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■根源・原形・言語ゲーム(1)─メタフィジカル篇(落穂拾い)
第69章の《図2》で、ベンヤミンの「根源(Ursprung)」を「アウラ」と対比させて図の「下方」に位置づけた。このことがいまだにしっくりこない。「上下のズレ」が生じていないか気になっている。この点を再考するため、まずベンヤミンの文章を引いてみる。いずれも他人の著書からの孫引きのかたちで。
◎律動(リズム)としての根源、一回性と反復性
《「理念」の浮かび上がる場としての「根源」そのものは、無からぽつんと生まれ出るようなものではなく、「いま」を基点とした無限の潜在的踏査のうえであくまで「発見」されるべき未完了のものであり、そこでは無数の現象(一回性)と恒存的な「理念」(反復性)の弁証法が止まることなく渦巻いている。しばしば引用される次のよく知られた条りが意味しているのは、このことに他ならない。「根源は、徹頭徹尾歴史的なカテゴリーであるが、発生ということとはまったく無縁である。根源ということで意味されているのは、生まれ出たものの生成ではなくて、むしろ、生成と消滅のなかから生まれ出てくるものである。根源は生成の流れのなかに渦としてあり、発生してくる素材を自らのリズムのうちに引きずりこむ。根源的なものは、事実的なもののあらわで明白な存在のなかにはけっして姿を現わすことはなく、その律動は、二重の洞察によってしか明らかにならない。すなわち、その律動は、一方では、復古ないし復元として、他方では、そうした復古ないし復元の際の未完成のものないしは未完結のものとして洞察されねばならない。理念は、歴史的世界と繰り返し対決しながら、ついには自らの歴史の総体性を獲得し、完成されたものとなるのであって、すべての根源現象のなかで突き止められるのは、理念がこうして歴史と対決するときにとる姿に他ならない。……こうした根源に内在する弁証法を見ればわかるように、すべての本質的〔理念的〕なものにおいては、一回性と反復性が、互いに他を前提とし合う関係にあるのだ」[ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』「認識批判的序論」]。》(道籏泰三『ベンヤミン解読』125-126頁)
注記。決定稿で削除された「序論」草稿に、ベンヤミンは次のように綴っている。「すべての根源的なものは啓示の未完成の復元である。……根源的なるものそれ自体は、根源を一方では啓示の復元[反復性──引用者註]として、他方ではこの復元において必然的に未完結のもの[一回性]として認識する二重の洞察にしか明らかになりはしないのだ」。(吉田徹也「ヴァルター・べンヤミンにおける「根源」についての一考察──ゲーテの「根源現象」へのこだわりをめぐって」[http://hdl.handle.net/2115/25955]による。)
◎韻(ライム)としての根源、破壊と浄化
《ベンヤミンの「引用」はクラウスにおける論争術の手段とは全く異なる方法論的意識に基づいている。「引用はことば(Wort)を名指しで呼び、それを連関から破壊的に引き離す。まさにこのことによって引用はこのことばを再びその根源へと呼び戻すのだ。ことばは新しく組み上がったテクストの中で韻を踏み、音を響かせ、調和しつつ現れる。韻(Reim)として引用はそのアウラのうちに同類のものを集める。また名(Name)として引用は孤独に無表情にたたずむ。言語(Sprache)を前にして、二つの領域──根源と破壊──の存在が引用において示される。そして反対にこの二つの領域が相互浸透するところにおいて──すなわち引用において──のみ言語は完成するのだ。この引用のうちに映し出されているのは天使の言語(Engelsprache)である。そこではあらゆることば(Worte)が意味の牧歌的な連関から追い立てられ、創造という建物の中の題辞となったのだ」[ベンヤミン「カール・クラウス」]。「ことば」をもとの連環から引き離す「破壊」と、その「ことば」が全く新たな連関のうちに──言語が本来そうであったように──原初のものとして鳴り響く場としての「根源」。この「引用」における破壊と根源という両極性は、「クラウス論補遺」では二つの‘作用’として、「破壊と浄化(Zerstoerung und Reinigung)」という対概念のかたちで提示されている。》(山口裕之『ベンヤミンのアレゴリー的思考』70-71頁)
注記。「ことば」に関して、山口氏は次の註を付けている。「初期の言語論や『ドイツ悲劇の根源』において、「ことば(Wort)」は名称言語、名づける言語のパラダイス的な状態のうちにあり、とりわけ「言語精神の堕罪」以降の「抽象性」を帯び、「意味」を負わされた言語(とりわけ「文字(Schrift)」)に対して、「音声(Laut)」の直接性という性質を強くもっている。」(261頁)
