前置き
黒猫編集長にさんざんご迷惑をかけ、岡田さんに無理やりつきあってもらって、脱線を繰り返しながら続けてきたこの企画だが、『太平記』を一通り読み終わったので、今回で一区切りとしたい。(広坂)
天狗太平記(広坂朋信)
■鎌倉幕府滅亡の予兆
『太平記』にはしばしば天狗が登場する。天狗は、歴史物語としての『太平記』の前近代性を際立たせている特徴の一つだろう。
まず前回取り上げた「相模入道田楽を好む事」(第五巻4)から見ていこう。
田楽に夢中になった北条高時が、ある晩、酔って自ら田楽舞を踊っていると、どこからか十数名の田楽一座の者があらわれて、「天王寺の妖霊星を見ばや」と歌いはやした。高時の屋敷に仕えていた女中が障子の穴からのぞいてみると、踊り手たちは、あるものは口ばしが曲がり、あるものは背に翼をはやした山伏姿、つまり天狗の姿であった。
この場面をどう受けとめるか。高時の舅が駆けつけたときには、怪しいものどもは姿を消していた。畳の上に鳥獣の足跡が残っていたことから、天狗でも集まっていたのだろうということになったが、当事者である高時は酔いつぶれていたので、目撃者は、家政婦は見たよろしく障子の穴からのぞいた女中一人だけである。
女中の証言が体験された事実だとして、それを迷信深い中世人の錯覚であろうと推理するのが近代的な解釈というものである。前近代を否定的媒介とするとは、そのような近代的解釈に安住しないということだ。『太平記』作者がこのエピソードで語っているのは、こうした妖怪変化が噂されたのは鎌倉幕府滅亡の予兆であったということである。さらにいえば、幕府滅亡という大事件の前には予兆があって然るべきだという認識である。
次に天狗が問題になるのは、新田義貞が倒幕の旗を挙げたときである(第十巻3)。わずか百五十騎の手勢を率いて討死覚悟で挙兵した義貞のもとへ、はるばる越後から同族の軍勢が加勢に現れた。思わぬ加勢に喜びながらも「急に決めたので知らせるいとまもなかったのになぜ?」と尋ねた義貞に、越後の衆は「一人の山伏が一日の間に越後の同族の間をふれまわったので駆けつけました」と答えた。岩波文庫版の本文には「天狗」という語はないが、この場面の題名は「天狗越後勢を催す事」となっており、義貞の挙兵を越後地方にふれてまわった山伏が天狗であることを示唆している。
ここで天狗というのは、常人離れしたスピードで山野を駆けた山伏のことを喩えたものだと解釈したら、それも近代的態度ということになる。また、『太平記』の天狗はつねに南朝側に立っているように描かれていることから、網野史学をデフォルメして、後醍醐の側近であった密教僧・文観の率いる宗教者や芸能民が暗躍したのだと考えたくもなるのだが、それこそ近代的(『もののけ姫』的?)解釈の典型である。
■楠正成の怨霊
大森彦七の物語として知られる「正成天狗と為り剣を乞ふ事」(第二十四巻2)は、湊川の合戦で憤死した楠正成の怨霊が、足利方についた大森彦七盛長を悩ます話である。題には「正成天狗と為り」とあるが、ここでの正成の怨霊は現代の私たちがイメージする、あの鼻の高い山伏姿ではなく、鬼女、百鬼夜行、千頭王鬼、大猿、大蜘蛛、大首などと手を変え品を変えて怪異を現わす(おそらくは江戸時代の『稲生物怪録』の怪異の描写にも影響を及ぼしているだろう)。あの手この手の奇策を繰り出して幕府軍を悩ませた楠正成にふさわしいとも言える。
