Web評論誌「コーラ」47号/哥とクオリアア/ペルソナと哥 第68章 純粋言語/声と文字/アナグラム(その3)

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Web評論誌「コーラ」
47号(2022/08/15)

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《吉増さんが書かれていたけれど、自分が楽器のようになる、というふうに『わたしは燃えたつ蜃気楼』の中で書いていらっした……。ことばを発音するということはエロティックな行為だと思うのです。というより、最初の行為、始原的なことだと思います。いまの音楽でつまらないのは、つまり詩人が僕たちの音楽で詩を朗読しないでジャズでやっているということは、たぶん僕たちのいまの音楽から官能性が失われているからだと思うんです。僕らの音楽は、詩を朗読したいという気を起させないでしょう?》(吉増剛造との対談における武満徹の発言、ちくま学芸文庫『武満徹 対談集』317頁)
■地上に降りた人間の言語
 
 前章の叙述の大半は、安藤礼二氏の仕事からの引用に終始しました。安藤氏の作品はどれも、原作の面白さを純粋に濃縮し、シャーマンのごとき独特の抑揚(安藤節)でもって語りなおす、高品質の翻案小説のテイストを湛えた極上の読み物で、ややできすぎたところを含め、いったんその表現の磁力にとらわれると脱出できなく(したくなく)なってしまう。それはとても心地よい体験ではあるのですが、しかし、いつまでもまどろみのなかで失語しているわけにもいきません。
 せめてあらためて『言語情調論』や『母型論』などの原典を実地に探測・検分したうえで、それらがもたらす「実感」をもとに、(できれば、憑依と反復、原型と母型といった、前章では深堀りできなかった、言語現象の起源と展開にかかわる諸概念の実質や相互関係を含めて)、地上に降りた人間の言語(音声言語と文字言語)をめぐる自分なりの考察へと進まなければいけない。
 
 貫之現象学B層の第一相(純粋経験/私的言語/アレゴリー)をめぐる議論を通じて、私は、純粋経験(直接経験)が公共的・客観的な言語へと「地続き」でつながっていく、そのプロセスを支える「内部構造」を、私的言語の概念に拠って考察しました。
 ここでいま、鍵括弧をつけて強調したふたつの語(地続きと内部構造)は、この論考群の総題(哥とクオリア/ペルソナと哥)の由来となった、(そしていまなお執拗低音として、上声部で不連続的に継起する変奏群を下支えしている)、永井均著『西田幾多郎』の議論から借用したもので、永井氏は、この書物の中で次の問いを立てていました。これまで何度も繰り返し言及したものですが、煩をいとわず引用します。
 いわく、西田幾多郎が『善の研究』で「直接経験の事実は、ただ、言語に云い現わすことのできない赤の経験のみである」と言うとき、彼は言語では言えないはずのことを言語で言っている。そんなふうに純粋経験について、一般的に語る「言語」を、西田哲学はどこからどうやって手に入れたのか。
《答えは一つしかありえない。それは、純粋経験それ自体が言語を可能ならしめる【内部構造】を内に宿していたから、というものである。「分節化されていない音声」が一つの言語表現になりうるのは、外部から「一定の言語ゲーム」があてがわれることによってではありえない。そうではなく、内側からの叫び[*1]のような音声を自ずと分節化させる力と構造が、経験それ自体の内に宿っていることによって、なのである。》(『西田幾多郎』(角川ソフィア文庫)64-65頁、【 】は引用者=中原による強調)
 永井氏は別のところで、これと同趣旨のことを次のように述べています。
《この議論の肝は、色なら色の、実存と本質が、つまり生の質(クオリア)とそれをつかむ概念が、【地続き】である点にある。概念は外から質を規定するのではなく、無限個の概念を内に含んだ非概念的な質が、その内側からおのれを限定していくわけである。すなわち、「分節化されていない音声」が一つの言語表現になりうるのは、外部から「一定の言語ゲーム」があてがわれることによってではなく、分節化されていない音声を自ずと分節化させていく力と構造が、経験それ自体の‘内に’宿っていることによってなのである。》(『西田幾多郎』(角川ソフィア文庫)89頁、【 】は引用者=中原による強調)
 純粋経験それ自体の内に宿っている「内部構造」。分節化されていない叫びのような音声を、分節化された一つの言語表現(公的言語)へと「地続き」に──入不二基義氏が『現実性の問題』(165頁)で用いた表現を借用すれば、「地続き(時続き)」に──つないでいく「力と構造」。
 私は、それこそが、貫之現象学において「人のこころ」を「よろづのことのは」へと生長させる媒介、すなわち、純粋経験と公的言語を「地続き(時続き)」につないでいく──『西田幾多郎』の段階での永井氏の概念を使って言えば[*2]、「実存(現実存在)=質(クオリア)」と「本質=概念」を「地続き(時続き)」につないでいく──媒介としての「私的言語」である、と考えたわけです。
 
