引きつづき、無内包の現実性(の見えない痕跡、お零れ、幽霊のごときもの)を語る言語の第二類型から第四類型まで、すなわち〈現実〉や〈今〉や〈私〉をめぐる私的言語について考察するはこびとなりました。が、しかし、(論じるべきアイデアがいまだ降臨しない、というか、そもそも私的言語について語るべき内実などありえないのではないか、と思う気持ちが募るので)、一気に先に進まず、すこし迂回路をたどってみたいと思います。
世界の開闢(〈 〉⇒〈E〉)を語る私的言語に思いをめぐらせていくうち、私の脳内で、ひとつの仮説がその輪郭をあきらかにしてきました。それを一言で括るなら、私的言語とはアレゴリーである、となるでしょうか。
何も表現しない「詩的言語」と、それとはまた違った意味で、何事をも言い表わさない「公的言語」。これらの領域の中間にあって、(あるいは、レンマ軸≒アクチュアリティの軸とロゴス軸≒リアリティの軸を結合するアーラヤ識≒コーラ(波に揺れる海)の只中において)、私的言語は両者を媒介する。そのはたらき、すなわち詩的言語から公的言語を生成し、もしくは公的言語を詩的言語へと遡行させる(あるいは、時間性の介入によって如来蔵・純粋レンマ的知性を分解し、もしくは時間の空間化によって華厳的・純粋レンマ的知性へと遡行させる)媒介作用のことを、アレゴリーのはたらきに準えて考えることができるのではないか、ということです。
山口裕之氏は、『ベンヤミンのアレゴリー的思考』の第V章で次のように論じています。いわく、ベンヤミンは「アレゴリーがそのようなものとして振舞おうとした文字」のことを「アレゴリー的文字像(Schriftbild)」と呼んだ。それはアルファベットなどの表音文字ではなく、象形文字のようにそれぞれの文字が断片としてすでに「意味」をもった表意文字である。
ベンヤミンにあって音声(Laut)として語られた「ことば(Wort)」と「文字(Schrift)」とは両極的な位置を占めている。「ことば」と「文字」の関係は、その初期言語論における「パラダイスの言語」(名称言語、直接性の言語)と、善悪をめぐる知によってそこから堕落した言語(伝達言語すなわち何かを意味する言語、直接性を失った言語)との関係を引き継いでいるのである。「アレゴリーは「意味」と「事物」に結びついていることによって、あくまでも被造物の罪の連関のうちにとらえられている。」(176-178頁)
ここで語られるアレゴリーの事物性、あるいは「(意味への)堕落」と「(対象へ向かう)構成的志向性」とにあいわたるその両義性(もしくは、受動態でも能動態でもない中動態的なあり様)は、前章で概観した、詩的言語と公的言語との中間にあって両者を両義的に媒介する、「物自体のお零れ」としての私的言語の特質と同型なのではないか、そして〈感情〉をめぐる私的言語こそ、そうしたアレゴリー的性格をもっとも色濃く帯びていたのではなかったのか。私は、そんなふうに考えています。
私的言語は、アレゴリーである。あるいは、少なくとも私的言語の構造と機能は、アレゴリーと同型である。このことを確認するため、まず、道籏泰三著『ベンヤミン解読』の記述(第二章「髑髏のにたにた笑い──廃墟からの構築としてのアレゴリー」)をもとに、ベンヤミンのアレゴリー論を概観します。
○道籏氏は、アレゴリーの「一つの極限形態」(64頁)として、『知覚の呪縛』(渡辺哲夫)が紹介する初老の女性患者の「言語新作」を例に挙げる。──世界没落体験の果てに、崩壊した世界の現実を埋め合わそうとでもするかのように新たな世界秩序を切り開くための指標として出現する謎のシニフィアン、ウチカタ、ヒトカタ、オモカゲドコロ、オトチ、オタカラ、等々。
