「いひいだす」ランガージュの力とともに垂直方向に立ちあがった詠歌主体の「孤心」=“鏡”──それは、「物」(見るものきくもの)という“鏡”と同じ、実在性(リアリティ)の水平的次元に属する「心」(世の中にある人が心におもふこと)でもある──が、和歌の詞、すなわちかな文字としての「ことの葉」がかたちづくるもう一つの“鏡”(言語世界)を介して分岐し、複線化する。
それと同時に、和歌の詞とそれが喚起するイメージそれ自体も分岐・複線化していく。そして、心と詞とイメージと共に、詠歌主体(ペルソナ)もまた、合わせ鏡となった二つの“鏡面”(心と詞)に反射し、無限の“鏡像”として分岐・複線化していく。
前々章で貫之歌「影見れば」をめぐる大岡信の指摘を取りあげた。いま一度、今度はそのオリジナルな議論を引いておきたい。貫之現象学をめぐる私自身の考察の出発点を、改めて確認するために。
著者は、この美しい仮説を、世阿弥能(「養老」「野守」「実方」「井筒」等々)と貫之歌(「袖ひぢて」「掬ぶ手の」「手に掬ぶ」「影見れば」等々)の列挙と相互の「交響」の事例の分析を通じて実証し、さらに、両者の「舞童」としてのキャリアの類似点に説き及び、最後に次のように括っている。
《一般的にいって、舞人としての演劇的体験は、明晰な合理主義精神の内部を通過することにより、見つつ・見られる演劇的知として精錬されてくる場合がある。
演劇の現場では、観客に見られ、役者がそれを見返すという相対的地平がすべてである。見つつ・見られる関係性を生き、これを鋭く意識する精神は、この関係性の象徴としての「水鏡」にも親しみ、こだわるであろう。貫之と世阿弥がそれである。
貫之はまた、女の筆に仮託して『土佐日記』を書いた。世阿弥も、女性を演じる俳優であり、代表作「井筒」では、男優が女を演じ、その女が男装して水鏡するという、幾重もの性の反転のしかけがめざましい。このような反転する性の感覚への親しさも、水鏡や水に映るイメージの愛好と深くかかわりあうものであろう。》(岩波現代文庫『宴の身体』250頁)
■貫之現象学と鏡・承前
★パラレル・ワールドと並行世界(第15章、第16章、第45章5節註参照)
本稿第16章1節を、若干編集加工のうえ“自己引用”する。
……貫之が詠んだ「二つ来ぬ春と思へど影見れば水底にさへ花ぞ散りける」について、神田龍身氏は次のように論じていました(『紀貫之──あるかなきかの世にこそありけれ』)。いわく、ここでは、パラレル・ワールドのごとくに、二つないものがもう一つあることの驚きが歌われている。貫之は、屏風絵に描かれた実像(岸辺に散る桜)と鏡像(水面に映じた桜)との間、いいかえると、まこととまことならざるものとの間で戯れているのだと。
これに対して山田哲平氏は、この歌には現実世界と、これに並行して存在するもう一つの自立世界が出現していると論じます。そして、貫之は、水面に映る鏡像がたんなる視覚上の写像ではなく、そこから全く別の世界が開いていることを明らかにするため、「水面」に替え、あえて奥行きを感じさせる「水底」という語をもちいたのだと(「日本、そのもう一つの──貫之の象徴的オリエンテイション」(『語りのポリティクス』)。
共通するのは、貫之歌には二つの世界が詠みこまれているという指摘です。それを神田氏は「パラレル・ワールド」にたとえ、山田氏は「並行世界」と呼んでいるわけです。しかし、それらは言葉としては同義語であっても、その内実はまったく異なっています。
