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■モンタージュとアナグラム─メカニカル篇1
大平氏はまず、古今歌「吹くからに秋の草木のしほるればむべ山風を嵐といふらむ」にあらわれた「知巧的」な技法、すなわち「山」と「風」を組み合わせれば「嵐」になり、「秋の木」が「楸」(ヒサギ)を隠すといった文字遊戯をとりあげて、こうした「会意の原理」(二つの独立した漢字を組み合わせることで新たな漢字が生まれる)にもとづく「漢字のモンタージュ」の発見は、初めて漢字に接した西洋の芸術家たち、たとえばエイゼンシュタインやエズラ・パウンドの驚きでもあった、と議論を進めています。
この、20世紀の映画作家やモダニズム(イマジズム)詩人と古今集歌人に共通する「驚き」は、「漢字という表意文字──より正確には表語文字」に限らず、およそ文字そのものをめぐる外在的な観察によってもたらされるもので、それはちょうど、楔形文字の音と意味の世界に内属する老学者を襲った「文字解体」の体験に伴う「単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか」という驚き(中島敦「文字禍」)と裏腹の関係にあるものだ、と私(=中原)は思います。
《『古今集』において漢字のモンタージュ的性格が発見されるためには、文字に対する意識的な態度が前提となっていなげればならなかったということは、論を俟たない。そして、こうした反省的な態度は、とりもなおさず言語を対象化することへ、云うところのメタ言語意識へと繋がっていった筈だ。
河野六郎によれば、「文字の根本的な言語的機能は究極には表語ということにあるらしい」(十一頁)。となれば、文字の考案は≪語≫という単位の抽出が前提になるはずである。「単位の設定の必要なのは言語学者か文法学者のように言語を反省し観察する者である。<…>それは、文字を作り出した人は必ずその言語を反省したにちがいない」(同書二一頁)。
そうした事情は、初めて文字に接した人々にしても同じだっただろう。況や詩人となれば、そうでない筈がない。ヤーコブソンによれば、ポエジーが現れるのは「語が語として感じられる所」であり(ヤーコブソン 一九八五年、三九頁)、しかも「自動化されて無意識となった表現手段の代わりに、メタ言語的機能は言語の構成要素とそれらの間の関係を活性化する」(ヤーコブソン 一九八四年、一五一頁)のだから。このようにして、語の発見は、それが≪言語の発見≫にほかならぬ以上、『古今集』の歌人たちのさらなるメタ言語意識を呼び起こし、最終的には修辞として結実することになる。》(『天理大学学報42』(1991年)72-73頁)
最後に述べられる「修辞」とは、漢字の場合(嵐=山+風)と同種の仮名文字の分解がもたらす「折句」や「物名」の技法を指しています。
大平氏は、「折句、あるいは二字の物の名を歌の頭と末尾に置く省冠は、シーニュ(記号)のシニフィアン(能記)をシニフィエ(所記)と分離、再配列する手法であり、物名も語境界にまたがって重層的に主題となる──ただし歌意とは無関係な──語を響かせようとする手法である。仮名という音節文字の制限は受けてはいるが、これはアナグラムにほかならないのではないか。」(74-75頁)と述べ、続いて、ソシュールのアナグラム研究とこれを拡張したクリステヴァの「相互テクスト性」の概念、さらには古今集歌の「重層構造」(藤平春男)や「相互テキスト性=ポリフォニー性」、懸詞や引用(本歌取り)の手法がもつ現代性、貫之をはじめ古今集歌人の自我(主体)の「二元的分裂」(大岡信)、といった話題を繰りだしていくのです。
──大平氏の考察は、本稿での私自身の関心事と大きく重なっていて、もっと深掘りしたい項目が多々あるのですが[*]、ここでは、抜き書きした文章中の語彙を使って、人間の(諸)言語のメカニカルな帯域(狭義)とその表裏両面(広義)を含めた三つの層(三葉の透明な皮膜)の静態(と動態)を粗描して、次節につなぎたいと思います。
《表1》メカニカルな帯域の三葉構造(Ver.1)
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★メカニカルな帯域(広義・表)[⇒(狭義)]
・メタ言語意識、メタ言語的機能(アナグラム)
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★メカニカルな帯域(狭義)[⇒(広義・裏)]
・自動化された表現手段(モンタージュ、相互テクスト性)
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★メカニカルな帯域(広義・裏)[⇒(広義・表)]
・語が語として感じられる所(ポエジーの出現)
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[*]本文で言及・引用した箇所から、気になる項目をいくつか(備忘録として)浅堀りしておく。
その一、「知巧的」という見慣れぬ語彙は森重敏著『文体の論理』が出自。以下、同書からの引用。
「…古今集は、みずからのとった対立の概念ないしは言語の発見によって、そこに種々なる知巧的な技術を本質的なものとして発達させることになった。そしてその結果、しばしば極端な知巧歌を現成するに至った。」(226頁)
古今集における「対立の概念」。──「ふりにしいにしへ」と「いま」、形式的な「古」と内実的な「今」の(「今」における)対立(183-184頁)。人麻呂歌「去年見てし秋の月夜は照らせども相見し妹はいや年放(さか)る」における「もの(自然)」と「ひと(人間人事)」の即自性、業平歌「月やあらぬはるやむかしのはるならぬわがみひとつはもとのみにして」におけるそれらの対立性(185-187頁)。
古今集における「言語の発見」。──「人麻呂における「月夜」や「妹」は、個々具体の何年何月何日の月夜、何某の固有名詞をもつ妻に一回きり適用されたものである。これに対して、業平の「月」「はる(はな)」や「わがみ」は、そこに外面的指示を求めるならば、もとより「又のとし」の「はるの月」であり、「五條のきさいのみやのにしのたい」の「むめのはな」であり、業平その人ではあるが、同時に、いな一層根本的には、「月」‘というもの一般’、「はる(はな)」‘というもの一般’、「わが身」‘というもの一般’といった内面的な志向においてあるもの[概念的な言語──引用者註]である。」(194-195頁)
古今集における「知巧的な技術」。──比喩、見立、とりあわせ、縁語、懸詞、擬人化、枕詞、序詞、物名、折句、等々(第三章第五節の目次から)。
その二、河野六郎の引用の出典は「文字の本質」(『岩波講座 日本語8 文字』)。
「思うに、表語文字であれ表音文字であれ、文字の根本的な言語的機能は究極には表語ということにあるらしい。」(11頁)「実は、表音文字の場合でも、表語は依然として文字の根本的機能をなしている。[英語の night と knight の場合、読まれない k が二つの同音の語の文字上の識別に役立つ表語の記号であり、現代日本の仮名遣で助詞の「は」「へ」「を」が表語上の技巧であるように。]」(18-19頁)「…文字の表音は表語の一つの手段に過ぎない…。(略)文字の表音は語を知る一つの手段であ[る]…。」(20頁)
