の小説世界も、匿名のKによる暗躍をつうじて自らの名を記そうとする企てとして理解できる。(細見前掲書156頁,158頁)
 
〇カフカ(表現者)は自分の生涯ないし記憶、場面に固有名を与え、それらを神に捧げている。その作品(固有名)には神の側からのみ読み取ることができる隠された意味が存在している。親が子の「名」に書き込まれた運命を見とおしえないように、表現者も自らの作品の意味をすべて透明に見とおすことはできない。そもそも作品行為とは、作者にも統御しえない秘められ意味(運命)が生成する過程そのものである。作品は自らの固有名を背負って、作者の死後の世界を独力で生きていく。(細見前掲書158-159頁)
 
〇表現行為のうちには「水平的な次元」に属する事柄(才能を示したい、生活の資を得たい、自分のアイデンティティを確認したい、世の不正を正したい、出来事の記憶を後世に伝えたい、等々)では語り尽くせないものがある。それらが叶わないとしても、それを表現しようとする使命のようなものが人間のうちには存在している。表現には、ある絶対者に向けてなされたものとしか言いようがない次元が、すなわち絶対者との「垂直的な関係」が内包されている。(細見前掲書160頁)
 
<虚焦点としての人名>
 
○人名は個人を名指すものだと一般に言われるが、個人とはいわば無限にそれに近づいていく虚焦点のようなものである。だが「カント」という名の内包が豊かになっていく過程は、論理学の常識に反して、その「外延」が豊かになっていく過程でもある。「カント」は新カント派やハイデガーやイギリス経験論、さらにはグローバル化の現代とそこに生きるわれわれにも関係するようになるからだ。「カント」は外へ向かう無限の運動でもある。(村岡前掲書182-183頁)
 
★廃墟
 
<言語という廃墟、芸術作品という廃墟>
 
○ベンヤミンは「言語一般」の本質を「廃墟」とみなす。──夏の昼下がり、小高い丘にひっそり取り残された城跡にたたずんでいると、城跡が私に〈なにか〉を語りかけてくる。それは、その光景をつくりなしている物理的なものとその配置や私が想像して想起するもの、つまり「事象内実(Sachgehalt)」ではない。廃墟は事象内実を失うにつれて、そこに眠っていた「真理内実(Wahrheitsgehalt)」をそのつど新たに語りだす。つまり、廃墟の言語はみずからにおいてみずからを伝達しはじめるのである。(村岡前掲書167-168頁)
 
○すべての芸術作品は本質的に「廃墟」ではないか。芸術作品は、作者の意図が死にたえ、それを生みだしたかつての時代や文化という歴史の表舞台から転落してはじめて、いわば「廃墟」になるときにはじめて、「真の」芸術作品になる。(村岡前掲書169頁)
 
<人名という廃墟>
 
○人名にはいつも特定の〈いま〉と〈ここ〉という性格がともなう。それらはたしかに歴史上の特定の時と地理上の特定の場所であるにはちがいないが、人名そのものはその時その場所にいる現実の人物を指し示すのではなく、「いまだ不在のなにか」を指し示している。(村岡前掲書179-180頁)
 
○イマヌエル・カントという名が命名される〈いま〉と〈ここ〉は、現実の世界のなにものも対応していないが、ひとたびこの特定の「いま」と「ここ」が設定されると、「カント」という名は新しい生を生きはじめる。その意味内容は、カントが一七二四年から一八〇四年の八〇年間にこの世でおこなったことさえも超えて、過去と未来へとどこまでも広がっていく。神のことばのように、人名はそれが名指すものを創造することができないが、神のことばにも似た「創造性」と「無限性」をもっている。だからこそ、「人名」こそが人間の言語を神の言語とつなぐものなのだ。(村岡前掲書180頁)
 
○人間の名はいわば廃墟であり、命名は意図的に廃墟をつくりだす廃墟化の行為である。人名は、そのつど〈いま〉と〈ここ〉を設定することによって、それが名指している人物と彼が生きている歴史的世界の連続性を中断して、そこに新しい意味の地平を創出する。命名の〈いま〉もまた等質的で連続的な時間のうちに位置づけられるような点ではなく、それを中心として時間の地平が過去と未来へと無限に広がっていくような〈いま〉である。ベンヤミンはのちにこれを「認識が可能になる〈いま〉」とか、「現在時(Jetztzeit)」と呼ぶようになる。(村岡前掲書181頁)
 
★アレゴリー
 
<アレゴリー、断片性と空間性>
 
〇初期言語論におけるベンヤミンの洞察は「言語それ自体は絶えず生成しつつある」というもの。バベル後の世界で言語が現実に生成の相において語りだされるためには、言語は厳しい修練過程を通過しなければならない(雑誌『新しい天使』の予告文)。その修練過程の場を、ベンヤミンはさらに「アレゴリー」という断片性と空間性を際立たせる「文字像(Schriftbild)」を構成することのうちに、あるいは既存の文脈を破壊しつつ一つの言葉を取り出す「引用(das Zitieren)」の技法のうちに見いだしている。『ドイツ悲劇の根源』における「アレゴリーとバロック悲劇」の議論や「カール・クラウス」における「引用」についての議論は、「翻訳者の課題」で提示された「既存の言語の破壊をつうじて言語をその本質において再生させる」というモティーフをいっそう深化させながら展開している。(柿木前掲書259頁)
 