○アレゴリー(文字像)は、「意味の抜け落ちたあとの言語の残余であり、記号論的、伝達的な意味に対する志向が忽然と消失したあとの骸骨としての言葉」である(76-77頁)。
○しかし、こうしたアレゴリー的再構築、髑髏・廃墟からのアウラなき構築(復活)とは、たんに廃墟のなかに新たな廃墟を築き上げるだけの「気晴らし」にすぎないのではないか。
○ベンヤミンは、アレゴリーにおける「逆転」の図式を「神秘的均衡[ポンテラシオン・ミステリオーサ]」(危なげに中空を浮遊しているバロック彫刻の天使たちの姿を形容するためカール・ボリンスキーが使用した用語)を借用して説明している。
ベンヤミンのアレゴリー論に関して二点、補足しておきます。いずれもアレゴリーにおける「時間性の空間化」に関するもので、出典は、山口裕之著『ベンヤミンのアレゴリー的思考』。
〇ベンヤミンが『パリ──十九世紀の首都』(X「ボードレールあるいはパリの街路」)で、「二義性とは弁証法がイメージとして現われたものであり、静止状態における弁証法の定則である。この静止状態がユートピアであり、弁証法的イメージはしたがって夢のイメージということになる。そのようなイメージをなしているのがたとえば商品そのもの、つまり物神としての商品であり。またたとえば家屋でもあり街路でもあるパサージュ、またたとえば売り子と商品を一身に兼ねる娼婦である。」(ちくま学芸文庫『ベンヤミン・コレクション1』348頁)と書いているのを踏まえて。
〇また『ドイツ悲劇の根源』(第二部「アレゴリーとバロック悲劇」)に、「バロック悲劇とともに歴史が舞台のなかに入りこんでくるとき、それは文字として入りこむ。自然の顔貌に、はかなさを意味する象形文字で、〈歴史〉と書かれてあるのだ。バロック悲劇によって舞台の上に呈示される自然史のアレゴリー的相貌が実際に目の前に現われるのは、廃墟として、である。(略)事物の世界において廃墟であるもの、それが、思考の世界におけるアレゴリーにほかならない。」(ちくま学芸文庫『ドイツ悲劇の根源下』50-51頁)とあるのを受けて。
《廃墟はベンヤミンにとって、それが髑髏と同じように凋落の歴史をそのうちに刻み込み、自然のうちにその姿を晒すという意味において、歴史と自然の交錯した形象であり、しかもとりわけその「凋落の過程」としての歴史が「移ろい」にほかならないということによって、「被造物の状態」の連関のうちに位置づけられる。しかしそれとともに、凋落の歴史における時間性の廃墟という空間性のうちに定着され同時化されるという思考の枠組みがここでは顕著に現れている。この連関においては、廃墟は「自然歴史(Natur-Geschichte)」のうちに示される時間性の空間化という構造性のアレゴリーでもある。廃墟というかたちをとって、歴史のもつ時間性が感覚的に捉えることのできる空間的形象のうちに同時化される。このことは「髑髏」についても当てはまる。つまり、髑髏のうちに現れる「歴史の死相」が「‘硬直した’原風景」であるといわれるとき、その‘硬直’は、原風景として示される「自然」が死にまつわるものであること(つまり被造物の連関)を指し示すとともに、時間的な流れが空間性のうちに同時化されることによって「自然」がいわば凝固した状態にあることを指し示しているのである。つまり、廃墟や髑髏という典型的な形象において「自然史」として現れるアレゴリーとは、府被造物の連関にとらわれつつ、時間性が空間化された形象なのである。》(『ベンヤミンのアレゴリー的思考』168-169頁)
作業をつづけます。
