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■掛筆・掛字・掛詞
舒明天皇の国見の歌(万葉集巻一・二番)に「國原波煙立龍海原波加萬目立多都」とあるのを、武田祐吉が「国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ」と読んだことに対して、石川九楊氏が『ひらがなの世界──文字が生む美意識』で次のように書いています。
いわく、「立龍」(たちたつ)は龍が天に昇るかのごとく螺旋状に立ち昇っているのであるから、渦を巻きながら上がっていく煙の姿が見えてくる。そして「立多都」(たちたつ)の「多」は文字通り数が多いことを表しており、「都」は漢文では「すべて」と読むことが多い字であるから、無数の鴎──「加萬目」(かまめ)は萬に加える目だから無数の目がそこにあると記している──が群れをなして飛んでいる姿が浮かんでくる。(編集部註:鴎は旧字体で書かれているが、文字化けするので新字体に変更。)
ところがこれを、元字を消して漢字かな交じり文で「立ち立つ」としてしまうと、まざまざと目に浮かぶ煙や鴎の具体的なシーンがすべて消されてしまう。
《それではなぜ、捨てるには惜しい「立龍」「加萬目」「多都」を消してしまったのだろうか。それは現在に至る『万葉集』研究が、歌のつくり手がどのようなことをいわんとしたかよりも、五七調のリズムにあてはめて、どのように読めばよいのかをひたすら追求してきたからである。漢字がずらずらと並んでいる歌を、どのように五七五七七の音数律の読みに収めるかが第一義になってしまっていたのだろう。
「加萬目立多都」と表記された漢字自体に意味があることに気づかなかったわけではないだろうが、読んでしまえば、今度はそれを、現在われわれが使う漢字にあてはめて、意訳することに終始した。そこに従来の万葉集研究の限界があったように思われる。
『古今和歌集』には掛詞が多く、万葉歌には少ないといわれるが、万葉歌は、漢字の意味と、音との掛詞、掛歌と解すべきなのだ。》(『ひらがなの世界』20頁)
和歌は、俊成が言うように──「歌はたゞよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞ゆることのあるなるべし。」(古来風躰抄)──、歌合その他の社交の場において、声に出してよみあげられるものではあるのですが、しかし、和歌が“作品”として成立するのは、(少なくとも集団的な歌謡から独詠的な短歌へと発展した段階にあっては)、石川氏が言うように、文字として書かれること──前言語帯域であり、書字の微粒子的律動たる「筆蝕」によって文字が形づくられ、言葉として漏出=表出されること──によってなのですから、万葉歌にあっては万葉仮名による表記こそが、まさに哥の発生の現場にほかならなかったわけです。
それでは、“ひらがな”(女手)によって表記される和歌についてはどうか。「ひらがなの美学」と「散らし書きの美学」の実質を、説得力のあるかたちで解き明かした石川氏の『ひらがなの世界』は、ほぼまるごと、その実例の紹介と分析と鑑賞の手引きのために著わされた書物だと言っていいものです。ここでは、その豊富な具体例のうち、「掛詞」という古今集歌に多く用いられたレトリックにつながる「掛筆」「掛字」をめぐるものについて見ておくことにします。
たとえば、「とし のう ちに はる は きに けりひと/ゝせ を こそとや い はむ こ としとや いはむ」と分かち書きされた伝貫之筆・高野切古今和歌集(第一種)の一行目の行末「ひと」が、「ひ」の最終筆が「と」の第一筆でもあるように、いわば「ひ」と「と」が原稿用紙の一升に書かれていて、「一」という字に化けている。これを、石川氏は「掛筆」(かけひつ)と呼びます(42頁)。
次に、「んめのか をそてに/う つし てとめたら/はるは すくと/もかたみなら ま/し」と書かれた寸松庵色紙の一枚。三句目はこれまで「とめたらは(ば)」の「は」の書き落としと考えられてきたが、石川氏は、間違いなく「とめたらば/はるはすぐとも」と書かれているという。脱字と見られた第三句の句末の「は」は第四句のはじまりの「は」でもある、つまり、一字で二字分を表現できる「掛字」(かけじ)として出現しているのだと(46頁)。
「掛字によって、ひとつの文字にもうひとつの文字を隠すことができる。この「隠す」技巧はひらがなの文化を形作るうえで非常に重要な意味をもった」(61頁)。以下、「隠字」(かくしじ)=「伏字」や「併字」(あわせじ)」、さらに、掛字の対極表現である「重字」(かさねじ)や「畳字」(じょうじ)──いずれも従来は「衍字」(書き誤って加わった不用の文字)と考えられていた──の実例が示される。
石川氏の指摘は、和歌を考えるうえで、とても重要な視点を提供します。それは、和歌とは詠まれるものである前に、まず──万葉仮名であれ、女手によってであれ──書かれたものであること、尖筆によって刻印された筆蝕として出現するものである、という視点です。
贈与論に関連づけて言うと、それは、「神による啓示(受肉ならぬ受言?)」→「(「空洞を露呈する人間」(バルト『ローマ書』)すなわち使徒による)伝道」といった音声言語の系譜に属する展開ではなく、「神による刻印」→「聖なるテクスト(の解釈を通じた伝導?)」という文字言語の系譜に属する事態とパラレルな関係を切り結んでいます。
それはまた、永井(晋)氏が言う「受肉からテクストへ」の流れに沿ったものでもあります。テクストとは、ここでの文脈では、(硬筆による)聖典ではなく(軟筆=毛筆による)アンソロジーのことです。多重多層の音と形と意味のネットワークからなる聖典が、その解釈を通じて神が顕現する(神の体験が生起される)ものだとしたら、アンソロジーとは、声と声、文字と文字の重なりや連なり(掛詞、掛歌)による──いわば水平的に編集された、質料零の──パランプセストを通じて、和歌的韻律の生れ出づる現場とその多数多様な変遷を「いま・ここ」に現出させる(内から体験させる)媒体すなわち“伝導体”にほかなりません。
■伝導体をめぐって、これまでの議論の振り返り
伝導体については、これまでから何度か立ち還って、自分なりの考察を加えてきました[*1]。
