本誌創刊号以来18年に亘って連載中の中原紀夫さんが療養中のところ、2025年8月20日に逝去されました。享年72歳でした。ご冥福をお祈り申し上げます。
亡くなる数日前に、書きためていた草稿を送っていただきました。今後もその草稿が尽きるまで連載を続けます。その精神力と継続力にはいつも敬服していましたが、まさに思考し続ける「哲学者」でした。
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■これまでの議論の概形的な振り返り
貫之現象学C層の議論に入る前に、これまでの軌跡を、概略的かつ外形的に振り返っておきたいと思います。
T.貫之現象学A層
(1) 錯綜体/アナロジー/論理
(2) 夢/パースペクティヴ/時間
(3) 映画/モンタージュ/記憶
A層が考察の対象としたのは、いわば「哥の内容」です。これを単純化もしくは窮極的に言い換えたのが「(哥の)こころ」にほかなりません。この「こころ」をめぐって、「錯綜体」(無意識の心もしくは無意志的想起のメカニズム)から「夢」(夢見る「われ」と夢見られる「われ」とに分岐する心)へ、そして「映画」(スクリーンすなわち貫之歌における水底や屏風、さらには高次元の言語空間=(「もの」という)鏡、あるいは古代を超え原始に遡って洞窟壁面、等々に映じるペルソナの心)へと、駆けあがっていったわけです。
また、それぞれの相における「こころ」のはたらきの様態、その稼働原理にあたるもののことを、それぞれ「アナロジー/パースペクティヴ/モンタージュ」の概念でとらえ、そのはたらきの産物とも言えるものを、「論理/時間/記憶」として捉えてみました。
こうして、最終的に到達した「こころ」が、B層の起点となる「純粋経験」にほかなりません。
U.貫之現象学B層
(1) 純粋経験/私的言語/アレゴリー
(2) 純粋言語/声と文字/アナグラム
(3) ことだま/詞と辞/アイロニー
B層の考察対象は「哥の媒体」、つまり「ことば」です。この「ことば」もしくは「ことのは」の実相をめぐって、言詮不及の「純粋経験」を語るコトバすなわち「私的言語」に発し、「声と文字」からなる人間の(諸)言語へ、そして「詞と辞」の文法的交錯による“やまとことば”へと議論を進めていきました。
また、それぞれの相における「ことば」の存在様態を、「アレゴリー/アナグラム/アイロニー」の概念でとらえ、言詮不及の界域における「ことば」のはたらき(語義矛盾を犯していますが)として、「純粋経験」に加え、「純粋言語」(神の言語)や「ことだま」(心に「志向的クオリア」を与える言葉のはたらき)について一瞥しました。
そして、その最終的な到達点が、前章の末尾に記したように、「和歌(日本語による詩歌)における身体性を伴った律動、一つの根本的な身体的・言語的律動(詩的律動)」(浅利誠)であり、「もはや人称的規定を脱した情念の深みの原初の律動」(坂部恵)にほかならなかったわけです。
私は、ここで言われる「原初の詩的律動」を、かつて(第4章で)、貫之現象学のトリアスの第一項として導入した「ギフト」の語のもとで考察したいと考えています。
さて、あらためて振り返ってみると、これまでの議論は、その流れが逆になっていたことに気づかされます。
というのは、原初の詩的律動という「ギフト」は、「せめて歌によみてひたぶる心をなぐさめむとする心」(『真言弁』)に通じていて、このような「ひたぶる心」(富士谷御杖はこれを「神」と呼ぶ)が起点となり、「ひとのこゝろをたねと」する「やまとうた」が世界のうちに現われる、やがて「歌の道の深き心」(俊成『古来風躰抄』)や「詩的主観」(尼ヶ崎彬『花鳥の使』)が造形される、そして「世中にある」歌人によって、「見るもの、きくもの」に託けて──集団的に、かつ“やまとことば”の「言語伝統」(小林秀雄『本居宣長』)を踏まえて──詠みいだされることになるのが、具体の「歌(の心)」にほかならないからです[*]。
