Web評論誌「コーラ」57号/哥とクオリア/ペルソナと哥 第87章 ギフト/尖筆/伝導体(その2)

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Web評論誌「コーラ」
57号(2025/12/15)

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■神による存在の贈与
 
 永井晋氏は、『談』(no.129/2024年3月1日)に収録されたインタビュー「動きのなかに入り、共に動くこと──「顕現しないものの現象学」から」のなかで、次のように語っています。
《少し整理しておきましょう。現象学的還元ということをハイデガーの方向で突き詰めていくと、地平的な存在者の世界から脱却して、いわば意識(志向性)の地平の手前へと遡っていきます。そこでは「存在すること」は、「私の死」から次第に「私」という存在者にもはや限定されることのない、端的に「存在することそのこと」としての「顕現しないもの」にまで深まってゆきます。そこで、まったく別の経験、私が「実在そのものの経験」とさしあたり呼んでいる経験が立ちあがってくる。この表現は非常に不器用なもので、誤解を受けやすいのですが、それで表現したいのは、それがハイデガーの言う「顕現しないもの」よりもさらに「顕現しない(目立たない)もの」であり、それが本当の「実在すること」だということです。
 ジャン=リュック・マリオンは「顕現しないものの現象学」をハイデガーすらも超えて展開しているフランスの現象学者ですが、彼はこの、真に、あるいは徹底して「顕現しないもの」を「贈与」と呼んでいます。先ほどから言っているように、存在自体は存在しないのですが、ではどうするのかと言った時に、最終的に存在は「与えられる」(「〈それ〉が与える」)、とハイデガーも考えますが、マリオンはそのハイデガーの存在の贈与を顧慮したうえで、「神」が存在を与えると考えるのです。ただ、ここで言う「神」はマリオンの言う「存在なき神」であり、存在より「上位」に、神という究極の存在者が想定されているわけではありません。それでは神は究極の存在者になってしまいますから。それは実体や存在者としてではなく、むしろ「与える」という「出来事」として考えられねばなりません。いずれにせよ、この文脈では「神」、つまり「与えること」こそが真に「「顕現しない(目立たない)もの(出来事)」なのです。
 いずれにせよ、「存在すること」は素朴な現象学や存在論を成立させる地平的なるものによって隠蔽されている、とも言えます。しかもそれは、それを回避しようとするハイデガーの思惟にも付き纏っている。ハイデガーはそれを存在することそのことに含まれる不可避的な仮象の発生として考えていましたが、私はこのような地平的なものの付き纏いをマリオンにならって「偶像化」もしくは「偶像崇拝」と呼んでいます。そこから見ると、存在することそのことが一種の偶像、究極の偶像なのではないかとも思われるのです。「存在そのもの」の現象学的探究はそこから始まります。》(『談』(no.129)49頁)
 私は、永井(晋)氏によって「整理」されたマリオンの思想を、もう一人の永井(均)氏に由来する「実在性(reality)」と「現実性(actuality)」の対概念を使って、次のように理解しています。
 まず、引用文中、「地平的な存在者の世界」とか「素朴な現象学や存在論を成立させる地平的なるもの」と言われているのが、「実在性」のレベル、すなわち諸々の事物事象(現象)の具体的内容やその本質が問題となるの水平軸(地平線)を表現しています。
 次に、「顕現しないもの」が属し、また「実在そのものの経験」がそこから立ち上がってくるのが、「現実性」のレベル、すなわち「それが何“である”か」(内容や本質)ではなく、「ただそれ“がある”こと」(現実に存在している(=実存)という事実そのもの)が問題となる(水平線との対比で比喩的に言えば)垂直軸にほかなりません。言葉遣いを統一しておくと、永井(晋)氏が言う「実在」は、実在性のレベルにおける存在ではなく、現実性のレベルにおける存在、つまり「実存」を指しているものと解することができます。
 以上のことを踏まえると、マリオンの思想の要諦は、@現実性のレベルにおける「顕現しないもの」とは、実在性のレベル(地平)における諸々の存在者に存在を「与える」という「出来事」、すなわち「神」の「贈与」である、A神による存在の贈与は地平的なものによって隠蔽され、その結果、実在性のレベルにおける諸々の存在者は(モーゼの十戒、第二戒において禁止された)「偶像」として現象する、となります。
 この「神」が「存在なき神」であることをめぐって、次節で、マリオンの著書を取りあげます。
 
