早期退職後の生活  

 早期退職を決意した時、自分の経済状況も把握し、仕事人間でもなかったのに、いざ辞めるとなると不安になった。サラリーマンは定年まで働くものという世間の常識に反する行動をとることへの不安だったかもしれない。早期退職に賛成してくれた人はいない。しかし、退職して不安はすぐに消えた。仕事を辞めたことは大正解であった。仕事をしている時は、休日遊んでいてもその終わり頃になると、明日からまた仕事かと憂鬱な気分になったものである。しかし、退職後は、遊びを遊びとして十分満喫できる。仕事をしていた一時期、お酒を飲まないと眠れないという日々もあった。しかし、仕事上からくるストレスがなくなったためか、お酒も飲まなくてすむようになった。また、毎年冬は風邪を引いて、病院のお世話になっていたのに、それもなくなった。健康保険を長期使用しなかったので、市役所から金券(くすり券)が送られてきたこともある。早期退職後の生活は、それなりに考えていたが、実際は思っていたより世界が広がり、自由な時間がありお金も余裕がある人生で一番いい時代ではないかということを感じている。

(ホームページの作成)
 退職直後に、自分のホームページを作成し、途中からはブログ(日記)も書くようになった。希望があったので、掲示板も作成したが、あることないことを書かれ、不適切な書き込みを削除するなどのコントロールが出来なかったので、掲示板は削除し、作者へのメールを復活した。日常生活でブログに書くネタがあると喜んでいる。常時の閲覧者は少ないが、見てくれているという言動があるのは嬉しい。

(カウンセリングの勉強)
 財団法人関西カウンセリングセンターのカウンセリング講座については30代の頃、基礎コース、アドバンス準備コースまで修了したが、アドバンスコースは途中から行かなくなってしまっていた。そこで、退職を期に再度勉強することとし、平成15年4月から平成18年3月まで3年かけて、基礎コースとアドバンスコースを受講して修了した。そのため、週1回、大阪市内まで出かけていた。カウンセラーになるための更に上級コースの受講も考えたが、その財団法人の商業主義に嫌気がさしてそこで辞めた。単発の講座も受講したが、カウンセリング(こころ)の勉強は本当に有意義でした。カウンセリング教室で思うこと 参照


(投資)
 投資での収益があれば、少しでも早く退職出来るかもしれないと思い、退職前の平成13年8月、某ネット証券に口座を開設し、少額で株式投資を始めた。退職直前の平成15年3月に、そのネット証券が外国為替証拠金(FX)取引を扱うようになったため、少し勉強した後、この取引を開始した投資体験記 参照

(嘱託職員)
 早期退職後は、世間体や親への配慮等から完全無職になるよりは、収入は減るが気楽な嘱託職員になることを希望していたのだが、直後は叶わず、前職場の都合で途中から頼まれて翌年の3ヵ月間、嘱託職員として働いた。勤務は週2〜3日で、職場は大阪市内の百貨店の一角にあり、周囲は女子店員ばかりで、利用させてもらっていた社員食堂は特に壮観であった。大阪市内の中心街に出かけるのもそれなりに楽しかった。継続を打診されたが、投資での収入もあったし、色々思うところもあって、当初の契約で終え、その後も、何度か依頼はあったが勤務することはなかった。しかし、少額でも安定した収入が得れたのと、社会との接点を持ち続けるという意味で、この仕事が継続したした方が良かったかもしれない。


(H.G.S.O会)
 40代後半からゴルフを始めたが、一向に上達しないので、退職直後の平成15年春から東香里ゴルフセンターのゴルフスクール(昼間)に通い始めた。そのうち、スクール仲間(多くは既婚女性)と親しくなり、平成18年春あたりから、頻繁にゴルフに行くようになった。一時期は毎週、スクールで会い、ゴルフ場で会うという生活をしていた。時々昼食会も行っていた。また、H.G.S.O会(東香里ゴルフスクールお友達の会の略称らしい)という名前までつけ、忘年会(新年会)やコンペのほか、1泊ゴルフ旅行(宮崎、三重方面)などをするようになり、私の部屋のルーフバルコニーでの食事会を行ったこともあります。還暦の時には赤いキャップをプレゼントされた。当時はそれが当たり前と思っていましたが、今から思えば楽しい一時期でした。私が経済的な事情でスクールを止め、いろんな事情が重なって、H.G.S.O会は平成25年10月のコンペを最後に事実上解散しましたが、一部の人達とはゴルフを続けています。私の趣味ゴルフ 参照



