Web評論誌「コーラ」44号/哥とクオリアア/ペルソナと哥 第62章 純粋経験/私的言語/アレゴリー(その3)

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Web評論誌「コーラ」
44号(2021/08/15)

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■私的言語の生成とその受肉
 
 前章で、私は、「梵我一如」の構造をめぐって、永井均氏の議論を踏まえ次のように定式化しました。
 
【T】〈 〉=〈私〉:「そもそもの初めから存在する(=それがそもそもの初めである)ある名づけえぬもの」すなわち〈 〉が、開闢の「あとから」他のもの(たとえば他人)との対比が持ち込まれて〈私〉と名づけられる。あるいは梵(〈 〉)と真我(〈私〉)の合一。
 
 しかし、この、科学的・歴史学的な客観的事実を超えた「超越的な存在」をめぐる等式は、やがて「世界にはたくさんの人間が並列的に存在し、それぞれに自我があるというような、通常の平板な世界解釈」のもとでとらえられるようになります。すなわち、次のようなかたちで。
 
【U】《私》=「私」:「対比が持ち込まれた後では、あたかも対比が成り立つための共通項[私と他人に共通の「人間」]がもともとあったかのような錯覚が生まれる。そして、この錯覚こそが現実になる」(『私・今・そして神』41頁)。
 
 ここで、【T】から【U】への推移(頽落)のプロセスを、空想的に追跡してみます。
 
@〈私〉=『私』:超越的世界における【T】の等式が、この世界の内部へと類比的に繰りこまれる。
A〈私〉⇒《私》:独在性の〈私〉(この世界の客観的事実を超えた語りえない存在)は、単独性の《私》(この世界に実在する他でもないこの私)として語られる。
B《私》=『私』:@とAによって。
C『私』⇒「私」:愛と経済の主体である特殊・個別の『私』は、公的言語(日常言語)における一般的な「私」として語られる。
D《私》=「私」:BとCによって。
 
 ここまでに登場した四つの等式(〈 〉=〈私〉,〈私〉=『私』,《私》=『私』,《私》=「私」)の、それぞれの等号を矢印に変形すると、次の四つの式が得られます。
 
・〈 〉⇒〈私〉:世界の開闢
・〈私〉⇒『私』:キリストの受肉
・《私》⇒『私』:並列的な世界の描像(モナドロジー、華厳経の世界)
・《私》⇒「私」:平板な世界解釈(公的言語の世界)
 
 最後に、これら四つの式を一般化します。それらは、「名づけえぬもの」(開闢の奇蹟)がこの世界の内部で、「その内部に存在する一つの存在者として位置づけられ[=受肉され]、名づけられる」(『私・今・そして神』43頁)プロセスを示しています。(永井均氏は『世界の独在論的存在構造』で、「私の見るところでは、超越的事実を平板な世界像の内部へ強引に位置づけることは、一般に宗教というもののもつ特性の一つなのだ」(293頁)と書いている。以下の四式は、そのような宗教のはたらきを示すものと理解することができる。)
 
【A】〈 〉⇒〈E〉
【B】〈E〉⇒『E』
【C】《E》⇒『E』
【D】《E》⇒「E」
 
 これらの式に用いた「E」は、ドイツ語「Etwas」の頭文字で、それは、「言語的な象徴によって心にもたらされる「何か」」(井筒俊彦)とか、「〈私〉は、だれでもないどころか、何でもないのだ。しいていうなら、ただ‘これ’でしかない。それが‘何であるか’は決してわからないどころか、いやむしろ、それは‘何であるか’がない」(永井均)などと言われるときの、その「何か」や「これ」を指しています。あるいは、『新版 哲学の秘かな闘い』の第8章「語りえぬものを示す(2)──時間を隔てた他者の可能性としての私的言語の可能性」で示された、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』二六一節の永井訳に出てくる「何ごとか」を。
《「E」をある‘感覚’の記号と称することにいかなる根拠があるのか。
 「感覚」とは言うまでもなくわれわれの公共言語の語であり、私だけが理解できる言語の語などではない。この語の使用には、すべての人が理解するような正当化が必要なのである。──それは‘感覚’なんぞではないのだ、「E」と書くとき彼には‘何ごとか’が起こっている(habe er‘Etwas’)、それ以上のことは言えないのだ、と言ってみたところで、やはり何の役にも立たないだろう。「起こる(haben)」や「何ごとか(Etwas)」もまた公共言語に属しているのだから。かくしてひとは哲学する際に、最終的には分節化されない音だけを発したくなるようなところへと至るのである。──だが、そのような音声も特定の言語ゲームの中でのみ一つの表現になっているのだから、まずはその言語ゲームが記述されねばならない。》(『新版 哲学の秘かな闘い』256頁、‘ ’は原文傍点、ただし‘Etwas’は原文斜体)
 永井氏は、同書第7章「語りえぬものを示す(1)──野矢茂樹『語りえぬものを語る』一八章における私的言語論の批判」のなかで、このウィトゲンシュタインのテクストをめぐって、次のように論じています。
《…なぜウィトゲンシュタインはここで「E」が「感覚」であるという前提そのものを否定しようとしたのか。そしてなぜそんなことがそもそもできると信じているのか。第一の(動機についての)問いに対する答えは、それが彼のそもそもの問題意識だったからであり、第二の(根拠についての)問いの答えは、私的言語とはそもそも世界の中に存在するある個人の言語に関する問題ではないからである。それは、「何が見られていようと、見ているのはつねに私だ」という独我論的主体たる「私」の言語に関する問題であり、あえて「体験」という語を使うなら、およそ体験を持ちうるのは私だけであり、そもそも私以外の他人が体験を持つなど‘ということの意味がわからない’というような、そういう「私」の言語に関する問題なのである。
 そういう「私」の特徴は、何よりもまず、固有名で置き換えられないという点にある。(略)この置き換えがなされえない状況の提示こそが、二六一節の隠された背景だと考えなければならない。》(『新版 哲学の秘かな闘い』243-244頁)
 本稿で考察しようとしている私的言語は、ここで永井氏によって余すところなく定義されたそれ、つまり、固有名で置きかえることができる《私》ではない、独我論的主体たる〈私〉の言語、あるいは、私秘的な感覚──永井氏が『〈私〉の哲学 を哲学する』の序章「問題の基本構造の解説」のなかで、「現実性の累進構造こそが「私秘的な意識」(あるいは「クオリア」)という不可解な概念の根源にあるのではないか、ということが、私が『なぜ意識は実在しないのか』で論じた問題であった」(36頁)と書いていた、その「クオリア」──を語る言語ではなく、独在的な存在を語る言語にほかなりません。
 このことを、前章までの論脈にそくしていいかえると、私的言語とは、語り得ない純粋経験を語る言語である、となります。そして、その純粋経験(〈E〉)には、独在性の〈私〉のほか、〈今〉や〈現実〉(や〈感情〉)が含まれる。というか、私がこれから取りくもうとしているのは、そのような「純粋経験を語る(四つの)私的言語」をめぐる考察にほかならないのです。
 