土田知則氏は『ポール・ド・マン──言語の可能性、倫理の可能性』の「あとがき」に、「読むこととは畢竟、苦悩と歓喜の狭間で永久に宙吊りにされること、アレゴリカルな境域で寄る辺なく漂い続けることなのかもしれない。これもまたド・マンの仕事から学んだ重要な教訓の一つである。言葉は常にみずからと別のものを差し示す。それは言葉の宿命的な構造であり、誰もそこから逃れられない。」(190頁)と書いています。
アレゴリカルな境域とは何か。そして、言葉の宿命的な構造とは。──以下、同書第V章「アレゴリーの諸相」および第X部「文字の物質性」にもとづき、ポール・ド・マンのアレゴリー論を概観します。
1.両義性、内的分裂─言語=テクストのアレゴリカルな機制
○「アレゴリー」はギリシャ語の「allos(other)」と「agoreuein(to speak)」からの派生語。すなわち「別のもの(allos)について語る(agoreuein)」という言語の働きを体現する概念である(54頁)。
《「アレゴリー」とは、一つのものの中で真逆のベクトルを有する二つの意味ないしは解釈の可能性が確認され、その答えをどちらか一方に決することが永遠に不可能である事態を指し示している。したがって、「アレゴリー」は、多義性(polysemy)ではなく、あくまでも曖昧性・両義性(ambiguity/ambivalence)に関わる問題として理解されなければならない。多義的な意味とは異なり、真逆のベクトルを有する意味・解釈は決して同時に定立されることはありえない。どちらか一方を選び取らないかぎり、テクストの解釈は内部から自壊してしまうからだ。しかし、「アレゴリー」へのまなざしは、まさにそうしたアポリア=ダブル・バインド状態を、言語=テクストに巣食う‘創造的な’宿痾として前景化する。テクストとは、決して首尾一貫した論理や堅固な構造に支えられた構築物ではない。テクストのダイナミズムは、まさにそうした内的な分裂から派生するのだ。》(『ポール・ド・マン』78-79頁)
○土田氏は「アレゴリー」をホーソーンの短編小説の女主人公の額に刻印された「母斑(birth-mark)」に喩えている。
《…「母斑」の除去という行為は言語=テクストに巣食う曖昧性、両義性、不純性、矛盾、欠落、過剰、そして何よりも両立不可能なものの同時的な相互依存性という側面を抑圧し、無化しようとする仕草──総体化の仕草──と重ね合わせることができるだろう。「母斑」の除去は、それを刻印された女性の「死」をもって贖われなければならない。そして、「アレゴリー」の無化・抑圧は、言語=テクスト、読者、さらには「読むこと」の「死」に至り着くほかないのである。》(『ポール・ド・マン』81頁)
2.物質性と現象性─文字=言語の宿命的な構造
○ポール・ド・マンは、文字の「物質性(materiality)」の概念、すなわち「意味に回収されない文字の無機質な本質」(135頁)を呈示し、これを文字の「現象性」の概念と対置させた。
《文字──さらに言えば言語──とは、われわれのまわりに転がっている石ころや木片のように、本来はいかなる意味(作用)とも無縁の代物、すなわち単なる「物質」であって、そこに最初から固有の意味が内在しているわけではない。意味は、事後的に、しかも恣意的に、物質である文字に書き入れられるのである。》(『ポール・ド・マン』136頁)
《…[ド・マンにとっての問題を]要約的に述べるなら、「有機的統一」という総体的な原理のもの、本来‘出来事的な’ものであるはずの美的なものを筋の通った「物語=虚構」のうちに恣意的──暴力的・権力的──に回収してしまうこと、そしてそれをあたかも自然なものとして無自覚に提示・表象してしまうこと、それが問題なのである。したがって、…「現象性」とは、手あたり次第に出来する‘物質的な出来事’を有機的に関連づけ、それぞれの目的に見合ったお手盛りの「物語」を現出させることを誘導する概念ということになるだろう。つまり、それはド・マンにとって、美的なものの核心にある「純粋な物質性」を抑圧・隠蔽してしまうことになる問題含みの概念でしかないのである。》(『ポール・ド・マン』頁)
