■光の糸、蜘蛛の巣、伝導体
前章で抜き書きした文章(『日本のレトリック』)の中で、尼ヶ崎彬氏は、「縁語」をめぐって次のように書いていました。「一つの語を一つの鏡に喩えてもよい。無数の鏡が一見無秩序に置かれているように見えながら、一筋の光が射しこむ時、たちまち鏡は互いに光を反射して、数えきれぬ光の糸が空間の中に光芒の伽藍を敷設する。銀河のようなこの光の領域が一首の和歌の世界なのである。」
これを読みながら、私が連想もしくは想起していたのは、市川浩氏の「星雲状複合体(ネビュラス・コンプレックス)」という語であり、また、かつて(第10章で)引用した「言葉と音楽」(『みる きく よむ』所収)で、レヴィ=ストロースが忘れられた思想家・シャバノンの音楽理論を「(ボードレール的)万物照応の原理を大きく広げるような、ひとつのみごとなイメージ」と讃え、「(意識の類似物としての)蜘蛛の巣のイメージ」に喩えていたことであり、そして、以前(第7章で)「伝導体[conducteur]のうちに無数に張り巡らされた、蜘蛛の糸や脳神経細胞を思わせる導管[duct]を伝って何かが、たとえば「情報」が縦横無尽に往来する…伝導という「推論」の運動」云々と書いた、自分自身の文章でした。
連想はさらに、ジル・ドゥルーズが「狂気と現存と機能─クモ─」(『プルーストとシーニュ〔増補版〕』所収)に、「『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、クモの巣のように構築されている。」(宇波彰訳、219頁)と書いていたこと、また、華厳的な「縁」のつながりを示すダイアグラム「南方曼荼羅」や、井筒俊彦が「事事無礙・理理無礙──存在解体の‘あと’」(『コスモスとアンチコスモス』所収)で図式的に視覚化した、華厳哲学における「あらゆる‘もの’の…存在論的全体関連構造」(48頁)、等々へと拡がっていきます。
しかし、ここでは話題をしぼり、前二章で論じた四つの和歌のレトリックもしくはアナロジーのはたらきを伝導体の構図のうちに落としこみ、かつ、伝導体の機能として、すなわち推論の運動として考察することに力点をおいて、貫之現象学・A層の第一相「錯綜体/アナロジー/論理」を構成する三つの項のうち最後のものをめぐって、簡単なスケッチを描くことにします[*]。そうすることで、伝導体の概念の精緻化・精密化を試みてみようと思うのです。
[*]論理については、これまで、アリストテレス論理の三法則(同一律、矛盾律、排中律)をはじめ、ライプニッツ由来の充足理由律、ドマールスの「擬論理」やアリエッティの「古論理」、マテ‐ブランコの「対称論理」(無意識の論理)、市川浩の「癒合的同一化」(述語的同一化+主語的同一化)の論理、といった話題が登場した。それらはいずれも、(丸山圭三郎の口吻を真似て)「深層意識の論理風景」のうちにあるものと言っていいだろう。伝統的論理学の範疇に属するものであっても、少なくともその根っ子の部分では。
表層のロゴスならぬ深層のロゴス。もしくは、アナロゴス=アナロジー(analogy)ならぬパラロゴス=パラロジー(paralogy)。端的には、パラロジスム(paralogism)すなわち誤謬推論。
これらのものが、顕在=顕現的次元におけるアナロジーのはたらきや非顕在=非顕現的次元におけるパラ・アナロジーのはたらきと、いかなる関係性を切り結ぶことになるのか。そしてまた、前章の末尾で「部分がすなわち全体である」ような「本歌取りの論理」や「逆憑依の生命論理」などと、夢うつつの状態で書きつけたものとどのような関係にあるのか。
■哥の伝導体からアナロジーの伝導体へ
最初に、前々章でとりあげた、顕在=顕現的次元における「広い意味での引用」の日本的レトリックである「見立て」と「本歌取り」、また、前章でとりあげた、非顕在=非顕現的次元における「広い意味での含み」の和歌的レトリックである「掛詞」と「縁語」、これら四つのレトリックのはたらき、もしくは顕在、非顕在の両次元にあいわたる四つのアナロジーのはたらきを、かの(第7章、第45章で論じた)哥の伝導体のうちに、仮設的に位置づけた構図を掲げておきます《図1参照》。