■私的言語のやっかいな本性
 
 ここで、私的な註をひとつ。
 純粋経験について、前々章で私は、「言葉を発し、文章を書きつけるとき、私の意識のうちに立ち現われてくる言語的な思いや感じ」あるいは「言詮不及の意味体験」と規定した。そして、この語りえぬ純粋経験をめぐる言語表現を通じて、それが「言語以前の直接的なもの」もしくは「言語に先立つ空虚な実在」であることが確定する、とも書いた。ここには純粋経験の、そしてまた純粋経験を語る私的言語がもつ、一筋縄ではいかないやっかいな本性(あるシステムの内部で生起する出来事が実はそのシステムの起源をなすといった倒錯[*1]、あるいは開闢と持続の断絶)が露出している。
 これらのことを踏まえると、以下の議論では、この世界の内部に居場所をもたない純粋経験について語る私的言語が(この世界の外に?)生成し、やがて公的言語のうちに受肉(頽落)していくプロセス(【A】〜【D】)と、この世界の内部において言語が誕生し、やがて言詮不及の言語現象(純粋経験)を語る境位にまで進化していくプロセスとが、あたかも合わせ鏡のような関係を切り結ぶことになるだろう。
 しかし、この世界の外(言語の外)で起こった(と、言語使用に習熟した「後から」知ることができる)メタ・フィジカルな出来事について語る言葉を、そもそも私はもちあわせていない。
 
 先走りの議論になるが、ここで露になったやっかいな本性(倒錯、断絶)は、「私的言語」と「言語ゲーム」の関係に置きかえて考えることができるのではないか。たとえば、次のような仮説のもとで。
 
 ……私的言語は「夢の言語」(夢のなかの言語、夢としての言語、夢を語らう言語、等々)であり、言語ゲームは「言語が見る夢」(意味)を「映画」(無数の夢の引用)として形象化する。(ポール・クローデルは「物質化された夢」としての能をめぐって、「もはや演者[=言語ゲームのプレイヤー]の内側に感情があるのではなく、演者が感情の内側に身を置くことになる」(『朝日の中の黒い鳥』)と語った。)そして、「夢の言語」と「言語が見る夢の形象化」としての能=映画をつなぐのが、「アレゴリカルな文字像」(ベンヤミン)[*2]である……。
 
 前章の末節に、言語ゲームは本来、定家論理学の世界に属する問題で、貫之現象学のC層にいたってようやく取りあげることができるテーマであると書いた。
 以前用いた言葉を使ってこれを詳説すると、次のようになる。すなわち、定家論理学を本籍とするのは、言語によって世界を創造し、その世界のなかに「純粋経験」(の主体=ペルソナ)をつくりだす「強い」言語ゲームであり、他方、「純粋経験」を通じて言語がつくられ、そしてその言語が世界そのものであるところの「強い」私的言語は、貫之現象学を本籍地とする。また、貫之現象学の圏域内で稼働するのは「弱い」言語ゲームであり、定家論理学の内部ではたらくのが「弱い」私的言語である。
 ここに俊成系譜学の世界を導入する。かつて(第40章で)「像、イマージュ、形」と定式化した貫之現象学の世界と、「象、パライメージ、体」と定義した定家論理学の世界(あるいは、これに「イマジナル」を掛け合わせて得られる「虚象、パンタスマ、虚体」の狭義の定家論理学の世界=虚なるものの世界)の中間に、「喩、フィギュール、姿」の俊成系譜学の世界を位置づけることができる。
 この道具立てを使ってさきの仮説を「解説」すると、貫之現象学における「強い」私的言語(夢の言語)と定家論理学における「強い」言語ゲーム(能=映画)を媒介するのが、俊成系譜学における「アレゴリー」である、となる。あるいは、貫之現象学の「体験」(クオリアの世界)と定家論理学の「言語」(ペルソナの世界)を、俊成系譜学の「文字像」が仲介すると。
 