哥の伝導体(歌体)にはじまり、物の伝導体/身の伝導体/詞の伝導体、そしてアナロジーの伝導体へ、さらには、純粋伝導体(夢)や機械仕掛けの伝導体(映画)や五次元の伝導体(物語)、はては、やまとことばの伝導体、詞と辞の伝導体にいたるまで[*2]、必ずしも精緻に理論化できたわけではないにせよ、時々の問題意識に即して、“使い勝手”がよくて、融通と応用がきく構図を仕立てることはできたように思っています(自家製の“理論”なのだから、当然と言えば言える)。
ここでは、それらの議論を通して見えてきたもののうち、伝導体の理論の基本的な骨格と、伝導体のはたらき(伝導現象)に関する二つのエレメントについて、あらためて整理しておきたいと思います。
◎伝導体の基本構図
伝導体の理論の基本構図は、@「虚(イマジナルなもの)/実(リアルなもの)」の水平軸──実在性(リアリティ)の軸、すなわち「異界的・想像的(imaginal)」なイマージュと「物(res)」の世界──と、A「空(ヴァーチュアルなもの)/現(アクチュアルなもの)」の垂直軸──現実性(アクチュアリティ)の軸、すなわち純粋な「力(virtus)」と「行為(actus)」の界域・場──との直交によって示される四つの象限から成る世界として描出される。
◎表層の伝導/深層の伝導(本稿第11章1・2節及び第48章3節参照)
・伝導現象(伝導という推論の運動)は、表象と連鎖という二つのエレメント──推論の対象もしくは素材を特定すること(表象)と、それらの対象や素材が相互に関係を取り結んでいくプロセス(連鎖)──に分解することができる。(佐々木健一著『日本的感性』の“部立て”に倣って、「表象=語彙(要素的なもの)」「連鎖=文法(複合的な関係性)」と言い換えてもいい。)
・表象と連鎖には、それぞれ深浅にわたる二つの相がある。
表象は表現と表出の二つの作用に区分することができる。丸山圭三郎(『言葉と無意識』)の言葉を借りると、表現とは深層の下意識における抑圧されたパトスの解放とその表層におけるロゴス化、つまり「すでに在るもの」の記号化のこと。この意味での表現にはカタルシス(浄化)が伴う。
これに対して、表出とは(表層意識はもとより下意識や潜意識といった深層意識をも欠いた、字義どおりの)無意識の解放もしくは連続体としてのカオスの非連続化(言分け)をもたらす根源的な働き、すなわち「これまで存在しなかったもの」の創造(昇華)のこと。この意味での表出は享楽もたらす。
・連鎖についてもこれとパラレルな二つの区分を考えることができる。
表現と対になるのは、丸山氏がいうところの「等質的・同位相下の変換」や「隣接する位相間の移動」に相当するもので、水平的な伝達(もしくは模倣)のプロセスのこと。
表出と対になるのが、同様に「異レヴェル間の生成変化へと拓かれる変態」にあたるもので、狭義の伝導あるいは垂直的な反復(もしくは引用)のプロセスのこと。
(ここでいう反復は、『夢分析』のなかで新宮一成氏が、「初めての夢という名に値する夢があるとしたら、それは、自己が自己の現実を言葉によって初めてとらえたときの驚きを含む夢のことである。この驚きを再現しようとすることが、我々が夢を語り合うことの最も深い動機である以上、その夢がたとえ今朝見られたのであっても、それはやはり初めての夢と呼ばれるのにふさわしいのである。」と書いている、その「初めての夢」の再現に、すなわち、一回性をもった出来事を何度でも初めて「今、ここ」で経験することに相当する。)
・以上を整理すると次のようになる。
表象(表層)=「表現」:「すでに在るもの」の記号化(浄化)
表象(深層)=「表出」:「これまで存在しなかったもの」の創造(昇華)
連鎖(表層)=「伝達」(模倣):同位相下の変換、隣接位相間の移動
連鎖(深層)=「反復」(引用):異なるレヴェル間の生成変化(変態)
この論考で、私は次のように書いた。「私が伝導(体)について思いをめぐらせるようになったのは富岡幸一郎氏のカール・バルト論『使徒的人間』を読んでいて、バルトが、そしてキルケゴールが叙述する使徒の行い(報道)をベンヤミンの「翻訳者の使命」と関連づけて考えることができはしまいかとふと気づいてからのことだ。」
バルトによると、「使徒」とは「空洞を露呈する人間」であり、イエスに啓示された神の意志を、何も手を加えず後代へ伝えてゆく者のこと。その行いを特徴づける「引き渡し」という語は、ベンヤミンが翻訳の根源的要素であるとした逐語性に通じている。
「こうした使徒の行いと翻訳者の使命が等号で結ばれるフィールドにおいて、媒介ならざる媒介として超越と内在の相互繰り込みの作用を営むもののことを私は伝導体(あたかも虚数と無限大の屈折率をあわせもち、光を全反射すると同時に閉じ込めてしまう固体プラズマのような?)と名づけ、キルケゴールの思索に、そして文学の営みに一瞥をあたえながらその実質を粗描してみたいと考えている。」
かくして、伝導(体)という推論の営みが、キルケゴールの「間接的伝達」や「実験」、そして「反復」(=前方へ向かう追憶、本来の(?)意味における「編集」と言い換えていいかもしれない)へとつながっていった。とりわけ「反復(編集)」は、「生産(プロダクション)」──帰納(インダクション)、演繹(ディダクション)、洞察(アブダクション)に次ぐ第四の推論様式──における「引用(展示)」の、「伝導(コンダクション)」(第五の推論様式)におけるその“発展形”とも言えるものである。
[*2]これらのうち、繰り返し俎上に載せ、“手入れ”してきた哥の伝導体について、そのほぼ最終形と言える構図を以下に示しておく。
《図》哥の伝導体(ほぼ最終形)
アクチュアルな〈詞〉の世界
【現】
┃
←╂→β
イマジナリーな δ ┃ ↑
哥の〈心〉 【虚】━━│━━╋━━│━━【実】 リアルな
↓ ┃ γ 〈物〉の世界
α←╂→
┃
【空】
ヴァーチュアルな哥の〈姿〉
※α=掛詞,β=見立て,γ=本歌取り,δ=縁語
私自身の“最新の知見”では、伝導体とは広義の仮面記号すなわちアレゴリー(第五の記号類型)であり、そこにおいて遂行される伝導(第五の推論様式)はアイロニーにほかならない。このことが図解できたとき、はじめて伝導体の構図の完成形が得られる。
■伝導体をめぐって・承前
伝導体や伝導現象をめぐるいくつかの“アイデア”を、以下に掲げます。(「推論的世界」のタイトルで note に掲載した論考からの再録。)
◎聖霊のはたらき/言語という仕組み
伝導とは聖霊のはたらき(神の自己伝達作用)であり、言語(という伝導体)はこのアクチュアルな“はたらき”を概念化(一般化・内包化)する。
