Web評論誌「コーラ」44号/哥とクオリアア/ペルソナと哥 第63章 純粋経験/私的言語/アレゴリー(その4)

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Web評論誌「コーラ」
44号(2021/08/15)

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■はじめに情動があった
 
 無内包の現実性あるいは物自体(のお零れ)を語る言語の第一類型、〈感情〉(feeling,affection,affect)をめぐる私的言語について考察する手がかりを得るため、二人の論者の議論を引きます。いずれも、起点もしくはベースとなるのは「情動」(emotion)です。
 
 1.世界に線を引くこと
 
 河本英夫氏は、『談 no.76』(2006年11月)に収録された十川幸司氏との対談のなかで、次のように語っている。
 いわく、人間のこころの二つの働き、すなわち「認知」(感覚・知覚、思考)と「情動・感情」のうち、後者は「直接現れないもの」が「直接相手に伝わってしまう」という厄介な性質を持っている。「情動や感情というのは、それとして分析をかけて知るという関わり方が、本当はできない対象なのかもしれません。情動や感情に関わることは、まさにその動きを共有したり、それを介してこころの動きに変化を及ぼすことで、それこそが情動や感情の主要な働きです。それがなんであるかを知ることは、本来の関わり方ではない、きわめて傍流のやり方です。」(26-27頁)
 またいわく、認知能力が分析的な働きを始める手前で何かよくわからないが確実に現れているもの、それを「現実」と呼ぶならば、そのような「現実性をそれとして成立させる、つまり物自体のところから現実が出現するところ」で働いているのが「注意」である。「この「注意」の働きに、どうも情動や感情が相当関与しているように思います。」(28頁)
《世界が輪郭をもつ際に、一般に世界に線を引いてみる。この線を引く活動によって、まさにそれと同時に現実性が出現する。この線を引く行為に情動や感情がおそらく不可分に関わっている。生じた後の現実が何であるかを知る働きが、知覚です。したがって知覚の手前で注意が働き、注意と共に情動・感情が働いているのが実情だろうと思います。》(「〈対談〉情動の回路……精神分析とシステム現象学から考える」、『談 no.76』29頁)
 ここで十川氏いわく、マッテ・ブランコが情動について興味深い議論を展開しているが、そのベースにあるのは「無意識と情動は同じ働きをする」という発想で、無意識=情動においては部分が全体とイコールになる(31頁)。
 なお、対談では「情動・感情」と一括りに語られているが、河本氏は『システム現象学──オートポイエーシスの第四領域』で、次のふたつの仮説を立てて両者を区別している。
 
【情動仮説】
・認知システムが創発を続けた結果、それが行動システムとは独立な場面まで進展すると、認知的にわかっているのに行為として対応できない広大な領域が生じる。この(生後一年近くまでの人間において著しい)認知と行為とのギャップを埋めるための生存機能として出現する「行為隣接的」な能力が情動である。
 
【感情仮説】
・認知能力が高次化し、対象が「それとして」限定的に捉えられることの剰余が出現したとき、おのずと「認知隣接的」な働きとしての感情(喜怒哀楽)が出現する。
 色彩・音のような運動性を含む感覚が特定の知覚対象として捉えられるとき、この感覚の運動性は対象の知覚に回収されず、残された剰余がある種の感情となる。また言語を介した認知の場面で、経験の言語的分節化にともなう対象特定の剰余として、音韻やリズム感からなる運動性の働きがある種の感情となる。
 
 河本氏の議論でとりわけ興味深いのは、「情動・感情の働き(この世界に線を引くこと)を通じて(この世界の)現実性が出現する」の部分である[*]。このアイデアは、〈世界〉の開闢の後、最初に立ちあがるのが〈感情〉の私的言語で、次に立ちあがるのが〈現実〉をめぐる私的言語である、という私の「仮説」を支えてくれる。
 
 2.嘘つきの言語と正直な感情
 
 岡ノ谷一夫氏は、「音声と表情が伝えるもの:コミュニケーション信号の進化」(『高次脳機能研究』38巻1号,2018年)で、人間における言語と感情の創発をめぐる仮説を提示している。以下、「言語と感情の起源」(国立情報学研究所オープンハウス(2012年)における基調講演)を参照しつつ、その議論の骨格を抽出する。
 
T.情動から歌へ(共感)
 
・情動は動物行動を駆動する適応システムである(接近と回避)。
・情動変調が発声をつくり、情動発声(emotional vocalization)が「歌」になる。
・情動発声は、人間性の要である言語と感情の双方の基盤となる。
 
U.歌から言葉へ(分節化)
 
<言語への準備(3つの前適応)>
@発声可塑性(発声学習)
・飛行時、潜水時に呼吸制御を行う鳥と鯨、産声を発するヒトだけが、発声信号に意図的な変調をかけ、外部の音声(他者の発声)を自分の発声系で再現することができる。
A音列の切り分けから文法へ
・音列分節化の能力(前頭前野と大脳基底核の相互ループ構造による)は、言語の生物学的基盤のひとつである。
B状況の切り分けから意味へ
・状況分節化の能力(前頭前野と海馬の相互ループ構造による)が、コミュニケーションの文脈理解に関わっているらしい。
 
<相互分節化仮説>
・歌と歌との共通音列と共通状況の相互分節化によって言葉が生まれた。
・状況A(狩りに行く)と状況B(食事に行く)があり、歌Aと歌Bがそれぞれの状況で歌われるものとする。歌A・Bに共通する音列が分節化されると、二つの状況の共通部分(みんなで〜する)との連合が生じる。
 