なお、ここで議論している和歌的レトリックの四類型は、いわば理念型としてとらえるべきものであって、このことをより明確化するためには、たとえば「縁語」ではなくて「縁語的なもの」や「〈虚〉のレトリック」と名づけるか、いっそ「三次性のレトリック」や「レトリックV」のように符号化して表記するのがいいかもしれません。
いや、言葉遣いが混乱しています。私が考えようとしているのは、見立て、本歌取り、掛詞、縁語の四つの和歌的レトリックそのものではなく、それらを顕在、非顕在の両次元にあいわたるアナロジーの存在様式、あるいはその稼働メカニズム(はたらき)を示す四つの範型としてとらえることにほかならないのですから、哥の伝導体におけるその表記としては、「レトリックV」ではなく「アナロジーV」を採用すべきでしょう。
【アナロジー〇】
・〈空〉(零次性の場所)において「第三世界」と「第四世界」をホリゾンタルに連合
・和歌的フィールドにおける具体相=〈空〉のレトリックもしくは「掛詞」的なもの
【アナロジーT】
・〈現〉(一次性の場所)において「第二世界」と「第一世界」をホリゾンタルに連合
・和歌的フィールドにおける具体相=〈現〉のレトリックもしくは「見立て」的なもの
【アナロジーU】
・〈実〉(二次性の場所)において「第四世界」と「第一世界」をヴァーティカルに結合
・和歌的フィールドにおける具体相=〈実〉のレトリックもしくは「本歌取り」的なもの
【アナロジーV】
・〈虚〉(三次性の場所)において「第三世界」と「第二世界」をヴァーティカルに結合
・和歌的フィールドにおける具体相=〈虚〉のレトリックもしくは「縁語」的なもの
念のため、「第一世界」から「第四世界」までの定義を再掲しておきます(第45章参照)。
★第一世界=「現 actual」かつ「実 real」の界域=顕在的(現実的)統合の場
★第二世界=「現 actual」かつ「虚 imaginal」の界域=可能的統合の場
★第三世界=「空 virtual」かつ「虚 imaginal」の界域=不可能な統合(夢)の場
★第四世界=「空 virtual」かつ「実 real」の界域=潜在的統合の場
さて、この構図には、難点というか不満が一つがあります。それは、顕在=顕現的次元に属するアナロジーと、非顕在=非顕現的次元にはたらくパラ・アナロジーとが、うまく区分けできていないということです。「見える」アナロジーと「見えない」アナロジーとの関係性が「見える」化できていない、と言ってもいいでしょう。
語句の定義を最初にしておくべきでした。顕在=顕現的次元とは、「現・実」の界域、すなわち「第一世界」を中心とするフィールドのことで、これに、アナロジーTとアナロジーUが、それぞれホリゾンタルまたはヴァーティカルにかかわってきます。一方、非顕在=非顕現的次元は、「空・虚」の界域、すなわち「第三世界」を中心とするフィールドのことで、これにアナロジー〇とアナロジーVが、同じくホリゾンタルまたはヴァーティカルな関係を結ぶことになるわけです。
そうだとすると、上記伝導体の構図を回転させ、非顕在=非顕現的次元を底辺にもってくることで、先に述べた難点(不満)を解消することができるでしょう。その新しい構図の作製過程を素描します。
◎水平軸「虚/実」と垂直軸「空/現」を交叉させた伝導体の構図を、両軸の交点を中心として反時計回りに45度回転移動する。「第三世界」=「空・虚」(もしくは「虚・空」、あるいは「無」)の界域を底辺(深層)に、「第一世界」=「現・実」(あるいは「有」)の界域を上方(表層)に配置した構図を得る。
◎これは広義の貫之現象学の世界を造形する三層構造、すなわち貫之三体「物/心/詞」(もしくは「地/海/空」、定家論理学を組み入れると「地/海/空/天(月)」、あるいは俊成系譜学を考慮に入れて「象/像/喩/肖」)の雛形となっている。「物/心/詞」=「第三世界/第二世界+第四世界/第一世界」。