神田氏がいうパラレルな世界とは、かたや「まこと」としての実像であり、かたや「まことならざるもの」としての鏡像でした。リアルなものとフィクショナルなもの(鏡像との語の続柄からいえば、イマジナリーなもの)といってもいいでしょう。ただし、「二つ来ぬ春」の歌は、もともとが屏風絵というフィクショナルな装置を媒介として詠まれたものなのですから、リアルといいフィクショナル(イマジナリー)といっても、それらは、いわば累乗化された高次元の世界での区分にほかならず、したがって、「まこと」がリアルなのか、それとも逆に、「まことならざるもの」こそがリアルであるのかは判然としないのですが、それはともかく、神田氏によれば、この実像と鏡像をめぐる貫之の詠法は、絵に描かれたもの(雪や光や桜)と絵に欠けているもの(匂いや音や皮膚感覚)、見えるもの(波)と見えないもの(風)、等々へと方法論的に拡張されていきます。
実像と鏡像、あるいはその拡張形としての、見えるものと見えないものとのパラレル・ワールド。さらに、この関係を時空間に拡張して、現に実現した出来事と実現しなかった出来事(もしくは、現にそうであった過去とあり得たかもしれない過去)、ひいては、今・ここにある知覚可能な「物」(res)にかかわるリアルな現実世界と可能世界とのパラレル・ワールド。
このような、一つの平面(屏風絵)のうえで、──「雪降れば冬ごもりせる草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける」の歌に詠みこまれた景物(雪と花)が、あたかも、一つのテレビのディスプレイで二つの異なったチャンネルが交互に入れ替わるごとく、「あるときは本当の花であり、あるときは雪の花である」といったかたちで表象されるように──、図(figure)と地(ground)が反転して相互に入れ替わる二世界の関係、すなわち「リアルな世界」と「フィクショナル(イマジナリー)な世界」との関係は、山田氏の言葉を一部借用して、「水平(平面)的な二者交換」の関係と名づけることができるでしょう。
そうだとすれば、他方の「並行世界」における二世界、つまり「現実世界」と「もう一つの自立世界」との関係、もしくは、(「リアル」vs.「フィクショナル」との対比でいえば)、「アクチュアルな世界」と「ヴァーチュアルな世界」との関係は、同様に、「垂直(立体)的な二者並立」の関係と命名することができます。このことを、貫之と印象派の画家モネとの類似性のうちに見たうえで、山田氏は次のように述べています。
《貫之の歌に見られる、水底に喩えられた、実際には水面の写像に過ぎないヴァーチャルな世界は、一度たりとも作者の手で直接触れられることはない。身体を持って触れてしまえば、それはもう単なるヴァーチャル世界であることが、たちまちにして明らかになるからである。(略)
…なぜ行為がここで関わらないのか?それには訳がある。…彼の関心は、行為の場としての現実よりも、自己確立の場としての意識にあった。鏡に映った自分は、自分が現実世界の中に投げ込まれていることを悟らせる。しかしながら、鏡の中にもう一つの世界を見てそこに意識を走らせるとき、その自立した意識は意識自らを造形する。…貫之の歌とは自己意識の造形化なのである。》
文中にでてくる「過ぎない」とか「単なる」といった否定的なニュアンスをおびた言葉遣いは、あくまで、今・ここにおける身体的な「行為」(actus)の場としてのアクチュアルな現実世界の側から見た、潜在的な「力」(virtus)が渦巻くヴァーチュアルな世界を形容するものです。
リアルな現実世界の側から繰りだされるのは、「それは単なるフィクションに過ぎない」という批判であって、この場合、「それ」と名ざされた対象は端的にその存在を否定されます(二者交換)。これに対して、アクチュアルな世界とヴァーチュアルな世界は、アクチュアルなものがヴァーチュアルなものを模倣・表現・表出・引用するのであれ、後者が前者へと生長するのであれ(人の心が言の葉へと生長するように)、または一方が他方を包摂するのであれ、意味するのであれ、あるいはまったくの無関係であれ、とにかく、──「桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける」の歌において、蒼穹によって区画された空と、「桜穹」が区分けする木の下という「錯覚を超えたある種の非現実の空間」とが二重に成立していたように──、重層的に並び立つことができるのです(二者並立)。……
