Web評論誌「コーラ」45号/哥とクオリアア/ペルソナと哥 第65章 純粋経験/私的言語/アレゴリー(その6)

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Web評論誌「コーラ」
45号(2021/12/15)

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■フィルムと映像の比喩、全体知・独在知・媒体知
 
 次に、夢の中の文字をめぐる石牟礼道子のエッセイから見えてきたふたつの事柄のうち、その後段の論点を取りあげます。すなわち、私的言語が、あの世とこの世の中間領域で稼働することをめぐって。
 
 ここで、永井均氏の「フィルムと映像の比喩」を援用します。
 ウィトゲンシュタインの『哲学的考察』第五四節に、次のくだりがあります。「…現在とは、映写機のレンズの位置にちょうどいまあるフィルムの帯の映像のことではない。(略)いま問題になっているのはスクリーン上の映像であって、それが不当にも現在と呼ばれている。というのも、この場合「現在」は過去と未来と対立するものとして使われてはいないからであり、したがってそれは無意味な修飾語なのである。」
 永井均氏は『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』の第8章「自己意識とは何か」において、「フィルムをB系列と、スクリーン上の映像をA系列と、それぞれ解釈すればわかりやすい。」と述べたうえで、ウィトゲンシュタインの「誤り」を次のように指摘しています。(A系列、B系列はマクタガートが『時間の非実在性』において導入した概念。マクタガートは、時間の本質は出来事の前後関係(B系列)ではなく、過去・現在・未来の区別(A系列)にあるとした。)
《現にスクリーン上にある映像は端的に現にあるだけであって、その「現にある性」には対比項がない。だからこそ端的に現に今見えているのだ。それを「現在」と呼ぶことは「不当」なことではない。いや、それどころか、もしこの端的なそれしかなさ(対比項のなさ)という側面を欠いていたなら、すなわちもしフィルム上の位置によってのみ特徴づけられていたなら、そこが現在であるという事実は成立しようがないだろう。何とどう関係づけられていようと、それとは別に現に見えているという事実がなければ、「現在」であることは成立しえない。フィルムの内容(出来事にあたる)やフィル上の位置づけ(B系列を特徴づける前後関係にあたる)をどんなにくわしく調べてみても、それだけではそのうちどこが現在であるか(したがって過去・未来であるか)はけっしてわからない。いや、わからないというより、そこには現在などというものは存在しないだろう。現在を私に置き換えてもまったく同じことがいえる。
 それにもかかわらず、この現在(や私)は実在世界における指示力を欠いたたんなる飾りなのではない。フィルムをどんなにくわしく調べても、どこが現在であるかはけっしてわからないとはいえ、その逆に、スクリーン上に現に映っている映像の内容を調べてみれば、それがフィルム上のどこに対応するかを知ることができるからだ。端的な現在や端的な私を、そちらの側からフィルム上に位置づけ、いつであるか、誰であるかを知ることは可能で、むしろかなり容易な仕事なのである。これがすなわち受肉の秘義であり、そこには必ずいま述べたような一方向性がある。このように捉えた場合、自己意識とはこの一方向的受肉の別名であることになる。》(『世界の独在論的存在構造』134-135頁)
 ここで、永井氏が言う「フィルムの内容(出来事)」すなわち「実在世界」を「実在性(リアリティ)」の領域(=感情と言語の世界)と、「スクリーン上にある映像」を「現にある性」すなわち「現実性(アクチュアリティ)」(=無内包の現実性)の領域と、それぞれ解釈すれば、話がわかりやすくなります。
《スクリーン上に現に今ある映像の内容を調べることで、それがフィルム上のどこに対応するか(すなわち、いつでありだれであるか)を知ることは容易だとはいっても、もちろん、たんに現に今スクリーン上にあるという事実だけからでは、それを突き止めることはできない。だが、幸いにして、実際にはそれだけということはありえず、ちょうどどんな天使にも最低限の質料があるように、いかなる〈 〉にも最低限の受肉の事実がともなうのだ。すなわち、‘現に今’スクリーン上に映っているという事実とともに必ず‘何か’が映っているのである。》(『世界の独在論的存在構造』136-137頁)
 ここで言われる、天使がもつ「最低限の質料」性とは、別のところで「物自体のお零れ」と呼ばれていたのと同じものです。──永井氏はつづけて、ここには「三種の知」があると書いています。
《第一は、フィルムがその比喩である世界の客観的事実についての知である。第二は、現在の映像(その映像の内容ではなくそれが現在の映像であるということ)がそれの比喩である、〈現在〉や〈私〉の(デカルト的な)直接知である。しかし、その二つだけではその二つを繋ぐことができない。第三に必要なのは、現在の映像(それが現在の映像であるということではなく、その映像の内容の側面)がそれの比喩である、〈現在〉や〈私〉がフィルム上にある何かと同一である何かと結合していることの(言い換えれば、結合しているものがフィルム上の何かと同一であることの)知である。それは、〈現在〉であれば通常は主としてその時点の知覚状況、〈私〉であれば通常は主として来歴の記憶であろう。これによって、スクリーン上の映像の側が(一方向的に!)フィルム上の客観的位置におのれを繋げることができる。(あくまでも一方向的である理由は、フィルム上にある事実の側から現在映っている映像を突き止める方法はないからであり、比喩を外してもっと端的に言えば、世界の客観的事実のうちには〈現在〉や〈私〉はそもそも存在しないからである。)これが自己意識に基づく自己知である。》(『世界の独在論的存在構造』138頁)
 さて、以上の議論をもとに、「光源(上方)→フィルム→スクリーン」の映画のメカニズムを図示し、そこに、「水底」(あの世)すなわちアクチュアリティの領域(【A】)と「水面」(この世)すなわちリアリティの領域(【R】)との中間領域(【M】)、いわば天使的領域に浮上する「夢の中の文字=私的言語」の動きを描き込んでみます。
 