《このように、神は世界と人がそのなかに置かれる「場」、世界と人は神のはたらきを宿して現実化する「場所」である。世界のなかではたらく神は「ロゴス」…、人のなかではたらく神は「キリスト」と呼ばれ、それぞれが神との作用的一をなす。「神の作用の場」は、すなわち世界に遍満する「聖霊」の場である。聖霊とは〈はたらく神〉を、神のはたらきとして、世界と人間に宿らせる作用、つまり神の自己伝達作用だからである。またその結果として、人間に宿った神のはたらきは「キリスト」といわれる。すると神、神のはたらき(神の自己伝達作用つまり聖霊)、キリスト(すなわち人のなかではたらく神)は三にして一だということになる。神は、はたらきの根源(究極の主体)、聖霊は、はたらきの伝達作用、キリストは、その結果人のなかに宿る神だからである。三位は、はたらきとして一で、はたらき方として三である。さらに「愛」は、神のはたらきと人のはたらきとの一(作用的一)…である。(以下、略)》(八木誠一『〈はたらく神〉の神学』45-46頁)
《言語とは、何かを伝えようとする側とそれが伝わる側とのあいだに、どちら側から見ても同一の事柄があるという前提のもとで(それを伝達するという仕方で)初めて成立する伝達の方法だ…。すなわち、それは、一つの客観的世界というものがあって、すべてがその一つの共通世界に収まるという前提のもとで成立する仕組みなのであって、逆にいえば、その仕組みこそがそのわれわれの世界をはじめて創り出している、ともいえる。》(永井均『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学探究3』75頁)
《…「私」や「今」という語には、伝えようとする側と伝わる側とのあいだに、もともとは無い…「同一の事柄」を作り出す仕組みが内在しており、それが双方を一つの客観的世界の内に収めることになるのだ。われわれはみなすでにしてその仕組みの下僕である。》(『哲学探究3』75-76頁)
◎伝導体の三つの特質
・伝導体という概念で私が想定しているのは、たとえば時空、たとえば身体、たとえば物語といった、物(身体)の領域と言語(精神)の領域、マテリアルな界域とメタフィジカル(メタフォリカル)な界域、あるいは液体と固体、父と子、生と死といった異なる世界を「通態的(trajective)」(オギュスタン・ベルク『風土の日本』)に結合するメカニズムを体現する装置である。
・私が構想している伝導体には、動態性と創造性と推論性という三つの特質がある。
狭義の仮面記号である「マスク」が他の記号との関係性のうちに静的に位置づけられていたのに対して、広義の仮面記号(アレゴリー=伝導体)はそのような制約を受けず、自在にダイナミックに稼働する。それはアイロニーの論理詞表現「¬A⇒A」が示す運動性を基礎としている。
・この運動性、動態性がもたらすのが、物質的なもの(見えるもの)であれ非物質的なもの(見えないもの、たとえばクオリア、心、観念、等々)であれ、あるいはそれらのハイブリットであれ、およそこれまで存在しなかったもの、考えられなかった新奇のものの発生、創設、流出、創造の出来事である。何かが何かとして存在する、そのような出来事が成立する場そのものを産出すると言ってもいい。
・物やイメージ、型、振る舞い、言語、意味、概念といった諸々の要素が伝導体の内部を伝わっていくプロセスである推論。それは、「概念操作または言語活動としての(狭義の)推論のことだけではなくて、時空構造を織り込んだ物質世界(宇宙)や生物の進化、精神世界における(言語以前の、もしくは言語の外における)観念の運動、はては、神の存在の直観、あるいは、永井均氏の「独在性の〈私〉」の実在をめぐるメタフィジカルな論証、等々を含めた、およそ物質と生命と精神と意識、つまり森羅万象の存在者の運動全般をつかさどる理法(ロゴス)のようなもの」(本稿第7章)のことである。
◎伝導体、空虚な器としての
独在的存在としての〈私〉をめぐる決して伝わらない問題が伝達され、理解される高次の推論のプロセス(伝導)をめぐる永井均氏の議論(『〈私〉の哲学 をアップデートする』序章)から。
・伝導体は、それ自身のうちに世界(森羅万象)を含んだ空虚な器である。
・伝導体が伝導するのは、無内包の現実性(例:独在的存在)である。
・伝導体は自らを一般化・抽象化・概念化することによって、決して伝わらない問題であることそのことを含めてその構造そのものを伝える。
┌─┐ ┌─┐
α │a│ │a│ α
→ │ │ ⇒ │ │ →
概念化 │ │ 伝 達 │ │ 理 解
(X) │A│ │A│ (X)
└─┘ └─┘
※α=個物,X=普遍,a=特殊,A=一般
◎夢、純粋伝導体としての
・夢現象(夢体験)で肝心なのは、その内容、意味、理由ではなく、その形式と構造、夢の構成要素や夢同士の相互の関係性である。すなわち、夢は伝導体である。
・夢において伝導されるのは伝導現象それ自体である。つまり、伝導されるのは、内容や意味や理由にかかわるリアルな事象(実在性の世界における)ではなくて、たとえば色彩、音声など、井筒俊彦が「コトバ」と呼んだものが織りなすリズムや韻律、等々の形式や構造や関係性そのもの(現実性の世界における)のアクチュアルな出現それ自体である。そういう意味で、夢は純粋伝導体である。
・世界があらかじめ夢見られている(ガストン・バシュラール)として、夢見られているのは物質的な世界そのものではなく、リアルな物質世界(実在性の世界における映像)がそこにおいて現象する世界のあり様(現実性の世界における光源)である。
・映画が「夢の引用」(武満徹)であるとして、そこで引用されるのは個々の「シーン」であるよりも、それらのシーンをもたらす「パースペクティヴ」なのである。つまり、「夢のパースペクティヴの引用」としての映画の実質は、異なるパースペクティブのもとで現象する個々のシーン群を「モンタージュ」し、そしてそうすることによって、(語り得ず、見えないが)アクチュアルなパースペクティヴ群を「モンタージュ」することである。
・夢の推論(伝導)を成り立たせるのは、帰納・演繹・洞察・生産の四つの推論だが、このうち、様々な現象(事物事象)を一般化・概念化する帰納と、(諸現象を外延として含む)一般概念の相互包摂関係に基づく演繹がリアリティの横軸に、諸現象やその集合(概念)に直接かかわらない、むしろ諸現象やその集合(概念)を世に現わす“力”の作用である洞察と生産はアクチュアリティの縦軸に、それぞれかかわる。