■鏡から仮面へ
ここでいったん貫之から離れ、鏡をめぐる話題を拾っておきます。
★テキストの内と外とを行き来する「鏡」のモチーフ
『無名草子』と比較しながら『松浦宮物語』を論じた深沢徹氏の『自己言及テキストの系譜学──平安文学をめぐる7つの断章』第�V章から。
《「鏡」を隔てた向こう側に自らの帰属すべき場を求めてあくがれ出ずる、主人公の霊魂[たま]の寄る辺なさを最後に描き出して、テキストは唐突に閉じられる。この世とあの世との幽冥境を異にする二つの世界を行き来して、ついには帰り着く場を失ってしまった主人公を、そうした自己疎外のジレンマから救い出すためには、テキストの〈外部〉へと抜け出ていくしか残された手だてはない。というより、こちら側とあちら側とが「合わせ鏡」のようにして入れ替わり、めまいを誘う錯綜した世界を描き出すことで、テキストの〈内〉と〈外〉とを行き来するロマンティック・イロニーの迷宮へと読者をいざなうことが、『松浦宮物語』の真のねらいだった。》(『自己言及テキストの系譜学』260-261頁)
そして、「「合わせ鏡」のように、互いに互いを照らし合う自己相似[フラクタル]の関係にあった」二つの「奇妙なテキスト」──『松浦宮物語』と『無名草子』──が、院政期になって書かれるようになったわけを、岡真理(「「二級読者」あるいは「読むこと」の正統性について」、『棗椰子の木陰で』所収)の「二流読者」のアイデアを視野に入れながら次のように論じている。
《線状的[リニアー]に展開するストーリーをたどりながら、その世界に没入して、いっとき現実を忘れてしまうような、…素直[イノセント]な〈読み〉を、通常「二級読者」はしない。しばしばテキストの〈外部〉へと抜け出してはそれを「書物」として対象化し、その形態や成立過程について考え、さらにはその典拠や流通経路についても考えたりする。テキストの〈内〉と〈外〉との出入りを常態とする、こうした「二級読者」の読みを内部化したものが、実は『松浦宮物語』であり『無名草子』であった。
東山のとある山荘での女房たちの対話という「虚構の枠組み」を設定して物語評論を展開する『無名草子』はもとより、境界としての「松浦の宮」をあいだに挟んで日本と唐土との二つの世界を行き来し、さらには神仏や天上世界を回路として次々と世界を輻輳化していく『松浦宮物語』のストーリー展開もまた、「書物」の〈内〉と〈外〉とを縦横無尽に出入りする「二級読者」の〈読み〉が内部化され自己投影されたものであった。そうした「二級読者」の読みの最初の自覚的な実践者に、定家がいた。
『源氏物語』のテキストに代表される王朝文化に憧れながらも、そこから決定的に排除されているという喪失感情が、そうした「二級読者」の〈読み〉の基底にあった。憧れの対象としての王朝文化は、容易に「母なるもの」へと読みかえられる。だがそれは、もはや「書物」というかたちを通してしか拓かれることのない「鏡」の向こう側の世界として遠く隔てられており、文献学的な〈知〉の対象としてしか扱うことのできない失われた過去として、古典化されていた。「二級読者」の〈読み〉とは、だから、個々のテキストを通して間接的にしか「母なるもの」と触れ合うことのできない、疎外された者の不幸の別名であった。》(『自己言及テキストの系譜学』264-265頁)
──書物=鏡の「内」(合わせ鏡の現象世界)と「外」(メタレベルの知的操作の世界)、この二つの世界は実は同じ一つの水平的世界に属している(パラレル・ワールド)。これに対して広義の貫之現象学の世界は、本来、相交わることがないリアルな水平的世界とアクチュアルな垂直的世界との並立によって成り立っていた(並行世界)。