   《図1》フィルムと映像の比喩(上方光源)
 
          <光源>
    …………………・…………………
           ↓
           ↓
           ↓
 【R】━━━━━━━=━━━━━━━
           ↓↑
           ↓↑
 【M】       ↓↑<受肉>
           ↓↑
           ↓↑
 【A】=======━=======
 
 ※R:「全体知」〜フィルム
    =世界の客観的事実についての知
  M:「媒体知」〜スクリーン上の映像(その内容の側面)
    =全体知と独在知を媒介する知(知覚状況や来歴の記憶)
  A:「独在知」〜スクリーン上の映像(それが現在の映像である
     こと)=〈現在〉や〈私〉の直接知
 
■フィルムと映像の比喩、貫之三体・再説
 
 ここに、かねてから本論考群(第11章他)で断続的に言及してきた貫之現象学の地勢学的布置、すなわち「地/海/空」の貫之三体の議論、さらには、定家論理学の世界(言語が見るメタフィジカルな夢の界域)を組み入れた「地/海/空/天(月)」の四体論を導入します。
 貫之三体は、かの「影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞわびしき」(土左日記一月十七日)から、海の底の底なる「地」と「海」と「空」という界域を抽きだし、この三つの界域の境をなす二つの界面、すなわち「水底(海底)」と「水面(海面)」をスラッシュで表現したものでした。定家四体の場合は、これに、「空」と「天」の境をなす第三の界面(天涯とでも)を示すスラッシュを書き入れています。
 ところで、この貫之歌にはもうひとつの界面が登場します。それは、「水面に映った空」の「虚像」のことです。この界面(波の底なる「空」)は、「ちはやぶる神の心を荒るる海に鏡を入れてかつ見つるかな」(土左日記二月五日)の「鏡」、すなわち(水面とは異なるもうひとつ別の)「鏡面」ととらえることができるでしょう。
 かくして、「地(超深層)/海(最深層)/海(深層)/空(表層)/天(超表層)」の図式が得られました。これを再び「フィルムと映像の比喩」の図に、ただし今度は光源を下方に据えて、かつ、夢のパースペクティヴの動態論(と私的言語の四類型)を書き加えて、表現してみます。(図中の【V】はヴァーチュアリティの意[*]。また【M】はミディアムに加えミラー、ミラージュを含意。)
 
