Web評論誌「コーラ」56号/哥とクオリア/ペルソナと哥 第84章 ことだま/詞と辞/アイロニー(その5)

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Web評論誌「コーラ」
56号(2025/08/15)

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■オクシモロンとアイロニー
 
 多くの論点、精密な定義を欠いた生煮えの概念や論証抜きの命題、そして回収すべき伏線が手つかずのまま放置され、貫之現象学C層へ丸投げされようとしています。
 前章の末尾に、フィギュール(形象)としての「辞」の動態(推論過程)を「アイロニー」のはたらきとして捉え、これを具体的な素材に即して考えていくこと、これが議論の起点だと書きました。しかし、あらためて考えてみると、このテーマは、「哥とクオリア/ペルソナと哥」の総題を掲げた論考群そのものが対象にしている(してきた)事柄だったのではないか、だとすると、ここで一応のけりを付けて先を急ぐといった安直な対応では、肝心なところを取り逃がしてしまう、とそう思うようになったのです。
 ここはじっくり腰を据えて、当初の構想(第44章他)にのっとり、“やまとことば”で詠まれた“やまとうた”、あるいは“かな”というフィギュールの連鎖によってあらわされる“哥”の姿を素材として、詠歌の主体やその系譜、詠まれた世界、それらの歴史といった話題を、引用や反復、複製や想起、仮面や伝導体の概念、“やまとことば”の文法と“やまとうた”のレトリック、「強い」言語ゲーム(定家論理学)と「強い」私的言語(貫之現象学)の相互包摂、等々の“道具立て”を使って考察する、そしてそのことを通じて、“やまとうた”におけるアイロニカルな推論の動態を実地に体感するに如くはない。
 以上、貫之現象学C層の、場違いの序文になってしまいました。B層の最終章が果たすべき最低限の仕事として、以下、アイロニーをめぐる序論的考察を試みます。
 
 以前(第80章4節で)、スティーヴン・ミズンの「聖堂のような心」をめぐる議論に言及しました。一般知能の「広間」に、博物的知能・社会的知能・技術的知能という3つの知能の「礼拝堂」と言語的知能の「礼拝堂」をあわせもった心(『心の先史時代』91頁)。
 この説に関連して、私は次のような(比喩形象や記号との)対応関係を思い描いています。前章で用いた「類似・照応」の区分にそくして表示します。(遅ればせの注記。類似・照応というボードレール由来の概念は、第47章3節「類似と照応、比喩と複合」で引用した尼ヶ崎彬氏の議論を念頭においたもの。)
 
T.類似(アナロジー)
 @博物的知能:「蹄の跡」:メトニミー :インデックス
 A技術的知能:「型」  :メタファー :イコン
U.照応(コレスポンダンス)
 B社会的知能:「伝達」 :シネクドキ :シンボル
 C言語的知能:「虚構」 :オクシモロン:マスク
 
 第四の比喩「オクシモロン(逆喩)」に対応させた「マスク(仮面記号)」は、かねてから(厳密な定義抜きで)用いてきた私製概念で、チャールズ・サンダース・パースの記号の三類型──「インデックス(指標記号)」「イコン(類似記号)」「シンボル(象徴記号)」──に“独自に”加えた第四の記号です。
 さらに、第五の記号類型として「アレゴリー(広義の仮面記号)」を、そして、これに対応する比喩形象として「アイロニー」を導入し、これらの記号・比喩のはたらきを(オクシモロンとマスク=狭義の仮面記号の組合せに割り当てた「虚構」の、いわば拡張版にあたる?)「物語」(五次元の伝導体)の概念でもって表現する。これが、私がいま漠然と思い描いている“構想”です。
 さて、以上のような位置関係のもとで、「アイロニー」の特性をオクシモロンと比較させながら概観しておきます。
 
◎オクシモロン
 ・「生産」の推論(「無と有」の反転):¬A=A
 ・自己対義語(ヤヌス語、コントロニム)性(“やまとことば”の特性@)
◎アイロニー
 ・「伝導」の推論:¬A⇒A
 ・可視・不可視の反転可能性(“やまとことば”の特性A)
 