[*1]永井均氏が『なぜ意識は実在しないのか』で導入した「逆襲・逆転」という発想をめぐって、入不二基義氏が「無内包の現実」(『〈私〉の哲学 を哲学する』第T部「入不二基義セクション」)で次のように書いている。前後の文脈や術語(「関係の第一次性」や「独立の第〇次性」)は気にせず、引用する。
《「逆襲」あるいは「逆転」とは、ごく大ざっぱに言えば、「関係性の中で初めて可能になる〈後なるもの〉が、にもかかわらず、その関係性を超え出た独立的な〈先なるもの〉へと変貌すること」である。この「関係の第一次性」から「独立の第〇次性」への転回自体が、反実在論から実在論への移行をすでに準備している(と私は言いたい)。ここでは、文脈から独立した私秘的な感覚を認めないのが「反実在論」に相当し、文脈から独立した私秘的な感覚を認めるのが「実在論」に相当する。「言語ゲーム的あるいは反実在論的な立場」から出発したとしても、その逆の「実在論的な立場」へと向かう契機を胚胎することになり、それが成長して出発点の立場を転覆させる。これが、「逆襲」あるいは「逆転」である。》(『〈私〉の哲学 を哲学する』305頁)
[*2]道籏泰三著『ベンヤミン解読』の二章「髑髏のにたにた笑い──廃墟からの構築としてのアレゴリー」から。
《恣意的かつ暴力的に意味を引き寄せ、言葉のもつ通常の意味を自由に歪曲し、変容させるアレゴリーは、それ自体が暗号としての謎めいた絵であり、ヒエログリフ(象形文字)としての絵文字であり、さらに広くいえば、物質そのものとしての文字である。ベンヤミンがアレゴリーにおいて問題にするのは、ちょうどカフカにおける事物の名の攪乱の試みに似て、言葉の意味性、記号性に対立するものとしての文字、図像としての文字がもつ反乱性に他ならない。文字像としてのアレゴリーは、慣習的な記号としての言葉の閉じた主観的世界から暴力的に排除されてゆくものを、言葉の意味や概念に媒介されない直接的な図像のかたちで、いわばゲリラ的に奪回しようとする試みであり、そこには捨て去られ忘却されたものの痕跡が瓦礫の下に隠れひそんでいるという意味で、他でもない「それ自体が知に値する対象」なのだ。》(『ベンヤミン解読』66-67頁)
■私・今・現実そして感情?
 
 永井ワールドにもどります。
 『私・今・そして神』がその開闢を告げた「現在の」永井哲学の現時点での到達点、というかその最先端の議論は、哲学探究1・2の副題をもつ『存在と時間』、『世界の独在論的存在構造』の二冊の書物に見ることができます。それらの著書で(何度でも最初から)取りくまれているのは、〈私〉と〈今〉そして〈現実〉が存在することへの驚きと、それらに共通する構造の解明という、紛れもない永井哲学(永井神学)の刻印を帯びたテーマにほかなりません。このことについて、たとえば「哲学探究2」の雑誌掲載稿の冒頭では、次のように述べられています。
《私にとって驚くべき、すなわち哲学すべき主題は、まずは、なぜかこの私という説明不可能な、例外的な存在者が現に存在してしまっている、という端的な驚きであり、次に、この不思議さを構造上(私でない)他人と共有できてしまう、という二次的な不思議さであり(それはまた、にもかかわらず問題の意味そのものが理解できない人が頭脳明晰な人のなかにもかなりいるという意外性でもあり)、そして最後に、本質的に同じ問題が私の存在以外のこと(たとえば今の存在や現実の存在といった)にもあてはまる、という再度の驚きである。この連載の最終的な狙いは、この最後の点に照準を合わせて、それらに共通の構造を解明することにある。》(『世界の独在論的存在構造』A)
 私と今と現実をめぐるメタ・フィジカルな問題は、『私・今・そして神』の最終局面で述べられた言語による世界創造をめぐる形而下的な言語哲学的問題と響き合っています。「言語は開闢を隠蔽する。逆に言えば、世界を開く。人称、時制、様相は、客観的世界の成立に不可欠な要件だが、それは開闢それ自体を隠蔽することによって可能になるのだ。「私の今の言語」──この言い方が、言語の内部ではその人称概念と時制概念に吸収されて理解されることになる。」(222頁)
 ところで、その『私・今・そして神』で、永井氏は、「私の分裂」と並行的に論じて哲学的意味を失わない思考実験として、「世界の分裂」と「今の分裂」、そして「神の分裂」を挙げていました(107頁)。また、第2章最終節の最後の項「神・現実・私・今」では、「この私」や「今」や「現実世界」や「神」の存在証明をめぐる議論を経て、次のように述べていました。
《ともあれ、神の存在論的証明をめぐる哲学史上の諸説、現実世界の位置をめぐる可能世界論における対立、A系列とB系列をめぐる時間論上の議論、そしてコギト命題の解釈をめぐる論争、これらがすべて‘同じ一つの’問題をめぐっていることは、まずまちがいないことだと私は思う。
 私はずっと、自分の関心に従ってまったく自分勝手に哲学をやってきた。だが、本書で到達し本書で論じられたような問題が、古代ギリシアに始まり、デカルト、カントを経て今日にいたるあの固有名としての哲学にとっても最も中心的な課題であったことはまず疑いのないことであるように思われる。》(『私・今・そして神』180-181頁)
 神と現実と私と今の取り合わせは、同書最後の一文にも登場します。
《私、今、現実、神……世界の内部で理解されるなら、それらはつねに、もし世界内の一存在者でないとすれば何も連動していない歯車にすぎない。だからもちろん、そんなものは存在しないとつねに言える。しかし、通り越して短絡させることができる、機構全体とまったく繋がっていない、その歯車こそが、その機構全体をはじめて現実に存在(つまり実存)させているのだ。
 それがすべての開闢であると同時に、そんなものはどこにも存在しない。すなわち、そんなものはどこにも存在しないと同時に、それがすべての始まりなのである。》(『私・今・そして神』222-223頁)
 冒頭でふれた「現在の」永井哲学の最先端の議論、すなわち、三つのメタ・フィジカルな存在の共通構造の解明と、ここで語られた四つの思考実験、四つの哲学史上の中心課題とを組み合わせてみます。するとそこに、ひとつの「空白」があらわれてきます。(さらに客観的世界の成立要件の話題をこれに組み合わせると、人称、時制、様相に次ぐ第四の文法的概念の欠落が浮き彫りになってくる。)
 
・〈 私 〉⇔ 私の分裂 :コギト命題の解釈をめぐる論争 
・〈 今 〉⇔ 今の分裂 :A系列とB系列をめぐる時間論上の議論
・〈現実〉⇔ 世界の分裂:現実世界の位置をめぐる可能世界論における対立
・〈   〉⇔ 神の分裂 :神の存在論的証明をめぐる哲学史上の諸説
 