『太平記』作者は、こうした妖怪変化について「この有様はただ盛長が幻にのみ見て、他人の目には見えざりければ」として、盛長だけが見ていることをことわっている。以後、盛長は山を走り、水に潜り、太刀を抜き、矢を放つようになった。盛長としては次々に襲いかかる妖怪どもと戦っているのだが、他人の目からは盛長が狂気におちいったとしか見えない。周囲の人たちは盛長を一間に押し込めて警護の者をつけた。これは、妖怪から盛長を守るという意味と、狂乱した盛長を閉じ込めるという意味もあるだろう。
結局この騒動は、大般若経読誦の功徳によって「盛長が狂気本復して、正成が魂魄、かつて夢にも来たらずなりにけり」と決着するのだが、これを戦争神経症患者の妄想と受けとるとしたら、それもまた近代的な態度である。『太平記』作者は結末の直前に次のように記している。
五月三日の暮程に、導師高座に上って、啓白の鐘打ち鳴らしける時より、俄かに天掻き曇りて、雲の上に車を轟かし、馬馳せ違ふる声止む時なし。矢先の甲冑を通る音は、雨の降るよりも茂く、刃の剣戟を交ふる光は、輝く星に異ならず。聞く人、見る人、ただ肝を消し、胸を冷してぞ怖ぢ合へる。(岩波文庫、95頁)
戦闘の幻影が、盛長だけにではなく、彼を見守る人々の耳目にも現れたのである。もちろん、湊川の合戦には盛長一人で参加したのではなく、地元から一族郎党を引き連れて行ったのだから、敵味方入り乱れ血で血を洗う凄惨な戦闘の記憶は多くの人に共有されていただろう。盛長の狂乱をきっかけにして、まだ生々しい記憶が人々の意識にありありとよみがえったのだと考えることもできるが、それも近代的解釈である。
『太平記』作者がこの怪異談を採用したのは、南朝の大将として伊予に進駐していた脇屋義助(新田義貞の弟)の急死を語るためだった。続く第二十四巻3の書き出しはこうなっている。
同じき四日より、宮方の大将軍にて国府座せられたる脇屋刑部卿義助、俄かに病を受けて、心身悩乱し給ひけるが、打ち臥す事わづかに七日を過ぎて、つひにははかなくなりにけり。
五月三日の大般若経読誦の功徳によって、足利方の大森彦七盛長に取り憑いた楠正成の怨霊が退散したので、同月四日より正成を守護神としていた南朝の大将が病気になり頓死したのである。さらに言えば、大森彦七に取り憑いた怨霊を祓うために催された大般若経読誦は結果的に呪詛返しのはたらきをして、脇屋義助は大森彦七が正成の怨霊に悩まされたと同じ七日間、彦七同様心身悩乱して死んだことを暗示している。これは第二十四巻7の終わりで繰り返されている。
さても、大般若経講読の功力によつて、敵軍に威を添へんとせし正成が亡霊鎮まりければ、大将脇屋刑部卿義助、副将軍大舘左馬助を始めとして、土居、得能以下に至るまで、或いは病んで死し、討たれて亡び、或いは落ち行き、遁世して、四国、中国、期せざるに静謐しけるこそ不思議なれ。(岩波文庫、110頁)
念のために言い添えれば、『太平記』作者は正成の怨霊の出現も、それが大般若経読誦によって鎮められたことも、不思議だとは書いていない。それと脇屋義助率いる南朝の軍勢が滅びたこととの関係が不思議だと言っている。大般若経読誦が呪詛返しのはたらきをするには、正成の怨霊の出現が脇屋義助の祈願によるものでなければならないのに、義助が大森彦七を呪った形跡がないからである。あるいは、脇屋義助は吉野から伊予に向かう道中、高野山に立ち寄っているから、そこでの戦勝祈願が呪詛として打ち返されたのかもしれないが、『太平記』作者はそうとは書いていない。南朝の守護霊・正成が往生して、南朝方の武運が尽きたとしか言いようがない。それが不思議だ、ということである。
■仁和寺の六本杉