「…言語の使用者にとっては単位[「表語」もしくは「語」あるいは言語学の術語で「形態素」]の設定など必要ではない。単位の設定の必要なのは言語学者か文法学者のように言語を反省し観察する者である。文字の創始者はある意味では言語学者であった。それは、文字を始めて創り出した人は必ずその言語を反省したにちがいないからである。そしてその人はその言語の単位を抽出して、それに視覚形象を与えたはずである。」(21頁)
その三、「ヤーコブソン 一九八五年」とあるのは『ロマーン・ヤーコブソン選集3 詩学』に収録された「詩とは何か?」(大平陽一訳)。
「だが、詩性とはどこに現われるのか? それは語が命名される対象を単に指示するものとしてや、感情の爆発としてでは決してなく、語が語として感じられるところに。語とその構成、意味、外部形式および内部形式が現実の無関心な指示ではなく、固有の重みと価値を獲得しているところになのだ。/なぜこのすべてが必要なのか? なぜ記号と対象が融け合ってはいないことを強調する必要があるのか? それは記号と対象の同一性(AはA1である)の直接的自覚とならんで、その同一性が不十分なものであること(AはA1ではない)の直接的自覚もまた必要だからである。この二律背反は不可欠だ。というのも、矛盾がないなら概念の動きもなければ記号の動きもなく、概念と記号との関係は自動化されてしまい、出来事は停まり、現実の自覚は消えてゆくのであるから。」(39頁)
その四、「ヤーコブソン 一九八四年」は「意識と無意識の問題への言語学的アプローチについて」(池上嘉彦・山中桂一訳『言語とメタ言語』)。
「「メタ言語的機能」とは、発語が言語のコードやその構成部分を直接指してなされているという場合である。(略)メタ言語的操作は…パラフレイズ、同義性を通じて、あるいは省略的な形態を明確に解読することを通じて、話し手の間で十分で正確なコミュニケーションが確実に行なわれるのを可能にする。(略)自動化されて無意識となった表現手段の代わりに、メタ言語的機能は言語の構成要素とそれらの間の関係を活性化する。そしてボアズが繰り返し言及している次のような抜き難い考え方、すなわち、「言語の使用が余りにも自動化し、そのため基本的な概念が意識に昇ってくることが妨げられ」、そして、われわれの思考の主題となる機会もなくなってしまうというような考え、が妥当する可能性を大幅に減らしてしまうのである。」(151頁)
■フラクタルとパランプセスト─メカニカル篇1
大平氏の議論を敷衍して抽出したメカニカルな帯域の三つの層のうち、表側(上方)はメタフィジカルな帯域との、裏側(下方)はマテリアルな帯域との界面になっていること、あるいは、それぞれがそれぞれの帯域の影響圏内にあることは見易いでしょう。メカニカルな帯域の内部構造は、いわば「マテリアル/メカニカル/メタフィジカル」の三帯域の入れ子になっている、と考えてよいと思います。そうだとすると、マテリアル篇、メタフィジカル篇をめぐるこれまでの議論の「成果」が、メカニカルな帯域をめぐる考察のうちに(アナロジカルなかたちで)適用されるはずです。
(a)「メカニカル(裏)/メカニカル(狭義)/メカニカル(表)」
∽「マテリアル/メカニカル/メタフィジカル」
ただし、この比例関係は、メカニカルな帯域の三層うち、表裏両面に限って成り立つものです。というのも、(アナロジカルな)適用の元になる議論が、メカニカルな帯域に固有の(狭義の)部分についてはまだなされていないからです。
ここで、話をもっと大きくします。そもそも人間の(諸)言語の三帯域それ自体が、貫之現象学A層の三つの相を入れ子式に組みこんだフラクタルな構造をなしているのではないか、「錯綜体/アナロジー/論理」∽「マテリアルな帯域」、「夢/パースペクティヴ/時間」∽「メタフィジカルな帯域」、「映画/モンタージュ/記憶」∽「メカニカルな帯域」といった対応関係で。
(b)「マテリアル/メカニカル/メタフィジカル」
∽「錯綜体/映画/夢」
貫之現象学のA層とB層は、その対象領域が異なり、全体と部分の関係などにあるわけではないので、本来、両者のあいだに入れ子の構造を想定することはできません。
私がここで考えているのは、「錯綜体/アナロジー/論理」⇒「夢/パースペクティヴ/時間」⇒「映画/モンタージュ/記憶」の階梯(A層の三つの相)をはせのぼることで「ひとのこころ」(空虚な器、純粋経験)と「たね」(記憶)が産出される、その生成プロセスそれ自体が、以後の、純粋経験という場における記憶の自彊的展開のひとつのフェーズ(B層の第二相)のうちに反復・再現されている、その姿をフラクタルな相似形と見てよいのではないかということです。
ややこしい言い方になりました。この際、理屈はこれくらいにして、要は、(a)と(b)の合成によって下記(c)が導きだせること、そして、この新しい比例関係を根拠として、「映画/モンタージュ/記憶」をめぐる貫之現象学A層第三相の議論を(アナロジカルに)適用することで、人間の(諸)言語のメカニカルな帯域のうち狭義の部分の、すなわちメカニカルな帯域に固有の特性を炙りだすことが可能になるのではないか。これが私の言いたいことです。
(c)「メカニカル(裏)/メカニカル(狭義)/メカニカル(表)」
∽「錯綜体/映画/夢」
話をさらに大掛かりなものにすると、(c)中の「錯綜体/映画/夢」という(変形された)貫之現象学A層の三つ組は、かの「貫之現象学のトリアス」(第4章参照)と、次のように関連づけることができます。
(d)「錯綜体/映画/夢」
∽「ギフト/パランプセスト/フィギュール」
この新しい対応関係と先の(c)とを合成することによって、第三の入れ子関係を示す比例式(e)が導きだされ、その結果、メカニカルな帯域に固有の特性をシンボリックに言い表わす語が、ここまでの記述の中で再三出現した「フラクタル」とともに、「パランプセスト」であったことが「判明」します。
(e)「メカニカル(裏)/メカニカル(狭義)/メカニカル(表)」
∽「ギフト/パランプセスト/フィギュール」
映画のスクリーンのごとき「パランプセスト」(羊皮紙の写本、あるいは重ね書きされたテクスト)。──ボードレールが『人工楽園』(渡辺一夫訳)で「脳髄」(記憶の羊皮紙)になぞらえたもの、フロイトの「マジック・メモ」を思わせるもの、そして高橋義人氏が、それを通して経験的現象(下絵)のなかに「根本現象」(ゲーテ)を透視すると語った「トレーシング・ペーパー」に通じるもの( 第72章参照)、さらには、(トーキーのように)声にかかわる「ポリフォニー」を包含したもの。
そのような、質料零、厚み零の三つの面が、相互の関係性を保持したまま、無限小の世界に向かって幾重にも入れ子状に分岐していくフラクタル構造をもって、あたかもミルフィーユのように積層していく場=フィールド[*1]。その拡がりの一方は声としての言葉に、他方は文字としての言葉に収斂し、その裏面において物の秩序・連結(物質としての言語)と、表面において観念の秩序・連結(意味としての言語)と接している場=フィールド[*2]。──それが、人間の(諸)言語におけるメカニカルな帯域のあり様にほかなりません。