○ポール・ド・マンは、「物質的な視線」を「読む」という行為の場に導入し「非現象的な読み」を、すなわち「パラ‐フィギュラルな(比喩的なものに反する)次元」に中心を置く読み方を打ち出した(133-4頁)。
《とはいえ、文字や言語がその社会的な機能を果たすためには、完全なる「物質性」というステイタスを手離さなければならない。ド・マン自身も認めているように、言語はみずから以外のものを指し示すという比喩的な性格=機能を有する以上、「パラ‐フィギュラルな次元」から「フィギュラルな次元」に移行することを必然的に強いられるからである。(略)
文字=言語は本来、物質的である。だが、…文字=言語が「物質性」の域に充足的にとどまり続けるなら、文字=言語は文字=言語としての機能をほとんど発揮できないまま終わってしまうだろう。というのも、 文字=言語はみずから以外のものを指し示す「参照の機能」を背負わされることで初めて文字=言語としての役割を果たすことができるからである。》(『ポール・ド・マン』136-137頁)
《…たとえ恣意的であるにせよ、文字は何かを指し示すという「参照機能」なしには文字としての役割を果たせない…。つまり、文字は「物質性」と「現象性」あるいは「分断・切断性」と「指示・参照性」のあいだで引き裂かれ、絶えず揺動化・差延化されているのである。ド・マンの議論に関連づけて述べるなら、文字もまた一種の‘アレゴリカルな機制’に巻き込まれている、と言ってよいかもしれない。…ド・マンの語る「アレゴリー」が真逆のベクトルを有する二つの力が常に同時に働いている状況を指し示すものだとするなら、文字とはまさにそうしたパラドクシカルな状況に定位されるべきものだからである。
したがって、文字の「物質性」をひたすら強調しているかに見えるド・マンも、その「現象性」あるいは「縮減不可能な指示機能」を考慮に値しないものとして閑却しているわけでは決してない。言語をすぐれてアレゴリカルな問題として位置づけるド・マンにとって、根源的に相容れない二つの力の共存という装置はここでもまた有効にその機能を発揮するに違いないからである。》(『ポール・ド・マン』139頁)
■夢(水)の中の読めない文字
アレゴリーの概念は底が深く、通りすがりに一瞥し、軽々に何事かを語るのは身の程知らずの業だと思いますが、ここで、これまで収集してきた議論を、私的言語にあてはめて考えたいと思います。
……私的言語とは、@記号世界(公的言語の世界)の破壊と、Aコードなき言語実践によるその再構築(アウラなき復活)という、真逆のベクトルをもつ二つの力が同時的に稼働する装置である。
あるいは、(中島敦が「文字禍」で、「一つの文字を長く見詰めている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。」と書いた、そうした意味での、文字の)「物質性」と、これとは両立不可能な「現象性」(物質的なものの恣意的な回収による「物語」の現出を誘導する概念)とが相互依存の関係を切り結ぶ言語実践である。
そこでは、@とA、物質性と現象性が共在する弁証法的な静止状態(神秘的均衡)が、すなわち「時間性(物語化、意味作用)の空間化(形象化、凝固=結晶化)」が実現している。(それは、ほとんど中沢新一著『レンマ学』が論じた「華厳的空間」そのものだ!)