・かくして、「演繹−帰納」のリアリティの横軸と、「生産/洞察」のアクチュアリティの縦軸の直交によって、伝導すなわち(〈夢〉から「現実」への)変容=推論フィールドの構図が描かれ、そこに出現した四つの象限に、「時間の変容」「他者への変身」「虚構の現実化」「自己の分裂」という四つの体験フェーズが位置づけられることになった。
◎伝導体、地球ゴマとしての
・伝導体(広義の仮面記号=アレゴリー)の基本構図は、そこに内蔵された円盤(狭義の仮面記号の世界「インデックス/イコン/シンボル/マスク」)が高速回転することによって存立する「地球ゴマ」に喩えることができる。そこにおいて稼働する記号過程の特質を示す語は「アイロニー」にほかならない。
・円盤の回転を通じて、その外殻である「アレゴリー」(伝導体)が重力に逆らって直立する。この無限のプロセスを通じて、「実なるもの」の極限としての「イコン」が純粋な「アクチュアリティ」へ、「虚なるもの」の極限としての「マスク」が純粋な「ヴァーチュアリティ」へと存在次元の転換を果たすこと──永井(均)哲学のキーワードを使って表現すれば、「実在性(リアリティ)」から「現実性(アクチュアリティ)」への(「受肉」の逆過程というあり得ない)飛躍、すなわち「禅的と言っても、あるいはまたキェルケゴール的と言ってもよいような、独特の実存論的な飛躍」(『〈私〉の哲学 をアップデートする』序章、16頁)を果たすこと──、その(伝導の)運動そのものを「アイロニー」の名で呼んでみようということである。
・リアリティからアクチュアリティへの推論(伝導)を司るのが伝導体すなわち“アレゴリー”であるとしたら、その逆の推論プロセス、すなわちアクチュアリティからリアリティへの逆伝導──「ヘーゲル的頽落」とでも言おうか──を統べるのが“カテゴリー”である。たとえば、人称、時制、様相、態といった文法カテゴリーの成立(言語の成立)とともに、あたかも夢の世界から現実世界が析出されるようにして、リアリティの世界が立ちあがるといったこと。
■アンソロジーの伝導体、その二つの特質
さて、ここでの論点は、アンソロジーという伝導体をめぐるものでした。
丸谷才一著『日本文学史早わかり』に、「詩は詞華集で読むに限る」というくだりが出てきます。「何と言ってもいちおう信用できる編者が選んだものだから、駄作や凡作は読まなくてすむ」からだと。
《しかも詞華集という文学的道具の効用は、時間の無駄をはぶいて文学的快楽を味ははせてくれることに盡きるものではない。といふのは、詞華集とは普通、公衆によつて認知された詩を提供する設備であるわけだから、所収の一篇の詩を読み、玩賞することは、その詩に価値を賦与してゐる社会それ自体と結びつくことを意味するのだ。それは単なる文学的教養といふ程度ではなく、もつと深い形で、読者を文明の様式に参加させるだらう。すなはち詞華集とは、詩と社会とをつなぐ精妙な仕掛けにほかならない。》(『日本文学史早わかり』(講談社文芸文庫)16頁)
丸谷才一がここで、道具、設備と呼んでいるもの、すなわち「詩と社会をつなぐ精妙な仕掛け」とは、美意識や感受性の「型」──「こころ」(感情・感動)と「ことば」(言語・表現)において、個人の創作の前提となる共通の〈型〉もしくは見本帖(鈴木宏子『「古今和歌集」の想像力』11・57・59頁)、あるいは「日本的感性」の構造・結晶(佐々木健一『日本的感性』D頁)──のことだと考えていいと思います。
また、『日本文学史早わかり』は、「詞華集的人間(アンソロジー・マン)」という「新発明の耳なれない」概念を呈示しています。「詞華集的人間の典型は詞華集の編者である。彼は詩人にしてかつ批評家を兼ねるのだが、ただし純粋に理論的に言へば、批評文を書く必要はない。詞華集の編纂それ自体が批評的行為である。」(69頁)
丸谷才一が挙げる日本の典型的な詞華集的人間は藤原公任なのですが、古今集の編者である紀貫之もその系譜に属する最重要歌人・批評家の一人でしょう。貫之が中心的な撰者(編者)となった古今集をめぐって、大野ロベルト氏は『紀貫之──文学と文化の底流を求めて』第三章「貫之の企図──『古今和歌集』」の第二節「詞書──和歌の道標」で、次のように書いています。「詠む/読む者の立場や状況によって、歌の意味は変わり続ける。詞書はその解釈に一つの方句性を与えると同時に、それを奪う機能をも併せ持っている。また、詞書はときに歌の内容からはみ出し、物語のような場面設定を通して歌人の人となりを強調したり、権威を与えたりする。」(172頁)
別の個所では、「開かれた」テクストである古今集編纂にあたっての撰者たち(特に貫之)の企図をめぐって、次のように書かれています。
《『万葉集』や「よみ人しらず」時代の古歌から学び、さらに幅広い連想を呼び覚まそうとする技巧。歌ことばに新しい意味を与えるための和歌を通しての議論や、それを可能にする様々な配列。さらに詞書を駆使しての、優れた先達の歴史化と、他ならぬ撰者たち自身の権威化。これらはいずれも、読みの自由を担保しながらも、ある程度まで意味生成を方向づけ、読者の和歌をめぐる思惟を、撰者たちの望む形に近づけるための演出でもある。》(『紀貫之』231頁)
以上のことを踏まえて、私なりに、アンソロジーの伝導体の特質を考察すると、それは、(少なくとも貫之の時代にあっては)、匿名性(主体なき思い)と物語性の二点に集約することができるのではないかと思います。
第一。「型」を媒介として編集されたアンソロジーにおいて、個々の歌人(独詠の主体)は、詠歌共同体とでも呼べる公的な場のうちに溶け込んでいる。アンソロジーに収録された作品は、基本的にすべて非人称・無人称あるいは「よみ人しらず」である。(第82章2節で取りあげた藤井貞和氏の「ゼロ人称」、私はそれを「言霊の人称」と呼んだのだが、それらはまた「よみ人しらず」の人称でもある。)
第二。「詞書」というメタレベルの言説(広義の意味で「註釈」と呼んでもいい)を通じて編集されたアンソロジーは、あたかも夢のように、いや夢のパースペクティヴの引用である映画のようにモンタージュされている。匿名の、「よみ人しらず」の「思い」が、無様相、無人称、無時制、無態の、あり得ない時空(虚空)における「物語」(編集=演出された歴史)を紡ぎだす。
■主体なき思い─アンソロジーの伝導体(前段)