V.情動+言葉=感情(カテゴリ化)
 
・成立した言語の働きによって情動が分節化され、喜び・悲しみ・怒り・嫌悪・恐怖・驚きの基本感情にカテゴリー化される。
・情動は即自的だが、感情は文脈的である。情動は意識されたとたんに感情になる。
 
W.人間特異的コミュニケーション
 
・言語と感情が二つの柱として人間のコミュニケーションを支えている。
・言葉による発話内容には嘘が入り込む(編集可能である)が、発話行動は音律・表情・動作などの情動表出を伴う「正直な信号」である。言葉(正直でない信号)が淘汰されずに進化できたのは、常に情動とともに発せられたからではないか。
 
[*]「それがなんであるかを知ることではなく、その動きを共有したり、それを介してこころの動きに変化を及ぼすこと」こそが情動・感情と関わることだという河本氏の主張、情動は無意識とイコールであるという十川氏の主張も興味深い。いずれも、本章を書きあぐねていたちょうどそのとき刊行された新著の冒頭に、著者の中沢新一氏が、この書物(『レンマ学』)は鈴木大拙や井筒俊彦が創出を企てた新しい「学」、すなわち「レンマ的直観論理」による「学(サイエンス)」の構築をめざしていると書いていた、その「レンマ学」につながっていく。
 
■我らホモ・シネマトグラフィクスの末裔(前段)
 
 素材蒐集をつづけます(前章の「私的な註」で示唆した、クオリアとペルソナの中間地帯におけるアレゴリー=文字像の理論的位置づけを、その輪郭なりともあらかじめ一瞥しておく意図もこめて)。まず、石田英敬著『大人のためのメディア論講義』の冒頭の一文から。
《一九九四年に発見された、フランス南部のショーヴェ洞窟は、人類最古の動物の絵に覆われています。突進する牛の頭は何重にも輪郭線をかさねてえがかれ、疾駆する野牛や飛びかかるライオンの四肢は幾筋もの線を重ねて、いまにも動き出しそうに、文字通り‘動く画’として描かれている。篝火のゆらめく洞窟の暗がりに浮かび上がった動物たちの運動は、映画のショットの連続のように描き出され、物語的なコマ割の分節のなかに連ねられています。人びとのこだまする唄いと語りとともに、猛獣を追い狩りをする人間たちと群れをなしひしめき合い角を突き合わせる動物たちの疾走と鳴き声が、まざまざと目に見え耳に聴こえる、洞窟とは先史時代のシネマ装置だったのです。
 クロマニョン人たちとは、「ホモ・シネマトグラフィクス(運動を描[か]くヒト)」だったと、この洞窟を調査した洞窟先史学者のマルク・アゼマは書いています。シネマトグラフの語源は、「動きを(cine'mato-)書き取る(graphe)」ですから、クロマニョン人たちは、「運動の文字」を「書/描[か]いて」いた。そのように、先史学者たちは結論づけているのです。》(『大人のためのメディア論講義』「はじめに」)
 フォトグラフやフォノグラフやシネマトグラフの語尾「グラフ」をめぐって、第二章「〈テクノロジーの文字〉と〈技術的無意識〉」では、次のように書かれています。「グラフというのは、「書き取り」という意味で、語源になっている graphein はギリシャ語でカク(書く・描く・画く・掻く)という意味です。つまりこれらの呼称が示しているのは、これらはみな一種の文字であるということ、メディアとは、「文字[グラフ]テクノロジー」の問題なのだという事実です。」
 さて、以上のことを「前置き」として、これより『新記号論──脳とメディアが出会うとき』(東浩紀との共著)での、石田氏の議論を引きたいと思います。
 その議論というのは、フォトグラフ(写真)=光(photo-)の文字、フォノグラフ(レコード)=音声(phono-)の文字、シネマトグラフ(映画)=運動(cine'mato-)の文字、といった具合に、一般化された「文字」(49頁)をめぐる問題(新記号論)を、洞窟壁画の比喩でもって語られる「メディアのかたち」(96頁)をしたヒトの心=脳をめぐる問題(フロイトの心的装置=言語装置論)に接続させたものです。
 以下、同書の第2講義「フロイトへの回帰」を中心に、石田氏の議論(のうち、本稿にかかわる部分)を抽出します。
 