(マンションのサークル活動)
 マンション入居約2年後の平成16年3月、マンション住民で余暇を一緒に楽しみましょうという趣旨のサークル(LEFTの会)が出来ました。参加者は主にリタイア組の高齢者です。当マンションには共用施設として集会室はもちろん、シアタールームや体育館があり、それらを活用して、卓球、バドミントン、麻雀等に参加しています。また、この仲間と、旅行(琵琶湖周辺、郡上八幡、京都御苑、二条城、京都府立植物園、宇治平等院、伏見、山科)、ハイキング(星のブランコ、くろんど池、磐船神社、交野山、武田尾、鞍馬山・貴船)、花見(大阪市大植物園、免除川、京都仏光寺)、食事会・飲み会(ホテル日航プリンセス京都、あとりえ、おん、はっちん、無垢根亭)、ゴルフ等に行っています。私の部屋のルーフバルコニーで、食事会や花火鑑賞会を行ったこともあります。ゴルフ同好会は、発起人になり、その後世話役をしており、麻雀同好会は、麻雀教室の先生役を経て一応会長ということになっています。過去には、ヨガや太極拳を習い、カラオケ同好会に参加し、パソコン教室・FX講座等の先生役も行っていました。

太極拳 卓球 バドミントン 麻雀 ゴルフ

(ボランティア活動)
 平成16年4月、元職場の先輩に頼まれて、約1年前から設立の準備を手伝ってきた特定非営利活動(NPO)法人が、大阪府知事の認証を受けて、正式に発足しました。設立までのお手伝いという約束だったのですが、成り行きでその後3年間、ボランティアで理事・事務局長として運営にも関わってきました。また、一時期、大阪のマンションをこの団体の事務所としても提供し、理事会・総会等も行っていました。電話もおいていて、不在の時は私の携帯電話に転送するようにしていました。しかし、手間ばかりかかって、あまり意義ある活動が出来ていないので、解散を提案しましたが、受け入れられなかったので役職を降り、平成21年3月末で私の経済的な事情もあり会員も辞めました。その後は詳しくは知らないですが、解散したようです。
 一時、いろんなボランティア団体の会員になっていて、会費を払い会報等を受け取っていましたが、活動しないまま、経済的な事情で辞めざるを得なくなってしまいました。阪堺線の支援の団体の会員だけは長らく続けていましたが、諸事情により令和2年5月で辞めました。阪堺線を廃止しないで 参照

(会社の設立・休業)
 FX投資で、望外の収益を得たため、大阪市内にセカンドハウスのマンションを購入し、税金対策や世間体もあって、平成17年に自分の会社を設立して「社長」になりました。個人で「無職」という肩書きでトレードをしていた頃と会社を設立して「社長」となってしていたことは同じですが、世間の扱いは全く変わりました。会社設立後もFXで収益を上げ、一時は若い女子従業員まで雇っていました。各種セミナーやゴルフ練習に一緒に行ったり、買物や食事をしたり、よく親子に間違われましたが、楽しい1年4ヶ月でした。その上、無駄遣いのし放題で、それはそれで楽しかったですが…。しかし、従業員結婚退職後の平成20年10月、全世界を襲ったリーマンショック後の金融危機に対応を失敗して大損失を出し、個人資産も追加証拠金として使ってロスカットにかかったため、会社は借入金を抱えて休業、個人資産も激減してしまいました。調子に乗って会社組織にしたのが失敗だったのかもしれません。収益を上げようと無理をしていました。会社休業後は、マンションを近所に引っ越してきた姪に賃貸してもらい、その家賃収入と年金でなんとか働かなくても生活できました。



(セカンドハウス生活)
 セカンドハウスは会社やNPO法人の事務所として使っていたが、当初は、大阪市内散策を目的として、交通の便と価格で購入したもの。2拠点生活は生活に幅がでるという考えもあった。マンションからは思い出も多い大阪中心部を自転車や徒歩で散策できた。元の職場も近くだったし、不思議な感覚だった。本町通りを本町、堺筋本町、谷町4丁目を経て森之宮、そして京橋へ。京橋から大阪城を経てマンションへ。梅田から淀屋橋、北浜を経てマンションへ。マンションから心斎橋、ミナミの街を経て、難波から南海線乗車。マンションから谷町筋を経て天王寺から上町線乗車。マンションから日本橋を経て恵比須町から阪堺線乗車など。母の介護時、堺から枚方へ帰る元気がない時は、ここに泊まったし、父を枚方で介護していた時は、父に食事を用意して、私が昼間ここに来て息抜きをしていた。近くに古くからの知人女性が喫茶店を開店したので、その交流も復活し、ゴルフに行く話もしていたが、コロナ渦でいつの間にか店はなくなっていた。

(マンション管理活動)
 マンション管理については、特段の関心はなく、輪番制で順番がきて管理組合の役員をしたところ、管理会社任せではいけないということに気づきました。管理会社は居住者の視点ではなくて、自分達の儲けを優先するための提案をしてくるのです。勧める人がいてNPO法人枚方マンション管理組合連合会の個人会員にもなって勉強をし、正義感もあって、いろいろ活動をしましたが、怒りに出会ってばかりで疲れました。マンション管理体験記大規模修繕工事体験記 参照



(両親の介護)
 60代は両親の介護の時代でした。高齢者も適切な支援をすれば元気にもなる、食事が一番大事、医者や薬は全面的には信用してはいけない、という貴重な体験をしました。両親の末期は出来ることをしたし、疲れたが悔いはありません。介護体験記 参照