◎「物/心/詞」の「心」が「第二世界」と「第四世界」に分岐する。それらの違いを、いまたまたま手元にある『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』(永井均)で使い分けられた用語(29頁、54頁、69頁)を用いて示すと次のようになる。
★「第二世界」の心=知覚的・機能的な「心」の働き(心理的な因果連関)
★「第四世界」の心=感覚的・実質的な「意識」の事実(現象的な質、体験、クオリア)
◎ここから「心」=「可能世界における論理・概念としての心」+「潜在世界における現象・体験としての心」の定式を得る。(話がややこしくなるが、かつて(第42章で)論じた心の四分岐説にいう「心0」から「心3」と、ここで取り扱っている第二、第四の二つの世界に分岐した心とはその素性が異なる。それら四つの心は、むしろ「アナロジー〇」から「アナロジーV」と対応している。)
◎この新しい構図のもとで「第三世界」(底辺)から「第一世界」(上方)へと突き抜ける新しい垂直軸「無/有」もしくは「地/図」を引き、これを「力への意志の線」ととらえる。非顕現から顕現へ、無から有へ向かって「〈無〉⇒《無》⇒“無”⇒“有”⇒《有》⇒〈有〉」の力のベクトルが貫通する(第11章参照)。
(「力への意志の線」は、ほんとうは「第三世界」そのものを起点とするのでなく、二次元的・平面的な構図を超える第三の次元から立ち上がってくるものだ。次に述べる「永劫回帰の線」もまた同様。ただしこの二つの新線の起点が同じ次元に属するかどうかはまた別の問題である。)
◎続いて「第二世界」と「第四世界」をつなぐ新しい水平軸「概念/体験」もしくは「論理/現象」を引き、これを「永劫回帰の線」ととらえる。この新しい水平線が描かれることによって、新しい構図のうちに新しい四つの象限が画定し、それぞれの象限のうちに四つのアナロジーが格納される。
★新・第一象限(アナロジーU)=「〈実〉のフィールド」=「体験・現象としての心(顕現)」+「体験・現象としての詞」
★新・第二象限(アナロジーT)=「〈現〉のフィールド」=「概念・論理としての詞」+「概念・論理として心(顕現)」
★新・第三象限(アナロジーV)=「〈虚〉のフィールド」=「概念・論理としての心(非顕現)」+「概念・論理としての物」
★新・第四象限(アナロジー〇)=「〈空〉のフィールド」=「体験・現象としての物」+「体験・現象としての心(非顕現)」
◎アナロジー〇とTが「ホリゾンタル」な連合、アナロジーUとVが「ヴァーティカル」な結合といった単純な規定が克服される。たとえばアナロジーU(本歌取り)は単にヴァーティカルな結合の機能を果たすだけでなく、体験から概念へ(もしくは現象から論理へ)と左方に向かう水平ベクトルと、無から有へ(もしくは地から図へ)と上昇する垂直ベクトルとの合成物となる。
■表出・表現・模倣・引用
次に、この新しい構図、すなわち、「無・地/有・図」の垂直軸と「概念・論理/体験・現象」の水平軸を交叉させて得られる「アナロジーの伝導体」における四つの象限(アナロジーの四型)の意味合いについて考えます《図2参照》。
そのための補助線として、かつて(第11章で)試みた、伝導現象(伝導という推論の運動)の二つのエレメント、「a=対象・素材」と「b=関係・プロセス」(佐々木健一著『日本的感性──触覚とずらしの構造』の部立てに従うならば、「a=語彙(要素的なもの)」「b=文法(複合的な関係性)」)をめぐる議論を、ここであらためて導入し、その練り直しを試みたいと思います。
いま、「a」「b」と記号で表記した項について、第11章では、「a=表象」「b=連鎖」と仮の名を与え、それぞれに表層・深層の二相があることを指摘したうえで、丸山圭三郎著『言葉と無意識』の議論を援用して、次のように整理しました。(「表象」「連鎖」の言葉遣いには不満が残るし、また「伝達」は「模倣」と表記する方がふさわしいのではないか、そして「一回性をもった出来事を何度でも初めて「今、ここ」で経験すること」と、一応の定義をほどこした上で用いた「反復」は、端的に「引用」と言い換えることもできるのではないか、等々、いまだ(理論的に?)煮え切らないところが残っているのですが、ここではそのまま転記しておきます。)
