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Web評論誌「コーラ」
25号(2015/04/15)

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■前口上(広坂朋信)
 私たち(岡田有生と広坂朋信)は、「近代の超克」と呼ばれるテーマを再検討してみたいと思い立った。再検討というのは、昭和戦中期になされた「近代の超克」座談会とその周辺の思想については、先人たちがそれぞれの視点から詳細に検討した優れた成果がすでにあるからだ。

たとえば、竹内好『近代の超克』(筑摩書房)、廣松渉『〈近代の超克〉論』(朝日出版社/講談社学術文庫)、子安宣邦『「近代の超克」とは何か』(青土社)があり、最近ではハリー・ハルトゥーニアンの大著『近代による超克』(岩波書店)も訳された。私たちには、これら大家たちによる思想史研究に新しい論点を付け加えようという野心はない。
 私たちの関心は「近代の超克」と呼ばれるテーマが私たちに問いかけてくるものにどうこたえるかということに尽きる。具体的には、前近代の文化や反近代の思想のなかに、解釈的に再構成されたものとしてではあれ、ある種の近代批判の契機を掘り起こすことで、「近代の超克」と僭称される悪しき日本型近代主義の運動に対抗していくことは可能か? この課題は「戦後レジームからの脱却」などというイカサマの「近代の超克」がのさばっている今、取り組むにあたいするものだと信じる。
 しかし、私たちの直接の関心は諸大家が論じてきた「近代の超克」座談会にではなく、「近代の超克」というテーマそのものにあるので、座談会とその周辺の思想については簡単に触れるにとどめ、戦後、柳田国男を論ずることで京都学派の哲学者たちや日本浪漫派の文学者たちとは異なる、もう一つの「近代の超克」論の可能性を探ろうとした花田清輝「柳田国男について」(『近代の超克』所収)を最初の手がかりに選んで議論を始める。
 
1 花田清輝「柳田国男について」(岡田有生)
 花田清輝のエッセイ「柳田国男について」は、1959年に出版された『近代の超克』(未来社/講談社学芸文庫)に収録されている。
 この論集のなかで、花田はしばしば柳田について、たいへん肯定的にとりあげているのだが、背景には、当時柳田が、保守反動の代表者のように考えられていたということがあるのだろう。花田は、柳田の学問をそのように切って捨てることが、かえって変革を上滑りなものにしてしまうという考えから、警鐘を鳴らした。
 柳田が保守反動と見なされるようになった理由の一つに、敗戦後に柳田が行った発言、特に当時「進歩派」と目されていた何人かの人たちとの対談における発言があげられよう。歴史学者家永三郎との対談は、その中でも、特に目立つものである。
 このエッセイでの花田の論も、その家永の柳田観を批判することで展開していく。それは、明治43年の著作『時代ト農政』で柳田が示した、報徳会(報徳社)による農村運動に対する、柳田の両義的とも呼べる捉え方に関わる。そこで柳田は、農村の共同体の道徳を重視する報徳会の運動を、その農本主義的イデオロギーに関しては資本主義経済下の農民の苦境を顧慮しないものとして厳しく排しながらも、一方で、信用組合制度による近代的改革を進めるにあたって生かしていくべき内実をもつものとして擁護してもいるのである。
 こうした柳田の態度を、「在村地主イデオロギー」(農村道徳)の枠を越えられない保守性の証左として批判する家永三郎に対して、花田清輝はそこに柳田の、
前近代的なものを否定的媒介にして、近代的なものをこえようとする進歩的態度をみないわけにはいかないのだ。(『花田清輝著作集 W』未来社 p187)
と書くのだ。
 これが、花田の考える、真の「近代の超克」の方法だった。
 花田によれば、家永のような論者は、また日本のマルクス主義者や進歩派の人々は、農民などの「日本人の生活」に目を向けることを忘れている。つまり、変革していくべき土台(底辺)や、変革によって救うべき対象のあり様といったものを、そもそもちゃんと見ていないのである。
家永三郎自身が、産業革命以来の「仕来り」の上にぬくぬくと安住して、未来への突破口をつくるために、産業革命以前の「仕来り」を探求しているものを、保守反動あつかいしていないと誰が保証することができようか。(同上 p197)
 変革というときに、抽象的な未来だけが追い求められて、肝心な変革の本体というものが取り残されるから、いつも上滑りなことにしかならない。変革や革命や進歩だと、あるいはまた超克だなどと口では言うが、実際にはそのやっていることは真逆の結果しか生みださないのである。
 柳田は、その土台であり本体であるものに着目したと考えられるわけで、花田が高く評価する柳田の学問の姿勢というのは、そういうものではないかと思う。それは、民衆の生活という土台を考究すること(民俗学)と、その時間的な土台である民衆の歴史を探ること(史学)とが、不可分となった学の姿勢だ。
民俗学は、史学の現在にたいするつよい関心にうながされて、問題の所在を探ぐり、史学は、民俗学の過去にたいする研究の成果を踏まえて、現実の変革を目ざすのだ。(同上 p191)
 こうして花田は柳田と共に、この土台に遡行し、また底辺に沈潜しようとするわけだが、それが常に真の変革と救済を求める姿勢であったことこそ、肝心な点であると思う。
 表現者である花田は、それを特に、芸術表現の問題として考えた。「柳田国男について」の後半は、そのことを論じている。
 昭和13年に刊行された『昔話と文学』から、中世以前の「書かぬ人たち」(民衆)による口承文芸の伝統を称揚する柳田の文章を引用して、花田が主張するのは、前近代における口承文化の価値の再発見が、近代の「活字文化」による支配を超克する、今日の新たな「視聴覚文化」の形成と発展に結びつくであろうという、積極的な見立てである。
 これは、花田がここで言っている現代の大衆的な「視聴覚文化」という言葉から、たんにテレビやラジオのことだけを思い浮かべ、あるいはまた現代におけるITによる出版物の席巻といった事態だけを考えるなら、浅薄な進歩主義者のオプティミズムともとられかねないものだろう。