★鏡と仮面─聖なるものをめぐる対称性
久野昭「ペルソナ的世界」(『鏡の研究』)から。
《見る者の正体をあらわすなり、霊感をあらわすなり、鏡が‘あらわす’という作用をもつのに対して、たしかに、面については、‘かくす’という作用が指摘されるだろう。しかし、そこで隠蔽されるものは何か。日常的次元では、面によって世俗の顔がかくされる。けれども、面がその本来の役割をはたすべきハレの時空は、すでに世俗の時空ではない。そこで隠蔽されるのは、むしろ、聖なるものであり、その聖なるものが、隠蔽されることを通じて、あらわになるという一種の逆説を、ここで考えるべきだろう。聖なるものが、鏡においては、いわば、あからさまに自己を示すのに対して、面においては、それはみずからを隠蔽することを通じて自己をあらわにする。しかも、そのハレの時空のなかで、面は静止しない。そこには動きがあり、その動きをともないつつ、面に隠蔽された聖なるものが自己を表出する。その場合、面を仮面とよぶとしても、それはたんなる仮の面ではない。仮でありつつ、実である。たとえば役者の実体に仮の面が付加されるのではなく、役者の実体自体の変革がともなう。その変革が、このような動きを可能にするのである。仮面と言い、仮装と称するのは日常的世界でのことであってペルソナ的世界では、むしろ、実面であり、実装なのである。そして、その実が、ペルソナの動きを通じて、自己をあらわすのである。》(『鏡の研究』74頁)
《二つの仮面がある。ひとつは、非日常的な聖なる仮面、演劇がそれをつけることを要求する仮面であり、いまひとつは、日常的な世俗の仮面、演劇がそれをはぎ取ろうとする仮面である。ひとつは、ペルソナ的な秘匿の魅力にみち、いまひとつは、非ペルソナ的(impersonal)な世人がそれによって本当の自己をかくす覆面である。いま問題なのは、むろん、前者である。
その仮面は、あたかも鏡のごとく作用する。(略)
ただし、鏡とちがって、この仮面は、…秘匿の魅力にみちている。もとより、日常性の隠蔽ではない。(略)仮面が秘匿しているのは、逆に、非日常的な聖なるものであり、だからこそ、仮面が役者の肉体を駆使して体現しうるのであり、また、仮面の内奥から、仮面を通じて、聖なるものが自己をあらわしうるのではないか。
かく聖なるものを秘匿するものとしての仮面は、日常の時の流れを断ち、日常の場所の拡がりを裂く。たとえば能面をつけた役者は、すでに鏡の間で、鏡板を背にしたと同じ聖なる時空になければならぬし、彼自身、面をつけている限り、もはや、日常的な存在ではない。その面があらわす神もしくは人物になっている。と言うより、面が役者を吸いこんでしまっている。この世の者の顔にはありえぬ、あの左右対称な面の不気味さが、その奥底に非日常的な聖なるものを秘めつつ、もう生きはじめている。》(『鏡の研究』76-77頁)
──ペルソナ的な秘匿の魅力にみちた仮面は、あたかも鏡のごとく作用する。その面があらわす神もしくは人物に「成る」こと、「変成」すること、つまり、リアリティの水平的世界からアクチュアルな垂直的世界への座標転換を果たし、時にふたたび帰還すること。
■ペルソナ的世界へ─仮面をめぐって
話題が鏡から仮面へと転じました。引きつづき、久野昭著「ペルソナ的世界」からの抜き書きを通じて素材を蒐集します。
★祖型的なるものの初現とペルソナ的世界の開示