★「a=表象(表層)」=「表現」=「すでに在るもの」の記号化(浄化)
★「a=表象(深層)」=「表出」=「これまで存在しなかったもの」の創造(昇華)
★「b=連鎖(表層)」=「伝達」=同位相下の変換、隣接位相間の移動
★「b=連鎖(深層)」=「反復」=異なるレヴェル間の生成変化(変態)
私は、この「a=対象・素材=表象」「b=関係・プロセス=連鎖」を、アナロジーの構図を構成する水平軸にあてはめてみたいと考えているのです。つまり「a=体験・現象」「b=概念・論理」といったかたちで。そして、アナロジーの四型の、和歌的言語フィールドにおけるその存在様式の記憶を痕跡としてとどめるため、垂直軸「無・地/有・図」を「含み/引用」に重ね合わせて考えてみたいとも思うのです。
ここで「含み」といい「引用」というのは、尼ヶ崎彬氏が『花鳥の使』で、「詩的言語が、その意味を、生活世界の映像ではなく、詩的世界内部での〈価値体験の型〉に依存する時(顕在的には〈引用〉、非顕在的には〈含み〉)、〈言葉〉は日常の規約を超えて自由に結合し、自律的な世界を産出、展開することができたのである」(96頁)と書いていた、その非顕在的な「含み」と顕在的な「引用」のことにほかなりません。(話がややこしくなりますが、ここで言われる「引用」は、つい先ほど「反復」に換えて使うことができないかと思案した、深層の連鎖としての「引用」とはその素性が異なります。)
以上の操作を経て、新しい構図のもとで四つの象限のうちに位置づけられたアナロジーの、それぞれの理論的特質を考えるための準備が整いました。以下に、その骨子を書き留めておきます。[*]
【アナロジー〇】(¬A=A)
心の鏡像としての物の圏域において化肉した声(死者たちの記憶)が、「〈空〉のフィールド」(virtual field)に響きわたり共鳴する。
すなわち、@「体験・現象」から「概念・論理」へと左方に向かう水平ベクトルと「有・図」から「無・地」へと下降する垂直ベクトルとの合成ベクトル「A→¬A」と、A「概念・論理」から「体験・現象」へと右方に向かう水平ベクトルと「無・地」から「有・図」へと上昇する垂直ベクトルとの合成ベクトル「A←¬A」が、糾われた二本の縄のごとく(あるいはDNAの二重螺旋のごとく)絡まりあう(¬A=A)。
そこからダイレクトに、物と照応する「詞」が立ちあがる。二重化された詞(掛詞、寄物沈思)として「表出=昇華」される。(無=不可能な統合と有=潜在的統合の反転。)
【アナロジーV】(A∨B)
詞を映す鏡としての心が「反復=引用」(相互映現)による単性生殖を通じて星雲状に増殖し、それらが根ざす物の圏域を生命体のごときものに変成する。
すなわち、「体験・現象」から「概念・論理」へと左方に向かう水平ベクトルと「無・地」から「有・図」へと上昇する垂直ベクトルとの合成ベクトルのはたらきによって、不可能な統合(夢)の世界と可能的統合の世界が縫い合わされる。そして、「いま・ここ」という現在性とともに心の鏡像としての詞(縁語)のネットワーク(A∨B)が、いわば合わせ鏡のごとくそこにおいて映現する「〈虚〉のフィールド」(imaginal field)が設営される。
その時、無限に織り重なった歴史的時空が拓かれる。(表と裏の縫合。)
【アナロジーU】(A∧B)
ヴァーチュアルな次元(潜在的統合の集蔵体)から立ち現われるイマジナルな心のはたらきによって、「部分がすなわち全体である」ような「AでもBでもないもの」(詞の領域での顕在的・現実的統合)が「表現=生産」される。
