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図書新聞2005/04/30
山の学校を作った神父——『ミラーニ書簡集』

カロル・ヴォイティワが47歳で枢機卿となった1967年、フィレンツェで44歳の司祭ロレンツォ・ミラーニが白血病のためこの世を去った。その後ヴォイティワは「空飛ぶ教皇」ヨハネパウロ2世となって諸国を歴訪し全世界の若者と対話をすることになるが、ミラーニ神父は僻地の民衆教育に生涯を捧げ、自分は限られた人数の貧しい子供しか愛せないと冗談めいた告白をしている。

1920年裕福な学者一家に生まれたミラーニは、戦中に聖職者を志し、大戦後の経済復興期のイタリアで、教区司祭として労働者の過酷な状況と社会的不公平に直面する。電気も水道もない山村で小学校卒業後の子供を受け入れる「バルビアーナ」民間学校を設立し、イタリア語と外国語の言語教育を重視した。休日やレクリエーションの時間がなく、上級生が下級生に教えるなど、その独特の教育論は現在でも注目されている。

死後に出版された『女性教師への手紙』は生徒たちと共同で執筆したもので、ブルジョワ階級を優遇する試験制度に反対し、学校改革を要求する68年の学生運動に影響を与えた。カトリック教義を厳格に守りながらつねに社会的弱者の立場に立つ彼は、ブルジョワ消費社会の堕落を攻撃し、与党キリスト教民主党の政策を批判した。そのため教会からは「親共産主義」のレッテルを貼られて冷遇され、むしろ社会・共産主義者、組合員から支持された。

彼の名は「兵役忌避」裁判でも有名である。65年、兵役忌避は卑劣であると主張した元従軍司祭グループの声明に反対する公開書簡を発表したために、掲載した共産党の雑誌『リナッシタ』と共にミラーニは犯罪弁護罪で告訴されたが、この時も教会は彼を助けようとしなかった。一度は無罪とされるが、死後一年以上過ぎた68年に高等裁判所は有罪を宣告する。兵役忌避が権利として法律で認められるのはそれから30年後の98年のことだ。

教え子が編纂した『ミラーニ書簡集』(1970)からは、カトリック信者よりも非信者から理解された神父、言語教育を通じて山村の子供に自信を持たせようとした教育者として、60年代の社会変動を体現するミラーニ像が伝わってくる。


Lorenzo Milani, Lettere di don Lorenzo Milani, Mondadori, 1970
79年に『女性教師への手紙』が邦訳されている。「シリーズ・世界の教育改革8」;バルビアナ学校著『イタリアの学校変革論』田辺敬子訳、1979年、明治図書

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