 最後の山括弧の中に入る語彙の第一候補は、間違いなく「神」(=「在りて在るもの」すなわち「存在」?)でしょう。つまり、〈神〉の存在構造(〈存在〉の存在構造?)をめぐる考察は、永井哲学においていまだ手つかずの課題として残されている、ということになるのでしょう。あるいは、〈神〉とは〈私〉と〈今〉と〈現実〉が三位一体的に存在することそれ自体にほかならず、だから〈神〉の存在構造をめぐる課題はそれら三者の共通構造の解明作業のうちに回収されていくのだ、(だから山括弧の中は空白のままでこそ意味があるのだ)、といった議論がありうるかもしれません。(〈神〉をめぐる私的言語は〈神〉について語り合う言語ゲームのうちに回収されるのだ、といったような議論も?)
 しかし、私はこれまでから、そこに「感情」という語を嵌めこめないかと考えてきたわけです。
 
■純粋経験を語る四つの私的言語・序論
 
 永井氏は、先に引用した、「私の分裂」と並行的に論じて哲学的意味を失わない思考実験をめぐる話題に関連して、次のように論じていました。
 いわく、それでも「私の分裂」と「世界の分裂」とでは、事情が異なるのではないか。私の場合は、それまでの私の記憶を受け継いでいるほうがなぜか私ではない、ということが(ライプニッツ原理によって)起こりうるが、世界の場合は、現実世界のこれまでの歴史とつながった歴史経過が別の世界で生起しはじめたら、その非現実の世界のほうが(カント原理によって)現実世界になる、と言いたくなるのではないか。
《もし私の場合と世界の場合とで事情が異なるのだとすれば、その理由は、現実世界とつながった歴史経過が別の世界に起こると考えたときに、その別の世界にもとの世界から連続した‘私が’存在しつづけていると感じたからではないか。それはつまり、どの世界が現実であるかはそこに私が(しかも今)存在するか否かで決まる、ということではないか。
 もしそうだとすると、神は、人間たちの中から一人を選んで意志によって私を創造するとき、諸世界の中から一つを選んで意志によって現実世界を創造するときの意志と知性の対比をそこでもう一度‘反復’したのでは‘ない’ことになる。その二つの行為は、じつは二つの別の行為ではなく、同じ一つの行為でしかありえなくなるからだ。》(『私・今・そして神』107頁)
 開闢の神による現実世界の創造と私の創造とは、同じ一つの行為である。いや、そもそも「どの世界が現実であるかはそこに私が(しかも今)存在するか否かで決まる」のだとしたら、「世界」と「私」と「今」の「現実」性が、同じ一つの行為によって決まることになる。ここに出てきた四つのキーワード、「世界、現実、今、私」が、これからの議論のテーマ、すなわち、純粋経験を語る四つの私的言語をめぐる考察の起点となります。
 ただし、このうち「世界」については、私の個人的な事情(こだわり)によって、「感情」の語に置きかえます。それは、たとえば、記号生成や言語創出、世界における現実性の出現に際して情動・感情が決定的な役割を果たしていること(次章でとりあげる石田英敬氏の議論)、あるいは、大森荘蔵が「世界は感情的なのであり、天地有情なのである」(「自分と出会う──意識こそ人と世界を隔てる元凶」)と述べたこと(第32章参照)、そして、その大森哲学における「相貌」の概念をめぐって、野矢茂樹氏が「知覚風景のパースペクティブはそれが開ける主体の立つ視点位置を刻印しているが、それと同様に、知覚風景の相貌はそれが開ける主体の感情を刻印している。」と書いていたこと(『大森荘蔵──哲学の見本』、本稿第5章、第52章参照)、等々に拠るのですが、いまひとつ論拠を示すとすれば、富士谷御杖の歌論における「神」(迦美)が、個人の内なる神すなわち「私思欲情」を指していたこと(第6章参照)を挙げてもいいでしょう。
 いや、それらはなんの「論拠」にもなっていない。それどころか、(次節で検討する「無内包の現実性」の議論を踏まえて言えば)、そこに「感情」などという質料性(内包性、事象内容性)を含んだ概念を投入するのは、端的なミステイクであるとさえ思えてくる[*]。──と、考えは定まりませんが、ここでは、純粋経験を語る四つの私的言語の第一を「〈感情〉をめぐる私的言語」(別名もしくは原名は「〈世界〉をめぐる私的言語」)とし、第二を「〈現実〉をめぐる私的言語」(厳密には「〈(現実世界の)現実性〉をめぐる私的言語」)、第三、第四をそれぞれ「〈 今 〉をめぐる私的言語」、「〈 私 〉をめぐる私的言語」と命名し、先を急ぎます。
 
[*]私は、純粋経験がもたらす独特の感触、実質的内容からは独立したその(「空っぽの存在=空虚な器」性がもたらす)触感のようなものを表現する語を探していたのだろう。そして、仮に採用した「感情」の語に心底納得できていないのだろう。それを「アウラ」と言いかえても、あるいは東洋思想の文脈を踏まえて(霊性ならぬ)「‘礼’性」などと名づけてもよかった。そんな過激な語彙でなくても、より形式性の意味合いが強い「感性」の方がまだましだったかもしれない。
 いや、それはやはり「感情」でなければならなかった。なぜなら、この論考群の(表向きの)関心事は、王朝和歌、たとえば貫之歌を「私的言語」(夢の言語)として読み、たとえば定家詠やその歌論を「言語ゲーム」(言語が見る夢の現実化)の観点から読み解くことにあるのだから。それゆえ、まず「人のこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける」の「人のこころ」を、とりわけ「心におもふことを見るものきくものにつけていひいだせるなり」の「(世の中にある人が)おもふこと」(「思ひ」や「感じ」)を、詠歌(私的言語の発出)の起点に据えておきたかった。
 