──「理念」と「根源」と「歴史」(歴史的世界、事実的なものの世界)の相互関係、あるいは(これを言語哲学的に言い換えて)「名」(アウラ)と「ことば」(リズム・ライム)と「言語」(意味の牧歌的な連関)、もしくは「アダムの言語」と「天使の言語」と「人間の(諸)言語」の相互関係をめぐって、二つの構図を考えることができる。
すなわち、「根源/歴史/理念」のように「根源」を「下方」に位置づける構図(第69章の《図2》で採用したもの)と、「歴史/根源/理念」のように根源を「上方」に、というより「高層」の中間地帯に位置づける構図。第一の構図は、「歴史→根源」の下降(破壊)と「根源→理念」の上昇(浄化)の動態が表現されていて魅力的だが、ここでは(ベンヤミン初期言語論の神学的性格に即して)第二の構図を採用したい。
《図1》歴史・根源・理念
〇
≪理念≫
ε…………………………………
(啓示) ↓ ↑
引用 ↓ ↑「浄化」
↓ ↑
【韻(ライム)】
↓ ↑
「反復性」↓ ↑
↓ ↑
δ==== ≪根源≫ ====
↑
「一回性」 ↑
↑
【律(リズム)】
↑
引用 ↑ 「破壊」
↑
γ━━━━ ≪歴史≫ ━━━━
※ε:アダムの言語 :名(Name)
δ:天使の言語 :ことば(Wort)
γ:人間の(諸)言語:言語(Sprache)
■根源・原形・言語ゲーム(2)─メタフィジカル篇(落穂拾い)
ベンヤミンが「生成の流れのなかに渦としてあり、発生してくる素材を自らのリズムのうちに引きずりこむ」ものと捉えた「根源」に関連する三木成夫の文章を引く。
◎宇宙の「根原形象」としての渦
《宇宙の根原形象を渦流とすれば、それは、自転と公転によってつねに新しい宇宙空間に螺旋の航跡を描き続ける、わが地球の姿に端的に象徴されよう。ところで、永遠回帰のこの運動により、宇宙の天体相互の間には、それぞれ「時の波動」が生み出され、例えば地球では、年ごとに新たな四季が廻り来ることになろうが、この時、この地球上の生物達はめいめいの「生の波動」でもって、その四季の推移に色どりを添える。》(「動物的および植物的──人間の形態学的考察」[ https://doi.org/10.11460/morpho1979.1980.2],『三木成夫──いのちの波』137頁)
注記1。三木成夫は『生命形態学序説──根原形象とメタモルフォーゼ』で、形態学の根底をなす「根原のかたち」をめぐって次のように述べている。「ゲーテはこれを“Urtypus”あるいは“Urbild”と呼ぶのであるが、ここではこれをあらためて「原形」と呼ぶことにする。根原形象の略であることはいうまでもない。」(236頁)
注記2。三木成夫は『胎児の世界──人類の生命記憶』「おもかげ──原形について」の項で、次のように書いている。「…いつとはなしに肌身にしみ込んだその顔[母親の顔]を、人々は「おもかげ」とよぶ。古くは「まぼろし」といったが、今日では「イメージ」のことばが使われ、形態学の世界では「根原の形象」、略して「原形」とよばれる。」
またいわく、ゲーテの「原植物」(原型=原形)を「それは経験ではなく理念(Idee)だ」と言ったシラーに対し、「ゲーテはこのIdee の本来の意味をギリシヤのEidos──“面影”──に求め、“それは実際にこの眼で見ることのできる”ひとつの現実であると答えている」(『生命形態学序説』239頁)。
◎宇宙の「根原現象」としてのリズム
《古来、中国では、宇宙の根原現象は「道[タオ]」で表わされてきた。そしてこの「道」は「リズム」であるという。この思想は、したがって、ギリシアの箴言「万物流転」すなわち「森羅万象はリズムをもつ」と、本質において異なるところはない。》(『胎児の世界』「東洋の「夢」」の項)
注記。『生命形態学序説』での議論。いわく、渦巻きのまた渦巻きのひとつの極限にかの「宇宙球」が成立している。この大宇宙のなりたちのひとつの「原形」として、自転しながら公転する地球の軌跡を考察することが可能であろう。一方、この極大の世界の「相似像」として極微(原子核と電子)の世界が開かれてゆく(6頁)。「ゲーテをして「生の根本原理」とまでいわしめたあの蔓の描き出すラセンの模様は、いまや宇宙の生きた象形文字としてわれわれの前に姿を現わすことになった。」(7頁)
──三木成夫は「根原形象」と「根原現象」をほぼ同義語として使用している(「根原形象→波動(リズム)」、「根原現象→リズム」、故に「根原形象=根原現象」というアブダクションの推論による)が、私は「現象」の方が「形象」より外延が広いと考えている。すなわち、ライムやモワレ、渦流や螺旋のような「かたち」(エイドス)を持つ現象=形象と、リズムや波動、流動のような「かたち」を持たない(アモルフでマテリアルな)現象があるのではないかと考えている。このことを、前節の図を「変形」(ライムとリズムの稼働域を下方移動)しそこに強引に書き込むと、次のようなものになるだろう。