T.初期フロイト
 
1.「ヴァーチャル」な言語装置
 フロイトは『失語症の理解に向けて』(1891年)で、言語中枢の解剖学的な局在説(ヴェルニッケやリヒトハイム)を否定し、これに代えて、複数の皮質野の言語連合を司る仮想的な働きとして言語装置を理解する道を提示した。(110-111頁)
《特筆すべきは、フロイトが言語装置を「仮想的に」動いていると見ていることです。つまり、ある部位が言語能力を器質的に支えているのではなくて、複数の部位が機能連合することでヴァーチャルな装置として機能している、言語装置はヴァーチャルな装置なんだということです。》(『新記号論』112頁)
2.語表象と物表象─初期フロイトの記号論
 フロイトは『失語症の理解に向けて』で、言語活動を「語表象」と「対象表象」(=『夢解釈』における「物表象」)の結合として理論化した。これは初期フロイトの記号論として読めるものだ。
《「語表象」とは、聴覚、視覚、筋運動に由来する、複数の心像(イメージ)の協働からなる「複合的な表象」です。ソシュールの用語で言えば「聴覚イメージ」としての「シニフィアン」に対応する「音表象」を代表として、発話・書記および聴取・読解に関わる心像──書字的、聴覚的、印字的、運動的などの心像──と結びついています。
 それに対して、「対象表象」[=物表象]は「対象物」から受け取る「感覚印象」の複合した表象です。感覚印象というのは、見たり、聞いたり、触ったりするときに感じ取る印象のことですが、これらの感覚印象が、「視覚的連合」に代表されて「語表象」と結びつき「意味」を生みだす、とされています。》(『新記号論』113頁)
3.重層的な記号の書き込みと転記の装置
 「心理学草案」(1895年)の頃のフロイト(=神経学者フロイト)が、記憶のメカニズムについて述べたフリース宛て書簡をめぐって。
《書簡のなかでフロイトは心的メカニズムを重層的な記号の書き込み装置として概念化し、「知覚W」→「知覚指標Wz」→「無意識Ub」→「前意識Vb」→「意識Bew」へという転記のプロセスを図式化しています。つまり、ニューロン間で想起痕跡の転記が繰り返されることによって、無意識や意識といった心的現象がかたちづくられていくわけです。》(『新記号論』122-123頁)
U.フロイトの第一局所論
 
4.メタな感覚器官としての意識
 フロイトは『夢解釈』(1900年)で、人間の心の装置のモデル化を試み、「無意識系(Ubw)−前意識系(Vbw)−意識系(Bw)」からなる「第一局所論」を提出した。
《ここでは、意識(Bw)というものが、知覚(W)から前意識(Vbw)へといたり、そして運動(M)へ向かうという心的現象を再帰的に捉えるメタな器官として働くことが述べられています。(略)つまり…基本的にフロイトの局所論は変化せず、「前意識」のつぎには、「意識」系が「重層的感覚器官」として「知覚末端W」から「運動末端M」へいたるサイクルを再帰的に捉え返すというフローを考えていたことがわかります。》(『新記号論』143頁)
5.無意識(物表象)から前意識(語表象)へ、言語記号の成立
 心的装置と言語装置との関係をめぐって、フロイトは『夢解釈』で、前意識は「語表象」に結びついていると述べている。したがって、前意識よりまえは、フロイトの理論で言う「物表象」だけのプロセスである。(145頁)
《ちょっと「情報」とか「モジュール」というフロイトにはない用語を使って整理すると、知覚末端から無意識の痕跡系までは、そのような[開かれた連合としての]物表象のまま情報の入力は進行し、最後の前意識のモジュールにいたって、閉じられた集合としての語表象というものに結びついて意識されうるような表象がまとめられると考えていたわけです。
 このことをフロイトは「一次過程」と「二次過程」という概念で区別しています。(略)すなわち一次過程とは、ばらばらな物表象がさまざまな連合[アソシエーション]を繰り広げ、ネットワークをつくりあげていく開かれたプロセスであるのに対して、二次過程は、前意識において、物表象が語表象と結びつくことによって、心的な連合が固定化されて集合が閉じていくプロセスです。(略)
 これを記号論として見れば、物表象だけの一次過程ではまだ言語記号は成立していません。二次過程で前意識が働き、語表象と結びつくことではじめて言語記号が成立するわけです。そしてこのように言語記号が成立するプロセスを、意識というメタ器官が再帰的に捉え返すことで、意識的な思考活動というものが展開していくことになります。》(『新記号論』146-148頁)
6.無意識はシネマトグラフィーのように構造化されている
 フロイトへの回帰を掲げたラカンは「無意識は言語のように構造化されている」と語ったが、フロイトの第一局所論において言語のように構造化されているのは前意識である。前意識以前、言語記号成立以前の一次過程(想起痕跡系)は、「光学的メタファー」を使って述べられる。(148-149頁)
《映画においては、シネマトグラフィックな映像の断片であるラッシュ・フィルムを編集して、シナリオがことばをつけることで、記録された知覚経験が分節化つまり物語化され、「合理化」されます。しかし、その合理化の「残余」として、言われざること、検閲内容、つまり抑圧されたものもまた、つねにすでに言われぬままにとどめ置かれている。これと同じようなプロセスが、人間の心のなかで働いているのだとフロイトは考えているようなのです。(略)フロイトにとって精神分析は、ライブの実演なんです。リアルタイムで言葉も連想もどんどん流れていく。だから、その場で書きとどめたりできない。このメディア的なスピードで作動する心の時間性をモデル化しようというのが、フロイトの「心の装置」の狙いなんだとぼくは思うわけです。‘無意識はシネマトグラフィーのように構造化されている’。これこそが、「フロイトへの回帰」が教える中心命題なのです。》(『新記号論』150頁)
 以上のことを踏まえると、なぜ夢は映像として見られるのかがわかってくる。
《リュミエール兄弟の発明したカメラが撮影と投影とをともに行ったのと同じように、フロイトの心的装置もまた、感覚末端から入力された興奮が想起痕跡系、無意識、前意識、意識、運動末端へと伝播する覚醒時のプロセスとは反対に、睡眠では興奮は逆向きに感覚末端へと向けて退行してゆき、夢のスクリーンの上に幻覚的な投影が引き起こされるのです。》(『新記号論』152-153頁)
■我らホモ・シネマトグラフィクスの末裔(後段)
 
