両親の介護体験記

 親が高齢になって、介護が必要になった時、どう対応するかは考えていなかったし、出来るだけ自分達で生きてもらうと思っていた。費用の安い特別養護老人ホームは待機者が多くてなかなか入所出来ないとか、有料老人ホームは相当高額な費用がいるとか、いろんな情報も入っていたが、その時期が来たら、そこで考えようと思った。

 両親が70代後半に3年間、年に1度、弟家族を含めて1泊2日の親孝行旅行をしていたが、母は80歳を越えた頃から、歩行が困難になり、認知症の兆候も出て、そんな旅行も難しくなった。父は母を世話するとは夢にも思わなかったと言い、もう年だからとあきらめて、医師への相談も、介護保険の手続きも何もしなかった。室内整備もさんざん言ったのに、お金をかけることは嫌がり、手摺も母が転倒してからやっと付けた。母の認知症になった原因として考えらえるのは、歩行困難になって運動が出来なくなったことが大きいと思うが、「(結婚後は)あきらめて生きてきた」という生き方にも問題があったと思っている。そんな夫婦であり、私はそれを嫌悪していた。父には母の介護保険の介護認定を受けるよう言っていたが、いっこうに動かず、しびれを切らして私がしようかというと自分がするという。父は介護保険という新しい制度をよく分かっていなかったようだ。やっと、介護認定を受けるための、市役所から訪問調査があった際、母は質問に何でも出来るように答え(こういうケースは多いらしい)、同席していた父もそれを訂正しなかったものだから、介護認定は要支援だった。それ以後の調査は私が立ち会うようにした。母は病院(内科)へ通っていたが、認知症のことは医師も気づかず、医師の意見書はそれが記載されていなかった。
 その頃、私と弟は週1回は車で実家通いをし、父と麻雀をしながら両親の様子を見守るという生活をしていた。その実家通いでは疲れていたのか、車の自損事故を何度か起こし、スピード違反で反則金をとられたこともあった。
 平成20年に父が物干し台への階段から落ちて骨折で入院したため、認知症の母を一人にしておけなくて、私が主となったが、子や孫達が交代で実家に泊まり込んで母の世話をした。歩行は少し困難であったが、歩けないという分けでもなく、トイレもお風呂(少し怖がっていたが)も自分で行けた。世話の中心は食事だったが、認知症では、直近のことを覚えていないので、食事をしてもすぐ忘れ、また何か食べるということを繰り返していた。そのことを注意すると、「この歳になると食べることくらいしか楽しみがないのだから…」という迷回答が返ってきた。冷蔵庫を開けさせないよう色々工夫したが、上手くいかなかった。母は自分がおかしという認識はあって、寝起きのようでぼんやりしているとか、若い時は頭良かったんやけどな、とか言っていた。この時初めて、母と心の交流が出来たような気がする。母は機会をみては百人一首をしようと言い、上の句を言うと下の句を答える確率が非常に高かったのには驚いた。昔覚えた知識は生きているということだろう。百人一首で自信を回復しようとしていたのかもしれない。
 介護保険が適用されてケアマネージャーさんが来てくれると、母の状態をみて介護認定には疑問があると言って、再申請をしてくれ、要支援1から要介護2になった。初めのケアマネージャーさんはいい人だった。そしてディサービスや訪問看護を利用することになった。デイサービスは介護家族にとって非常に有難いサービスだったが、歩行訓練のリハビリテーションもしてくれるという話だったのに、専門家がいなかったのか、人手が足りなかったのか、してくれなかったのは少し不満だった。その間に母の主治医に認知症の話をすると、簡易検査で認知症と判断され、脳外科を紹介されて受診すると、一番多いとされるアルツハイマー型ではなく、治る可能性がある正常圧水頭症ということが判明した。手術の効果があるかを試す検査入院をしたところ良い結果が出たので、手術をすることにした。しかし、一時的にはよくなったが最終的には治らず、もっと早く対応していれば違う結果もあったかもしれない。
