今回も花田清輝のことに触れるが、エッセイ集『もう一つの修羅』に入っている「日本人の感情表現」(1960年発表)という文章のなかで、花田は郡司正勝が『かぶきの発想』のなかで論じている新潟県刈羽郡女谷につたわる綾子舞の狂言の方について、次のように書いている。
実際、花田自身がよく知っていたであろうように、そんな「基本的な型」や「仕草」を演じる民衆の腹の底など、だれにも見通せるものではないだろう。朝鮮人や中国人を虐殺したのも、ヒトラー政権や安倍政権を生み出したのも、やはり民衆なのである。
しかし、そういえば、壬生狂言で使われる仮面は、どこか朝鮮の農民たちのマダン劇のそれを思わせるところがある。以前に奈良の国立博物館で、奈良・平安の頃に日本に伝わった仮面の展示を見た時、伎楽などで用いられる豊かな表情の仮面が、能などのオーソドックスな芸能にはあまり伝承されなかったらしいのを知って、不思議に思ったものだが。
しかし、五味文彦著『殺生と信仰―武士を探る』(角川選書 1997年)を読んでいると、久安年間に平清盛が祇園社に「田楽」を調立した(意味が定かに分からない語だが)時に闘乱が生じ、山僧が清盛の流罪を求めて蜂起したことを理由に、鳥羽院が「源氏平氏之輩」に坂本の守護を命じて比叡山の山僧の入京を阻止する措置をとり、その際に守護する武士たちの閲兵を行うという派手なデモンストレーションを院がやったことが書かれているから、元来この田楽というものには、なにやら武力とか動乱に通じるような、物騒な性格が秘められているのかもしれない。
北条高時が耽溺したというのも、むべなるかなというところである。
ところで、動乱というと、最近私は羽仁五郎の著作にハマっているのだが、筑摩叢書の一冊として1986年に出た『羽仁五郎歴史論抄』という本のなかに、「歴史教育批判」(1936)という戦前の論文が収められていて、他の文章同様、今読んでも、いや今読むからこそ実に面白い内容なのだが、そこにこんなことが書いてある。
ここで羽仁は、わが「国史」の教科書というものは、『政治的活動の常態についてよりもその非常の場合のみを、それも社会的変革としてではなく支配の上の激変として、好んで叙述』するものであるとし、それについて、
すでに教育上かかる非常の手段に注意を集中せしむることは如何か、これら非常の場合の非常の手段よりも、政治の常態の進化乃至はその合法なる改革の手段や方法や経過過程の理想に近づける場合を重んずることが健全とされねばならぬこと等を最近識者の切論せるところもあったが、それのみならず、なぜにこうした非常の手段がとられねばならなかったか、他に方法はなかったか、そのとき多数の人民民衆はどうしていたのか、人民はしかく無力にしてこれら害悪の勢力を除くに何の協力をもなしえず少数の有志の苦心や悪戦に全く任せて傍観しておらねばならなかったのか、あるいは、人民が全く無力にされていたからこそ、道鏡のようなのも現われ、また藤原氏平氏義仲北条氏尊氏足利氏等もいずれもはじめはあるいはなかごろに善意をつくしたかでありながらやがて悪意野望を抱くに至り、かつこれらの悪意を除くに少数者が非常手段に出でざるをえぬに至ったのではないか、というような点の反省がもっとも必要なのではなかろうか。(『羽仁五郎歴史論抄』 p188)
と書いている。
ここで、やっと「北条氏尊氏足利氏等」が出てきて、少しほっとしたが、羽仁の「人民史観」は、やはり『太平記』とは折り合いが悪いことは間違いなさそうだ。
だが、とはいえ、『太平記』を好んだ者の多くも、また「人民」ではなかろうか。
羽仁は、ファシズムの時代というものを体験したにしては、人民・民衆というものを、あまりに理想化してしまっているのではあるまいか。
しかし、ここはよく考えてみなければならないところだ。
人民史観と呼ばれる羽仁の歴史に対する考え方は、私淑していたイタリアの哲学者クローチェの影響下で形成されたものだ。クローチェの歴史哲学は、羽仁自身の要約によれば、『すべての歴史は、現在の歴史であり、現代の歴史である』(p284)というテーゼになるのだが、羽仁におけるこの思想をよく表していると思われるのが、やはり戦前に書かれた「新井白石と国語の時代」(1939)のなかの、次のような一節である。