仁和寺の六本杉の下で雨宿りしていた旅の僧が、不思議な声を聞いた。愛宕山や比叡山の方からも虚空より輿に乗った人たちが集まって、杉の木の高い梢の上に座を占めた。見ると、亡き後醍醐天皇の側近だった高僧たちと、建武政権で足利尊氏と敵対して失脚し、ついには足利直義に殺された後醍後の皇子・大塔宮である。みな生前の面影はあるが背中から翼をはやした、いわゆる天狗の姿であった(第二十六巻2)。僧形の南朝幹部たちは、死後、天狗道に落ちてかくもあさましき魔物と化したものと描かれる。
杉の梢に集まった天狗どもは、「さても、この世の中を、いかがしてまた騒動させ候ふべき」と発議して、それぞれが、足利直義のこれから生まれる息子、直義に仕える僧・妙吉、直義の側近の武将・上杉重能、畠山直宗、足利尊氏の執事で直義のライバルである高師直に取り憑き、足利幕府内で抗争を繰り広げさせることに決めた。
これは観応の擾乱と呼ばれる足利幕府内の権力闘争の予兆として語られている。あたかも、これからはじまる足利幕府内の権力闘争の図式を先取りして読者に示した小説的構成のようだが、そう捉えるのも近代的解釈である。『太平記』作者は、これこそが真相だと主張しているのではなく、今にして思えば、こういうこともあったと思い起こされることの一つとして書き留めている。
この直前の記事(第二十六巻1)には、史実とは前後するが、祟光天皇が即位した頃のこととして、院の御所に犬が三歳くらいの少年の生首をくわえて来たという怪事が記されている。ちょうど大嘗会の準備に取り掛かったところだったのでどうしたものかと問題になったが、結局、「神道は王道によつて用ゐる所なりと云へり。しかれば、ただ宜しく叡慮に在るべし」と、天皇に判断を丸投げして大嘗会を決行した。ただでさえ戦乱の続いた後で民衆の生活が疲弊しているところに大嘗会のための米を徴収されたため、大嘗会なんて今年はなくてもよかったのに、と世間の人々はみな不満をこぼした。この話につづけて、仁和寺の六本杉のエピソードが語られる。
二つのエピソードのつなぎはこうなっている。
「されば事騒がしの大嘗会や。今年はなくてもありなんと、世皆唇を翻す。仙洞の妖怪をこそ、希代の事と聞く処に」と文の続く途中で、「大塔宮の亡霊胎内に宿る事」と次章のタイトルがはさまれ、「また、仁和寺に一つの不思議あり。往来の僧、嵯峨より京へ帰りけるが、夕立に逢ひて、立ち寄るべき方もなかりければ、仁和寺の六本杉の木陰にて、雨の晴れ間を待ち居たりけるが」と続く。
章をあらためているので途中で区切られているが、「仙洞の妖怪をこそ、希代の事と聞く処に、また、仁和寺に一つの不思議あり。」とひとつながりの文である。大嘗会なんていう仰々しいイベントはやめておけばいいのに、と不平を言っているのは庶民の口であろう。その同じ口が、御所の怪異なんてめったにないことなのに、仁和寺でも不思議なことがあったというぞ、と噂を語っているである。
天狗は、四条河原の勧進田楽の桟敷倒壊事故(「田楽の事」第二十七巻9)でも噂のなかで登場する。三階建ての見物席が崩れて五百人余り(実数は不明だが一説には百人以上)が死亡したこの惨事自体が観応の擾乱の予兆とされたが、これも天狗の仕業という説を『太平記』は書き留めている。
比叡山延暦寺の僧が山伏に誘われて田楽見物に行った。観客の興奮がクライマックスに達したころ、山伏は観客の熱狂が見苦しいから頭を冷やしてやろうと言って席を立ち、ある桟敷を支える柱を、えいやえいやと押すと、その桟敷は天狗倒しのように倒れた。突風か竜巻のせいに見えたろうが、これが真相だ、という噂である。
このエピソードの語り方は、桟敷倒壊事件はきっと天狗の仕業だろうと思って後で事情を聞けば…、と語りだされている。仁和寺の六本杉同様、後になってみれば、あれが観応の擾乱の予兆だったのだと回顧する形式である。
■『太平記』に天狗が登場するのはなぜか?
