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図書新聞1997/03/22
歯痛と歴史——諦めと悲しみと一抹のおかしさ(ジョルジョ・プレスブルゲル『歯とスパイ』)

今回紹介するのは、中央ヨーロッパの旧共産国のスパイの物語であり、女性遍歴を振り返った老人の回想録でもある。けれども、そこには派手な銃撃戦も華やかな社交界も登場しない。第二次世界大戦以降の世界各地での内乱と政変を背景にした主人公の過去は、三十二本の「歯」のエピソードによって物語られる。

乳歯が永久歯へと生え変わり、親知らずが顔をのぞかせ、最後に一本一本と抜かれて入れ歯に替わるまで、それぞれの歯にまつわる痛みと治療の体験が物語られていく各章をそのままの順に読むだけでなく、冒頭に置かれた歯の図に付けられた符号を利用して、種類別や並んでいる順に読む可能性すら読者には示唆されている。こんな奇抜さもあって、自分の口のなかの歯を舌で触りながら読んだり、読後、歯ブラシを持つ手に力が入ってしまったりする。

歯は主人公にとって単なる記憶の運び手である以上に、自分の肉体に侵入した異質さであり、他者への攻撃性の象徴でもある。ひとりの大統領が命を落とすたびになぜか痛みを引き起こした「大統領の歯」(右上の第一臼歯)、スパイ活動の上司である指揮者Gに殴られて失われた右上の中切歯、若い時の失恋体験に絡んだ左上の親知らず、若い女性との不倫の最中にますます黒ずんでいった左下の中切歯、とひとつひとつ語られていくエピソード、それらは世界や歴史という大きな物語と個人の痛みや感情という小さな物語をつなぎとめる役目をしている。主人公の前に現われては消えていった数々の女性たち、そしてその女性たちの倍以上の人数登場する世界各都市の歯医者たち(ざっと数えてみても二十人を軽く超える)と共に主人公が交した会話が、諦めと悲しみ、それに一抹のおかしさをこめて再現される。

この不思議な小説の名は『歯とスパイ』(1994)、作家はGiorgio Pressburger(ジョルジョ・プレスブルゲルとでも読むのだろうか)。1937年ブダペスト生まれで、イタリア移住後に双子のニコラと共同執筆を始めたという変わった経歴を持つ。


Giorgio Pressburger, Denti e spie, Rizzoli, 1994.
ジョルジョ・プレスブルゲル『歯とスパイ』鈴木昭裕訳、河出書房新社、1997年

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