 だが、花田が強調したいのは、活字やテレビといったメディア(媒体)による支配からの解放ということであり、かつて口承文化においては獲得されていたはずの、表現者と享受者との身体的な相互性の場を取り戻すということなのだ。花田が、一貫して戯曲の上演に強い熱意を傾けた理由は、そこにあるのだろう。
 この対等な、相互的な表現の場が奪われている限りは、どんな表現手段であっても、それは抑圧的なものである。
 この抑圧の構造を打破するような主体性を、われわれ大衆自身が奪取すること以外に、どんな革命や「超克」の方途があるか。これが、その芸術論・表現論においても、花田の言わんとしていることだと思う。
一九五九年三月、「ラジオ東京」で放送された、盲目の子供たちの生活に取材した羽仁進の録音構成『ベソにさわった話』が、受け手にたいして異常な感動をあたえたのは、作者が、盲人に特有の想像力を立体的に展開してみせたからであった。そこでは、われわれが、ベソをかく、というばあいのベソが、オオカミのしっぽを竹ぼうきとしてとらえたような感覚で、すこぶる具体的に、盲目の子供の口をとおして、あざやかに物語られていたのだ。(同上 p200)
 近代につながる支配の構造のなかで抑圧され周縁化されていったものの復権、そして民衆の、国家や支配権力を介しない、自分たちだけで生きて社会を作り上げていこうとする力と道筋(真の「近代の超克」)が、「前近代を否定的媒介とした」新たな「視聴覚文化」の形成という積極的ビジョンを通して探られているのである。
 この「柳田国男について」の最後では、花田は、おそらく柳田の最も優れた批判者だったとも考えられる桑原武夫の著書から、柳田の次のような発言を引用して、注釈を加えている。
 それは、柳田との対談で桑原が、(柳田のような)「明治の学者」には「素朴だがつよいところがある」が、そうしたものはそれ以後の世代にはもはやないと思う、その違いはどこから来ているのだろうと尋ねたのに対して、柳田が、明治初期に生まれた学者は「忠義はともかく、孝行だけは疑わなかった」と言い、その「孝行」というものが、単なる観念ではなく、自分の学費を捻出してくれる為に母親が回している糸車のイメージとして、「現実的な、生きた『もの』」として存在していたからこそ、「つよい」のだ、と答えたという趣旨の話である。
 このやり取りの後で、桑原が、それでも「孝行」というような儒教道徳を現代に復活させることには自分は反対だと述べて、柳田がそれに同意したというくだりを紹介してから、花田はこう注釈を書いている。
むろん、柳田国男が、桑原武夫の説に賛成したのは、当然のことであって、かれは、もともと、儒教の復活などを主張したがっているわけではない。そこでかれのいちばんいいたかったことは、かれが孝行というものを、老いたる母のブンブン音をたてながらまわしている糸車のイメージによってとらえていたということであろう。しかし、わたしには、そのさい、かれが、糸車などをもちださないで、老いたる母のくちからきいた昔話が――たとえば、『親棄山』のはなしなどが、かれに、すすんで親孝行をする気をおこさせ、それが、かれの学的情熱のささえになったといってくれたほうが、はるかにかれの真意をヨリ的確につたえ、桑原武夫にむかって、近代をこえていく道を――つまり、活字文化以前の視聴覚文化と以後の視聴覚文化との関連をとらえるキッカケをあたえることになったのではなかろうかというような感じがしてならない。(同上 p207)
 柳田国男が、「忠義はともかく、孝行だけは」と言った時、そこには国家の論理から民衆の思いを区分して守りたいという、彼の意志の最良の部分が示されているとも考えられる。
 だがイメージが、人に力を与えると同時に、人を思いがけないところに引きずっていく魔力を持つものであることも確かである。つまり、「現実的な、生きた『モノ』」としてのイメージの力が、柳田の意に反して、封建的な道徳の現代での復活という反動をよびおこす危険性も十分にあるのであって、そこに釘をさした桑原の一言は、決して野暮だと言って切り捨てるべきものではないのだ。
 花田はおそらく、それを考慮したうえで、柳田には、「近代主義者」桑原に口承文化という前近代的なものが持つ力の大きさを気づかせてほしかった、と言っているのだろう。それは道徳に回収できるものではなく、むしろ道徳に息吹を吹き込むような奥深い力であろう。
 思想家花田の関心は、社会を土台から変革せしめるような、その民衆の根源的な力に向けられている。
 
2 小林秀雄『無常といふ事』(広坂)
 花田清輝「柳田国男について」には、戦時中の「「近代の超克」の風潮」の例として、小林秀雄「無常という事」が挙げられている。小林秀雄は昭和十七年、『文学界』十月号に掲載された「近代の超克」座談会に出席してはいるが、「無常という事」はそのために書いた文章ではない。しかし、花田が小林の名を挙げたのは、おそらく単なる思い違いではない。同年六月に同じ『文学界』誌に発表された「無常という事」や、前後して十七年中に『文学界』誌に掲載された「当麻」、「平家物語」、「徒然草」、「西行」といった小林の古典文学論は、同時代の空気を吸った花田には「近代の超克」論の一類型として受けとめられたのだろう。いや、それどころか花田は「戦争中、小林秀雄の『無常といふ事』などによって代表される「近代の超克」の風潮」とまで言っているわけだから、花田にとって小林の「無常という事」は「近代の超克」論の単なる一類型にとどまらず、むしろ代表例と見なされている。
 このような花田の「近代の超克」観は、京都学派の哲学者たちを中心に「近代の超克」論をとらえる議論、例えば、廣松渉『〈近代の超克〉論』(講談社学術文庫)とは一見すると大きく異なる。広松は、『文学界』座談会での小林ら文学者たちの発言を「文芸放談会」、「理論的カオス」と手厳しく評している。特に小林については「テオリーとしてはいかにも未定形」、「理論以前的」と容赦がない。しかし、これは広松自身の抱く「近代の超克」という課題に小林の発言がなんら寄与しないからであって、小林の発言自体についての広松の分析的要約は的確だ。花田が小林に「代表される「近代の超克」の風潮」ついては先に引用した以上のことを述べていないので、便法として広松による分析的要約を引用することで、小林自身の、巧いけれども内容の薄い文章を書き写す手間を省くことにしよう。
