Web評論誌「コーラ」56号/哥とクオリア/ペルソナと哥 第83章 ことだま/詞と辞/アイロニー(その4)

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Web評論誌「コーラ」
56号(2025/08/15)

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■中間総括─やまとことばの伝導体
 
 これまでの議論を、いったん整頓します。
 私は、“やまとことば”のネオテニー性について、それは、はじまりの言語(存在語、詩語)の記憶を「かたち」(フィギュール)として反復するはたらきのうちに見てとることができると考えました。そして、そのようなはたらき──とりわけ、メタフィジカルな次元における「ペルソナ」に対する志向性、あるいは折口的「古代」をいま・ここに出現ないし発生させる詩語の力──のことを、“ことだま”と呼びました。
 ここで言う「はたらき」や「力」を、形の領域と心の領域、見えるものと見えないものとの対比で言えば(それらに共属し共振させるものであることは承知しつつ)前者に、つまり形象的な表現や造形の世界に重点を置いて考える、それも静止画としてではなく、「動きつつある形」(姿、フィギュール)として動態的に捉える、というのがここでの趣向であり議論の起点なのです。声よりも文字の根源性において、また平面的な図式ではなく高次元の構造として、“やまとことば”の特性を考究したいということです。
 それでは、その「構造」とは何か。はじまりの言語の記憶をとどめる“やまとことば”の「かたち」を統べる「文法」はどんなものか。私は、そのような構造=文法を成り立たせる原理を、認知的流動性が現生人類の心にもたらしたアイロニカルな「実在の運動」(第80章6節参照)として、すなわち「推論」として捉え、かの「伝導体」の構図をつかって、次のように定式化してみたいと思います(第7章4節,第48章3節参照)。
 
T.類似(アナロジー)
 @「内と外」の往還:帰納(induction) A∧B
 A「一と多」の連結:洞察(abduction) A⇒B
U.照応(コレスポンダンス)
 B「裏と表」の縫合:演繹(deduction) A∨B
 C「無と有」の反転:生産(production)¬A=A
 
 私の「理論」によると、これら四つの「推論」形式が合成された第五のものが「伝導(conduction)」であり、その推論過程の概要を示す論理記号が「¬A⇒A」となります[*1]。
 以前、“やまとことば”の特性として、自己対義(反意)語(ヤヌス語、コントロニム)性と可視・不可視の反転可能性の二点を挙げ、前者に「¬A=A」、後者に「¬A⇒A」の論理形式をあてがいました(第80章7節)。いま概略を描いた(おそらく五次元の)「伝導体」は、“やまとことば”の文法とそのアイロニカルな特性を同時に示すものである、と言っていいでしょう。(強いて難点というか論点を指摘しておくと、漢字仮名の交用表記という“やまとことば”のもう一つの特性が、この「伝導体」の構図のうちにうまく落としこめるかどうか[*2]。)
 
[*1]それでは「伝導」の推論プロセスを(「一と多」の連結のように)一言で括る言葉は何か。その端的な表現を私はまだ見出せていないが、おそらくレヴィ=ストロースの次の文章のうちにヒントが潜んでいるだろうと確信している(たとえば「肯定と否定」の一致、あるいは「永劫回帰と力への意志」の邂逅など)。
《一つの仮面は、その傍らに常に存在するものとして、その代わりに選ぶことのできるような、現実の、あるいは可能性としての他の仮面を、前提としているのである。ある特殊な問題を議論しながらも、我々は、一つの仮面とは、まずそれが表わしているものではなく、それが変形するもの、つまり、表わさ‘ない’ことを選んだものである、ということを示すことができればと考えたのである。神話と同じく、仮面もまた、肯定するのと同じに否定するのである。仮面は、それが語り、あるいは語っていると信じているものによってのみ成立しているのではなく、それが排除しているものによっても成立しているのである。》(『仮面の道』(渡辺守章他訳,ちくま学芸文庫)224-225頁)
 付言すると、五つの推論をめぐる「伝導体」の理論と「テトラレンマ」との関係が妖しい(第49章2節参照)。
 
[*2]漢字と仮名、文字(表語文字)と声(表音文字)とが同じフィールドで混在する表記法をめぐる論点は、音読み(≒漢字)と訓読み(≒かな)の連合をめぐる議論に接続している。後者についてはかつて、ラカンの『エクリ』日本語版序文に関連して取りあげたことがある(第78章4・5節)。
 
■中間総括─詞と辞の伝導体
 
 中間総括の続き。
 文法については、以前、四つの文法カテゴリーを「私、今、現実、感情」の四つの私的言語の議論に関連づけて分類したことがありました(第62章5節参照)。以下、前節の定式と対応させて、これを整理してみます[*1]。
 
T.類似(アナロジー)
 @〈現実〉をめぐる私的言語:様相(modality)
 A〈 私 〉をめぐる私的言語:人称(person)
U.照応(コレスポンダンス)
 B〈 今 〉をめぐる私的言語:相(aspect)・時制(tense)
 C〈感情〉をめぐる私的言語:態 (voice)・法(mood)
 