■承前、無内包の現実性をめぐって
 
 いや、起点となるのは、「感情、現実、今、私」の四つ組ではなく、それらがそこに充填される「空虚な器」(〈 〉)の方でした。「器」などと言うと、何やら空間的な拡がり(質料性、内包性、事象内容性)を想起させるので、ここではこれを「無内包の現実性」と言いかえたいと思います。
 無内包の現実性──「それが何であるかは決してわからないどころか、いやむしろ、それは何であるか[=リアリティ(実在性)]がない」純粋なアクチュアリティ(現実性)。この概念は、二次にわたる「永井(均)−入不二(基義)論争」(私の勝手な命名)を通じて精錬されてきたもので、その経緯をざっと一瞥すると、以下のようになります。
 
《第一次・永井−入不二論争》
 
○永井が『なぜ意識は実在しないのか』(2007年11月)でクリプキ−チャーマーズの二次元的意味論を踏まえ「第〇次内包」の概念を導入。
○入不二が「〈私〉とクオリア──マイナス内包・無内包・もう一つのゾンビ」(共著『〈私〉の哲学 を哲学する』所収、2010年10月)で、永井の「第〇次内包」の概念には「私秘性」(感覚の認知の自立)と「独在性・現実性」の二つの場面が同居していると批判。これを、@「(当初の意味での)第〇次内包」=クオリア、A「マイナス内包」=潜在的なクオリア(特定の概念[例:痛み]から自立・逸脱した不明瞭な「何らかの感じ」)、B「無内包」=〈私〉や〈今〉、の三つに腑分けした。
○永井が入不二の指摘を一部(無内包に関する部分)受け入れ、『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』(2016年6月)を刊行。「[「私」の私秘性を作り出す]基になっているのはもちろん独在性であり、独在する私です。…これはもはや第〇次内包ではなく、無内包の現実性です」(170頁)。
 
 ──第一次論争を通じて明らかになった「三次元的」意味論の概要は次のとおり。(私的言語とは「無内包の現実性」を語る言語、いわば「無内包言語」であって、「第一次内包言語」(=パブリック言語)と関連づけられていない「第〇次内包言語」(永井前掲書改訂版131-132頁)のことではない。)
 
【無内包】
・独在的な〈私〉や〈今〉(=純粋経験)
 
【第〇次内包】
・私秘的な意識=クオリア/内的体験/「文脈独立的・内面孤立的な内包」(入不二前掲論文)
・「[第一次内包に対する]第一の逆襲[=感覚の認知の自立]をへて、何も酸っぱいものを食べていなくても、なぜだか酸っぱく感じられることが可能になった段階の酸っぱさの感覚そのもの」(永井前掲書改訂版12頁)
・「《つめたいもの》や《しめり》として現象する神(テオス)」(ロレンス『黙示録論』)
 
【第一次内包】
・公的言語において認知された「感じ」/外的文脈(ふるまい・表情)/「日常文脈的な内包」(入不二前掲論文)
・「酸っぱさの例でいえば、梅干しや夏みかんを食べたときに酸っぱそうな顔をするとき感じている‘とされるもの’」(永井前掲書改訂版12頁)
・「海や湖の透明度が高くて飲める液体、水らしきもの」(チャーマーズ『意識する心』)
 
【第二次内包】
・物理的な状態・事実/「科学探究的な内包」(入不二前掲論文)
・「[第一次内包に対する]第二の逆襲[=物理的状態の側からの逆襲、脳科学的・神経生理学的な探究]」によって判明する酸っぱさの本体、脳内のミクロな物理的状態(永井前掲書改訂版)
・「水はH2Oである」(チャーマーズ前掲書)
 
《第二次・永井−入不二論争》
 
○第4回現代哲学ラボ(2016年9月)で永井が「無内包の現実性とは」の演題で講演。「[カントがデカルトやアンセルムスの神の存在証明を批判して言ったことは、]要するに様相に関すること──可能的か現実的か必然的か──は事象内容的[=リアル]なことではない[=アクチュアリティ(現実性)に関わることである]、と単純に言い切ってもいいですね。それに対して私は、同じことが様相だけじゃなくて、‘人称’の場合にも、それから時制の場合にも言えるということを考えたわけですね。」(『現代哲学ラボ 第4号──永井均の無内包の現実性とは?』(Kindle版))
○同ラボで入不二が「現実の現実性と時間の動性──永井均『存在と時間──哲学探究1』へのコメント」を発表。〈私〉や〈今〉で語られる永井の「無内包の現実性」は「中心指向(収斂)的」で無内包性が不十分であると批判し、無人称・無時制・無様相の「全域指向(発散)的」な現実性を提唱した。「人称・時制・様相というのは対比のシステムですから、最小限の内包性あるいは内包への傾きが残っている」。
○入不二の批判、提唱に対する永井の応答。──中心性が残らないように「無内包の現実性」を考えることができるのは当然だが、あえてそうしないところに妙味がある。内包的にまったく同じものをもっている「他のもの」の可能性との対比において「これが現実だ」という話をしているから、対比性はどうしても残る。[*1]
○永井の応答に対する入不二の発言。──妙味を強調すると、同時にある種の「誤解」も引き寄せることになる。つまり「結局永井の言っている独在性はいつまでも私秘的な話をしている」というふうな。
 
 ──永井−入不二論争は、ほんとうはもっと豊かな内容と多岐にわたる論点を含んでいるのですが、(そして、永井均・入不二基義・森岡正博著『現実性を哲学する』(『現代哲学ラボ 第4号』の書籍版、本稿執筆時未刊行)、入不二基義著『現実性の問題』(2020年8月刊行)、永井均著『哲学探究3』(2020年9月から連載中)での議論を通じて論争の内容は深堀されるに違いないし、さらに第三次論争の勃発すら予見(期待)されるのだが)、私の関心事にそくして、以上のことから導かれる、「無内包の現実性と(そこから発し、形而下の世界に向かって分岐し頽落していく)四つの私的言語」の粗削りな目録を作製しておきたいと思います(私的言語の公的言語への受肉=頽落に際して設えられる文法的概念との対応関係を書きこんで)[*2]。
 