 広松は小林の発言、「古典に通ずる途は近代性の涯と信ずる処まで歩いて拓けた様に思ふ」、「ほんたうに創造的立場といふものは新しいものは要らん立場」、「歴史を常に変化と考へ或は進歩といふやうなことを考へて観てゐるのは非常に間違ひではないか…。何時も同じものといふものを貫いた人がつまり永遠なのです」などといった発言を引いて次のように評する。
 不変なもの、歴史性を超えるものといっても、それは絶対的な実体ではなく、むしろ、永遠の今とでもいうべき或るものへの覚醒と回心が事の核心をなしているように見受けられる。これは勿論ヨーロッパ人が神的な絶対者を再発見する図式に押込んで理解されてはならないであろうし、また、仏教的な悟入と呼ぶことも適切ではあるまい。それは、まさしく「近代性の涯と信ずる処まで歩いて拓けた」「古典に通ずる」境地としか表現仕様のないような心態である。(広松、『〈近代の超克〉論』講談社学術文庫、200頁)
 こうした広松の分析的要約は、「無常という事」の「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」という言葉に代表される小林の歴史観、伝統観、時代観に一致するように思われる。広松は小林の発言が理論的でないことをもって、検討に値しないような口ぶりで評し、実際、小林ら文学者の言説の分析には多くの紙幅を割くことなく、もっぱら京都学派の「世界史の哲学」の検討に精力を注いでいるのだが、しかし、だからこそ、広松とは異なる関心で「近代の超克」というテーマをとりあげようとする場合には、小林の批評文学に思い入れのない広松の、第三者的な、対象を突き放した視点からの評価が参考になるだろう。
 歴史は動かないというのは、史実という意味であれば、これは当然のことだ。史実がたびたび変わるようでは、現在が成り立たない。変わるとしたら、歴史の意味の方である。歴史の意味は、現在を生きる人間の解釈によって変わりうる。小林はこれを拒絶した。歴史が解釈を拒絶したのではなく、小林が拒絶したのである。この点で、「永遠の今とでもいうべき或るものへの覚醒と回心が事の核心をなしている」という広松の評は言い得て妙である。この「永遠の今とでもいうべき或るもの」とは何か。広松は「ヨーロッパ人が神的な絶対者を再発見する図式に押込んで理解されてはならないであろうし、また、仏教的な悟入と呼ぶことも適切ではあるまい」という。
 小林が「無常という事」を書き、「近代の超克」座談会に出席した昭和十七年は、前年十二月の日米開戦、真珠湾奇襲攻撃の成功という歴史的瞬間の余韻にまだ浸っていられた時期、続く太平洋戦争の緒戦の勝利に大日本帝国が沸き立っていた年だ。
 昭和十七年一月に『文芸春秋』に発表された「三つの放送」と題する小林の文章は、日米開戦の報に接した気持ちを書いたものである。それまで、昭和十六年四月から日米交渉の行方をやきもきしながら見守ってきたが、「一体本当のところどんな掛け引きをやっているものなのか、僕等にはよく解らない」ものだから「僕等凡夫は、常に様々な空想で、徒に疲れている」、「その為に僕等の空費した時間は莫大なものだろう」と、半年以上も「便秘症患者」のような気持ちでいたわけだが、「それが「戦闘状態に入れり」のたった一言で、雲散霧消した」という。
 何時にない清々しい気持ちで上京、文藝春秋社で、宣戦の御詔勅奉読の放送を拝聴した。僕等は皆頭を垂れ、直立していた。眼頭は熱し、心は静かであった。畏多い事ながら、僕は拝聴していて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるという自信が一番大きく強いのだ。(中略)僕は爽やかな気持ちで、そんな事を考え乍ら街を歩いた。(『小林秀雄全作品14』新潮社、130頁)
 この文章は、小林の「永遠の今とでもいうべき或るものへの覚醒と回心」(広松)の性格をよく示している。歴史への介入の断念である。それも単なる諦念ではない。開戦という人為に対する諦念であるから、好むと好まざるとにかかわらず自分が歴史に関与していることの忘失である。
 このように考えてみると、花田清輝の言う「小林秀雄の『無常といふ事』などによって代表される「近代の超克」の風潮」がどういうものか、戦争中の、「近代の超克」の風潮を、どのような意味で小林秀雄の『無常といふ事』などが代表しているかがわかってくる。小林は人間が歴史的存在であることを便秘が解消したようにスッキリと忘れた。そうして、さわやかな気持ちで権力に服従したのである。
 さて、花田の言う「近代の超克」、「前近代的なものを否定的媒介にして、近代的なものをこえようとする進歩的態度」が少なくともどのようなものではありえないかを確認したところで、小林秀雄への言及を花田自身の文脈に置き直そう。
たとえば戦争中、小林秀雄の『無常といふ事』などによって代表される「近代の超克」の風潮に抵抗して、近代をまもるために、『光をかかぐる人々』をかくことは、戦後になって、近代の顕彰につとめた『近代文学』一派の仕事などにくらべると、段ちがいに困難な仕事だったのである。(花田、前掲書)
 徳永直『光をかかぐる人々』は、幕末から明治にかけて活字の導入と普及に尽力した本木昌造という人物を軸に日本の活版印刷の歴史を描いた小説である。この作品によって徳永は「日本印刷史の黎明をとりあつかい、文字どおり、あたらしい活字文化の創造のために奮闘したのだ」。「活字文化とともに、近代がはじまる」(花田)。徳永の小説の題名に掲げられた「光」とは近代啓蒙の光のことであろう。ここからは花田は戦前戦中のプロレタリア作家の「近代をこえようとするようなポーズ」は、「ポーズ以外のなにものでもなく、かれらの視野は、大部分、近代だけにかぎられていた」。つまり、彼らは実質上、近代主義者であったけれども、小林に代表されるタイプの「近代の超克」への抵抗としては意味があったと評している。