[*1]森田真生著『計算する生命』に、複素平面とぴったり重なりあう「限りなく薄い物体」をめぐる話題が出てくる。
──リーマンは関数を単なる式と見るのではなく、平面間の「写像」として捉える独創的な視点をうちだし、関数の理論を実数から複素数の世界にまで拡張した。複素関数fによって、z平面上の複素数zがw平面上の複素数f(z)に移る様子を思い浮かべると理解しやすい。リーマンはそう指摘している。しかし、複素関数論の建設は多くの困難を孕む大事業だった。
《たとえば、f(z)=√zという関数、すなわち、複素数zに対して「二乗するとzになる複素数」を対応させる関数を考えると、0でないzに対してf(z)は常に2つの異なる値を取る。一つの変数に対して、ちょうど一つのf(z)が定まるという関数の「一価性」が崩れるこの現象は、実関数の場合には大きな問題を引き起こさない(右の例であれば「平方根としては正の実数をとる」と決めておけばいい)が、複素関数の場合には本質的な問題として浮上してくるのだ。
リーマンはこの問題を解消するために、「リーマン面」の概念を考案した。関数は、複素平面内の領域ではなく、複素平面‘の上に’幾重にも広がった面(f(z)=√zの場合には二重に広がった面)の上に定義されるというのだ。複素平面上の関数と見たときには多価性を持つように見えた関数が、新たな「面」の上では一価関数になる。
リーマンは、一八五七年の論文のなかで、複素平面と「ぴったり重なりあうもう一枚の面」、あるいは、「ある限りなく薄い物体」が、複素平面の上に「広がっている状態を心の中に描いてみよう」と提案している。「限りなく薄い物体」の「物体」とは何か、と詮索するのは無駄である。この時点でリーマンはまだ、この概念を厳密に定義する言葉すら持っていなかったからだ。
リーマン面の形式的な定義が確立するのは、リーマン自身の着想から半世紀以上も後のことである。》(『計算する生命』82-83頁)
森田氏いわく、「リーマンは、みずからの数学的経験を通して、厳密に定義することすらできない「面」を幻視したのだ。…数式の背景で働く原理を「概念」として取り出し、関数論のからくりをそこから説き明かしていく…「概念による思考(Denken in Begriffen)」こそ、リーマンの数学の真骨頂なのである」(84頁)。
──ここで言われる「数学的経験」を「メカニカルな帯域(広義・裏)」に、「数式」を「メカニカルな帯域(狭義)」に、「数式の背景で働く原理」(数学的概念)を「メカニカルな帯域(広義・表)」にあてはめてみよ。
[*2]森田真生著『数学の贈り物』に収められた「意味」というエッセイに、分数による割り算や負の数によるかけ算の「意味」をめぐる議論がでてくる。
《ひとたび記号運用の規則を身につけたなら、意味がわからなくても行為(計算)できる。意味は、行為のあとからついてくるのだ。
分数の割り算をどのように定義するかや、負の数によるかけ算をどのように定めるべきかは、「意味の頁側からの(semanticalな)」要求によってよりも、「記号が従うべきルールについての(syntacticalな)」要請によって決まる。
たとえば、なぜ(−1)×(−1)=1でなければならないか。これは「分配則」を保ったまま、負の数にもかけ算を延長しようとした場合に、必然的に導かれる帰結だ。》(『数学の贈り物』55頁)
以下の議論を要約すると、a(b+c)=ab+acという分配則を負の数を含むかけ算に課して、(−1)×{1+(−1)}=(−1)×1+(−1)×(−1)を得る。このとき左辺は(−1)×0=0なので、0=−1+(−1)×(−1)となり、(−1)×(−1)=1が導かれる。
《数は、当初は日常の「意味」表現するために導入された道具だったが、ひとたび記号として自立してしまえば、今度は記号世界の秩序にしたがって、自律的に展開していく。負の数の間の演算は、日常の意味を記述するために定義されるのではなく、守られるべき記号秩序のルール(この場合は分配則)にしたがい、自然に定まってしまうのである。
要するに、(−1)×(−1)=1でなければならないというのは記号の側からの要求であって、そこにはあらかじめ予定された「意味」などないのだ。記号が、意味の先まで人を導いてくれる。もちろん、最後まで「意味不明」のままでは数学ではない。記号が要求する行為(計算)の反復によって、意味はつくりだされていく。》(『数学の贈り物』57頁)
──記号を道具として使用する(生物的)行為の世界を「メカニカルな帯域(広義・裏)」に、ルールにしたがって自律的に展開していく「シンタクティカル」な記号的秩序の世界を「メカニカルな帯域(狭義)」に、「セマンティカル」な「意味の先」の世界(「意味不明」の世界)を「メカニカルな帯域(広義・表)」にあてはめてみよ。
■志向的クオリアと意味空間─メカニカル篇1
前節の註でとりあげた、「計算」(記号的行為)と「意味」をめぐる森田真生氏の議論は、『計算する生命』(第一章 「わかる」と「操る」)では次のように変奏されています。
《意味を「わかる」ことと、規則に従って記号を正しく「操る」こと、計算にはこの両面があり、両者は背中合わせの関係にある。だが、いつもピタリと重なり合っているのではなく、しばらくズレが生じている。
ボンベリはすでに十六世紀の時点で、虚数を正しく「操る」方法は知っていた。だが、その計算の意味が「わかる」ところまではたどり着かなかった。虚数の計算の意味が「わかる」までには、その後何百年もの歳月がかかった。‘意味のまだない’操作と辛抱強く付き合い続ける時間の果てに、少しずつ「意味」が「操作」に追いついていったのだ。
数学はただ規則に従うことでも、ただ意味に安住することでもない。意味解釈を一時停止させ、規則に身を委ねる。そうすることで、人間の認識は徐々に拡張されてきた。だが、規則に服従しているだけでは、意味の世界は開かれてこない。意味がまだないまま、とにかく規則と付き合ってみる。未知の対象を「無意味」と決めつけるのでもなく、かといって既知の意味に無理に還元するのでもなく、不可解なものとして不可解なまま、粘り強く付き合い続ける時間のなかで、新たな意味が浮かび上がってくるのだ。》(『計算する生命』48頁)
平易簡明な記述で深甚な真理を具体的に語る、森田真生の真骨頂がうかがえる文書です。ここに述べられた数学の振る舞いは、物質現象としての生命活動(と、生命活動を通じた精神圏の生成過程)[*1]や、子どもの言語習得のプロセスなどとアナロジカルに結びついていると思います。
それはまた、人間の(諸)言語のメカニカルな帯域(狭義)における記号の振る舞い(帯域の裏側で、メルツェルの将棋指しの小人よろしく記号を「操る」こと)と、これを通じて帯域の表側に出現する(あるいは、上方からの風とともに到来する)その意味、そしてそれが帯域の裏側に(あるいは、下方で稼働する身体のうちに)浸透して成り立つ意味体験(「わかる」こと)との関係性を、アナロジカルに語っている[*2]。私は、そう考えます。