■偶像、イコン、受肉
 
 マリオン著『存在なき神』(永井晋・中島盛夫訳)の第一章から、「偶像」(希:エイドーロン)と「イコン」(希:エイコーン)をめぐる議論を、任意に抽出します[*1]。
 
「偶像は、それが満足させるまなざしに依存している。」(13頁)
「偶像は、見えない鏡として、まなざしにその停止点を決め、その射程を測定する。」(17頁)
「…偶像は神的なものを、人間のまなざしに合わせて記録する。…こうして初めて、人間の芸術が偶像に与える物質的な形姿が何を表わしているのか、何に似ているのかを尋ねることも道理に適ったものになる。」(19頁)
「ある哲学的思惟が、それが「神」と名づけるものについてある概念を述べるとき、その概念はまさしく一個の偶像として働く。」(22頁)
 
「イコンは見ることから生じるのではなく、見ることを生じさせる。イコンは見られる(se voir)のではなく、現われる。」(23頁)
「…聖パウロがキリストに対して用いた、…見えない神のイコン…という表現は、…あらゆるイコンについて一般化されるべきでさえある。…それは見えるもののイコンではなく。見えないもののイコンなのである。」(24頁)
「イコンはまなざしに、見えるものの上に決して凝固しないでおのれを乗り越えてゆくように命じる。」(25頁)
「見えないものは、その受肉の描かれた可視性とわれわれの肉の事実的な可視性とを通じて、…われわれを召還する。それはもはやわれわれのまなざしの見えない鏡としての見える偶像ではなく、見えないものの見える鏡としてのわれわれの顔なのである。」(31頁)
 
 このようなマリオンの思考を、永井(晋)氏は『〈精神的〉東洋哲学──顕現しないものの現象学』第一章「現象学の〈神学的転回〉」で、ミシェル・アンリの「自己触発/自己産出」の思考とあわせて「受肉/イコンモデル」[*2]の区分のもとに解説しています。
 いわく、マリオンの「贈与体験」は、経験一般の条件となるいかなる差異化(媒介)をも、偶像を発生させる危険のあるものとして徹底して解体=還元し、〈神そのもの〉の真に無条件・無媒介な体験を解き放とうとする「神の現象学」の中でも最も大胆な試みである。
《「神を見ようとする」「感性的な視覚」だけでなく、それを論理的に論証しようとする「概念」もまた神を限定し、有限化する偶像として働くため、〈神(一者)そのもの〉は現象学的に直接体験されなければならないが、それは一を一のままに「被り」、それに「身をさらす」法外な体験である。その神学の枠内での例が東方教会のイコンであるが、イコンは体験に現れる「像」(元型イマージュ)でありながら、地平を(外的)媒介として見られた、あるいは見られるべきものではなく、神から一方的に、直接・無媒介に「与えられた」像、神が受肉を通して(世界に先立って)現れた像だからである。この受肉=イコンをモデルとした「神そのもの」の法外な現象性は、あらゆる媒介・差異を「飽和」し、あらゆる地平的な空虚志向をいわば「‘超’充実」して過剰に現れ切る究極の現象として「現象そのもの」の実現とされる。
 これは原媒介も含めて、一者を何らかの仕方で多様化するあらゆる媒介を否定し、「内在/超越」のカテゴリーに先立って与えられるために「内在的超越」ですらない「一者そのもの」の純粋贈与であるから、アンリの場合にも増して「神一元論の偶像崇拝」に陥っていると考えられる。》(『〈精神的〉東洋哲学』15-16頁)
[*1]『存在なき神』からの断片的な“スクラップ”を通じて、おぼろげに浮かんでくる構図を描いてみると、次のようなものになる。
 
                         【神】
                           ┃                        
                           ┃
                         受 ┃ 肉
   見えない   <偶 像>            ↓     見える
    鏡 ━━━━━●━━━━━    ━━━━━◎━━━━━ 鏡
           ↑            <イコン>
         まな┃ざし          (キリスト)
           ┃ 
           ┃
          【人間】
 
[*2]永井晋氏は「現象学の〈神学的転回〉」において、「〈神そのもの〉への現象学的接近」のモデルを、三つの一神教におけるそれぞれの体験をもとにして、次のように示している。
 
