Web評論誌「コーラ」38号/哥とクオリア 第52章 夢/パースペクティヴ/時間(その3)

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Web評論誌「コーラ」
38号(2019/08/15)

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《そこに一つの眼が現れて、僕の心を差し覗く。突如として、僕は、ラスコオリニコフといふ人生のあれこれの立場を悉く紛失した人間が、さういふ一切の人間的な立場の不徹底、曖昧、不安を、とうの昔に見抜いて了つたあるもう一つの眼に見据えられてゐる光景を見る。言はば光源と映像とを同時に見る様な一種の感覚を経験するのである。》(小林秀雄「「罪と罰」についてU」)
■反射視点の三つの次元
 
 小西甚一氏が論じた「反射視点」は、次の三つの次元において、これをとらえることができます。
 第一、『安宅』の「勧進帳の有無なんか、とても意識している余裕が無い」弁慶や、『隅田川』の「悲痛さが全心身に充ち満ちている」母のような「作中人物の現実」、すなわち身心の状況にかかわる次元。
 第二、シテが「当人の動作や状態をいちおう地謡の視点に移し、地謡という鏡に映った自分を謡う」と規定される、歌ないし語りの次元。
 第三、「自分自身から脱け出して、三人称の世界に位置をしめ」るシテの意識、あるいは「自分の心を観客の立場へ移し、その立場からさらに自分の演技をながめる」演者の心といった、語り手=見られる者と聞き手=見る者との主体間の関係性の次元、より一般的には、私のパースペクティヴと他者のパースペクティヴが交換される次元。
 演劇としての能に着目すれば、次のように表現することができるでしょう。
 第一に、作品世界(虚構世界)のなかで生きる作中人物(虚構人物)にとってのパースペクティヴ。
 第二は、能舞台の上にあって、シテとして作中人物に成り入った演者にとってのパースペクティヴと、(土屋恵一郎氏が『能──現在の芸術のために』(158頁)で言うように、地謡や囃子方が外部から舞台へ介入してくる存在であるのだとすれば、そのような外部存在としての)地謡や囃子方にとってのパースペクティヴとの相互映現。
 第三が、舞台と見所を含めた芝居小屋全体、能空間そのものにおける、生身の演者にとってのパースペクティヴと生身の観客にとってのパースペクティヴとの交換。(パライメージをめぐる二つの解釈、「臨死者モデル=上方からの視線モデル」と「能役者モデル=裏側からの視線モデル」は、この第三の次元にかかわる。)
 あるいは、こんな言い方ができるかもしれません。
 作中世界、演者の世界、観客の世界をそれぞれ円で表わし、これらをボロメオの環のように組み合わせると、反射視点の第一の次元は(他の二世界と交わらない純粋な)作中世界に、第二の次元は、作中世界と演者の世界との交差部(作中人物に成り入った演者)と、作中世界と観客の世界との交差部(外部から舞台へ介入する地謡や囃子方)との選言的関係に、第三の次元は(作中世界と交わらない純粋な)演者と観客の世界の連言的関係に、それぞれ対応する。
 ここで参考になるのは、『<かたり>と<作り>──臨床哲学の諸相』(木村敏・坂部恵監修)に収録された、浜渦辰二氏の「ナラティヴとパースペクティヴ──「(かたり)の虚と実」をめぐって」という論稿です。というより、私は、この浜渦論文を読んで、後から、反射視点をめぐる三つの次元に思いいたったのでした。そこで、まず、浜渦氏の論考の概要を、その勘所(私の琴線に触れた箇所)の抜き書きとあわせて抽出します。
 
■ナラティヴとパースペクティヴ
 
1.「身分け」と「言分け」─パースペクティヴの出現
 
○「パースペクティヴという現象」は、身体的次元と「語り」(ナラティブ)の次元において現われる。市川浩・丸山圭三郎の言葉を借りれば、「身分け」(身体による分節化)と「言分け」(言葉による分節化)の二つの次元である。
 
2.「身分け」─前言語的・身体的次元のパースペクティヴ
○身体的次元におけるパースペクティヴとは、「私と世界の関係が持つ構造」のことであり、それは「空間的パースペクティヴ」と「時間的パースペクティヴ」からなる。
 
【T】空間的パースペクティヴ
 
○世界が「ここ」(私の身体の空間的位置づけ)からの展望において現出するほかないことを、空間的パースペクティヴと呼ぶ。
○世界は「私の身体」からして、上下左右前後という方位と、遠近の奥行きとそれに伴う大小という空間的構造をもち、背面・側面・内面は見えず、手前にある対象がその背後にある対象を隠す。
 また「私の関心・志向性」のあり方からして、そもそもある対象は「地の上の図」として、その周囲・背後・地平、ひいては「地平の地平」としての世界から区別されて浮かび上がってくる。
 さらに「私の身体」のキネステーゼ(運動感覚)を通じて、パースペクティヴ的空間は動態的構造を含む。(そもそも「遠近」という構造は、キネステーゼの働きによって初めて可能になっている。)
 
【U】時間的パースペクティヴ
 
○時間が「いま」(私の身体の時間的位置づけ)からの展望において現出するほかないことを、時間的パースペクティヴと呼ぶ。
○過去は「いま」からの振り返りのなかでしか語られないし、未来も「いま」からの予見・予想のなかでしか語られない[*1]。
 しかも「いま」は決してそのつどの点的な瞬間ではなく、「たったいま」(過去把持)と「もうすぐ」(未来予持)という地平を伴った「いま」という「生き生きとした現在」である。
 それが絶えず流れるとともに沈殿・蓄積していく、そのようなパースペクティヴ的な時間構造のなかで、私たちは生きている。
 