 これまでのところは、いわば貫之現象学A層の復習、あるいは、そのフロイト=石田ヴァージョンによる語り直しでした。というか、私はそのつもりで、石田氏の議論を要約しました。ここからが「本論」になります。第3講義「書き込みの体制2000」での、「情動と身体」「記号と論理」のテーマをめぐる議論も含めて、抽出作業をつづけます。
 
V.フロイトの第二局所論
 
7.第一局論と第二局所論との連続性
 フロイトは『自我とエス』(1923年)で「自我、エス、超自我」からなる第二局所論を導入した。これは第一局所論の図式をほぼそのまま脳の輪郭の上にプロットしたものと考えることができる(157頁)。
 『続・精神分析入門講座』(1933年)で示された図式では、「自我」は前意識と無意識の中間に、「エス」は無意識の界域に(ただし下方が開いて、つまり身体の次元へと開かれたかたちで)、そして「超自我」は「自我」の左方(左脳の側)に(『自我とエス』の図式で外部に描かれた「聴覚帽」を内在化したかたちで)、それぞれ書き込まれている。
《フロイトは、内在化された超自我の審級は、聴覚的な「語表象」と通底していると言います。つまり、耳で聞いた禁止や掟の歴史的な蓄積が超自我となって、自我の一部に食い込んでいるのだ、と。したがって「超自我」では、外界の声を聞き取る「聴覚帽」と、無意識のレベルでエネルギーを備供しているエスとが結びついていることになります。》(『新記号論』165頁)
8.情動と身体─フロイトとスピノザ
 フロイトの「エス」(身体的な欲動や興奮のエネルギーがわきあがってくる審級)がスピノザにつながる。「フロイトのスピノザ化」へと進むため、石田氏はダマシオの議論を援用する。(220-221頁)
 ダマシオは『感じる脳』で、「情動[emotion]は身体という劇場で演じられ、感情[feeling]は心という劇場で演じられる」、「感情とは、ホメオスタシス調節の他のすべてのレベルが心的に表出したものである」と述べた(心身平行説)。この「情動/感情」の区別は近似的に「エス/自我」に対応する。(223-224頁)
 あるいは、東浩紀が言うように、「情動(物表象)が記号化し、分節化して感情(語表象)も変化する。それが一方では個人単位で身体内で起きており、他方では集団単位で社会のなかで起きている」(240頁)。
《…スピノザは、欲望や感情を、自己保存則やホメオスタシスに関連づけて定義していることがわかります。affectio は訳によっては「触発」とか「影響」とか訳されている言葉です。けれど、ぼく[=石田]は、この言葉は「感情 affectus」とセットになったほうがわかりやすいと思うので「感応」と訳します。ここ[『エチカ』第三部定義三]で、感情は、身体の「感応」だと言っていることが重要です。》(『新記号論』247頁)
 これを受けた東浩紀の「整理」。──「スピノザにおいては、「感情」は、身体と身体のあいだの「感応」として考えられていた。…したがって、フロイトの欲動の概念を、ダマシオを通ったうえでスピノザ的に解釈すると、情動が記号化されて感情になるだけでなく、その感情は人間と人間をつなぐ=感応するメディアにもなる。」(247頁)
 
9.記号と論理─フロイトとパース
 ダニエル・ブーニューが提案した「記号のピラミッド」は、パース記号論による三分類「類像(アイコン)→指標(インデックス)→象徴(シンボル)」に独自の解釈を加えて、「指標→類像→象徴」(底辺から頂点へ、自然的な物や接触というレベルから絵や図、そして法則的なコミュニケーションへ)と順番を変えたもの(257-259頁)。
 パース記号論ではピラミッドのボトムを「基底 ground」と呼ぶ。パースのグラウンドとは意識や意味を経験するときの「観点」のことで、パースはブーニューの順番とは異なり類像(アイコン)に記号の一次性を認めた。
《…パースの場合、…「いま・ここ」という現在に、純粋な質である quale の経験があって、その性質が記号として存在すると考えたわけです。quale の複数形は「クオリア qualia」です。たとえば、純粋な赤さという独特の質の経験がクオリアです。パースは、感覚の質(qualities of feeling)ということもさかんに言っています。たとえば、ぼくたちは音楽を聴いて、それが心地よいとか暗いとかいろいろな感覚の質を感じますね。音楽をそのように気分として受け取っているときには、音を情動的な観点から暗いとか心地よいと聞かせる解釈過程が聴くひとの心に介在している。そういう場合には、気分つまり情動の観点から音を聞き取る、「情動的解釈項 emotional interpretant」による解釈過程であるとパースなら考えるわけです。つまり、情動(emotion)の記号過程[セミオーシス]もパースの記号論のなかには組み込まれているわけです。
 ものごとのクオリアこそが本質となる記号、それはパースの三分類の言う「類像」にあたりますから、パースでは類像記号に一次性を認めることになります。パースは、記号のピラミッドの基底には、「可能性としての類像」と呼ぶようなクオリアの経験があると言います。かれはそれを「純粋なアイコン pure icon」と呼びました。ピュアアイコンにおいては、まだ、経験している質がどういうものかという対象化がありません。それに対して、対象化が行われたものは、ヒュポアイコン(hypoicon)、つまり低次のアイコンと呼んだ。パースの枠組みで、さきほど指摘したブーニューによる指標と類像との順序の逆転をあえて整理すると、類像にはふたつのレベルがあって、まずクオリアとしてのピュアアイコンがあり、つぎに対象との関係が指定された(つまり記号関係が二次化した)あとにヒュポアイコンが成立するというふうに整理されることになります。(略)
 …そして、このように見ると、パースにおける記号すなわちサインの接地[grounding]問題は、ダマシオの「情動/感情」の議論とぴったり合うことになります。両者はともに、感情あるいは感覚のもとになる情動をベースにして、記号や意識の理論をつくろうとしているからです。》(『新記号論』277-279頁)
 ──スピノザとフロイトとパースが、石田記号論において邂逅する!
 とりわけ興味深いのは、(パース=)ブーニューの記号のピラミッド「クオリア[pure icon]→指標(index)→類像([hypo]icon)→象徴(symbol)」と、石田氏が言う痕跡技術「痕跡(Traces)→像(Image)→文字(Letter)」との対応であり、コミュニケーションのレベル「身体(Body:feeling/affection)/精神(Mind)」との相関です[*]。「ソシュール記号学は、あくまで「言語」という象徴のレベルに重点を置いていました。それに対して、パースとブーニューにもとづいたぼくの記号論では、…絵・像になるようなアイコンも、声・イメージのわずかな痕跡、つまりインデックスも記号論の対象に入れて人間の文字全体を捉えることができます」(260頁)。
 
