20世紀が少しずつ遠ざかるにつれ、時代を生きた証人の記憶は歴史へと置き換えられる。歴史からこぼれ落ちる記憶を救い出すかのように、無名の人物を主人公として現代史に取り組んだ小説が印象に残った。
直接体験したことをすっかり忘れて自分の名前さえ覚えていないが、本で読んだり人から聞いたりした客観的知識は残っている。そんな奇妙な記憶喪失になった語り手が、人生を再発見していく物語、それがウンベルト・エーコ『女王ロアーナの不思議な火』である。これまでのエーコの小説には、遠い過去が舞台であってもつねに現代社会の問題が透かし絵のように描きこまれ、作者個人の体験が盛り込まれていたが、今度の主人公は作者と同世代の古書店の店主で、自伝的要素がより強い。「挿絵入り小説」というように、主人公が子供時代に読んだ漫画やイラストが何点も掲載されているのも楽しい仕掛けである。語り手が漫画や冒険小説を読み返すうちに、ファシズム政権下の教育とパルチザン運動参加体験の関連、16歳の初恋の記憶が北部イタリアの霧の中から蘇ってくる。
個人の主観的な記憶と客観的な歴史の関係をめぐる問題は、アントニオ・タブッキ『トリスターノは死ぬ』にも共通する。20世紀最後の八月、抵抗運動の英雄トリスターノは癌に侵されて死を覚悟し、友人の作家をトスカーナの屋敷に呼んで自分の人生を回顧する。息の続く限り語り続けるトリスターノのモノローグを通じて混乱した記憶と人生の矛盾を浮き彫りにする手法はタブッキらしい。整った形式に収まらないとぎれとぎれの「声」に託された記憶から読者は丹念に物語を拾い集めなければならない。
1944年の対ファシズム抵抗運動いわゆるレジスタンスがある世代の記憶を決定した歴史的事件だとすれば、「息子世代」にとってそれに相当する事件は、右と左のテロリズムが激化した1977年かもしれない。60年生まれのガブリエーレ・ロマニョーリの『芸術家』では、語り手とその父親の体験でそのふたつの年が結ばれる。44年、少年だった父親はドイツ軍に銃殺されかけ、息子は77年の政治闘争の騒乱で流れ弾を受けそうになる。三十年の時を隔て、親子二人の命を救ったのは同一人物、読心術や予知能力の持ち主と噂される謎の人物「芸術家」だった。実在した「霊能力者」ロルの逸話や64年のボローニャのセリエA優勝といった史実を交えて、世代のすれ違いと息子の成長物語のテーマを軸にした物語を作り上げている。ロマニョーリと同世代のジュゼッペ・クリッキアの『不思議の国』も77年の一年間を描いた小説で、性格も思想も正反対だが深い友情で結ばれた二人の若者の日常を通じ、反抗と暴力に溢れた当時の熱狂ぶりを伝えている。
すこし時代を遡るが、ウーゴ・リッカレッリの『完全な痛み』は19世紀末から第二次大戦までをたどる長編歴史小説で、ストレーガ賞を受賞した。遠い海辺の村から小学校教師として赴任してきた「先生」と下宿先の若い未亡人、養豚業者ウリッセとローザ夫婦、この二組の家族の運命が絡み合って、トスカーナの小村コッレの歴史的変化を映し出す。登場人物がそれぞれの場面で感じる「完璧な痛み」が、膨大なエピソードを結ぶ役割を果たしている。リアリズムと幻想の混じった童話風の語り口はマルケス『百年の孤独』を思わせるという指摘もあったが、奇想天外さよりも叙情性を強く感じた。シモネッタ・アニェッロ・ホーンビイの『侯爵夫人様』は19世紀後半のシチリア貴族社会の没落を描いている。ヴィスコンティの映画化で有名なランペドゥーサの小説『山猫』とほぼ同時代の話で、裕福な男爵家に生まれた女性コスタンツァの生涯が、年老いたその乳母の回想の形で蘇る。パレルモ出身イギリス在住のホーンビイは昨年のデビュー作『メンヌラーラ』に引き続きこの二作目も人気で注目されている。
20世紀には未解決のまま現在に影を落している事件が数多くあるが、ミステリ作家カルロ・ルカレッリは『新イタリアの謎』で、山賊ジュリアーノ、フィレンツェの怪物、ボローニャ駅爆破などの迷宮入り事件の真相に迫ろうとしている。こうしたミステリ風の現代史探求も、20世紀体験に対する文学的反応のひとつだと言えるだろう。
Umberto Eco, La misteriosa fiamma della regina Loana, Bompiani, 2004; Antonio Tabucchi, Tristano muore, Feltrinelli, 2004; Gabriele Romagnoli, L'artista, Feltrinelli, 2004; Giuseppe Culicchia, Il paese delle meraviglie, Garzanti, 2004; Ugo Riccarelli, Il dolore perfetto, Mondadori, 2004; Simonetta Agnello Hornby, La zia marchesa, Feltrinelli, 2004; Carlo Lucarelli, Nuovi misteri d'Italia, Einaudi, 2004