[*1]「内側からの叫び」と言い換えられている「分節化されていない音声」は、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』の次の文章(以前(第62章で)『新版 哲学の秘かな闘い』の永井訳を引いた)に出てくる表現。
《「E」をある‘感覚’の記号と呼ぶことに、どんな根拠があるのか。「感覚」だって、われわれの共通の言語に含まれている語であって、私だけに理解される言語の語ではないのだから。だから、この語を使うにはみんなが了解するような正当化が必要である。──だから、また、それが‘感覚’である必要はないとか、「E」と書くとき‘何か’があるのだ、と言ってみたところで、何の役にも立たない。──しかも、それ以上のことは何も言えないだろう。ところが、「ある」や「何か」もまたわれわれの共通の言語に属している。──そこで、人は哲学をする際に、ついには分節化されていない音声だけを発したくなる地点に達することになる。──しかし、そのような音声が一つの表現であるのは、一定の言語ゲームの中においてなのである。その言語ゲームこそがいま記述されねばならない。》(『哲学探究』T−二六一,『西田幾多郎』(角川ソフィア文庫)61頁)
 「叫び」で連想するのが、「言語一般および人間の言語について」の次の文章。「名は言語の究極の叫び[アウスルーフ]であるだけでなく、その本来の呼びかけ[アンルーフ]でもある」(第九段落、山口裕之訳)。
 語彙が共通するだけで脈絡も論脈もないのに、この符合が琴線に触れた。前章で少しとりあげたウィトゲンシュタインとベンヤミンの「照応関係」が引き続き気になっているからだ。以前(第51章で)「アウラ=論理形式=語りえぬもの」をめぐる議論を引いたことがある。それ以外にも、たとえばカール・クラウスやゲーテ(形態学、色彩論)を通じたつながりなど、興味深い論点がすぐに思い浮かぶ。
 
[*2]「『西田幾多郎』の段階での永井氏の概念」と限定したのは、その後の永井哲学の展開、とりわけ『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』以後(精確には『〈私〉の哲学 を哲学する』以後)の永井氏の議論を念頭に置いてのこと。
 かつて『なぜ意識は実在しないのか』(双書哲学塾版)で「第〇次内包」の概念のうちに包括されていた「意識の私秘性」としてのクオリアと「独在性」の〈私〉(空虚な器としてのペルソナ?)を、その後の永井哲学は「クオリア=第〇次内包の実在性」と「〈私〉=無内包の現実性」とに峻別した、これらの概念を使って本文をさらに書き換えると、「地続き(時続き)」なのは「クオリア」と「概念」なのではなく(それだけではなく)、〈私〉や〈今〉といった無内包の「現実性」(アクチュアリティ)と第〇次・第一次・第二次の内包をもつ「実在性」(リアリティ)だったことになる。
 入不二氏のように現実の現実性(純粋現実性)を無内包の「力」として、純化されたかたちで捉えるならば、「地続き(時続き)」なのは「現実性」と「実在性」なのではなくて、〈私〉や〈今〉といった、物自体(=純粋現実性)の「お零れ」(形式的内包性・相貌性を帯びた「不純な」現実性)と実在性のレベルでの「言語」だった、ということになる。
《無内包への最後の一歩は、‘実質的な内包性’を捨象したあとにも残り続けている、「私」「もの」「世界」「今」等の‘形式的な内包性’をも捨象することである。すなわち、人称性や個体性や場所性や時制性として残存している内包性からも離脱するとき、「この私─このもの─この世界─この今」を貫通する「これ性」は、無内包の「力」として純化される。》(『現実性の問題』285-286頁)
 
《私は、本書を通じて一貫して、現実の現実性が無内包の「力」であることを強調してきた。それは、現実(性)が、内容でも形式でもなく(質料でも形相でもなく)、個体でも一般者でもなく、存在でも無でもなくて、あらゆる対立項に対して貫通的に働くからであった。また(対立項に対して貫通的に働くだけでなく)、論理・様相・時制・人称(視点)の各々の「相貌」を生成変化させつつ(時には潰しつつ)、経巡るものこそが「力」としての現実性であった。》(『現実性の問題』314頁)
 ──余談ながら、入不二氏の文章に出てくる「人称性や個体性や場所性や時制性」と「この私─このもの─この世界─この今」と「論理・様相・時制・人称(視点)」の四つ組(これに「内容と形式、質料と形相、個体と一般者、存在と無」を加えていいかもしれない)と、(私が勝手に考えている)〈私〉と〈今〉と〈現実〉と〈感情〉をめぐる四つの私的言語との関係が気になる。
 