 さて、これまでの議論、とりわけ情動と感情に関する河本氏の仮説と、情動をベースにした岡ノ谷氏の言語創出論とを強引に一括し、そこにスピノザ=フロイト=パースをめぐる石田氏の議論を下絵として潜ませて図示すると、次のようになるでしょうか。
 
   《図》感情と言語の世界
 
         【個人】
          ┃
        α  ┃ β
          ┃
  【 心 】━━━━━╋━━━━━【身体】
          ┃
         γ ┃ δ
          ┃
         【集団】
 
 ※α=認知システム(⇒言語),β=行動システム
  γ=感情(認知近接的能力),δ=情動(行為近接的能力)
  δ⇒β⇒α:情動から歌へ、歌から言葉(正直でない信号)へ
  δ+α=γ:情動+言葉=感情(正直な信号)
  α+γ  :人間特異的コミュニケーション
 
 ここには、〈感情〉そのものは描きこめませんが、しかし、〈感情(=世界)〉というメタフィジカルな存在の気配を感じさせる(その存在を見えない痕跡を通じて示す)、その形而下世界における投影図のごときものにはなりえているのではないかと思います。
 前章の議論との接続をはかるならば、ここで「メタフィジカルな存在」と呼んだのは「無内包の現実性(純粋なアクチュアリティ)≒ウジュード(必然的存在)≒アヴィセンナの幽霊」のことで、それによって(幽霊=死者のパースペクティヴを通じて)俯瞰的に一望され、かつその気配・痕跡をとどめる「感情と言語の世界」は「小説や映画を含む本質(マーヒーヤ)=実在性(リアリティ)の世界」にほかなりません。
 
[*]『新記号論』第3講義の図6(『新記号論』260頁)参照。
図6「記号のピラミッド」の再解釈
ブーニューの「記号のピラミッド」は、象徴、類像、指標を扱う痕跡技術と対応し(右軸)、コミュニケーションの精神/身体レベルとの相関も表している(左軸)。メディア・テクノロジーの発達は、ピラミッドの基底部が情報処理と接する普遍的なデータ化を生む。底辺の矢印はすべてがデータ化した時代におけるインターフェイス問題の露呈を表している
 
 ──ちなみに「記号のピラミッド」は、本稿本文の《図》中に【個人】−【心】−【集団】の三角形として(左側に90度回転したかたちで)書き込まれている。つまり【個人】−【集団】の軸が「クオリア」(第〇次内包、あるいは、無内包の〈感情(=世界)〉の見えない痕跡もしくは「お零れ」)として、「心という舞台」と「身体という舞台」の接触面をなしている。
 
■世界の言語が沈黙するとき、感情それ自身の言語が語り出す
 
 メタフィジカルな〈感情〉の(気配ではなくその)存在そのものを語る言語をめぐって。
 第60章第4節の註で、私は、およそ次のような趣旨のこと書きました。すなわち、〈感情〉の私的言語は、感情の相においてとらえられた〈世界〉を語るものであって、そこでは、感情が実存することと、その感情がそこにおいて表現された世界が実存することとが区別できない。言い換えると、実存それ自体を本質とするもの(純粋経験、無内包の現実性)の生起の原初形態、つまり「無」なるものの世界への顕現それ自体を語る(見えない痕跡・お零れを通じて示す)のが、〈感情〉の私的言語であると。
 この、なかば夢うつつで綴ったことがらの実質を考えるために、ここで一本、補助線を引きます。[*]
 