 それに比べるなら、戦後の近代主義、花田自身も同人であった『近代文学』派の文学者たちが戦後にしたことといえば「単純な文化反動」であって、戦前戦中のプロレタリア作家たちの「困難な仕事」の相対的進歩性に対して、相対的に保守的であると花田は断じる。本稿では、戦前戦中のプロレタリア文学について、また、戦後の『近代文学』派の作家たちの活動についての花田の批評が当たっているかどうかを検討する余裕はない。それよりも、花田の批評の構えに注目したい。
 花田は、プロレタリア作家についても、戦後の『近代文学』派についても、歴史的状況のなかで相対的に評価している。「近代性の涯と信ずる処まで」到達したと小林が自惚れた時期に、「近代をまもるために」啓蒙の物質的基礎である活版印刷の先駆者を描いた徳永の近代主義には相対的進歩性を認める。この花田のスタンスは、「戦後レジームからの脱却」などというイカサマの「近代の超克」がのさばっている現代でも有効な視点だろう。
 しかしそうだとすると、現代の私たちも、かつてのプロレタリア作家よろしく、近代の理念の称揚に専念した方がよいのだろうか。ここで近代というものの内容が問われてくる。例えば産業の合理化・効率化という意味での近代化であれば、それこそ「近代性の涯と信ずる処まで」達したように感じられる。もう十分だという人もいるだろう。それをさらに推し進めようとしているのが悪しき近代主義たるネオリベラリズムである。一方で、社会の民主化という意味での近代化は達成というには程遠い。戦後改革によってめざされたもののいまだ達成されていない近代化を放棄するのは、イカサマの「近代の超克」である。このちぐはぐさは戦前の日本でもすでに意識されていた。それを明治以来の和魂洋才路線で片づけようとしたのが戦中の「近代の超克」であるが、現代の「戦後レジームからの脱却」はその劣化コピー以下なのだから始末に悪い。このちぐはぐな時代状況において、花田の提唱する「前近代的なものを否定的媒介にして、近代的なものをこえようとする」近代の超克を現代において受けとめるとどうなるかが本稿の課題である。
 
 
3 再び、「柳田国男について」(岡田)
 ここで再び、「柳田国男について」に立ちもどって考えたいのだが、その前にひとつ書いておきたいことがある。それは、次のようなことだ。
 最初期の『復興期の精神』以来、つねに花田が現実的であり重要と考えるのは、関係とか集団とかいうものであって、内面は、そこから派生して来るものにすぎないとされる。しかも、その場合の関係や集団というのは、何らかの活動を共に行うときにのみ存在するといってもよいものであり、むしろ重要なのは、その共同的な活動の方なのだ。
 ここは大事な論点なので、「柳田国男について」から離れることになるが、一例として同じ『近代の超克』に収められた「検事側の証人」というエッセイの中から、短い断片を引用して傍証としておこう。
しかし、わたしにとっては、愛情などというものはどうでもよかったのだ。わたしの独断によれば、人間と人間とをむすびつけるものは、かれらのあいだにみいだされる共通の課題であり、仕事であり、運動であった。あるいは運動の過程において、愛情もまたうまれるかもしれない。しかし、それは、あくまで運動の副産物であって、人間と人間とをむすびつける根本的なモメントではないような気がしてならなかった。(『花田清輝著作集 W』未来社、p34)
 この意味で花田の思想は、個人の内面を基礎的なエレメントと見なす近代主義とも、慣習や制度の力によって持続する関係や集団を実体と見なす共同体主義とも、違ったものである。
 実を言うと、戦後のある時期までの花田の議論には、当時の日本の多くの左翼思想家たちと同じく、サルトルの強い影響が感じられ、集団と個人との関係については特にそう思うのだが、とはいえこうした考え方は、もともと思想家花田清輝の根底にある人間観・社会観から発しているものでもあるのだろう。
 さて、先にも少し触れた、農村の協同組合運動についての柳田の態度を評価する花田の文章は、最近柄谷行人もその『遊動論』(文春新書)のなかで詳しく取り上げたものだが、ここで再び注目してみたい。
 小作農たちの伝統的な互助組織を、組合運動による農村の変革の中で生かしていこうという柳田の提言に関して、花田は次のように述べている。
(柳田は)ここでもまた、農村における前近代的な協同の在りかたを否定的媒介にして、産業組合と農民組合とを打って一丸とするようなあたらしい組合の在りかたを――超近代的な組合の在りかたを考えているのだ。(同上 p191)
また、柳田史学と柳田民俗学との関連について、
たとえばそこでは、ユヒだとか、モアヒだとかいったようなわが国古来の慣行が、それら自体のためにではなく――いわんやそれらを復活するためにではなく、現在の組合を止揚して、あたらしい組合をつくりあげるための手がかりをつかむためにだけ、熱心に問題にされているのである。(同上 p191)
 ここからうかがえることは、花田は、柳田の学問を、農村に新しい関係性、おそらくは真に対等な(非権力的な)関係性の場を実現するための思想として見ている、ということである。柄谷行人も強調していたように、花田は「経世済民」の思想家としての柳田にスポットを当てたわけだが、ただ、それが特に農民たちの共同的な生活実践のあり方の問題として捉えられていた点に、ここでは注意したいのである。
 その共同的な実践とは、柳田の言葉を借りれば、『村で互いに助けあって辛うじて生きてきた事実』というようなものである。この「事実」を見ようとしない近代主義的・啓蒙主義的態度に憤る柳田に、花田は強く共感する。
 だが花田にとっての、その共同性や関係性の眼目は、あくまでそれが貧しい者、困窮している者同士の、非権力的・非依存的な実践であるというところにあったのではないかと思う。つまり、それは外部の権力や、その転化としての共同体内部の権力的構造といったものから自由な、その意味で自立した、民衆の連帯や関係性を指向するものだった。