■地上に降りた人間の言語、承前
 
 それでは、貫之現象学B層の第二相をめぐる、いままさに進行中の作業を通じて、私はいったいなにを追い究めようとしているのか。それは、永井氏が呈示した、西田哲学における第二のアポリアにかかわってきます。
 その問いとは、「私と汝」で西田は、「他人と私とは言語とか文字とかいう如きいわゆる表現を通じて相理解する」や「音とか形とかいう物体現象を手段として相理解する」と書いているが、どうして、「直接に結合」していない私と他人がそれらを通じて「相理解する」ことができるのか、というもの(120-121頁)で、永井氏によると、西田はこの問いに答えることに成功していない(成功した人は今のところ誰もいない)が、それがなぜ哲学的な問いであるのか、そのことの意味を深めることには成功した。
《これは、西田哲学を離れて一般的にいえば、他者(私と同じ種類の他の者)の成立と言語の成立は同時にしか指定できないということである。つまり、複数の人間が対等に存在している状況から言語の発生を論じるのは、哲学的には論点先取なのである。もちろん、時計や貨幣や道徳の成立についても同様のことはいえるが、言語は、(客観的)世界そのものがそこから始まる基盤であるから、はるかに根源的である。》(『西田幾多郎』(角川ソフィア文庫)130頁)
 ここで言われる他者の成立と言語の成立の同時性は、経験的・歴史的な次元の話ではなく、超越論的・超歴史的な(「インメモリアルな過去」や「過去自体」や「純粋過去」などと表現される、言語成立以前という〈時間〉の帯域に属する)出来事で、このような意味での「他者」(他の〈私〉)と「対等に存在している複数の人間」(他の「私」)との関係に類比的なのが、「純粋言語」とバベル後の「何百もの人間の言語」(「言語一般および人間の言語について」第二一段落)との関係です。
 ベンヤミンが挙げた例で言えば、ドイツ語の‘Brot’とフランス語の‘pain’が同じもの(パン)を意味していることから言語の本質を語りはじめること、ひいては、ドイツ語とフランス語が「対等に存在している状況」(親縁性)から言語の発生を論じるのは、論点先取の誤謬を犯している。‘Brot’と‘pain’が志向=意図していることは確かに同じものだが、それを志向=意図する仕方は違う。「これら二つの言葉はドイツ人とフランス人にとってそれぞれ異なるものを意味し、両者にとって入れ替えることのできないものであり、さらに最終的には互いに相容れないものとならざるをえない」(山口裕之訳「翻訳者の課題」第七節)。
《二つの言語の親縁性は、歴史的な親縁性を除外して考えるとすれば、どこに求めることができるだろうか。文学作品の類似性のうちに求めることはできないし、まったく同じように作品の言葉の類似性に求めることもでない。むしろ、諸言語のあいだに見られる、歴史を超えたあらゆる親縁性は、いずれも全体をなしているそれら個々の言語のうちに、それぞれある一つのことが、しかも同一のことが意図されているということに由来するものである。しかしながら、その同一のものに、個々の言語は到達することができない。到達できるのは、互いに補完し合うそれら諸言語の志向[インテンツィオーネン]の総体だけである。それはつまり、純粋言語である。》(「翻訳者の課題」、山口裕之編訳『ベンヤミン・アンソロジー』94-95頁)
 互盛央氏は、『言語起源論の系譜』の終章、ベンヤミンの言語論を取りあげた文章のなかで、「歴史を超えた」純粋言語を「非人称の中動態的な言語、「一般意志」とともにある言語」(389頁)と規定し、超越論的な純粋言語と経験的な諸言語との関係をめぐって次のように論じています。
 いわく、純粋言語の志向=意図がその現れ(‘Brot’や‘pain’)とは無関係にあらかじめ存在しており、‘Brot’や‘pain’は純粋言語の志向=意図をそれぞれの仕方で表しうる自律的な言葉だ、とする考え方から導き出されるのは、言語をただの道具=記号としてとらえるブルジョア的言語観である。そしてそのことが、のちに「言語の多数性」という結果をもたらす(「言語一般および人間の言語について」第一九段落)。
 このバベル後の「何百もの人間の言語」による何百もの言葉(‘Brot’や‘pain’)でもって事物が名指されることをベンヤミンは「過剰命名」と呼んだ。互氏は、この語を含む一節(「言語一般および人間の言語について」第二一段落)に、「それが考える(Es denkt)」という、デカルトの「われ思う」に対峙させられた表現を含むニーチェのアフォリズム(『善悪の彼岸』第1章第17節)を並置し、「ニーチェが喝破したとおり、非人称の中動態的な言語を使って「それが考える」と言ったとしても、それでもそれはすでに「言いすぎ」、すなわち「過剰命名」なのだ」(391頁)と書く。
《「神」は、人間が「神」の言語を通して認識したものに命名する、という課題を人間に与えた。「神」の言語は、そして「純粋言語」は、超越論的な次元に見出される。それゆえ、その言語を素材として創造された「自然」もまた、その本質は超越論的な次元に見出されねばならない。だから、その本質を完全に言い当てることのできる言語は、声も文字も必要としない。だが、片や人間はといえば、「大地の塵」を素材として生まれ、それゆえ経験的な次元にあるほかない。そのような人間に「神」の課題を果たすことなど、どうしてできるのか…。》(『言語起源論の系譜』392頁)
 ベンヤミンはそのように自問し、一人の先人、すなわち「北方の博士」ハーマンの名を挙げる(「言語一般および人間の言語について」第一八段落)。以下、ベンヤミンの思考を追跡し、互氏は次のように括っている。「「言語の起源」は「神」のみにあるのでもなく、人間のみにあるのでもない。「神」が人間のもとに降りてくることで、「神」の言語は人間の「口」にも「心」にも宿る。」(395頁)
 
 このあたりのこと、とりわけ純粋言語の「無人称」性と「無態」性(入不二氏の議論に依る、本稿第62章第5節の「追補」参照)を執拗に追い詰めていくと、西田幾多郎が答えられなかった(と永井氏が言う)哲学的な問いへのひとつの解、そこまでいかなくとも、見晴らしのきいた眺望のようなものを手に入れることができるかもしれません。しかし、それはおそらく(「世界」や「主体・他者」や「歴史」の概念をめぐる)貫之現象学C層を本籍とするテーマだと思うので、これ以上は深追いしません。
 ここで論じるべき事柄は、純粋経験を語る(示す)私的言語や、何ものをも意味せずいかなる表現=伝達もしない純粋言語といった、人間的経験を超える存在との関係性のもとでの言語の起源、言い換えれば、土(大地の塵)を捏ねて造られ、地続き(時続き)で地上へ湧きあがってくる言語(声と文字)や、天から降りきたって人間の口や心に受肉する神の語(意味)といった、経験的な人間の言語(地上の諸言語)の成立や発生をどうとらえるか、ということです。
 