この節では、第一の特質を取りあげます。
永井均氏は『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか──哲学探究3』の終章において、主体なき「思い」──もしくは「感じる主体ぬきにたんに生起する感覚」(219頁)や「即自的(アン・ジッヒ)」な思い(221頁)、あるいは「自己帰属されない経験」(『哲学的洞察』105頁)──をめぐる議論を展開しています。「個々の感じや思いや考えなどが(それらを感じたり思ったりする主体なしに)それだけで生じるということは、事実問題としてではなく、事柄の本質からして、すなわち本質的に、決してありえないことなのか。ありえないとまではいえない、と考えてみよう。」(220頁)
永井氏は続けて問います。そういうもの、つまりそれが起こったことを知りうる当人(経験主体)がいない「思い」そのものが存在すると想定できるとしても、そういうものに「独在性」があると想定できるだろうか。(独在性とは、心や意識のうちの一つがなぜか〈私〉であるという特殊なあり方をしていること。このことの不思議さが、(私自身がそう思う不思議さと、言語表現によって客観的に伝達される際の不思議さとの本質的な違いを含めて)、言語的表現によって一般化され概念化されて(本質的には違いはないものとして)伝達されるという仕組みが、「じつのところはすでにして」、心や意識の存在の不思議さそのものの成立において働いているのではないか、というのが永井氏の見立てである(216-217頁)。)
永井氏の答えは、それは難しいだろうというもの。経験主体の存在しない「独在性」は、ある空間的位置に何らかの物理現象が生じているのと同じことになってしまわないだろうか。そのようなものが「世界そのものの開けの原点」になることはありえまい(222頁)。
たとえば樹木に意識があるとして、その樹木は自分を他の樹木から識別・同定し、端的に現に意識を感じるのはなぜか自分だけだと思うだろうか。ごく単純に考えると、樹木は他の樹木との同型性を意識しているとは限らないから、もし何らかの対比が起こるとすれば、時間的な対比──「これと同じことが過去にも起こったな」──だけだろう。でもそれはどこに、何に、誰に、起こるのか。「すなわち、その樹木の意識は、とくにどこか(何か、誰か)にということもなく、すなわちそれが帰属する主体はとくにはなしに、強いて言うならただ「世界に」起こるのでなければならない。」(224頁)
《このとき、まさにこのようにたんに「世界に」起こるとしか言いようのないような、いわば非人称的な捉え方が可能でなければならないということこそが、自分というもの、主体というものの根源的な成立条件となっている。このことを理解することがまずは重要であろう。そうでないと、…「私」にかんして「誤同定不可能性」といった問題が生じる真の理由も理解しがたいだろうからだ。誤同定が不可能なのは、(ただ)感じれば感じているのは必ず私であるからであり、いいかえれば、(世界にあるいはともあれ)ある感じや思いが生起することと私にそれらが生起することとは同じことである(そうあらねばならない)からである。このように「(世界にあるいはともあれ)起こる」ことと「私に起こる」ことが一致する「世界=私」という、根源的に「無我論=独我論」的な自己把握の水準[開闢的なあり方(228頁)]がまず成立しており、これを?と置けば、それを前提として、そこに@それはまたこの特定の樹木(というある一つの世界内連続体)に起こることでもある[〈開闢的=内在的〉な二重性(同)]という捉え返しが付け加わり、さらにそこにA他の樹木(という本質的に同種の世界内連続体)にも本質的にはこれと同じ仕組みが生起しているのだがなぜか‘現実に’感じられるのはこいつだけだ、というある制限(というか現に起こっている事態をある制限の相の下に見るような見方)が付け加わって、自己とか主体といったような捉え方が成立するしくみになっている。》(『哲学探究3』226-227頁)
これに続く議論──とりわけ、もし「神」が存在するとすれば、それは@Aとは独立に生起する?のようなあり方で可能であるにちがいない(228-229頁)といった──はとても魅力的なのですが、ここでは、永井氏自身が「非常に重要な論点」であると指摘している、次の一点を取りあげます。それは、?なしの@の生起はありえない、それでは「主体」や「自己」は成立しえないから、というものです。「これを要するなら、「開闢そのもの」性だけがあって「なぜか一人だけ…」性はない場合がありうるが、「なぜか一人だけ…」性だけがあって「開闢そのもの」性はない場合はありえない、と表現できるだろう。」
《これはつまり、神は必ずしも人格的個体性をもつとはかぎらないが、人は必ず心的開闢性をもつということである。それはまた、「なぜ〈私〉はこの人なのか」(=「なぜこの人が〈私〉なのか」)という問いには、必ず「なぜ〈私〉というものが存在するのか」という問いが先行していなければならず、最初の形の問いも──形而上学的な問題提起と解されるかぎり──すでに必ず後者の問いを含んで立てられていなければならない、ということである。》(『哲学探究3』229頁)
私の理解が間違っていないとすれば、(間違っていたとしても、それはそれで構わないが)、主体なき思い──「器官なき身体としてのプシューケー」(古東哲明『現代思想としてのギリシア哲学』)、あるいは古代日本で「タマ」(身体なき意識)と呼ばれたもの、たとえば「我が身よりあくがれ出づる沢の蛍」(和泉式部)──は、本来、形而上的世界に棲息する存在、すなわち現実性(アクチュアリティ)の界域を本籍地とする実存であって、本質の世界、すなわち実在性(リアリティ)の世界を現住所とするそれはいわばその影、永井氏自身の言葉を借りて言えば「物自体のお零れ」(『哲学探究1』)のごときものにほかなりません。
主体なき思いとは、別のたとえで言えば、金属結合(という伝導体)における自由電子の運動(推論を司る「実在の運動」)のようなもので、それはまた、日本語という「非人称的」な表現世界を、すなわち主客分離以前、言語以前の純粋経験を、そうであるにもかかわらず言葉でもって表現した「暗に独我論的」な世界(永井均『西田幾多郎』)の「根源的な成立条件」でもあります。
──迂遠な理路をたどって、話は再びアンソロジーの伝導体に戻ってきました。主体なき思いは、アンソロジーが懐胎する「物語」(という伝導体)における登場人物の「思い」や「感じ」へとつながっていきます。