 (1)受肉/イコンモデル(キリスト教)
 (2)テクスト/エロスモデル(ユダヤ教)
 (3)鏡像/元型イマージュモデル(イスラーム神秘主義/グノーシス)
 
 これらのモデルの順序は、歴史的なものではなく、「神そのものに向かう還元の段階と、それぞれのレベルで開かれる経験のタイプを示している」(12頁)。ちなみに、私の“構想”では、「受肉モデル」が貫之現象学C層第一相に、「元型イマージュモデル」が同第二相に、そして「テクストモデル」は同第三相に関連する。
 
■神による刻印、尖筆へ
 
 前節で引いた文章の最後に、マリオンの思想に対する批判的な言葉が出てきました。このことについて詳細に、あるいは概略的に紹介する力は私にはないので、ここでは、この批判をより一般化したかたちで、永井(晋)氏が、同じ論文の「受肉とテクスト」の項に書いた文章から、関連する議論を援用したいと思います。
 いわく、ユダヤ教において、神との無限の距離を「原媒介」する唯一のものは文字テクスト「トーラー」であった。これに対してキリスト教はこのテクストを「空虚な記号」とし、イエスの受肉の出来事こそが神との距離を真に媒介するものであると主張した。(13頁)
 キリスト教の受肉の教義は、三位一体以外の多様性をすべて偶像として断罪し、それらを神の唯一性に回収=還元することによってのみ、神そのものに到達すると考えた。一方、ユダヤ教およびイスラームにとって、神人イエスの受肉による神の啓示/顕現こそ偶像そのものにほかならなかった。(16頁)
 受肉モデルには根本的な過ち、「回顧的錯覚」(ベルクソン)が潜んでいる。それは、テクストの身分に関わる神学的誤解である。過去(想起できない超越論的過去)を振り返るならば、それは確かに、起源に現前した神が立ち去った後の空しい痕跡に過ぎない。
《しかし、テクストに、そこから分離された外部(被造界)から接近しようとする顕教的なタルムードのユダヤ教ではなく、テクストを原媒介として神の内部に入ろうとする──あるいはエロス的愛撫によって神に微かに触れようとする──神秘主義/グノーシス(カバラー)においては、テクストの身分に関するこの理解、すなわち「生ける現在」の地平の内部に回収することによる理解は、テクストを偶像化するものとして間違っている。‘初めに’臨在/存在した神がその痕跡としてテクストを残して立ち去ったのではなく、神は「‘はじめ’」‘から’不在なのであって──この不在もしくは原反復こそが「神そのもの」を定義するとさえ言える──、従ってそのテクストはアナーキーな、根拠なき「‘原’痕跡」(レヴィナス)なのであり、(回顧的に想定された)起源の充実を再び求める(志向する)こともない。というよりもむしろ、それが充実されるや否や、それは神が「到来した=現前した」という不可能な、誤った事実ゆえにすぐさま偶像として解体される(還元される)のである。要するに、この「原」痕跡こそが、起源/終末において「現前/存在する」神を偶像として解体した後に残る唯一の〈神〉の現れなのであり、それを読む=解釈する行為の遂行の只中でのみ、体験の原内在において生命の跳躍の〈動きそのもの〉を内側から体験するものとして、〈神そのもの〉が経験されるのである。》(『〈精神的〉東洋哲学』17-18頁)
 永井(晋)氏のこの議論は、「受肉からテクストへ」という論脈のなかでのものでした。本稿のこの段階では、いま少し「受肉」の圏域にとどまりたいので、唐突ですが、ここでは、私自身の関心[*1]にそくして「マリオンからデリダへ」と話題を転じることにします。
 もっとも、そこに繋がりがまったくないわけではありません。「受肉=イコン」をめぐって、永井(晋)氏は、受肉を通して神から無媒介的に与えられた像すなわちイコンのことを、「元型イマージュ」(井筒俊彦)とも呼んでいました。「元型」(archetype)とは、ギリシャ語の「アルケー」すなわち「天」と「テュポス」すなわち「令(命)=刻印」を組み合わせた「アルケー・テュポス」すなわち「天命(最初に刻印されたもの)」である、というのが安田登氏の説でした(本稿第71章第4節参照)。
 私は、この「刻印」[*2]を、受肉とは異なるもうひとつの神による贈与と解し、かつ、刻印すなわち文字を刻む=掻く=書くことにつなげて、デリダの著書『尖筆とエクリチュール──ニーチェ・女・真理』(白井健三郎訳)を一瞥しておきたいと思うのです[*3]。
 