鎌倉幕府滅亡と観応の擾乱、この二つの事件の予兆として『太平記』に天狗が登場するのはなぜか? これは難問であって、私には仮説すら思いつかない。
『太平記』は同時代史の物語である。軍勢の人数をおそらく一ケタか二ケタほど多めに記す誇張や、他の史料と照らすと判明する事実誤認、『史記』などの中国古典をひんぱんに持ちだして教訓を垂れようとする姿勢など、史実の記録とはとうてい言えないことはこれまでも歴史家たちの指摘してきたことだ。けれども、物語中の登場人物でもある室町幕府幹部が複数回検閲したらしい形跡があることや、今川了俊が『難太平記』で我が一族の功績が十分記されていないと書いていることなどから、もちろん、近代的な意味での歴史の記録ではないことを前提にしたうえでだが、当時の人たちにとって『太平記』は、たとえて言うならある種の同時代史、我らの時代の物語と受けとめられていたはずだろう。少なくとも『太平記』は近代的な意味でのフィクション(創作物)ではない。
『太平記』は、楠正成をヒーローとして描くことから宮方深重(南朝寄り)と言われたり、足利直義と細川頼之(三代将軍を補佐した幕府執事)の検閲を受けた形跡があることから室町幕府の統制を受けていたと言われたりするが、おそらく複数いた『太平記』作者たちは、乱世の情報を各方面から集め、それに自身の見聞や知識をおりまぜて描き出した。その作業は近代的な意味での創作ではなかったはずだ。
このように考えると、大事件の予兆として登場する天狗または天狗と化した怨霊の話も、物語のウケをねらって創作されたフィクションではなく、作者たちがそのように聞き、そうであるらしいと考えた情報であろう。しかし、北条高時の田楽狂い、新田義貞の挙兵の思わぬ成功、脇屋義助の頓死による南朝方の反攻の挫折、観応の擾乱、といった、同時代史の転機となるような大きな事件にまつわるエピソードとして、天狗を登場させたのはなぜか。
『太平記』には、他の事件についてもさまざまな怪異が予兆として語られており、一般論としては、『太平記』作者は大きな事件の前兆として天変地異や怪異が起こるものだという歴史観を持っていただろうことは想像できる。それは確かに前近代的感覚だろうが、現代の私たちも日常においてはなにか不吉な出来事が起きると、より大きな災禍のまえぶれではないかと不安に感じることがある。ただ、その予兆を歴史の説明とはしないだけだ。
しかし、天狗陰謀論については、どう理解してよいものか困惑する。陰謀論は現代でも盛んに語られるが、天狗は、たとえ陰謀論のなかであってもリアリティのあるものとしては語られないだろう。今や天狗は、民話や伝説に取材したフィクションのなかにしか居場所がなさそうだ。それに対して『太平記』の天狗は、ある程度のリアリティをもって歴史に介入する存在として描かれている。あれほど権勢を誇った北条氏があっけなく滅んだのはどうしてなのか、力を合わせて政権を勝ち取った兄弟・主従が仁義なき抗争をはじめたのはどうしてなのか。こうした疑問に答えるものとして、天狗の暗躍、またはその噂が語られている。
この乱世はどうして治まらないのか。『太平記』作者は「北野参詣人政道雑談の事」(第三十五巻8)で、武家の故実に詳しい関東の遁世者、儒学を修めた公家、仏教僧の三人に議論をさせている(この章は作者の仮構だろう)。関東の遁世者は乱世の続くのはいまの武家のおごりだとして南朝に期待するが、公家は私心なく君主を諌める者がいないとして南朝の政治を突き放し、僧侶はしょせんはみな前世からの因縁であるとする。三人は僧侶の意見をオチとして、からからと笑って別れるのだが、世捨て人ならまだしも達観できようが、巷で生きる庶民は笑ってはいられない。乱世が続く理由は何なのか。その問いに説得力のある答えが得られないため、補助的説明として天狗が登場するわけだが、近代人である私たちはそれをそのまま歴史の説明として受け入れることはできない。
天狗を歴史のアクターとして認めることができないということ、この点に『太平記』作者と、近代人である私たちの深い断絶がある。