これと同趣旨のこと(と私には思われる)を、別のかたちで見ておきたいと思います。
茂木健一郎氏は『クオリアと人工意識』で、「言葉の意味は、意識の中で志向的クオリアとして感じられる。そのクオリアを生み出しているのは、言葉の処理に関して「今、ここ」で起こっている神経細胞の活動である。」(212頁)と書いています。「今、ここ」で起こっている神経細胞の活動、と言われているのが、狭義のメカニカルな帯域(皮膜)のはたらきで、その表裏両面(脳のはたらき全体)において、「志向的クオリア」(表側)と「感覚的クオリア」(裏側)が立ち上がるわけです。
少し先走りました。同書第四章「知性に意識は必要か」の議論をフォローします。
1.意識なしでは知性は存在しない(ペンローズのテーゼ)
〇ロジャー・ペンローズは『皇帝の新しい心』の中で、「知性」(intelligence)は「理解」(understanding)を要求し、「理解」は「覚醒」(awareness)を要求する、と述べている。すなわち、「知性」は意識の重要な側面である「覚醒」がなければ成立しない。そこで仲立ちをするのが「理解」である。
〇理解するとは、言葉の意味がわかるとか数式の示している内容が把握できることだけではない。理解はある固有の「クオリア」を伴う。「ああ、わかった」という強い主観的体験、「気づき」が伴う。理解の「クオリア」は「腑に落ちる」という身体性を伴って、生きることの実感を支えてくれる。
理解は意識の本質である「メタ認知」の極致だ。私たちは思考や推論におけるさまざまな情報処理を全体として見渡し、それらがある「質」によって「収まった」と感じる時に、「理解」できたというクオリアを持つのである。
ペンローズの主張が正しいなら、真の人工知能を実現するためには、人工意識を経由しなければならないということになる。知性は理解を必要とし、理解は覚醒(意識)を必要とするからだ。
2.意味体験と記憶のメカニズム─言語と意識の関係
〇私たちは意識がある時にだけ言語(知性の重要な部分)のやりとりをしている。言語活動は意識を前提にしている。言葉を使っているという主観的な経験には、必然的に意識が伴う。
現在、人工知能に関連して行われている言語に関する多くの分析は「言語ゾンビ」である。一切の意味の理解(クオリア)なしに文字列がやりとりされている。
《ことばの「意味」は、言語コミュニケーションにおいて本質的である。そして、その「意味」は、一つの意識体験として立ち上がっている。
言葉の「意味」が「意識」の一部であるということは、ペンローズの言う「知性は理解を必要とし、理解は覚醒を必要とする」という一般的な命題の一部分であると考えられる。
意識の中では、言葉の「意味」はある志向性(intentionality)として知覚される。
例えば、「こもれび」という言葉の「意味」は、意識の中では、「こもれび」という「文字」を構成する視覚の感覚的クオリア、ないしは「こもれび」という「音」を構成する聴覚の感覚的クオリアに、ある「志向性」がマッチングすることで成立している。この「志向性」こそが、「こもれび」という言葉の「意味」である。そして、志向性は、それが意識の中で体験される時、一つのクオリア(志向的クオリア)として感じられる。
逆に言えば、未知の言語は、聴覚や視覚における感覚的クオリアとしては経験されているけれども、その意味という「志向的クオリア」が立ち上がらないのである。》(『クオリアと人工意識』128-129頁)
(個人的な書き込み。──「人間の言語」ではないという意味での「未知の言語」、たとえばエイリアン「ヘプタポッド」の言語(テッド・チャン『あなたの人生の物語』)では、志向的クオリア(意味体験)は立ち上がるが、感覚的クオリア(知覚体験)が伴わない?)
《志向的クオリアが担う「意味」は、脳の記憶のメカニズムと深く結びついている。記憶が収納される部位である側頭連合野の神経活動が、志向的クオリアを生み出す一連の神経活動の一部分をなす。このことから、(意味を担う)「志向的クオリアが立ち上がる」ことが、その文字列ないしは音声が「記憶される」ことにつながる。意味のある言葉は記憶できるが、無意味な言葉は記憶しにくい。
フィールドワークを行うよく訓練された言語学者は、意味のわからない未知の言語を聴いて、それを(意味がわからないままに)記憶し、後に正確に再現する能力を持っているのだという。つまり、感覚的クオリアをそのありのまま記憶、再現できるのである。
いずれにせよ、言語の「意味」は、「今、ここ」の意識の中で知覚されている。すなわち、それは、脳活動が、現時点では未知の何らかの自然法則によって直接意識体験を生むという「直接性の原理」(immediacy principle)によって生み出されている。「直接性の原理」の下では、言葉の「意味」は、科学的な研究の手段である統計的な解析などのプロセスを経ずに、直接、私たちの意識の中で生成される。》(『クオリアと人工意識』130-131頁)
3.志向的クオリアはどのように立ち上がるのか
〇志向的クオリアは、感覚的クオリアとして与えられた経験に対して、それを意味づけたり、評価したり、文脈づけたりする働きを持っている。
〇志向性の基盤になっているのが、空間的志向性(spatial intentionality)、すなわち、空間のある点に対して注意を向けたり、心を向き合わせたりする働きである。空間的志向性の典型的なものは、視野の中で、「あそこ」とか、「ここ」などと、注意を向ける働きである。
空間的志向性が、何らかのかたちでより複雑で、抽象的な構造にまで拡張されたものが、言葉の「意味」であると考えられる。
〇志向性の指し示すものの属性が、指し示される「先」にあるのではなく、指し示している「元」(=「私」の意識)にあるという考え方を表しているのが、哲学者ダニエル・デネットが用いている「志向的スタンス」という概念である。
《例えば「こもれび」という言葉の意味を与える志向的クオリアが指し示すのは、抽象的な意味空間での、ある「対象」である。しかし、その意味空間での対象という属性は、あくまでも「こもれび」という言葉を構成する視覚的ないしは聴覚的な感覚的クオリアとマッチングした志向的クオリア自体、つまりはその「元」に存在しているのである。
ソシュールの言葉で言えば、「シニフィエ」の属性は、「シニフィアン」という「元」自体に宿っている。「シニフィアン」の「志向的スタンス」が、「シニフィエ」へと向かっているのである。》(『クオリアと人工意識』137-138頁)
4.空間的志向性から言葉の意味へ、記憶空間・意味空間へ
〇空間的志向性は、言葉の意味を含む志向性全体を考える上で基本であるが、しかし、それだけでは限界がある。
《空間的志向性から、言葉の「意味」へ。この接続を行うためには、どこかに、命がけの「暗闇への飛躍」がなければならない。
ここで、一つの仮説が立ち上がってくる。
志向性は空間の中である場所を指し示すことを前提とする。
それならば、言葉の意味もまた、それが指し示されるような記憶の「空間」が用意されていれば、空間的な志向性の拡張として扱えるということになる。
果たして、言葉の意味は、物理的な空間を一般化した「意味」の空間によって定式化できるのだろうか?