・〈   〉:無内包の現実性[*3] :無態[*4]・無様相・無時制・無人称
・〈感情〉をめぐる私的言語⇒マイナス内包:態 (voice)・法(mood)
・〈現実〉をめぐる私的言語⇒第一次内包:様相(modality)
・〈 今 〉をめぐる私的言語⇒第二次内包:相(aspect)・時制(tense)
・〈 私 〉をめぐる私的言語⇒第〇次内包:人称(person)
 
[*1]永井氏は『存在と時間──哲学探究1』では次のように述べている。
《感性の形式(つまり時間空間)や悟性の形式(つまりカテゴリー)の適用を経ていないため、まだ現象を構成していない、つまり実在していないが、その素になっているものを「物自体」と呼ぶとすれば、〈私〉や〈今〉は物自体である。とはいえしかし、ほんとうに物自体だとすれば、〈私〉だとか〈今〉だとか、何らかの内容的規定[=事象内容]を示唆する呼び名で呼べるはずがない。だからたぶんそれらは、このような超越論的な(=実在を構成する)形式が適用された後に、そのような形式をすり抜けて生き残った(そのような形式によって変様させられながらも現象界の中に生き残った)、物自体のお零れのようなものなのであろう。》(『存在と時間』77頁)
 別の個所では、「無根拠な現実性として、なぜか存在してしまったこの私は、「現象界の中に生き残った物自体のお零れのようなもの」なので、この世界の内部に自らをちゃんと実在させるためには、自ら超越論的統覚となる(そういう自己分裂を起こす)ほかはない」(114頁)とも。
 
[*2]永井氏は「聖家族──ゾンビ一家の神学的構成」(『〈私〉の哲学 を哲学する』第W部「あとから考えたこと」)で、哲学的ゾンビ三兄弟とその父母による家族構成(と、その権力闘争の様相)を描いている。すなわち、父:存在、母:時空(支配)、長男:言語/第一次内包、次男:物質/第二次内包、三男:意識/第〇次内包。この構成を、本文で示した「無内包の現実性と四つの私的言語」の図式と(強引に)重ね合わせると、次のようになる。
 
・〈 父 〉:〈存在〉⇔〈  〉
・〈 母 〉:〈時空〉⇔〈感情〉をめぐる私的言語
・〈長男〉:〈言語〉⇔〈現実〉をめぐる私的言語
・〈次男〉:〈物質〉⇔〈 今 〉をめぐる私的言語
・〈三男〉:〈意識〉⇔〈 私 〉をめぐる私的言語
 
 この対応関係にどのような意義があるか(ないか)は、今後の検討課題だが、いま直ちにここで言えることがあるとすれば、第一に、「無内包の現実性」(純粋なアクチュアリティ)に「父:存在」が対応することから、はじめに存在ありき、という「驚き、タウマゼイン」(根源的な感情)が最初にあって、それが第一の私的言語につながっているのではないかということであり、第二に、時空が「感性」の形式である(カント)とすれば、その時空を支配する「母」の位置には〈感情〉をめぐる私的言語がふさわしいということである。
 
[*3]入不二氏は「無内包の現実」(『〈私〉の哲学 を哲学する』第W部「あとから考えたこと」)で、次のように書いている。
《「内包」から「現実」へと至る通路はなく、逆に「現実」が成立して初めて、その中身としての内包も問題にできる。したがって、どんな「内包」を持ってきても「現実」を導き出すことはできないが、一方「現実」であるならば、そこを満たすのはどんな「内包」でもかまわない。このように、「〈現に〉という現実性」と「〈何・どのようであるか〉という内包」のあいだには、非対称性がある。このように、「現実」は「内包」が及びようのないあり方をしている。「無内包の現実」「現実は無内包である」とは、そういうことである。
 ただし、‘この点を誤解しないかぎりは’、次のように理解することも、無害であろう。すなわち、どんな「内包」も及ばないという「現実」の特徴(+α)にのみ焦点を絞って、そこだけをイメージするために、以下のような比喩もそれなりに有効なのではないか。
「無内包の現実」とは、「真空状態」のようなものである。「真空状態」は、物質はまったく含まなくとも、単なる無ではなくエネルギー(力)に満ちている。むしろ、そこから何かが生まれ出てくる場である。この比喩では、「物質」が「内包」に相当し、「現に」という現実性がエネルギー(力)に相当する。「物質」を取り去っても「真空状態」が残るように、「内包」を引き去っても「現実」が残る。その意味では、「無内包の現実」を、この世のもの(=種々の物質)に依拠することなく、ただ気配(=力)だけがあるような「幽霊」に喩えることも、それほど的外れではないだろう。》(『〈私〉の哲学 を哲学する』295-296頁)
 ここで言われる「現実」は、純粋なアクチュアリティとしての「存在」(現実存在=実存)のことであり、第二の私的言語でいう「現実」とは意味合いが異なる。この点を誤解しないかぎりは、次のように理解することも、無害であろう。すなわち、入不二氏が言う「真空状態」は、かねて本稿で用いてきた「空虚な器」と響きあうと。
 
[*4]追補。入不二基義氏は『現実性の問題』第3章「事実性と様相の潰れと賭け」で、「無態」という概念を呈示ている。
《「態(voice)」は、「こちら側(主体)とあちら側(客体)の関係性」を前提にしている。それゆえ、「こちら側とあちら側の無関係性」がベースになっている「祈り」の場合は、[こちら側とあちら側の関係性を前提にしている選択や賭けや神頼みと違って]能動とも受動とも言えないし、双方向とも言えない。とりあえず「無態」(態=関係性を持たない)と表現した。その意味で、現実の現実性は、「無内包」であり「無様相」であるだけでなく「無態」でもある。「無態」と呼んで、「中動」と呼ばなかったのは、「中動態」を、「能動と受動の高次の折り畳み」(能動の自己再帰や受動を能動するや受動的能動……等々)として考えたいからである。》(『現実性の問題』117頁)
■アヴィセンナのウジュード
 