 これらに加えて第五のものとして、「無様相、無人称、無時制、無態(中動態)」の「〈   〉(無内包の現実性)をめぐる私的言語」とでも言うべき(有り得ない)類型が考えられます。これが、「伝導」という第五の推論に対応するわけです。
 この、いまだ思い付きの域を出ない「理論」の整合性にこだわるなら、四つの文法カテゴリーに即して“やまとことば”の構造を解明していくべきなのでしょうが、私にはその作業を完遂する技量はないし、また、特筆すべき成果が得られる確信がないので、ここでは引き続き、詞辞論に絞って考えていきたいと思います。
 これまでの議論を(少し加筆して)箇条書きにすると、次のようなものになります。
 
○時空にわたる俯瞰的パースペクティヴのはたらき(潜在的な繋がりの運動としての推論)が「辞」に、それが志向する対象が「詞」に通じる。「辞」のはたらきを介してクオリアが「詞」に憑く。(第80章6節)
○洞窟に刻まれた神話文字(ミュトグラム)、すなわちイメージ以前の原イメージ、象形文字、はじまりのイメージとしての──音声言語との対比以前の──「文字」が、「フィギュールとしてのことば」すなわち──辞としての──“やまとことば”に通じている。(第81章3節)
○操り人形(仮面)のメカニカルな動きが「脱我的な憑依体験」をかたどる「フィギュール(文字)」である。フィギュールすなわち文字、あるいは「心ノ聲」(鈴木朖)としての「辞」。ただしそれは「内面」から洩れ出る声ではない。そこには“うら”はない。(第81章4節)
 
○心に「意味」そのもの(リアルまたはイマジナルな内容性、あるいは感覚クオリア)をではなく「志向性」(アクチュアルまたはヴァーチュアルな形式性、あるいは志向的クオリア)を与える「辞」のはたらきが“ことだま”である。(第82章3節)
○“ことだま”を通じてマテリアルな帯域に根差す「クオリア憑きの詞」が生まれる。それはメカニカルな帯域(演劇の時空間)における「文=エクリチュール」とメタフィジカルな帯域における「文章=テクスト(パランプセスト)」へと変成(へんじょう)していく。
 ・語クオリア ∽ 感覚クオリア
 ・文(エクリチュール)クオリア ∽ 体験質(記憶クオリア)
 ・文章(テクスト)クオリア ∽ 人格質(ペルソナ)
 
〇「詞」は「イマジナル(虚)/リアル(実)」の(マテリアルでホリゾンタルな)「実在性(リアリティ)」の軸を住まいとする。単純化して言えば、「感覚クオリア」が「実なる詞」に憑き、「記憶クオリア」は「虚なる詞」に憑く。この虚実の軸が複線化し重層化することを通じて、この世界を──アクチュアルまたはヴァーチュアルな次元を仮構しつつ──俯瞰する「ペルソナ」が生成する。
○「辞」は「イマジナル(虚)/リアル(実)」の「実在性」の軸を設営し拡充しつつ(空なる辞)、これを「ヴァーチュアル(空)/アクチュアル(現)」の(メタフィジカルでヴァーティカルな)「現実性(アクチュアリティ)」の軸へと繋いでいく(現なる辞)。このようなはたらき(推論)が“ことだま”であり、「辞」は“ことだま”の力の通路・導管(duct)である。(第82章3節)
 
 最後に書いたことを、前節の「類似」と「照応」の定式のうちに落とし込んでおきます[*2]。
 
T.類似(アナロジー)
 @「内と外」の往還:帰納 ⇔ リアルな詞(実詞)
 A「一と多」の連結:洞察 ⇔ アクチュアルな辞(現辞)
U.照応(コレスポンダンス)
 B「裏と表」の縫合:演繹 ⇔ イマジナルな詞(虚詞)
 C「無と有」の反転:生産 ⇔ ヴァーチュアルな辞(空辞)
 
 ──以上、舌足らずながら、詞と辞をめぐる議論を「整頓」してみました。中間総括と言いながら、おそらくこれ以上深堀りし、議論を進展させるだけの準備も貯えもできていません。ですから、ここから先の作業は、いま述べた「辞」のはたらきを「アイロニー」として捉え、できれば具体例に即して考えていくことです。
 ただ、今さら言うまでもないことですが、ここには宣長はおろか、時枝誠記の名もその議論も一切でてきません。もちろん、かつて親しく読み込み、存分に咀嚼し骨肉化しているわけではなく、いってみれば、詞辞論という高名な概念の外形をうろ覚えに借用して、自分勝手な議論を展開しているわけです。それでいいという気持ちが一方にあるにはあるのですが、やはり先達の謦咳に接しておくべきでしょう。
 