脳内には、さまざまな「空間」の表現がある。例えば、「時間」もまた、一つの「空間」的次元と表現されている。脳の中に記憶の「空間」があることは、さまざまな間接的な証拠によって示唆される。
(略)数学的に、「時間」が一つの「数直線」で示されるように、脳の中では時間という軸が「空間」という軸に置き換えられて表現されている。
同じように、言葉の意味もまた、時間よりもさらに複雑な「空間」に置き換えられて、その「意味空間」の中での「志向性」として表現されているのだろうか? そのような脳活動として生み出されるのが、言葉の「意味」という「志向的クオリア」なのだろうか。
もしこの仮説が正しければ、言葉の「意味」が志向性によって与えられる前提として、脳の中の「記憶」が、拡張されて一般化された「意味空間」の中に整理、収納されていることが必要となってくる。》(『クオリアと人工意識』139-140頁)
──ここでも、茂木氏の議論から若干のキーワードを拾って、メカニカルな帯域の積層(葉層)関係を示す模式図を試作してみます。表中の数字は、上昇と下降の複数のベクトルで合成される、言葉の意味生成のプロセスと、その理解(腑に落ちること)のプロセスをプロットしようとするものです。
T.空間的志向性の拡張
@知性・知覚→A感覚的クオリア→C志向的クオリア
↘B記憶の空間↗
U.暗闇への飛躍
C志向的クオリア→D意味空間→E理解のクオリア
B記憶の空間↗
《表2》メカニカルな帯域の三葉構造(Ver.2)
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★メカニカルな帯域(広義・表)
D 意味空間、拡張された記憶の空間
(時間よりもさらに複雑な空間)
C 志向的クオリア、拡張された空間的志向性
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★メカニカルな帯域(狭義)
@ 「今、ここ」で起こっている神経細胞の活動
(言語活動、文字列ないしは音声)
E 理解のクオリア(意味体験の「腑」)
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★メカニカルな帯域(広義・裏)
A 視覚・聴覚の感覚的クオリア、空間的志向性
B 記憶の空間(アルシーヴ)
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[*1]メカニカルな帯域の複合フラクタル構造に関して、いま一つ比例関係を加えておきたい。
(f)「メカニカル(裏)/メカニカル(狭義)/メカニカル(表)」
∽ 物質圏/「生命圏/記号圏/精神圏」/意識圏
生命圏における物質の振る舞い(生命現象)から抽出された法則をフラクタルに反復する記号の機械的振る舞い、この狭義のメカニカルな帯域=記号圏の働きに対する「メタ認知」の結果、精神圏が生成する。さらに、記号圏を鏡面として「物質圏/生命圏」の鏡像反転「精神圏\意識圏」を介して意識圏が生成する。これら異なる圏域において、同じ一つの法則性が多様に(多葉に、あるいは葉層状に)重なり合い、ポリフォニーとパランプセストが複合的に競合するフラクタルな関係を切り結ぶ。
──ここで「物質圏」は「マテリアルな帯域」と、「意識圏」は「メタフィジカルな帯域」とパラレルな関係を切り結ぶ。本文で参照した茂木氏の議論に関連づけると、「物質圏」はすべての感覚的クオリアの母胎であり(おそらく物質圏と生命圏の界面でクオリアは発生する)、「意識圏」の「意識」は「ペルソナ」(神の位格)とか「独在性の〈私〉」といった語彙で言い表わされる(本当は言葉では言い表わせない)もののこと。
[*2]吉本隆明が『言語にとって美とはなにか』の「構成論」で論じた「詩・物語・劇」の三つ組に関連づけると、メカニカルな帯域(狭義)における記号の振る舞いを「劇」に、メカニカルな帯域(広義・表)における意味(記憶)を「物語」に、そしてメカニカルな帯域(広義・裏)における身体経験(意味体験)を「詩」(舞踏と音楽を含めてもよい)に対応させることができる。私は、そう考えている。
(g)「メカニカル(裏)/メカニカル(狭義)/メカニカル(表)」
∽「詩/劇/物語」
■沈黙の声と非人称の文字空間─メカニカル篇(落穂拾い)
前節の註で触れた二つの「論点」に、いま少しこだわっておきたい。本節ではそのうち、この論考群の総題に関連する話題を取りあげる。いま一つの「劇」にかかわる話題については次節で。
メカニカルな帯域は、下方における「クオリア(の海)」と上方における「ペルソナ(の空=宙あるいは風=光)」との間に位置づけられている。──これまでまともな定義も与えず、文脈と論脈に即して自在に使ってきたこれらの概念をめぐって、ここでもまた私的な語感と概念的感触にそった直観的物言いを重ねるしかないが、クオリアは「物に成り入る」技術にかかわるアニミズムと、ペルソナは「他者に成り入る」技術にかかわるシャーマニズムとそれぞれ深く関連する。
リアルな感覚が託く(憑依する)クオリア、アクチュアルな意味が宿る(受肉する)ペルソナ、などと言ってもいいだろう。そして、それぞれに固有の言語を「クオリア性言語」(別名:マテリアルな言語)や「ペルソナ性言語」(別名:エーテル状の言語)と表現することもできるだろう。いま、それぞれの言語の典型例を、手元にある文献から引くと次のようになる。
◎沈黙の声(層)─クオリア性言語をめぐって
今福龍太著『薄墨色の文法──物質言語の修辞学』冒頭の「元素的な沈黙」から。