 そのような関係性の場は、農村をはじめとする日本の従来の社会の中にも、現実にはほとんど存在しなかったと考えられるし、また西洋社会や近代化された都市の社会にも、同様に見出し難いものである。
 花田は、その困難な関係性の場を創出する未曾有の可能性を、「土台」を保持しつつ変容させることに賭けたのだ。これがつまり、花田の目指した解放というものの、したがって近代の超克というものの、内実だと思う。
 そして、この「超近代的」と花田が呼ぶ、対等な関係性の場を希求し実践したという点において、おそらく花田は柳田の思想とは、根本的に相容れない面があったはずである。
 柳田もたしかに、「経世済民」の志を持つ人であり、その観点から、日本の前近代と見なされるもの、たとえば農民たちの互助組織や、あるいは口承文化といったものを擁護して、それらが軽視されたり忘れさられようとすることに憤った。
 だが、柳田が前近代を擁護したのは、そこに、破壊と同時に解放をもたらす力でもある啓蒙の運動を拒絶する根拠が見出せると思われたからではないか? 彼は、軽侮される民衆(常民)のために怒ったのではなく、常民の存在によって保証される、彼自身の世界観が毀損されることに怒りの声を上げたのだ。柳田は、心から常民を愛したであろうが、その人々の自由を真に認めることが出来たかどうかは疑問である。
 では、花田の立場はどのようなものか? そのことを、同じ『近代の超克』( 『花田清輝著作集 W』)の中に収められている、「原子時代の芸術」というエッセイを手がかりにして考えてみたい。
 
4 花田清輝「原子時代の芸術」(岡田)
「原子時代の芸術」は、いま読むと、「柳田国男について」以上に問題含みの論考なのだが、それでも、思想家花田の基本的立場を知るうえで、たいへん重要なことが書かれていると思うので、あえて紹介するのである。
 ここでは、花田は丸木・赤松(丸木夫妻)の「原爆の図」や、阿川弘之、大田洋子らの原爆体験を描いた小説を例にあげて、日本の芸術家たちが描く「原子時代」(核の時代)のイメージが、前近代的な表象から脱しておらず(「原爆の図」については、被災者たちの姿が応挙の描く幽霊のように描かれている、と批判する)、自分の内面世界を厳しく見つめようとする意志に欠けていることを批判する。
 さらに、より大衆文化的な例として、花田は映画『ゴジラ』をとりあげ、そこには『原爆や水爆の直接の被害者の呪詛、怨恨、諦観、そこからうまれる厭戦的な気分が、はっきりにじみでている』(同上 p247)と書き、それを「アニミズムや仏教的諦観」に支配された「日本的ニヒリズム」と呼んでいる。
 それは、原爆を投下したアメリカのSF映画が、加害国の優越感や、核技術と科学の発展に対する底なしのオプティミズムを漲らせているのに比べれば、まだしも理解できるし、尊重されるべきものではあるが、決してそのままの形で放置しておいてよいようなものではない。この「日本的ニヒリズム」を克服することこそ、花田の課題とされるわけだが、その方法として彼が述べるのは、このニヒリズムの単なる否定ではなく、むしろ「アニミズムや仏教的諦観と絶縁したニヒリズム」の獲得ということなのである。
 彼はここで、「誤解をおそれずにいうならば」と前置きして、原爆投下直後に被爆地で治療を行わずに報告書作成のための調査を行った、アメリカの出先機関A・B・C・C(原子爆弾被害調査委員会)の没価値的な態度のなかに、学ぶべきものがあると述べる。
いや、じつをいうと、現在、わたしは、日本人のニヒリズムが平和運動によって、オプティミズムにではなく、アニミズムや仏教的諦観と絶縁したニヒリズムに――誤解をまねくことをおそれずにいうならば、A・B・C・Cの医者のもっているであろうようなニヒリズムに、しだいに切り換えられてゆくことに、もっとも大きな期待をかけている。厭戦的な気分から反戦的な気分への移行、平和運動への積極的参加、そのなかで経験するさまざまな困難、絶望――といったような過程をへて、日本人のニヒリズムが変質してゆき、原爆や水爆の威嚇に直面して、冷然と対抗しうるような筋金のはいったものになることに希望をつないでいるといえば、いくらかわたしのいおうとする真意がわかってもらえるかもしれない。(『花田清輝著作集 W』未来社 p249〜250)
 花田の場合、最も基礎的なエレメントとされるのは、共同的な活動であって、個人の内面とか共同体の紐帯や心情といったものは、その活動の副産物として初めて生じると考えられていることは、既に書いた。
 ここでは、「平和運動」が、そうした民衆の共同的活動の具体例であり、そこへの「積極的参加、そのなかで経験するさまざまな困難、絶望」を通して、人々の社会的な心理が変質していくことが期待されている。すなわち、「アニミズムや仏教的諦観」に類する、いわば諦めのニヒリズム、隷属の思想といったものから、原水爆の「威嚇」に屈しない「筋金入りの」抵抗のニヒリズムへの、いわば日本の民衆の心理的「土台」をなしている考えられるニヒリズムそのものの変容である。
 ここでは特に、核兵器による惨禍が、本質的には政治権力の「威嚇」として捉えられていることに注意したい。たとえば、原爆投下による被災者(被爆者)たちの姿を「幽霊」の姿で描いてしまう「原爆の図」が示しているのは、「威嚇」に直面して権力の思うままに、前近代的な情緒に閉じこもり、抵抗を諦めてしまう人々のあり様である。
 無論、戦災や被曝という体験が、政治権力の次元だけで捉えられるものでないことは確かであろうが、花田がここで問題にしているのは、情緒や気分といった内面的な回路を通して、人々が権力の思いどおりに操られてしまうメカニズムなのだ。それは、映画『ゴジラ』の画面ににじみ出ている「原爆や水爆の直接の被害者の呪詛、怨恨、諦観、そこからうまれる厭戦的な気分」と同様のものである。
 そういう、作り上げられた内面の回路が、政治権力の「威嚇」による支配・操作に対して、人々を無力にしている。この回路を、花田は「日本人のニヒリズム」と呼んでいるわけで、しかもその心理を、通常の啓蒙主義者のように外から否定してすませるのではなく、むしろそれを「土台」と捉えたうえで、その変容という仕方で(近代的オプティミズムと日本的ニヒリズムからの二重の)「解放」を実現しようとするところに花田の真骨頂がある。