   《図2》フィルムと映像の比喩(下方光源)
 
 【A】=======━=======
           ↓↑
       <受肉>↓↑
           ↓↑
 【R】━━━━━━━=━━━━━━━
           ↓↑
           ↓↑
          【δ】
        P1 ⇔ P2'
        【γ】↓↑【β】
           ↓↑
           ↓↑
 【M】=======━=======
           ↑
           ↑
          【α】
           P3
           ↑
           ↑
 【V】…………………・…………………
          <光源>
           P4
 
 ※R:「全体知」
  M:「媒体知」
  A:「独在知」
  α:〈感情〉をめぐる私的言語(P4⇒P3)
  β:〈現実〉をめぐる私的言語(P4⇒P2'、P3⇒P2')
  γ:〈 今 〉をめぐる私的言語(P4⇒P1、P3⇒P1)
  δ:〈 私 〉をめぐる私的言語(P1⇔P2')
 
 ──長い迂回路を経て、(また、多くの事柄について、充分な吟味・説明をほどこさないまま)、ようやく前章の冒頭に掲げた論件、すなわち、無内包の現実性を語る第二、第三、第四類型の私的言語について思案すべき場所に帰還しました。
 ここまでの議論を乱暴に総括すると、これらの、〈感情〉をめぐる第一段階(第一類型)の私的言語に次ぐ第二段階の私的言語にも、次元の異なるふたつのフェイズがあって、その前段(第1フェイズ)をなす〈現実〉の私的言語と〈今〉の私的言語を通じて、〈世界〉から〈空間〉と〈時間〉がそれぞれ切り出され、そして、設営された〈いま・ここ〉のフィールドにおいて、後段(第2フェイズ)の〈私〉の私的言語(狭義の私的言語)が起動する、といったところでしょうか。(ちなみに、起点となる〈世界〉、すなわち、〈空間〉と〈時間〉が分岐する以前の〈時空〉とでも言える領域を拓くのが、いわば第〇フェイズの〈感情〉をめぐる私的言語である。〉
 
[*]ここでは「アクチュアリティ(広義)=ヴァーチュアリティ+アクチュアリティ(狭義)」の概念区分を念頭において、かの「伝導体」の理論への接続をはかった。いまひとつの軸に関しても「リアリティ(広義)=イマジナリー+リアリティ(狭義)」の等式を採用すれば、《図2》中の【M】は【I】と表記することができる。
 余談として。安藤礼二氏が「二つの『死者の書』──平田篤胤とエドガー・アラン・ポー」(『迷宮と宇宙』所収)のなかで「折口信夫や柳田國男が自分たちの営為を、その人物が確立した学問を新たに反復したものであると宣言するほどの影響力をもった破天荒の表現者」にして「ポーと同時代の日本において「死者たちの国」を発見した人物」(20頁)と規定した平田篤胤(『霊の真柱』)の議論を援用するならば、《図1》および《図2》中の【R】は「顕世(うつしよ)」に、【V】は「幽明(かくりよ)」に該当する。
 
■比較不可能なものが自らの比較不可能性を消去して比較可能なものになるという構造
 
 それでは、まず、第1フェイズの私的言語、すなわち〈現実〉と〈今〉をめぐる私的言語について概観します。
(最初に断っておくと、以下の議論は、次節を含めきわめて粗略なものでしかない。たとえば〈現実〉と〈今〉を〈空間〉と〈時間〉に単純に置き換えて論じていたり、またかねてから仄めかしていた私的言語と文法カテゴリーの関係についても触れることができていない。それが判っていながらなぜ先を急ぐのかというと、強弁するようだが、私的言語の実質(最低限の質料性)について論じるべき場所はここではないと、(したがって、「強い」私的言語や「弱い」私的言語について本格的に論じるべき場所もここではないと)、遅ればせながら気がついたからだ。だから先に行って苦しむことになるのは覚悟のうえで、ここでは私的言語の地勢学的位置を見定めることに徹することにした。)
 
