コミックとSF映画からの引用に溢れた「宇宙活劇」『地球だ!』(1983)による小説デビューに続いたステーファノ・ベンニの二作目の小説『おもしろびっくりゲリラ』(1986)は、ベンニらしさが充分に発揮された作品だと言える。これ以降の短編・長編小説に共通したユーモアと社会批判、グロテスクさと純情さが揃っているからだ。
物語は、高級マンションの敷地内で起きた殺人事件の犯人探しを軸として展開する。殺されたのは、サッカー選手として将来を有望視されていた「陽気な」青年レオーネ。かれが試合に欠場してそんな場所へ入り込んだのはなぜか、マンションのバルコニーからかれの頭を撃ち抜いたのはだれか。クロスワードマニアのポルツィオ警部率いる当局の無気力な捜査と新聞「デモクラツィア紙」の記者カルロ・カメレオンテのマスコミの騒ぎをよそに、レオーネの恋人ルチーア、親友だったリー、ファンのルペット少年、そして七十歳の誕生日を迎えたレオーネの恩師ルーチョの四人が、真相解明に乗り出す。
前半は、ルペットとルーチョ、ルチーアとリーの二組による捜査の過程が描かれる。ルペットは新聞社のカルロのところで、住人の一人「ランボー」サンドリが十年前に武器の売買で捜査の対象となったことを聞きつけ、アイスクリーム屋で知り合ったルーチョに打ち明ける。夜の世界の女支配人ブルーナに会った二人は、普段は平凡な市民を装っている人々の裏側を聞く。一方、リーはかつて極左組織の一員で今は精神病院に入っていたが、レオーネの死を感知して脱走する。麻薬の売人を脅してマンションで取り引きが行われていることを聞きだし、深夜その一室に侵入して麻薬を発見するが、駆けつけた警官に逮捕され元の病院へと連行されてしまう。駆けつけたルーチョも心臓を患って病院へ運ばれる。
ドン・キホーテとサンチョパンサを連想させる老人と少年の不思議な二人組が街を歩き回り、リーのカンフーアクションが炸裂する前半が派手な展開をみせるのに比べると、病室でルーチョが看護婦やルチーアと交す会話や、かれが見る空想と夢が中心となる後半は静かだが、人々の偽善が政治と深く絡んでいることが浮かび上がってくる。悪徳政治家コルナッキァは市長選挙に当選し、窃盗の疑いがかけられたレオーネの殺人事件はうやむやに片付けられてしまう。
この小説が犯人探しの形式を借りたいわゆるアンチ・ミステリーであることは、ステーファノ・ターニも指摘している。
「最近の小説においては珍しくないテクニックとして、謎(若いサッカー選手の殺害)の導入が発見(警察による不適切な公式のものと、レオーネの友人による綿密な個人的なもの)を中心に行動を集中させ、筋書きに構造とリズムを与え、関心をひきつける。しかしこの小説の場合、基本的にパロディかつ脱中心的なポストモダンの優れた小説に典型的なように、推理小説的要素は読者の予測を裏切って、つまり解決も処罰も与えない。いかにも怪しいサンドリ氏の罪の可能性は、ベッシコ通りのマンション全体へと増大し、拡大して、腐敗した都市(鈍感で気のまわらないクロスワード好きの警部ポルツィオから、医師グーフォ、市長コルナッキァを含めた)全体への告発となる」(註1)。イタリアのこうしたアンチ・ミステリーの系譜は、シャーシャ、『薔薇の名前』のエーコから、ガッダの『メルラーナ街の恐るべき混乱』にまで行き着くとターニは言う。
テロリズムと弾圧の「鉛の時代」を過ぎ、「沈静化」と「正常化」へ向かった八十年代のイタリアはまた、政治問題が意識の水面下へ押しやられ、他者への社会的な無関心が広まった時代でもあった。大衆エゴイズムへの批判と連帯の呼びかけはこの小説の底辺にはっきりと流れている。
しかしそのメッセージ性は決して小説を「重たく」することはない。その理由のひとつは、登場人物のそれぞれが動物に由来する名前と性格をもたせるという逆擬人法が用いられたこの世界が基本的に持っている寓話性にある。たとえば、主人公ルーチョ・ルチェルトラ(トカゲ)、ルペット(子狼)、ルチーア・リベッルラ(トンボ)、グーフォ(フクロウ)、コルナッキァ(カラス)といったように。逆にルーチョが飼っているカナリアのカルーソー、その愛用の自転車ビーチェのように人間の言葉を喋ることができる存在すら登場する。バクテリアから宇宙人まで全生物が奇妙な繋がりを持っているこの世界では、一番非人間的なのはエゴイズムに凝り固まった「大人」たちであり、老人と子供は友達となる。
古典の知識を背景にしたルーチョの元教師らしい口調とルペットやルチーアの使う若者言葉の対比をはじめとした、あちこちに仕掛けられた奇抜なメタファーや言葉遊び、そして短い章を積み重ねながら読者を物語にひきこんでいく手法は、ベンニの作品に共通するものだと言えるだろう。
しかし『おもしろびっくりゲリラ』は決して「陽気」な小説ではない。パロディとギャグの可笑しさにしばしば微笑みを誘われるとしても、完全な解放感を与えてくれるような心底からの笑いではない。レオーネの死で始まった物語は、ルーチョが病室で夢を見ながら静かに息を引き取ることでしめくくられるし、サッカーボールを抱えた少年ルペットが、路上で轢かれて「カツレツ」のようにぺしゃんこになった猫の死体を目の前にして感じた不安、「ちょうど、ふと顔を上げてみたら自分が一人でいることに突然気がついた時のような」動揺が小説全体に漂っている。冒頭に掲げられた登場人物リストにも名前がなく、死体としてだけ登場するレオーネの不在は、かれの「神秘的な陽気さ」の決定的な喪失を意味する。ルペットにとってと同様、ルーチョにとってレオーネは失われた青春のヒーローであり、「ルーチョレオーネ」と題された第三章で、自分がレオーネとなった夢を見ることからもわかるように、レオーネの殺人犯を突き止めることは自分の過ぎ去った過去を追体験することでもある。
殺人犯は逮捕されないままだとすれば、あきらめて現実を容認しなければならないのだろうか? こうした「ポストモダン的」悲観主義やシニズムほど、この小説と無縁なものはない。リーがルチーアに向かって、犯人探しへの自分の激情を二頁以上にわたってとぎれることなく一気に喋るくだりや、あるいはルーチョが最後にうわごとを口走る場面での、そうした感情の発露は風刺を離れてほとんどストレートな叙情性を感じさせる。ベンニは、登場人物の口を通じて、マスメディアと権力の暴力、エゴイズムへの反抗を訴えている。「ルチーア、わたしたちの使命は、やつらがわたしたちの言葉を盗もうとするのを防ぐこと、そして新しい言葉を育むことなんだ」と。
註(1) Stefano Tani: Il romanzo di ritorno, Milano, Mursia, 1990, pp. 217-8. ベンニは扱われてはいないが、ターニのアンチミステリー論は、『やぶれさる探偵−推理小説のポストモダン』(高山宏訳、東京図書)で知ることが出来る。
Stefano Benni, Comici spaventati guerrieri, Feltrinelli, 1993.