《風という根源的エレメント、万物をつくりなすこの究極的な元素のひとつを、この土地に住むインディオはエカトル ecatl と呼んだ。微風も、大風も、竜巻のような突風も、みなエカトルである。厳密にはエカトルの「エ」の音は途中に声門閉鎖音を宿していて…、喉を閉じて一瞬のちにふたたび開く無音にちかい破裂音のなかに、風のすべての形態が隠されている。言語を生成する喉が、すべての風のヴァリアントを模倣する。声門をふるわせて過ぎるのは穏やかな風ばかりではない。なかには邪な風、荒ぶる精霊も。エカトルの音は多様な風の変異型を意味として抱きながら、インディオの声調言語のなかに自然物の元素的な運動を導き入れる。彼らの言語は、いわば反言語によって裏打ちされている。元素と、鉱物と、動物と、植物とに開かれた音が、彼らの言語のなかに沈黙の層を堆積させる。多弁や饒舌な言葉へのインディオのためらいは、言語のなかに隠されたこの沈黙の層が彼らの表情や挙動を通じて示す、ある種の警戒信号でもある。人間の言語がそれ自体ひとつの暴力であることをよく知っているからだ。言語を使いながら、恣意的な音声記号の氾濫する騒然たる世界から遠く離れて生きる彼らの充満した沈黙に、私は近づきたいと願う。
極小の語彙の世界から、人間と宇宙と神々を結ぶ像を精密に語り出す彼らの流儀を学ぶために、私は風の獣が駆け抜ける草原に通いつづけた。饒舌と雄弁を至上の価値としてコミュニケーションなる理解の強迫観念を創りあげた文明を離れて。攻撃的で論理的で説明的な言葉の支配から完全に自由でいることはもはやいかなる人間にもできない。若者たちは、沈黙を消極的な態度として否定され、寡黙であることをなじられ、自己主張と説明責任を厳しく強いる競争的な社会で孤立し、疎外される。その言語的疎外は、彼らの自閉的な言葉の寂しい自己主張によってさらに増長されてしまう。意味と絆を求めて、言葉が絶望的に生産され、無益に消費され、その残骸がディジタル信号の廃墟にうずたかく堆積する。だが、意味の充満も、希望も、そしておそらくは真の絆も、沈黙の側にある。沈黙に退却することがけっして自閉でも疎外でもないことをインディオの音響的世界は私たちに教える。なぜなら、元素的な沈黙を媒介にして聴き取る風の声のなかに、万物を結ぶ理法が隠されてあるからだ。風が化身する草の穂のざわめきは、この元素的な沈黙が発する精妙な叡智の声なのだ。》(『薄墨色の文法』3-4頁)
◎非人称の文字空間─ペルソナ性言語をめぐって
金子兜太との対談『他流試合――俳句入門真剣勝負!』でのいとうせいこうの発言。
「実は十日くらい前に、急に鬱っぽくなっちゃったんです。小説を書く上で今、何が嫌か、何を嘘っぽいと思うかというのをずーっと検証してた。そうしたら、「非人称の文字空間」という言葉が浮かんできたんです。つまり、「私」とか「誰々」とかという人称を使って文章を書いている自分がとても嫌だということに気がついた。でも非人称の文学とはどういうものなのか? 主語をわざわざ明記しないという表現はいくらでもあるわけだけれども、そういうことではなくて、文字の空間に自分をゆだねてしまうように、そんなふうにものを書けないのか、と。そうしたら「あ、それは俳句じゃないか」と、思ったんです。」
「漱石の「則天去私」っていう言葉も、精神主義的に解釈されちゃうと最終的には悟りの境地になって自我を捨てたっていう話になるけれど、そういうことではないかもしれない、と。非人称という形式の中で、自在に文字の空間を戯れる──この自由さを「則天去私」と言ってるんじゃないか。イコール「俳句」ということにもなるんじゃないか。」
「文庫版まえがき」でのいとうせいこうの言葉。
「…本書はやがて明かされる「すべての言葉を詩と捉える」という、大変に大きく強く、また優しくもおそろしくもある詩語論の精髄に至るための、金子兜太からの導きの足跡だ。」
金子兜太の発言も一つ。(これはむしろ「クオリア性言語」にかかわる発言だ。)
「それじゃその季節感に代わるものはなんだと、こういうふうになりますね。私はそれを「物象感」と言っているんです。ものの本質感。詩人の安藤次男はそれを「自然の質」というような言い方をしていた。自然の、そのものの質を捉えると。それが捉えられれば、季節感がなくたって、充分にいろんなものを表現できるということです。」
──それでは肝心の、メカニカルな帯域(狭義)に固有の言語をなんと名づければいいのか。「饒舌の言語」だろうか。「人称的言語」だろうか。光の三原色を混合するとすべての可視光を含む透明の白色光が得られるように、「沈黙の声」×「X」×「非人称の文字空間」=「客観的・公共的言語」[*]という奇跡の(と言っていいと思う)等式を成立させる「X」とは何か。
私はそれを「演劇の言語」(演劇を成立させる言語、舞台空間において現象するすべての記号活動)として捉えてみたい。精確には「演劇」をモデルとすることで、未知の言語「X」の存在様態を垣間見ることができるのではないかと期待している。
《表3》メカニカルな帯域の三葉構造(Ver.3)
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★非人称の文字空間(ペルソナ性言語)
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★演劇の言語
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★沈黙の声(クオリア性言語)
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[*]「客観的・公共的言語」には広狭二義がある。というか、私はそのような言葉の遣い方をしている。
広義の客観的・公共的言語は「人間の言語(メカニカルな帯域における)」と同義で、ニュートラルな表現。私的言語との対比では「公的言語」。「今、ここ、私」が特定され、人称、時制等々の文法カテゴリーによって規整された英語的表現も、非人称的で暗に独我論的な日本語的表現も、いずれもこの広義の客観的・公共的言語の範疇に属する。
狭義の客観的・公共的言語は、たとえば「攻撃的で論理的で説明的」あるいは(本文で後に引用する文章中の)「合理的現実と正気を旨とする」のように形容される、どちらかと言うと負の価値を帯びた表現。演劇の言語の機能が疎外されると、「人間の言語(メカニカルな帯域における)」=「広義の客観的・公共的言語」は痩せ細り、文字通り「機械言語」のごときものに頽落する。
■ハムレット的身体、演劇と狂気の問題─メカニカル篇(落穂拾い)
人間の(諸)言語のメカニカルな稼働帯域を形成する三葉の積層構造。その中核をなす「演劇の言語」(声と表情と身振り、顔と心と体からなる身体の記号的振る舞い、あるいは「沈黙の声」や「非人称の文字空間」と自在に感応する言語)をめぐって、高橋康也著『橋がかり──演劇的なるものを求めて』から若干の議論を抽出する。