<アレゴリー、言語哲学と歴史哲学の結節点>
 
〇アレゴリーを論じることでベンヤミンは、初期言語論で洞察した言語の本質が、バベル以後の言語に恢復される余地を、個々の言語の内部で記号として機能する文字が一つの「像」として立ち現われるところに開こうとしている。それをつうじてベンヤミンは、記号ないし文字としての言語を「像」として救出しようとするとともに、この「像」を、新たな歴史(根源史(Urgechichte))の媒質として捉えようとしている[*4]。(柿木前掲書260-261頁)
 
○ベンヤミンの翻訳概念は「言葉の独自の組成のうちに生命が脈打つ姿において語り出された一つの作品が、いったん生命の脈動を止めて文字へと石化した後、なおも言語の生成の運動とともに生き続ける姿を、もう一つの言語の生成のうちにとり出す」こと、すなわち原作の「自然の生」を一つの「歴史」のうちに掬い取るものと規定できる。このようにベンヤミンは言語がその限界において歴史と結びつかざるをえないことを洞察していた。(柿木前掲書278頁)
《おそらくこの洞察は、『ドイツ悲劇の根源』においていっそう研ぎ澄まされていよう。ベンヤミンがそこで論じるバロック悲劇のアレゴリーもまた、いやそれ自体一つの翻訳として、儚い自然の生を歴史として描き出す形式にほかならない。いや、もしかするとこのようなアレゴリーという形式は、今やそれ自体として歴史を語るものである、地上の言語そのものの寓意なのかもしれない。》(『ベンヤミンの言語哲学』278-279頁)
〇バロック悲劇における歴史とは「被造物」の儚さを凝視するなかから描出される「世界の受難史」としての「自然史」である。この自然の衰減に浸された歴史を、事物の「廃墟(Ruine)」の相貌において、しかも意味深い文字としてとらえるところにアレゴリーは生まれる。(柿木前掲書279頁)
 
[*1]柿木氏はこの書物の起点に、言葉を発することを「生命の初発的な行為」ととらえた武満徹(『音、沈黙と測りあえるほどに』)を据え、沈黙のなかから言葉が響き始める、その根源的な出来事を見つめる武満徹の姿に重ね合わせながら、言語をめぐるベンヤミンの思考の世界へと分け入っている。
 以下は、その副題「翻訳としての言語、想起からの歴史」をめぐる「はしがき」の一文。
《ベンヤミンによれば、生あるものたちの生命の息吹は、他の生あるものたちと、さらには死せるものたちとも共振している。その振動のなかから言葉は響いてくるのであり、それゆえ言葉はつねに谺[こだま]でもある。彼は、谺としての言葉が響き始めることのうちに翻訳を見て取っている。ここで翻訳とは、他の生あるものが、あるいは死せるものが語りかけてくる──彼にとってこれらの存在を認めることは、これらの呼びかけを受け止めることでもある──のを聴き届けるもう一つの言葉を生成させる働きであり、これはベンヤミンにとって、言葉が発せられることそれ自体ですらある。彼は言葉を生成の相において、翻訳そのものとして捉えようとしているのだ。(略)
 翻訳としての言語をめぐるベンヤミンの思考を辿る者は、既存の言葉に解消することを拒む言葉に呼応するもう一つの言葉が、沈黙とせめぎ合うなかから響き始める地点へ、この言葉そのものの根源へと立ち返らせられるにちがいない。おそらくそのときに初めて、言葉そのものは、けっして同類のあいだの情報伝達に囲い込まれることはなく、むしろ他所者たちとのあいだで響き合い、それとともに「日本語」のような所与とされる言語の枠を越えて生成していくことが見通されるだろう。さらには、歴史を語ることを、死者とともにある生の深みから、神話としての物語を越えて、想起する言葉の営みとして捉え返すこともできるかもしれない。》(『ベンヤミンの言語哲学』9頁)
[*2]以下の記述を《図1》を下敷きにしながら図示すると次のようになる。タイトルの由来は「最最広義のアレゴリー=アレゴリー(廃墟)+カテゴリー+墓碑銘+固有名」の等式に依る。(「α:もうひとつの私的言語」は「言語ゲーム」と名づけていいと思うが、まだそのように定義することの意義というか使い道がない。また〈名〉の記憶をとどめる「墓碑銘」は、「廃墟」としてのアレゴリーともども「文字(像)」につながっていく。)
 
   《図2》アレゴリーの四つの相貌
 
          〈 名 〉
 【A】===============
        ↑     ↓
      「遍 路」 「末 路」
        ↑     ↓
  α     ↑     ↓
      《墓碑銘》 《固有名》
        ↑     ↓
        ↑     ↓
 【R】━━━━━ 「 名 」 ━━━━━
        ↓     ↑
        ↓     ↑
     《アレゴリー》《カテゴリー》
  β   (廃 墟)   ↑
        ↓     ↑
      「復 路」 「往 路」
        ↓     ↑
 【V】………………………………………
         〈純粋経験〉
 
 ※A:純粋言語(神の語)
  α:もうひとつの私的言語(言語ゲーム?)
  R:公的言語(人間の言語)
  β:私的言語
  V:詩的言語(事物の言語?)
 