《仮面がそれの再現であるところの祖型的なものが現在に意味をもつのは、まさに、それが再現されることによってである。その再現は、その仮面の使用が重要な、決定的な役割をはたす儀礼の機会に、その儀礼の場でおこなわれる。その儀礼のつど、その仮面が使用される、という点では、これは祖型的なるもの反復的再現ではある。けれども、この反復は、反面、たんなる反復ではない。たんある反復ではなくて、ここでは、儀礼のおこなわれている現在と、祖型的なるものとの、日常の時の流れを断つ形での、同時性こそが、ものを言う。その限り、儀礼の観察者にとっては反復である事柄が、儀礼の参加者にとっては反復でない。いや、再現ですらない。新たなる出現でなければならぬ。初現と言っていい。仮面の動きをともなっての、この祖型的なるものの初現によってこそ、仮面が秘匿している原理も、つねの世のよどみから、いわば救い出され、新たに、生きて、はたらく。そういう場と、…ペルソナ的世界の開示とは、無縁ではない・
なぜなら、このペルソナ的世界の開示は、対象的な開示ではない。主体的な現成でなければならないからだ。sれは、儀礼の参加者の主体における一種の変革──変様──に深くかかわる。そして、仮面もまた、この意味での変様の具でもある。》(『鏡の研究』94-95頁)
──仮面儀礼の場において〈今〉が、すなわちアクチュアルな垂直的世界に発する事象が、「祖型的なるもの」という観念・形象を纏って新たに出現する。と同時に、仮面を介して主体が〈私〉へと、すなわちアクチュアルな垂直的世界に発する事象へと現成・変様する。
(水平的な貫之現象学のイメージ世界が、垂直的な次元へ遡行する。俊成的転回とは、空間的・時間的に真逆の方向性をもって。)
★ペルソナ的世界の顕現、不気味さのなかでの変様
《‘おもて’を‘うら’うちしている‘うら’は、軽々しく命名できぬ。名を告らぬのは、それが聖なるものだからである。祖型的発想からの古鏡、原型的発想からの明鏡とよばれるにしても、それは、いわば、字(あざな)であって、かりのよび名であろう。それが面(おもて)で象徴されるにしても、仮面(かりのおもて)であろう。が、そのかりの名、かりの‘おもて’を、この聖なる‘うら’が‘うら’うちしている限りにおいて、それは、仮でありつつ実である。
そういう‘おもて’から‘うら’への方向において、変様ということが問題であったのである。逆に、‘うら’から‘おもて’への方向において、ペルソナ的世界の顕現ということが問題だったのである。そして、そこのところで、‘うら’がある意味では‘おもて’と一致するニュアンスをもつこと、たとえば‘うら’に出来ることが、私たちの注意をひいたのである。
‘うら’は、たしかに‘おもて’の反対語である。しかし、‘おもて’がたとえば能面を意味するとき、‘おもて’もまた秘匿の魅力をもつ。秘匿された‘うら’が不気味(unheimlict)だとすれば、それによって‘うら’うちされた‘おもて’もまた、不気味である。(略)
…‘うら’から‘おもて’への方向で考えられるこの不気味さと、‘おもて’から‘うら’への方向で考えられる変様とは、深くからみあうのである。ここで方向を言うのは、説明のための図式化にすぎないのであって、むしろ、問題は、不気味さのなかでの変様ということにある。‘うら’に‘うら’うちされた‘おもて’の不気味さを通じて、自己の本来的なありようが、日常的意味とは別の意味でのくつろぎとして、親しさとして、あらわになってくる。‘おもて’をうら’づけ、‘うら’うちしている‘うら’が‘うら’に出ることを通じて、その不気味さを通じて、自己が単独化させられつつ、かえって、‘うら’の地平が開かれていく。そこで開示されるペルソナ的世界は、あらかじめあらわに見えるものではないが、しかしまた、本来、自己にとって見知らぬものではない。自己にとって、一種の、根の国だからである。ただ、日常的には、疎遠なる根である。その根への親しみの回復に、祭りを必要とするほどに、それほどに疎遠なる根なのである。》(『鏡の研究』106-108頁)