普通に歴史的というと後向きになって古(いにしえ)のことばかりいうようであるが、これは正しくない。歴史は前向きに過去から現在へ将来へと進歩して行くのである。古ばかりでなく古から今までの変りかたをずっと見とおし、したがって現在をもっとも重く考え、現在にいたった変化発展の経路として古を考えるのでなくては、本当の歴史的研究とはいえない。(上掲書 p306)
これは、たしかに進歩を礼賛する近代主義的な歴史観にみえる。だが、むしろ、ここで羽仁が批判しているのは、「1939年の日本」という差し迫った「現在」の重要さを、過去から未来に流れる既定の時間のなかに解消してしまうような線形的な歴史の捉え方であり、そのなかに「人民」の抵抗や解放の可能性を閉じ込めてしまおうとするような発想と力なのである。
その力は、個々の社会の事情に応じ、ときに復古的な装いをしてあらわれて、啓蒙や進歩の圧力に反発する民衆の心を籠絡したり、また「改革」の美名のもとに、やはり民衆の願望や欲望を巧みに動員したりする。
いずれにせよ、その本質は人々の生きる力の統制ということであり、秩序の中に人間の歴史を封じ込めるということだろう。そのために、この力は、人々の意識から差し迫った「現在」を遠ざけておこうとするのである。
この力(国家権力とかシステムと呼んでもよいが、民衆自身をもそこに含むもの)との対決の姿勢こそが、一時は成立直後のムッソリーニ政権に接近しながら、やがてイタリアの反ファシズム運動の精神的支柱とみなされるようになったクローチェから、羽仁五郎が学びとったものだったと思う。
羽仁は、1933年に逮捕され、拘留中に「手記」を書いて釈放される。いわゆる「転向」といってよいだろう。
だが、多くの注目すべき羽仁の仕事は、その後に集中的になされ、それは1942年に遂に一切の発表が許されなくなるまで、信じがたいほどのエネルギーを傾注して続けられた。
そのことは、「転向」の事実を消し去るものではないが、後年彼が、この逮捕を契機として『いままでの歴史学ではだめだ、新しい歴史学を発見しなければならない』と確信するに至ったと述べているのは、彼がここでクローチェの継承者としての(つまりファシズムへの抵抗者としての)本分に目覚めたということを意味しているのだと思う。
それは、ファシズムにやすやすと呑みこまれていく目の前の民衆自体を、彼が直視と対決(働きかけ)の対象として選んだということと同義である。
それに関連して、同じく「新井白石と国語の問題」から、もう一カ所引いておく。
そういう時代に、白石がわかりやすいカナを主として書いたというのは、日本の大部分の民衆が日本の実際また世界のことを直接に自分の眼でありのままにはっきり見るために、わけもわからぬわけありげやえらそうにやなどでなく、わけがすっかりわかるようにわかりやすく、誰でも考えることのできるように書くということであった。(p300)
■曖昧なものの評価をめぐって
ところで、民衆の生を統制しようとするこの力は、この時期の日本において、ファシズム(民衆の、強権への積極的加担)という形をとって出現したわけだが、そのような姿をとるのは、やはりこの国家と社会が、天皇制という特殊な近代国家の形態をとっていることに深く関わっているといえる。
その特殊性についての理解を、羽仁は講座派の代表者、野呂栄太郎から学び、さらにそれを独自に深めたと思われるのだが、それについて、敗戦直後の1946年に書かれた「日本歴史の特殊性」では、次のように述べられている。
なお、以下で言われている「氏族社会」とは、ほぼ原始共産制と言い換えてよい概念だと思う。
(前略)すなわち、天皇制は本質的に氏族社会の構成ではなく、氏族社会が崩壊した後の奴隷制社会の構成であり、人民を奴隷とした奴隷支配者としての豪族の最大のものとして出現し発展したのであった。