 西郷甲矢人・田口茂著『〈現実〉とは何か──数学・哲学から始まる世界像の転換』に、時間と空間をめぐる興味深い議論が展開されているので、引用します。いわく、時間について、われわれは通常「一次元的な直線的秩序」を思い浮かべるが、そのような疑似空間的な時間イメージは、もとはといえば「唯一の」現在が現在として現実化することによってしかありえない。
《といっても、「唯一的な」現在が現われてはただちに消え去るだけだとしたら、やはりわれわれが「時間」と呼んでいるものではありえないのではないか。いやむしろ、「現われてはただちに消え去る」ということ自体が、すでに「唯一的な」現在をあるコンテクストのなかに置いて捉えているのであって、そのコンテクストのなかで、「唯一的な」はずの現在は、すでに「比較可能なもの」となっている。ここには、比較不可能なものが、自らの「比較不可能性」を消去して、比較可能なものになるという構造がある。(略)
 これは、(A)決して同一平面に回収できないものと、(B)同一平面上でしか問題にできないものとが、はじめて異なるものとして語れるようになる「構造=出来事」であるともいえる。異なる二つの領域が別個に並列的に最初からあったわけではない。(A)と(B)の差異化(「ずれ」)の構造そのものが出来事の構造、すなわち時間性の構造である。》(『〈現実〉とは何か』81-82頁)
 この「同一平面上でしか問題にできないもの」において、「空間」がはじめて理解可能になる。地図上の三点をB─C─Aと進んでもC─B─Aと進んでも「同じ」点に到着する。このことこそが、「空間性」の本質なのである。「より正確にいえば、違う行き方で「同じ」点に到達したら、それが空間的と呼ばれるのだ」(83頁)。
《…われわれはいつもある一つの行き方でしか空間内を移動できないのだが、まさにそのような活動によって、そのような活動のなかで、「どの行き方でもよい」という置き換え可能性が成り立つのである。
 こういうと、次のような疑問が浮かぶかもしれない。「私が特定の仕方で動くことによってはじめて空間ができるとでもいうのか? そんなことはない、やはり空間は初めから「ある」というべきではないか?」。なるほど、では「空間が初めからある」とはどういうことなのだろうか。それは、私がある特定の行き方を選んだ時点まで遡って、そこから別の行き方を選ぶこともできた、ということなのではないか。つまり、その時点でどちらかの行き方を選ぶこともできた、という置き換え可能性を考えているのではないか。
 さて、ここで「……時点まで遡って」と言ったが、実際には時間を遡ることはできない。時間を遡ることを考えているとき、われわれはすでに時間を時間そのものとしてではなく、空間化された時間として、点の並んだ直線のようなものとして思い浮かべている。そう考えて初めて、過去のある時点を、「いままさに選ぼうとしている瞬間」として思い浮かべることができるのである。ここでは、「本来入れ替えることのできないものを入れ替える」という操作が行われている。これがつまり、時間を捨象して空間的にのみ考えるということなのである。あるレベルの差異を無視してあるレベルの置き換え可能性のみを認める見方に立つとき、「空間的」な見方ができるようになる。》(『〈現実〉とは何か』84-85頁)
 本文に添えられたコラムが示唆的なので、ついでに引用しておきます。
《ここで示唆的であるかもしれないのは、「ベクトル空間」という概念のできあがり方である。空間中の別の点からの二つの矢印は違う矢印だが、「方向と大きさが等しければ同じ」と考えることによって、ベクトルの概念に至る。このような同じさを設定することによって、自由に足し算などの計算ができるようになるのである。現代的には、ベクトルというものをむしろ「ベクトル空間(線形空間)」の要素として定義するのであるが、このベクトル空間という概念自体が「方向と大きさが等しければ同じ」という考えによって可能となった「足し算」等の構造を備えた集合にほかならない。つまり、ベクトル空間の概念自体が、もともとは「等しさ」を緩くとることによって、ある種の空間性が考えられるということの例だったのである。
 ベクトル空間に限らず、現代の数学では様々な概念が「空間」と名づけられている。(略)ある集合が「空間」と名づけられる場合には、何らかの意味での「近さ」がそこに定められており、その「近さ」の構造が定まることと「緩い等しさ=置き換え可能性」が定められることは等価であることが知られている。
 要するに、具体的な三次元空間から抽象的な空間概念にいたるまで、およそ「空間」というものは、「等しさ=置き換え可能性を緩くとる」ことによって、はじめて考えられるようになるのである。様々なレベルで、「緩い等しさ」を考えることによって。様々な空間(距離空間、位相空間、粗空間など)が現われる。》(『〈現実〉とは何か』85-86頁)
 さて、以上の議論を素材として、これらを〈現実〉と〈今〉をめぐる私的言語に(強引に)関連づけてみます。
 引用文中、比較不可能なもの(例:唯一の現在)が、自らの比較不可能性を消去して、比較可能なものになるという構造、とあるのは、永井均氏が『私・今・そして神──開闢の哲学』で、「それ以上遡行しようのない、名づけることさえできないはずの開闢の奇蹟が、その開闢の内部で、その内部に存在する一つの存在者として位置づけられ、名づけられること」(42-43頁)と書いているのと、「緩い等しさ」の関係にあります。
 なぜ「緩い」のかというと、比較不可能なもの、すなわち「決して同一平面に回収できないもの」にも二種類あるからです。永井記号を使って表記すると、アクチュアルな〈A〉(独在論的存在)とリアルな《A》(「同一平面上でしか問題にできないもの」と比較可能な比類なきもの)。そして、『〈現実〉とは何か』の議論は、そこで論じられている比較不可能なものが、言詮不及の〈A〉であっても言語化可能な《A》であっても等しく成り立つからです。
(いや、精確には、数学(=圏論)と哲学(=現象学)のコラボレーションによって転換される「世界像」とは「現われること」の理論であるのだから、そこで取り上げられるべきは「物自体」(=〈 〉」ではなく「現象」(=《A》)である、と言うべきかもしれない。そして、「物自体のお零れ」(=〈A〉)を語る私的言語(たとえば永井均の哲学)が、それと「緩い等しさ」の関係性をもつのだと。)
 このことを踏まえ、西郷・田口氏の議論を(私なりの語彙に置きかえて)整理すると、次のようになります。
 