【V】「私・いま・ここ」からのパースペクティヴ
 
○「私」が身体をもって「いま」と「ここ」に位置づけられ、過去や未来を語り、世界を知覚する。これらは等質的なニュートン的時間・空間ではなく、「私・いま・ここ」という原点から広がる非等質的な現象学的時間・空間である。
〇「私・いま・ここ」からのパースペクティヴには、経験的次元と超越論的次元の二つの次元がある。
 たとえば、全生活史健忘症の患者が「ここはどこ、私は誰?」と尋ねるとき、「ここ」とは何か、「私」とは何か、という了解をもっている。ただ、その基本的了解に繋ぎ止められるべき経験的次元のデータが欠けている。「私・いま・ここ」という超越論的機能は働いているが、「私が、いま、ここ」に位置づけられて生きているという感覚がないのである。
 これに対して、超越論的次元に属する障害をもつ患者は、「私を、いま、ここ」に繋ぎ止める根源的な感覚が欠如している。
《この二つの次元の違いは、木村敏が離人症について、アリストテレスの「共通感覚」や西田幾多郎の「行為的直観」を使いながら語ってきたことを、ベルクソンの用語を使いながら、「リアリティ」(公共的な認識によって客観的に対象化されたもの)と区別された「アクチュアリティ」(生の各自的で直接的な営みである「生きる」ための実践的行為に属するもの)を論じたことにも繋がりを見出すことができよう[*2]。〈私・いま・ここ〉という原点に繋ぎ止められ、そこからのパースペクティヴとキネステーゼにおいて世界が現出するという構造こそ、アクチュアリティを特徴づけるものである。木村の論じる「離人症」「ポスト・フェストゥム」「アンテ・フェストゥム」などの議論もすべて、そのような〈私・いま・ここ〉からのパースペクティヴとキネステーゼという、いわば〈超越論的な機能〉がうまく働かず、障害を起こしているさまざまな形と言えるのではないだろうか。》(105頁)
【W】私と他者のパースペクティヴ
 
〇「私・いま・ここ」からのパースペクティヴにおいて世界が現出するという超越論的な構造の問題は、「私」(語り手)と「他者」(聞き手)のパースペクティブ(語り手と聞き手は逆でもよい[*3])の違い(ずれ)という経験的な構造の問題とは、異なる次元に属している。
 
《…発生的に言えば(フッサールの言う発生的現象学からしても)、「まずそれぞれのパースペクティヴがあって、それからその後でそれを交換するというのではなく、初めには区別されない自他未分化≠フパースペクティヴがあって、それがやがて分化していって私≠フパースペクティヴとともに他者≠フパースペクティヴが形成される。それゆえ、それぞれのパースペクティヴが生まれる前にヴァーチャルな根拠(基盤)という場があって、そこから個々がそれぞれ異なるパースペクティヴを持った、アクチュアルなパースペクティヴが生まれてくる」ということになろう。確かに、発生的に言えば、それが順序ということになろうが、ここでは発生的な問題には立ち入らないことにして、むしろ、パースペクティヴの差異というのが、「言分け」という言語の次元に先立って、「身分け」という前言語的・身体的次元においてすでに起こっていることを確認したことをもって、先に進むことにして、「語り」がもつパースペクティヴの問題に入っていきたい。》(105-106頁)
 
3.「言分け」─言語的次元のパースペクティヴ
 
○「語り」のパースペクティヴは、すでに「私の身体」によって空間的、時間的にパースペクティヴ化され分節化された世界の上に成立する。「身分け」された世界の上に初めて「言分け」の次元が成立する。
 
【X】虚と実
 
○ある図が、うさぎ(あひる)が並んでいるというコンテキストに置かれると、うさぎ(あひる)というアスペクトで見えることがありうる。「そこにうさぎ(あひる)がいる」のように、空間的・時間的パースペクティヴの違い(ずれ)に気づかないまま「語る」ことが、「虚と実」すなわち「虚偽と真実」の行き違い(ずれ)を引き起こす。
○「虚と実」は「虚構と現実」の対立としても考えられる。「語り」は「現実」をありのままに語るのではなく、過小にあるいは過剰に語る。「語る」ことは「騙る」ことと紙一重であり(坂部恵『かたり』)、「虚構」とも紙一重である。
〇「語り」がもつ「過小と過剰」は、身体的・パースペクティヴ的な知覚の次元においてすでに起きている。私たちは見ること聞くことにおいて、与えられているものすべてを見ているわけでないとともに(過小)、見ているものすべてが与えられているわけではない(過剰)。それこそ「志向性」の含意するところでもあった。
 
【Y】始まりと終わりと筋
 
○「語り」は、無数の出来事のなかのどこかに「始まり」を置き、考えられる無数の流れのなかで一つの「筋」を辿り、無数の出来事のなかのどこかに「終わり」を置くという仕方で、一つの物語を切り取ってくることで成立する。無数の出来事の流れのなかに、一つの線を引くことで得られるのが「語り」のパースペクティヴである。
○「語り」が成立する時、多くの「語られざる」ものがその周りに残されていったことを忘れてはならない。ある出来事の経過を一つの「筋」によって「語る」ことは、同じ経過のなかに別の「筋」を見る人にとっては、「騙る」ことにほかならない。あるパースペクティヴから「実を語る」ことは、別のパースペクティヴからは「虚を騙る」ことになる。
 