■「ソクラテスは哲学者である」の三つの水準
 
 ここで補助線を引きます。
 『現実性の問題』第3章第1節「事実性と様相」の議論のなかで、入不二氏は、「ソクラテスは哲学者である」という命題には、次の三つの水準が絡み合って働いていると書いています。
 第一、「現実性」の水準。ここで言う「現実性」は「現にソクラテスは哲学者である」の「現に」という働きそのもの(命題の外側で働く透明な力)のことあり、「(現に)どうであるか」という内容性とは無関係である(現実の無内包性)。
 第二、「事実性」の水準。そこでは、特定の命題内容を持つことと「端的さ(の痕跡)」とが結合している。「ソクラテスは哲学者である」は、端的な事実から「(哲学者)である」という肯定的な事実へと相対化され、「哲学者でないこともありうる」可能性の空間内に位置づけられる(最小様相化)。
 第三、「様相(システム)」の水準。命題内容としての「ソクラテスは哲学者である」は「様相」(可能・必然・偶然・不可能)に対して開かれ、「ソクラテスは数学者である」や「ソクラテスは鍛冶屋である」等々の複数の可能世界の中の一つがこの現実世界であるという相対化にまで進む。
 これら三つの水準が絡み合い、力動的に働く場において、第一の水準から第三の水準へと向かう「様相化(相対化)」のベクトルと、第三水準から第一水準へと向かう「現実性純化」のベクトルが鬩ぎ合っている。
《[ラッセルは命題に適用できるのは真理値(真・偽)であって様相ではない、つまり「命題は様相を持たない」と言ったが、]命題内容[=第三水準]としての「ソクラテスは哲学者である」ならば、もちろん様相へとすでに開かれている。「命題は(その内容においては)様相を持つ」。単に否定の可能性へと開かれているだけでなく、肯定的な複数可能性へと開かれている。
 しかし、命題内容の‘実際の成立’[=第二水準]としての「ソクラテスは哲学者‘である’」ならば、様相へと開かれていないわけではないが、その度合いは縮小する。その「‘である’」(肯定形)には、事実であることの端的さが刻まれているからである。「端的さ」は非様相性を志向する。「命題は(その実際の成立においては)様相を縮減させる」。事実であることの端的さとは、可能性の空間内部に留まりつつも、その空間を閉じようとしていることに相当し、様相の際を表す。
 さらに、「ソクラテスは哲学者である」は、命題内容とも事実性とも違う「現実性の水準」[=第一水準]も含む。「ソクラテスは哲学者である」は、「現にソクラテスは哲学者である」の純化された表現とも言えるからである。逆に言えば、事実性の水準は、様相の(閉じつつある)湧出口である。
 ここでは、「‘現に’ソクラテスは哲学者である」→「φソクラテスは哲学者である」→「ソクラテスは哲学者である」という純化の過程が想定されている。「現に」という現実性は、一番外側で働く透明な力であるからこそ、副詞句として顕在化されないほうがより純度が増す。だからといって、「φ」によって副詞句「現に」の消去を表してしまうと、「取り消し(否定)」という不要な過剰が加わってしまう。そこで、顕在化も過剰もなしで済まそうとすれば、「ソクラテスは哲学者である」へと戻ってしまう。こうして、現実性を純化しようとすると、命題内容としての「ソクラテスは哲学者である」や事実性としての「ソクラテスは哲学者‘である’」と、(少なくとも表面上は)一致して区別がつかなくなる。逆に言えば、「ソクラテスは哲学者である」は、「‘現に’ソクラテスは哲学者である」の純化された表現として捉えることもできる。このように命題内容に【憑依】しつつも、その内容とは無関係に働く水準の「現実性」は、様相を持たない(現実性は無様相である)。したがって、「命題も、‘純化された現実性の表現として見れば’、様相を持たない」。》(『現実性の問題』95-96頁、【 】は引用者=中原による強調)
 入不二氏が論じている「三つの水準」は、永井哲学の表記法を用いて、たとえば次のように変換することができると思います。
 
 第一、独在性の水準:この世界に〈φ〉と言えるただ一つの〈φ〉が在る。
 第二、単独性の水準:この世界に《φ》と言えるただ一つの《φ》が在る。
 第三、公共性の水準:この世界に「φ」と言えるただ一つの「φ」が在る。
 
 ここに導入したφは、入不二氏が用いた副詞的用法とは、そのはたらきが違います。とりわけ山括弧(二重否定)で囲まれた〈φ〉は、永井哲学で言うところの「物自体のお零れ」、すなわち〈私〉や〈今〉を表現していて、純化のベクトルがゆきつく現実性の際、ただ「在る」としか言えない「純粋現実性」の段階にいたって、その姿を消し去る(〈 〉)はずのものなのです。
 永井哲学への接続[*]、あるいは四つの私的言語の「発展」過程との関連性をめぐる議論など、興味深い論点はいくつか思いあたりますが、それらをうまく展開するだけの思考の蓄積をもちあわせていないので、ここでは、入不二氏が使った「憑依」という語彙に注目したいと思います。
 