(三木成夫の世界に足を踏み入れるとたちまち「三木学」あるいは「三木教」の渦流に巻き込まれてしまう。ターミノロジーまで揺らいでしまう。本章かぎりの特例として、あるいは三木成夫に敬意を表して、節名では「原型」に替え「原形」の語を採用した。)
《図2》歴史・根源・理念(変形版)
〇
≪理念≫
ε…………………………………
↓ ↑
↓ ↑
δ==== ≪根源≫ ====
<根原形象>
↑
↑
【韻(ライム)】
(モワレ、渦流・螺旋、拍節運動)
↑
↑
γ━━━━ ≪歴史≫ ━━━━
↑
↑
【律(リズム)】
(波動、純粋流動)
↑
↑
<根原現象>
β=============
※γ〜δ=メタフィジカルな帯域
γ =メカニカルな帯域
β〜γ=マテリアルな帯域
図中の「拍節運動」や「純粋流動」の出典は山崎正和著『リズムの哲学ノート』。同書第一章から「流動と抵抗」をめぐる序説的議論を引く。
《リズムを考える場合、この流動と抵抗の衝突はとくに重要であって、リズムが生まれるにはまず運動を流動へと導く抵抗が働き、そのうえでさらにその流動を堰き止める抵抗が必要となる。反復、往復といった拍節運動を起こすには流動を逆転させる障壁がなければならず、その拍節を単位として完結させるには流動の粘性がなければなるまい。
リズムを起こす流動をとりわけ純粋流動と呼びたい理由は、それがさまざまな異質の媒体を一貫して流れ、媒体の変質によって途切れることがないからである。海の波は風や海底の地殻変動など多様な原因によっておこるが、そのさい流動は力としては変わることなく、風や海底地震の流動から水の流動へと乗り換えて進んだと見ることができる。
だがこの流動がより大きな抵抗を受けて、もはや乗り換え不能に陥って堰き止められると、それはたんなる中断や消滅ではなく、独特の興味深い現象を見せることになる。この現象はこれまで常識的に反復運動や往復運動と呼び、拍節の流動とも呼んできたのと同じ現象だが、ここまできてあらためて子細に観察すると、この現象は新しい命名を必要とする特異な構造を持っていることがわかる。それはまた堰き止められるのは流動の媒体にすぎず、純粋流動それ自体はけっして停まらないことを如実に示す現象なのである。
それを私は日本庭園によく見られる「鹿[しし]おどし」になぞらえ、リズムを支える「鹿おどし」構造と名づけることにしたい。》(『リズムの哲学ノート』26-27頁)
私の「理論」の地勢学的布置から言えば、ここで議論されている「純粋流動」としてのリズムの稼働エリアは、図で示した「歴史/純粋流動/根源」ではなく「根源/純粋流動/歴史」のかたち、すなわち「α[地]/β:根源/β〜γ[海]:純粋流動/γ[波]:歴史/γ〜δ[風]:拍節運動/ε[天]:理念」の構図で考えるのが適切だと思う。(こうして議論は振り出しに、つまり「根源」を「下方」に位置づける(第69章《図2》の)構図に回帰する。)
ところで、私は、ここで言われる「独特の興味深い現象」(いわば言語の相転移現象)を、(反復運動や往復運動、拍節の流動などと同列の、常識的表現である)「韻(ライム)」という語でとらえたいと考えている。あるいは「韻」の概念を拡張し、無数の現象の生成と消滅の「一回性」(未完結性)を表現する「律(リズム)」に対して、恒存的な理念=原型の復元(啓示)としての「反復性」を表現するものとしてとらえていきたいと考えている。
■根源・原形・言語ゲーム(3)─メタフィジカル篇(落穂拾い)
いま一つ「根源」の概念をめぐるベンヤミンの文章を引く。
◎根源と原現象、内発的な展開
《ゲーテの真理概念について記したジンメルの叙述を勉強した際に、私には次のことが非常にはっきりとしてきた。つまり悲劇論で用いた根源〔Ursprung〕という私の概念は、このゲーテの基本概念の、自然の領域から歴史の領域への厳密かつ異論の余地なき転用であるということである。根源──それは原現象という概念を、異教的な観点で捉えられた自然の脈絡から、ユダヤ教的に捉えられた歴史のさまざまな脈絡に移し入れたものである。ところで、私がパサージュ論で行おうとしているのも根源の探究である。つまり私は、パリのパサージュのさまざま形成過程と変容の根源を、その始まりから終末に至るまで追って行き、その根源を経済的なさまざまな事実〔Fakten〕のなかで捉えるのだ。こうした事実は、もしそれが因果関係という観点から捉えられている場合には、つまり原因として見られている場合には、原現象〔Urphaenomen〕と言うことはできないであろう。経済的な諸事実が原現象になるのは、それらの事実がその内発的な発展──むしろ展開〔Auswicklung〕と言ったほうがいいかもしれないが──に従って、パサージュの具体的な、歴史上の一連の形態を自分自身のなかから出現させる場合に限られる。ちょうど植物の葉が、経験的な〔empirisch〕植物界の豊潤な全容を自らのうちから繰り広げてみせるように。[N2a,4]》(『パサージュ論 W──方法としてのユートピア』17頁)