しかし、それらはいずれも、すでに成立した記号世界の中での話、もしくは公的言語が成立した後の出来事であって、本当のことを言えば、破壊され再構築される当の記号世界そのものが、コードなき言語実践(ソシュールが研究した異言やアナグラム、狂人の言語新作、マラルメ的な非人称的言語実践、等々)を通じて生成したのである。(アクチュアルなものの界域=詩的言語に根差した私的言語から、リアルな事象世界を構築する公的言語が生成する!)……
文字像としてのアレゴリーと言語音声(声としてのアレゴリー?)との関係が気になるところですが、ここでは、「アレゴリー=文字像」というベンヤミン的観点にしぼって議論を進めます。
ここで、一本の補助線を引きます。
石牟礼道子に「夢の中の文字」という、短いけれど深く濃い印象を湛えた文章があります。以前、第4章で言及した(精確には、そのとき言及した「かなと精神分析」という論考が石牟礼道子の文章を引用していた)ものですが、ここで、あらためてその一節を抜粋します。
《この世とあの世の境には、往きつもどりつして今日は生きそびれ、昨日は死にそびれして、どちらの方へとも往きつけぬ世界がもうひとつあって、そこに居るものたちの位相を、迷う、とか、狂うとかいうのだろう。
そのような世界をあらわすらしい分明ならざる闇の中に、一筋の川がかすかに光りながら流れてゆく夢をよく見る。筋立った夢ではないが、寝入りばなの、夢の導入部に現われることもあり、醒める時のこの世への重苦しい浮上感と共に、そのような川が、眼下の深淵となって遠ざかってゆくこともある。
川はたぶん川自体の旅程をあらわすのであろうが、必ずその川底から、短冊様、あるいは長い巻紙様の、ひらひらとくねる古い紙が浮き上がって来て、解読できない毛筆の文字があらわれようとする。濡れた髪のようになって、溶けて散りながら、その文字は一度も形になってくれないのである。生まれることが出来ないその文字は、わたし自身でもあるらしい。
前後の情景を綴り合わせて、夢占いをやってみるのだけれども、そこから浮上したがっている川床は、この世の桎梏やらあの世のくびきのことなのか。いずれこの世にむけて漂うのか、書かれざる文字に伴って、その時々に湧く音楽がある。作曲家が聴いたならばなんと名付ける曲であろうかと、あとあと目が醒めても、まだ耳を去らぬその曲想の後を追うことがある。虚無的な無限をあらわした、白い静かな炎を伴っている曲だけれども、葬送曲ではないように思われる。
川の彼方に、ボッシュの描く世界のような、怪奇図が展開しているときもある。赤い罌粟の花を一輪もった童女が、白象を導いて川の上流にゆく図が、あらわれることもある。
巻紙の流れてゆく川面に、ただ音もない雪片が溶け入っていることもある。いずれの場合も、うつろさのないまざった悲傷感が残る。
世の有様も他者も自分も、時代そのものが毒されているので、和泉式部が歌ったように、はるかに照らせ山の端の月とは、現代人には歌えない。生まれぬ前の自分や、抱いている世界に、いちはやく哀悼を表わしている情景かな、などとも考えてみたりする。
苦しいが、いやな夢ともいいがたい。むしろ幽邃で美なる夢でさえある。もし夢の中の文字をうつつに視ることが出来たらどんな書体であろうかと、永い間考えていたにちがいない。いつの間にか、あの川床に浮き上る紙に書かれる文字のイメージが、頭の中では出来あがっていた。たぶんこのイメージは、自分の書きたい文字でもあるのだろう。書家ではなくて、言葉を探すことを仕事としているので、書けない字を、自分の字のごとく思いこんだりも出来るのである。》(『石牟礼道子全集・不知火 第9巻』398-399頁)
筆者はつづけて、夢の中の文字のイメージを求め、後拾遺集切の伝源俊頼筆から北斉の摩崖の拓本へ そして篠田桃紅(『いろは四十八文字』)の仮名文字へと、「ひとさまの筆の跡」をたずねた経緯を綴り、最後に、「書家でない人間は、幻想の文字にこうして逢うことができる。どんなまぼろしの続きを見れることかと、やっぱり現世に居りづらいわたしは、文字の中から、かの川底へ降りてゆきつつある。」と結んでいます。