[*3]市村弘正「「名づけ」の精神史」から。
《…想起するためには、いったん「忘れ去る」ことが必要なのである。世界と自分とを繋ぐ名前の問題に敏感であったカフカは、いかにすれば自己の属する言語秩序に対して「遊牧民」でありうるかに心を砕きつづけた(無論そこにはユダヤ名前に対する屈曲した意識が横たわっていただろう)。そういう彼の自己訓練の一つは、固有名詞を音声や響きに還元しつつ「分析」し反復することであったという。そこには、この発語訓練をつうじて、たえず言葉を通して侵蝕してくる既成の意味やイメージを振り落とすことが念じられていただろう。このような「方法化された錯誤」さえもが動員されなければならないのである。
 私たちをとりまく「新品」の世界が、新しい名前との戯れを誘発しながら「物忘れ」を押しすすめたとすれば、それに対して、見棄てられ忘れ去られた物つまり「屑」を対置することができるだろう。「かつて名前を持ったことのあるものの名前、名前を取り去られたものの名前」(ロラン・バルト)である屑は、たんに新しい名前の成れの果てを示すだけではない。この軽蔑と忘却の凝固物のうちには、現在の人間と物との交渉の有様が放射され、その【遍路と末路】とが刻みつけられているのである。したがって新品に対して、それ自身の影として屑をつきつけることには充分な意味がある。
 しかし、私たちは、(屑とは異なる)もうひとつの名もない状態、まさしく「無名性」なるものに向かわなくてはなるまい。すなわち、名前の増殖に対して「沈黙」の名前を、それに相応しく密やかにしかし決然と提示すべきであろう。こうして、名づけえぬものに思いをひそめながら、私たちは最後の名前に到達することになる。それはほかならぬ「墓碑銘」であり、この名前は、他の誰にもまして私たちにとって、「終りの始まり」の名前となるだろう。沈黙の名前へ向けられるこの存在のヴェクトルこそが必要なのである。》(『増補 「名づけ」の精神史』155-157頁、【 】は引用者=中原による強調)
[*4]本来は貫之現象学C層で取りあげるべきだと思うが、どうしてもここで引用しておきたい文章がある。
《このとき「根源史」の媒体[媒質]をなす「像」は、過去の記憶をそれ自身のうちから今に甦らせる。アレゴリーがその──自己破壊的ですらある──内発的な表現において「文字像」であるように、新たな歴史の構成要素となるべき「像」もまた、この自己表出においてまさに「像」として現出するのだ。そして、このとき「像」は、「非随意的想起」──マルセル・プルーストの「無意志的記憶(me'moir involontaire)」の概念に由来するこの概念は、…ベンヤミンの歴史の概念の核心をなす概念の一つである──の場をなしている。その際、この「像」は優れた意味で「媒体[媒質]」として立ち現われていよう。つまり、ベンヤミンが「言語一般および人間の言語について」において捉えた、中動態において自己自身を語り出す「媒体[媒質]」としての言語の姿を体現していると考えられる。とすれば、彼は「根源史」としての歴史を描き出す「像」のうちに、出来事としての言語の生命が甦ると考えていたことになろう。
 ただし、この「像」自体は、既存の物語としての歴史に能動的に介入し、その連続性を破壊することによって取り出されてくる。だからこそ、ベンヤミンは『パサージュ論』のための覚え書きにおいて、歴史の「『構成(Konstruktion)』は『破壊(Destruktion)』を前提としている」と述べているのだ。過去の記憶を甦らせる「像」は、「歴史の経過をこじ開けて取り出される」。そのことを彼は「引用」に準えている。彼にとって歴史を書くとは、「歴史を‘引用すること’」にほかならない。しかも、「引用すること」には、「歴史を書く際のそれぞれの対象がその文脈から引き剥がされることが含まれる」。すでにアレゴリーが寓意の慣習の破壊的な引用であったように、「根源史」を描く「像」も一つの破壊的な引用なのである。「カール・クラウス」の議論を辿るならば、そのような、まさに破壊としての「引用」とともに、言語は「名」という「根源」へ立ち返る。「引用」において、言語は「名」という本質を恢復するのだ。それゆえ、「歴史を引用する」とは、かつて起きた出来事の一つひとつを、死者の一人ひとりを、その名で呼び出すことでもあろう。》(『ベンヤミンの言語哲学』298-299頁)
(47号章に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」46号(2022.04.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第66章 純粋言語/声と文字/アナグラム(その1)(中原紀生)
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