・〈 〉⇒〈φ〉
・〈φ〉⇒〈空間〉(《空間》⇒「空間」)
・〈φ〉⇒〈時間〉(《時間》⇒「時間」)
 
 ここで「φ」は、「A」(決して同一平面に回収できないもの)や「時空」(時間+空間)と表記してもいいのですが、第一段階・第〇フェイズの私的言語によって拓かれる〈世界〉の実質すなわち天使的質料性を表現するため、カント―ルの超限集合論を意識して採用しました。(それは、すなわち〈φ〉と表記される世界は、『レンマ学』での中沢新一氏の語彙を借用して、「言語と音楽の生まれる原初の場所ともいうべき無時間的な響きの空間」もしくは「時間と空間が一つに溶け合って」消えていく「華厳的空間」であると言っていいだろう。)
 次に、第二段階・第1フェイズの私的言語のうち、〈現実〉を語る私的言語を通じて可能性を帯びた〈空間〉が拓かれ、〈今〉を語る私的言語から身体性を刻印された〈時間〉の領域が析出されてくるわけです。〈 〉と〈φ〉をめぐる「差異化(「ずれ」)の構造」が反復され、「空間性」の構造と「時間性」の構造(「出来事」の構造)が分岐すると言ってもいいでしょう。(「空間性」から「イマジナル(虚)/リアル(実)」の水平軸が、「時間性」から「ヴァーチュアル(空)/アクチュアル(現)」の垂直軸がそれぞれ立ちあがり、かの伝導体の構図を設えると言っていいかもしれない。)
 そして最後に、これら深層のプロセスが(〈私〉の私的言語のはたらきとあいまって)表層において反復され、《空間》⇒「空間」や《時間》⇒「時間」の公共的・客観的プロセスへと変貌する。
 