あの世(生まれぬ前)からこの世へ、川底(川床)から川面へと水中を浮上してくる解読できない文字[*]、一度も形になってくれない文字、生まれることが出来ない文字、書かれざる(書けない)文字、濡れた髪のように、和紙(基底材)と共に溶けてゆく毛筆で書かれた仮名文字、題名のない音楽(虚無的な無限をあらわした、白い静かな炎を伴っている曲)と、ことば以前のイメージをまとわせた文字。(石牟礼道子は「ことば以前」と題されたエッセイでも、もの心つく頃に「無語の世界」を垣間見た最初の記憶(遠い景色)として、「赤い罌粟の花一輪を持って、白い象と共に旅をする自分の姿」を語っている(同書450-451頁)。)
ここに描かれた「夢の中の文字」こそ、「それは何であるか」(リアリティ)の軛から解き放たれ、純粋に「それが在ること」(アクチュアリティ)に根ざした私的言語の、本然の姿をかたどったものではないか、(それはまた「意味」の軛から脱しつつある文字像としての、そして題名のない音楽(指示の力を失いつつある声?)がそこから湧きだすところのアレゴリーの本然の姿そのものではないか)、私は、そのように考えています。
[*]矢口浩子・新宮一成の「かなと精神分析」によれば、読めない文字は「個別」である。夢の中の文字は「普遍」(=意味)を拒絶している。音と意味につながっていた文字は、個別者によって押しつぶされ、くずされ、書線と化す。
《ラカンにとって文字とは言語の「材質的支え」である。(略)意味は文字もしくは手紙[lettre]という材質によって、支えられている。支えがぐらつけば意味は消失の危機に瀕する。書で、文字がくずされることによって、その意味が脅かされる。そこでは意味を支えている文字の材質性そのものがあらわになっている。個別は、自らの消滅をかけて普遍をつぶしうるのである。普遍は個別を無視しているが、それを失うことには耐えられない。何故なら個別存在は普遍の中の主体の根拠だからである。
普遍が個別に押しつぶされるか、個別が普遍に切り落とされるか、まさに書道はこの瀬戸際に立っている。文字が読まれるべきものとしての機能を全く失って、単なる線の集まりに過ぎなくなれば、普遍はもはやその意味を求めようとはしないだろう。すなわち書き手は自らの存在の意味を失う危険を冒すことになる。書道は文字をくずし「書線」へと向かうが、それは、個別の存在が、自己が普遍の意味の支えであることを普遍に認めさせようとする運動なのである。
くずすことによって、個別の実現がなされるというこの事態は、おそらく平安期におけるかなの成立そのものの中で、すでに存在していたと考えられる。》(叢書・想像する平安文学第5巻『夢そして欲望』148頁)
大胆なくずしによって普遍との関係が断ち切られても、最終的にかなは書線にいきつくことがなく、漢字に対して個別の位置をとっていたかなが、日本語の中で今度は普遍の位置をとるようになる。その結果、書の世界で、かなによってふたたび個別存在を示すための解体が、すなわち連綿や散らし書き、(和歌の)意味と無関係の区切りといった技法が用いられるようになっていった(151-154頁)。
──「かなと精神分析」のその後の議論は、(書は音楽と同様に「自由なる生命のリズム」の発現であるとした西田幾多郎の「書の美」ともども)、後の「やまとことば」をめぐる考察につながっていく。
■私的言語の静態と動態
私的言語(≒アレゴリー)は夢の中の文字であり、水底と水面の中間領域を往きつもどりつしながら、その両端を媒介する。補助線(石牟礼道子「夢の中の文字」)から見えてきたこれらのことのうち、ここでは、その前段の論点について、すこし詳しく見ておきたいと思います。その際、私的言語の「はたらき」の概形をつかむため、貫之現象学のA層・第二相で論じた事柄を、すなわち、夢世界におけるパースペクティブの体験構造と稼働原理をめぐる「理論(私家版)」を援用します[*]。
