カルロ・ギンズブルグの評論集『木切れの目玉』がこの一月に出版された。ジェッペットじいさんがピノッキオをこしらえたときの言葉「木切れの目玉、どうしてわたしを見つめるんだ?」に由来する表題には、「距離についての九つの省察」という副題が添えられ、ギリシャ時代から現代までの幅広い西洋史を舞台とした、複数の文化の錯綜、対立について考察されている。
冒頭の「異化効果」論では、シクロフスキーから出発してマルクス・アウレーリウス、トルストイ、そしてプルーストへと縦横に引用を駆使して、先入観を離れて「初めて」接するかのような「距離を置いた」物の見方が持ちうる現実批判の役割を強調しながらも、歴史と虚構を同一視化する傾向にきっぱりと反対するあたり、歴史学者らしいこだわりが見られる。そのことは、神話概念をめぐる評論で、虚構のグロテスクな現実化を指摘する際にも感じられるのだが、例として出された『シオンの議定書』の事件が、ウンベルト・エーコが『文学講義』で言及しているものと完全に重なるという事実は、史実と虚構の境を薄めてしまおうという相対主義が二人に共通した論敵であることを示している。
距離を置いた視線とならんで、この本のテーマになっているのは表象である。キリスト教になぜたくさんの絵画と彫刻があるのか。キリスト教が、どのようにして図像(イメージ)の概念を表象概念に結び付けたまま「偶像」と区別することができるようになったのかを、中世の王侯の遺体の代りに棺台に乗せる鑞人形の研究をもとにギンズブルグは説明してみせる。そうした説明は、巧妙に組み立てられたミステリーのように魅力的だ。
1607年のヴェネツィアにおける一修道士襲撃事件から始まる、スタイルについての評論を締めくくるにあたって、芸術作品を孤立した絶対的なものとする見方(ヴェイユ、アドルノ)と、作品は歴史的視点、関連性をつねに必要とするという見方(ロンギ、ヴァザーリ)の対立についてギンズブルグはこう結論づける。両者とも必要不可欠だが両立しないものであり、後者の視点すなわち歴史の言葉によって前者の絶対的な視点を表現することは可能だがその逆は成立しないという非対称の関係にあると。ギンズブルグの「物語」の面白さを支えている説得力は、歴史学者としてのこの信念から生まれているように思える。
Carlo Ginzburg, Occhiacci di legno, Feltrinelli, 1998.
カルロ・ギンズブルグ『ピノッキオの目玉』せりか書房、竹山博英訳、2001