──「うら」から「おもて」への変様を通じて顕現する「ペルソナ的世界」とは、私の理解するところでは、「クオリア的世界」とともに、リアリティの世界(第〇次内包)に本籍を置きつつアクチュアリティの世界へと「あくがれ出ずる」ものたちの属する界域である。そして、「うら」から「おもて」への変様が(フロイト的な意味合いにおいて)「不気味=親しみ」であるのは、それが根の国、祖霊の世界、死者たちの界域でもあるからだろう。
■歴史の伝導体へ─仮面をめぐって・承前
この論考群では、これまでから仮面もしくは仮面的なものをめぐって、何度か繰り返し言及してきました。ある意味では、議論はもう尽きている(たとえば伝導体における仮面記号論において)と言っていいのかもしれませんし、実はもっと広い射程のもとで考えを深めていくべきテーマなのかもしれません。
いまここで、念のため、その主なものを抜き出し、過去の議論を吟味してみると、次のようになります。
★仮面の裏側からの視線(本稿第36章4節)
吉本隆明の「パライメージ」の概念をめぐって、古東哲明氏が『〈在る〉ことの不思議』で示した他界観を参照しながら、次の二つの解釈を呈示した。すなわち、「臨死者モデル=上方からの視線モデル」と「能役者(=シテ=死者)モデル=(仮面の)裏側からの視線モデル」。
このうち後者は、世阿弥の「離見の見」に通じる。以下は、古東氏の議論を概観した箇所の一部抜粋。
……他界人(死者・精霊・神霊・物狂い)の生死往還の筋書きが進行する演劇的意味空間のなかで、「役者のみならず見所の在所[テアトロン]もまたこの世とあの世を流離う。……最初はこの世からあの世を観ている視座が、この世でもあの世でもない宙吊り地帯を経由し、あの世からこの世を観る視座【闇の視座】へ幻容、そしてふたたびこの世にもどる」。
そのような舞台空間に立つ演者にふさわしい視座(テアトロン)をさして、世阿弥は「離見の見」といい、「目前心後」(眼を前に見て、心を後ろに置け)といいかえた。「それは、心がいわば後頭部からぬけでて、演じている自分の後ろ姿を、さらにその背後から凝視めているような視座に立てというにひとしい。自分の後ろ姿を通して世界を見ているような視座の開眼といってもいい。つまり、一種の体外離脱の誘いである。」
そのプロセスを詳述すると、まず、肉眼がひらく顕現的位相と心眼がひらく潜勢的位相(面の裏の闇側)との体感的な自己分離現象に身を置く。つぎに、演じている自分もそれを見ている見所もともにふくんだ舞台空間(β位相、肉眼位相=表世界)を、まるで遙か遠景に見透かすようなさらなる背後の位相(α位相、心眼位相=裏世界=闇の劇場)へ想いを潜め、芝居小屋でおこっていることども全体(この世)を遙かな視線の高みから覗き見る視座(テアトロン)へ転身していく。……
★オリジナルなきコピー(第58章5節註)
かねてから考想してきたイマージュの四分類「象/像/喩/肖」のうちに位置づけた仮面。(�T・�U・�Vの表記はパースの一次性・二次性・三次性に対応させ、〇はこれに零次元として独自に(勝手に)付け加えたもの(第7章4節参照)。A・M・B・C領域の出典は井筒俊彦『意識と本質──精神的東洋を索めて』。)
【イマージュ�U】=「像」
・A領域(表層意識)に現象する狭義の「像」
・「実物」(オリジナル)に対する「写し」(コピー)の関係にある像
・「インデックス」としての像
【イマージュ�T】=「喩」
・M領域(A領域とB領域の中間地帯)に稼働する広義の「像」
・「喩」的関係にある広義の「象」(形象化された元型)
・「イコン」(「オリジナル」が受肉した「コピー」)としての喩
【イマージュ�V】=「象」
・B領域(言語アラヤ識)に生起する最広義の「像」
・「体」(生きたるもの)の「はたらき」として立ち上がる狭義の「象」
・「シンボル」としての元型(「コピー」なき「オリジナル」)