 古荘真敬氏は「感情と言語──ハイデガーとアンリのあいだで」(『ミシェル・アンリ研究』第6号)において、ミシェル・アンリが『受肉――「肉」の哲学』(第五節)のなかで、公的言語(われわれの言語、世界の言語)をめぐって、「世界の現れることは、任意の実在を現実存在にもたらすことができないが、世界の現れることのこのような乏しさを明らかにするのが、‘言語’なのである」と書き、また、(このような「言語と実在のあいだの深淵」を開示する)詩的言語について、「それら[ハイデガーがいくどもその註釈を提示したトラークルの詩が語っていること、雪、窓、鐘の音]は、詩人の言葉から生まれたものとして現れているという点では現前しているが、現れているとはいえ実在性を欠いたままであるという点では不在なのである」と述べたのを引き、次のように論じています。
 いわく、「アンリは「実在性(re'alite')」と「現実存在(l'existence)」を特に区別していないように見えるが、考察の趣旨は、カント『純粋理性批判』における「存在は事象内容をあらわす(レアールな)述語ではない」という洞察に引きつけてパラフレーズできるのではないか」。
《言語的に表象されただけの「可能的な百ユーロ紙幣」と現実に存在する「現実的な百ユーロ紙幣」の間には、‘事象内容における差異はない’。もしも差異があったなら、ポケットの中身を開けて見せながら私は、「さっき言った百ユーロ紙幣(さっき言ったのと‘同じもの’)が、ほら、ここに本当に在る」とは言えなくなってしまうからである…。
 ということは、逆から見れば、われわれは、現実に存在する何か或るものを言語的に記述して、「語られたもの」として現出させるだけで、その或るものの‘事象内容的な規定をいっさい変えずにただその現実性だけを失わせる’ことができるのである。アンリのいう「非実在化」とは、ひとまず、そのようなことだと理解できるように思われる。これを、さらに逆から見れば、アンリのいう「情感性」(そして「感情それ自身の別の言語」あるいは「いのちの言語」)の意味するところが推測されよう。
 われわれの言語(「世界の言語」)は現実そのものを産出せずに、せいぜいその無数の複製(事象内容的には同一の複製物)を可能世界のうちに措定することができるのみである。現実は、決して、これら無数の可能的複製のうちの一つではないが、だからといって、その可能的複製と事象内容的に区別できるわけでもない。事象内容的な差異を語るのとは‘全く別の原理’において、現実は、端的に、それ自身において現実として顕現するのである。
 この現実の現実的顕現をわれわれの言語は取り逃がしてしまう。あらゆるものを非実在化しつつ、あらゆる差異を事象内容的な差異に還元しようとするわれわれの言語によっては語ることのできないその現実性を端的に感受するもの。それがアンリのいう「情感性」なのであろう。》(「感情と言語」)
 古荘氏によると、アンリは、ハイデガーの「不安」(という根本的気分)を「世界の言語の「非実在化」作用が‘それとして顕わになる経験’」として、あるいは「周囲世界の「現実」が、実は、言語によって骨抜きにされた空虚な現実‘もどき’にすぎなかったことが顕わになる経験」として捉えていた。
《存在を理解する自分自身が〈存在しており、存在せざるをえない〉という剥き出しの事実そのものの風に、存在理解の磁力圏外から吹きつけられるという経験が、あの「不安」であり、最内奥の自己知としての Gewissen の呼び声であるといってよいだろう。
 それはアンリの言葉を借りれば、まさしく「世界の言語が沈黙するときに、〔…〕別の言語が、つまりわれわれの感情それ自身の言語が語り出す」(『現出の本質』)という経験であると言ってよさそうだし、「実存が自らの実在性において、自らの根源的な啓示において、〔…〕実存そのものに与えられて在ること」(同)として、まさしくアンリ的な「情感性」の名に相応しい経験であるように思われる。》(「感情と言語」)
 古荘氏の議論を参照しながら、私が思案している「公的言語」(公共言語、日常言語)と「私的言語」の対比を、ミシェル・アンリによる「世界の言語」と「感情の言語」の概念にそれぞれおきかえて整理してみます。
 
【公的言語】=「世界の言語」あるいは「われわれの言語」
・現実に存在する何か或るもの(Etwas)の「現実性(アクチュアリティ)」を失わせ、あるいはあらゆる差異を「事象内容=実在性(リアリティ)」の差異に還元し、「空虚な現実もどき」のものにする言語
・実存(現実存在)を産出せず、その無数の複製(事象内容的には同一の複製物)を可能世界のうちに措定する言語
 
【私的言語】=「感情の言語」あるいは「いのちの言語」
・公的言語によっては語ることのできない現実性そのものを、事象内容的な差異を語るのとは全く別の原理において語る言語
・端的にそれ自身において現実として顕現する経験をもたらす(世界の現出、現実の現実的顕現に「感応」する)言語
 
 ところで、古荘氏の論考には、世界の言語と感情の言語のほかに、もうひとつ別の言語が登場していました。それは、(私的言語ならぬ)「詩的言語」です。その定義は、「現れているという点では現前しているが、現れているとはいえ実在性を欠いたままであるという点では不在」というものでした。この一文を、詩的言語が世界の言語の「乏しさ」(任意の「実在」に「現実性」をあたえる力をもたないこと)を「開示」するとされていたことを念頭におき解釈すると、次のように規定できるでしょう。
 
【詩的言語】=「私的言語」に先立つ言語あるいは純粋な「私的言語」
・無内包の現実性そのもの(純粋なアクチュアリティ)を語る言語
・物自体(無内包の現実性)の「お零れ」もしくは実在性(リアリティ)をいっさい欠いた不在の言語
 
 アンリの「詩的言語」はベンヤミンが言う「純粋言語」につながっていく。私はそう考えています。しかし、この、人間の言語の起源への遡行は、貫之現象学B層の第二相を論じる際のテーマです。
 