 父の退院までに、石油ストーブやガス器具は危険なので、電気工事もして、エアコンの増設と電磁調理器の設置を行い、洗濯機も全自動に変えた。麻雀好きの父のためにCATVも入れることにした。父の退院後も、父が対応出来ない母の歯科や皮膚科への通院に続けて実家通いをしたこともある。母は訪問看護からの流れで入院することになった、病院は病名がつくと入院させてくれる。出来るだけ見舞いには行くようにした。認知症だから、そんなことをしても意味がないと思う人がいるかもしれないが、そうではない。誰かが見守ってくれていると感じられることは非常に大事なことだし、認知症でも感じている。見舞いに行くと喜んでくれた。そんな中で母が「子ども作っておいてよかった」と言った言葉が印象に残っている。自力で食事が出来なくなって、のどに管を入れる手術しないと死にますよ、と医師に言われて手術をしたが、約半年の延命措置だった。果たしてその寝たきりの半年間に意味があっただろうか。病院は長く入院させてくれないと聞いていたが、2度目の病院は長期間入院させてくれ、退院に際しても次の病院を手配してくれた。転院の際、母は不安そうにしていたが、私が車に同乗したことで安心したようだった。その病院は老人専門病院だったが、末期と思われる患者ばかりで、見舞いに行くのは気が重かった。平成24年4月、母は入院先の病院で肺炎で亡くなった。87歳。父のわがままで死亡時に立ち会えず、真夜中の死亡で葬儀等の段取りは大変だった。私は神仏を信じていないし、葬儀は直葬でいいと思っているが、父の手前、親族もまだいたので、実家近所の葬儀会館で一般葬を行った。
 母が入院中、父が自転車運転中転倒する事故を起こし、親切な人に助けられて、家まで帰って来たが、直ぐに入院となった。そのため一時期、両親が別々の病院で入院する事態になった。転倒の原因はカリウムの欠乏による運動機能低下ということだったが、その病院では原因が分からないということで、退院後、紹介してもらった大学病院まで連れていって診てもらうと、町医者で処方されていた薬の副作用であることが分かったので、服用をやめた。

 母が亡くなった後も、介護認定を受けていた90歳を越えた父はヘルパーを入れながら独居生活をしていたが、お酒ばかり飲んで体調を崩して、何度か転倒をして、その時は通院ですんだが、客観的にみて独居生活は無理な状態だった。父に意思確認すると、自宅での生活を続けると言ったが、同年10月、私宅での同居を決断した。高齢者の生活環境を変えることは好ましくないと承知していたが、やむを得なかった。また、大嫌いな父との同居は相当の覚悟だった。父も、私が嫌っていたことを知っていたので、世話をしてもらえるとは思っていなかったと思う。転居に際しては、ご近所の挨拶や市役所ほか水道、ガス、電気、NHK、新聞販売店等での手続きがあった。父は転居の際のことを覚えていないという。
 3LDKに一人暮らしは贅沢といわれていたが、この間取りだったから父との同居も出来た。大工経験のある甥に手すりをつけてもらったり、父用に固定電話の移設も行った。緊急事態用のために携帯電話を持たせようとしたが使えなかった。同居直後は大変だった。歩行困難で室内で転倒するし、リハビリパンツにしていたが、下痢と便秘の繰り返しで便や小便を漏らすし、認知症の症状があって分けの分からないことを言うし…。そんな中でも酒だけは飲もうとするので酒を隠した。もっとも私の方は酒を飲まずにはやってられない状況が長く続いた。
 とりあえず、近所の総合病院で受診させると、整形外科では歩行困難については外科的問題はなく加齢による衰えと言われ、内科では、整腸剤を処方され、認知症の簡易検査の結果、認知症と診断された。眼科では白内障のあることも分かったが、高齢のため手術は無理と言われ、皮膚の異常もあったので皮膚科も受診したが、原因は分からず対症療法としての薬だけはくれた。血液検査の結果から医師は的確な指示をしてくれなかったが、素人の私が勉強すると、アルブミン値が低くタンパク質不足の栄養失調は明白だった。今はインターネットである程度の医学的知識は得られるいい時代である。そしてすべての不調がその栄養不足からきているものと推察された。父には終戦直後じゃあるまいし、この飽食の時代にお金もあるのに、栄養失調なんて恥ずかしいと話した。