[*]永井哲学への接続(というか、接点)をめぐって。
 入不二氏は、2020年09月18日付けのツイッターの記事に添付された「MK氏への応答」で次のように書いている。いわく、永井哲学における「現実性(actuality)/実在性(reality)」の区分に対して、入不二哲学は「現実性─事実性─内包性」の3分類(とそのオーバーラップ)で構成され、ここでの事実性は現実性と内包性が重なった中間的な位置づけになる。
《その分類で考えた場合には、「実在性=事象内容性」は、「事象性+内容性」なので、その点では上記3分類の中間である事実性のポジションに対応します。大ざっぱに言えば、「事実性≒実在性」とも捉えられます。
 しかし、「≒」が「=」になるためには、「現実性=事象性」にならないといけませんが、ここにはズレがあってけっして「=」にはなりません。「事象性」は、「内容(概念)性」からの〈突出〉としての「実際に」という在り方なので、それは可能性の文脈の内でも十分に成立する〈突出〉です。一方、「現実性」は、そういう可能性の文脈の内にない(無様相の)〈突出〉です。現実性が最も外側で働く力であるというのが、この最大の〈突出〉に他なりません(最大の〈突出〉は、もう〈突出〉でさえなくて〈ベタ〉だと言いたいところですが、その点は後述の「浸透」にも関係します)。(略)
 結局そのズレが、「現実性─事実性─事象内容性(実在性)─内包性」の4分類への移動を駆動しているわけです…。さらに言えば、一番左の「現実性」は、純粋現実性のことを考えているわけですが、その現実性自体が可能性の空間や内容性の領域に埋め込まれて、現実性は事実性の水準としても、事象内容性(実在性)の水準でも、内包を伴う水準でも働くことになりますから、一番左の現実性は、力として二番目以降の内に入り込んで来る(浸透する)ことになります。この点を、[『現実性の問題』の「追記とあとがき」で]Actu-Re-alityという造語に籠めたつもりです。》
■「ソクラテスは哲学者である」の三つの水準、承前
 
 純粋現実性、すなわち命題の外側にある「現に」という見えない力が、命題内容に「憑依」しつつも、その内容とはまったく無関係に、透明なままにはたらいていること。(ここで私は、前章で引いた文章(「井筒俊彦 ディオニュソス的人間の肖像」)のなかで、安藤礼二氏が「憑依という言語現象」をめぐって次のように書いていたことを想起している。「「憑依」とは言葉の論理を打ち破り言葉の呪術を解放する方法、言葉の「外延」という外部を切り裂き言葉の「内包」という内部を露呈させる方法なのだ。預言者とは、「憑依」を介して、有限の人間の言葉を乗り越えて無限の神の言葉へと到達した者、言葉の「外延」を乗り越えて言葉の「内包」へと到達した者のことだった。」)
 入不二氏はまた、別のところで、「一番外側で透明に働く現実性が、自己顕現性(現実性の受肉化)を行う」(第2章「現実性と潜在性」、79頁)とか、「現実性が「受肉化」して転落していく中途にあるのが「事実性」である」(第6章「無関係・力・これ性」の註15、229頁)とも書いています[*1]。「憑依」と「受肉」、これらの言葉遣いを正す、というか私なりのターミノロジーとして整理すると、その概略は次のようになります。
 
1.命題の外側で働く透明な力が命題内容に憑依するというとき、下方から(私的言語の圏域から)の憑依と上方から(純粋言語の圏域から)の憑依を考えることができる。前者を「(狭義の)憑依」、後者を「受肉」と名づける。
 
2.言語現象における垂直方向の二力(下方からの憑依と上方からの受肉)の合成を通じて、水平方向に展開される客観的・公共的な人間の(諸)言語が成立・発生する。私的言語{↑}×純粋言語{↓}=人間の言語{→}。
 
3.私的言語{↑}の圏域にはたらく透明な力の媒質を「詩的物質」と、純粋言語{↓}の圏域における透明な力の媒質を「エーテル的意味」とそれぞれ命名する。
 
4.人間の(諸)言語の稼働圏域は、詩的物質にかかわる「マテリアルな帯域」、エーテル的意味にかかわる「メタフィジカルな帯域」、そしてこれらふたつの帯域の中間(はざま)にあって、連辞と連合の操作(モンタージュ)が展開される「メカニカルな帯域」の三層構造をなしている[*2]。
 
[*1]ここで言われる「受肉」は、永井氏が「フィルムと映像の比喩」をめぐる文章(『世界の独在論的存在構造』第8章)の中で使ったそれと同類のものと思われる(本稿第65章参照)。
 憑依、受肉のほか「寄生」という語も用いられる。たとえば『現実性の問題』第4章第2節「時間の動性について」で、入不二氏は「時間変化は、表象的には(認識論的には)他の変化に寄生しつつも、(存在論的には)寄生先の背後で潜在的に独立進行する絶対的な変化である」(145頁)と書いている。入不二氏が考える時間の動性は抽象度が高く、B系列的な一定の方向性さえ持つことができない。「方向性を持てないのは、潜在的な絶対変化は「表象されえない」からであり、また(それでもなお寄生的に)表象される場合には、どちらの方向性(過去→未来、過去←未来)でも表象できなければならない背景変化だからである」(147頁)。
 「潜在的な絶対変化」としての時間は、時計の「文字盤のようにはけっして「見えることがない(今見ることもない)」背景」であり、「しかも文字盤のようには固定されることもなく、むしろ(針の移動の裏面に寄生して)潜在進行し続ける「動く」(しかなく静止が意味を持たない)背景」(149頁)である。
 付言すれば「浸透」(前節の註参照)もまた、憑依、受肉、寄生のシノニムである。
 