[*1]私自身の関心には深浅二層があって、その深層における関心は「広義の」貫之現象学もしくは「強い」私的言語にかかわるものだ。
 西田幾多郎の文章──「雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたものでもよい。元來物と我と區別のあるのではない、客觀世界は自己の反影といひ得る樣に自己は客觀世界の反影である。我が見る世界を離れて我はない」(『善の研究』)──を借用して、私は貫之現象学の世界を「貫之が自然を詠んだものでもよし、自然が貫之を通して自己を詠んだものでもよい。…我が詠む世界を離れて我はない」と表現した。このことについて、かつて書いた文章を自己引用する(第44章第2節)。
 
 ……すなわち「貫之が自然を詠む」ことと「自然が貫之を通して自己を詠む」こととが区別できない、あるいは思いとその思いが実現すること、思いを言葉にすることとその言葉がそこにおいて立ちあがる世界そのものが出現(開闢)すること、私が悲しいことと世界が悲しいこと、等々が(あたかも夢の中の出来事のように)区別できない「暗に独我論的」な貫之現象学の世界。
 そのような、「純粋経験」の言語化を可能ならしめる「場所」の創造にかかわる、もしくは「いにしへ」の世界を「今、ここ」に立ちあげる「新しい詞」の探究にかかわる貫之現象学には、広狭二義の異なる存在様態がある。
 古今集仮名序に即して規定すると、「人のこころ(たね)⇒よろづのことのは」の、あるいは「一つこころ」を「たね」(媒介・媒質もしくは培養器)とする「よろづ⇒ことのは」の「やまとうた」の発生(発声)プロセスが広義の貫之現象学に、「世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心におもふことを見るものきくものにつけていひいだせるなり」の和歌詠出のプロセスが狭義の貫之現象学にそれぞれ相当する。……
 
 「広義の」貫之現象学は──「純粋経験」を通じて言語がつくられ、そしてその言語が世界そのものであるところの──「強い」私的言語をもたらす(あるいは、「強い」私的言語によってもたらされる)。私の関心は、こうした「モノ」(自然)と「ココロ」と「コトバ」の絡み合いが、受肉・啓示・刻印といった神による贈与の問題と(文化や思想的伝統の違いを超えて)パラレルな関係を切り結ぶのではないかというものだった。
 この点について突き詰めて考える余力が私にはないので、本文ではただ表層的関心にしたがって流れていくしかなかったが、ここが本来、貫之現象学C層を考察する場であることは忘れていないと、自分自身に確認するためこの註を挟んだ。
 
[*2]刻印は「刺青」に通じる。三浦雅士氏は『人生という作品』で次のように書いている。
《…原初においては文字こそが鏡だったのだ。白川静が「文とは文身であり、出生・成人・死葬の際の通過儀礼を示す字である」と繰り返すのは、畢竟、そういう意味である。(略)
 通過儀礼において身体に文字が付されるのはなぜか。その文字こそが、私という破片を取りまとめ、私を私として存らしめる結節点となるべきものだったからである。私の意味はその文字なのだ。(略)
 だが、刺青は見るべきものではあっても、声に出して読むべきものではない。象形文字は、鏡と同じように、意味は持っていても声を持っていたわけではない。持っていたにしても、声に出してはいけないものだったろう。だが、世界を、そして自分を、意味として立ち上がらせる端緒としては完璧だったのである。
 象形から形声にかけて起こったことは、文字が果たした最初の役割を忘れることだったと言っていい。忘れたからこそ、声に出すことができるようになったのである。》(『人生という作品』110頁)
[*3]『尖筆とエクリチュール』には「贈与の攻撃」というテクストが収められているが、本文で触れることはできなかった。──デリダの贈与論について、岩野卓司氏が「贈与は贈与にあらず!?──ジャック・デリダの贈与論についての一注解」(『明治大学教養論集』526号(2017年9月))において、デリダの『時間を与える』を取りあげている。
 