つまり、貫之現象学C層における哥の発生や詠歌主体、和歌の歴史をめぐる議論がまず先にあって、次いでB層における「哥の媒体」(ことば)の吟味が、最後にA層における「哥の内容」(こころ)の考察が続く、というのが事柄・事象の自然な流れに即した論述の順序だったのではないか、ということです。
ただ、もうここまで来たからには、いまさらやり直すわけにはいかないし、そもそも私の発想の根底には、つねに、「個体化とは、一番最初にあったものが、生成の過程であたかも一番最後に現象するごとく語るしかない事態に見られるものだ」(山内志朗『天使の記号学』)という命題が、確固として潜んでいます。場違いな引用であることを自覚しつつ、あえて述べてみました。
それでは、いよいよ貫之現象学C層の門前へ。
[*]回りくどい言い回しになったのは、次のような私自身の“和歌観”を表現しておきたかったから。
「和歌(みそひと文字)とは、世界の開闢とともにあったやまとうたの伝統のうちに結晶する心が、実生活における歌人の具体の心を使って自己を詠み出したものにほかならない」(第5章第4節、第6章第3節)。
「始まりの言語としての「やまとうた」から、世の中にある人が日常的に使う「ことの葉」の体系が発達する。この言語によって、「ひとのこゝろ」それ自体が切り分けられ、より複雑な「思い」が生まれてくる。/他者に伝えたいと思う心、言葉にして「いひいだ」したいと思う心が生み出される。そして世の中にある人、たとえば歌人が和歌を詠み出す。」(第43章第2節)
■これから取り組むこと、貫之現象学C層の課題
あらかじめ、C層の目次、というか予定を示しておきたいと思います。
V,貫之現象学C層
(1) ギフト/尖筆/伝導体
(2) フィギュール/鏡/仮面
(3) パランプセスト/珠玉/歴史
C層で考察するのは、(先走って述べておいたように)、哥の発生とその後の展開、具体的には、@哥が生まれいづる現場、A哥を言いいだす主体、B哥の世界の無意志的な展開(編集)とその歴史(空間的配置と履歴、時間的積層)、といった論点にほかなりません。
以下、それぞれの相をめぐって、いわば“トレーラー”もしくは“売立目録”のごときものを書いてみます。
まず、第一相では、上方から降下する不可視の神のことばであるか、地平線の彼方から来訪する(音連れる)仮面のカミのことばであるかは問わず、およそこの世のものではない、クオリアにあふれた「原初の律動」(ギフト)の到来を哥の発生の起点に据え、それを文字として書くこと、すなわち尖筆(スタイラス)をもって書く=掻くこと、印を刻むことを通じて、初期歌謡が独詠へと“変質”し、やがてアンソロジー(伝導体)として後世に伝わっていく、その展開のプロセスを取り扱う。
続いて第二相。哥の集蔵体(アンソロジーは“表層”にあらわれた集蔵体である)がかたちづくる「こころ」、それを本稿ではかつて「容器としての心」(第20章、第28章)と名づけたのだが、この、いわば集合的な心の領域から、個的な「孤心」が詠歌主体として、フィギュール(かな文字)とともに立ちあがり、言語世界という鏡を介して分岐・複線化し、やがて様々な姿=あらわれ(他者、死者、仮面、等々)として、空間的かつ時間的に折り畳まれ重層化していくことになる、そのような「(詠歌)主体」の発生とその“生長”のプロセスを取り扱う。
最後に、第三相では、ミルフィーユ状に積層化された詠歌主体(あるいは「詠みつつある心」)のパランプセスト、その厚みのない質料ゼロのスクリーンにおいて上演(反復、引用)されるペルソナたちの仮想の物語群が、珠玉(詞)のはたらきを介して、ひとつの(あるいは複数の)歴史へと編集されていくプロセスを取り扱う。
意味の通らぬ譫言を弄してしまいました。前口上を切りあげるべき潮時ですが、あとすこし、個人的な備忘録をかねた覚書をつづけます。