◎ハムレット的身体、流動的身体
ハムレットの第一独白(第一幕第二場)をめぐって。
《「このあまりにも硬い肉体が溶けて、露となってしまえばいいのに!」という叫びは、一見自殺を志向するように見えて、実はもっと深い、そしておそらく正反対の、願望を隠しているのではないか。すなわち、この凝固した物体が、液体化し、生き生きした流動感(文字どおり流‘露’感)あふれる身体に変貌すればいいという願望を。みずからが蔑視する「硬い肉体」に閉じこめられた死刑囚のごとき精神が、牢獄の外を憧れるというよりは、牢獄そのものの変質のなかに生命のしるしを求めているかのように。
お望みならば、ハムレットが意識せずに求めているものを、宇宙と自在に感応する「相即相融」「冷暖自知」の禅的身体や、世阿弥が「無心」と呼んだ窮極の能的身体や、アルトー=ドゥルーズ=ガタリのいう「器官なき身体」などに引きつけて考えることもできよう。(略)
しかしいま重要なのは、流動的身体へのハムレットの潜在的希求が、生命への憧れを含意しうるということ、そしてその憧れは同時に身体的演技(パフォーマンス)への志向を孕まずにはおかないだろうということだ。》(『橋がかり』22-23頁)
高橋氏の言う「身体」は、市川浩著『〈身〉の構造』の議論を踏まえた「精神化された身体あるいは身体化された精神」を意味している(4頁)。「ハムレット的身体」とは、そのような「心身合一」の「身ごなし」に、すなわち熟練のドライバーやスポーツ選手に見られるような「覚悟」に近いものである。「あせらず、ためらわず、環境の変化に自在に即応できるこの境地は、まさに俳優の演技[パフォーマンス]の極意と相通ずるものではあるまいか」(27頁)。
(高橋氏はここで次の註をつけている。「たとえば、俳優に「思考、感情、身体」の間の完璧な均衡を求め、「機械的」演技を戒めるピーター・ブルックの言葉(『秘密は何もない』貴志哲雄・坂原真理訳、早川書房、一九九三、二六−三五頁)は、ハムレットの「覚悟」への良き註釈になっている。」)
《「覚悟がすべて」というハムレットは、「コギトがすべて」というデカルトにここで真っ向から対峙する。その「覚悟」によって、ハムレットは‘思いかけず’復讐を達成するのである。
デカルト的身体を先取りして、いったんは蔑視の深淵に沈みながら、苦しくも生きのびてきたハムレット的身体。(略)たとえ一瞬後に‘死体’となって硬直する運命にあるとしても、ハムレットの‘身体’は私たち観客に紛れもなくカタルシスを味わわせてくれた。カタルシスとはいうまでもなく悲劇的感情浄化であり、また語源的に排泄(‘固形物の流動化’)にほかならない。
ハムレットという名の身体は、「前近代」にも「近代」にも出現しえなかっただろう。二つのはざまに奇跡的に立ち現われたこの身体は、「近代以降」を生きる者をも魅了してやまない。》(『橋がかり』27-28頁)
◎ベケット的身体、演劇と狂気の問題
ハムレットとベケットの作中人物は、デカルト的近代を前と後からはさんで対峙する。後者は「デカルトの毒をまともに浴びた、まぎれもなきホモ・カルテジアン(デカルト的人間)の無残に落?した末裔である」(31頁)。この「ベケット的身体」をめぐる議論は実に魅力的なのだが、ここでは割愛し、いま一つ、高橋氏の文章を引く。
《ひろげかけた大風呂敷を思いきってすっかりひろげてしまおう。フロイトや中井久夫氏が示したように、人類の文化が文化として成立するためには、その根源において、不安神経症や分裂病につながる傷痕を引き受けざるをえなかったとすれば、そのような文化の分裂病的構造を象徴的に表現し、表現することによってその危険を癒すのが、演劇の任務だったといえまいか。文化は、みずからの健康を保つためには、みずからが排除したもの──霊・非合理・混沌──を改めて迎え入れ、なだめ、鎮めなければならない。そこに演劇の祭儀的起源がある。「憑依」を「演技」へとつなげる職業的ワザオギ(俳優)が、やがて発生する。「憑依」において狂気であったものは、「演技」においても治癒(の可能性)となる。この延長線上に、今日の精神療法としてのサイコドラマがある。
右の一般論が仮りに東西の別なく妥当するとしても、演劇と狂気の問題が独特な鋭さをもって顕在化するのは、西洋近代においてであろう。近代文化とそれが排除しようとしたものの相剋から、ハムレットやリアの狂気、バロック演劇の幻想が生れた。その後、デカルト的理性、プロテスタント的倫理の支配とともに、演劇からも狂気はおおむね排除され、合理的現実と正気を旨とするリアリズム演劇が確立される。そして今世紀に入り、近代的秩序の全体的ひびわれとともに、演劇にめざましい狂気が復権する……。》(『橋がかり』88-89頁)
──私は、ここで述べられた演劇(祭儀)によって治癒される狂気を「狂気1」(あるいは「クオリア性意識変容」)と名づけ、これと対になるもうひとつの狂気、いわば「上方」からの憑依(神憑りもしくは受肉)によってもたらされ、演劇(悲劇)によって浄化される狂気を「狂気2」(「ペルソナ性意識変容」)として捉えたいと思う[*1]。
そして、そのような(下方と上方、治癒と浄化の二方面で稼働する)演劇の言語を通じた文化の確立(霊・非合理・混沌の排除、リアリズム演劇の成立、等々)[*2]のうちに、客観的・公共的言語の成立という、「今、ここ」で起こる──「今、ここ」でしか起こらない、そして「今、ここ」という「現実」の成立そのものである──奇跡的な出来事[*3]のフラクタルな反復を見る。
《表4》メカニカルな帯域の三葉構造(Ver.4)
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★狂気2(ペルソナ性意識変容)
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★演劇の言語(vs.狭義の客観的・公共的言語)
★流動的身体=ハムレット的身体、禅的身体、能的身体
器官なき身体=アルトー的身体、グノーシス的身体?