【Z】パースペクティヴの交換
 
○誰もが自分のもつパースペクティヴをドミナント(支配的)なものと思い、他人のパースペクティヴをオルタナティヴな(別の)ものだと思っている。他者のもつパースペクティヴを、自分にとってドミナントになったパースペクティヴを「書き換え」てくれるオルタナティヴかも知れないと受け入れ、場合によっては交換してもよいと考えるかどうか。そこに、私のパースペクティヴの閉鎖性を他者のパースペクティヴへと開放する可能性が秘められている。
○ナラティヴとパースペクティヴとオルタナティヴの問題は、医療現場、たとえば終末期医療において、「一人称」(患者自身)のパースペクティヴからの語り、「二人称」(家族・友人)のパースペクティヴからの語り、「三人称」(医療従事者)のパースペクティヴからの語りといった、異なる視点からの「物語り」をもつ当事者同士の「対話」とそれらのパースペクティヴの「合意」による意思決定の問題にかかわってくる。
〇ブランケンブルクが「パースペクティヴ性と妄想」(『妄想とパースペクティヴ性』)で述べたように、「精神を病む者は、パースペクティヴを交換する能力が欠如している」。
 
[*1]空間的パースペクティヴに関連して「見る」という語が使われ、時間的パースペクティヴについては、過去や未来を「語る」と表現されていることに注意。「「過去であること」の映像的表現は不可能である」(大森荘蔵「言語的制作としての過去と夢」、『時間と自我』113頁)。
 
[*2]ベルクソン・木村敏由来の「アクチュアリティ」は、永井均由来の「現実性、アクチュアリティ」の概念とは(おそらく)違う。「私・いま・ここ」からの「経験的」で「リアル」なパースペクティヴと《私・いま・ここ》からの「超越論的」で「アクチュアル」(木村敏)なパースペクティヴと〈私・いま・ここ〉からの「独在論的」で「アクチュアル」(永井均)なパースペクティヴ。
 
[*3]私と他者、語り手と聞き手のパースペクティヴが互いのうちに入りこむこと。「劇と観客とが、虚構と照明の作る裂け目をはさんで向かいあっているのではない。両者はそれぞれお互いの中にはいり込んでくるのである。われわれ観客に対して、演者たちは側面から、そして二つの面の上を歩み、その動きを繰り拡げていくのであり、演者たちとともに、席に居る者一人一人も自らの占める位置によって、自分の目や耳と相応ずる角度に従って、己れ自身の幾何学を作ることになるのである。」(ポール・クローデル『朝日の中の黒い鳥』、講談社学術文庫117-118頁)
 
■気分け=リズム的分節、パースペクティヴの第三の次元
 
 浜渦氏の議論を、冒頭に書いた「反射視点」の三つの次元に接続しておきたいと思います。そのためには、「身分け」と「言分け」のあいだに、パースペクティブ現象をめぐる第三の、たとえば「気分け」(景色=気色や気配や気分による分節化、あるいは音韻もしくは律動による分節、「日本芸術における「無限」の表現」の原注で九鬼周造が用いた語彙を借用すれば「韻律的分節」(岩波文庫『時間論』60頁))とでも呼べる次元を導入することが有効ではないかと考えます。
 すなわち、前言語的・身体的次元と言語的次元の中間にあって、この二つの次元を媒介し結合する第三の次元。(生命=身体現象でも言語現象でもないと同時に生命=身体的かつ言語的な現象であるものの次元。たとえば、数覚やリズム感覚といった原初的な感覚、共感覚、原型的感情が分節される胎児的・幼児的な生命=身体のステージ。あるいは、声と文字の中間段階、絵文字とパラレリズムの世界。)
 それは、オギュスタン・ベルクが『風土の日本』(篠田勝英訳、ちくま学芸文庫)で「通態的(trajective)」と形容した、「同時に自然的かつ人工的であり、集団的かつ個人的であり、主観的かつ客観的である」(185頁)次元、あるいは「時の経過とともに風土を産み出し、風土を絶えず秩序化/再秩序化するさまざまな営みの次元」(同)、そしてまた「メタファと因果関係」を結合し、「線的時間性(因果関係の連鎖)と循環的時間性(フィードバック)を非時間的(過去と現在、可能態と現実の隠喩的同化による時間の排除)に結合させる」(187頁)次元に通じていることでしょう。
 私は、この第三の次元を、すなわち同時に身体的(生命的)であり言語的であるような次元、そしてこの二つの界域を「通態的」に結合する「あわい」の次元を、とりあえず「リズム的・倍音的」[*1][*2]と形容したいと思います。
 以上のことを踏まえて、浜渦論文の概要を、前節で用いた見出しを使って再編集すると、次のような組立になるでしょうか。
 
1.「身分け」と「言分け」と「気分け」─パースペクティヴの出現
2.「身分け」─前言語的・身体的次元のパースペクティヴ
【T】空間的パースペクティヴ
【U】時間的パースペクティヴ
【V】「私・いま・ここ」からのパースペクティヴ─経験的次元
【W】私と他者のパースペクティヴ─経験的な構造の問題
3.「言分け」─言語的次元のパースペクティヴ
【X】虚と実
【Y】始まりと終わりと筋
4.「気分け」─リズム的・倍音的次元のパースペクティヴ
【V】「私・いま・ここ」からのパースペクティヴ─超越論的な構造の問題
【W】私と他者のパースペクティヴ─自他未分化のパースペクティヴ
【Z】パースペクティヴの交換
 
[*1]「リズム」をめぐって、これまでから断片的な引用や孫引きを重ね、「独自の」見解を述べてきた。(引用──萩原朔太郎『月に吠える』序文(第17章)、安藤礼二『折口信夫』(第39章)。孫引き──岡田暁生著『音楽の聴き方』由来のハンスリック『音楽美論』(第13章)、吉本隆明『言語にとって美とはなにか』由来の時枝誠記『国語学原論』(第35章)。見解──「リズム」と「かたち」と「におい」をめぐる共感覚的な照応関係の根源にして初発にある「イデアとしての感情」(第17章)、「像=形=リズム=生命の本質」と「喩=姿=あらわれ=生命の躍動」の対比(第36章)。)
 ここで新たな素材を三つ蒐集しておく。
 