 それは、このニヒリズムを、いわば手持ちの武器として、支配権力に差し向けるということだが、そうなるために必要なのは、具体的な共同行動の、すなわち運動の実践であり、その中ではじめて、人々は支配権力の「威嚇」に左右されない、抵抗の精神的基盤といったものを手にすることが出来るだろう。
 ところで、花田がここでとくにA・B・C・Cの例を持ち出しているのは、作り上げられた「感性」を通して人々を操作し、支配を貫徹しようとする「威嚇」的な政治権力に対して、あくまで「知性」を武器として闘うことが、民衆には、もっと直截にいえば、「殺される者」の側には肝要だということを、強調したいためであろう。
 情緒やヒューマニズムといった、いわば主観的なもの、感性的なものは、おうおうにして支配権力の格好の道具となる。その傾向は、中世やルネッサンスの社会よりも、むしろメディアとネットが幅をきかせる今日の社会において甚だしいといえる。とりわけ、テレビやネット空間では、大量に流通する数字や画像が強烈な効果を発揮し、そこでは感性が変えられてしまうというよりも、根本的に別個のリアリティを持つ現実が、感性の部分に作り上げられ根を下ろしてしまうと言ってよいほどだ。現在の社会では、そのようにして作り上げられた人工的な感性の領域を通して、政治権力が人々を支配し操る仕組みが完成され定着しつつあるのだが、花田が当時予見し、対決しようとしていたものは、このメディア社会の新たな政治的様相だったのではないかという気がする。
 感性やメディアということに関して一言すると、テレビの普及などのメディア状況に対する花田の見方というのは、決して単純な視聴覚文化礼賛ではなく、受け手である大衆の主体性を重視し、前近代の文化においては実現していたと思われる「相互交通」性を取り入れた、新たな平等的・民衆的な表現手段を構築していこうとするところに、その主眼があったと思われる。それは、テレビという「一方交通」のメディアによる、政治的・人工的な感性の植え付けに対する抵抗という性格を強く持つものであって、経済成長を経て高度消費社会へと進む過程においてひたすら大衆の受動的な感性を肯定し続けた、論敵の吉本隆明とは、この点でも著しい対比をなしているといえるだろう。
 この「感性の論理」に対し、おそらく、この文章での花田の主張は、その強力かつ巧妙な支配に対して、核兵器や空爆で殺され、威嚇される者、あるいはまた、統治の論理の下に見捨てられて死んでいくことを当然とされるような者たちは、暴力による、無謀というよりは、敵に相似的であるという意味で根本的に微力な対抗の道を選ぶのでなければ、知性という数少ない手持ちの道具を有効に用いることを考えるべきだ、ということである。
 知性の使用とは、感性という権力側に有利な回路に対する、最大限の慎重さを伴うものだ。われわれは、感性を自分たちのものとして守りぬきたいのであればなおさら、権力の思いのままに感性的になることに、出来る限り用心深くなければならない。
 だがいったい、その武器としての「知性」というものは、「外からの啓蒙」のようなものであってはならないとするなら、どのようなあり方をしているのだろうか。
 上の引用文のすぐ後で、花田は、平和運動に専心するヒューマニストたちに次のように注文をつけている。
現地報告にあらわれている広島や長崎や焼津の市民たちの冷静さはいままでもかれらが、無告の代弁者をもって自任しているヒューマニストたちに、敬意と同時に侮蔑の念をいだいていることをしめしている。ヒューマニストたちは、このような市民たちの冷静さを、いちがいに否定せず、逆にかれらの冷静さに学び、その冷静さを、一段と高い次元において生かすことを考えるべきであろう。換言すれば、このことは、ヒューマニストたちがみずからの道徳的な価値判断を、できるだけ排除し、もっと実証的になり、具体的現実を、あるがままにとらえようとつとめることを意味する。とくにわたしは、そのさい、かれらが、おのれの内部世界に、無慈悲な視線をそそぐことを願わないではいられない。(同上 p250)
「おのれの内部世界に、無慈悲な視線をそそぐ」とは、自己の内面にある、支配者、権力者の思考に同化した悪しき「ニヒリズム」の、つまり隷属する者の心情を棄てる、ということであろう。
 いや、そういう心情を維持するための政治的装置としての「内面」そのものを棄て去り、殺される者、国家や権力に切り捨てられ、あるいは使い捨てられる者としての、何ものにも隷属しない心情を、抵抗の活動のなかで、他者たちと共に勝ち取っていくということを、この花田の言葉は意味しているのであろう。
 つねに統治する側の視線に一体化し、どこかに政治的ニヒリズムを秘めていたと思える柳田の思想に対して、花田の基本的な立場は、威嚇され、操作され、戦時においても平時においても「殺される」側にある民衆の、非権力的で自立的な関係の場を作り出そうとする方向のうちにあったといえる。
 だが、その際、花田が抵抗の武器として選ぶのは、日本の民衆の「土台」としての「ニヒリズム」、上で言うところの「ヒューマニストたちに、敬意と同時に侮蔑の念をいだいていることをしめしている」と思われる、市民たちの「冷静」な態度である。実はこれが、花田にとっての「知性」の現われなのではないかと思うのだ。
 それは、歴史の中で虐げられ続けてきた民衆の眼差しであり、思想である。それは「原爆の図」に描かれた被災者の姿がそれに似ているという応挙の描く「幽霊」とは、いわば階級的に異なった、もう一つの(民衆的な)前近代の実像である。これこそが、花田が内在的な解放(啓蒙)の契機として見出した、肯定的な「前近代」の核心だったのではあるまいか。この、もう一つの幽霊の冷徹な眼差しは、一個の確実な武器として、抑圧的な政治権力の具と化したヒューマニズムや感性を撃つのである。
