Web評論誌「コーラ」51号/哥とクオリア/ペルソナと哥 第75章 人間の言語の三帯域論(メタフィジカル篇・啓後)

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Web評論誌「コーラ」
50号(2023/08/15)

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■演劇の言葉と客観的・公共的言語─メカニカル篇3
 
 人間の(諸)言語をめぐる考察の後半に入る前に、これまでの議論をいったん振り返ってみます。そのうえで、メカニカルな帯域の言語現象の実質を、いますこし「究明」しておきたいと思うのです。
 
 前半の議論の末尾、第68章の最終節に掲げた《図》(人間の言語の二契機と三帯域(Ver.1))にもどります。そこで私が思い描いていたのは、私的言語と純粋言語、これらふたつの(下方と上方から到来する「外部」の)力のはたらきの合成として、人間の(諸)言語の成立や発生を考える、といったことでした。
 このことを(本論考群の眼目である)貫之・定家の歌論と関連づけると、次のようになります。
 
1.海底(地)から海面へと湧きあがる貫之歌論の世界
 貫之現象学A層(錯綜体/夢/映画)のプロセスを経て立ちあがった「人のこころ」(純粋経験)が、B層(コトバ/人間の言語/やまとことば)の階梯を駆けのぼり、「よろづのことのは」へと生長(憑依)していく。「私的言語」がこの地続き(時続き)の運動の起点となり、それが内蔵(内包)する「力と構造」(四つの私的言語)を介して海底火山(絶対無)が詩的マテリアル(クオリア憑きの詞)を噴出する。
 
2.天上界(月世界)から海面へ吹きわたる定家歌論の世界
 純粋経験を語る(示す)私的言語のはたらきを介して公的言語(「ことはり」を記述する「ただの詞」)が生成する。この動態が鏡像反転して(模倣されて)、天上界(月世界)あるいは天外(物狂の世界)の「純粋言語」(絶対者=一者の言葉)が地上世界に向かって転落(受肉もしくは受言=預言)し、エーテル的・天使的な意味を孕んだ「存在の風」が吹きわたる(「あはれ」を伝達する「文(あや)ある詞」が撒き散らされる)。
 
 第69章から前章までの長い挿入は、このふたつの世界のあいだを披いていく探究の記録だった、とそう括っておいていいだろうと思います[*1]。そして、その探究の結果得られたもの、すなわち、人間の(諸)言語の三つの稼働域の要となるコア部分(狭義のメカニカルな帯域)に見出された「演劇の言語」と「客観的・公共的言語」(私的言語と対比させて言えば「公的言語」)の対立が、実は、定家歌論における「文ある詞」と「ただの詞」の二類型に対応していたというわけです。
 
 ……一方に、深層意識もしくは絶対無(無分節1,A(神)1)に根差した「狂気1」や、高層意識もしくは一者(無分節2,A(神)2)から降りきたる「狂気2」との間を自在に往来する「導管[duct]」(≒「振る舞い[conduct]」)を具えた(呪術的)言語があり、他方に、そうした変性意識の軛から脱し、世界の事物事象、歴史や社会や個人という現象を客観的かつ公共的に過不足なく表現する(制作する)明晰で透明な(論理的)言語がある。……
 
 いま、理念的なかたちで述べたふたつの言語のあいだの矛盾や相剋をどうとらえるか、というより、両者のあいだの前後関係、生成関係をどうとらえるのか。たとえば、前者(呪術的言語)を音声言語として、後者(論理的言語)を文字言語としてとらえるのは、単純化がすぎるとはいえ、ひとつの有望な方法(創造的誤読ならぬ戦略的・創造的な誤謬推論)ではあり得るだろうと思います[*2]。そして、このことが、次章からはじまる後半の議論のテーマになるわけです。
 
[*1]貫之と定家の「あいだ」には俊成がひかえている。
 
3.赤光から緑光へと海面を曳航する俊成歌論の世界
 相互に包摂し合う二つの歌論世界の中間(はざま)にあって両者を媒介するもの、すなわち(母型・憑依・模倣の)「モノとしての歌の姿」に(原型・受肉・反復の)「新しき心」を吹き込む俊成歌論の世界(第12章参照)。虚(緑光)と実(赤色)を両端として水平方向に稼働する人間の言語の三帯域(マテリアル/メカニカル/メタフィジカル)の系譜学。
 