 その一。中井正一は「リズムの構造」で、自然的肉体的な反復現象(潮、波、風、呼吸、脈拍、歩行)を原始形態とするリズムをめぐって、三つの解釈のしかたを示している。第一、反復現象を数的構造に射影する「数学的解釈」。第二、反復現象を生命的構造に射影する「存在論的解釈」。第三、反復現象を歴史的構造に射影する「歴史的解釈」。
 本文で「リズム的」と名づけたのは、これらのうち「和歌、俳句のリズム」に通じるとされた第二の解釈にもとづく(東洋的な)リズムを念頭においてのことだが、残念ながら、私には中井正一のこの刺激的かつ蠱惑的な論稿が示唆するところを、たとえば次の引用文に出てくる「邂逅」という(九鬼周造の偶然論や押韻論につながる)語や「パラエクジステンツ」という(オスカー・ベッカーひいては再び九鬼周造につながる)語の概念的倍音の豊穣さを、存分に咀嚼し嚥下することができない。
《かかる‘瞬間性’と‘個人性’と‘偶然性’は、その最もよき組みあわせを恋愛の姿においてもっている。愛のたわむれ、心中のもつ気紛れ、そこにブルジョワジーの美しい夢と華がある。リズムもそのコンビネーションの一つの姿としてあらわれる。存在論的リズムの解釈はその様式と共にかかる一点に凝集する。その美しさはその様式の美しさであり、その醜さはその様式の醜さである。リズムならびに韻律はかかる文化形態においては、かかる様式のもとに構造をもつ。そこでは自然と肉体現象の反復を‘邂逅のもつ美しさ’として理解する。宇宙的さまよいの、永遠の虚無の中に、二つのものが同一であることのもつ欣び、その‘偶然’のもつ輝かしさ、‘瞬間’のもつおごそかさ、他のものでなくそれが‘自分’であることの尊さ、そこに韻律とリズムのもつ美しさがあるのである。自分で自分を求めてさまようそのさまよいの中にようやくみずからにめぐりあうことのできた悦び。そこに、時の再びの邂逅としてのリズムの本質を見いだそうとする。かくて永劫回帰こそ、真のいっとう大きな韻律となる。かかる存在への戯れをこそ、仮象存在[パラエクジステンツ]としてのリズムの現象として私たちはもつといえよう。念々に発見されゆく発見的存在としてリズムはその意味をもつのである。》(岩波文庫『中井正一評論集』112頁)
 その二。井筒俊彦「詩と宗教的実存──クロオデル論」から。
《クロオデルの詩を独り静かに朗読していると、何か深い深い地の底から響きあげてくるような重い荘厳な律動をからだ全体に感じて思わず慄然とすることがある。それは、もはや単なる言葉の律動ではなくて、どこか遠いところから私達のからだに‘じか’に伝わって来る恐ろしい、滲み入るような地響きだ。私達はその響きに原始的宇宙の喚び声を感ずる。実際クロオデルの詩の世界は鬱蒼として昼なお暗い原始林を憶わせはしないだろうか。宇宙創成のその日から何人も足を踏み入れたことのない大原始林の無気味な蠱惑!》(『読むと書く』333-334頁)
 斎藤慶典氏は『「東洋」哲学の根本問題──あるいは井筒俊彦』で同じ文章を引き、「深い深い地の底から響きあげてくるような重い荘厳な律動」や「どこか遠いところから私達のからだに‘じか’に伝わって来る恐ろしい、滲み入るような地響き」や「原始的宇宙の喚び声」や「鬱蒼として昼なお暗い原始林」や「宇宙創成」の部分に強調を施したうえで、それらが「のちに「存在エネルギーの塊」である「空」として井筒哲学の中核に据えられるものの、当初のイメージ」だったと書いている(91頁)。ちなみに、斎藤氏によれば「存在エネルギー」は井筒哲学の鍵語「コトバ」に該当する(75頁、85頁)。
 
 その三。合田正人氏は「九鬼周造の戦争──民族[フォルク]幻想とリズム」(『現代思想』2017年1月臨時増刊号)で、ニーチェの初期草稿「リズム的探究」から「リズムは個体化の試み〔実験〕である。リズムがありうるからには、多数性と生成があるのでなけれなならない。ここに示されるのは、個体化の動機としての美への欲望である。リズムは生成の形式であり、一般的には現象世界の形式である。」という一文を引き、つづけて次のように論じている。
《「個体化」と結びつく限りで、リズムはアポロン的なものである。実際、ニーチェは「音楽がアポロン的な芸術であるとしても、厳密な意味ではリズムだけがそうなのである。リズムの造形的な力がアポロン的な状態の表現のために発展したのである」(ニーチェ全集第一巻(第一期)、白水社、二二一頁)。けれども、なぜ造形的な力が必要なのだろうか。それはディオニュソス的分裂と解体があるからであり、実に興味深いことに、ニーチェはディオニュソス的なものをアジア出自とみなしている。
 
 それ〔ディオニュソス的なもの〕はギリシア世界にとって何か東洋的なものであって、リズムと造形の途方もない力をあげてようやく制御せざるをえなかったものであった(同右二二二頁)。
 