まず、議論の前提として、(
第52章で考察した)夢のパースペクティヴの静態、すなわち表層から超深層に至る四つの次元のパースペクティヴ(P1〜P4)をめぐる議論の「改訂版」を掲げます。
改訂内容の第一は、「深層のP1」に対する「表層のP1'」、「表層のP2」に対する「深層のP2'」を明確に(P1、P2と同格のものとして)位置づけたこと、第二は、(第28章で取りあげた)井筒豊子の意識=心の四階梯論「心地/境/意識フィールド/言語フィールド」を繰り込んだことです。
(なお、改訂版中の「(知覚的、感覚的)眺望」と「相貌」は、いずれも野矢茂樹著『心という難問──空間・身体・意味』に拠る。野矢氏はこの書物で、「眺望論」を「知覚的眺望」(空間という要因から捉えられた世界の現われ)と「感覚的眺望」(身体という要因から捉えられた世界の現われ)の二つのパートに分けて論じ、次いで、眺望論では捉えきれない知覚の豊かな側面を「相貌」(意味という要因から捉えられた世界の現われ)として論じている(本稿第53章参照)。)
★表層のパースペクティヴ(P1'+P2)
・言語的伝導空間のパースペクティヴ
・虚と実が分離し、始まりと終わりと筋をもった物語が成立する「知覚的眺望」の世界
≪言語フィールド≫
・「余情」=無分節非形象(P1')
・「詞」=文字・音声言語、外的言語(P2)
★深層のパースペクティヴ(P1+P2')
・前言語的、身体的伝導空間のパースペクティヴ
・「感覚的眺望」の世界
≪意識フィールド≫
・「情(こころ)」=意味的無分節(P1)
・「思ひ」=意味的分節機能、内的言語、対象的思惟(P2')
★最深層のパースペクティヴ(P3)
・リズム的、倍音的伝導空間のパースペクティヴ
・通態的、中動態的、非人称的、虚想的「眺望」の世界
・物語的、感情的「相貌」の世界
≪境(さかひ)≫
・今、此処という自照的存在の意識性(P3)
★超深層のパースペクティヴ(P4)
・完了形の語りによって後から製作(想起)される地平的パースペクティヴ
・非顕在的、潜在的な世界
≪心地(こころ)≫
・無分節、未発、未生の超越的非現象(P4)
次に、(第54章で考察した)夢のパースペクティヴの動態をかたちづくる四つのプロセス(P4⇒P3、P3⇒P1、P3⇒P2、P1⇔P2)の議論を援用します。ここで確認しておきたいのは、夢のパースペクティヴの動態論に、ふたつの重要な論点=仮説があったことです。
第一は、垂直(P4⇒P3)と水平(P1⇔P2)の両運動を基本とするプロセスにあって、その要の位置を占めるのが「P3」(第三次元・最深層のパースペクティブ)であること、したがって、夢のパースペクティブの動態は、「P3の誕生と成長の出来事」と「P3を舞台として展開される世界形成の物語」の二段階で構成されること。
第二は、「P3」を基軸として稼働する夢のパースペクティヴの四つのプロセスが、「感情」「様相」「時制」「人称」の四つの文法カテゴリーの成立につながる夢体験のフェーズに対応していること、そしてそこに、(以下にその要点を掲げる)野矢茂樹氏の「相貌=物語」論を導入することで、「第一段階:〈感情〉の誕生と成長の出来事」と「第二段階:〈感情〉を舞台とした世界形成の物語」の描像が得られること。
≪相貌=物語論の要点(その1)≫
・知覚は時間の流れの中に位置し、さまざまな可能性に取り巻かれている。
・そこで、知覚を取り巻く「時間性」と「可能性」という要因を取り出すため、「物語」という言葉を用いる。
・物語は現在の知覚を過去と未来の内に位置づける。
・また、私たちは現実の物語だけでなく、反事実的な可能性の物語も語り出す。
・知覚はこうした物語のひとコマとして意味づけられる。
・物語に応じて異なった意味づけを与えられる知覚のこの側面が、「相貌」である。
≪相貌=物語論の要点(その2)≫