■物語の喩法と文法─アンソロジーの伝導体(後段)
アンソロジーの伝導体の第二の特質をめぐって。
“結論”から入ります。「物語」は、本来、事物事象に充ちた実在性(リアリティ)の世界を出生地・生息地として躍動しつつ、究極的には、無内包の現実性(アクチュアリティ)の界域への飛躍を志向する営みです。匿名の主体なき思いとは真逆のベクトルをもっている、と言ってもいいでしょう。
ただし、話をややこしくするようですが、ここで急いで付け加えなければならないのは、物語にせよ、主体なき思いにせよ、それぞれの出自は異なるものの、実際の稼働にあたっては、同じ動態を示しているということです。
たとえば、主体なき思いは、現実性(アクチュアリティ)の界域からの頽落(受肉と言うべきか)を経て、本籍地への“あくがれ”に身を焦がし、一方、現実性(アクチュアリティ)の界域への“élan vital”を果たした物語は、実在性(リアリティ)の世界の再制作へと方向を転じるといった具合に、それぞれ(重点は異なるにしても)双方向の運動を行っているわけです[*1]。
物語における二つのベクトルのうち、現実性(アクチュアリティ)の界域への志向にかかわるものを「喩法(修辞学)」と、実在性(リアリティ)の世界の再制作にかかわるものを「文法」と、ここでは名づけることにします[*2]。
まず、物語の喩法を一瞥します。
この点は、すでに述べたこと、つまり「伝導体はアレゴリーであり、そのはたらき(推論)はアイロニー(¬A⇒A)である」、そして「アイロニーとは、実在性(リアリティ)から現実性(アクチュアリティ)への「実存論的な飛躍」という伝導の運動そのものである」に尽きています。
物語という伝導体[*3]の核心をなす「喩」、すなわちアイロニーに関して、藤井貞和氏は『物語論』で、Oxford Companion to the English Language のホームページから、次のようなアイロニーの分類を引いています。
(1)Socratic irony(ソクラテス的アイロニー):(議論などにおいて)自分を馬鹿に見せかけるようにして、他人の欠点を招く。
(2)Dramatic or tragic irony(ドラマティックあるいは悲劇的アイロニー):観客と人物との視点の二重性をあらわす方法。ギリシア悲劇において、人物が認識していない事情を観客が把握し、これによってプロットはより痛烈で感動的に鑑賞できる。
(3)Linguistic irony(言語的アイロニー):言語の二重性。ローマ人によると言語の意味がかさねられ、第二次的な意味は第一次的な意味を皮肉的、冷笑的にあざけるものである。
(4)Structural irony(構造的アイロニー):語り手が「無意識」のうちに読者に対してより深い事情をあばく。たとえば、語り手が登場人物の会話を理解せずに伝えるが、読者が人物の「本当」の意味を認識する。
(5)Romantic irony(ロマン《物語》的アイロニー):書き手が読者といっしょにプロットの二重性を楽しむ。たとえば、書き手が小説の途中で直接読者に話しかけて、出来事について感想を述べる。
これらのうち、物語に関連するのは「ドラマティックアイロニー」(登場人物と読者のあいだ)と「構造的アイロニー」(語り手と読者のあいだ)と「ロマン的アイロニー」(作者と読者のあいだ)です。
藤井氏はここに、次の二つのアイロニーを付け加えます。
(6) Narrator's irony(語り手のアイロニー):語り手は登場人物たちの思うとおりに語ることができない。語り手が知りうるのは登場人物たちが持っているセルフイメージのうちの明示された部分である。語り手と登場人物たちとのあいだには、どうしてもずれを生じてしまう。「構造的アイロニー」という語に真にふさわしいことは作中でこそ起きる。
(7)Author's irony(作者のアイロニー):作者が語り手をあやつろうとしてあやつり切れないもどかしさ。
《これらは、言うまでもないようなことながら、作品じたいに構造がある、というあまりにも自然な帰結だ。作中には登場人物たちがいて、空間や事件のなかをうごめきまわる。それを語る語り手が作中のすこしそとがわにいる。作外には作り手である作者が、口承文学なら伝承が存在する。作品は語り手を頂点にして、作り手である作者や登場人物たちが協力して作りあげる世界であり、寄りそって、とは種々のアイロニーを超えて語りを現出させる。語り手は作者の虚構的所産であるから、じつに語り手のいる風景こそは虚構の淵源にほかならない。》(『物語論』第四講「語り手を導きいれる」)
次に、物語の文法をめぐって。
ここでも『物語論』に準拠します。というか、藤井氏自身が「本書での新しい提案」と自負しているのが「物語の文法」、とりわけ「物語人称」をめぐる議論なのですから、ここは丸ごとその説くところを抽出することに徹します。
◎物語人称・四人称:語り手によって三人称で叙述される登場人物が「われ」(視点人物)という一人称で見たり考えたり心中で思ったりする場合、つまり人物についての語り=三人称叙述と人物そのひとの視線=一人称叙述とがかさなるとき(だれかの体験をその人物になり代わって語るという形式をとるアイヌの物語世界における語り手自身の自称=「引用の一人称」を含む)、これを「物語人称」と呼ぶ。または、これを人称の累進(かさなり)と捉えて「四人称」と称する。(第11講「物語人称」)
◎ゼロ人称(語り手人称):語り手の批評や思いが表にあらわに出てくる個所が物語文学に多く見られるが、そうした草子地と呼ばれる場面以外の物語全般にわたっての語り手の語りを一人称叙述とは言いにくいので、時枝国語学の零記号(おそらくソシュールのゼロ記号から来たにちがいない)を応用して「ゼロ人称」と呼ぶ。(第12講「作者の隠れ方」)
◎無人称あるいは虚人称(作者人称):作者は物語の絶対的な深部へとのがれ去り、けっして形姿を見せない。そのような物語作者の人称を「無人称」(亀井秀雄のアイデア)あるいは「虚人称」と名づける。(第12講「作者の隠れ方」)
◎二人称(聴き手・読者の人称):口承文学の現場だと語り手がほんとうに聴き手をあいてに語るし、物語文学ではその語り手とともに聴き手もまた虚構的に作品の内外に設定されるはずだが、なかなああらわれない代わりに、その聴き手の役割を引き受けるのが読者である。作品の内か外かその中間のどこかにいて耳を傾ける聴き手、二人称が想定されなければ物語はありえない。(第12講「作者の隠れ方」)