 リズムと造形の途方もない力によってようやく制御せざるをえなかった──、こう言われると、おそらく誰もがディオニュソス的なものの反リズムと反造形の途方もない力を感じ取るだろう。ニーチェの「リズム的探究」は東洋と西洋という巨大な時間を提起してもいた。実は九鬼は、「元来、押韻は決して西洋に起源をもつものではない。押韻が規範的意味をもって発達したのは東洋にありとされている。印度か支那が恐らく押韻の発生地であろう」(4/439)と記しており、ひととして出会うこともテクストの相関関係もないながら、ニーチェと九鬼はまさに無関係に、「アポロン的なもの」と「リズム」というニーチェ自身の主張に加えて、「ディオニュソス的なもの」と「押韻」という思いがけない接続を差し出していることになる。》(『現代思想』(2017年1月臨時増刊号)168頁)
 合田論文で印象に残ったことがふたつ。「場面」=「リズム」論が展開された時枝誠記の『国語学原論』と九鬼周造の『文藝論』の刊行が同年(1941年)であったという指摘と、マラルメの引用。「〈詩〉とは、人間の言語をその本質的リズムに引き戻すことによって、生存の諸相にひそむ神秘的意味を表現することである。」(マラルメ全集V、497頁)
 
[*2]第1章で言及した「歴史の倍音」や「概念のポリフォニー」(坂口ふみ『〈個〉の誕生──キリスト教教理をつくった人びと』)という語彙。第17章で引用した「感性とは、対象の(あるいは世界の)性質を知覚しつつ、わたしのなかでのその反響を倍音として聴くはたらきである。」(佐々木健一『日本的感性──触覚とずらしの構造』16頁)という定義。これらに加えて、ここで新たな素材を三つ蒐集しておく。
 
 その一。中村明一著『倍音──音・ことば・身体の文化誌』(第5章「日本文化の構造」)によると、日本の言語と音楽と音響との間に境目はなく、化学における「共鳴構造」の関係を結んでいる。そして、それぞれの境界を越えて総合的にコミュニケートする力を持っている。能における地謡、能管、鼓がそうであるように。
《元々、倍音が強い音というのは、火山の爆発、地鳴り、台風など、人間にとって異様な状況の時に現れる音でした。倍音が強くなると、脳はさまざまな反応をし、脳の状態が通常とは異なった段階に上ります。時間・空間の感覚は、倍音によって歪みます。能舞台は、その歪みが遥か彼方にまで至る、歪みの極みを演出していると言えます。この世界(目の前の舞台)と異界(能の中で語られる異界)との懸け橋を、地謡[じうたい]、能管、鼓などから繰り出される倍音が務めているわけです。能においては、倍音による歪みが極まり、ひとつの舞台の上に、まったく異なった次元の場面を呼び出すことができるのです。
 居ながらにして、倍音によって異界にまで意識を飛翔させることを、日本人は感じ、味わってきたのです。》(『倍音』144頁)
 その二。樋口桂子著『日本人とリズム感──「拍」をめぐる日本文化論』(第1章「「ものおと」の気配」)から。
《日本人の耳が好んだ音は、ヨーロッパの教会の鐘のようにどこまでも高く響いてゆくものではなく、雑音の要素を含んだ、鈍く広がって、あたりに浸みゆく音であった。
 倍音は周波数の上の方になると、人の聞こえる可聴域を超えて、無意識の領域へとつながってゆく。こうした倍音の力は祈りと結びつく。ヨーロッパでも日本でもこれは同じである。しかし日本の求める音の質は西欧の音とは方向性が違っていた。(略)声の出し方で倍音の響き方を変える日本の音は、琵琶にせよ三味線にせよ、その場に静かに広がり、心の中に浸みゆく音の要素を選択したのである。そうした音がつくり出す気配は、整数倍音で響く音づくりをするヨーロッパの気分と同じものとはならなかった。》(『日本人とリズム感』31頁)
 その三。真木悠介氏は『時間の比較社会学』で、次のような議論を展開している。いわく、神話的時間には、@われわれの生きる現在のまわりを流れる持続としての時間、A神話そのものの内部を流れる持続としての時間、B神話的過去とわれわれの生きる現在とのあいだの距離としての時間、という三つの時間がある。このうち第一と第二の時間が換喩的であるのに対し、第三の時間は暗喩的である。
《神話がひとつの共同体のリアリティをささえる力は、神話的過去そのものの力ではなく、神話的過去と現在‘とのあいだに’ある、この暗喩的同一性の力に他ならない。神話的過去を、現在の生の意味として不断によみがえらせる信仰を失ったときに、それはたんなる史料か語り草にすぎない。神話の本質は、過去と現在のあいだの関係であり、少なくともその限りにおいてしか、それは生きていることができない。
 それは信仰と儀礼をとおしてくりかえし現在化される行為のなかで、数多くの歴史的時間を垂直につらぬきながら、‘幾重もの倍音をもつ’暗喩的同一性のひとつの次元を、共同体の生のリアリティを支える軸として沈澱する。》(岩波現代文庫『時間の比較社会学』243頁)
■地分け=風土的分節、パースペクティブの第四の次元
 
