私は退職後の一時期、カウンセリングの勉強のため、毎週1回、関西カウンセリングセンターのアドバンスコースの講義を受けに大阪市内まででかけていた。カウンセリングの勉強そのものは、非常に有意義であったが、主催者の商業主義に疑問を感じて、次のステップへは行かなかった。事務局長や理事長が変わって変質した。コースを多く作り、しかも受講者の数を増やした。30代の頃は、少数で受講者同士話し合い、学べるアドバンス準備コースというのがあったが、それが理想に近い形だった。
このコースの受講生は200名を超えているが、この中に本当にカウンセラーとなれる資質の人がどれくらいいるかということだ。もっとも某講師の話によると、最近では少なくなったが、カウンセリングの勉強をしている人には、自分が精神的に病んでいる人も相当いるらしい。カウンセラーにならなくても、その人が学んで解決できるならそれはそれでいいと思う。
いくら勉強して知識を持っても、小手先の技法を学んだとしてもそれだけではいいカウンセラーになれないと思う。私は、カウンセリングというのは全人格で勝負するものだと思っている。また、カウンセラーというのは相手の気持ちに共感し、相手の立場になって考えたり感じたりする必要があると言われている。それなのに、人の迷惑を顧みず、遅れてきて講義の途中で入室する人の多いこと。それも後でこっそり聞いているというのならまだ可愛いが、前の方までズカズカ来て、椅子を引いたりして音をたてて座る。気が散ってしようがない。携帯電話も電源を切っておくように言われているのに、講義の最中着信音が聞こえてくる、それでもまだすぐに電源を切らない人がいる。席取りをしないようにと言われているのに、知人の席をとっておいてこっちよと手を振っている人。講義は録音禁止と言われいるのに、机の下にテープレコーダをしのばせて録音している人。教室内は飲料・食物持込禁止と言われているのに、飲料を持ち込んで飲んでいる人、さすがに、教室内で食物を食べている人はいないだろうと思っていたら、お菓子を食べている人がいた。みんなルールを守れず、他人への迷惑を考えず、自分中心にしか物事を考えていない人達である。
いくら授業料を払っているからといっても、このような人たちは人間的にカウンセリングの勉強をする資格がないと思う。
この受講生には、学校の先生や福祉関係の人が多いように見受けられるが、質問などを聞いていると、カウンセリングの本質が全然分かっていないと思うことが多い。1年間の基礎コースを修了したアドバンスコースの受講生でありながら…。例えば、先日、「自殺や殺人がなぜ悪い」という人にどうやって思いとどまらせばいいのか、という質問があった。親や周りの人に迷惑をかけるから、自殺や殺人は罪悪だ、神が許さないから…、そんなことをいくら言っても、その人は自殺や殺人をあきらめないだろう。表面の言葉の裏にある本質が見えない限り、カウンセラーは失格だ。自殺したいという人は、自殺したほど、今、苦しいということを言っているのだ。殺人したいという人は、他の人を殺したいほどそれだけ恨みがあるということなのだ。その苦しみ・憎しみの対象がなくなるまで、その人は自殺・他殺願望をあきらめない。その苦しみ・憎しみが何であるか、そして本人がどんなに苦しいかを聞き、その苦しみを実感として分かってあげることが、カウンセリングというものだろう。自分の苦しみを分かち合える人、分かってくれる人の存在を知って、その人は立ち直りの道を模索する。カウンセラーは決して上の視点からアドバイスを与えたり、何かをするものではない。