以下は、貫之現象学C層において取り組むべき課題もしくは“宿題”として、これまでこの論考群に書き残してきた覚書を、思い出せる範囲で拾いあげたものです。精粗・遺漏はあろうかと思いますが、ここでは、もっとも枢要と思われる(上記の予告篇では掬うことができなかった)論点に絞って取りあげました。
★「強い私的言語」としての貫之=西田(幾多郎)現象学と「強い言語ゲーム」としての定家=ウィトゲンシュタイン論理学との相互包摂の関係
「「ペルソナ」は、私の語彙では「象」(もしくは「肖」)になる。「広義の」定家論理学の到達点は、(「広義の」貫之現象学の到達点が「クオリア」の言語化にあったとすれば)、この言語的制作物である「象(肖)=ペルソナ」に「いのち」を吹き込み、「現実の外」(=「自分の外」=「風雅」または「虚」の世界)において「象」の世界すなわち「森羅万象」の世界を造形することにあった。」(第41章)
「定家論理学を本籍とするのは、言語によって世界を創造し、その世界のなかに「純粋経験」(の主体=ペルソナ)をつくりだす「強い」言語ゲームであり、他方、「純粋経験」を通じて言語がつくられ、そしてその言語が世界そのものであるところの「強い」私的言語は、貫之現象学を本籍地とする。また、貫之現象学の圏域内で稼働するのは「弱い」言語ゲームであり、定家論理学の内部ではたらくのが「弱い」私的言語である。
ここに俊成系譜学の世界を導入する。かつて(第40章で)「像、イマージュ、形」と定式化した貫之現象学の世界と、「象、パライメージ、体」と定義した定家論理学の世界(あるいは、これに「イマジナル」を掛け合わせて得られる「虚象、パンタスマ、虚体」の狭義の定家論理学の世界=虚なるものの世界)の中間に、「喩、フィギュール、姿」の俊成系譜学の世界を位置づけることができる。
この道具立てを使ってさきの仮説[「私的言語は「夢の言語」(夢のなかの言語、夢としての言語、夢を語らう言語、等々)であり、言語ゲームは「言語が見る夢」(意味)を「映画」(無数の夢の引用)として形象化する。(略)そして、「夢の言語」と「言語が見る夢の形象化」としての能=映画をつなぐのが、「アレゴリカルな文字像」(ベンヤミン)である」。]を「解説」すると、貫之現象学における「強い」私的言語(夢の言語)と定家論理学における「強い」言語ゲーム(能=映画)を媒介するのが、俊成系譜学における「アレゴリー」である、となる。あるいは、貫之現象学の「体験」(クオリアの世界)と定家論理学の「言語」(ペルソナの世界)を、俊成系譜学の「文字像」が仲介すると。」(第62章)
「私の脳内にカントの超越論的感性論(空間と時間)と超越論的分析論(12個のカテゴリー)が浮上してきた。とくに「量・質・関係・様相」のカテゴリーの四つ組と四つの私的言語の生成過程との関係が怪しい(カテゴリーとアレゴリーの関係も)。このことはいずれ、貫之現象学C層で「言語ゲーム」について考察する際、あらためて取りあげることになるのではないかと思う…。」(第66章)
「メカニカルな帯域における人間の言語=「広義の」客観的・公共的言語の成立を通じて、フラクタルに反復される「今、ここ」という「現実」の成立とは、たとえば英語や日本語が、それぞれの系譜と文法にのっとってそれぞれ固有の世界を、異なる社会や文化を編制していくことを指している。
しかし、このことを主題的に取りあげて、(ただし、やまとことば=歌詞(うたことば)という人間の言語の特異な、あるいは原初的な形態のコトバのうえに打ち立てられる)主体や社会や歴史を概観するのは貫之現象学C層のテーマであり、そして、それがいかなる意味で「奇跡」なのかを明らかにすることは、定家論理学の世界に属する論点である。」(第75章)
