1995年のクリスマス休暇、海辺の崖のうえの別荘に三組のカップルがやってくる。吹雪に閉じこめられて帰れなくなったかれらは、退屈しのぎに、家中に溢れている本を要約して批評する遊びを始める。こんなデカメロン的な状況設定のなかで、1970年から1995年まで二十六年間のイタリア小説、百五十八作品が物語られる。
『小説の遊戯』(Il gioco del romanzo, 1998, Giunti) というタイトルとこの状況から、メタフィクション的な遊びを期待して読み始めたが、むしろ現代小説のマニュアル、学校の副読本を読んでいる気分になってしまった。小説としてはもう少し「ひねり」があってもよさそうなのに、これでは、小説の体裁をとったまじめな教科書、せいぜい文学史家の皮肉なエッセイといったところ。たしかに、作者のジュゼッペ・ボヌーラ (Giuseppe Bonura) はカルヴィーノ研究者でもあり、本の体裁も教科書風である。
数多くの小説を年代順にすらすらと要約してみせ、厳しく切り捨てる登場人物たちは、ほぼ批評家ボヌーラの代弁者だと考えてよいのだろうが、流暢な長広舌はイタリア流の口頭試問に答える優等生を連想させる。マンゾーニの『婚約者』を要約し意見を述べよ、モラヴィアの『無関心な人々』を要約せよ、というわけだ。これはこれでひとつの才能であり、理解力と文章力の訓練だということはよくわかる。
しかし、どこかひっかかるのはなぜか。よくできた要約とコメントを読むと、「もう分かった」「もう読んだ」気分になってしまうという、いわゆるアンチョコの弊害もあるだろう。かつてカルヴィーノが指摘したように、古典的作品とはそうした「批評的言説の埃」を払いのける力を持っているものであると言ってみても、ここで語られている百五十以上の小説のうち古典となりうるものがどれだけあるだろうか。むしろ小説は使い捨ての消費財、退屈しのぎのおしゃべりの対象となることが当然なのかもしれない。とはいえ、多種多様の映画の予告編ばかりが延々と上映される映画館というのは、一見面白そうだが欲求不満を引き起こすだろう。それに似て、多くが未読の小説の解説が延々続くのは少々つらい。
ただしこれらすべての書物が手元にあったならば、読まなくても安心して解説を読むような気がする。だから問題ははアクセス可能かどうかなのだろう。話し手たちが本を手にとって話をするのをみると、物理的実体としての書物が手元にあるという安心感が護符のように作用している印象がある。架空の作品の書評というボルヘス的な事態が起こることを恐れているかのように。時として予告編が本編よりも面白くなることがあるとすれば、後に本編を観ることが可能であるという保証のおかげなのだ。
Giuseppe Bonura, Il gioco del romanzo, Camunia, 1998.