「贈与は,その定義を厳密にとるならば,決して想起されることもないし,意識に再び現れることもないし,贈与として認知される機会ももたない,「絶対的な忘却」なのだ。こういった忘却の状態においてのみ,贈与は生起する。このように考えると,贈与の「無意識」は,想起して再び意識に‘現れる’ことのないものであり,この点でももう「現前の形而上学」の内部に留まる概念ではなくなる。」
 
「僕らが贈与として理解してきたものは,実は贈与ではなく,交換だったのだ。贈与自身はいつも忘却され排除されてきたのである。」
 
「経済の第ーのモチーフが循環であるとすれば,贈与のもつ役割は副次的なものに留まることになる。というのも,贈与は「相互性,返還,交換,反対贈与,負債」でないからである。モースの『贈与論』においても,贈与と返礼の互酬システムが問題になっていたし,レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』でも,女性の交換の循環システムが重要であった。彼らが語るものは,厳密な意味での贈与ではなく,贈与を通しての循環なのである。」
 
「デリダは差延という独自のタームで贈与と返礼のあいだの時間差を表現しているのだが,差延は終わりなく遅延する可能性を卒んでいる。少々意地悪く考えれば,モースの意図に反して,モースのテクストはお返しが不可能になる危険をかかえているのだ。期限が設けられても,期限の時は終わりなく先送りされ,返礼も終わりなく遅れるかもしれないのだ。そう考えていくと,この贈与は無限の時間を与え,お返しを終わりなく遅れさせて,贈与交換の円環を閉じさせることを不可能にする可能性をもっている。贈与が一方的な贈与に終わるかもしれないという,バタイユなどが主張するような可能性がそこには見えてくるのだ。」
 
「「現れない」贈与が「現れない」時間を与えるという,奇妙な贈与論を示すことによって,デリダは交換中心の経済が現前中心の発想と密接な関係にあることを暴露し,モースのテクストを「現れないもの」から読み解くことに成功している。さらに,経済を根本から支える「循環」の発想に「終わりなき遅延」という爆弾を装填しながら,「循環」を不可能にする可能性を探っている。こういった贈与の考えを示すことによって,交換の優位を支える階層的な二元論を問い直していくのだ。」
 
■生まれつつある言葉の姿─石川九楊の尖筆=筆蝕論
 
 さて、「マリオンからデリダへ」などと大見え切って話題を転じてはみたものの、私には、デリダの込み入った言説を自力で腑分けし解読する度胸も力量もないし、そのための蓄積や時間的余裕も持ちあわせていないので、ここでは(ここでもまた)先達の肩に乗って、「受肉から尖筆へ」という論脈にそって、デリダの思考を文字通り“一瞥”することにします。
 先達とは書家の石川九楊氏のこと。その石川氏が1992年に初めての書き下ろし単行本として刊行した『筆蝕の構造──書くことの現象学』が導きの書になります。以下、ちくま学芸文庫版を底本として収録した『石川九楊著作集Z 筆蝕の構造 書字論』からの抜き書きのかたちで進めていきます。
 
 一 書くことと話すこと
 
「通常、文字と呼ばれているものは‘書かれてある言葉’、つまり、言葉の具象的塊りであり、言葉の肉体である。本当は「文字」と呼ばれるものなどはどこにも存在せず、書かれた言葉の痕跡のみが実在する。しかしながら、その痕跡には「書く」という人間の重大な行為が定着されてある。文字と呼ばれているものは「書く」という行為を通して作者の意識や無意識が表出されている言葉の具象的塊りである。私たちは「文字」という虚構の枠組みに訣[わか]れを告げ、「書く」ことを考察しなければならない。」(94頁)
 
「「言葉」一般という存在があって、それが「話し言葉」と「書き言葉」に二分されて存在しているのだと私たちは錯覚しがちで、そこから身振りや手振り、顔の表情などと無関係に「話し言葉」というものが存在するようにも錯覚する。」(98頁)
 
 二 筆蝕
 
「「書く」ことと「話す」ことを分けるもの、それは〈筆蝕〉つまり、書き手が手に握った尖筆の尖端と被書字物である紙とのあいだの接触と摩擦と離脱の劇[ドラマ]──〈触〉と、その残された痕跡──〈蝕〉の有無である。」(121頁)
 