 創造性に富んだ「生きたメタファー」(ポール・リクール)に対して、習慣化・形骸化した「死んだメタファー」というものを考えることができるとしたら、オクシモロンがまさにそれに該当するでしょう。しかしその一方で、「¬A=A」の“推論”を通じて、たとえば「みずみずしく干からびている」といった相反する属性を併せ持つ「生きているオクシモロン」が形成されるはずです[*]。
 そして、「メトニミー+メタファー+シネクドキ+オクシモロン=アイロニー」という、数学における四元数に準えることができるアイロニーは、このようなオクシモロンの両義的な性質を高次元で動態化した“推論”作用である、ということができるでしょう。
(アイロニーに対応する第五の記号類型「アレゴリー(広義の仮面記号)」については、かつて貫之現象学B層の第一相「純粋経験/私的言語/アレゴリー」の議論の中で概観した。)
 
[*]瀬戸賢一著『認識のレトリック』から。
 
◎対義語は同義語である
「オクシモロン[例:暗黒の輝き]が成立する根拠は、個々の意味がつねに弾性を秘めていることにある。AとBが対義語であり、かつ、その意味的対立が鮮明ならば、その度合に応じて、AとBは、互いが互いを照らす鏡となる。AとBは、共通軸上で両極化すればするほど、両極を結ぶ軸は太くなる。両者の対立が極限化するということは、AB間の公分母である意味的共通項が極大化するというに等しい。つまり、極限状態では、AとBは、ある一点を除いて完全に等しくなる。ここに、《対義語は同義語である》という逆説的心理が成立する。」(60-61頁)
 
◎潜在的オクシモロン─Aは反Aの超越を意味する
「…オクシモロンには、もうひとつ別な形式として、潜在的な結び付きのパタン[例:かわいさあまって憎さ百倍]が考えられる。AとBのどちらか一方のみが現れる場合。このとき、表面化したAは、極性化した単独のAではなく、潜在的に、Bが反転してできたAだと考えるべき。極性化したBは、究極の点を突破(超越)することによって、瞬時に、極性を反転させる。潜在的オクシモロンでは、Aは、反AとしてのBの超越を意味する。」(61-62頁)
 
◎生きているオクシモロン─知覚と精神のオクシモロン
「…補色残像の名で知られる視覚現象にも、オクシモロンが現実に生きている。柱のなかほどを膨らませるエンタシスという技法は、膨らみのない柱が中細に見えないようにするため。対立する要素は、直と曲。日本建築で、天井に多少のそりをいれておくのも、同じ発想に基づく。わび茶でひずみ茶碗が好まれたりするのも、精神のオクシモロンによるのだろうか。」(63頁)
 
◎原初の、豊かな、みずみずしい意味の差異性
「オクシモロンは、このように[例:諺や忌みことば、ニコラウス・クザーヌスの「反対物の一致」]裾野を広げると、私たちの精神のもっとも奥深い願望のひとつを表現する手段といえるのかも知れない。意味作用としてラディカルであり、日常語の惰性的な意味を揺さぶる。私たちは、ひょっとするとオクシモロンとともに、原初の、豊かな、みずみずしい意味の差異性を願っているのかも知れない。」(63頁)
 