■置き換え不可能な個を通じてのみ置き換え可能な普遍を論じることができるという事態
 
 最後に、第二段階・第2フェイズの私的言語、すなわち、〈私〉をめぐる私的言語について。ここでも、『〈現実〉とは何か』の議論を援用します。
《「誰もが」認める証明は、「他の誰でもない誰かが」行うのであり、それなしに「誰もが」と言うことすらできない。さらに厳密に言うならば、たとえ誰かが行った証明であったとしてもそれを理解するというときは常に「他の誰でもないこの私」が行うのであるから、「誰もが」は決して「この私」によらずには言うことすらできないのである。「だがその「私」は誰でもいいではないか」と言う人がいるかもしれないが、「誰でもよかった」と言えるためには、まず誰かが言わなければならない。それが言われた後で、はじめて「誰でもよかった」という置き換え可能性が開かれるのである。》(『〈現実〉とは何か』143頁)
 置き換え不可能性を通じてのみ。置き換え可能性を論じることができるというパラドキシカルな事態(142頁)。夢(水)の中の読めない文字すなわち「個別存在」を通じてのみ、解読可能な意味を担う公的な文字すなわち「普遍」を論じることができるという事態。ここでも、@独在性の〈私〉をめぐる私的言語(〈 〉⇒〈私〉)と、A単独性の《私》をめぐる公的言語(《私》⇒「私」)の、ふたつの言語実践が重ね合わされています。
 第1フェイズの私的言語によって設営された〈時間〉+〈空間〉=〈いま・ここ〉のフィールドにおいて、かの原初の〈φ〉の復活もしくは縮減(〈φ〉≒〈私〉)が果たされ、天使的質料性をより多量に含んだ〈私〉をめぐる私的言語が立ちあがる。そしてこの〈私〉の私的言語のはたらきを介して、あるいはこれにオーバーラップして、《私》⇒「私」の公共的・客観的プロセスが(《空間》⇒「空間」と《時間》⇒「時間」のプロセスを自らの系として孕みつつ)成立し、かくして、一般的な《A》⇒「B」の変換式が成就し、公的言語が完成します(第62章参照)。
 ここで、〈私〉をめぐる私的言語が《私》⇒「私」の公的言語と重ね合わされる契機となるのが、個別存在の「名」であると私は考えているのですが、このことは次章の、というか貫之現象学B層・第二相の論点にほかなりません。[*]
 
[*]「圏論」にかかわる文章をひとつ抜き書きしておく。
 引用文中の「点」=「対象(object)」と「矢印」=「射(arrow,morphisn)」、そして「関手(functor)」と「自然変換(natural transformation)」が圏論の用語。これらの関係を大雑把に示すと、@対象(なんらかの現象)と射(現象の間の変換や過程)からなるシステムが圏(category)、A圏から圏への射が関手(=アナロジー)、B関手から関手への射が自然変換(=アナロジーのアナロジー)である。
《ここで重要なのは、「私」という語の機能は、何かを「固定する」ことではない、という点である。「私」というとき、この語はある個体を固定的に指示するわけではない。むしろ、「私」といった途端に、われわれは「私」たちの無限に開かれた置き換え可能性のなかに自分自身を置く。いわば「私」とは「点」ではなく「矢印」であり、さらにいえば「自然変換」なのである。ある視点から見るということは、一つの関手の生成であり、視点の転換とは、関手から関手への変換、すなわち自然変換である。ここで「私」という語はそれが用いられるときには必ず絶えざる視点の転換と共に用いられている。「私」と言った途端に、無数の「他の私」が想定されており、「私」自身はこの置き換え可能性のなかで自分自身を理解している。「私」という言葉が表現しているのはこの置き換え可能性であると言ってもよいが、以前から強調しているように、置き換え可能性はそれだけで抽象的に存在することはできず、つねにある比類のない個体的なもの、置き換え不可能なものに即して開かれてくる。だから、「私」というのは関手から関手への変換、すなわち自然変換にほかならないのであるが、この自然変換は、つねにある個体的で具体的な関手の実現に即してしかありえないのである。》(『〈現実〉とは何か』146-147頁)
■補遺と余録、憑依・仮面・アレゴリーの四態
 
