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図書新聞1997/02/01
評論は小説のように——カルロ・エミリオ・ガッダ『ミラノ瞑想録』

朝晩ボールを蹴っていたサッカー少年だったころ、「練習は試合のように、試合は練習のように」と教えられた。練習は試合だと思って真剣に、試合は練習だと思って緊張せずにやれ、という意味合いだったと思う。それを「小説は評論のように、評論は小説のように」ともじってみれば、小説には論文のような用意周到さが要求され、論文には小説のような大胆な飛躍と話術の妙が欠かせない、くらいの意味になるのだろうが、そもそも練習と試合、小説と評論にそれほど違いがあるのだろうかとも考えてしまう。

哲学論文よりは小説に先に手が伸びる性格だが、稀に刺激的な論考にぶつかるとにぶつかると自分がまるで小説のように読んでいることに気がつく。たとえばカルロ・エミリオ・ガッダの『ミラノ瞑想録』がそれだ。今世紀の小説家として一、ニを争う巨匠であり、60年代の新前衛派運動によってイタリアにおける数少ない手本とみなされたガッダの主な小説は幸運にも日本語で読めるとはいえ、難解だの晦渋だのという形容がついてまわる独特の「バロック的リアリズム」の理解は容易ではない。しかし三十五歳のガッダが文学へと向かう展開点となった哲学ノートである『ミラノ瞑想録』は、システム論、認識論、科学論をめぐって今読んでも興味深いものであると同時に、かれのリアリズムの土台を明らかにしてくれる荒削りだが魅力を備えた論文だと言える。

かれによれば、現実は複雑に折り重なった無数のシステムが常に変動し、高次のシステムへと志向する場である。すべての物事は封をされ孤立した「郵便小包」のように閉ざされた不変の物体としてではなく、無数の関係性で結びついた「ニョッキ」のようだとかれは言う。ニョッキとは茹でてつぶしたジャガイモに小麦粉を加えて団子状にした料理で、ソースとチーズでたがいにベタベタとくっついている。このメタファーの微笑ましい意外さは紫郎と哲学者としてのガッダの魅力のひとつであり、執拗な描写にこだわるその後の小説家ガッダの粘着気質を連想させなくもない。


Carlo Emilio Gadda, Meditazione milanese, Einaudi, 1974.

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