[*2]ルソーは『言語起源論──旋律と音楽的模倣について』(増田真訳)の第4章「最初の言語の特徴的性質、およびその言語がこうむったはずの変化について」のなかで、次のように書いている。
《語彙と統語法は別として、最初の言語はまだ存在していたなら、ほかのすべての言語から区別されるような独特の特徴を保っていたのではないか、と私は疑わない。その言語のすべての言い回しはイメージ、感情、文彩からなっていたにちがいないだけでなく、その機械的な部分においてもその言語はその原初的な目的に対応し、みずからを伝えようとする情念のほとんど避けられない印象を、感覚にも知性にも提示していたにちがいない。》(『言語起源論』(岩波文庫)30頁)
 訳注にいわく、「十七、八世紀のフランスの言語論では、言語によって表されること(意味、統辞法)を「形而上学的部分」、音声や表記など感知できる部分を「機械的部分」と分けていた」。
 これを読んで私は、人間の言語を「マテリアル/メカニカル/メタフィジカル」の三つの帯域に分割する着想を得た。詳細は後に触れるが、「マテリアル」は本文で「詩的物質」と名づけたもののこと。いま引いた文章に続けてルソーは、最初の言語では「擬音語」がたえず感じられるだろうと書いているのだが、私が考えている「詩的物質」とはたとえば「擬音語」(や「自然のものである声、音、抑揚、諧調」)のことである。
《自然の声は分節されないので、〔そのような原初的な言語の〕語は分節が少ないだろう。間に置かれたいくつかの子音は、それによって母音の衝突が解消され、母音が流暢で発音しやすくなるのに十分だろう。逆に音は非常に多様で、抑揚の多様性によって同じ声が何倍にも増すだろう。音長やリズムが別の組み合わせのもとになるだろう。つまり自然のものである声、音、抑揚、諧調は、協約によるもの〔=人為的、制度的なもの〕である分節が働く余地をあまり残さず、人は話すというよりは歌うようなものになるだろう。語根となる語はたいてい模倣的な音で、情念の抑揚か、感知可能な事物の効果〔の模倣〕であるだろう。〔そのような原初的な言語では〕擬音語がたえず感じられるだろう。》(『言語起源論』(岩波文庫)30-31頁、〔 〕は訳者による補足)
 同書第1章の訳注にいわく、「抑揚(accent)」は「音の高低の変化」のことで、「ルソーの言語論・音楽論の中心的な概念の一つ」。第4章の訳注にいわく、ルソーは「音(son)」という語に「言語学的な意味だけでなく、音楽的な意味(つまり音程の高低をもった音[おん])をもたせて使っているらしい」。またいわく、「声 voix と母音 voyelle を同一視して子音 consonne や分節 articulation と対立させるのは、当時のフランス語論や言語論で見られる図式だが、声や母音を自然、子音や分節を人為とするのはルソー独自の論法のようである」。
 付言すれば、最初の言語の特徴をなす「イメージ、感情、文彩」や「声、音、抑揚、諧調」や「模倣的な音」や「情念の抑揚」や「感知可能な事物の効果」等々のことを、(つまり私が「マテリアル」の語のうちに込めたいと目論んでいる「身体性」のようなもののことを)、武満徹は「官能性」の語で括っている。
 
■人間の言語の二契機と三帯域
 
 先へ進む前に、もう一本、補助線を引きます。
 『善の研究』第四編第四章冒頭の「神と世界との関係は意識統一とその内容との関係である」という文章をめぐって、重久俊夫氏は、この記述は『大乗起信論』などに見られる「水波の比喩」[*1]を連想させるものであるとして、次のような「解釈図式」を考案しています(『西田哲学とその彼岸──時間論の二つの可能性』6頁)。
 
 A──現象世界の「存在」の根拠。無形相の「場」そのもの、意識統一。(比喩)海
 B──現象世界の「かたち」の根拠。様態、世界、意識内容。(比喩)波
 C──AとBとが重なり合った現実の‘現象世界の全体’。(比喩)波立った海面
 
 いわく、西田幾多郎は「神を無形相の「場」そのもの(A)として表現する。無形相だからこそ、それはあらゆる事物の背後にあり、現象世界の‘全体’をその上にあらしめることができる」。一方、「神と世界との関係は意識統一とその内容との関係である」は、「神(A)と世界(B)が一体不可分、すなわちCであることを主張する」。「このことは。相異なるAとCが同一の神の両面に他ならず、矛盾をはらんだ「AかつC」の全体が、ここでいう神であることを示している。」(6-7頁)「AかつC」すなわち「内在的超越」(74頁)。
《『善の研究』は、宇宙の根本である「神」について、次のような証明を提出している。すなわち、事物が何らかの相互関係を有し、互いにかかわりを持つためには、それらを含めた全体が一つの「場」として現れていなければならない。そのことから、世界全体を包括する「神」の観念が要請される。たとえば、人がなぜ他人の話を理解できるのかを考えてみる。空気の疎密波が音を伝え、脳の物理化学的な作用が一定の意識現象を生み出すというのが常識的な解釈であろう。しかし、物理現象が意識現象を生み出すことは考えられない。そのため、一つの普遍的な「場」(神)の中に包まれることで伝達が可能になるというのが西田の解釈となる。
 こうした一切を包む神を、『善の研究』は「AかつC」の形で説明する。Aとは、現象世界の「存在の根拠」である無形相の「場」であり、Cとは、AとB(現象世界の「かたちの根拠」)が重なり合った現実の現象世界である。神が「AかつC」であることは、「世界超越的なAが自己限定(ないしは自己否定)して、世界内在的なCになる」という形でも表現される。その場合の神(A)の別名が、「一般者」「絶対者」「絶対無」である。》(『西田哲学とその彼岸』54-55頁)
 重久氏の解釈図式は、融通無碍のところがありますが、その分、使い勝手のいい汎用性に富んだ概念装置でもあるので[*2]、以下、次の作業手順にしたがい、本稿の関心に即した私的改変を施したうえで、言語現象の水平的な稼働圏域にかかわる「力と構造」を表現する模式図もしくは地勢図をこしらえることにします。
 