 本稿では、私的言語の特質を考える参照枠としてアレゴリーを取りあげた。そのためアレゴリーそのものについて主題的に論じることはしなかったが、ベンヤミンとポール・ド・マンのアレゴリー論、文字論を概観しているうち、私の脳内にいくつかの事柄が浮かび上がってきた。
 アレゴリーは髑髏であり、死者のおもかげ(肖)であり、「仮面」である。アレゴリーは純粋経験、無内包の現実性の「記憶」の痕跡、お零れ、幽霊であり、天使的質料性を「響き」として蓄える「空虚な器」である。アレゴリー(≒私的言語)は、神懸かりの言語(文字)であり、シャーマンの語り(声)である、等々。
 
     ※
 アレゴリーは仮面であり、私的言語は神憑りの言語、すなわち仮面を被ったシテの語りである。
 安藤礼二氏は『列島祝祭論』や「「東方哲学」の樹立に向けて」(『芸術人類学講義』所収)において、神道の「神憑り」とイスラームの「スーフィー」体験(「存在」としての神との合一体験)や仏教の「物まね」(もどき=反復)との「等しさ」を指摘している。
 これらにキリスト教の「受肉」を加えて「純粋経験」の四類型を仕立てあげると、「イマジナル(虚)/リアル(実)」の水平軸と「ヴァーチュアル(空)/アクチュアル(現)」の垂直軸を架橋するアレゴリー(≒私的言語)の四態を得ることができる。
 和歌のレトリックに関連づけ(かつ、第48章で考察したアナロジーの四態との関係性を意識しつつ)これを項目立てると、次のようなものになる。
 
【アレゴリー〇】
 ・〈感情〉の私的言語
 ・神道の神懸かり
 ・「空」(virtual)のレトリックもしくは「掛詞」
 
【アレゴリーT】
 ・〈私〉の私的言語
 ・イスラームの「スーフィー」体験
 ・「現」(actual)のレトリックもしくは「見立て」
 
【アレゴリーU】
 ・〈現実〉の私的言語
 ・キリスト教の受肉
 ・「実」(real)のレトリックもしくは「本歌取り」
 
【アレゴリーV】
 ・〈今〉の私的言語
 ・仏教の物まね(もどき=反復)
 ・「虚」(imaginal)のレトリックもしくは「縁語」
 
     ※
 安藤礼二氏は『列島祝祭論』で、「神道は「神憑り」からはじまる。」と書き、『日本書紀』においてアマテラスが一貫して「憑依神」として描かれたことを指摘する。「巻第五(「崇神記」)では、宮中に祀ったアマテラスのあまりの「勢」(「いきおい」、つまりは憑依の力)に恐れをなした天皇が、アマテラスを自らの娘に「託[つ]け」(「憑け」)て、宮中から外へと出す。」(35頁)
(私はここで、かの「心に思ふ事を見る物聞く物に託けて」云々の古今集仮名序を想起している。)
 