すなわち、「体験・現象」から「概念・論理」へと左方に向かう水平ベクトルと「無・地」から「有・図」へと上昇する垂直ベクトルとの合成ベクトルのはたらきを通じて、@潜在的な統合可能性の懐胎(被憑依)、AA=内とB=外の連鎖(A∧B)、そしてB声と文字の物質的痕跡をまとった個別具体のものの晶出(本歌取り)へと到るプロセスが「〈実〉のフィールド」(real field)において進行する。
そこに立ち上がるのは、イマジナルな心からアクチュアルな詞へ、潜在的統合から顕在的・現実的統合へという存在様態と存在次元の転換(置き換え)がもたらす「歓び」である。(内と外の往還。)
【アナロジーT】(A⇒B)
存在次元を異にするAとBの根源的同一性(A=B)を深層の「地」とし、そこから表層における二つのベクトル=「図」を導出する。
すなわち、@「体験・現象」から「概念・論理」へと左方に向かう水平ベクトルと「有・図」から「無・地」へと下降する垂直ベクトルとの合成ベクトル「A→B」(見立て)と、A「概念・論理」から「体験・現象」へと右方に向かう水平ベクトルと「無・地」から「有・図」へと上昇する垂直ベクトルとの合成ベクトル「A←B」(見顕し)。
この二つのベクトルは相互反転的な(あれかこれかの)関係を切り結び、やがて移動・変換と重ね描き・複合・圧縮からなる「伝達=模倣」のプロセスを経て、「〈現〉のフィールド」(actual field)において、A=実像(詞の領域での顕在的・現実的統合)とB=虚像(心の領域での可能的統合)との同一性を実現=回復する。(一と多、根源的一者と現象的多の連結。)
以上の新しい(まるで何かの呪文か判じ物のような)見取り図のなかで、私は、否定[¬]と同値[=]、含意[⇒]、連言[∧]と選言[∨]の五つの論理詞をつかって、四つのアナロジーの違いを示唆しました。このことに関連して、述べておきたいことがあります。
[*]ほんとうは、淺沼圭司氏による芸術制作の四つの技法「表出・表現・模倣・引用」(第13章参照)に関係づけて論じたかった。しかし、そもそも淺沼氏の議論は芸術作品における「主体的」「対象的」「媒体的」の三つの契機を踏まえているのであって、ここでの二元論的な議論とはうまく理路がつながらない。
ちなみに、淺沼氏の「引用」は「対象的契機と主体的契機のいずれをも可能なかぎり媒体的契機の背後に消滅させることをくわだてるもうひとつの制作(技法)」と定義されるものであって、反復としての引用とも顕在的な引用とも違う、あるいはさらに「広い意味での引用」(市川浩)とも素性を異にする、第三もしくは第四の概念である。(このことについては、いずれ淺沼圭司著『制作について──模倣、表現、そして引用』の議論を踏まえて、考えてみたい。)
■間奏、三つの病理現象と五つの誤謬推論
一つの理念型から、議論を始めたい。
外部の視点も他者の視点も組み入れられない組織。したがって、議論すべき問題を共有することもなく司法過程も稼働しない組織。このような病理現象を呈している組織を、「共同体」と呼ぶことにしよう。
共同体の構成員がその恍惚たる帰一感を汲み取るべき至高の価値は、共同体それ自身である。そこでは、あたかも終わりなき祝祭のさなかにあるように、共同体は外部性と他者性から遊離し聖なる自己のイメージに自縛され、司法過程は永遠の現在のうちに停止しているであろう。そこに出現するのは、共同体から湧出する力を搾取する預言者的リーダーか、悪知恵に長けた司祭でしかない。
彼らの仮借ない支配が遍くいきわたり、聖なるもの(共同体)との合一が禁じられ独占されたとき、そしてこのことを隠蔽するために、外部性を消去したまま虚構の他者性が組織に導入されたとき、そこに組織の第二の病理現象が呈されることになる。
そこでは、組織は聖なるものとの合一がもたらす祝祭的な眩暈から醒めた、日常的で慣習的な役割関係が支配する儀礼的な世界となって現れるだろう。そして、個人が内面に秘めている非合理的で抑制し難い欲望の奔流を整序し、役割同一性のうちに捕捉するために導入されるのが、管理された他者としてのスケープゴートである。