【イマージュ〇】=「肖」
・C領域(無意識)に棲息する最狭義の「象」
・「仮面、マスク」(「オリジナル」なき「コピー」)
・もしくは「人の手によらない聖像、アケイロポイエートス」(「オリジナル」が自動転写された「コピー」)
★神懸かりの言語(文字)、シャーマンの語り(第6章5節)
……アレゴリーは髑髏であり、死者のおもかげ(肖)であり、「仮面」である。アレゴリーは純粋経験、無内包の現実性の「記憶」の痕跡、お零れ、幽霊、天使的質料性を「響き」として蓄える「空虚な器」である。アレゴリー(≒私的言語)は、神懸かりの言語(文字)であり、シャーマンの語りである、等々。……
★虚構と物語、広狭二義の仮面記号の機能(第84章1節)
……(メトニミー、メタファー、シンボルに次ぐ)第四の比喩「オクシモロン(逆喩)」に対応させた「マスク(仮面記号)」は、かねてから(厳密な定義抜きで)用いてきた私製概念で、チャールズ・サンダース・パースの記号の三類型──「インデックス(指標記号)」「イコン(類似記号)」「シンボル(象徴記号)」──に“独自に”加えた第四の記号です。
さらに、第五の記号類型として「アレゴリー(広義の仮面記号)」を、そして、これに対応する比喩形象として「アイロニー」を導入し、これらの記号・比喩のはたらきを(オクシモロンとマスク=狭義の仮面記号の組合せに割り当てた「(言語的機能としての虚構)」の、いわば拡張版にあたる?)「物語」(五次元の伝導体)の概念でもって表現する。これが、私がいま漠然と思い描いている“構想”です。……
★「引用(展示)」から「反復(編集)」へ(第88章3節)
……かくして、伝導(体)という推論の営みが、キルケゴールの「間接的伝達」や「実験」、そして「反復」(=前方へ向かう追憶、本来の(?)意味における「編集」と言い換えていいかもしれない)へとつながっていった。とりわけ「反復(編集)」は、「生産(プロダクション)」──帰納(インダクション)、演繹(ディダクション)、洞察(アブダクション)に次ぐ第四の推論様式──における「引用(展示)」の、「伝導(コンダクション)」(第五の推論様式)におけるその“発展形”とも言えるものである。……
★物語(歴史)の伝導体へ(第88章7節)
……第83章2節で、私は、〈私〉、〈今〉、〈現実〉、〈感情〉(〈思ひ〉と表記してもいい)をめぐる四つの私的言語に加え、〈 〉(無内包の現実性)をめぐる第五の私的言語という類型を呈示し、これを「伝導」(第五の推論様式)と対応させました。また、私的言語の「往路」を担う文法カテゴリーを、「〈私〉:〈今〉:〈現実〉:〈感情〉」⇔「人称:時制・相:様相:態・法」のように対応させ、「〈 〉」には「無人称、無時制、無様相、無態」を割り当てました。
これらのことについては、──独在性の「伝達」(という推論)にかかわる第五の私的言語(第〇の私的言語、あるいは冥界からの死者の言語、沈黙の声もしくはエクリチュールとでも?)こそ、「強い」私的言語そのものであり、その完成態が、そこにおいて「反復(編集)」すなわち「伝導」(という推論)が稼働する「物語(歴史)の伝導体」にほかならない、という見通しも含めて──、藤井貞和氏の物語理論や坂部恵著『かたり──物語の文法』などを参照しながら、さらに考えを深めていきたいと思っています。……
(92章へ続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。
Web評論誌「コーラ」59号(2026.08.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第91章 フィギュール/鏡/仮面(その3)(中原紀生)
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