[*]もう一本、補助線を引きたかったが、私には到底「使いこなせない」議論だった。ここにその「残骸」を記す。
《様相に関して人間の情動を考えてみよう。様相の系譜は、どうやら感情にあるように思われるからである。感情についての様相分析が必要となるだろう。というのも、特異な共通概念──特異性の観念についての概念化──を形成する理性は、感情から様相を排除しようとする能力を有しているからである。そうした様相は、まさに欲望そのものの作用の一つである。スピノザにおいては、受動性感情から能動性感情への移行は、より正確に言うと、喜びの受動性感情から特異性概念の形成へ、そしてこの形成から無−様相の〈欲望−情動〉への移行は、単なる様相問題を超えて、構成と産出の水準へとわれわれをもたらすのである。というのも、この徹底した様相批判の明確化は、これに対して自然を〈産出→構成→特性〉という経路のもとで理解することだからである。言い換えると、これは、非物体的な変形の多様体(U)と機械状系統流(Φ)との間で生起するまさに無−様相の自然について唯物論を展開することである。人間本性の感情の根本には、恐怖と希望というものがある。これらは、喜びと悲しみ、あるいは愛と憎しみ等々と同様の、二つの相反する感情である。しかし、この〈恐怖/希望〉の二つの感情は、或る意味でもっとも様相に溢れているがゆえに〈感情の幾何学〉全体を時間のもとで統制化する〈感情の体制〉の意義を有している。‘〈様相〉は、希望と恐怖の〈感情の体制〉のなかで練り上げられた特性の一つ以外の何ものでもない。’この体制において、人間にとっての諸様相の意義と実感がもっとも明確に人間のうちに現われるのである。したがって、新たな〈欲望−理性〉は、こうした体制の真っ只中で様相についてまったく別の問題を提起するのである。人間の情動は、特異性の法則を含んでいる。この理性は、この法則についての概念を形成しようと欲望することにある。それは、様相と共可能的に問題化される量や質以前の、〈反−様相〉の強度である。人間の新たな理性は、第一に感情を脱−様相化することにある。スピノザの理性とは、言わば様相なき感情のことである。それは、理性の欲望化である。これらの概念は、いずれにせよ、図式論的[シエマティック]相関主義にあるのではなく、私にとっては身体の図表論的[ディアグラマティック]唯物論にある。そうだとしても、ここで述べてきた多くの事柄は、単に〈様相−特性〉の問題以上のものではない。》(江川隆男「脱−様相と無−様相──様相中心主義批判」,『すべてはつねに別のものである 〈身体−戦争機械〉論』170-171頁)
■補遺と余録、コーラ・無時間的な響きの空間・直交補構造
 
 古荘氏の論稿のなかでとりわけ印象深かった一文──「存在を理解する自分自身が〈存在しており、存在せざるをえない〉という剥き出しの事実そのものの風に、存在理解の磁力圏外から吹きつけられるという経験」──から、私は井筒俊彦の名を連想した。
 それは若松英輔氏が『井筒俊彦──叡知の哲学』に、「井筒にとっての言語哲学とは、言葉に「意味」を探るというよりも、「意味」に「存在」へと回帰する道を見つける営みである。私たちは万葉の歌を前に、意味の知的理解の以前に心動かされる。それは表層意識とは別な「意識」が、始原的境域から吹く「存在」の風を看取しているのである。」と書いていた、その「存在の風」という(いかにも井筒言語哲学に似つかわしい)語を媒介とした連想だ。
 この「存在の風」という語は「響き」という(空海言語哲学や「畳み重ね、虚喩」の吉本初期歌謡論を想起させる)語へとつながっている。
 
     
 若松氏の「表層意識とは別な意識」は、中沢新一氏の「フロイト的無意識を超えるレンマ的知性」につながっている。
 『レンマ学』第十一章「レンマ派言語学」の「異邦の言語学」の節で、中沢氏は、ジュリア・クリステヴァが「詩と否定性」(『セメイオチケ』)において「詩的言語は言語のロゴス機能のつくりあげる象徴界の彼方ないし奥底に、なにか絶対的に異質な構造をもった実体が活動していることを示している」と強調し、ついで『詩的言語の革命』で、その実体に「コーラ」(プラトンの『ティマイオス』に由来する「母性的な宇宙の容器」)の名を与えたことに言及している。
 
「コーラは波に揺れる海に似ている。振動しながら容器の内容物を「ふるい」にかけるように揺らしていくと、内容物は所々で「圧縮」されたり場所の「移動」をおこなったりする。」
「クリステヴァは言語においては、ロゴス的な統辞機能や意味定位機能よりも以前に、このコーラによく似た「セミオティック機構」が幼児の心に形成されているという考えから出発する。前言語的なこの機構は揺れ動くマトリックスである。そこでは「ものごとを線形に並べていく」ロゴス機能はまだ形成されていない。その機構の内部ではエネルギーを圧縮したり置き換えをおこなう、前ロゴス的な秩序形成がおこなわれており、言葉をしゃべらない幼児の心的活動が進行している。」
 
 中沢氏は、このような「セミオティック的なコーラの機能」と「レンマ的知性の活動」には多くの共通性があると指摘している。「それもそのはずで、プラトンの伝える「コーラ」は大乗仏教の樹立した「法界縁起」の思想と共通の東方的伝統に属する考えであるからだ。」
(私は「コーラ」の語から、前章の註で引用した入不二基義氏の文章を想起している。「「無内包の現実」とは、「真空状態」のようなものである。「真空状態」は、物質はまったく含まなくとも、単なる無ではなくエネルギー(力)に満ちている」云々。)
 