 付言すれば、「柳田国男について」でも、昔話や羽仁進制作のラジオ番組に示された前近代的な文化の内実が、ヒューマニズムの論理との鋭い対立を感じさせることは印象的である。上の引用文に言う「道徳的な価値判断」の排除という要請は、この意味での(民衆的な)前近代の論理の導入が、政治権力への抵抗や、社会変革のために必須だという考えから来ているのだろう。
 だがしかし、この市民(大衆)自身が、歴史の中で抵抗の運動という実践から離れてしまうなら、「幽霊」ははたちまちその威力をなくして消失し、のっぺりとした自足的な感性の膜が人々をすっかり包みこんでしまうであろう。そして、このように解放の契機を剥ぎとられた「前近代」は、単なる封建的秩序のための道徳へと堕落し、人々の元に回帰してきて支配するようになるだろう。そのとき、それが元来有していた超道徳性は、この秩序の維持のための道具に変質し、その暴力性は、支配層の論理に合致する場合に限って、道徳的価値判断の圏外に置かれることになるだろう。
 これ以後の日本社会は、残念ながら、その方向に向かったのである。
 
5 附記(広坂)
 花田清輝が「近代の超克」という言葉を意図的に使いだしたのは、いわゆる『笛吹川』論争からのようだ。深沢七郎『笛吹川』の評価をめぐってなされたこの論争は、寺田透・花田清輝・平野謙の三者による鼎談「創作合評『笛吹川』」(『群像』1958年六月号)だが、筆者(広坂)は最近までその内容を知らなかった。本稿作成後、『KWADE道の手帖 深沢七郎』(河出書房新社)に転載されているのを見つけたので、ここに感想を追記しておく。
 この鼎談はタイトル通り、深沢七郎の小説『笛吹川』の評価をめぐって寺田・花田・平野が議論をしている。もっぱら花田が『笛吹川』を積極的に評価し、平野がそれに疑義を呈するかたちで進行しているのだが、論争というほど切迫した雰囲気は感じとれない。「非常にこの作品には感動した」という花田が、ギリシア悲劇やニーチェの永劫回帰まで持ち出して「非常にメタフィジカルなものを感じました」と、いささかはしゃぎ気味に絶賛するのに対して、平野が「ずいぶん買ったな花田さんは」「花田流の深読みをしているんだよ」とからかい、「花田さんは一つの昔ばなしとしてこれを読めというんですよ」と寺田に言われた花田が「民話のもっている二十世紀的な性格、それを意識してとらえているのじゃないかということです」と見得を切るというような流れになっている。
 そして、鼎談の末尾には、平野と花田による次のような「附記」が書き足されている。
平野附記 花田清輝の評価を聞いていて、私は戦時中の「近代の超克」という討論を思いだしたが、それについて言及する暇がなかったので、ここに一言附記しておきたい。
花田附記 私の「アヴァンギャルド芸術」は、この作品あたりからはじまる。戦争中から戦後へかけて、私は終始一貫、「近代の超克」を意図している。
 当時、「近代の超克」とは、竹内好が書き留めているように「戦争とファシズムのイデオロギイを代表するものとして」「悪名高き」言葉だった(竹内『近代の超克』)。だから、当然、平野の評は花田の議論を否定的にとらえたものだ。それに対して、花田は開き直ったかのように悪名を引き受けて見せている。売り言葉に買い言葉といえばそれまでだが、花田には相応の覚悟があったはずだろう。
 しかし、『近代の超克』所収の「二つの絵」では、次のように平野の無理解を嘆いている。
太宰治を論じた「二十世紀における芸術家の宿命」のなかで、わたしが、原始芸術や封建芸術によって、近代芸術をアウフヘーベンする方法についてかいたのは、すでに十数年前のことであるが――そして、それ以来、わたしは、しつこくそのことをくりかえしてきたのであるが――しかし、たとえば昨年、「群像」の合評で、同じ観点から深沢七郎の「笛吹川」のプラス面をみとめたら、平野謙は、わたしの言葉から、戦争中の「近代の超克」という討論をおもいだしたというのだから、絶望のほかはない。
 ちなみに花田の太宰治論とは1947年刊行の『錯乱の論理』に収められたもので、花田によれば、戦後間もなく、ほかならぬ平野謙に煽動されて書かされたものだという。それはともかくとして、花田の近代の超克が、平野の連想したような日本浪漫派や小林秀雄のそれとは異なるものであることはすでに見たとおりだ。
 しかし、花田流「近代の超克」には、平野のいだいた危惧とは異なるが、やはりある種の危うさがないわけではない。その第一は近代を超克する志向性に関わる。
 今から半世紀以上も前、花田清輝は単行本『近代の超克』(未来社)の「あとがき」で「近代の確立していないところで、近代の超克を説くとは矛盾している、といったような古い歌にはききあきた」と言い放った。しかし、「古い歌」はその後も歌われたし、そのたびに「ききあきた」という声も繰り返された。そして今また「古い歌にはききあきた」という声が高まっているが、その声の主は花田が否定した似非「近代の超克」の劣化コピーである。「近代の超克」とは、それだけ扱いの難しいテーマだとも言える。未完のプロジェクトとして達成すべきよき近代と、超克すべき悪しき近代とが判然と見分けられるのか。その上、ある時代を超克するという発想そのものが、そもそも近代的な性格をもつのではないか、と自問したりもする。しかし、ここで立ち止まってしまうと悪しきニヒリズム、諦めのニヒリズムにおちいることになる。だから、超克はあえて試みられなければならない。その試みが現代の無反省な肯定を回避するための迂回路になりうるだろうと期待しつつ。
 もう一つの懸念は、花田が、少なくとも「柳田国男について」では、柳田の常民の民俗学に寄りかかっているように見えるところだ。これは花田の直接の関心である深沢七郎の小説『楢山節考』と『笛吹川』の登場人物たちが農民であったため、農民を基準に構想された柳田の常民概念にうまく当てはまったからだろう。
 柳田民俗学の「常民」の属性について、宮田登は次のように指摘していた。
まず定着農耕民であったこと、具体的には近世封建社会下の村落内にあって、土地持ちのいわゆる本百姓に比定される存在だった。土地を持ち、それを耕し安定した日常生活を営むことが、そのまま一つの文化体系を形成したといえる。後世この「常民」が実体概念を離れた時、日本文化の中で日常生活体系全般を包括する文化概念となったのであるが、その基礎にあった理念はあくまで前提にある。(宮田登『日本の民俗学』講談社学術文庫、50頁)