「これはまだ思いつきの域を出ないが、私は、客観的・公共的言語の圏域内で生まれながらやがてこれを食い破り、逆に自らの内部に包摂(懐胎)するにいたる、私的言語とは真逆のベクトルをもった言語現象を「言語ゲーム」の概念を拡張(借用)して考察してはどうか考え始めている。
すなわち、〈わたし)や〈いま〉や〈これ〉や〈おもひ〉について“公共的”に語り(示し)、かつそれら(純粋経験)を“客観的”に独在せしめる力を持った、もうひとつの(言わば“上方”から降りきたる)「演劇の言語」を「言語ゲーム」の概念を使って解析することはできないか、そして、その狭義のもの(「弱い」言語ゲーム)を貫之現象学C層の、広義のもの(「強い」言語ゲーム)を定家論理学における課題として位置づけてはどうか、ということである。
(さらなる思いつきを重ねると、「強い」私的言語は“無内包の現実性”(純粋経験、空虚な器)に、「弱い」私的言語は“第〇次内包のクオリア”にそれぞれ起点を持つのに対して、「強い」言語ゲームは“上方”における“無内包の現実性”(純粋なアクチュアリティ)を、「弱い」言語ゲームは“上方”における“第〇次内包のペルソナ”をそれぞれ終点とする。「弱い」私的言語は“クオリア憑きの詞”を噴出し、「弱い」言語ゲームは“ペルソナ憑きの詞”を撒き散らすと言ってもいい。)」(第75章)
■余録、和歌三態の説・再考
貫之現象学C層の第一相から第三相までの予告篇を書きながら、これは、かねてから断続的に考えてきた和歌三態の説が下敷きになっていることに思い当たった。精確には、そのような趣向を“地”に据えたうえで、C層の議論を展開することができるのではないかということだ。
ここで「和歌三態の説」とは、貫之現象学・俊成系譜学・定家論理学という、王朝和歌のピークをなす三人の歌匠の歌論と詠歌の世界を言うものだが、これを拡張して、万葉集・古今和歌集・新古今和歌集の、いわゆる三大和歌集の世界を表現するものとして扱うこともできる。さらに、新古今以後の中世・近世和歌世界を第四の形態として位置づけることも考えられていいと思う[*]。
貫之・俊成・定家の王朝和歌をめぐる三態説については、本稿第38章から第41章にかけて主題的に取りあげた(そのほか、たとえば第12章2節から4節、第75章1・5節など、趣向を変えて何度か論じた)ことがあるので、ここでは、これとは別の古典和歌のアンソロジーをめぐる三態説について考えてみたい。新たに考えるというよりは、過去の議論を振り返り再編集しておきたいということだ。(以下は、本稿第25章第3節と第42章第1節の記述に一部手入れをしたもの。)
V (1).物と心─万葉集の世界
<見れど飽かぬ>
○見ることと触れること、匂いを嗅ぐことが等価であり、聴くことが見えないものを見ることであるような「異種感覚間連合」の根底に、そもそも個別の感覚がそこから分岐していく基盤となる原初の共感覚的な身体感覚が実在している。
○この身体感覚は、非人格的な力がはたらく不可視の(潜在的な)領域に接触しつつ、森羅万象のリアルな事物事象とつながっていき、そこでは、物心一体、心身一如、主客合一の事態が成立している。
<容器としての心>
○まず、自然、すなわち「物」の世界という大きな「容器」があって、そのなかで、(和語特有の“畳み重ね”、もしくは言語活動に普遍的な“虚喩”的表現を介して)、「心」がインキュベートされる。この「心」のことを「心0」(零次性の心、もしくは霊)と表記するなら、かくして、「物」の世界との交霊・交歓・交感を通じて、アニミズムやシャーマニズムにつながる(私の語彙でいえば、「哥というギフト」につながっていく)「心0」が定まる。
○ついで、そうやって産出された「心0」群の集蔵体がひとつの領野をかたちづくり、それが、新たな「容器としての心」となる。それまでの関係が逆転して、こんどはそこに「物」がとりこまれるようになる。この「物」の世界に秩序(かたち)をあたえるのが、「はたらき(メタフィジカルな統覚作用)としての心」(狭義の貫之現象学の世界をかたちづくる「いひいだす」力(=尖筆)、あるいは「フィギュールとしての哥」)で、そのとき起動されるのが「心1」(一次性の心)である。