それは、伝統的支配制に覊束された無為なる愚王として──彼が果たすべき職能は供儀の供物としてその身体を共同体に差し出すことであり、その責任はスケープゴート適格性とでも言うべきものとなる──あるいは、聖なるもののコインの裏側としての汚れを刻印された「選民」として、現れることになる。
組織の第三の病理現象は、聖なるもの(共同体)との合一チャンネルの独占を隠蔽するため、他者性を消去したまま虚構の外部性が共同体に導入されたときに呈される。
そこでは、組織は外部の荒々しい力による聖性破壊への予兆に染め上げられ、純潔無垢な共同体の価値を保全するため細胞分裂さながらに内部検閲作業に明けくれる、緊張と猜疑心に満ちた世界となって現れるだろう。そこに出現するのは、ありもしない外部を仮構し、共同体に危機を注入するとともにその解決者として自らを演出する権力者としてのリーダーである。
以上が共同体として実体化された組織が呈する三つの病理現象[*1]である。現実の組織を診断すれば、その程度は別として、おそらくこれらを組合せた成分表示でもってその結果を表現することができるだろう。
それでは、処方箋はどう書けばいいのか。
ここで指摘しておきたいのは、共同体においては司法過程が稼働しないということだ。あるいは虚構の他者や外部という「疑似問題」をめぐって、管理された司法過程が展開されているということである。そして司法過程の本質は、問題を共有しあう人々の共同作業によって妥当な解決策を「推論」することであった。
そうであれば、病理現象を呈している組織にあっては、推論の形式──連言[∧]、選言[∨]、含意[⇒]、同値[=]及び否定[¬]という五つの論理詞によって示されるもの──をめぐるなんらかの支障が、すなわち誤謬推論[*2]が生じていることであろう。
そして、組織の「出エジプト」のための処方箋は、これらの誤謬推論を真正なそれへと是正することに他ならないはずだ。
第一の誤謬推論は、個人と個人のいまここでの部分的かつ特殊的な結合[∧]の中から、一般化された普遍的な関係、すなわち共同性を抽出することである。
第二の誤謬推論は、このような共同性を実体的な価値として外在化させ、二者択一的緊張をはらんだ関係[∨]のうちに受肉させることである。
第三の誤謬推論は第一と第二の誤謬推論を基礎として、異質な諸個人に同質性を外挿し、これを同一のタブローの上に並置すること、そして「〜から〜へ」と至る多数多様でメタフォリカルな諸個人の連鎖[⇒]を破壊し、「〜ならば〜である」という本来恣意的な因果関係のうちに編制してしまうことである。
以上の誤謬推論の結果、すべてはトートロジカルな相互同質性をもって融合し、組織の司法過程は閉塞する。その時、組織は共同体として実体化され、第一の(イントラ・フェストゥム的な)病理現象を呈していることになる。
第四の誤謬推論は、第三のそれが諸個人の連鎖の多数多様性を破壊することで生成させた因果的世界の恣意性・無根拠性を隠蔽し、これを基礎付けるため、超越的・象徴的な外部世界を仮構し、因果的世界に禁忌(抑圧)あるいは全員一致の排除のルールを外挿することである。禁忌の対象とされあるいは排除されるもの、つまり虚構の他者(あるいは内部の敵)の存在をもって、外部世界の存在証明とするまやかしの置き換え[=]を遂行することである。
第四の誤謬推論が蔓延する時、組織は第二の(ポスト・フェストゥム的な)病理現象を呈することになる。
第五の誤謬推論は、第四のそれと類似した推論を、置き換えではなく否定[¬]の操作を介して行うことである。すなわち、因果的世界の恣意性・無根拠性の基礎付けを、いまここにではなく否定という人為的な操作を介して虚構の過去に求めること、因果的世界の自己完結性(integrity)を後から遡及させることである。
組織の第三の(アンテ・フェストゥム的な)病理現象において、外部からの危機(否定)という虚構を介して観念される「純潔無垢な共同体の価値」とは、まさに第五の誤謬推論が導き出す仮構である。