前近代を否定的媒介にするとは、提唱者である花田清輝の意図とはずれるかもしれないが、天狗のような近代的思考にとっての他者を切り捨てないということだと私は思う。「他者」という言葉も、最近は手あかがついて、他者に寄り添うとか、他者に向きあうとか、他者と共生するとか、手軽に言われるようになったが、「他者」とは本来、受け容れがたい、困った存在のことを指していたはずだ。簡単に寄り添ったり、向きあったりできるものであれば、それは「他者」ではなく仲間でしかない。もし、前近代を否定的媒介とすることで近代の超克がなされうるならば、例えば『太平記』における天狗のような存在をどうするかが重要な課題となるだろう。
正義と地獄(岡田有生)
■為朝と天狗
この連載の以前の回で『椿説弓張月』について書いたが、そのなかで天狗が登場するところというと、歌川国芳の浮世絵に描かれたことでも知られる、次の場面になる。
腹を切らんとし給ふ折から。怪しきかな。電閃(いなびかりひら)めきわたり。玄雲(くろくも)【らいたい】と船の上に天降りて。異類異形の天狗ども。舷(ふなはた)に立あらはれ。閼伽(あか)を吐し。舵を把りて働く程に。傾きたる船忽地(たちまち)におしなほして。走ること甚速し。時に天狗ども。異口同音に呼りけるは。讃岐院の神勅を稟(うけ)。吾黨(わがともがら)こゝに来たつて船を遣る。為朝卒爾に死すべからず。夫(それ)豪傑の士。志を舒(のべ)。名を揚んとするときに。天まづ百折千磨の憂苦を喫(うけ)さし。その筋骨を堅(かた)うし。事の情に渉(わた)らしむ。譬えば梅花の冬に含(つぼみ)て。雪霜に痩せたるも。春にあふて。香気百花の長たるがごとし。などてみづから暁得(さと)らざる。といふ聲のみは耳に入れど。為朝は夢の心地しつ。われにもあらで忙然たり。畢竟為朝の安危如何。次の巻々を読得て知べし。(岩波文庫『椿説弓張月』中巻 p63〜64)
これは、人生の終りが近いことを自覚した主人公源為朝が、権勢を恣(ほしいまま)にする宿敵平清盛を討つことを決意して、妻子や郎党たちを引き連れ、九州水俣の浜から船出したが、途上で突然の大暴風雨にあって遭難。ほとんどの郎党たちは船上で自決したり海に身を投げ、息子の舜天丸(すてまる。これが後に琉球王朝の開祖になるという筋)が乗った船は荒れ狂う波濤の彼方に消え去り、妻の白縫(しらぬい)は海神の怒りを鎮める犠牲になろうと水中に没するという修羅場のなかで、みずからも命を断とうとした為朝を、突如として現われた天狗たちがハリウッド映画なみの活躍で救助するという、夢か現かもさだかならぬ一幕だ。
この救助の勅命を天狗たちに下した讃岐院とは、いうまでもなく、為朝の心の主君ともいうべき、悲運の帝、崇徳院である。
物語では、この後、為朝は琉球に漂着し、彼が現世(ヤマト)で果たせなかった政治的願望(それは崇徳のそれに重なるものでもあろう)が、いわば彼の地で想像的に成就することになる、というような(ポストコロニアルな?)解釈も可能だ。
この物語の前半に含まれる小笠原諸島のくだりが、花田清輝の『もう一つの修羅』所収のエッセイからも知られるとおり、「蛮人」(未開民)を教化するというような征服的で傲慢な視線を強く感じさせるのに比して、琉球を舞台にした後半で描かれる彼の地のイメージは、その背後に中国文化の存在を考えているためか、他文化に対する尊重の姿勢が見られる気のすることは事実だが、そこには本質的な違いはないのだろう。
いずれにせよイメージのなかで勝手に作り上げられた他者像だから、都合に合わせてどのようにも変えられる。自国の国情が「太平」から「攘夷」、「維新」、「富国強兵」へと移っていけば、それに応じて「琉球」の描かれ方も変わっていくのである。
『弓張月』をそれが書かれた江戸後期という時代の書物として、今日的なまなざしのもとに読み取ろうとするなら、当然、そういう了解が生まれてこよう。
しかし、そうすることは、過去の出来事や文物を進歩した後代(現在)の視点から総括的・外在的に解釈することができるという、近代的な発想に基づく態度であり、それもまた、過去という他者を手前勝手なイメージのなかに閉じ込めて安心する、手口の一例かもしれないのである。
