「存在しない本」にもいろいろある。ボルヘスやレムの書評は有名だが、古くはラブレー『パンタグリュエル第二部』の「サン・ヴィクトール図書目録」からスターン、スウィフト、ポーを通って、二十世紀のクノー、ペレックらウリポ一派にいきつく。小説の登場人物に作家がいればその作品は当然「架空の書物」に分類される(たとえばナボコフの小説)わけだが、そんな文学遊戯的仕掛けがなくても「存在しない本」は成立する。珍本・稀覯本を求める愛書家をからかうために作られた「偽古書目録」や歴史上の有名人の偽書簡のような大量の偽書も「目の前にあるけれど存在するはずのない」本であるし、ラブクラフトの小説から生まれた『ネクロノミコン』は「存在しないのにあるとみなされている」本のひとつで、いつしか大学図書館の蔵書カードにまで記載されてしまった。
一方、作家が執筆を企図しながら事情により実現しなかった「まぼろし」の作品も「存在しない本」の一分野である。脚本家ザヴァッティーニは三十分で物語をひとつひねり出したといわれるストーリーテラーだが、じつに百本以上の「実現しなかった脚本」を残している。急逝したカルヴィーノの計画には、厳密に時間を逆転させてシェークスピアの物語を語った『回文ハムレット』と、旅行できないユリシーズを主人公に設定して書き直した『オデュッセウス』が含まれていた。作家の意図を判断にするのに困るケースとしては、20世紀初頭の作家エルネスト・ラガッツォーニは、「透明の紙に透明のペンで書いた」作品、「見えない著作」を書いたと主張している。これは「見えないけれど存在する本」に分類すべきなのだろうか。19世紀末のスカピリアトゥーラ派のひとりカルロ・ドッシの『青いメモ』に記された多数の書名は執筆予定のリストなのか、単に執筆を「夢想」しただけなのか。
ザニケッリ出版社の『ミラビブリア』(2003)に収められたこれら「存在しない本」の記述を読んでいくと、「本が存在するにはその本が可能であれば充分なのだ」というボルヘスの言葉を思い出すと同時に、書物が存在するかどうかの境界線がどんどん怪しくなってくる。まるで今ある本の存在そのものが潜在的書物によって侵食され、脅かされるかのように。
Paolo Albani e Paolo della Bella, MIRABIBLIA: Catalogo ragionato di libri introvabili, Zanichelli, 2003.