■ユーモアとアイロニー
 
 前章で、アイロニーを「辞」のはたらきとして捉え、それを次のように規定しました。すなわち、「辞」は(イマジナル/リアルの)「リアリティ」の軸を設営・拡充しつつ、これを(ヴァーチュアル/アクチュアルの)「アクチュアリティ」の軸へと繋いでいく。そして、そのようなはたらき(推論)あるいは“ことだま”の力こそが、「アイロニー」の運動性にほかならないのだと。
 ここで、別の切り口からこのことを考えてみたいと思います。柄谷行人氏は『ヒューモアとしての唯物論』に収められた同名の論考において、正岡子規や夏目漱石の「写生文」の特質を「自己の二重化」において捉え、それが「ヒューモア」という論文でのフロイトの議論と「合致」すると論じています。
《フロイトの考えでは、ヒューモアは、自我(子供)の苦痛に対して、超自我(親)がそんなことは何でもないよと激励するものである。それは、自分自身をメタレベルから見おろすことである。しかし、これは、現実の苦痛、あるいは苦痛の中にある自己を──時には(三島由紀夫のように)死を賭しても──蔑視することによって、そうすることができる高次の自己を誇らしげに示すイロニーとは、似て非なるものだ。なぜなら、イロニーは他人を不快にするのに対して、ヒューモアは、なぜかそれを聞く他人をも解放するからである。(略)しかし、私はヒューモアを心理学的に説明することに関心がない。実際フロイトも、ヒューモアに、心理学的解明をこえて、ある高貴な「精神的姿勢」を見いだしている。というより、フロイトの姿勢そのものがヒューモアなのである。》(『ヒューモアとしての唯物論』120頁)
 フロイトの「精神的姿勢」は、ボードレールが「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」のが「ヒューモア」だと規定したことに通じている。また、「メタレベルは無い」としたスピノザや、理性による理性の自己吟味を敢行したカントに通じている。
《要するに、「超越論的」とは、ある種の「精神的態度」であり、「自己二重化」なのである。しかし、シュレーゲルは、ここから、「超越論的自己」の優位を導き出す。それがロマン的イロニーである。イロニーは、自己の無力さを優越性に変える転倒である。しかし、「超越論的自己」などは存在しない。たえず超越論的であろうとする構えにおいてしか。いいかえれば、超越論的であることはヒューモアである。それはいわゆる「超越論的哲学」にまったく欠落している。
 ここでつけ加えておくと、マルクスやフロイトの考えはスピノザやカントに由来する。たとえば、自分は世界(歴史)の中にあって、それを越えることはできず、越えるという思いこみさえもそれによって規定されているという、超越論的な批判こそが、「唯物論」であり、それは何よりもヒューモアなのだ。》(『ヒューモアとしての唯物論』123−124頁)
 ──柄谷氏が、高貴な精神的姿勢・態度である「ヒューモア」とは似て非なるものとした不快な「イロニー」。私は、この相対立する二つの姿勢・態度が(オクシモロンの働きを通じて?)一つに合成されたものを「アイロニー」と捉えています[*]。というか、そのように規定したうえで、「ヴァーチュアリティ/アクチュアリティ」の力の導管にそってはたらく“推論”のメカニズム全体を、アイロニーの概念で総称したいと考えているのです。
 
[*]瀬戸賢一著『認識のレトリック』から。
 いわく、アイロニーには、「意味の反転」(あることを言って、その逆の意味を伝える)という標準的な定義に加えて、「エコー(引用)を伴うもの」(先行する発言に言及し、メタ言語的にコメントするもの)という新しい捉え方がある。「アイロニーは、…各種のトロープ(転義)の交差点に位置する重要なことばの綾である。」(144頁)
 
◎意味反転─エコーを伴わないアイロニー
「…エコーを伴わないアイロニーは、…いくつかのトロープ[オクシモロン(oxymoron)・ユーフェミズム(euphemism)・語義反用(antiphrasisi)・逆言法(paralipsis)・パラドクス(paradox)・曲言法(litotes)・緩徐法(meiosisi)・当てこすり(sarcasm)など]とネットワークを構成し、何らかの意味反転を綾の契機とする。」(144頁)
 
◎引用─エコーを伴うアイロニー
「エコーを伴うアイロニーは、…いくつかのトロープ[暗示引用(allusion)・パロディー(parody)・例示(exemplum)・寓喩(fable)・たとえ話(parable)・諺(proverb)・直喩(simile)など]とネットワークを構成し、何らかの引用形態を綾の手段とする。」(144頁)
 