それにもかかわらず、日本の歴史の古い時代の天皇制が、何らか氏族的な外被をまとってその奴隷支配者としての本質をかくし、かつ、氏族社会以来のものであるかのような外見上に悠久のすがたをとっていたのは、なぜであるか。これらはまったく外被にすぎず、外見にすぎず、天皇制の本質は奴隷支配者たることに存し、かつ、それは氏族社会の崩壊の後に新しく出現したものであったことは、決して忘れられてはならない。(上掲書 p224〜225)
これは、字面においては古代史を語ったものだが、あくまで「人間天皇」としての天皇裕仁の復権が歴然としてきた「現在」において述べられていることが肝心だ。
羽仁にとって、明治天皇を立てた維新以後の国家体制は、内外の帝国主義勢力の要請による封建制の残存という世界史的な意味づけをされるものだったのだが、同じことが、意匠だけを「民主主義的」なものに変えて、敗戦直後の「現在」においても繰り返されつつあると羽仁には見えたのである。
この「残存」が要請されるのは、天皇のユートピア的で温和(人間的?)な「外被」、また神秘的な「悠久のすがた」によって、人民の奴隷化に結びつくような過酷な帝国主義の支配の「現在」が人々の意識から隠され、革命と解放の必要性が忘れられることになるからである。
天皇という特殊的なものが、日本という近代国家における人々の意識のあり方を決定している。それは、神秘的な悠久の存在に調停者のような役割を仮想することで、過酷な支配の現実から目をそらし続けようとする態度だが、もちろんそのことによって、他者の存在を含む、私たちの生存の全体が、現実には犠牲となっていく。「戦後体制」もまた、この構造を破却することはなかったのである。
先に触れた花田清輝のエッセイのなかで述べられていた、民衆の芸能に表れている『抵抗しているのか、心服しているのか、嘲笑しているのか、さっぱりわからないような型』というものが、この天皇の存在に関わっていることは、確かだと思われる。
それは、支配権力との直接的対決を避け、場合によっては、それに迎合することで生き延びよう、あるいは地位や財産を保持しつづけようとする民衆の意思を表現しているかのようである。
花田はそれを、「日本的な独自性」と呼んでいたわけだが、それはむしろ、天皇のような前近代からの「残存」が、支配を容易にする精神的な装置として機能する社会では、どこでも見いだせるような民衆の生の実態なのではないだろうか。
なにより、天皇制という、頂点に立つ者が責任を問われずにすむような構造は、そこに生きる民衆個々の、加害性を含む責任をも曖昧にできるという効果を持つので、民衆自身にとっても実は都合のよいものなのである。
戦前の「ファシズムの時代」に、天皇制下の民衆のこうした実態に直面することを余儀なくされた羽仁五郎は、それを肯定(自然化)するのでもなければ、無視するのでもなく、目の前にある現実として見据え、そこにこそ働きかけて社会を作り変えていこうとする道を、選んだのだと思う。
だが、ここで確認しておきたいのは、民衆のこの曖昧なあり方に対する、羽仁と花田のスタンスの違いである。花田の場合、逡巡しながらも、結局はそこにしたたかな抵抗のポテンシャルを見ようとする態度に傾いていると思われる。それは、特に60年以後の、大衆向けの歴史読み物に接近したような花田の創作の傾向と関係するだろう。
一方、羽仁の場合には、この曖昧な領域は、あくまで働きかけ(啓蒙)によって作り変えられていくべき対象なのであり、その前近代性はやはり否定されるべきものと見なされていたとみるしかなかろう。
そのことは、先に触れた羽仁の歴史観とも関連している。羽仁にとって歴史とは、現在を起点とした進歩の道筋においてこそ真に存在しているものであって、その現在から照射される限りでのみ、過去は意味を持つ。そこでは、この光によって明確な意味を与えられないような、曖昧な姿をした過去というものは、切り捨てられると考えざるをえないのだ。
これはずいぶん、暴力的な態度に思える。コギトの光に照らし出されないものは、存在していない(いなかった)のと同様だと、羽仁は言いたいのであろうか?