 定着農耕民を常民の標準とするなら、近代以前、特に近世の日本列島でのマジョリティであることは確かとはいえ、数としても決して少なくないさまざまなマイノリティを排除することになる。ざっくり言えば、職人や芸人、運輸・通信業者や狩猟民といった人びとがすっぽり抜け落ちてしまうか、せいぜい常民社会にとってマージナルな存在として位置づけられるかだろう。常民社会のなかにあっても、小作農や、下人と呼ばれた大きな農家の使用人も同様となる。
 もちろんこれは「常民」を実体概念として狭く見た場合のことであって、そこから離れて広く受け取ることもできる。例えば鶴見和子は、誰が常民かは「相対的な度合のもんだい」だとして、柳田自身が取り上げた対象を挙げている。
サムライの支配した社会では、農民が、都会人中心の文化では農村人が、男性に対しては女性が、おとなに対しては若者および子どもが、そして本州人に対しては離島、とりわけて沖縄の人々が、柳田学で主役を演ずる常民である。(鶴見和子『漂白と定住と』ちくま学芸文庫、17頁)
 このように、標準の軸を、より抑圧される側、より周縁化される側にずらし続けていくなら、なお大塚英志が『「伝統」とは何か』等で指摘した山人排除の問題は残るにしても、常民概念の範囲は広がるだろう。
 しかし、なお疑問は残る。花田の議論の三つ目の難点である。「柳田国男について」は次の文で締めくくられている。
「楢山節考」は、〈中略〉わが国古来の民間説話である「親棄山」のそのままの復活ではないかとわたしはおもう。なぜなら、そこでは、柳田国男のいわゆる「孝行という考え」が、無条件的に肯定されているからである。
 事実として、『楢山節考』は「わが国古来の民間説話である「親棄山」のそのままの復活」ではない。柳田国男『村と学童』所収の「親棄山」によれば、息子が老親(たいてい老母)を山に捨てに行く民話は、日本国内に四系統伝わっており、そのうち一つは中国伝来の儒教的なもの、二つ目は仏典に典拠のあるもので、あとの三つ目と四つ目が「わが国古来」のものだろうとされている。そして、国産品のうち四つ目がより古いものと推定されているが、それは深沢『楢山節考』と決定的に異なる点がある。「孝行という考え」の是非ということではない。単純に結末が違う。
その母が子の背に負われて居て、路々左右の木の小枝を折って行く。又は草を円めて棄てて行ったとも、或は芥子の種子を少しづつ播いたともいう処がある。どうして其様なことをなさるのかと息子が尋ねると、おまえが還って行くのに路に迷わぬように、栞をして追いてやるのだと答えたので、親の慈愛に深く感動してしまって、何が何であろうとも、この親を山には残して置けないと、再びその場から連れて戻って以前にもまさる孝行をしたという、至って短い話だったようである。(柳田、前掲書、引用にあたり仮名遣いを変えた)
 息子は山に捨てに行った老母を連れて帰るのである。このタイプの話だけではなく、柳田によれば四種類の親棄山は、実はどれもハッピーエンドで終わる。だから、村の掟に従って老母を山に置き去りにして帰り、雪が降ったので母は飢えずに(凍えて)死ぬだろう、それがせめてもの幸いであったというふうに終わる『楢山節考』は、近代ヒューマニズムへのアンチテーゼとして深沢が打ち出した、それ自体すぐれて近代的なストーリーだととらえる方が順当だ。それを「わが国古来の民間説話である「親棄山」のそのままの復活」とするなら、その解釈は、まさしく「花田流の深読み」であって、恣意的とのそしりを免れまい。とはいえ、花田の真意を忖度すれば「創作合評『笛吹川』」での発言にもあるように、前近代の民話の現代的なとらえ返しということを言いたかったのだろう。
 もともと花田の「近代の超克」構想は、なにも深沢七郎の小説の評価に限定されて唱えられたものではない。花田は、「笛吹川」論争以前から、「近代の超克」座談会のことではなく近代の制約の乗りこえとしての近代の超克を意図していた。たとえば1957年に刊行された『乱世をいかに生きるか』所収の「魯迅」では、中国の神話や伝説を題材にして『故事新編』を書いた魯迅について、「前近代的なものを否定的媒介にして、近代的なものを超える方法についておもいをこらしたのだ」としている。
そのためには、なによりも伝統と断絶しなければならない。ナショナルなものを、インターナショナルな観点から、みなおしてみなければならない。そして後進国の人民を、がんじがらめにしばりあげている伝統の桎梏を、逆にバリケードに転化しなければならない。(花田『乱世をいかに生きるか』山内書店より)
 この「魯迅」における花田の議論は、山村の農民の生活世界を舞台にした深沢七郎の小説を意識して書かれた「柳田国男について」とは、やや趣を異にしている。伝統との断絶、ナショナルなものをインターナショナルな観点から見直すということは、必ずしもここで論じている対象が魯迅の『故事新編』だからではなく、例えば、本稿4がふれている「原子時代の芸術」では、鶴屋南北の「四谷怪談」もピカソがアフリカの芸術に対したように見るなら云々とある。「前近代的なものを否定的媒介にして、近代的なものをこえようとする」構想は、花田の書き遺したテクストの歴史上の制約にかかわらず、むしろ、私たちの時代の制約のなかでその有効性をあらためて検討すべきであろう。

★プロフィール★ 岡田有生(おかだ・ありお) 1962年生まれ。男性、独身、親と同居。プロフィールに書くようなこともなく現在に至る。ブログ:Arisanのノート
広坂朋信(ひろさか・とものぶ)1963年、東京生れ。編集者・ライター。著書に『実録四谷怪談 現代語訳『四ッ谷雑談集』』、『東京怪談ディテクション』、『怪談の解釈学』など。ブログ「恐妻家の献立表」
Web評論誌「コーラ」25号(2015.04.15)
<前近代を再発掘する>第1回:花田清輝の「近代の超克」について(広坂朋信/岡田有生)
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