 一点補足すると、ここで人間の言語の三帯域が「水平方向」に稼働すると書いたのは、「私的言語(純粋経験)/公的言語/純粋言語」の垂直軸との違いを強調したかったから。「垂直方向(軸)」には絶対的と相対的の二種類があって、「マテリアル/メカニカル/メタフィジカル」の垂直性は相対的なものであると言い切っていいと思う。
(三帯域の核心をなす「メカニカルな帯域」の三葉構造に至ると相対性の段階がさらに進み、ほとんど「水平方向(水平面)」そのものとなる。その意味では、先の一文は次のように書き換えることができる。「虚(緑光)と実(赤色)を両端として水平方向に稼働する人間の言語のメカニカルな帯域(三葉構造)の系譜学。」)
 
[*2]三浦雅士著『人生という作品』の冒頭に置かれた同名のエッセイから。
 いわく、文字、とりわけ象形文字は、人を包み込む始原の言語(声の厚み)とは違う。文字へと向かう痕跡(たとえば洞窟の文様や刺青)と同様、それは自己の対象化を、すなわち世界から離れて自分の身体を「俯瞰する眼」(=霊魂)をもたらした。文字の獲得は超越および超越論的次元の獲得にほかならない。
 声と象形文字、表意文字と表音文字のあいだで、人間は連続と不連続の震動を体験していた。音楽はその(集団的な)震動の場であり、映画音楽はその震動の場を「個人的なもの」にした。
 ──三浦氏は、映画音楽とは見るものを銀幕から引き剥がす(映画に感情移入している自分自身を空中浮遊に似た快感とともに眺める)効果であり、つまり言語の起源(「神の眼」の獲得)を反復するものであると論じている。
《デカルトのコギトは「いま」「ここに」しかいない人間特有の一回性[「私はこの世にたったひとりしか存在せず、たった一度の人生を生きているのだという一回性への信仰」(15頁)]へのこだわり、実存主義的こだわりと無縁ではないが、これはルネサンスに起因するのではない。少なくともドゥンス・スコトゥスの「このもの性」にまで、さらにはアウグスティヌスにまで、いやはるかそれ以前にまでさかのぼれるのである。デカルトのコギトは、文字と同じほどに古い問いにすぎない。》(『人生という作品』20-21頁)
 以上は、声と象形文字をめぐる三浦氏の議論の予告篇。本編はいずれ後章で取りあげる予定。(「文字と同じほどに古い問い」とは、〈私〉の世界のアクチュアリティをめぐるものか、それとも《私》もしくは「私」たちの社会・歴史のリアリティにかかわるものなのか。おそらくその両面が綯交ぜになっているというのが実情だと思う。)
 
■演劇の言葉と客観的・公共的言語(承前)─メカニカル篇3
 
 私は、第73章で、客観的・公共的言語をめぐって、次のように論じました。
 沈黙の声と非人称の文学空間を繋ぎ、統合する演劇の言語のはたらきによって、豊穣で深甚な人間の言語(メカニカルな帯域における)が、すなわち「広義の」客観的・公共的言語が生みだされる。そして、その演劇の言語の媒介力が失われると、人間の言語はやせ細り、「攻撃的で論理的で説明的な言葉」に、すなわち「狭義の」客観的・公共的言語に頽落するのだと。
 たとえば、以下のように述べたとき、私の念頭にあったのは、あきらかに「狭義の」客観的・公共的言語です。
 
 ……演劇の言語と流動的身体が狂気1と狂気2との間で、いわば細胞呼吸のような相互透過関係を取り結んでいる限り、(ひいてはマテリアルな帯域とメタフィジカルな帯域を自在に往来する導管が確保されている限り)、演劇の言語は「今、ここ」という「現実」の成立そのものと一致する。しかし、いったん確立されたそのような透過性が閉じてしまうと、あたかも死んだ細胞によって角質層が形成されるように、「合理的現実と正気を旨とする」客観的・公共的言語と「硬い身体」がもたらされる。……
 
 演劇の言語が「今、ここ」という「現実」の成立そのものと一致するというのは、私自身の(乏しい)観劇体験をやや誇張して述べたもので、次の文は、これをさらに「理論的」に表現しています。
 