・日本語で感情を表わす語彙は驚くほど少ない。
・日本語は、悲しみがその理由に応じて千差万別であることをそのまま受け入れたのである。
・感情が理由によって表現されるということは、感情と理由とが本質的な関係にあることを示唆している。
・感情はその理由と本質的に結びつき、理由は記述に依存する。そして記述は物語を開く。
・つまり、異なる理由で悲しんでいる人は、それぞれ異なる物語を生きている。
・それゆえ、感情を反映した知覚のあり方は「物語を反映した知覚のあり方」すなわち「相貌」である。
以上、概略のみ述べました。これらを念頭におき、夢のパースペクティヴの動態論に対応させながら、私的言語の四類型の概形を粗描します。
【第一段階】
@〈感情〉をめぐる私的言語(P4⇒P3)
・無(P4)から有(P3)へ、ヴァーティカルで力動的な関係性
・無内包の現実性(純粋なアクチュアリティ)の痕跡を〈感情〉の相において示す言語
【第二段階】
A〈現実〉をめぐる私的言語(P4⇒P2'、P3⇒P2')
・P4/P3からP2'に向かって「可能性」のベクトルが発出
・反事実的な可能性を含む〈現実〉を物語る言語(文字もしくはカタリ)
B〈 今 〉をめぐる私的言語(P4⇒P1、P3⇒P1)
・P4/P3からP1に向かって「時間性」のベクトルが発出
・濃厚な時間性(〈今〉)を帯びた感情の物語を語る言語(聲もしくはウタ)
C〈 私 〉をめぐる私的言語(P1⇔P2')
・身心(P1)と深層の言語(P2')、ホリゾンタルで相互反転的な関係性
・「いま・ここ」に向かって回帰する時間のなかで〈私〉の名を告げる言語
[*]このあたりの議論は、できれば「圏論(Category Theory)」を使って表現し展開してみたい。圏論への関心は、『レンマ学』の「付録一 物と心の統一」で中沢新一氏が「自然学と人文学をつなぐ環」の働きをする純粋数学理論として言及していたのが端緒となり、その後、西郷甲矢人・田口茂著『〈現実〉とは何か──数学・哲学から始まる世界像の転換』が「現象学と圏論的思考の通底」を語っているのを読んで決定的になった。
余談として。平出隆氏が「野外をゆく詩学」(『芸術人類学講義』所収)のなかで、ノヴァーリスの「数学を基底にし詩学を基軸にしたポエジーをめぐる思考の自在さは、アナロジー関係相互のあいだのアナロジーにまで達している」(198頁)と書いているのは、明らかに圏論(カテゴリー論)を念頭においている。
《数学を基底にすればむしろ、たとえば自然変換を扱うカテゴリー論によって、過去の文学的言語を文学から解放し、詩的言語を詩の神話から解放する可能性が見えてきます。
人類の純粋意識が言語を介して物質と交渉しあう際に、次元の変換が発生する現象を Air Language として探究する。Air Language ──この呼び変えられた「ポエジー」は、科学的直観との同一性の確認を求めるために、自身の機能を極小の動的な変換の原理として見出します。》(『芸術人類学講義』198頁)
にわか仕込みの「知識」によると、先の引用文中の「アナロジー関係相互のあいだのアナロジー」が、圏論における「自然変換( natural transformation)」に該当する(『圏論の道案内』第1章)。そして次章で見るように、「私」とは(「自然歴史」ならぬ)「自然変換」(アナロジーの間のアナロジー)なのである(『〈現実〉とは何か』146頁)。
(65章に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。
Web評論誌「コーラ」45号(2021.12.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第64章 純粋経験/私的言語/アレゴリー(その5)
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