◎自然称、非人称:自然や生物、無主物など人称でない存在を、非人称とするのではなく、自然称その他(鳥虫称、植物称など)とする。中間的な擬人称というのもあっていい。(第13講「談話からの物語の発生」)
◎物語時称:日本語でかかれる物語文学の基本は非過去=現在時制からなっている。「物語は刻々とすすむいま≠ニいう時間を基礎にして、複雑に分析的に叙述する。いま≠基準にして、過去のことは過去として記録し(「き」によって)、過去からいま≠ヨ注ぎいる経過は「けり」が引き受ける。いま≠サのものの分析には「つ」「ぬ」「たり(「り」を含む)」を擁し、過去の推量はki(「来」あるいは「き」)プラスam「あむ」というように考え、「けむ」を導く。amは推量を形成する要素となる語を推定する。」(第14講「物語時称」)
「物語時称というのは、日本古典語で言うなら一例として、「けり」という、伝来をあらわしうる助動辞によって示されてきた。物語のうちなる時間の流れをあらわし、また叙述が語りの現在へなだれこんでくるときの臨場感を作りだす。新約聖書ヨハネ伝の「初めにことばあり‘き’」というのはいわば誤解で、「初めにことばあり‘けり’」」ならば正しい、という思わぬ副産物も手に入れることができた。(「おわりに」)
[*1]主体なき思いと物語の関係をめぐって。これは第52章5節で引用した議論だが、野矢茂樹氏は『心という難問』において、「日本語で感情を表わす語彙は驚くほど少ない」ことをめぐって次のように述べている。
いわく、たとえば悲しみを表わす語彙はあまりに貧困だが、これは捉え方がずさんだからではない。むしろ逆に、悲しみのあり方はあまりに千差万別だから、日本語はそれをタイプ分けすることを放棄した。そして、無限に多様な理由に応じてそのあり方を特定することで、無限に多様な悲しみの質を表現したのだ。
「私は「相貌」を、「物語によって決定される知覚の側面」と規定した。感情はその理由と本質的に結びついており、理由は記述に依存している。そして記述は物語を開く。(略)つまり、異なる理由で悲しんでいる人は、それぞれ異なる物語を生きているのである。それゆえ、感情を反映した知覚のあり方は、物語を反映した知覚のあり方として、すなわち、相貌として捉えることができる。」(228頁)
野矢氏の物語論はもっと深いのだが(とりわけその相貌論)、ここでは、(リアルな)主体なき思いとしての純粋な悲しみが、あたかも物語という虫籠に囲われた蛍の光のように(物語を生きているフィクショナルな人物の思いとして?)明滅しているさまを思い浮かべるにとどめておきたい。
[*2]第66章3節で触れた「私的言語=カテゴリー(往路)+アレゴリー(復路)」の等式をここでの論脈に置き直すと、まず、言詮不及の純粋経験を語る(示す)「私的言語」は、現実性(アクチュアリティ:A)の界域に属する非(外)言語的な事象(実存)と、実在性(リアリティ:R)の世界に属する一般的・概念的な事象(本質)とを結びつけるもので、このうちA⇒Rの「往路」(本文で言う「文法」が関与する)にかかわるのが「カテゴリー」、R⇒Aの「復路」(同じく「喩法」が関与する)にかかわるのが「アレゴリー」である。
[*3]場違いな註になるが、私は第84章1節で物語を「五次元の伝導体」と規定した。その趣旨は、伝導体が四つの推論(実在の運動)を内部に包摂し、それらを合成した第五の推論(伝導)を稼働させることにあったのだが、それだけではない。
かつて、ケネス・バークの「劇学の五つ組(pentad)」を参照して、「演劇の言語をめぐる五つ組」なるものを考案したことがあった(第77章2節)。すなわち、「舞(act)=文字」「聲(agent)=哥」「設(scene)=舞台」「面[オモテ](agency)=身」「筋(purpose)=物語」。物語にもこれに相当する五つ組を考えることができるだろう。そのことを念頭において「五次元」と表現した。
たとえば『初めて語られた科学と生命と言語の秘密』(松岡正剛・津田一郎)において、松岡正剛は、世界を制作するための初期(石器時代以来の)フォーマットの一例として、最古の叙事詩『ギルガメッシュ』にあらわれた「物語を構成するための基本構造」を話題にしている。すなわち、ストーリー(筋書き)、シーン(場面、プロット)、キャラクター(主人公、登場人物)、ナレーター(語り部)、ワールドモデル(物語の舞台)。
これ以外にも、本文で取りあげた作品の「構造」や「物語人称」(藤井貞和)も五つ組の候補になるだろう。すなわち、物語内世界における、一人称、二人称、三人称の登場人物たち、ゼロ人称の語り手、そして物語外世界における無人称の作者。あるいは、登場人物、物語人称(四人称)、語り手、聴き手、作者の五つ組。
さらには、無名の詠み手(歌謡)、固有名をもった詠み手(独詠)、よみ人しらず、撰者(詠者・編者にして批評家・詞書の書き手・註釈者)、評者からなるアンソロジーの五つ組。
■「強い」私的言語のグリンプス
アンソロジーの伝導体から物語の伝導体へと、議論の焦点が移ってきました。しかし、物語(歴史)は貫之現象学C層第三相で予定している話題なので、ここでは、哥の主体をめぐる第二相へのつなぎの意味を兼ねて、C層における最大のテーマであった「強い」私的言語について、少し考えてみたいと思います。
「強い」私的言語とは、たとえば「光あれ」と言葉にすることと、現に世界に「光がある」こととが区別できないような事態──本章5節の永井氏の表現では、「(世界にあるいはともあれ)起こる」ことと「私に起こる」ことが一致する「世界=私」という、根源的に「無我論=独我論」的な自己把握の水準」すなわち[開闢的なあり方」──にかかわる言語のこと。貫之現象学の世界の根幹にかかわる概念です。
第83章2節で、私は、〈私〉、〈今〉、〈現実〉、〈感情〉(〈思ひ〉と表記してもいい)をめぐる四つの私的言語に加え、〈 〉(無内包の現実性)をめぐる第五の私的言語という類型を呈示し、これを「伝導」(第五の推論様式)と対応させました。また、私的言語の「往路」を担う文法カテゴリーを、「〈私〉:〈今〉:〈現実〉:〈感情〉」⇔「人称:時制・相:様相:態・法」のように対応させ、「〈 〉」には「無人称、無時制、無様相、無態」を割り当てました。