 ……純粋なアクチュアリティの痕跡もしくは「お零れ」としての〈思い(感情)〉が〈いま〉〈ここ(現実)〉において、リアリティ(内容)をともなわない(魂をもたない、生命なき)〈私〉の身を通して、声そのもの(演劇の言語、あるいは「演劇のエクリチュール」と言うべきか)として顕現する、表現される。
(「虚[imaginal]」─「実[real]」の水平軸ではなく「空[virtual]」│「現[actual]」の垂直軸における、より精確に言えば「空・虚/現・実」の斜行軸における高次元の「虚実皮膜」。)……
 
 ところで、演劇と狂気の関係をめぐる高橋康也氏の議論を引用したあとで次のように書き記したとき、私は、演劇の言語のはたらきを通じて成立する「広義の」客観的・公共的言語についても、同様に「現実」の成立との一致を見ようとしています。
 
 ……私は、ここで述べられた演劇(祭儀)によって治癒される狂気を「狂気1」(あるいは「クオリア性意識変容」)と名づけ、これと対になるもうひとつの狂気、いわば「上方」からの憑依(神憑りもしくは受肉)によってもたらされ、演劇(悲劇)によって浄化される狂気を「狂気2」(「ペルソナ性意識変容」)として捉えたいと思う。
 そして、そのような(下方と上方、治癒と浄化の二方面で稼働する)演劇の言語を通じた文化の確立(霊・非合理・混沌の排除、リアリズム演劇の成立、等々)のうちに、客観的・公共的言語の成立という、「今、ここ」で起こる──「今、ここ」でしか起こらない、そして「今、ここ」という「現実」の成立そのものである──奇跡的な出来事のフラクタルな反復を見る。……
 
 演劇の言語に関する記述で〈いま〉や〈ここ〉を用い、客観的・公共的言語について「今、ここ」と表記したことに端的にあらわれているように、この文章を書いていたとき、私の表層意識のうちでは、「演劇の言語 > 客観的・公共的言語」とでも表記できる不等式が浮かんでいました。
 この不等式が表現しているのは、次のようなことです。──純粋経験を語る(示す)私的言語に根差した(憑依された)演劇の言語における〈現実〉(〈私〉の世界のアクチュアリティ)と、その私的言語を介して生まれた公的言語=「広義の」客観的・公共的言語における「現実」(《私》もしくは「私」たちの社会・歴史のリアリティ)とは次元が異なる。
 ところが、私の深層意識のなかでは、これとは違った(不等式の符号の向きを逆転させた)アイデアが蠢いていたのです。それは、「奇跡的な出来事」という言葉遣いのうちにあらわれています。第73章ではこのほかに、「沈黙の声」×「演劇の言語」×「非人称の文字空間」=「客観的・公共的言語」の定義式を「奇跡の等式」と名づけていました。それがいかなる意味で「奇跡」なのか、いっさい説明せずに。
 これまで、文脈や論脈に即して、モンタージュの時空や公的言語、日常言語、そして客観的・公共的言語と呼んできた、人間の(諸)言語のメカニカルな帯域の成立を「奇跡」と呼び、その実質について口を噤んだのには、おそらく次のような事情があったのだと思います。
 
 ……メカニカルな帯域における人間の言語=「広義の」客観的・公共的言語の成立を通じて、フラクタルに反復される「今、ここ」という「現実」の成立とは、たとえば英語や日本語が、それぞれの系譜と文法にのっとってそれぞれ固有の世界を、異なる社会や文化を編制していくことを指している。
 しかし、このことを主題的に取りあげて、(ただし、やまとことば=歌詞(うたことば)という人間の言語の特異な、あるいは原初的な形態のコトバのうえに打ち立てられる)主体や社会や歴史を概観するのは貫之現象学C層のテーマであり、そして、それがいかなる意味で「奇跡」なのかを明らかにすることは、定家論理学の世界に属する論点である[*]。……
 
 以上の自己分析は、この先、人間の言語におけるメカニカルな操作(モンタージュ)の素材(声と文字)や技法(アナグラム)について一瞥し、やまとことばのネオテニー性やことだま、詞と辞、そしてアイロニーをめぐる長い迂回を経て、はれて貫之現象学C層に達するまでの間、自分の内部に蠢く矛盾と混乱に耐え抜く力(ジョン・キーツのネガティブ・ケイパビリティ?)を維持するための、個人的な作業でした。
 