(vs.硬い肉体=ベケット的身体)
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★狂気1(クオリア性意識変容)
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上表の見方について一言。演劇の言語と流動的身体が狂気1と狂気2との間で、いわば細胞呼吸のような相互透過関係を取り結んでいる限り、(ひいてはマテリアルな帯域とメタフィジカルな帯域を自在に往来する導管が確保されている限り)、演劇の言語は「今、ここ」という「現実」の成立そのものと一致する。しかし、いったん確立されたそのような透過性が閉じてしまうと、あたかも死んだ細胞によって角質層が形成されるように、「合理的現実と正気を旨とする」客観的・公共的言語と「硬い身体」がもたらされる。
[*1]末木文美士編『死者と霊性──近代を問い直す』に収録されたエッセー「「霊性」の革命」のなかで、安藤礼二氏は、井筒俊彦が『神秘哲学』第二部でディオニュソスの祭礼から抽出した二つの原理をめぐって、次のように書いている。
《エクスタシス(脱自)とエントゥシアスモス(神充)。エクスタシスは永遠の霊魂観に昇華され、永遠にして不滅である生命としての霊魂を探究する密儀宗教を生む。エントゥシアスモスは無限の自然観に昇華され、万物を産出する始原[アルケー]としての自然を探究する自然哲学を生む。生命にして自然は「一」なるものであるとともに「全」なるものでもある。静寂に満ちた「一」なる理念を重視したパルメニデスを引き継ぐかたちでプラトンの思想が生まれ、イデアの論として完成する。流動する「全」としての自然を重視したヘラクレイトスを引き継ぐかたちでアリストテレスの思想が生まれ、質料と形相からなる宇宙生成論として完成する。
プロティノスが成し遂げたのは、「全」なる自然──無数の個物、つまりは質料と形相の無限のグラデーションからなる自然──を論じたアリストテレスを経て、「一」にして永遠なるイデアとしての霊魂を論じたプラトンへと還ることであった。プロティノスによって、ディオニュソスの憑依に淵源する二つの原理、エクスタシスとエントゥシアスモス、そこから生まれた二つの哲学、プラトンのイデア論とアリストテレスの質料形相論が一つに総合されたのである。「一即全」として森羅万象あらゆるものを自らのうちから産出するイデアとしての自然、それをプロティノスは「一者」とした。万物の根源に存在する、それ自体生命をもったイデアである。》(『死者と霊性』235頁)
《神の言葉に憑依された特異な主体が切り拓いていく認識の地平、精神と物質がもはやその区別を失う根源的な場に顕現してくるものこそが、「無」と「有」をその一身に兼ね備えた神、万物に超越するとともに万物に内在する「一者」であった──ちなみに、『神秘哲学』が刊行されたときにはまだ存命であった折口信夫は、そのような「一者」を『古事記』の冒頭にあらわれる非人格的な内在神、神即自然である「産霊[ムスビ]」として定位していた。》(『死者と霊性』248頁)
「憑依」の体験が切り拓く地平に「一者」が顕現する。これが『神秘哲学』で見出された「西欧神秘主義思想」の端緒である。そして、井筒が最終的にたどり着いた「東洋神秘主義思想」の帰結がイラン・イスラームの「存在一性論」だった。(236頁)
《井筒が、ここ[『イスラーム哲学の原像』]に抽出している「一者」の[超越と内在、「無」と「有」を併せ持つ]あり方は、遺著となった『意識の形而上学』で主題的に論じられることになる『大乗起信論』が説く「如来蔵」としての「心」、その「心」がもつ二面性にして両義性[清浄で無垢な「空」としての側面(心真如)と、そこからあらゆる意味が産出されてくる迷妄に汚染された「有」としての側面(心生滅)]と等しい。(略)
『大乗起信論』が説く「心真如」と「心生滅」の問題は、イスラームに生まれた「存在一性論」が説く「無」の神(絶対的一者)と「有」の神(総合的一者)の関係と等しい。実際、「存在一性論」の可能性を論じた英文著作、『存在の概念と実在性』…に収録された講演のなかで、井筒自身が、「存在一性論」が説く「無」の神(絶対的一者)を、『大乗起信論』が説く「如来蔵」としての「心」と同定している。》(『死者と霊性』249-250頁)
井筒=安藤の議論から蒐集したいくつかのキーワードを、私独自のターミノロジー(とその「理論的」布置)にこだわりつつ、 第68章の《図》との整合性(「神(A)」=「絶対無(A1)」+「一者(A2)」)に意を用いながら、本文の《表4》のうちに強引に落とし込んでみる。
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★エクスタシス、「一」なる永遠の霊魂=イデア
「有」の神(総合的一者)=産霊=「一者(A2)」
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★一と全、超越と内在、有と無を併せ持つ「一者」
────────↑─────────↓─────────
★エントゥシアスモス、「全」なる無限の自然=質料形相
「無」の神(絶対的一者)=如来蔵=「絶対無(A1)」
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[*2]中沢新一著『アースダイバー 神社篇』から諏訪神社の祭祀をめぐる考察を引く。
いわく、縄文社会に王はいなかった。自然がその主権者だった。熊(北方)や蛇(南方)の姿で象徴されるグレートスピリットがすべてを動かしていた。この主権を譲り受けたのが、弥生人の社会に出現した王である。原初の王は、神秘的な蛇や熊から霊力を受けとることによって、人間たちに君臨する存在となった。
ヤマトの王権祭祀では、その過程はすでに奥に隠され見えなくなっているが、諏訪神社の「大祝」をめぐる祭祀にはその原初の記憶(「天皇」の原初形態)が表面にあらわれ出ている。大祝とは諏訪明神が現実世界へ顕現(ミアレ)した姿で、選ばれた八歳の男の童子が立つ。その即位の儀式において、諏訪明神は神託をつうじてこう述べる。「私は非物体であるから、この大祝をもって体とする。」
大祝は自然界の主権(蛇)の霊を受け取る「器」すなわち「現人神」となる。この縄文勢力と弥生勢力のハイブリッドとしてつくられた文化王の中に、縄文的な精霊の自然児たるシャグジ(男根状の石であらわされる)の霊力を取り込むのが、縄文式竪穴住居内において蛇体のソソウ神と笹の葉に憑いたシャグジとの間でエロティックな秘儀が執り行われる「御室[みむろ]神事」である。(132-137頁)
中沢氏は、御室神事において展開されている「論理」の一貫性を、世界中の創世神話に共通する「神話の公式」にあてはめ、スサノオによる八岐大蛇退治をめぐる出雲神話を例に挙げ次のように論じている。
《原初、大蛇神は自然の主権者であり、スサノオ神は文化の世界=高天原世界に属していた。話の流れでスサノオは、そこを追放され、地上に降り立って大蛇と戦うことになる。この戦いをとおして、スサノオは大蛇の自然力を手に入れる。スサノオはそのとき、文化力に加えて自然力をも、わがものとする。すると自然の主権者であった大蛇は没落して、文化の側に主権が移譲される。
それと同じ論理が、御室神事をつくりだしている。そこでは、戦いではなく、性的な交合が、世界の転換を引き出す仕組みになっている。原初の精霊シャグジは自然力に属し、諏訪明神を象徴する大蛇の女性的な面をあらわすソソウ神は、文化的な人間主権を体現している。この大蛇神はシャグジと交合することによって、シャグジの存在に包み込まれている自然力をも、自分の内部に取り込むことになる。するとシャグジは現実の裏へ消えて、文化的な王である大祝が出現する。
御室神事は、精霊シャグジが体現する自然力を、諏訪明神の象徴である大蛇神に移譲することによって、現人神である大祝を、自然力を内包した文化的な王として、出現させようという儀式である。》(『アースダイバー 神社篇』137-138頁)
[*3]真木悠介著『気流の鳴る音──交響するコミューン』に収められた「色即是空と空即是色──透徹の極みの転回」から。
《自然科学の語る真理は、宇宙のいっさいが物質の過程にほかならぬことを教える。われわれが死ねば自然にかえるのであり、人間の「意識」も人類の全文化もまた、永劫の宇宙のなかでの束の間のかがやきにすぎない。この物質性の宇宙の外に、どのような神も永遠の生命も存在しない。
ここまで幻想を解体し認識を透徹せしめた時に、はじめてわれわれは反転の弁証法をつかむ。われわれの、今ここにある、一つ一つの関係や、一つ一つの瞬間が、いかなるものの仮象でもなく、過渡でもなくなく、手段でもなく、前史でもなく、ひとつの‘永劫に置き換え不可能な現実として’、かぎりない意味の彩りを帯びる。》(『気流の鳴る音』)
(74章に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。
Web評論誌「コーラ」50号(2023.08.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第73章 人間の言語の三帯域論(メタフィジカル篇)(中原紀生)
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