それはそれとして、ここでの天狗の存在を考えてみると、やはり興味深いのは、それが政治的敗者である天皇の意志の体現者であるということ、そして彼らがまさしく疾風怒濤の、此の世のものと思えぬような働きによって主人公を救助し、「正義」の想像的な実現へと物語の舳先(へさき)を回転させるということだろう。
つまり、天狗は物語のなかで、この世のものならざる力によって暴力的に世界を「正義」へと変容させる存在として現れているのであり、それが「正義」であることの表徴が「天皇」だといえる。この「天皇の正義」と天狗たちの暴力性とは、おそらく不可分の関係にあるのだろう。
近世を代表する物語作家だった馬琴が、『太平記』を読んでいなかったはずはなく、そこに描かれた天狗たちの姿が、この場面を描くときに頭に思い浮かんでいたことは、きっと間違いないであろう。天皇の意を体現した異類異形のものたちの勇躍は、『太平記』に親しんだ当時の読者大衆の心情と願望に、よく訴えかけるものだったはずである(水戸の天狗党や「鞍馬天狗」は、この系譜の末に位置するのだろう)。
『弓張月』の書かれた時代、浮世絵には「天狗」に模したかのような南蛮の異人の風貌が描かれた。詳しくは知らないのだが、天狗のイメージを古代の日本にやってきたペルシャなど遠方の人々の存在に関係させる説があると聞いたこともある。いずれにせよ、そこに込められているのは、現実の支配的な秩序や道徳を否定・破壊し、改変してしまう超越的な力への、畏怖と憧れに満ちた予感だと思われるが、その力は天皇という徴を帯びることによってだけ、流通する物語のなかに書き込まれることを許されるのだろう。
やはり考えてみたいのは、この力、天狗が元来有していると思われる「暴力」についてである。
■物語の困難
それが物語であるからには、力が秩序や道徳を脅かすようにみえながらも、実際には虚構(想像)のなかでのみその侵犯が行われるということであるはずだ。現実の「正義」の実現への意志は、物語のなかに取り込まれることによって保持されるとともに非現実化されて無害化される。
つまり、物語とは「力」の政治的な無力化の装置でもあるが、同時に、「力」をさまざまなものから防御し、その純粋な形を人々のなかに伝えていく働きを持つものだとも思える。
ここでのさまざまなものとは、たとえば、「正義」を何か道徳的な実質を持つもののように思いなす、教義的でもあれば世俗的でもあるような通念である。
実際は、「正義」といっても、その実質が何なのかは分からない。もし、神のためにわが子を殺せという命令を「正義」とするなら、力の純粋なあらわれは非人間的な暴力だと言うしかないのである。それどころか、「全人類を滅亡させよ」が正義の命令と考えられることも、もちろんある。
「正義」が、どのような現実の支配にも従属することなく、「力」がその純粋なあり方のままに世界のなかで何事かを実現するためには、どこかでこの閾(しきい)を越えていなければならない。
だが、それを現実のなかであらわしてしまえば、世界は破壊にまかされることになりかねないので、物語のなかに閉じ込めている、ということだろう。
天狗が体現しているのは、したがって、世界を破壊してしまいかねない、われわれ個々の中にあるこの「正義」への願望の暴力性であり、それへの予感や期待であるといえよう。
だとすれば、現実の世界の中で、この物語の機能がどれほど十分に、自立性をもって働いているかということが重要になるだろう。
今日の世界では、しばしばより強力な物語のコード(枠組みと解釈)を発信しているのは、政治権力や大資本であるように思える。個々の商品化されたり、そうされずに流通している物語は、その強大な磁力にひきずられて、純粋な「力」の保持に失敗することが多いのではなかろうか。
そうした現状を的確に捉えた作品として、たとえば深田晃司監督の『淵に立つ』(2016年)をあげることが出来る。
この映画の主要な登場人物の一人である、浅野忠信演じる男は、かつて独善的な正義感につき動かされるようにして人を殺めたのだが、何年かの服役を終えて出所した後、旧友の一家のもとに同居することになる。一見平穏な中流家庭のなかに入り込んだこの男の様子は、心中に計り知れない何かを秘めていることを感じさせながらも、過剰なまでに礼儀正しく、物静かな、むしろ寡黙な性格のように描かれる。それは、任侠物をはじめとした往年の東映映画で高倉健が演じた役柄と演技を思わせるものだ。