[*]これはまだ思いつきの域を出ないが、私は、客観的・公共的言語の圏域内で生まれながらやがてこれを食い破り、逆に自らの内部に包摂(懐胎)するにいたる、私的言語とは真逆のベクトルをもった言語現象を「言語ゲーム」の概念を拡張(借用)して考察してはどうか考え始めている。
 すなわち、〈わたし)や〈いま〉や〈これ〉や〈おもひ〉について“公共的”に語り(示し)、かつそれら(純粋経験)を“客観的”に独在せしめる力を持った、もうひとつの(言わば“上方”から降りきたる)「演劇の言語」を「言語ゲーム」の概念を使って解析することはできないか、そして、その狭義のもの(「弱い」言語ゲーム)を貫之現象学C層の、広義のもの(「強い」言語ゲーム)を定家論理学における課題として位置づけてはどうか、ということである。
(さらなる思いつきを重ねると、「強い」私的言語は“下方”における“無内包の現実性”(純粋経験、空虚な器)に、「弱い」私的言語は“下方”における“第〇次内包のクオリア”にそれぞれ起点を持つのに対して、「強い」言語ゲームは“上方”における“無内包の現実性”(純粋なアクチュアリティ)を、「弱い」言語ゲームは“上方”における“第〇次内包のペルソナ”をそれぞれ終点とする。「弱い」私的言語は“クオリア憑きの詞”を噴出し、「弱い」言語ゲームは“ペルソナ憑きの詞”を撒き散らすと言ってもいい。)
 
■間奏─「地平線」の概念をめぐって
 
 ここで、(水平方向の)補助線を一本引く。すでに前章の註のなかで二度、クレーの「動く画家の視線」や萩原朔太郎と映画の話題に関連して言及したものだ。
 三浦雅士氏の「地平線」の概念は、(空間的にも時間的にも)途方もなく深く長い理論的射程をもった魅力的なもので、私の直観が告げ知らせることに素直に従うなら、それはたとえば次のようなかたちで(前章の《図》の一部として)示すことができる。
 
 〔緑光〕━━━━〔灰色〕━━━━〔赤色〕:「地平性」
 
 この(「リアリティの舞台」と名づけてもいい)「地平線」を、人間の言語における「メカニカルな帯域」に──あるいは、モンタージュというメカニカルな操作がそこにおいて遂行され、その“作品”が“上映”される場(スクリーン)、すなわち「モンタージュの時空」(ギブソンが『視覚ワールドの知覚』で区別して論じた概念を借用すれば、「モンタージュ・フィールド」ならぬ「モンタージ・ワールド」)と──重ね合わせて考えてみたい。
 
 三浦氏は『孤独の発明 または言語の政治学』で、カンブリア紀における「俯瞰する眼」(第三の眼)の獲得と、これがもたらした捕食者・被捕食者間の(あるいは目と目を見交す授乳や対面性交における)「他人の身になる」能力が、言語の誕生につながる二つの条件であると論じていた(本稿第55章参照)。
 この5億年前の出来事と10数万年前に現生人類に起きた出来事(言語の誕生)とを結ぶのが、直立二足歩行に起因する「地平線」の発明である。『スタジオジブリの想像力──地平線とは何か』の議論をコンパクトに要約した、『考える身体』の「文庫版あとがきに代えて 人間、この地平線的存在──ベジャール、テラヤマ、ピナ・バウシュ」から、関連する三浦氏の文章を引く。
《ベジャールの『春の祭典』は、四足歩行を捨てて直立二足歩行を始めた人類が、眼を通常に倍する高さに持ち上げて世界を眺める、その「視点がまるで空中に浮かび上がりでもしたようなたよりない不安」──つまり飛翔──のさなかで、「地平線」というものを発明した、という事実、その経緯を、はっきりと主題化しているのだ、と、私はいまは思っている。
 見渡す限りの平原のさらに向こうに天と地が合する密度の濃い一線がある。その一線が誘う未知への憧れと不安が、人間を人間にしたのだ。いや、それを地平線として発明し、それにかかわる存在としての人間を発明したのだ。ベジャールは、『春の祭典』において、地平線こそ生と死の出会う一線──男女の出会う一線──であり、人間とはすなわち地平線的存在なのだということを、まるで人間という「考える身体」そのものを可視化するように、告知しているのである。》(『考える身体』(河出文庫)311頁)
 男性ダンサーの群舞が「観客をほとんど威嚇している」ことをめぐって。
《ダンサーたちはまさに観客に向かって──自分自身に気づけとばかりに──戦闘舞踊を展開しているのだ。その戦闘舞踊こそ生と死の地平線を形成する行為にほかならない。死を覚悟しない移動──地平線を越え出ること──などありえない。死を覚悟しない性行為──これもまた自分という地平線を越え出ること──などありえない。観客は男性群舞の向こう、いや群舞という現象そのものに生と死の地平線、性の地平線を見出すのであり、見出しているそのことに圧倒されるのである。地平線の本質とは向き合うことにあるのだ、と。地平線の発明と対面性交の発明は別のものではない、と。向き合って食卓を囲むことさえ別のことではない、と。》(『考える身体』(河出文庫)312-313頁)
 いま一つ、「地平線」の発明に関する、生態学的心理学(アフォーダンスの心理学)の提唱者ジェイムズ・ギブソンの「画期的、革命的な発見」をめぐって。
《簡単に言えば、ギブソンは、飛行機が離着陸するとき、パイロットは世界を自分の視点から遠近法的に眺めたりしているのではない、そうではなく、地平線あるいは水平線を基軸にして、そこから眺め返すように自分の位置と姿勢を直接的に把握しているのだということを、発見したのである。(略)私が地平線を見ているのではない。地平線が私を見ているのだ。俯瞰する眼こそが世界の基軸なのだ。》(『考える身体』(河出文庫)332頁)
 2020年11月、日本比較文学会主催のウェブ講演「宮崎駿と比較アニメ学」で、三浦氏は次のように語っている。──人間は見ている対象(地平線)に乗り移ることができる存在だとギブソンは言った。この乗り移りと同時に言語を習得していく存在が人間である。母親が子供に乗り移り、子供は自分に乗り移った母親の身になって自分になっていく。この乗り移り(相手の身になる入れ子構造)がなけれは言語は生まれない。(要点筆記)
 