 また、「アイロニーとは、エコーおよび/または意味反転の手段によって暗示的な批判を狙う方法である」(146頁)。
 
◎アイロニーは暗示的でなくてはならない
「…これから話すことがアイロニーだと前もって相手に知らせるメタ言語的手段は存在しない…。ハウスホールダーもいうように(『言語的思索』)、アイロニーの魅力の一部は、話し手がアイロニーの意図を明かさず、聞き手を一種の宙ぶらりん状態に置くことにある。もしアイロニーが完全に透明なら、アイロニーは即座に地に落ちる。アイロニーは、暗示的でなくてはならない。」(146頁)
 
■補遺、構文論と文字論との交差点にあるもの
 
 浅利誠著『日本語と日本思想』第2章「二つの包摂──格助詞と係助詞」から。
 浅利氏はそこで「日本語文法論の要の一つは格助詞と係助詞の相互規定である」(50頁)という確信から議論を進め、鈴木朖の「心の声」の喩に呪縛された時枝誠記が、「文を終結させるものについての研究、つまり陳述の研究、それと格助詞の包摂、この二種類の包摂を「包摂」というただ一つの概念の中に溶かし込んでしまう結果になった」と結論づけている。
《それではなぜこのような失敗をしたのか。(略)
 鈴木朖のいう「心の声」としての辞、一般に詞(客観的表現)を包む主観的表現と解釈されてきたこの表現は、実は、漠然と本居宣長のイデオロギーとみなされてきたものの一解釈に過ぎなかったのではないのか。宣長はむしろ『詞の玉緒』で、後に係り結びと呼ばれることになるものの法則をほぼ打ち立てるという偉業をなし遂げたわけだが、その背景に抱え持っていたテエゼ、それは、鈴木朖が、そして後に時枝誠記が思い込んだようなものではなかったのではないか。むしろ、和歌のなかにこそ日本的なものを求めようとした宣長が研究対象にしたもの、それは、主体的/客体的という二分法的対比構造であったのではなく、まさに「係って・結ぶ」構造だったのではないのか。(略)鈴木が解釈した「心の声」としての宣長的なものとは、宣長自身においては「心の声」というようなものではなく、和歌(日本語による詩歌)における身体性を伴った律動、一つの根本的な身体的・言語的律動(詩的律動)といったようなものだったのではないのか。西洋の韻律学でいうアレクサンドラン(一二音節詩句)にでも比すべきようなものとして、七五調、五七調を包括した歌学(詩学)の研究という意識が宣長にはあったのではないか。そして、この韻律形式こそは「係って=結ぶ」という形式を通して発現されていると考えていたのではなかったか。
 これらの推測が的外れでないとした場合、鈴木や時枝の視点では宣長のイデオロギーあるいはイデオロギーとしての宣長にとらわれすぎて陥穽にはまり込んだというのが真相ではなかろうか。案外、宣長自身はこのようなイデオロギーとはとりあえず無縁の場所で黙々と「係り結び」の研究を続けていたのではなかったのか。そして「係り結び」を宣長は構文論(非歴史的なもの)と文字論(歴史的なもの)との交差点にあるものとして意識していたのではなかったのか。係り結びとは、宣長に言わせれば、係って結ぶという構文論的現象であると同時に、文字論的には、辞が主要な役割を担いつつ、係助詞と文末の言い切りの間で織りなされる「歌(和歌)」の生命線をなすものだったということになるのではないのか。》(『日本語と日本思想』66頁)
 ──かくして、議論はふたたび原点に回帰する。
 それにしても「和歌(日本語による詩歌)における身体性を伴った律動、一つの根本的な身体的・言語的律動(詩的律動)」という表現には、坂部恵の「ことだま」論文中の「もはや人称的規定を脱した情念の深みの原初の律動」云々ともども、読むたび心底痺れる。この論考群(「哥とクオリア/ペルソナと哥」)の原点が、そして貫之現象学C層の起点がそこにある。
 
(57号に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」56号(2025.08.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第84章 ことだま/詞と辞/アイロニー(その5)(中原紀生)
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