だが、それは物故した大スターへの単なるオマージュということではない。ある重要な場面で、決意をして「現場」に向かっていく男が、仕事着である白いつなぎの服を上半身だけ脱ぐと、現れるのは真っ赤なTシャツだ。その時に口ずさんでいるのは、劇中で男がこの家庭の娘にレッスンをほどこしている賛美歌にも似た物悲しいメロディーである(「つむぎの歌」という西洋の楽曲らしい)。
これが高倉健の映画なら、大詰めの場面で修羅場に乗り込んでいく主人公が着流しを脱ぐと現れるのは背中一面の入れ墨であり、画面に流れるのは「唐獅子牡丹」の曲と歌声だろう。だが、入れ墨ではなくTシャツを身にまとい、物悲しい曲を口ずさみながら乗り込んでいった主人公がここで行うのは、英雄的な大立ち回りではなく、醜悪なレイプ未遂なのだ。
つまり、もはや映画の美学的な物語が自立したものとして十分に機能できず、情動の発露としての暴力が、弱者・他人への衝動的で拙劣な攻撃として現れるばかりだという、今の社会の状況を、この場面はよくあらわしていると思う。しかも、それは色彩面では、つなぎの作業着の白を地にした深紅のTシャツという、他ならぬこの国の国旗の配色によって画面に刻み付けられているのである。
これは、映画(物語)による表現が成功していると思われる例なので、物語の自立的な機能の失効という文の趣旨と矛盾するように思われるかもしれないが、現在におけるすぐれた表現というのは、この作品に見られるように、物語の滑らかな完結の破たんという形態をとらざるを得ないのではないだろうか。それを強引にスマートな物語に仕上げようとすると、物語は現実に肉薄する力を失って、陳腐なプロパガンダみたいなものになる。だから、現代では物語は、それが優れた作品であるほど、かつて持っていた「語り」による「力」の保持と封じ込めという一般的な権能を失って、暴力が露骨で拙劣な形で噴出する瞬間を鮮烈に描き出すという特殊な仕方でしか世界のリアルさを描くことができず、それゆえに、現実の社会の広範な動きにかかわっていく力が弱まっていると思える。
今日、そのような社会的影響力を持ちうるのは、支配的なコードによく順応した、強度なき物語であることが大半だ。ここに、「力」の伝達の装置としての物語が置かれている、困難な現状があるといえるだろう。
といっても、もちろん、『太平記』も『椿説弓張月』も、近代化の進行なり戦争の到来を防ぎえたわけではない。そもそも、何が「良き歴史」かという判断は、「力」を保持するものとしての物語の論理とは無縁だろう。
だが、現在の支配的コードに関していえば、あえて近代的倫理に反しようとする態度ほど、真に歴史の根底にうごめている私たちの暴力の権能と縁遠いものも、あまりないと思えるのである。
問題なのは、倫理や人間性といった「筋骨を堅う」するための最小限度の「憂苦」すら忌避してしまうような、その手の浅薄な反近代・反倫理、暴力と破壊のチープな言説が支配者たちから供給され、蔓延することで、われわれの暴力が手なずけられて(スポイルされて)しまうという現状である。
私たちは、暴力という扱い難いものを自分たちの手に取り戻していかなければならない。そう思う。
■地獄を進む知性
最近知った星野源の自作自演曲『地獄でなぜ悪い』は、「無駄だ ここは元から楽しい地獄だ 生れ落ちた時から出口はないんだ」 「嘘でなにが悪いか 目の前を染めて広がる ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ」と歌っている。
この歌詞は一見すると、現在の「超近代」的にして呪術的とも呼べるような虚偽に満ちた世界を肯定するシニカルな心情の吐露のようにも思えるが、しかし、嘘で染まった世界の仕組みにどっぷりと同一化して生きる(あるいは死ぬ)ことと、この世界がすっかり嘘にまみれていることを自覚しながら生き抜いていこうとする態度とは、実は真逆のものにもなりうるはずだ。