 これまでのところから抽出できる「地平線」の特質と本質。──天と地が合する密度の濃い一線。未知への憧れと不安を誘う一線。生と死の出会う一線(生と死の地平線)。男女の出会う一線(性の地平線)。向き合うこと、乗り移ること、相手の身になることを本質とするもの。
 次の文章には、さらなる「地平線」の条件、特徴が記されている。──舞踊によって現出させるもの。「遠さ」を条件とするもの。何かがそこから姿を現わすもの。戦闘舞踊を本質とするもの。エピソードを生み、数珠糸となってそれを繋いでゆくもの。
《舞踊と地平線の関係を象徴するもののひとつに能の橋懸かりがあるが、管見では両者の関係、能と地平線の関係、橋懸かりと地平線の関係に言及した文献は、ない。彼岸と此岸を結ぶという解釈がないわけではないが、それを地平線と関連づけたものはない。
 橋懸かりが地平線の象徴であるというのは、必ずしも橋が生と死を結ぶ象徴だからでも、橋の形状が地平線に似ているからでもない。
 橋懸かりが地平線を思わせる最大の理由は、それが、「遠さ」という地平線の条件を完璧に表象しているからである。地平線の特徴というべき、速度において遠くは緩く近くは急という、密度において遠くは密で近くは疎という、遠近そのものにそなわる微妙な違いが、舞台と橋懸かりがかたちづくるあの不思議な「角度」、すなわち舞台に直角にではなく、斜めに遠ざかるように交わる「角度」によって見事に捉えられているからである。
 能舞台は、それそのものが、地平線の現象学になっているのだ。
 鋭い音とともに──そしてまた多くは能管の鋭い音に一瞬遅れて──幕がさっと上がってシテが橋を歩み始めるときのあの遠さは、まさに地平線から姿を現わすものにふさわしい、と私には思われる。
 何という遠さだろう。》(『考える身体』(河出文庫)315-316頁)
 
《…橋懸かりを歩むシテの背後左右には、死者と亡霊が蠢いている──歩行の速度を思うがいい───…、そしてそれこそ世阿弥の言う離見の見──俯瞰する眼すなわち私という死の視線──の本質ではないかと思うが、この役者あるいはダンサーが横並び一線になって観客を脅かし、同時に勇気づけるという手法[戦闘舞踊]こそ、ベジャール、テラヤマ、ピナに共通するものだと思う。
 それこそ地平線の本質なのだ。
 ベジャールもテラヤマもピナも、その舞台の多くは、エピソードのいわばコラージュだが、それが可能になったのは、この地平線という手法によってである。地平線こそがエピソードを生み、数珠糸となってそれを繋いでゆくものなのだ。》(『考える身体』(河出文庫)320頁)
■間奏─「地平線」の概念をめぐって(承前)
 
