主人公を自分自身のように感じるのは、小説や映画を楽しむためのある程度の条件だけれど、逆に、現実の自分を主人公のようにみなすとどうなるだろうか。自分を「外から見る」こと、つまり視点の外在化は、一見健全な客観のようだが、そのまったくの正反対である自己陶酔とあんがい隣り合わせなのかもしれない。
そんなことを考えたのは、アンドレーア・デ・カルロが昨年出版した小説『ウート』(原題Uto)の主人公ウートが、冷笑的で現代風の無関心さを備えた若者から、アメリカの東洋系宗教グループの二代目の導師へと変貌していく様子を読みながらだった。
義父の自殺によって受けたショックを癒すためウートはミラノから母親の友人マリアンヌが家族と住むコネチカット州へ赴くが、その家族はスワミという名のグル(導師)のもとに他の家族と村をつくっている。天才的なピアノの才能を持ちながら何事につけて無気力で無感動を装う彼は、頭のなかではいつも自分の姿を「外からながめては」まるで映画スターのようにバランスのとれた仕草に気を配り、口にする台詞を用意する。そういえば、デ・カルロのデビュー作『夢の終着駅』の主人公もアメリカにやって来たイタリア人青年だったが、そこでロサンジェルスの人々を冷ややかに描写していた視線は、ここでは自分に向けられ、皮肉さはナルシスト的幸福感に満ちた妄想に変わっている。最初、善意あふれた信者たちに違和感と反発を感じる彼だが、老導師のカリスマ性を見ると、自分も同じように他人の注目を集めて影響を与える力を持ちたいと願う。事故で負った腕の怪我が奇跡的に治ったことをきっかけにして、彼はスワミの死後次のグルとなる。
こうしてウートは自分が主人公である物語を共有する集団を見つけたが、それは、自分では変更することも逃れることもできない牢獄に安住することを意味する。それを滑稽とみるか、感動的とみるかは、読者しだいだ。
Andrea De Carlo, Uto, Bompiani, 1987.