 ここで、いま一つ、付け加えておきたい事柄があります。それは、パースペクティヴ現象をめぐる第四の次元、あるいは先の三つの次元がそこにおいて成り立つ場所のようなもの、すなわち(浜渦論文でも、空間的パースペクティヴを論じたところで出てきた)「地平」という概念です[*1・2]。
 この、フッサールが『イデーン』第一巻で最初に取りあげ、最晩年まで繰り返し取り組み、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で、その総体としての「生活世界」の概念を主題化して論じた「地平(Horizont)」をめぐって、清水真木氏は『新・風景論』で、次のように論じています。
《フッサールにとり、地平とは、さしあたり、注意が向けられぬまま何となく「見え」たり「聞こえ」たり、想定されたりしているだけのものの領域を指します。何かがボンヤリと見えたり聞こえたりしているとき、見たり聞いたりしている私は、見えたり聞こえたりする当のものからみずからを明確に区別せず、両者は「主客未分」の状態で溶け合っています。これが地平に関しフッサールが強調した事実の一つです。
 ただ、地平の本質を主客未分に求めたのは、フッサールが最初ではなく、また、フッサールだけでもありません。たとえば、すでにウィリアム・ジェイムズ、あるいは、ジェイムズの影響を受けたベルクソンや西田幾多郎が「純粋持続」「純粋経験」などの名のもとで同じ問題を主題化しています。
 むしろ、フッサールが最初に指摘し、そして、彼に続く哲学者たちがそれぞれ異なる文脈のもとで大々的に強調したのは、次のような点です。すなわち、注意の主題的な対象は、フッサールが「非顕在的」「潜在的」「可能的」などと呼ぶものの領域──つまり「地平」──が意識によってあらかじめ捉えられていることによって初めて認識可能なものとなる点です。(略)
 地平は、直接には知覚されないまま、しかし、暗黙のうちに前提とされた了解内容として姿を現す場合があります。》(『新・風景論』179-180頁)
 清水氏は、すべての認識の前提となる、「非顕在的」「潜在的」「可能的」な「地平」の総体(フッサールが「生活世界」として論じたもの)を「風土」と規定し、つづけて、風景の成立にとって地平=風土は必要だが、地平=風土の積み重ねそれ自体は風景ではないこと、風景の経験は「注意を惹きつける何かが地平から姿を現すことによって惹き起こされる視界の不可逆的な組み換え」であり、したがって風景とは「地平だったもの」のことであると論じます。
《風景を眺めるとは、地平だったものが地平ではなくなるとき、この地平ではなくなったものを地平だったものとしてあとから把握し直す作業です。この意味において、地平は、想起されること、思い出されることによってのみ把握されるものであり、風景の経験の本質は、地平の想起に求められます。換言すれば、地平への注意は、「ぬっ」と現れるものの方を「振り向く」動作をトリガーとして、そのときに目に映ったものをあとから振り返ること、「そうか、あれがあそこにあったんだ」「そうか、ここはこういう場所だったんだ」などのように、いわば「完了形」で地平を語ることによってのみ可能となるのです。
 風景の経験の本質は、地平を想起し製作することにあります。したがって、地平の想起というのは、地平の再現を意味しません。》(『新・風景論』203頁)
 
《「想起」の名のもとで実際に遂行されるのは、脳のどこかにあらかじめ格納されていた視覚的な記憶をそのまま再現することではありません。また、風景を享受するとは、目の前に広がる眺めを視覚像として脳へと一旦格納したのち、これに表現を与えることでもありません。想起される過去は、あらかじめどこかにあったものではなく、何かが「完了形」で語られることにおいて──つまり、現在との連続において──その都度「製作」されるものなのであり、完了形による語りを遂行することにより風景が形作られて行くと考えねばなりません。この意味において、過去などどこにもない、あるのは現在だけであると言うことができます。》(『新・風景論』204頁)
 パースペクティヴをめぐる議論が夢(そこでは、すべてが現在形として起こっている)の話題につながり、そして時間のテーマにつながってきました。
 非顕在的・潜在的・可能的な地平=風土が、いま・ここにおける完了形の「語り」を通じて分節化されること、すなわち風景(相貌)として現在において想起・製作されること。この、想起をめぐる「コペルニクス的転換」(ベンヤミン)を、私は「地分け」によるパースペクティヴの出現と呼びたい。あるいは、地平とは時間性の異称にほかならないのだとしたら、それを「時分け」と呼ぶべきなのかもしれません。
 
[*1]土屋恵一郎氏は『能──現在の芸術のために』で、高山宏著『目のなかの劇場』に依りながら、シェークスピア劇場では、正面の王座から舞台へとむけられた王の視線が舞台の「ホリゾント(地平)」を決定し、舞台上の役者の身体のあらわれがこのホリゾントに吸収されていくと論じている。
《さらに言えば、正面の中心からの目によってホリゾントとの間に、役者をつらぬいた視線の領域がかたちづくられると、役者の舞台の上での動きは、縦に舞台を分割している領域をよこぎることになる。どんな動きも、この縦の分割線を舞台の上で錯綜させることはできない。
 他方、能舞台の場合、野外の勧進能では、四方に観客がいた。その四方からの視線の前に出ていくことは、どこにもホリゾントがないことを意味している。身体を吸収する場が舞台の上にはない。どこにも視線があり、はねかえしてくる客の眼があり、呼吸が聞こえる。その舞台の上を分割している視線は、縦の分割線ではない、四方から役者へとむかってきて、放射形の視線の領域をかたちづくる。その視線はホリゾントにつながって安定した対称を見るのではない。むこうからも視線がある。どこからも視線がある。その不安定な対称が、能の舞台を消失するホリゾントにむかってではなく、視線の交錯のうちに、けっして一方に吸収されない身体の場所として、浮かびあがらせるのだ。》(岩波現代文庫、157-158頁)
 
《それは現在の能舞台でも同じである。現在の能舞台はほとんどが、二方向にしか客席がない。ちょうど、扇形に客席がついている。しかし、舞台の上には、背後に囃子方が座り、ヨコには地謡が座っている。「囃す」という言葉が示しているように、能の音楽は外部の存在である。外から囃すものである。能のシテ方にしたがうものであっても、それは外部の音楽としての緊張をたもっている。地謡も同じである。舞台へと介入してくるものである。そもそも面もつけない、普通の姿でそこにいることは、その視線をむしろ観客以上に露呈させている。》(同158頁)
 
