テレビをつければ毎日どこかでだれかが殺され、新聞を開けば暴行・誘拐の記事が目にはいるのがそれほど珍しくもない時代にあって、なにを好んでわざわざ連続殺人鬼や暴行魔の物語を読もうとするのか不思議に思うこともある。しかし、暴力や性的倒錯という刺激への欲求は衰えるどころか強くなる一方だ。そんな一連の暴力小説が、おそらくタランティーノの映画『パルプ・フィクション』にちなんだのか、「パルプ」小説とよばれてこのごろ注目されている。
昨年エイナウディ社から出版された『残虐な若者たち』(Gioventù cannibale)は「イタリア初の超ホラー小説集」という副題をもち、このジャンルの代表的なアンソロジーといえるだろう。
二十代から三十代の若い世代の作家たちによる十の短編小説を選んだ編者ダニエーレ・ブロッリは序文のなかで、悪に思想的解説をほどこすことで検閲してきた伝統的な文学(そしてそれを補完する推理小説)の「道徳主義」に対置して、われわれの日常をとりまいている衝動的で動機のない悪を語る新しい文学言語の「残虐ぶり」を指摘しているのだが、収められた作品を読むかぎりでは、むしろそんな文学的図式をべつにして個々の作品を楽しんでしまったほうがいいのではないかと思えてくる。「日常の凶悪犯罪」、「残忍な思春期」、「血の憂愁」と題された三部構成で、赤ずきんの物語の現代スプラッター版があり、終末思想の宗教マニアの子供が殺人犯にあてた手紙があり、子供のころのいじめの記憶の回想がありとさまざまだ。登場するのは、麻薬・暴行・性的倒錯・連続あるいは猟奇殺人などなど。
大半の作品では、内容のもつ残虐さと、描写する言葉の軽さ・大雑把さが対照的で、アイロニーやパロディの効果がうまれている。パルプというからにはやはり意識的な安っぽさが感じられるのだが、おぞましい行為を扱うぞんさいで薄っぺらい手つきは、現代の無意味な暴力の氾濫に対する距離の置きかた、対処法のひとつと考えてもいいのかもしれない。
AA.VV., Gioventù cannibale, Einaudi, 1996.