注記1。「ゲーテにあっては知覚の対象となる感覚的世界と、その統ーを表わす理念的世界の媒介は根源現象[Urphaenomen]によるほかはなかった。時間的な(その意味で歴史的な)世界に姿を現わすものと、超時間的な(その意味で理念的な)世界に現われるものの媒介という点において、ベンヤミンはジンメルの根源現象の解釈を受け入れ、この概念の世界認識上の広がり、すなわち「現実と価値、感覚像と理念とを含んだ世界過程の全体」[ジンメル『ゲーテ』]性を把握する構造的原理を自らの認識理論の基盤に据えたのである。」(吉田前掲論文)
注記2。「…原現象とは或る普遍的なものである。然しそれは抽象的、悟性的なものでなく、この意味で法則といふよりもイデーもしくはエイドス(形態)であり、しかもこの場合イデーは経験から離れたものでなく、経験に即して直観され得るものである。」「テュプスは寧ろ生ける普遍として形成法則 Bildungsgesetz と解せらるべきであらう。」(三木清「ゲーテに於ける自然と歴史」)
──根源現象、根原現象(≒根原形象)、そして原現象と、様々な語(訳語)でもって言い表わされるゲーテ=ベンヤミン的概念を、ここ(この章)では、前節に記載した方針を踏まえて「根原形象」略して「原形」と呼ぶ。(前章で「原型イマージュ」と「反復イマージュ」と名づけたものを合成すると「原形イマージュ」に成る。)
話をややこしくするようだが、高橋義人著『形態と象徴──ゲーテと「緑の自然科学」』には「根本現象」という語(訳語)が出てくる。たとえば「われわれの眼が自然のなかに認識するものは、法則や原理といった生命の脱殻ではなく、永遠に生成しつづける現象である」(135頁)という「ゲーテ的方法」としての現象学(「現象学としてのゲーテ自然科学」(417頁)とも)をめぐる文脈の中で、高橋氏は次のように論じている。
いわく、スピノザ主義者としてのゲーテにとって神は現象の背後にあるのではなく、現象そのもののうちにある。背後世界などというものはなく、現象そのものが真理なのだ。
《根本現象の「背後に、またその上に、それ以上のものを見つけようとする」[『色彩論』教示篇]のは、根本現象を包んでいる「永遠の平安と栄耀」[同]を、つまりはスピノザ的な神を見ていないからである。「神性は自然界においても精神界においても、根本現象のなかに開示される」(エッカーマンとの対話、一八二九年二月一三日)。しかもこの神的な根本現象は、経験的現象の‘背後’や、その‘上’にではなく、ちょうど下絵の上にトレーシング・ペーパーを置いて、単純にして本質的な骨組だけを浮びあがらせたときのように、経験的現象の‘なか’に透視される。この場合、下絵の複雑な文様が捨象されるわけではない。下絵の文様はトレーシング・ペーパー上の文様と、経験的現象は根本現象と同時に観察されるのであり、だから両者は〈一にして全[ヘン・カイ・パーン]〉なる重層性を成している。そしてこの重層性に眼を留めたからこそ、ゲーテの自然科学においては多様なものと単純なもの、特殊なものと普遍的なものの解釈学的循環関係がたえず意識される。経験的現象を根本現象へと単純化するとともに、その根本現象からふたたび経験的現象へと眼を移すというように。》(『形態と象徴』152-153頁)
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高橋氏は別のところで、ゲーテの「根本現象」はカッシーラーの「すべての種の特殊態を内に含み、ある規則にのっとって特殊を展開する「具体的普遍」」にほかならないと書いている(143頁)。そして、「生きた現象の把握を目指すゲーテ的な言語」(417頁)をめぐる議論の中で、「永遠なる生成の過程にほかならない自然に即し」たゲーテの動的な文体において対象やわれわれ自身を完全に表現する「金貨としての語句」について、「それは根本現象、生き生きと生成する具体的普遍である」(418頁)と書いている。
根本現象=具体的普遍としての語句、それはすなわち自然自身が語る言葉、いわば自然の声である。高橋氏はそれを「形象言語」と呼ぶ。「…概念が人間に属しているとすれば、形象は自然に属している。ゲーテは人間が語る言葉のなかにしばしば嘘を、逆に自然が語る言葉のなかには真実を見た。」(420頁)
《自然に語らしめるということは、自然を‘説明’し、規定しようとする概念的言語ではなく、自然の「すがた」を生き生きと浮び上らせようとする形象的言語を用いることにほかならない。自然は形象を通して人間に語りかけてくる。語りかけてくる自然は数多くの意味の予感に充ちている。》(『形態と象徴』423頁)