 ひきつづき、無内包の現実性をめぐる話題。永井均著『存在と時間──哲学探究1』の第15章から、「小説や映画の世界」と題された節の(ほぼ)全文を引用します。
《小説は、その内部に前後関係を(したがって可能的な〈未来⇒現在⇒過去〉の変化をも)含んでいるにもかかわらず、突如としてある頁を開いてそこを読み始めれば、読まれたその個所が現実の現在となって、そこが現実のA変化の起こる場所となる。映画のフィルムなどでも同じようなことは考えられるが、むしろ現に上映されている映画でこれと同じことを考えてみると面白いかもしれない。通常、上映されている映画は、だれも見ていなくても、現に今上映されている箇所というものがあるわけだが、それが‘ない’ような仕方で上映されている(!)映画を考えていただきたい。(断っておくが、考えることができるだけで想像することはできない)。この映画は、つねにB系列的に(つまり相対的に)上映されている(!)のだが、ある個所が見られることによって、そこに突如として唯一の現実の現在が生じ、そこで初めて現実のA系列が成立するわけだ。われわれのこの現実もじつはそうなっているかもしれない、と考えることができ、これは私の心を捉える数少ない懐疑論の一つである。
 哲学的に重要な点は、この場合、そこが読まれる(見られる)ということは、その小説(や映画)のストーリーにはまったく関与しない、完璧に外在的な出来事である、という一点である。これが‘無内包の現実性’の意味である。それは、いかなる内包(内容、中身、等々)の変化によっても根拠づけられない端的な現実性なのであって、ライプニッツが神は諸々の可能世界から一つを選んで存在を与えたと語る際の、またカントが「存在する」は事象内容[レアール]的な述語ではないと語る際の、「存在する」の意味でもある。この場合の「存在」は、(アリストテレス的な「質料−形相」の枠組みからは独立していても)なお本質の現実態という意味を保持するトマス・アクィナスの「エッセ」よりも、本質の外から端的に付与されるイブン・スィーナー(アヴィセンナ)の「ウジュード」に近い、と私は感じている。》(『存在と時間』275-276頁)
 また、同書第17章の註では、次のように書かれています。
《入不二基義は『あるようにあり、なるようになる』(講談社)において、「「現実」は、……体験内容の外側から副詞的に付加されるしかない」(七三頁)と言っているが、…「今(現在)」もこの意味での「現実」である。この種の「外側から」付加されるしかない無内包の現実性を、私は第15章でイブン・スィーナー(アヴィセンナ)の存在[ウジュード]に譬えている。》(『存在と時間』314頁)
 最初の引用文中に「考えることができるだけで想像することはできない」云々とあるのは、おそらく、リアルな(想像可能な内容や中身、ストーリーをもった)実在物と区別される、アクチュアルな(完璧に外在的な出来事としての)現実存在を指し示していて、そして、そのような意味での「存在」、すなわち本質(実在界)の「外から端的に」付与される無内包の現実性が、アヴィセンナの「存在」(ウジュード)に近い、と永井氏は感じているわけです。
 ここで、永井氏が無内包の現実性と同一視するアヴィセンナの「ウジュード」について、井筒俊彦著『イスラーム思想史』の記述を参照すると、そこには、アヴィセンナが、「存在」(existentia)と「本質」(essentia)との間に実質的に区別があるか否か、という「大問題」を西欧のスコラ哲学に投げかけた、と書かれていました。
 いわく、アヴィセンナによると、我々が経験する事物は存在論的に二つの要素から成り立っている。それらが「現にそこにある」(Xがある)ことと、「何々としてある」(Xはaである)ことの二つである。このうち前者を「存在」(ウジュード)、後者を「本質」(マーヒーヤ、それは何であるかということ=何性)と呼ぶ。
 このような「存在」と「本質」がどういう仕方で互いに結び付いているのか。この問いに対してアヴィセンナは、存在は本質の「偶有性」であると主張した。本質(例:馬性)はそれ自体で自分の存在を作り出すことはできず、存在という性質を他から得た時にはじめて「ある」もの(存在する馬)として実現する。
 この存在の偶有性の概念に関連して、アヴィセンナが呈示したもう一つの重要な概念が「可能的存在」と「必然的存在」の区分である。前者は「存在することはできるが、必ずしも存在しなければならないというのではない」もの。これに対して後者は「もしそれが存在していないと仮定すればそのまま矛盾に陥らざるをえないような存在者」である。
《このことを上述した「本質」と「存在」の関係という観点から見ると、「存在」が「本質」の偶有的性質ではなくて、直ちに「本質」そのものであるもの、つまりそのものの「本質」が即「存在」であるものが必然的存在(これが宗教上の「神」を哲学的に概念化した形)であって、これに反し、その「本質」そのものが「存在」でなく、又「存在」を内包せず、従って「存在」がその「本質」の偶有であるようなものは全て可能的存在者である。》(『イスラーム思想史』252-253頁)
 アヴィセンナの言う「必然的存在」すなわち「存在が本質そのものであるもの」こそ、永井−入不二論争を通じて炙りだされた「無内包の現実性」にほかなりません。
 
■アヴィセンナの幽霊、三たび
 
 ここで私は、かの、井筒豊子和歌論三部作(のうち「意識フィールドとしての和歌」)で取りあげられた、アヴィセンナの「空中浮遊人間」を想起しています。定家の「詠みつつある心」(尼ヶ崎彬)や世阿弥の「無心」に通じる「アヴィセンナの幽霊」(山内志朗)。この話題については、これまでに二度、(第28章と第39章で)言及しました。(精確に記録しておくと、第40章や第56章でもふれた。とくに第56章の議論は、ここで述べようとしていることと密接な関係をもつ。)
 永井氏が言及している「ウジュード」が、この「アヴィセンナの幽霊」とどのような関係を切り結ぶか、同一のものとして扱ってよいかどうか、私には判断できません[*1]。ただ、「無内包の現実性」と(ほぼ)同一視されたアヴィセンナのウジュードを、(さらに)アヴィセンナの空中人間=幽霊と関連づけることによって、私的言語を語る立場、視点、主体といった事柄をめぐる考察をすすめるうえで、ずいぶん見晴らしがきくパースペクティヴを獲得することができるのではないかとは思います。
 すなわち、(かつて、第30章で引用した)井筒豊子の「意識フィールドとしての和歌」の最後の文章[*2]中の、意識フィールド=言語フィールド=認識フィールドという「三重の磁場」を小説や映画を含む「本質」(マーヒーヤ)の世界として見るポジションに、「アヴィセンナの幽霊」すなわち「存在」(ウジュード)を据えることによって。そして、無内包の現実性(アクチュアリティ)の側から実在性(リアリティ)の世界を俯瞰する幽霊の視点を、かの夢のパースペクティヴをめぐる議論とからめて論じることによって[*3]。
 