1.「神(A)」を、私的言語の圏域における「絶対無(A1)」と純粋言語の圏域における「一者(A2)」に分割する。
 
2.「絶対無(A1)」を起点とする超越論的公式「(A1かつB1)⇒C」を、人間の(諸)言語の稼働圏域(C)のうちに落とし込む。すなわち、「存在の根拠」である「絶対無(A1)」が「現象世界(C)」において憑依する「かたちの根拠(B1)」を「母型」の概念でとらえ、その稼働原理を「模倣」として抽出する。かくして「母型(海)/模倣(波)/言語現象(海面)」の模式図・地勢図を得る。
 
3.上記の作業を鏡像反転的に反復し、「一者(A2)」を起点とする操作「(A2かつB2)⇒C」を、人間の(諸)言語の稼働圏域(C)のうちに落とし込む。すなわち、「存在の根拠」である「一者(A2)」が「現象世界(C)」において受肉する「かたちの根拠(B2)」を「原型」の概念でとらえ、その稼働原理を「反復」として抽出する。かくして「原型(風)\反復(波)\言語現象(海面)」の模式図・地勢図を得る。
 
4.これら二つの模式図・地勢図を合成して、人間の(諸)言語の稼働圏域における「母型・模倣/言語現象/原型・反復」∽「マテリアルな帯域/メカニカルな帯域/メタフィジカルな帯域」の解釈図式を得る[*3・4]。
 
   《図》人間の言語の二契機と三帯域(Ver.1)
 
         【現】
   ε………… ≪一者≫ …………
          ↓
         <受肉>
          ↓
   δ==== ≪原型≫ ====
          ↓
         <反復>
 
【虚】γ━━━━━━━━━━━━━【実】
 
         <模倣>
          ↑
   β==== ≪母型≫ ====
          ↑
         <憑依>
          ↑  
   α…………≪絶対無≫…………
         【空】
 
 ※ε:天
  δ〜ε=純粋言語の圏域:風
  β〜δ=人間の(諸)言語の稼働圏域:波(β=谷、δ=山)
   γ〜δ=メタフィジカルな帯域:風
   γ  =メカニカルな帯域(モンタージュの時空):波(海面)
   β〜γ=マテリアルな帯域:海
  α〜β=私的言語の圏域:深海
  α:地
 
[*1]井筒俊彦著『東洋哲学覚書 意識の形而上学──『大乗起信論』の哲学』に「世に有名な『起信論』的比喩」について書かれたくだりがある。
 
《風に騒ぐ海。水茫々たる海面を、飄々と風が吹き渡る。吹き渡る風の動きにつれて海面は波立つ。風の動き、水の動き。二つの動きは全く‘同時’であって、間髪を容れる余地もない。というより、二つは同じ一つの「動」なのだ。(略)
 現象的には、風の動きと水の動きとは同時的不離の関係にあって、時間の上では絶対に区別できない。だが構造上、あるいは本性上は先行・後行のズレがある。
 この比喩の内部構造を、もう少し詳しく、理論的に分析してみよう。
 風に波立つ海。注意すべきは──とはいっても、実は、わざわざ指摘するまでもないことかもしれないが──現実の海の景色を描いているわけではない。「風に波立つ海」のイマージュの繰りひろげる象徴的記号空間が問題なのだ。
 この記号空間を支配する意味象徴のシステムにおいては、「風」は「動相」を意味し、「水」は「湿相」を意味する。言い換えるなら、「風」は‘動という様態’の比喩、「水」は‘湿という様態’の比喩なのである。
 この記号システムの構造に関するかぎり、「風」は本性的に「動」そのものであり、「水」は本性的に「湿」。だが「水」には、もう一つの、第二次的・偶有的様態があり、それが「動」である。
 そこで、「風」が吹くとき、すなわち「風」がその本性的様態である「動」の境位にあるとき、「水」の第二次的・偶有的様態としての「動」性が、「風」の「動」性に呼応して発動し、「風」と「水」とが‘同時に’、同じ一つの動きとなって動く。二つの「動相」のあいだには毫末の差異もない…。
 現象的には「風」と「水」とは共通の「動相」を通じて不離一体の関係にあって、動きに関するかぎり全然区別できない、つまり一緒に動いている。
 だが、いまわれわれが論題としている象徴的記号空間においては、さっきも言ったように「風」は本性的に「動相」そのものであり、動相‘だけ’であるのに反して、「水」の「動相」は「水」の本源的・第一次的様態ではない。だから、「風」の「動相」が消えれば、同時に「水」の「動相」も消えてしまう…。これに反して、風が吹きやんで「風」の「動相」が消えるとき、それにつれて「水」の「動相」だけは消えるけれども、「水」の本性的様態である「湿相」は絶対に消えない。》(『意識の形而上学』(中公文庫)138-141頁)
 
 井筒俊彦はここで「風」を現象的「有」の次元における「不覚」の比喩として、「水」を同じく「本覚」の比喩としてとらえている。そして、『起信論』は「現象的「有」の次元に働く「本覚」が、たとえ「アラヤ識」の群れなす妄象の只中にあって、現象的「染」にまつわりつかれ覆い隠されて、表面的には「不覚」と見まがうばかりになっているとはいえ、深層的には、実は、本来の清浄性を、そのまま、一点の損傷もなしに保持している」(138頁)ことを納得させるために、「風に騒ぐ海」のイマージュを提示したのだと説いている。
 