このような「自然を形象的言語を用いて記述しようとするゲーテ自然科学」は、詩や造形芸術と密接な親縁関係に立っている(424頁)。
《ゲーテ的科学と詩や造形芸術を結びつけるもの──それは、両者がともに形象もしくは形態によって構築されているという事実である。(略)それは第一に「生き生きと生成する」形象であり、第二に諸部分の連関が直観のうちに把握される全体であり、そして第三に内なるものが外なるもののなかに反映されている象徴である。画布に描かれた形象は、動かないのに生きて見える。同じくゲーテ的言語においても、語句によって示された形象は生き生きと生成しているように感じられなければならない。したがってそこには存在と生成との間の相剋が認められよう。語句が形象を存在として固定化・概念化しがちなのに対して、言語はその形象を生成するものとして蘇らせようとする。ゲーテを有機体学の創始者であると名づけたR・シュタイナーの顰にならって言えば、ゲーテ的言語は有機的な言語にほかならない。》(『形態と象徴』425頁)
高橋氏が言う「形象言語」は、井筒俊彦の「コトバ」に通じている。井筒は、経験的世界の感覚的現実性が抹殺された絶対的非現実の空間に、「形而上的錬金術」によってある異次元の現実性を開顕させる詩人マラルメを「コトバの芸術家」と呼んでいる。コトバは経験的事物(存在の日常的秩序の中に感覚的実体=輪郭[コントゥール]として現われている花)を殺し、そうすることでただちに普遍的実在(馥郁たる花のイデーそのもの)を「音楽的に」(物質的事物の次元とは違った次元で)生起させる(『意識と本質』W)。
形象言語、ゲーテ的言語、有機的言語、等々の概念は、先の引用文に書かれていた、トレーシング・ペーパー(パランプセスト)によって透視される「根本現象」や「一にして全なる重層性」の話題ともども、メカニカルな帯域における言語現象を特徴づける「モンタージュ」──後に導入する私の語彙で言えば「拡張されたアナグラム」、すなわち、物質(複雑な文様、リズム)としての声と文字が、形象や意味(「すきとほった」水や風のような透明な意味)としての声と文字の「下絵」となっていること──の議論につながっていく。
■根源・原形・言語ゲーム(4)─メタフィジカル篇(落穂拾い)
ゲーテ発「原形(原型)とメタモルフォーゼの形態学」がベンヤミンの「根源」の概念に通じ、そしてウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」につながっていく。──以下、古田徹也著『はじめてのウィトゲンシュタイン』から、「ウィトゲンシュタイン的形態学」をめぐる議論を引く。
古田氏によると、ウィトゲンシュタインのゲーテ形態学の理解には次の二つのポイントがある(209頁)。@世界の物事を理解する「展望のきいた描写」を獲得するためには、個別の事象を関連づける「連結項」を発見することが肝心。A「展望のきいた描写」すなわち諸事象を一個の全体として秩序づける見方はひとつとは限らない。ポイント@でウィトゲンシュタインはゲーテ形態学の方法論の意義を大いに認めていたが、ポイントAはウィトゲンシュタインがゲーテから離反する決定的な分かれ目となる。
《…ゲーテの発想では、彼が多様な植物の間に連関を見たときに連結項となっていたもの、つまり葉は、‘原型’(‘原器官’)──あらゆる植物の形成の秘密を解き明かす根源、共通の本質──として位置づけられる。言い換えれば、現実にあるどんな植物も、原型からのメタモルフォーゼとして捉えられ‘なければならない’、と彼は考えるのである。しかし当然のことながら、葉を連結項として植物全体を見ることによって逆に見えなくなるものもある。たとえば、苔や海藻といった葉・茎・根の区別のない植物と、その他の葉をもつ植物との間に連関を見出すことは困難になるだろう。
以上の点からすると、ゲーテが「原型」と呼んだものは、ウィトゲンシュタイン流に言えば「像」にほかならない、ということになる。葉を連結項にして植物の各器官──子葉、幼根、花弁、萼など──の間に類似性を見出すというのは、‘葉のイメージで’植物の各器官を捉えるということ、つまり、‘葉の像のもとで’植物の各器官を捉える、ということだ。…〈葉のイメージで捉える〉といっても、その際に我々は具体的な形や色をした個別の葉をイメージしている必要はない。その意味で、ここで言う〈葉のイメージ〉ないし〈葉の像〉とは、現実に存在するどの個別の葉とも異なる抽象的なものだとも言える。しかし、繰り返すなら、そのような曖昧なイメージないし像に過ぎないものを、ゲーテは原型(根源、本質)として位置づけているのである。》(『はじめてのウィトゲンシュタイン』212-213頁)