 同居後、健康管理日誌(体重、血圧、便、食事の状況、出来事等)をつけ、勉強もして的確な生活支援を続けた結果、父は驚異的な回復力で元気になって、歩行も出来るようになり、皮膚の異常も消え、認知症の症状も消えた。認知症と医師も間違えたが、単に栄養が脳にいっていないだけだった。高齢者は次第に弱っていくものという考えは誤りで、的確な生活支援をすれば元気になるということを知った。その回復ぶりについては、同居直後の状態を知っている病院の看護師さんや散髪屋さんも驚いていた。一番大切なのは、バランスのとれた食事であり、特に大事なのはタンパク質の摂取である。食事で栄養がとれない時は、サプリメントのお世話にもなった。また、高齢者はのどの渇きが感じにくくなるので水分補給は意識して行うことも大切だ。室内での運動をさせたし、足つぼマッサージもした。薬は副作用があるので注意し、おかしいと思ったら服用を止め医師に話をすることは大切で、父や母の薬の副作用による不具合を何度か体験している。一時介護認定で要介護2までいったが、その後要支援となり、亡くなる直前は、介護認定されていなかった。元気になって、ルーフバルコニーやマンション中庭で歩いていたが、一度、マンション周辺を歩いて迷子になりかけたこともある。
 また、このマンションには麻雀同好会があって、それに参加させてもらって、多くの人達と好きな麻雀が出来たのも元気になった要因だと思っている。97歳の死ぬ半年前まで麻雀で遊んでいた。私が昔提供した古いMSXパソコンの麻雀ゲームでも遊んでいて、これが長生きできた要因だと本人は言っていた。



 父は、世話をしている私の立場を考えることなく、自分が嫌というだけでデイサービスには行ってくれなかったので、父の昼食を用意して、時々、私が大阪のマンションへ出かけて息抜きをしていた。この時のセカンドハウスは有難かった。こちらが一生懸命世話をしているのに、気に入らないことがあると、「死んでいたらよかった」とか「死なせてくれ」とも言った。私の経験的独断だが、父のような自己中心的な人は認知症にならない。元気になるにつれ、もともと嫌いな父との軋轢は増えたし、父や弟の言動にカチンとくることもあって、弟にも協力を求めた。弟家族と相談した結果、義妹の提案により、弟宅のもう使わなくなった1階喫茶店部分を父の居住区にリフォームして、そちらに移ってもらうことにした。父はお金もかかるしと…当初抵抗したが、私も疲れていたので押し切った。田舎で3階建てという家の構造も幸いし、予想に反して田舎道を散歩するなど機嫌よく生活していた。介護は出来るだけ大勢の人(施設も含めて)でみる工夫が必要だ。ずっと父と生活していると義妹も疲れてくるので、当初の約束に反して我が家での同居も入れて、交互にみることにした。1年半から2年ぐらいが同居の限界だった。父と同居している間は父の年金から一定額の費用を私も弟も受け取るようにしていた。弟のところにいた頃、元気になって、自分で近所のコンビ二へお酒を買いに行って飲めるようになっていたが、ある時から体調が目に見えて悪くなり、手のむくみなどお酒が原因と思われる症状もでていた。私のところへ来てから、抵抗はしたが、飲酒をやめさせた。酒をとるか命をとるかという選択では多くの人は命をとるだろう。義妹もお酒の飲みすぎは気にしていたようだが、義理の関係でなかなか言いたいことが言えなかったようだ。飲酒を止め、十分な水分補給を継続すると、元気になり、父はこんなに体の調子がよくなるとは思わなかったと言っていた。交互にみるはずが、父は我が家に居座って動こうとしなくなった。弟家族が皆お酒を飲むのに、自分だけが我慢するのは嫌だと言って。元気にはなったが、実家での一人暮らしはもう無理だったので、父と相談の上、実家は売却したが、古い家で解体費や家財の処分費もかかり、リフォーム代にもならなかった。父は実家に未練はなく、このことで、実家へ帰されることがないと分かってむしろ安心したようだった。父はその間何度かいろんな病気で入院したが治って退院していた。その生命力には父の唯一のファンである姪も驚いていた。父は子ども達が面倒見てくれていることを「ありがたいことだ」と言っていた。しかし、手に負えなくなったら施設のお世話になろうと覚悟して、有料老人ホームの資料を集めると、一昔前のような極端に高額なところばかりでないことも知った。共倒れになってはいけない。しかし、それを伝える時のことを思うと気が重かった。
 令和元年、私はもう限界だったが、弟のところへは行ってくれないまま、父は4月以降体調を崩し、2度の入院後、9月に入院先の病院で老衰で98歳の天寿をまっとうした。入院して1ヵ月、心の準備をさせてくれ(医師からはいつ心臓が止まってもおかしくない状態と言われていた)、前日まで会話が出来て、痛みを訴えたり、苦しんだりすることもなかった。父の死亡時も急だったので立ち会えなかったが、子孝行な死に方であった。悲しいというより開放感の方が大きかった。葬儀は親類縁者も少なくなっていたので、近所の葬儀会館で家族葬で行った。