[*1]時間と自己は緊密な関係にあり、自己という存在をめぐる危機は必ず時間に関する特徴的な異常を伴うこととなる。木村敏は『時間と自己』で、代表的な精神病である分裂病について次のように述べている。
《分裂病の患者は、つねに未来を先取りし、現在よりも一歩先を読もうとしている。彼らは現実の所与の世界によりも、より多く兆候の世界に生きているといってよい。[…]分裂病のこの未来先取的なありかたを、私自身は従来から「アンテ・フェストゥム[前夜祭]的」と呼んできた。》(『時間と自己』86-87頁)
《分裂病性の事態においては、現存在はそのつど自己自身へと到来するかわりに、自己の他者性へと到来するのであり、自己を実現するかわりに自己の他者性を実現しているのだと言ってよい。[…]この場合、他者性は徹底的に未知性という標識をおびてくる。[…]分裂病者のアンテ・フェストゥム意識の中で出現してくる他者性は、それが既知の他者経験にとって絶対的に未知なるものであるという意味で、自己性にとって徹頭徹尾否定的・破壊的な作用しか及ぼさない。それは非自己であるだけにはとどまらず、反自己性の原理ですらある。》(同91-92頁)
また、分裂病とならぶ二大精神病の一つである単極型鬱病に特徴的な時間構造は「ポスト・フェストゥム[祭りのあと]的」(ルカ−チの用語)と形容される。分裂病者の意識における未来・過去・現在がいずれもアンテ・フェストゥム的未知性に深く侵蝕されているのとは異なり、鬱病者のポスト・フェストゥム意識においては「未知なる未来」という観念はなく、過去も現在完了としてしか語れないものである。そして鬱病者の自己にとって他者がいかなるものとして出現するかについては次の通りである。
《[分裂病者は]自分に出会ってくる他者の中に未知なる未来性を見てとっている。というよりはむしろ、彼はそのつどの他者との出会いの場としてのあいだを、つねに未知性、未来性の相のもとに経験している、という方が正しいだろう。[…]鬱病者にとって親和的な対人関係は[…]、一回性、未知性の要素をできるかぎり排除した世間的、慣習的な役割関係である。彼は他者のうちに未来的なもの、個性的なものを求めない。彼の自己はこれまで世間的他者からの期待に副って作り上げられてきた役割同一性の中で自足していて、これからの自己のありかたも、この同一性の延長線上でしか考えない。だから他者についても、自己のこれまでの役割同一性の継続を認知してくれるような人物しか期待しないのである。彼の対人関係は、他者の中に既知性と既存性を見てとっているかぎりにおいて、その安全が確保されているといってよいだろう。そしてこのような構造は、われわれがさきに取り出したポスト・フェストゥム意識の構造そのものにほかならない。》(同121-123頁)
さらに木村は癲癇・躁鬱病・非定型精神病を第三の狂気(「常時は健康で正常な人でも、なんらかの事情によって意識が解体した場合には、ひとしく経験しうるような普遍的な非理性」)と呼び、その本質的な特徴を「イントラ・フェストゥム」(祭りのさなか)と形容する。「現在への密着ないしは永遠の現在の現前」がイントラ・フェストゥム的意識の時間構造の特徴である。
《イントラ・フェストゥム的な第三の狂気が、アンテ・フェストゥム的狂気とポスト・フェストゥム的狂気に対立するものでないことは、現在という時間契機が未来や過去(ないし既存)に対して占める位置を考えてみるだけでも明白だろう。未来や過去と同列に並置されうる、いまひとつの時間帯としての現在のごときものは、抽象概念として考えられた現在にすぎない。真の現在は、未来と過去を自己自身の中から生み出す源泉点として、未来や過去よりも根源的な、独自の存在を保っている。現在とは、いわば垂直の次元、深さの次元である。このようにして、イントラ・フェストゥム的な事態は、アンテ・フェストゥム的およびポスト・フェストゥム的な両方の事態と、それに垂直な量的規定として関わっている。》(同159頁)