     
 同書第十二章「芸術のロゴスとレンマ」の「サピエンスの言語としての詩」の節で、中沢氏は、「言語がアーラヤ識内の自らの発生の場所に立つことを求めたとき、「詩的言語」が生まれる。」と書いている。
 
「…人間の心/脳には…言語と音楽の生まれる原初の場所ともいうべき無時間的な響きの空間に立ち戻っていこうとする傾向も共存している。そこでは…事物が相依相関しあいながら円融する華厳的空間が、意識の表面にあらわれてくるようになる。そのとき、日常言語は詩的言語に変容する。意味は響きに包み込まれて音楽化する。インド、中国、日本などのレンマ的文明圏では、それを「芸術」と呼んだのである。」
 
     
 『レンマ学』の付録三「心のレンマ学」を読んでいるうち、私の脳内に次の座標図が浮上してきた。
 
       《フロイト的無意識》
        【理事無碍法界】
           ┃
           ┃
           ┃
 【理法界】━━━━━╋━━━━━【事法界】
  《心的        ┃      《語》
   エネルギー》    ┃
           ┃
        【事々無碍法界】
        《ユング的無意識》
 
 中沢氏は、人類の言語はロゴス軸とレンマ軸の組み合わせ(直交補構造)でつくられていると論じているが、図中の【理法界】−【事法界】がロゴス軸に、【事々無碍法界】−【理事無碍法界】がレンマ軸にそれぞれ対応している。(私の理解では、ロゴス軸は「実在性(reality)」の軸に、レンマ軸は「現実性(actuality)」の軸にそれぞれ対応している。)
 なお、この図は「言語」だけでなく「心」や「世界」の存在構造にも通じている。つまり「物/心/詞」の貫之三体あるいは「モノ/ココロ/コトバ」の井筒三体に通じている。本章第三節の《図》にも、(その存在次元を異にするとはいえ)通じている。
 
     
 直交補構造(orthocomplemental structure)をめぐる中沢氏の議論(その一)。『レンマ学』第五章「現代に甦るレンマ学」の第一節「直交補構造」から。
 
○『大乗起信論』が「如来蔵」と呼ぶ「純粋レンマ的知性」(=華厳学に言う「法界」)に時間性が介入することによってスペクトル分解がおこり、そこから「ロゴス的知性」というその変異体が出現する。
○『大乗起信論』では、このロゴス的知性(分別知)と一体になって、以後あらゆる心的現象を生み出すことになるレンマ的知性(無分別知)を「アーラヤ識」と呼んで「如来蔵=純粋レンマ的知性」と区別している。
                  
                 ┏「レンマ的知性」(真正体)
   「如来蔵」━「アーラヤ識」━┫
 (純粋レンマ的知性)      ┗「ロゴス的知性」(変異体)
 
 ※「レンマ的知性」:縁起論的、無分別的、非時間的、非線形的、非局所的
  「ロゴス的知性」:因果論的、分別的、時間的、線形的、局所的
 
(時間性が入り込むことによって純粋レンマ的知性が真正体と変異体に分岐するのだとしたら、これとは逆のプロセスを、すなわち「時間の空間化」(変異体⇒真正体(⇒純粋体)と進む華厳的空間への、あるいは「時間と空間が一つに溶け合って」消えていく無意識の思考への遡行)もしくは「意味から響きへ」(日常言語の詩的言語への変容)のプロセスを考えることができる。私はこの「遡行と変容」をもたらすものこそアレゴリーのはたらきなのではないかと考えている。)
 
     
 直交補構造をめぐる中沢氏の議論の抜き書き(その二)。『レンマ学』第十一章「レンマ派言語学」の第二節「言語の内部の直交補構造」から。
 
○アーラヤ識にセットされた理事無碍法界に生ずる言語は、その内部に異なる二つの機能ないし軸を含んでいる。
・時間性を含む「ロゴス軸」
 :ソシュールの「通時態」、イェルムスレウの「連辞(シンタグム)の軸」
・無時間的なマトリックスである「レンマ軸」
 :ソシュールの「共時態」、イェルムスレウの「範列(パラディグム)の軸」
○この二つの軸はたんに合成体であるにとどまらず、互いに「直交補構造」(非可換性・非局所性を特徴とする「量子論理」でしばしば用いられている構造)の関係で結び合っている。そのために心は言語を通じて真偽の判断を定立することもできれば多義的な詩的言語を生み出すこともできる。
○晩年アナグラムの研究に没頭したソシュールは、言語能力の根幹は「レンマ軸」にあると考えていた。
《アナグラムは「言葉の下に隠れている言葉」である。その言語活動では、一つの語彙素の意味は文全体によって決定され、単語の綴りが文全体に「散布」されている。すなわちアナグラムにおいては、分別知をもたらすロゴス的な統辞法的秩序の下に、相依相関しながら全体で運動していく法界縁起的なもう一つの言語活動が動いているのである。この意味でソシュール言語学はレンマ派言語学の考えの身近にあると感じられる。
 そこにレヴィ=ストロースらの神話研究を加えることもできる。彼の研究では、神話が生まれる場所は「時間と空間が一つに溶け合って」消えていく無意識の思考にあると考えられているが、その思考とはまぎれもなく範列軸に活動するレンマ的知性のことであるからだ。》(『レンマ学』第十一章)
(44号に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」44号(2021.08.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第63章 純粋経験/私的言語/アレゴリー(その4)
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