とはいえ、嘘を嘘として意識する覚醒の状態で現実を生きることは容易ではない。そのことは「地獄」の実相に触れて自分のなかに吹き出てくるさまざまな情動を引き受けながら生きることを意味するからだ。この情動こそが、上に書いた歴史の根底をなす「暴力」の、内なる形態であると言っていいだろう。
虚構に同一化し、ただ情動(暴力)に捉えられて生きていくだけなら、それは前近代の生と同じである。いや、正確には、近代によって都合よく構成された「前近代的な生」なる生き方のモデルを選ばされているだけである。
われわれが学ぶべきほんとうの前近代は、むしろ「地獄」である現実に対する醒めた認識と、政治権力との対決的な共存を、その本性にしていたのでないだろうか。一向一揆も、島原の乱も、江戸時代の百姓一揆も、決して今日のわれわれがそう教え込まれてイメージしているような、現世逃避の宗教的過激主義でもなければ、「土人」たちの自暴自棄の暴動の繰りかえしでもない。
何度押し潰されても、集団による抵抗と粘り強い交渉(権力への働きかけ)を諦めないことだけが、「地獄」に他ならないこの世界との関わりを維持しつづける道だということを、彼らは知っていたのだ。そのことによってだけ、彼らの生は「外」へと開かれる。人々を諦めや熱狂や逃避による自足といった様々な嘘の中に閉じ込めておこうとする意図に逆らって、他国や未来という現実の外部へと、生は結びついていくのである。
そして、その開かれた道の先に、今の私たちの生があるのであり、そこからさらに道は伸びているのだ。その持続する世界の展望を可能にするものは、私においては、私自身の生の中にしか存在しないだろう。
ここでの要点は、「地獄」である現実から湧き出てくるさまざまな情動の力に取り込まれることなく、それをどのように肯定しつつ対処していくことができるか、ということだ。
これを誤れば、私は天狗にさらわれた人間のように四肢をもぎとられて高い梢の枝先にひっかけられるか、さもなくば自らも烏天狗の一員となって「嘘」が支配する冥府魔道に迷い続けることになるかもしれない。
そうならないためには、情動は常に、光を当てられている必要がある。だがその光は、情動の闇を消し去るためのものではなく、その闇の奥深さをあきらかにし、その襞(ひだ)に縫い込められた生の力の可能性をすくい出すようなものでなければなるまい。
それは、闇が自ら発する光によって、おのれの内実を曝すように仕向けるということだ。いわば、闇をして光に転じさせなければならない。外側の地獄、つまり「嘘」の闇は、その支配を私たち自身が望んでいるからこそ、玄雲(くろくも)のように世界を覆ってたちこめるのだ。闇は、私たちの内と外の両方から立ちのぼって、世界を覆っている。私たちの情動が自ら光を放ち、他者に向かっておのれを開いていくとき、はじめて人々はほんとうに地獄に打ち勝つ力をえるだろう。
それこそが、「もうひとつの近代」と呼びうる展望だと思う。
その実現のために要請されるのは、おのれの内と外の「地獄」を直視し続けてきた、「前近代の知性」を想起することであろう。為朝を救助した天狗たちのように、私たちのなかの前近代的な知性は、現実を覆い尽くす邪悪で手におえぬような闇のさなかから、そこにしか見いだすことの出来ない生の可能性を引き出し、船の舳先を転じさせようとする。だがそれは、天皇とか想像的な「領土」の方角へ向かってではなく、いつも常にそこにあった、「地獄」に対峙して生きる人たちの共同体を目指してなのである。
★プロフィール★
岡田有生(おかだ・ありお)
1962年生まれ。男性、独身、親と同居。プロフィールに書くようなこともなく現在に至る。ブログ: Arisanのノート
広坂朋信(ひろさか・とものぶ)1963年、東京生れ。編集者・ライター。著書に『実録四谷怪談 現代語訳『四ッ谷雑談集』』、『東京怪談ディテクション』、『怪談の解釈学』など。ブログ「恐妻家の献立表」
Web評論誌「コーラ」30号(2016.12.15)
<前近代を再発掘する>第6回:地獄は一定すみかぞかし(広坂朋信/岡田有生)
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