 前節の作業の続き。──「地平線」は懐かしく優しいもの、人が生きることを許す生態系の別名である。
《地平線への懐かしさは生を許してくれるものへの───極限的には母への───懐かしさである。懐かしさとは懐くことの帰結、反復が許されてあることの帰結なのだ。これがアフォーダンスという造語の含意であると私は思っている。地平線とは生態系の別名にほかならない。》(『考える身体』(河出文庫)336頁)
 「地平線」は人間が発明したもの、体験することができないものである。
《死と地平線は似ている。いずれも実体ではないからである。
 人は死を体験することはできない。地平線も同じだ。人は地平線に立つことはできない。立った瞬間には遠く逃げているからである。だが、物理的に実在しないとはいえ、主観的妄想ではない。客観的に実在する。人に向かって指すことができるからである。ただ、掴んで人に差し出すことができないだけだ。
 死も地平線も、人間が発明したものであることが、これで分かる。同時に、それがなぜ謎を秘めているのかも分かる。死も地平線も、人間の心とともに発達してきたからである。言葉とともに、社会とともに発達してきたと言ってもいい。これからも発達し続けるだろう。死も地平線も言葉にすぎない[*]。だが、恐るべき威力を持った言葉として社会の中心に位置しているし、位置し続けるだろう。
 断るまでもなく、人はひとりでも社会なのだ。私とは俯瞰する眼のことだとすれば、それは当然のことだ。?(『考える身体』(河出文庫)338頁)
 先の講演では次のように語っている。──地平線は実体ではない。世界と自分の関係を外在化したもの(世界を意味づけたもの)である。見つめること、指さすこと(つまり共有すること)はできるが、けっしてつかまえることはできない。つかまえられないが、それはある。近づけば遠ざかる。しかし幻想ではない。
 それは発見されたというより、人間(の視覚の特異性)が発明したものだ。10数万年前に東アフリカに誕生した現生人類の、直立二足歩行という不安定で飛行につながる視覚が生み出したのが地平線だ。地平線への憧れから、人間はブランコや飛行機を発明し、人工衛星まで飛ばした。櫓を組み、塔を建て、もっと高いところを目指した。(要点筆記)
 
 『スタジオジブリの想像力──地平線とは何か』からも、いくつか素材を蒐集しておく。──「現実と幻想の境界線としての地平線」(291頁)、「あの世とこの世を結ぶもの、あるいは隔てるものとしての地平線」(295頁)。
 
◎死の問題、第三の眼、入れ子型の構造
「表現とは畢竟、死の問題ではないか、それは生からの逸脱ではないかという問いは、…進化の途上で「第三の眼」を持ってしまった人間、持たざるをえなかった人間を、不可避的に訪れる問いにほかなりません。世界食み出し存在になってしまった人間の条件、というより、端的に言語の条件にほかならない。ひとつの命題はその命題を発したものにまず当てはまるという問題、自己言及の問題です。すべてが入れ子型の構造をもってしまう。」(209頁)
 
◎内面性の発明、零と無限という文学概念の発見
「…地平線を発明することによって、人間は内面世界を手に入れることができた。つまりその地平線を頭脳空間のなかで拡張、拡大する──たとえば想像し欲望する──ことによって、異次元ともいうべき内面空間を作り上げ、人類は文化そして文明を手にすることになった。」(220頁)
「地平線は概念として「無限」に近く、距離は概念として「零」に近い。…その[距離を測る]起点、すなわち「いまここにこのようにしてあるわたし」なるものが、「零」すなわち「無」、「存在しないもの」として認識されるということは、考えてみればとても不思議なことです。」
「数学という論理体系が発明されるためには零と無限という文学概念が不可欠だったということと、私という現象が発明されるためには距離と地平線が不可欠だったということとは同じことです。…私はこの全体が、外的世界に対する内的世界、すなわち内面性の発明なのだと考えています。」(221-222頁)
 
 最後に、定家詠「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮」をめぐって。
「花と紅葉というたいへん華やかなものを見せて、一瞬のうちに消してしまい、何もない寂しい海辺だけを見せる。花と紅葉の実物はなくとも、その映像だけは残っているので、華やかさとうら寂しさが背中合わせになって、さらにいっそう無を強調することになります。その無のうえに水平線が鋭く引かれるわけですが、読み終えると逆に、水平線のうえに一字、無という語が浮かび上がる仕掛けになっているようです。」(359頁)
 