これらのことについては、──独在性の「伝達」(という推論)にかかわる第五の私的言語(第〇の私的言語、あるいは冥界からの死者の言語、沈黙の声もしくはエクリチュールとでも?)こそ、「強い」私的言語そのものであり、その完成態が、そこにおいて「反復(編集)」すなわち「伝導」(という推論)が稼働する「物語(歴史)の伝導体」にほかならない、という見通しも含めて──、藤井貞和氏の物語理論や坂部恵著『かたり──物語の文法』などを参照しながら、さらに考えを深めていきたいと思っています。
ここでは、一点、今後の議論のための補助線を引く、というか、その前提となる大切な視点について確認しておきたいと思います。
永井均著『存在と時間──哲学探究1』第11章の冒頭に、「私秘性と独在性の混同」(185頁)をめぐる議論が展開されています。
私秘性とは、たとえば他者のクオリアを私が直接感じることはできず、私のクオリアを他者に向かって言葉で表現することはできないといったこと(次の引用文で永井氏は「感覚の貧しさ」と表現している)で、これは実在性(リアリティ)の世界での事象。
独在性とは、現実性(アクチュアリティ)の界域における実存がもつ「無内包性=山括弧(〈 〉)性」とでも形容できる存在性格・構造(同じく「「今」[=〈今〉]の貧しさ」と表現している)のこと。(もっとも純粋な独在的実存は山括弧(〈 〉)それ自体、すなわち無内包の現実性(物自体)であって、〈私〉や〈今〉は、物自体の「お零れ」として実在性(リアリティ)の世界に(いわば)片足をつっこんでいる。)
永井氏によると、ヘーゲルもフレーゲもウィトゲンシュタインもこの二つを混同していた(そして、『〈私〉の哲学 を哲学する』以前の永井氏自身もまた)。
《「今」[=〈今〉]の貧しさは感覚の貧しさとは種類が違っていた。感覚の貧しさは、どんな貧しくとも、たとえ言葉で言い表すことができないとしても、いわく言い難い「これ」という‘特定の’内容[=第〇次内包]があった。それは、貨幣価値に変換できないとはいえ自分自身にとっては特別の意味をもつ所持品があるようなものであった。対して、「今」の貧しさは、「これ」と指せるような‘特定の’内容がない[=無内包の]貧しさである。今を今たらしめる特定の内容はなく、今はその内容を刻々と変えていく。逆に言えば、今であった内容はその内容を‘まったく’変えずにただ今でだけなくなる(過去になる)ことができる。それは、自分にとっては特別の意味をもつような所持品さえもない貧しさである。もしそんな所持品があったなら、それは‘内容的に’(他と区別されて)意味のある出来事になってしまうが、今はただ今であるという事実だけによって(その内容とはいっさい関係なしに)他時点から截然と区別されていなければならないからである。(言うまでもないことではあるが、私[=〈私〉]であることについてもまったく同じことがいえる。私であることにも特定の内容がない。)》(『哲学探究1』184-185頁)
これに続く一文。
《しかし、この極限の貧しさはまた極限の豊かさでもある。なぜわれわれが今を(その内容とはいっさい無関係に)他の時点から截然と区別できるのかといえば、今以外の時点はそもそも存在していないからである。これは、じつはそれがすべてである(他のものはじつはすべてその内部にある)という豊かさである。ところが、その豊かさは外的視点や他時点から見ればたんなる妄想にすぎない。つまり、そんな特別の時点などは実在しない。実在するとすればみな‘平等に特別’であるにすぎない。すべての時点は、そのとき起きている出来事の内容の違いを除けば、まったく対等の存在である。といわれても、そもそも外的視点や他時点から見ることなど‘不可能’なのだ、ということこそが先に言われてたことなのだから、そんな批評は痛くも痒くもない、ともいえるところがこの対立のポイントなのである。》(『哲学探究1』185-186頁)
長々と引用したのには、二つの理由があります。
その一は、ごく私的なものです。第75章2節で、私は、「「強い」私的言語は“無内包の現実性”(純粋経験、空虚な器)に、「弱い」私的言語は“第〇次内包のクオリア”にそれぞれ起点を持つ」と書きました。しかし、第41章5節では、「「広義の」貫之現象学の到達点は「クオリア」の言語化にあった」と規定していたのです。「広義の」貫之現象学には、「強い」私的言語が含まれるはず──それどころか、「強い」私的言語こそ貫之現象学の眼目であるはず──ですから、これでは、貫之現象学の到達点が(「弱い」私的言語を包摂する)定家論理学のうちに繰り入れられてしまいます。
これはもちろん、考察を進めていくうち“思慮が深くなった”がゆえなのだから、前言撤回をすれば済むことなのかもしれません。しかし、その上で、あれは思慮が浅かったがゆえではなく、言葉が足りなかったのだと“強弁”しておきたいと思うのです。つまり、「「広義の」貫之現象学の到達点は「クオリア」の言語化にあった」ではなく、「「クオリア」の制作にあった」と書くべきだったと。
二つ目の理由。それは、永井氏の議論を参照することによって、アンソロジーの(私秘性にかかわる)伝導体から物語=歴史の(独在性にかかわる)伝導体へといたる“導管”を見出すことができるのではないか、とふと思いついたからです。たとえば次のようなかたちで。
……アンソロジーを構成する個々の作品群は、それぞれ「これ」と指せる(「これ」と指すしかない)特定の(貧しい)内容をもっている。そこでは無数の(古今集で言えば千百十一の)「心」が、つまり「平等に特別」な「今」と「私」が“跳梁跋扈”している。
やがてそれらが匿名化し、主体なき「思い」となって自在に飛び交い、相互の関係性を結び自己編集を繰り返すうち、混沌の海に生命のDNAが誕生するように、物語の種子が育まれる。実在性(リアリティ)の世界における物語のはたらき(推論)を通じて独在的存在が生成し、やがてそれは歴史という現実性(アクチュアリティ)の界域へといたる。……
(89章に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。
Web評論誌「コーラ」58号(2026.04.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第88章 ギフト/染筆/伝導体(その3)(中原紀生)
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