[*2]重久氏はある箇所で、Aを「映写機の光源」に、Bを「映写機のフィルム」に喩えている(75頁)。この流れでいくと、Cは「スクリーン」に相当する。(私はこれを、モンタージュというメカニカルな操作がそこにおいて遂行される場、すなわち「モンタージュの時空」と呼びたいと思う。──備忘のため付記しておくと、重久氏は「映画の映らない[無の]スクリーン、波の立たない海」(214頁)という表現を、否定的な論脈のなかで用いている。)
 この比喩を踏まえるならば、重久氏の解釈図式は、人間の(諸)言語の水平的稼働にかかわる三帯域に対応づけて、次のようにとらえることができるだろう。「A=存在の根拠/B=かたちの根拠/C=現象世界」∽「a(光源)=メタフィジカルな帯域/b(フィルム)=マテリアルな帯域/c(スクリーン)=メカニカルな帯域」。(「a」「b」は、超越論的次元における「A」「B」が憑依もしくは受肉を通じて経験的世界「C」の内部に繰り込まれた対応物を指す。「c」は狭義の「C」(=a+b+c)を指す。)
 また別のところでは、Aを「純粋質量」、Bを「純粋形相」とも呼んでいる(136頁)。この場合だと、先の対応関係は「A=純粋質量/C=現象世界/B=純粋形相」∽「a(海)=マテリアルな帯域/b(海面)=メカニカルな帯域/c(波)=メタフィジカルな帯域」ととらえるのが自然である。
 本文の「作業手順」では、これらの構図を便宜的に組み合わせて使用した。
 
[*3]私的言語と純粋言語、これらふたつの(下方と上方から到来する「外部」の)力のはたらきの合成として、人間の(諸)言語の成立や発生を考える。このことを貫之・定家の歌論と関連づけると、次のようなかたちになる。
 
1.海底(地)から海面へと湧きあがる貫之歌論の世界
 貫之現象学A層(錯綜体/夢/映画)のプロセスを経て立ちあがった「人のこころ」(純粋経験)が、B層(コトバ/人間の言語/やまとことば)の階梯を駆けのぼり、「よろづのことのは」へと生長(憑依)していく。「私的言語」がこの地続き(時続き)の運動の起点となり、それが内蔵(内包)する「力と構造」(四つの私的言語)を介して海底火山(絶対無)が詩的マテリアル(クオリア憑きの詞)を噴出する。
 
2.天上界(月世界)から海面へ吹きわたる定家歌論の世界
 純粋経験を語る(示す)私的言語のはたらきを介して公的言語(「ことはり」を記述する「ただの詞」)が生成する。この動態が鏡像反転して(模倣されて)、天上界(月世界)あるいは天外(物狂の世界)の「純粋言語」(絶対者=一者の言葉)が地上世界に向かって転落(受肉もしくは受言=預言)し、エーテル的・天使的な意味を孕んだ「存在の風」が吹きわたる(「あはれ」を伝達する「文(あや)ある詞」が撒き散らされる)。
 
 相互に包摂し合うこれら二つの歌論世界の中間(はざま)にあって両者を媒介するもの、すなわち(憑依・母型・模倣の)「モノとしての歌の姿」に(受肉・原型・反復の)「新しき心」を吹き込む俊成歌論の世界(第12章参照)。虚(緑光)と実(赤色)を両端として水平方向に稼働する人間の言語の三帯域(マテリアル/メカニカル/メタフィジカル)の系譜学。
 
[*4]佐竹昭広氏の「古代日本語における色名の性格」(『萬葉集抜書』)によると、上代日本語の中で、「純粋に色名という名を付して挙げることができる語」は、アカ、シロ、アヲ、クロの四語に尽きる(岩波現代文庫96頁)。アカは「明」、クロは「暗」、シロは「顕」、アヲは「漠」の概念に通じていて、それらは、「色に関する用語なのではなく、実は、「明−暗」「顕−漠」という二系列の用語で、それが色を表わすために転用されたものである」(98-99頁)。
 この佐竹氏の説を「応用」して、私は、次のような色彩配置を考えている。ちなみに、上代日本語の「アヲ」は「ミドリ」を含んでいた。
 
         ≪一者≫
         〔白光〕
          ┃
          ┃
          ┃
 〔緑光〕━━━━━╋━━━━━〔赤色〕
          ┃
          ┃
          ┃
        〔黒一色〕
        ≪絶対無≫
 
 ※黒一色:「暗(クロ)」⇒「空(virtual)」
  白光 :「顕(シロ)」⇒「現(actual)」
  赤色 :「明(アカ)」⇒「実(real)」
  緑光 :「漠(アヲ)」⇒「虚(imaginal)」
 
 「白光」(第56章ほか参照)と「緑光(緑の光線)」(第57章参照)については既出。「赤色」と「黒一色」は初出。このうち「黒一色」(すべての色を混ぜ合わせた色)は入不二基義著『現実性の問題』の議論に依る(45-46頁、151頁、171頁)。
《「黒」という色が(光の場合には「白」が)、(赤・青・黄・緑……等と対比される)「特定一有限色」のように扱いうると同時に、「潜在無限色」でもあるという二重性は、「現実」が可能性の領域の一局所においてもまた潜在性の場の全域においても働くという二重性に対するアナロジーになっている。光の場合の「白」には、この二重性に加えて、「非特定背景無色」という働きも見出せる。「黒」の場合には二重性であるが、光の場合の「白」には三重性がある。その点では、「白」はいっそう「現実」のアナロジーとして相応しいだろう。そのアナロジーを引き継いでさらに付け加えるならば、…垂直の矢印(現実性という力)は、(光の‘色ではなく’)「射し込む光自体」を表していることになる。》(『現実性の問題』45頁)
 
(48号に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」47号(2022.08.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第68章 純粋言語/声と文字/アナグラム(その3)(中原紀生)
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