(曖昧なイメージや像であっても構わないと思うが、ここはウィトゲンシュタインのゲーテ形態学理解をめぐる解釈が語られている場面なので、というより、絵や写真や映像といった(狭義の?)イメージ(Vorstellung)と区別される「像」(Bild)について、前期ウィトゲンシュタインはこれを「模型」と捉え、後期では「物事の特定の見方」(広義のイメージ?)としてこの語を用いたとする古田氏の解釈がベースとなっている議論なので、私意は控えることにして)、古田氏によると、ウィトゲンシュタインが強調するのは「像とは本来、現実の方が従うべき対象ではなく、‘現実の比較対象’である」ということなのであって「‘現実がどのようであるか’をあるがままに描写するために、像は用いられるべきなのである」(214-215頁)。
ウィトゲンシュタイン自身が挙げている「連結項」の例として、古田氏は、建築職人が「石板!」と叫び弟子が石板をもってくるという、極度にシンプルな言語ゲーム(『哲学探究』第二節)を取りあげる。
《ウィトゲンシュタインによれば、この例は多様な言語ゲームのなかでも、音声的な刺激に対する反応[リアクション]によって成り立つプリミティブ(原初的、素朴)な形式のものである。他の複雑で洗練された言語ゲームはすべて、このプリミティブな言語ゲームから発展したものだ、と見ることもできる。
そしてこの見方は、言語というものを捉える別の見方に囚われている者にとっては、その状況を打ち破る新鮮な言語観となりうる。たとえば、現実を写し取る模型という観点や、〈語→文→複合文〉という合成のアルゴリズムという観点からのみ言語を捉えようとしてきた者にとっては、一方の音声的な刺激に対する他方の反応という(言うなれば動物的で身体的、かつ相互関係的な)[メカニカルな!──引用者独白]観点から諸々の言語ゲームを見直すことは、これまで見過してきた言語の働きに目を向ける重要な契機になりうるだろう。それこそ、発話が身振りや表情や眼差しといったものと同様の‘振る舞い’としての側面をもつこと、反応[リアクション]である以上は自己完結したものではありえず相手を必要とすること、相手を動かし影響を与える‘行為’としての側面をもつこと、等々である。
その意味で、『哲学探究』第二節で描かれたプリミティブな言語ゲームは、言語ゲーム全体の見方を変える「連結項」の役割を果たしうるものだと言える。しかし、ウィトゲンシュタインがここでむしろ強調するのは、このプリミティブな言語ゲームはあらゆる言語ゲームの‘原型’──すなわち、あらゆる言語ゲームに共通の本質を与えるもの、あらゆる言語ゲームの一般的定義を提供するもの──‘ではない’、ということである。》(『はじめてのウィトゲンシュタイン』215-216頁)
つまり、ウィトゲンシュタイン的形態学における「連結項」(原型=原形)はひとつではない、ということだ。さらに、「連結項」は現実に存在する事象に限られない。政治形態の成り立ちや意味を説明する比較対象として持ち出された「自然状態」のように(219頁)。
《彼にとって哲学とは、物事の様々なアスペクト(相貌、側面)のうち、あまりに日常的で馴染み過ぎているために注意を向けていないもの──しかし、それゆえに我々にとって極めて重要なもの──に目を留めようとすることであり、その意味で、物事の極めて重要な連関を見ようとすることである。そして、その見方の転換[*]をもたらす連結項は、なにも現実に存在する事象である必要はない。実際、ウィトゲンシュタインの遺稿を繙けば、架空の部族や火星人の実践など、創意工夫に富んだ例が躍っている。我々は、彼が発明(創作)したそのような奇想天外なモデルも比較の対象としながら、自分たちの目の前にあるものに──たとえば、我々が日々行っている種々の言語ゲームに──注意を向け、我々が何をしているのかをあらためて新鮮な眼差しで捉え直すことができるのである。》(『はじめてのウィトゲンシュタイン』220-221頁)
ウィトゲンシュタインはある遺稿のなかで「現象の背後に何も探してはならない」というゲーテのモットーを引用している。「ウィトゲンシュタインはこのモットーに‘当のゲーテ以上に忠実だった’」(226頁)。
[*]物事の「見方の転換」(アスペクトの転換)をもたらす体験、たとえば判じ絵(隠し絵、だまし絵)のように「無秩序に見えていたものが全体として急に秩序立って見えてくる」(274頁)という体験を、ウィトゲンシュタインは「アスペクトの閃き」と表記した。「ゲーテの探究、すなわち、無秩序に生い茂っているだけに見える多様な植物の間にゲーテが類似性を見て取った瞬間──彼自身の認識では、植物の「原型」を捉えた瞬間──も、まさに「アスペクトの閃き」を彼が体験した瞬間だったと言えるだろう」(275頁)。
以下、「アスペクトの閃き」に関する興味深い話題を二つ引く。