《離見の見とは、こうした能の舞台の構造によって保証されていることである。自分のうしろ姿も見ていなければならない、というのは、無理難題である。そんなことはできないのだ。心構えにすぎない。心構えではうしろ姿は見えない。ただ、能の身体は、どこにも視線を見ることで、自分の身体を吸収するホリゾントの不在を知るのである。
 離見の見が、自分を外から客観的に見ることであると言うのは、けっしてまちがいではない。しかし、それは綺麗事のお説教であっては意味がない。そこには構造が用意されていたのだ。その構造の働きが、身体への眼をつくっていたのである。世阿弥が言う、「離見の見」とは、この構造への自覚である。》(同160頁)
[*2]松岡心平氏は『宴の身体──バサラから世阿弥へ』で、「水に映るイメージが極上のポエジーを醸し出す作家」として、紀貫之と世阿弥の名を挙げ、「突飛な取りあわせながら、日本の古典作家として、水鏡から醇乎としたポエジーを汲み上げた二人…の詩魂はまた、時空を超えて水鏡に映り合い交響し合っているように思われる」と書いている(第11章「紀貫之と世阿弥」)。
 松岡氏は、この美しい仮説を、世阿弥能(「養老」「野守」「実方」「井筒」等々)と貫之歌(「袖ひぢて」「掬ぶ手の」「手に掬ぶ」「影見れば」等々)の列挙と相互の「交響」の事例の分析を通じて実証し、さらに、両者の「舞童」としてのキャリアの類似点に説き及ぶ。
《一般的にいって、舞人としての演劇的体験は、明晰な合理主義精神の内部を通過することにより、見つつ・見られる演劇的知として精錬されてくる場合がある。
 演劇の現場では、観客に見られ、役者がそれを見返すという相対的地平がすべてである。見つつ・見られる関係性を生き、これを鋭く意識する精神は、この関係性の象徴としての「水鏡」にも親しみ、こだわるであろう。貫之と世阿弥がそれである。
 貫之はまた、女の筆に仮託して『土佐日記』を書いた。世阿弥も、女性を演じる俳優であり、代表作「井筒」では、男優が女を演じ、その女が男装して水鏡するという、幾重もの性の反転のしかけがめざましい。このような反転する性の感覚への親しさも、水鏡や水に映るイメージの愛好と深くかかわりあうものであろう。》(岩波現代文庫、250頁)
 私は、松岡氏が取りあげた「水鏡」や「水に映るイメージ」を「地平」に擬えて考えている。さらに、映画のスクリーンにつながるものだと考えている。付言すれば、松岡氏の言う「演劇的知」を、土屋氏が言う「構造」がうみだしたもの、あるいは「構造」をうみだすものであると考えている。そしてその「構造」は、「光源と映像とを同時に見る様な」経験をもたらすものであると考えている。
 
■パースペクティヴの四つの次元、その静態
 
 最後に、ここまで論じてきたパースペクティブの四つの次元について、総括しておきたいと思います。この章ではその前段、四つのパースペクティヴの相互関係や構造をめぐる議論、いわば静態論を取りあげます。
 以下、「第n次元のパースペクティヴ」を「Pn」と表記することとし、第一次元から第四次元まで、夢のパースペクティヴの四つの次元を、表層(P2)、深層(P1)、最深層(P3)、超深層あるいは基底層(P4)の順に階層化し、それぞれの特質を表すキーワードを拾っておきます。なお、「眺望」(知覚的眺望、感覚的眺望、複眼的・非人称的・虚想的眺望)や「相貌」(物語的・感情的相貌)や「中動態」の語は、次章の議論を先取りして使っています。
 
【P2】
・表層のパースペクティヴ
・「言分け」─言語的次元のパースペクティヴ
・言語的伝導空間
・虚と実が分離し、始まりと終わりと筋をもった物語が成立
・「知覚的眺望」の世界(P3と共有)
 
【P1】
・深層のパースペクティヴ
・「身分け」─前言語的・身体的次元のパースペクティヴ
・身体的伝導空間
・「私・いま・ここ」からのパースペクティヴ─経験的次元
・私と他者のパースペクティヴ─経験的な構造の問題
・「感覚的眺望」の世界(P3と共有)
 
【P3】
・最深層のパースペクティヴ
・「気分け」─リズム的・倍音的次元のパースペクティヴ
・リズム的伝導空間、誦習による伝承
・「私・いま・ここ」からのパースペクティヴ─超越論的な構造の問題
・私と他者のパースペクティヴ─自他未分化のパースペクティヴ
・パースペクティヴの交換
・生命現象でも言語現象でもなく、同時に生命的かつ言語的な現象であるようなものの次元
・通態的、邂逅的、中動態的な世界
・複眼的、非人称的、虚想的「眺望」の世界
・物語的・感情的「相貌」の世界
 
【P4】
・超深層(基底層)のパースペクティヴ
・「地(時)分け」─地平的・風土的次元のパースペクティヴ
・完了形による語りの遂行によって過去が後から製作(想起)される場所
・非顕在的、潜在的、可能的な世界
 
 これらパースペクティブの四つの次元は、(精確に言えば、それぞれの次元のパースペクティヴによってひらかれる現象、体験の実質を)、木岡伸夫氏の「三つの風景経験」もしくは「風景経験の四つの相」の議論に関連づけて考えることができるのではないかと思います。以前、第49章で作製した、木岡氏の「風景」と市川浩氏の「錯綜体」の概念との対応関係を示す等式を使って、このことを表現すると、次のようになります。
 
【P2】=表現的風景:見える形 =顕在的(現実的)統合
【P1】≒原風景  :見える型 =可能的統合(=虚想)
【P3】≒基本風景 :見えない形=潜在的統合
【P4】=原型(X):見えない型=不可能な統合(夢=無=空)
 
