あいさつや罵倒などのしぐさに限らず、イタリア人の手は実によく動く。しゃべっている間動き続ける両手は、目に見えないなにかを空中でこね回しながら、言葉で伝えられない話し手の感情の抑揚を伝えているようで、言語化されないその「なにか」を共有できない聞き手としてはとてももどかしい思いがする。
パオロ・ファッブリPaolo Fabbriの『記号論の転換』(La svolta semiotica, 1998, Laterza社)を読みながら思い浮かべたのは、そんな体験だった。シグマ=タウ財団による企画「イタリア講義」のひとつとしてパレルモ大学で行われた講義を活字にしたこの小冊子のなかで、かれは記号論が個々の専門領域へ細分化する危険を指摘し、「堅固な断片性」に逆らって「脆弱な一般性」を唱えながら、言語・記号研究における最近の「転換」について論じている。
まずロラン・バルトとウンベルト・エーコの名前を使って、ふたつの記号論のカリカチュアが描かれる。隠されたイデオロギーを明るみに出すクリティックとしてバルトの「セミオロジー」は、言語を他の記号体系を翻訳できる唯一のシステムとみなしていた。パースを受け継いだエーコによる記号学は、記号の分類、論理・推論による記号間の参照作用、そして記号の哲学的起源についての研究である。前者が土台としていた言語中心主義に対して絵画や身振りなどの非言語的記号システムの独自性が指摘され、認識論的な観点を優先する後者にむかっては、意味作用の感情的、行為的側面が強調される。ファッブリにとって言語は表象や認識というより行為と情念に他ならず、発話行為自体、発声器官だけではなく表情や身振りを含めた身体運動全体として捉え直されることになる。
バルトやグレマスのもとパリで記号論を研究したのち、九十年代にはパリのイタリア文化会館館長を務め、現在ボローニャ大学で芸術記号学を教えるという経歴ながら、著作のほとんどが研究誌への論文であるためか、同僚のエーコに比べ日本での知名度が低いファッブリだが、これを機会に紹介が進むことを期待したい。
Paolo Fabbri, La svolta semiotica, Laterza, 1998.