その一。ウィトゲンシュタインは、言葉の相貌が転換する「アスペクトの閃き」の体験に関連して、アスペクトの切り替わりを体験すること(「ウサギ=アヒル」図がウサギやアヒルに見えることに「驚く」こと)ができない「アスペクト盲」(287頁)という「比較の対象」を考案した。アスペクト盲の人は知覚に障害や異常があるわけではない(「ウサギ=アヒル」図をウサギやアヒルとして見ることはできる)。では、その人は実際のところ何を失っていることになるのか。
この問いに対するウィトゲンシュタイン自身の答えのひとつは、アスペクト盲の人は言葉遊びが理解できないというもの。アスペクト盲の人は言葉がもつ豊かな奥行きや含意をそれとして把握することができず、詩的な表現の多くを味わえない。
《たとえば、アンデルセンの「旅することは生きることである」という隠喩が奥深い詩的な趣を帯びるのは、少なくとも、この言葉を聞いたときに我々が、「旅の過程は人生の縮図になっている」という意味や、あるいは「旅をしてこそ生きている実感を得ることができる」、「旅とは、ひとつ所に留まらず新たな経験をし続けることである」等々の多様な意味を──つまり、この言葉の多様なアスペクトを──読み込むことができるからだと言えるだろう。
では、言葉遊びを楽しむことや詩的表現を味わうこと、多義語を多義語として理解することは、アスペクト盲ならぬ‘我々にとって’どのような意味や重要性をもつのだろうか。──この探求に踏み込むことは。もはや本書の守備範囲を超えている。》(『はじめてのウィトゲンシュタイン』289-290頁)
その二。後期ウィトゲンシュタインは「アスペクトの閃き」という体験に多大な関心を向け、多種多様な具体例を並べていく作業を行っている。「それは、様々に異なる「アスペクトの閃き」の間の家族的類似性を看取するという、‘それ自体がひとつの「アスペクトの閃き」であるような体験’を準備する作業なのである。」(291-292頁)
──「言葉遊びを楽しむことや詩的表現を味わうこと、多義語を多義語として理解すること」の意味については、人間の(諸)言語のメカニカルな帯域における「拡張されたアナグラム」の議論のなかで、考察してみたい。また「家族的類似性」の概念を、マテリアルな帯域における「模倣原理」とメタフィジカルな帯域における「反復原理」の合成によって成る第三の原理(「面影原理」とでも言おうか)のうちに取り込み、メカニカルな帯域のダイナミズムを解き明かす鍵概念として精錬していきたい。
■言語情調論をめぐって─メカニカル篇へ、やまとことばへ
メカニカル篇への内圧が高まってきたところですが、気になっている話題に「決着」をつけておかないと、安心して先へ進めません。
メタフィジカル篇の議論の中で、折口信夫の『言語情調論』への接続を果たせなかったことについて、「釈明」をしておきたいと思います。私の当初の「構想」では、マテリアル篇の中核というか根源に吉本隆明の『母型論』を据え、メタフィジカル篇でこれと同様の場所に『言語情調論』を位置づけることになっていました。しかしその後、考えが変わってきたのです。
第67章で、安藤礼二著『折口信夫』から次のふたつの文章を引きました。
A「『善の研究』の「序」に言う「純粋経験」を「純粋言語」と置き換えてみれば、『言語情調論』からはじまる折口信夫の古代学の射程を、これまでとはまったく異なった側面から捉え直すことが可能になるだろう。「純粋言語」、表現における直接性の言語を唯一の実在として、世界のすべてを説明してみること。」
B「折口信夫は『言語情調論』でまずボードレールの名前を挙げ(「ボゥドレィルの神秘の門を開くべき唯一の鍵は色・音・匂である」)、自身の「象徴言語」(直接言語)の輪郭を描くことをはじめる。/折口は「和歌批判の範疇」においても『言語情調論』においても、その結論部分で言語における聴覚と視覚の共感覚現象、「斜聴」を論じている。(略)/折口はこの後、「象徴言語」の発生を、主客の区別が消滅してしまう「憑依」に探り、「国文学の発生」という論考を書き継いでゆく。そこから折口の古代学がはじまる。」
私のターミノロジー、というか概念の地勢図から見れば、引用文Aのように、折口信夫の「象徴言語」(直接性の言語)を「純粋言語」と置き換えるのは「上方」からのアプローチ、つまり人間の(諸)言語のメタフィジカルな帯域における出来事として「象徴言語」を捉える立場であり、一方、引用文Bで述べられている共感覚や憑依といった事柄は、人間の(諸)言語のマテリアルな帯域に属する事象、つまり「下方」からのパースペクティヴによって炙り出されるものにほかなりません。
『言語情調論』ひいては折口信夫の学問(古代学)は、メタフィジカルな帯域とマテリアルな帯域、上方と下方が交叉する場に根差している。そういう意味では、メカニカル篇をこそ本籍とするものだったのではないか。というか、そのように位置づけてこそ『言語情調論』ひいては折口学を「生かす」ことができるのではないか。そのように考えて、私は『言語情調論』をメタフィジカル篇の話題としてとりあげることを断念し、メカニカル篇に委ねることにしたのです。