 P1とP3の項で、「=」ではなく「≒」を用いたのは、「原風景」と「基本風景」とがP1及びP3の両界域において、アマルガム状に混合しているのではないかと考えたからです。このあたりの事情を、木岡氏の『邂逅の論理──〈縁〉の結ぶ世界へ』で確認しておきます。
《…風景経験の中心は、「集団によって共有される型」、すなわち「原風景」ということになる。説明の上では、「基本風景」が「原風景」に先行するが、事実上は原風景が風景経験の中心であり、個の水準に定位する基本風景は、前者から一種の抽象の手続きによって取り出される。
 個別の「基本風景」と集団において成立する「原風景」を区別したが、原理的にいずれが先か後かを問うことはできない。経験の個的な水準と全体的な水準は、理念的に区別されるものの、たがいに他を予想する不可分な「即一的」[Aと非Aが異なりを維持したままで一つに結びつく──原著註]関係にある。この二つの水準は、大乗仏教の「レンマ的論理」を経由した著者の現在の考えから言えば、個と全体、沈黙と語りの〈あいだ〉を構成する。さらに言えば、個人的で多様な経験の〈形〉としての「基本風景」と、集団によって規範化された〈型〉としての「原風景」は、〈形〉から〈型〉が生み出され、〈型〉から〈形〉がもたらされる、といった相互規定的な〈形の論理〉を表している。》(『邂逅の論理』43-44頁)
 ここで、木岡氏が「形の論理」と呼んでいる「型」(作るもの)と「形」(作られるもの)との相互規定的な関係は、西田幾多郎の逆限定の概念に、ひいては、次章で取りあげる中動態の世界に通じています。
 つづけて、残りの二つの相について書かれた文章を引きます。
《ところで風景経験には、以上の二種に加えて、それらを統合する水準に位置する「表現的風景」が考えられる。前言語的な身体的実践による〈形〉としての「基本風景」と、言語行為による集団的な〈型〉を表す「原風景」。この二つの水準は、それぞれ〈沈黙〉と〈語り〉の次元を代表する。両次元の相互媒介から生まれてくるのは、〈型〉を介することによって産出される創造的な〈形〉、〈形〉と〈型〉の再統一、とも称すべき「表現的風景」である。
 ……〈型〉をつうじて生まれる〈形〉が「表現的」であるという理由は、それが〈沈黙〉から〈語り〉へと移行した「原風景」を母胎とする経験であるということにある。すなわちそれは、単なる言語でも非言語でもなく、そのいずれにも先立つような生の深層(「原型(X)」)にもとづく経験である…。著者の理解する大乗仏教的な「即非の論理」に依拠して言えば、生の深層と考えられる「原型(X)」は、それ自体が〈沈黙〉と〈語り〉のいずれでもない、という絶対否定性(「空」)によって、〈沈黙〉(無言語ないし超言語)と〈語り〉(言語行為)に先行し、それらがともにそこから成立する「非」の地平である。
 風景経験の根源は、図[省略]の基底部に置かれた「原型(X)」にある。そこから、個におけるさまざまな〈形〉(基本風景)および集団全体における一定の〈型〉(原風景)が生み出される。そうして、この二種の経験を統合する次元に、高次の〈形〉(表現的風景)が成立する。四層からなるピラミッド型の図式は、これらの要素の〈構造連関〉を最大限に簡略化したものにほかならない。》(『邂逅の論理』44-45頁)
 夢のパースペクティヴの四次元と風景経験の四層とは、厳密に重なるわけではありません(特に「P1/P3」と「原風景/基本関係」の対応)が、それでもたとえば、「生の深層」であり「「非」の地平」である「原型(X)」から、すなわち言語(A)でも非言語(¬A)でもない「原型(X)」から、言語(語り)と非言語(沈黙)を統合し、型と形を再統一する高次の「表現的風景」(A∧¬A)がもたらされる、無からの創造に匹敵する表現の可能性が示唆されるなど、木岡氏の風景論には、夢のパースペクティヴ論の精緻化のための多くのヒントが潜んでいます。[*]
 
[*]いま少し『邂逅の論理』から例を引く。
 風景とは「場所に固有な世界の眺め」であり、「一つの場所が他から区別されるのは、そこに成立する「世界の見方」(a way of seeing the world)が唯一独自であって、他に同じものはない」からであり、風景論は、哲学的知覚論が対象の同一性がいかに成立するかに焦点を合わせるのに対して、「場所ごとに世界がいかに異なって現れるか」を追究する。「場所性と空間性の統一である風土」において、「人々の風景経験がいかに成立し変化するか」を風景の論理は問題とする(39頁)。
《地理的特殊性を顧慮することのない一般性に定位する「知覚」に対し、ベルクの簡明な定義を借りるなら、「風土における感覚知覚の形式および内容」[オギュスタン・ベルク『風土としての地球』58頁──原著註]が「風景」である。言い換えれば、風景とは地理的特殊性によって限定された知覚である。それゆえ、風土によって知覚の型が異なるという想定のもとに、風土Aと風土B(「風土」を、多様な地理的空間ないし地域、という意味に、当面理解しておく)における知覚の異なりを論じることのできる理論枠組が、風景論だと考えられる。知覚論の立場では、本来同一であるべき知覚が、AとBとでは異なる場合、Aにおける「正しい」認識が、Bでは何らかの事情によって成立しない、といった仕方で、いわば〈正常〉と〈異常〉を振り分ける説明方式をとらざるをえない。》(『邂逅の論理』42頁)
 
(53章に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」38号(2019.08.15)
<哥とクオリア>第52章 夢/パースペクティヴ/時間(その3)(中原紀生)
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