だが、ひるがえって考えてみると、花田のように、民衆が示した曖昧な姿勢に抵抗のポテンシャルを読み込もうとすることも、やはり現在の願望にもとづく態度ではなかろうか。羽仁の態度も、花田の態度も、どちらも政治的なのである。
そして、羽仁がもっとも警戒したのは、曖昧な領域に自分たちが期待する意味を仮託し、神秘的な意味づけをすることで現実の過酷さから目をそらしていようとするような人々の心のあり方であり、それを巧みに利用するこの国の支配権力の手口だった。
それは、曖昧な領域の切り捨てという代償を払っても、退いてはならない抵抗の線だと、羽仁には思えたのだ。
そして、もっとも重要なことは、この抵抗線の死守という命題が、戦後においても、羽仁にとって決して「過去のもの」となることは無かったという事実である。
「現代に生きる歴史学徒の任務」(1966)は、鬼気迫ると言ってよいほどの迫力に満ちた講演の記録だが、最後にその中から一か所だけを引いて、終わることにしたい。
かつて日本がムソリニやヒトラアにヒントをあたえていたように、こんども日本が世界のファシズムの復活か新生かの先頭をきっている。短い記憶と長い舌はいつでもファシズムのものだ。日本はたれよりさきに戦争の責任などわすれている。原爆の体験だけは忘れないが、罪もない日本に原爆をおとしたやつがいるらしい。憲法も、東京裁判も占領軍のやったことで、日本人は自主的にはなにもしなかったらしい。日本の国民だけが日本の戦争犯罪を国民自身の手で法廷において裁判しなかった唯一の国民だが、これは現在のアメリカの戦争犯罪者たちにヒントをあたえているらしい。日本はまったくたいした国だ。戦争にまけても大丈夫だ。戦争犯罪などといっても占領軍の裁判などチョロイものだ。国民自身の手で、裁判するなどというむごいことはしない。日本国民を見ろ。アメリカが現在戦争犯罪者となったとしてもアメリカ国民は国民自身の手で裁判するようなことはないにちがいない。日本はつねにこの方面の先進国である。(上掲書 p125)
■コメント(広坂朋信)
三木清は『社会科学の予備概念』で盟友・羽仁五郎の訳したクローチェ『歴史叙述の理論及び歴史』から、歴史とは現代の歴史である云々という有名なくだりを引用しながら次のように記している。
ここにクロオチェが意味してゐるやうに、認識そのものの立場から考へるにしても、過去が若し單なる過去、即ちもはや過ぎ去つてしまつたものであつたならば、我々はそれが在つたとも語り得ないであらう。過去とは「なほ在るところのもの」、我々の現在のうちになほ働いてゐるところのもの、從つてまたひとつの現在であり、そして我々の現在がそれに交渉する仕方に於てまさにそれはそれの存在性を顯はにする。現代の意識は過去の歴史が如何に把握されるかといふことに對する根源である。(『三木清全集第三巻』297頁より)
「現代の意識は過去の歴史が如何に把握されるかといふことに對する根源である」とはわかりづらい表現だが、後年の『歴史哲学』第一章で三木は、現代と現在という用語の区別を厳密にすることでこのアイデアをさらに詳しく述べている。三木によれば、現代とは、古代、中世、近代と同じような時代区分であり、それはすでに過去である。クローチェのいう現代とは、むしろ現在というべきものだとする。
一、我々は歴史を繰り返すといふことが手繰り寄せるといふことであることを云つた。歴史の端緒は現在であつて、そこから過去が手繰り寄せられるのである。(中略)。二、歴史的なものの選択は現在を基礎に有する。然るにそのときもしこの現在にして現代のことであり、現代の見地から選択がなされるのであるとすれば、そのときには、マルクスの非難した如き、「最後の形態が過去の形態を自己自身への段階と見、それをつねに一面的に把握する」といふ 、或は「一切の歴史的差異を拭ひ消し、一切の社会形態のうちに市民的社会形態を見る經濟學者」に類する誤謬に陷るといふことも免れ難いであらう。そのときこそ歴史叙述は所謂パースペクチヴィズム Perspektivismus に伴ふ種々なる危険にさらされる。さうではなくて、現在に立ちながら、しかも諸時代のそれぞれの獨自性、その間の本質的な差異が認識され得るのは、この現在が現代のことではないからである。(後略『三木清全集第六巻』19〜20頁より)
三木は、現在が歴史を手繰り寄せるというが、その手繰り寄せをさせるのは、「我々の現在のうちになほ働いてゐるところ」の過去ではないだろうか。それは能楽にとっての田楽のようなもの、それなしには現在はないが、それが何であったかはよくわからなくなってしまった過去である。それは過去ではあるけれども「我々の現在のうちになほ働いてゐるところのもの」であるがゆえに「またひとつの現在」でもある。無意識としての歴史と言ってもいい。我々がどのような過去を手繰り寄せようとするかは、この無意識としての歴史の働きにかかわってくるのだろう。
★プロフィール★
岡田有生(おかだ・ありお)
1962年生まれ。男性、独身、親と同居。プロフィールに書くようなこともなく現在に至る。ブログ:
Arisanのノート
広坂朋信(ひろさか・とものぶ)1963年、東京生れ。編集者・ライター。著書に『実録四谷怪談 現代語訳『四ッ谷雑談集』』、『東京怪談ディテクション』、『怪談の解釈学』など。
ブログ「恐妻家の献立表」
Web評論誌「コーラ」29号(2016.08.15)
<前近代を再発掘する>第5回:歴史のあいまいな領域(広坂朋信/岡田有生)
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