     ※
 私的言語(≒仮面としてのアレゴリー)が稼働するのは、ハンナ・アーレントが『過去と未来の間』の序で「精神の領域」や「非時間の空間」と呼び、俊成が「古来風躰抄」で「この道の深き心」云々と綴った「歌の道」においてである。(アーレントの文章は第49章で引用し、俊成の「歌の道」については第59章で尼ヶ崎彬の著書に関連して言及した。)
 過去と未来の間(時間の裂け目)や歌の道において形成されるのが、思考や創作の「記憶」であり、その担い手となる「主体」である。すなわち「歴史」(貫之現象学C層のテーマ)である。
《人間はまさしく思考するかぎりでのみ、すなわち時間による規定を受けつけない…かぎりでのみ、自らの具体的存在の完全な現勢態[アクチュアリティ]、つまり過去と未来の間の時間の裂け目に生きる。過去と未来の間の裂け目は近代の現象ではないし、おそらく歴史的なものですらなく、地上に人間が存在したのと同じくらい古いと思われる。この時間の裂け目は精神の領域といってもさしつかえない。あるいはむしろ思考によって踏みならされた道といえよう。思考の活動様式は死すべき人間が住まう時間の空間のなかにこの非時間[ノン・タイム]の小径を踏み固める。そして思考の歩み、つまり想起と予期の歩みは、触れるものすべてをこの非時間の小径に保存することで、歴史の時間と個人の生の時間による破壊から救うのである。時間の奥底そのもののうちにあるこの密やかな非時間の空間[ノン・タイム・スペース]は、われわれが生まれてくる世界や文化とは異なり、示しうるのみであって過去から受け継いだり伝え残したりはできない。新しい世代それぞれが、それどころか、人間の存在は無限の過去と無限の未来の間に立ち現われるものであるゆえ、新たに到来する人間一人一人が、この非時間の空間をあらためて発見し着実な足取りで踏みならさねばならない。
(略)そして、それ[思考の経験]は何事かを行なう経験すべてと同じく、実践、つまり実習を何度もつむことで初めて勝ちとられる。(この点で思考は、他の点でもそうであるが、一度学びさえすればあとは適用するだけでよい無矛盾性や内的整合性の論理規則に従って演繹、帰納し、結論を導出するような精神の過程と種類を異にする。)》(『過去と未来の間』14-16頁)
 
《彼[=俊成]の脳裏には、遠く時代を距てる歌人たちが、ただ一つの「心」(詩的主観)を共有して、互いに手をつないで道を行く姿が見えていたであろう。この超時代的な歌人の精神共同体に参加することが、俊成にとっての「歌の道」であったと言ってよいように思われる。〈道〉は古人の歩いたものであり、自分も歩こうと思えば歩けるものである。つまりこの共同体は時代を越えて開かれており、いつの時代の人もこれに加わることができる。そして参加すると同時に、彼は、時を距てる古人たちと手を携えて歩むことができる。彼はこの時、現在・過去・未来といった歴史的時間とは別の時間を、古人と共に生きるのである。そして詩的主観とは、孤立した魂ではなく、実はこのような詩的共同体をつくり上げているものである。この共同体は自ら言葉によって作り上げた詩的世界を共有し、伝承している。人は、この詩的世界がいかなるものであるかを学ぶことによって、より容易にこの詩的主観を手に入れることができるであろう。いや、天才の外は、このような学習によってしか本当の歌人になる道はない。それゆえ、人は歌人になるためには、語彙と文法を覚えるだけでは不十分であって、古人の和歌(その〈言葉の型〉と〈価値体験の型〉)を通して、この詩的共同主観性を学ばねばならない。そしてこれを手に入れた時、人は詩的共同体に参加する必要にして十分な条件を得るのである。》(『花鳥の使』85-86頁)
     ※
 四つのベンヤミン的概念をめぐる(使い道のない)私的備忘録。
 
 1.アレゴリー(廃墟):感情(マスク)
 2.翻訳 (純粋言語):様相(インデックス)
 3.アウラ  (複製):人称(イコン)
 4.想起   (歴史):時制(シンボル)
 
 「仮面」もしくは「仮面的なもの」(たとえばインデックス、イコン、シンボルに並ぶ第四の記号としてのマスク)は、「歴史」とともに貫之現象学C層のテーマ群を構成する。しかし、柄谷行人著『定本 日本近代文学の起源』で「素顔=音声的文字」と対比して論じられている「仮面=表意文字」は、B層第二相のテーマである。
 
(46号章に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」45号(2021.12.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第65章 純粋経験/私的言語/アレゴリー(その6)中原紀生
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