「「書く」ことの本質は、言葉以外の漏出的表出を基本的に許さないところにある。(略)
 話し手の身体から離れられない話し言葉は、話し手を震源に放射される。激してくれば語気は荒くなり、全身を用いての表現に及ぶ。話す場合には身体各部を使って洩らすことのできる表出が、書く場合には基本的に許されない。
 筆記具=尖筆が例外なく先端に向かって尖り、漏斗状であるのは、すべての身体的振動、表出が筆記具=尖筆の尖端へと一点に集められ、発現される構造を暗示している。尖筆に集められる以外には漏れ出るところがない「書き言葉」は、この身体各部から漏れる表出の不足感が表現の根源的本質である。言いつくしえないところから出発し、その不足を埋めるためにひたすら書きつづける。」(129-130頁)
 
「「書く」ことによってもたらされた言葉の新しい質は、目に視えない〈触〉、つまり抵抗・摩擦を本質とする自省性の言葉、さらには目に視える〈蝕〉、つまり痕跡を媒介とする線性の言葉と言える。「書かれた」言葉は、目に見[ママ]える形として現われるから、順序的・時間的に組織され、すでに書かれた言葉に次の言葉は繋がっていく。/ここに言葉の新しい形態である歴史が獲得された。」(133頁)
 
「「書く」表出、表現においては、〈触覚〉と〈痕跡〉が統合された〈筆蝕〉が考える。「話す」ことは作者の身体を離れることができず、身体の一部や全身で考える──声帯と空気の接触が考えるとも言えるのだが──。対して、「書く」表出、表現では、作者の身体の少し先の外部に生起する〈筆蝕〉が考える。言葉が発火誕生している場、つまり〈筆蝕〉の生じる場が書き手の身体、指先よりわずか数センチずれ、かつ間接化ししていることが表出の上では決定的なことなのだ。」(135頁)
 
 三 〈筆蝕〉と文学
 
「「書」が「かく」表現の一種である以上、そこには「欠く」要素も、「掻く」要素も、「描く」要素も、「画く」要素もすべてが染色体に刷り込まれている。刻られた書があり、文様のように掻かれた書があり、線画[ドローイング]のように画かれた書があり、絵のように描かれた書も存在する。」(161頁)
 
「一篇の詩や文は、書き出しである最初の起筆から最後の句点に至るまで、前言語帯域である〈筆蝕〉、〈字画(起筆・送筆・終筆)〉、そしてそれらが形づくる文字がその全過程を裏打ちし、その成立を保障している。一篇の詩文は書字の微粒子的律動たる〈筆蝕〉によって、その全過程をまちがいなく支えられている。〈筆蝕〉は詩文以前の前段階の行動であるばかりではなく、現実に詩文を成立させている無数の梁、支え、骨格でもる。〈筆蝕〉は詩文そのものではありえないが、詩文の影として等身大、合同に存在している。のみならず、詩文が誕生するまでの書かれた全過程をなまなましく定着している。」(163頁)
 
「話し言葉はいま、まさに発しつつある声と音韻に導かれて次の語を引き出してくる。声であるがゆえに、途中で止まれない。他方、「書き言葉」は、〈触覚〉と〈痕跡〉の統合である〈筆蝕〉が次の言葉を引き出してくる。いわば、〈触覚〉的韻である〈触韻〉、〈痕跡〉的韻である〈痕韻〉が言葉を引き出してくる。」(183頁)
 
 四 スタイル
 
「尖筆とは剣である。軸に筆鋒を挟み込んだ尖筆と柄に刃物を差し込んだ剣とは同じ構造にある。しかし、尖筆は剣ではない。剣は相手を斬り倒すことによって世界の関係構造を変えるが、尖筆がふりおろされる目的は対象である自然や社会を傷つけたり、抹消することそれ自体ではない。外科医のふるうメスのように、対象の肉体や生命を救うためのものである。」(193頁)
 