V (2).心と詞─古今集の世界
<見るから思ふへ>
○「見る」から「思ふ」へという第一の変化が生じる。「見る」といっても、それは見るものと見られるものとが親密に結びつき、また身体感覚を介して自然の律動へとつながっていく共感覚的な視覚のこと。そうした視覚の内側に濃厚に息づく接触感覚、とりわけ「しみる」感覚や過ぎ去った時の記憶を一挙によみがえらせる嗅覚、あるいは不可視のものを可視化する聴覚が、和歌の世界においてしだいに重んじられるようになる。
○その結果、確かに現前するものよりも遠くはるかなもの、非在、非有非無のものへの「思ひ」を詠む歌、あるいは遠方から到来する「よそのものの気配」に敏感な歌が好まれるようになっていく。
<世にある人が心に思ふこと>
○「心1」の立ちあらわれによって、つまり「詞」による修辞的な表現活動を通じて、「見るものきくもの」(容器としての心(=鏡)にとりこまれた「物」)に付託して表現されるのが、「世の中にある人」が「心におもふこと」、すなわち「物」と同じ次元に属する事実としての「心2」(二次性の心)である。
V (3).詞と姿──新古今集の世界
<見るへの回帰と深化>
○「広がり」から「深み」へという第二の変化がもたらされる。「広がり」は視覚だけでなく、遠くはるかなものを思いやる嗅覚や聴覚など、原初の身体感覚から独立し社交的に洗練されていった個別の感覚全般にかかわる。「深み」とはそのような「広がり」を不可視の内部に繰り込んだもの。かつて「物」としてリアルに実在していた触覚=身体感覚が、無色のもの(言語)のなかに「心の色」を見る透視力を通じて(言語的に)再構築される。「深み」はそのような意味での「身体」にかかわる。
○この新しい「身体」は端的に「心」と呼んでもさしつかえない。こうして、純触覚的な「身にしむ」感覚が、内触覚的な「心にしむ」認識に達していく。
<容器としての詞>
○容器としての心のなかでインキュベートされた「詞」(=珠玉)による表現の秩序を媒介として、修辞的な表現物としての「姿」が、象徴的な「心3」(三次性の心)として形象化される。あるいは、「俊成的転回」(歌といふものなからましかば、…何をかはもとの心ともすべき)を介して、いわば「容器としての詞」の世界がかたちづくられ、さらに、そのなかでインキュベートされた「姿」が、あたかもこの世を他界から眺めるがごとき「境地」として実在化される。
[*]ここで「中世・近世和歌世界」とは、俊成系譜学を経た定家論理学固有の世界、そしてその“拡張”としての連歌・能楽・茶の湯・俳諧のことを想定している。(かつて本稿第41章4節で、「定家の有心が世阿弥の無心に到り、芭蕉の虚心に極まる。そして「広義の」定家論理学が完成する。」と書いた。)
これに加えて、正岡子規以降の近現代の「和歌的世界」を含めた第五の形態を想定することもできる。
W (1).定家論理学1─俊成・定家
(2).定家論理学2─心敬・世阿弥
(3).定家論理学3─利休・芭蕉
X (1).子規の時代1─子規・透谷、漱石・露伴
(2).子規の時代2─朔太郎・順三郎、周造・哲郎
(3).子規の時代3─康成・雄高、由紀夫・春樹
(86章に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。
Web評論誌「コーラ」57号(2025.12.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第85章 貫之現象学の諸相─C層の門前に立って(中原紀生)
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