[*]〈地平線〉とともに世界(現実)は開闢し、言語のはたらきによって世界(現実)が存続する。その世界(現実)において、物理的実在ではないが客観的に実在する概念(持続する開闢)として《地平線》は実在する。──つまり「地平線」とは、永井(均)哲学における「独在的なもの」であると言っていいのだろうか。
 森岡正博との共著『〈私〉をめぐる対決──独在性を哲学する』に収録された対談で、永井氏が、「その事実は存在するけれども、それを言葉で言った時点で意味がなくなるもの」(62頁参照)をめぐって次のように語っている。
《この話、僕の話は結局ね、独在的なものと言葉との対立関係でできているから、そこで実は、心とか人間の主体とかいう話は本当はあんまり出てこないんですよ、本質的には。独在的なものはまったく独在的だから、その本質は心でも意識でも何でもないんですね。何かそういう単独で唯一のものなんですね。言語っていうのはそういう構造を普遍化して一般化したもので、この対立図式なので、そこで主体が何であるとかね、実はロボットであるかゾンビであるとか、そういう問題は本質的には出てこないんです。》(『〈私〉をめぐる対決』75-76頁)
 ここで森岡がツッコみを入れる。「でも掘ると出てくるかも。」永井が応じる。「むしろ出発点がこっちにあって、…普通の人がよく問題にするような「人間とロボットやゾンビはどう違うか」とか、そういう話はあんまり大した話じゃないようにできているんです。構造的に。」
 森岡いわく、「ほんとうはそこへもつながっているんだけど、永井さんの思考がそっちへあんまり何か向かわないということでは」。永井いわく、「つながるんだけど逆方向につなげたいんですよね。こっちの独在性の側からつなげたい。つなげる場合はね」。
 ここで言われる「そっち」には、たとえば三浦雅士の「比較アニメ学」の世界が広がっている。指さすことはできるが物理的には実在しないものの世界。そのような世界を生み出す「地平線」は、やはり「こっち」側にではなく「そっち」側に棲息するものなのだろう。強いて言えば、両界を繋ぐ「橋懸かり」として。
 付言すると、永井氏の発言に出てくる「つながる」は「ウツロヒ」のことであって「ウツシ」のことではない(次節参照)。
 
■貫之・俊成・定家
 
 人間の言語の三帯域論を閉じる前に、貫之・俊成・定家の歌論世界についてあらためて考えてみた。
 
 松岡正剛氏の千夜千冊一七夜「堀田善衞『定家明月記私抄』」に次の記述がある。
《…最初の状態に「空」とか「ない」という‘負の状態’があって、そこに心の動きや風のいたずらのようなものが介入してウツロヒがおこり、そのうえで実在する「現」なるものが流れ出てくるかのごとくリアルに認められるようになるということだ。
 王朝の歌は、このような空無なるウツから現実的なウツツが移ろいながら出てくることを、「あはれ」と思い、また「をかし」と見た。そのような「夢うつつ」による面影の去来をたのしんだ。
 この見方や感じ方は、自分のそのときの心の境遇を現世のウツツの低迷と見て、そこから本来のウツを遠くに幻視するという表現をふやしていった。定家はこのウツとウツツの関係をもっと自由にしたかったのである。ウツからウツツに心が移るだけではすまなくなったのだし、ウツからウツツに進み、さらにはウツツからウツが生めなければおもしろくなかったのだ。
 それには、最初からリアルな「現」を立てて、それを空しく思っていくのでもなく、また最初からヴァーチャルな「空」を想定するのでもなく、いったんそのようなウツとウツツの関係そのものを「負」の状態にして、そのうえでその「負」の状態を強調するための景色を掲げる必要があった。ウツとウツツの両方の関係の中から面影が生じてくることを試みたかったのである。》(『面影日本』)
 松岡氏は続けて「夕暮れはいづれの雪のなごりとて はなたちばなに風の吹くらむ」の例歌を挙げ、そこにウツ(リアルな雲)とウツツ(ヴァーチャルな橘の香り)の往復(ウツロヒ)を見出し、ウツの言葉とウツツの言葉を「交えて、さらにこれらを相対する」定家の言葉遣いの特質(「言葉から出て言葉‘へ’出る」)を指摘している。
 松岡氏の議論の実質を十分に咀嚼・玩味できていないので、以下に述べることは(松岡氏の真意に沿わない)的外れなものになっていると思うが、ここで、「ウツ」を「空=ヴァーチュアリティ【V】」に、「ウツツ」を「現=アクチュアリティ【A】」に置き換え、かつ、この「ウツ/ウツツ」(=「ウツロヒ」)の“現実性”の垂直軸(すなわち無内包の「力」の導管)に直交する、「虚=イマジナル【I】/実=リアル【R】」(=「ウツシ」)の“実在性”の水平軸(すなわちリアリティの舞台=地平線)を設えるならば、俊成系譜学によって媒介される貫之現象学と定家論理学の関係を次のように定式化することができるかもしれない。
 