「対象に敷きつめられている歴史的に重畳した言葉に、尖筆をもって新たな切り込みをつくっていくことが「書く」ということである。尖筆のふるまいは、歴史的言葉を掘り起こし、その掘り起こし方によって、新しい言葉を創造する営為である。それはペンや尖筆の動いた跡、つまり達筆であるか否かというような筆者の筆記用具の扱い方の技術の如何ではない。ひとつの詩文が生まれるまでには、無数の創傷が積み上げられている。しかもそれは、でたらめな、任意の痕跡の集積ではない。あくまでひとつの詩文を作り上げていくための、歴史的で秩序だった過程に導かれて付けられる無数の傷痕である。そこに出現する〈筆蝕〉には、言葉が組み立てられていく戦略戦術のすべてが盛られている。
 毛筆に限らず、ペンや万年筆、どのような筆記具で書こうとも、〈筆蝕〉は必ず「書く」姿、新たな世界を切り開く戦略と戦術と新たな世界を切り開いている姿とを盛る。
 文字とは言葉そのもの、言葉の塊り。筆跡つまり〈筆蝕〉のふるまいは、いままさに出現しつつある言葉が固まりつつある姿である。
 〈筆蝕〉を克明にたどれば、たとえ百年前、数百年前の筆跡であっても、その時点での生まれつつある言葉の姿[*]を想像的に復元することができる。見る側に用意さえあれば、〈筆蝕〉から言葉が誕生しつつある過程が手にとるように見える。百年前、数百年前の筆者が眠りから醒めて起きだし、筆を動かしている。むろん、筆者の姿がそっくり甦るわけではないが、紙の上を動いていく尖筆の尖端の力、確度、速度、浮沈の過程は、〈筆蝕〉から呼び起こすことができる。言葉が誕生しつつあるこの姿を抜きに、筆跡や書の美は語れない。筆跡や書の美と呼ばれているものは、この姿の彼方に見えてくる。」(193-194頁)
 
 ──筆者はこの後、アランやヴァレリー、江藤淳や吉本隆明、谷川雁、石川淳、等々、そしてデリダ『尖筆とエクリチュール』からの引用をちりばめながら論を進めていく。
 
[*]「生まれつつある言葉の姿」あるいは「いままさに出現しつつある言葉が固まりつつある姿」や「言葉が誕生しつつあるこの姿」は、尼ヶ崎彬氏の「詠みつつある心」を想起させる。「文字とは言葉そのもの、言葉の塊り。筆跡つまり〈筆蝕〉のふるまいは、いままさに出現しつつある言葉が固まりつつある姿である。」──これは、連綿するかな文字のふるまいを通じて一首の和歌が出現し固まりつつあるプロセスを言い表わしている。
 
■文体と書体─石川九楊の尖筆=筆蝕論
 
 四 スタイル(承前)
《文体[スタイル]=尖筆の問題を問うこと、それはつねに或る尖った物体を検査すること(l'examen)であり、重さをはかること(le pesant)である。
 ときとしてはたんにペン先(plume)についてのそれにすぎない。
 しかしそれはまたまさに細身の短剣(stylet)、さらには短刀(poignard)についてのそれでもある。なるほどたしかに、それらを用いて、人は哲学が素材(質料)もしくは原型の名のもとに訴えるところのものを残酷に攻撃して、そこに一つの印[マルク](marque)を突きさし、そこに一つの刻印(empreinte)もしくは一つの型〔形、形相〕(forme)をのこすことができるが、しかしまたそれらを用いて脅しをかけてくる形〔物腰、態度〕(forme menaçante)を押し返し、そうした形を距離をへだてたところに保ち、それを撃退し、それから身を守ることもできる──そのさい、自分のからだを折り曲げるか、あるいは逃げながら、ヴェール=帆(des voiles)のかげに退却するのだ〔ふたたび身を折り曲げるのだ〕。(略)
 したがって尖筆(style)は、みずからを“現前させ”、頑強にみずからを眼に見させる(ものの)、おびやかし、盲目にさせ、死滅にみちびく脅威にたいして、その éperon〔突出部〕でもって守ることもできるもの‘でも’ある。したがって尖筆(style)は、現前、内容、事物そのもの、意味、真理を守るものである──すくなくともそれが‘すでに’、差異ということの暴露〔ヴェールを取りのけること〕のすべてのうちにもぎ取られた深淵ではないという条件においてである。》(『尖筆とエクリチュール』34-36頁、『石川九楊作集Z』196-197頁)
 ──石川氏はここから「文体」と「書体」の問題に分け入る。文体(尖筆の側に吸収されるスタイル)を底辺で支えているのが書体(被書字物の側に定着されるスタイル)である(201頁)。
《拍車をつけてすすむ〔衝角で突きすすむ〕(éperonnant)尖筆(style)は、長い、横長の物体であり、それが穴をあけて刺しつらぬくかぎりにおいては防御の武器であり、その周囲に張られ、巻かれ、拡げられる、織物、布地、帆〔ヴェール〕からその魔除けする(apotropaïque)力を保持している長い葉状の切尖〔突出部〕である。》(『尖筆とエクリチュール』39頁、『石川九楊作集Z』203-204頁)
「…デリダは書くことが身体や、手のふるまいではなく、筆記具である尖筆のふるまいであるところに着眼している。しかし、それでもまだ〈筆蝕〉という尖筆の先端と紙(対象)との接触と摩擦と離脱の劇が言葉を生む構造を覗き、言いあてたとは言えない。」(204頁)
 
