五月の総選挙に右派連合「自由の家」が勝利し、第二次ベルルスコーニ内閣が誕生した。メディア王ベルルスコーニの「フォルツァ・イタリア」党が北部連合と国民同盟との連立によって中道右派政権を形成した構図は、九四年の再現にも映る。当時はすぐに贈賄疑惑がもちあがり、北部連合と国民同盟の対立から八ヶ月間で崩壊した。その後中道左派政府の努力でEU加盟を果たすなど状況が変化したが、今回はどうなるのだろうか。七年前は、政治の変動を反映して政治学者ノルベルト・ボッビオの評論『右派と左派』が売れ、エーコ『前日島』、タブッキ『供述によるとペレイラは』、タマーロ『心のおもむくままに』といったベストセラーが生まれている。二〇〇一年も政治・選挙関連書が目立ったほか、たまたまこの三人の新作が書店に並んだ。
ウンベルト・エーコの『バウドリーノ』(出版は前年末)は、『前日島』の十七世紀バロックから『薔薇の名前』の中世へ立ち戻り、聖杯グラールとジョン王伝説をめぐる歴史伝奇物だ。史実と空想の混交、パスティーシュを交えて壮大な物語を構築している。「ほら吹き」バウドリーノに物語が集中するあまり、『薔薇の名前』の対話性と奥行きが薄れがちとはいえ、主人公に「物語の力」を信じるエーコ自身の姿が重なって見える。スザンナ・タマーロの最新作『愛って、なに?』は、女性への暴力や家族の崩壊の暗闇を平明な文章で描き出す中編三作からなる。危機的体験から絶望、そして個人的な宗教観の発見を通して内面の平穏へ至る道のりは、道徳主義として批判されることもあるが、癒しのカタルシス効果をあげている。ファンの期待に応えた両者に比べると、アントニオ・タブッキの異色の書簡体小説『ますます遅くなる』の難解さにとまどった読者は少なくなかったかもしれない。別々の男たちが世界各地から女性に書き送った十七通の手紙が展開する独立した小世界は、練り上げられた文体と豊富な文学的引用を味わう能力を読者に要求する。
七六歳のミステリ作家アンドレア・カミッレーリにも固定ファンは多い。「モンタルバーノ警部」シリーズの『夜の匂い』のほか、秋には長編歴史小説『ジルジェンティの王』を発表した。一七一八年シチリアのジルジェント(現在のアグリジェント)で民衆蜂起を扇動して王位を宣言した農民を主人公に、作家独特のシチリア方言を駆使して、ユニークな空想歴史物語を生みだした。マンゾーニの『いいなづけ』との比較が指摘されたが、スペイン王制とカトリック教会の二大権力に挟まれて苦しむ庶民を救うトリック・スターの姿は、絞首台から凧につかまって飛び去る幻視的なラストシーンなど、時代も身分も異なるがカルヴィーノの『木登り男爵』も連想させる。痛烈な諷刺と言葉遊びで若者に人気のステーファノ・ベンニが発表した長編『サルタテンポ』は、これまでのようなSF的近未来ではなく、近代化が押し寄せる五十年代の山村を舞台に主人公の少年の思春期を描いている。時間のなかを跳躍できる主人公サルタテンポの超能力や森の妖精といったベンニらしい小道具はあいかわらずだが、直接的な政治風刺と毒舌よりも、社会の悪徳と対決する姿勢、喪われていく自然へのほろ苦い視線が中心に置かれている。
短編集としては、ジャンニ・チェラーティ『自然の映画』がキアーラ賞など複数の文学賞を受賞した。八五年の『平原の語り手』以来、日常の物語に関心を寄せてきた作者が二〇年間にわたって温めてきた九つの作品で、日常生活から幻想的な異世界へ足を踏み入れていく過程がうわさ話のように語られる。二〇世紀が幕を閉じたことで、モンダドーリ社のメリディアーニ叢書から出されているエンツォ・シチリアーノ編『二〇世紀イタリア短篇集』が改訂された。一九〇〇年と二〇〇〇年にそれぞれ四十歳という基準にしたがい、七一名を収録した八三年の一巻構成から、三〇八名の作家を網羅した三巻へと拡大された。イタリア文学の一世紀がそのまま詰め込まれている他に類を見ないアンソロジーとしてその量に圧倒されると同時に、イタリアには小説家が存在せず、短編作家ばかりだというモラヴィアの主張が思い出される。
三六歳の若さで急逝したピエール・ヴィットリオ・トンデッリの没後十周年にあたり、二巻本の作品全集が完結した。八〇年代以降の小説におけるその重要性とタレントスカウトとしての活動への評価は高くなるばかりだ。かれがデビューに関わった作家は、シルヴィア・バッレストラの『ニーナ』、ガブリエーレ・ロマニョーリの『ルイジアナ・ブルース』、ジュゼッペ・クリッキアの『アンセルミと散歩』など、本年も個性的な作品を発表している。