[*2]ドゥル−ズ/ガタリは「資本主義と分裂症」と副題の添えられた著書『アンチ・オイディプス』で、「表現(表象)・構造・劇場・演出者(解釈者)」といった一連の比喩形象に替えて「生産・機械・工場・技師」という用語を使用している。この用語法は、例えば「欲望 desir 」を本能その他のフィクショナルな概念によって説明するのでなく「唯物論的[質料論的] materialiste」に分析する視点を導く。
《精神分析の偉大な発見は、欲望する生産を発見したことである。つまり、無意識の種々の生産の働きを。しかし、オイディプスが入ってくるとともに、この発見は早くも新たな観念論によって蔽い隠されたのだ。すなわち、工場としての無意識に代わって、古代劇場が、無意識の生産の諸単位に代わって、表象が、生産する無意識に代わって、もはや(神話や悲劇や夢が[…]といった形態で)自分を表現することしかできない無意識が登場してきたのである。》(市倉宏祐訳『アンチ・オイディプス』38頁)
ここで「オイディプス」とは「内なる植民地」であり、「精神分析が無意識を去勢し、去勢を無意識の中に注入する操作」が「オイディプス化」と定義されている。そしてドゥル−ズ/ガタリはオイディプス化に至る精神分析の五つの「誤謬推理 paralogisme 」を論理詞(“かつ”“あるいは”“ならば”“同値である”“でない”)に関連づけて論じている。このことは組織の自己をめぐる病理現象の発生機序を考察する上で示唆的である。
■アナロジーから論理へ
もうかなり込み入ったことになっているのに、議論がさらに錯綜するかもしれませんが、ここで私は、病理現象や誤謬推論といった概念を、その語感が与える印象とはうらはらに、価値中立的なものとして扱いたいと考えています。
前節の議論は、社会組織を対象とした分析道具を手に入れるためのものなので、そこでは、三つの病理現象と五つの誤謬推論を(おそらく木村敏やドゥル−ズ/ガタリの思惑に反して)負の価値をもった概念として捉えています。しかし、私がいま取り組んでいるのは、深層の言語風景、深層の論理風景を描写するための道具立てを整えることですから、そこでは、病理現象や誤謬推論は負の価値づけから解放され、ニュートラルに、いやむしろ深層世界の力動性を表現する積極的な意味を担うものとしてとりあげられることになります。
たとえば、檜垣立哉著『日本哲学原論序説──拡散する京都学派』は、西田幾多郎の「現在中心主義」あるいは「現在性の徹底的な唯物論」や「底のない今の唯物性」が、西田にはじまる日本哲学のひとつの「結束点」となりうるのではないか、と指摘しています(37-40頁)。
《日本文化を論じる際、その移ろいやすさ、儚さをのべたてるものは数多い。坂部[恵]が論じるような、能における「仮面」がもつおもてとうらといった主題や、そもそも日本的なものの基底に設定される本居宣長の「もののあはれ」は、「いま・ここ」が指し示す無の上に漂う不安定さを根拠とする文化の特性を描くものであるともいえるだろう。》(『日本哲学原論序説』38頁)
檜垣氏はそこで、木村敏由来の「イントラ・フェストゥム」の概念を導入し、「それは、「純粋経験」そのものの深みであるような「永遠の今」がそのまま現前すること」(32頁)であり、「現在であること」=「生きているということ」(34頁)の「過剰としてのエクスタシー」(32頁)や「「アウラ」症例における世界との合一体験」(33頁)につながっていくものである、と論じているのです。
そしてこの「イントラ・フェストゥム=永遠の今」は、貫之現象学A層の第一相「錯綜体/アナロジー/論理」を構成する最後の項をめぐる議論の端緒となるものでもあります。
(49章に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。
Web評論誌「コーラ」36号(2018.12.15)
<哥とクオリア>第48章 錯綜体/アナロジー/論理(その4)(中原紀生)
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