「〈筆蝕〉は言葉を引きだす力の源泉であるにとどまらず、書かれた言葉の表現性、芸術性の源泉でもある。〈筆蝕〉が詩文の芸術性であるスタイルを生む。」(204頁)
 
「筆跡から、筆跡の向こう側に透視される、被書字物──自然や世界──を傷つけていく尖筆のふるまいであるかのように見える〈筆蝕〉。〈筆蝕〉自体のふるまいとしか言いようのないもの──従来、美術的にか人格的に扱われてきたもの──、それは〈書体[スタイル]〉の美であるという推論が成立する。」(204頁)
 
「西欧に〈書体〉、つまり東アジアの書に相当する概念が成立しなかった…理由は、西欧の尖筆が硬筆でありつづけたからだ。硬筆に生じる〈触覚〉の振幅は狭く、単調であり、字画の〈痕跡〉はあまりに細く、あまりに限定的である。西欧の鷲ペンは確かに〈筆蝕〉をとどめているけれども、東北アジアの軟筆=毛筆のように変幻自在な表現性をもった〈触覚〉と〈痕跡〉ではない。このため、不十分な〈書体〉は文体の側に吸収され成長していった。
 東北アジアの毛筆、つまり軟筆はその〈触覚〉と〈痕跡〉の振幅の大きさによって、〈書跡〉を単なる〈書跡〉に終らせず、〈書跡〉の中に〈刻跡〉をも比喩として二重に表現することによって、〈刻跡〉の閾値を超えた表現を可能にした。これによって、文体以前の〈書体〉が漏出し、定着する構造を保存してきた。〈書体〉の豊かな表現性が文体の成長を阻んだのだ。
 そして、西欧の硬筆と東北アジアの軟筆は、西欧の思想と東北アジアの思想との違いをも明らかにしている。筆尖が硬く、硬い対象に対して深い傷をつける硬筆の尖筆は、明らかに人間の側が一方的にふるまうことのできるものと考えている。ここから文体は書き手のふるまいであると考えることができる。これに対して、東北アジアの軟筆は、加えた力と反発する力との間にあそび=ずれがあり、その〈触覚〉は微妙である。軟筆においては書き手のふるまいとそこに生まれる〈痕跡〉とのあいだには、最初からずれが生じることが前提となっている。〈書体〉は人間の一方的なふるまいによって生まれるのではなく、接触した対象である自然や世界によって限定され、変容させられて生まれる。つまり書く人間と対象である自然や世界との合作として〈書体〉は生まれるという思想が前提として横たわっている。」(211-212頁)
 
 ──唐突ながら、本稿の主要関心事にことよせて考えると、尖筆(毛筆)が生み出すスタイル(かな連鎖の姿)としての「歌体」なるものを想定することができるかと思う。そして、前言語帯域である「筆蝕」(書字の微粒子的律動)に裏打ちされた「歌体」をめぐって、漢字(万葉仮名)による表記やアンソロジーと“かな文字”による表記、アンソロジーとの違いといった論点を立てることができるだろう。
 ついでに書いておくと、アンソロジーとは伝導体である。万葉仮名による伝導体と“ひらがな”(女手)による伝導体との違い、たとえばそこにおいて、「伝える」のではなく「伝わる」ものとはいったい何なのか、そしてそれぞれにおける伝わり方はどう違うのか、といった論点を立てることができるだろう。
 
(58号に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」57号(2025.12.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第86章 ギフト/尖筆/伝導体(その2)(中原紀生)
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