しかし、(これはまだ直観的な物言いでしかありませんが)、おそらく折口信夫の議論はメカニカル篇の議論を超えています。それどころか、人間の(諸)言語の三帯域構造そのものを超えて、文字以前の初期状態の言語の「幼体」を保持するやまとことばのネオテニー性(あるいは「詩語」としてのやまとことば)をめぐる議論へと誘導し、その根源をしつらえる射程の広さと深さをもっている。
安藤礼二氏は『折口信夫』の第八章、「生命の指標」の項に次のように書いていました。(安藤氏が言う「過去(古代)の記憶」は三木成夫の「生命記憶」[*]と響き合う。)
《折口信夫は「祝詞の生命標[ライフインデキス]」という一節が記された「声楽と文学と」のなかで、自身が『古代研究』をはじめるにあたって、民俗学篇1の巻頭論文「妣が国へ・常世へ」に据えた「間歇遺伝」(アタヴィズム)の方法も、単に心理状態の変化だけでは発動されず、ライフ=インデキスとしての「祝詞」を実際に唱えているときにこそ発動されると説いている。霊魂として存在する「音」に導かれ、はじめて古代という「記憶」が甦るのである。「祝詞」は記録され、ただそこに存在しているだけでは歌としての生命をもたない。詩人によって実際に口ずさまれるとき、はじめて生命をもった歌となり、過去を甦らせる…。
現在の音と現在の記憶に導かれて過去の意味と過去の記憶が甦る。詩語の生命とは、音と意味の間に、音と意味の「差異」そのものとして、つまりは現在の時空と過去の時空の「差異」そのものとして孕まれる。古代とは、霊魂として存在する「祝詞」、歌を発生させるライフ=インデキスとしての詩語に宿るのだ。だからこそ、折口信夫は釈迢空というもう一つの名前、おそらくは「死者」の名前を使って、生涯歌を創り続けなければならなかったのである。歌が詠まれる度ごとに、古代が甦り、「死者」たちが甦ってくる。「発生」とは原初のとき、起源のときに行われたただ一度のものには限られない。歌とともに「発生」は繰り返され、過去と現在の記憶が一つに溶け合い、そこから新たな表現が生み落とされる。》(『折口信夫』374-375頁)
──韻(ライム)の反復性と律(リズム)の一回性が「現在の音」(アクチュアルな音)のうちに溶け合い、そこから「古代」が発生する。発生、すなわち受肉と憑依による死者たちの(隔世遺伝的もしくは幼体成熟的な)甦り。古代、すなわち原型と母型の重ね合わせによる(ヴァーチュアルな)記憶の発生。
[*]たとえば『胎児の世界──人類の生命記憶』の「胎児の夢」(夢野久作『ドグラ・マグラ』に登場する論文)を取りあげた箇所で、三木成夫は次のように書いている。
《夢野久作はまた「夢」の世界を同じ細胞記憶の窓から眺める。これを形態学のことばでいいかえると、それは、睡眠時に優勢な「内蔵系」の興奮が、覚醒時に優勢な「体壁系」の細胞記憶をよみがえらせる、ということになるのであろう。日常のことばでいえば、睡眠中の内臓感覚が、かつて体得した出来事を夢のなかに呼びさますのである。この「体壁記憶」は久作自身も強調するように、臍の緒を切って以後のものだけでなく、生命発生いらいのすべてを包含し、さらに次章で述べる宇宙的な「内蔵記憶」までをも糾合するので、夢を構成する全細胞記憶の分量は、まことに膨大なものとなるのでなければならない。(略)
こうして細胞のもつ生命記憶の世界を共通の舞台として、胎児の世界と夢の世界とがにわかに近縁のものとなってくる。両者ともに、その記憶が、生命の奥底からむくむくと頭をもたげてくるのだ。これが「深層」とよばれるものの正体であろう。このような生命記憶の、前者が一糸乱れぬ“再現”であるとすれば、後者はいうなれば酔狂の“再燃”か。ともに、遠いかなたが、現実に翻然とよみがえってくるのである。
本書の冒頭では生命記憶の回想が述べられた。それは、「いまのここ」に「かつてのかなた」のよみがえる世界であった。》(『胎児の世界』)
ここから先は私の夢というか妄想だが、折口信夫の「古代の記憶」と三木成夫の「生命記憶」の概念を(「物質/生命/精神/意識」の四世界論(第7章参照)と組み合わせて)かの地勢図のうちに落とし込むと、「α[地]:物質(エレメント)の記憶/β[海]:生命記憶/γ[波]:人間の言語・歴史/δ[風]:古代の記憶(精神)/ε[天]:純粋言語・神の記憶(意識)」の構図が得られる。
(50号に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。
Web評論誌「コーラ」49号(2023.04.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第72章 人間の言語の三帯域論(メタフィジカル篇・承前)(中原紀生)
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