九〇年代のスプラッターブームのなかでデビューした若手のニコロ・アンマニーティが『恐くなんかない』でヴィアレッジョ賞を受賞した。誘拐犯に監禁された少年を助け出そうとする九歳の男の子の物語で、親の命令と友情との間で揺れる倫理的葛藤の混じったサスペンスと、「スタンド・バイ・ミー」の映像を思わせる文章がヴィジュアル世代に人気がある。トンデッリから影響を受けてパドヴァで創作講座を開いているジュリオ・モッツィの『フィクション』は、手紙や新聞記事などのコラージュと注釈を組み合わせて現代社会の狂気を照らしだす。創作指南書『創作レシピ集』を共著で発表しているモッツィは、方法論に対しとくに意識的な作家のひとりだ。家庭や職場などさまざまな場での暴力はいまやどの作家に登場するが、なかでもアンドレア・カッラーロ『トカゲ』に収録された四作の短編は、日常生活に出現する暴力を冷徹な視線で捉えている。かれが描く登場人物の弱さや気まぐれから生まれる暴力は、タマーロのように宗教的救いを導く契機として作用することはない。
映画やアニメの真似ではなく、言語による生々しい暴力と性的幻想を追求したのが、アントニオ・モレスコ『カオスの詩』だ。作家と編集者のやりとりから始まり、作家が「ミューズ」という名の娼婦のところへ連れて行かれるあいだに、編集社の女性が失踪してその捜索が始まる。作家と編集者のレベル、作家が編集者に読んで聞かせる原稿のレベル、さらにそのなかの登場人物の語りのレベルがそれぞれ交錯するメタフィクション的展開のなかで、猟奇的なハードコアポルノの世界が浮上する。残虐な暴力行為の残虐が現実感を失うほど誇張されている。知的技巧ではなく、偏執狂的な妄想を積み上げて長大な物語を作り上げるというイタリアでは珍しいタイプの作家として注目される。
現代文学評論に関しては、マルコ・ベルポリーティ『七〇年代』、ヴァルテル・ペデュッラ『笑いの武器』のほか、ジュリオ・エイナウディ『いつもの水曜日』、ジュリオ・ボッラーティ『最小限の記憶』、ジャン・カルロ・フェレッティ『使い果たされた人生』といった出版者や評論家の回想が目についた。
物故者には、『私たちが交わす軽やかな言葉』のラッラ・ロマーノ、『逸脱』のルーチェ・デーラモ、文芸評論家ジェーノ・パンパローニ、仏文学者カルロ・ボー、『ローマの歴史』のジャーナリストインドロ・モンタネッリなどがあげられる。
本年は日本におけるイタリア年であり多数の関連行事が行われた。アルフレード・ジュリアーニ、ナンニ・バレストリーニ、エドアルド・サングイネーティらグループ六三のメンバーから若手まで、詩人・作家が来日した。雑誌では『すばる』(七月号)がサングイネーティのインタビューを掲載し、『ユリイカ』(七月号)がイタリア特集を組んだ。ひとりの芸術家に複数のアプローチをおこなった研究書として『カラヴァッジョ鑑』(岡田温司編、人文書院)と『パゾリーニ・ルネサンス』(大野裕之編、とっても便利出版部)がある。
翻訳に移ろう。ルドヴィコ・アリオストの『狂えるオルランド』(脇功訳、名古屋大学出版会)は、邦訳が長く待たれていたルネサンス文学の傑作だ。イスラム軍とキリスト教軍のパリ攻防戦を背景に、英雄オルランドとアンジェリカ姫、女騎士ブラダマンテと騎士ルッジェーロの恋愛が中心となる。ヨーロッパからアフリカ、アジアさらには月にまで舞台は拡がり、魔法や怪物も入り乱れてつぎつぎに場面転換する騎士物語の面白さを満喫できる。
現代小説では、シモーナ・ヴィンチ『おとなは知らない』(泉典子訳、早川書房)、アレッサンドロ・ボッファ『おまえはケダモノだ、ヴィスコヴィッツ』(中山悦子訳、河出書房新社)、ダーチャ・マライーニ『思い出はそれだけで愛おしい』(中山悦子訳、中央公論社)がある。前述したスザンナ・タマーロの最新作『愛って、なに?』とそのインタビュー『心のたどる道』(いずれも泉典子訳、草思社)も訳出された。ジュゼッペ・ポンティッジャの『明日、生まれ変わる』(武田秀一訳、KKベストセラーズ)は二〇〇一年度カンピエッロ賞を受賞した。その他、愉快な言葉遊びのファンタジー、ジャンニ・ロダーリ『二度生きたランベルト』(白崎容子訳、平凡社)、第一次世界大戦での悲惨な体験を語ったエミリオ・ルッスの『戦場の一年』(柴野均訳、白水社)、十八世紀劇作家の自伝『アルフィエーリ自伝』(上西明子・大崎さやの訳、人文書院)があった。詩については日伊の対訳アンソロジー『地上の歌声』(アンドレア・ラオス編、岡本太郎訳、思潮社)のほか、ティツィアーノ・ロッシ詩集『通りすぎていく人々』(河野紅訳、花神社)が翻訳された。思想関係では、アントニオ・グラムシ『グラムシ・セレクション』(片桐薫編訳、平凡社ライブラリー)、カルロ・ギンズブルグ『歴史・レトリック・立証』(上村忠男訳、みすず書房)と『ピノッキオの眼−距離についての九つの省察』(竹山博英訳、せりか書房)、ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの−アルシーヴと証人』(上村忠男・廣石正和訳、月曜社)がある。