[*1]アヴィセンナの「ウジュード」が、井筒俊彦が『意識と本質』で「マーヒーヤ」と対比させた「フウィーヤ」と同一のものなのかどうかも、私には判断できない。ちなみに山内志朗氏は「アヴィセンナの存在論と西洋中世」(『東洋学術研究』180号/2018年)で、次のように述べている。
《私が、ドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」や「個体化の原理」や「このもの性」についていろいろ読んでいたとき、井筒先生が『意識と本質』のなかで、「スコトゥスのこのもの性の源流はアヴィセンナのフウィーヤ(個体的本質、それ性)である」と書いているのを知りました。当時、西洋中世の研究書には、それを指摘しているものがありませんでした。》
[*2]井筒豊子著『井筒俊彦の学問遍路──同行二人半』から。
《一瞬一瞬の位相[フェイズ]展開で生起する意識フィールドの、その単一位相[フェイズ]、に関して云えば、意識フィールドは、たしかに、俯瞰的に照射された無・時間的空間である。この種の構造コンテクストに於ける無時間的空間とは、しかしながら、歴史的・経験的時間上の継起性の停止によって成立する無時間的空間、を意味するものでもなく、また、物語り的・叙述的時間展開の中の切りとられた‘ひとこま’、一場面を意味するような無時間的空間性、でもない。
 この構造コンテクストでは、意識フィールドの現成は、意味的分別・分節機能の発出と全く揆を一にし、両者は同時発現である。その意味で、意識フィールドの無時間的空間とは、意味的分別・分節機能によって分出されたところの、意味単位群の可能的総体(森羅万象)の連鎖連合による意味的網目の組織的地平展開の現成空間そのものを意味するのであり、また、その無時間性とは、それらの可能的な全意味単位群の地平的一挙展開、現象現出の一挙展開、意味的網目組織の(意識フィールドの現成と揆を一にする)一挙展開、を意味するような無時間性である。いわばマンダラ%I無・時間の空間性であり、華厳的な縁起の、宇宙大に広大無辺の、意味的網目組織の、無・時間的展開地平、とでも云い得るようなものでもある。
 主体が外的客体を認識するという構造モデルに随伴するような、認識的・経験的時間空間は、ここでは、そのままの単独な形では、成立しない。その代り、意味分節単位(意識フィールドに成立)=言語分節単位(言語フィールドに成立)=存在分節単位(認識フィールドに成立)という三重の磁場が相互に呼応し、照応し合う世界、が成立している。
 存在分節単位の成立する認識対象界は、歌論の世界では、自然の事物界、自然界、と同定され、その自然界はまた、他の二つのフィールド、特に意識フィールドと交感的に相照応することによって、(観照的空間としての)観照的自然領界[スフィア]を構成する。観照的自然空間とは、自然の事物形象が意味記号として機能するような、自然記号の成立空間、いわば、自然マンダラ、の成立する領界でもある。
 意識フィールドとの交感的照応によって成立する認識界のフィールド構造については、歌論に於ける自然観照との関係に於て、その側面からのアプローチが可能であり、それについては、機会があれば、いずれ稿を改めて考えてみたいと思う。
 俯瞰的に照射された意識の、この、無時間的・空間的位相、という基底的構造は、能の演技にかかわる意識空間や、舞踊や武道の心・身空間、茶道の美的空間意識など、となって展開し、やがて、いわゆる芸道的世界一般を成立させる転換点となった、と考えることも出来るのである。》(『井筒俊彦の学問遍路』196-198頁)
[*3]細川亮一氏は「恐れと驚き──死と再への問い」(市川浩他編『死──現代哲学の冒険1』所収)で、次のように論じている。いわく、一人称としての死が「私は死ぬだろう」という未来形でしか語りえないことは、私の死が今だ来ないことであるだけではなく、「私が存在しない」という現在を私が思惟しえないことを意味している。
《しかし、「私が存在しない」ことの何の不思議もないのではないか?「私がいない世界」を私は想像することができる。それは「私がいない部屋」を想像できるのと何の違いもないように思える。確かに、その想像世界の内に登場人物としての私はいない。しかし、想像する私はその世界に視点として属している。想像された世界全体が、その世界を想像している視点=私を虚焦点として指示しているのである。遠近法で描かれた絵全体が、絵の内に描かれていない、また描かれえない視点を指し示しているのと同様である。絵が‘それ’を描きえないが、‘それ’を示さざるをえない‘それ’=視点として、私は想像世界に属するのである。》(『死──現代哲学の冒険1』8-9頁)
 世界内に実在しない虚焦点として指し示される〈私〉の視点、それは、アヴィセンナの幽霊の眼差しであり、もっとわかりやすく言えば末期の目、あるいは死者のパースペクティヴである。(私的言語は詩的言語ならぬ死的言語=死者の語りに発する。)
 なお、細川氏の議論は、古荘真敬「時の過ぎ去り──人称的世界の時間的構造の探究のための準備的考察」(『山口大学哲学研究』13巻/2006年)で引用されていた。[https://researchmap.jp/read0196292/published_papers/4983696
 
(63章に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」44号(2021.08.15)
<哥とクオリアア/ペルソナと哥>第62章 純粋経験/私的言語/アレゴリー(その3)
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