        【A】
          ┃
       U  ┃  T
          ┃
 【I】━━━━━╋━━━━━【R】
          ┃
      V  ┃  W
          ┃
         【V】
 
 
1.貫之現象学:【V】⇒(W→T→)【A】⇒【(I/)R】
・ヴァーチュアルな「(一の)心」(空虚な器=ウツロなウツワ、洞窟=ウツホ)が「見るもの聞くもの」(W+T)に託けて(憑いて)アクチュアルな「(人の)心」が噴出する。
・アクチュアルな「心」が「地平線」(内面空間、解釈空間、リルケの「世界内部空間」?)を発明する。
 
2.俊成系譜学:【(I/)R】⇒【I(/R)】
・「ウツロヒ(現象)」[↑・↓]ではなく「ウツシ(移し[*1・2])」[←・→]の働きによって、声から姿(文字)へ、リアルなもの(実)からイマジナルなもの(虚)──経験的事実性の裏打ちはないが架空のものでもない、存在論的根拠をもつ内的実在(第40章第3節参照)──へと「地平線」が拡張される。
 
3.定家論理学:【I(/R)】⇒【A】⇒(U→V→)【V】
・イマジナルな「心」(有心、詠みつつある心)が地平線の軛から脱出し、「法外(化外、狂)の心」へと舞い上がる。
・法外の「心」が負の界域(U+V)を下降し(冥界下り)、無心(世阿弥)、虚心(芭蕉)へと極まる。
 
[*1]「うつし」や「うつり」という語が、日本の詩歌論や芸道論できわめて重要な用語として利用されてきたことをめぐる、大岡信著『詩人・菅原道真──うつしの美学』の議論をいくつか引く。
 
「…「移す」という語には、単にある物を別の場面に動かすだけではなく、ある物を別の物に「成り変らせる」、あるいは、もっと正確に言えば、「成り入らせる」行為も含まれているということです。」(7頁)
「…この[色や香りを他の物にしみこませるという]局面において、「移す」という語は、物体や人間そのものの移動を意味する言葉から、物体のエッセンスの、あるものから別のものへの浸透を意味する言葉になる…。露草が移花と呼ばれるのは、まさしくそれが別の紋様に全面的に浸透し、みずからは消滅してしまうからにほかなりません。花は別のもののエッセンスとなってその中に移動したのです。」(8頁)
「…私が「うつし」とは「写し」や「映し」ではなく、まずもって「移し」なのだと考えようとしているのも、異質なもの同士をさまざまなレヴェルで連結することのできるキー・アイディアを求めているからにほかなりません。それはすでに、たとえばシュルレアリストたちが「連通管[ヴァーズ・コミュニカン]」のメタファーで語ろうとしたものでもあったようですが、言うまでもなく私はそれを日本語で考えねばならないというわけです。」(36頁)
 
[*2]坂部恵著『仮面の解釈学』に収められた「うつし身」から。
 
《〈うつつ〉は、たんなる〈現前〉ではなく、そのうちにすでに、死と生、不在と存在の〈移[うつ]り〉行きをはらんでおり、目に見えぬもの、かたちなきものが、目に見え、かたちあるものに〈映る〉という幽明あいわたる境をその成立の場所としている。そこに、〈移る〉という契機がはらまれている以上、〈うつつ〉は、来し方と行く末との関係の設定と、時間の諸構成契機の分割・分節をそのうちに含むものである。》(『仮面の解釈学』195頁)
 
 「幽明あいわたる境」を「地平線」に、「目に見えぬもの、かたちなきもの」を負の界域に属するもの(「見るもの聞くもの」の対極にあるもの)に置き換えよ。
 
(51号に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」50号(2023.08.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第75章 人間の言語の三帯域論(メタフィジカル篇・啓後)(中原紀生)
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