[*1]私はかつて、「夢の世界の構造・意識のレイヤーは、現実世界の構造・意識のレイヤーよりも次数が一つ少ない」こと、すなわち「夢の世界では、否定と肯定、過去・未来と現在、他我と私、可能性と現実性とが地続きになる」という「夢の原理」を呈示したことがある(第50章3節)。
 そして、渡辺恒夫著『夢の現象学・入門』が記述する夢体験の諸相──「時間の変容」「他者への変身」「虚構の現実化」「自己の分裂」という「夢の原理」を構成する四つの体験フェーズ──を四つの文法カテゴリーに対応させて考えたことがある(第50章4節)。
 これらのことを本文の定式のうちに挿入すると、次のようになる。
 
T.類似(アナロジー)
 @「内と外」の往還 ⇔「虚構の現実化」:様相
 A「一と多」の連結 ⇔「自己の分裂」 :人称
U.照応(コレスポンダンス)
 B「裏と表」の縫合 ⇔「時間の変容」 :相・時制
 C「無と有」の反転 ⇔「他者への変身」:態・法
 
 また、夢の特質について次のように論じている(第53章1節)。
「夢において伝導されるのは伝導現象それ自体である。つまり、伝導されるのは、内容や意味や理由にかかわるリアルな事象ではなくて、たとえば色彩、音声など、井筒俊彦が「コトバ」と呼んだものが織りなすリズムや韻律、等々の形式や構造や関係性のアクチュアルな出現それ自体である。そういう意味で、夢は純粋伝導体である」。
「映画が「夢の引用」であるとして、そこで引用されるのは個々の「シーン」であるよりも、それらのシーンをもたらす「パースペクティヴ」の方なのであって、つまり、「夢のパースペクティヴの引用」としての映画の実質は、異なるパースペクティブのもとで現象する個々のシーン群を「モンタージュ」し、そしてそうすることによって、(語り得ず、見えないが)アクチュアルなパースペクティヴ群を「モンタージュ」することである」。
 補足すると、ここでは「夢」を貫之の歌の世界に、「映画」を定家のそれに準えて議論している。そして最後の「モンタージュ」に関して、次の註を付けている。
「「モンタージュ」という映画的技法(引用)と同類のものが、国語学にいう詞と辞のうちの「辞」、すなわち「テニヲハ」や「脚結(あゆい)」と呼ばれるものなのではないかと考えている。言語表現の世界、文法の世界におけるパースペクティヴを考えることができるとして、異なるパースペクティヴを重ね合わせ、あるいは交換させる機能を担うものとして(少なくともその一例として)、「辞」をとらえることができるのではないかと」。
 続けて、坂部恵の「ことだま」(『仮面の解釈学』)から富士谷御杖の歌論を論じた一節を引いている。本論考群では三度目の引用になるが、「人称的規定を脱した情念の深みの原初の律動」云々の文章の味わいを何度でも反芻したくてここでもまた抜き書きする。
《〈ひたぶる心〉からの言霊の生成とはたらきにおもいをひそめ、詞の裏境や倒語に考えおよんだ御杖にとって、このような脚結についての透徹した思考は、その究極の到達点のひとつにほかならなかったはずである。「心うべき事はすべて両端をいはざれば、その理尽きざるを、片方ばかりをいひて、両端を知らする」ものとしての脚結は、所思・所欲の原初の分節のあり方を示し、世界を意味づける網の目のもっとも基本的な結節点を示し、さらにまた、歌の修辞にあっては、多く各句のしめくくりの位置に立つことによって、もはや人称的規定を脱した情念の深みの原初の律動さながらにつたえるものでもある。『和歌以礼ひ裳』に並べられた、脚結以外の部分をすべて空白にした多くの歌の群[例:「○○○○に○○て○○○の○○○せば○○の○○○は○○○からまし」──引用者註]は、このような脚結のはたらきを、おのずから示しているとみることができるだろう。
 ここには、中世の『手爾葉大概抄』に発して、宣長の『詞玉緒』、ほかならぬ御杖の父成章の『あゆひ抄』から、鈴木朖の『活語断読譜』にいたって一応の大成をみ、さらには春庭、時枝誠記にまで受け継がれて行く日本語のいわゆる〈辞〉についての思考が、その途次に結んだ、きわめて特色ある思索の結実がみられるのである。》(『坂部恵集4』110-111頁)
[*2]ここで述べたことを、和歌の四つのレトリック(枕詞、見立て、本歌取り、縁語)を組み入れた「哥の伝導体」の図(第48章2節)に落とし込んでみる。
 
         【現辞A】
           ┃
           ┃
           ┃
 【虚詞B】━━━━━╋━━━━━【実詞@】
           ┃
           ┃
           ┃
         【空辞C】
 
  @「内と外」の往還:本歌取り A「一と多」の連結:見立て
  B「裏と表」の縫合:縁語   C「無と有」の反転:掛詞
 
■〈辞〉をめぐる思考の系譜─本居宣長と時枝誠記
 
 以下、備忘録がわりの資料集として。
 
1.本居宣長──文を統一体たらしめる辞
 
 本居宣長における詞辞論をめぐって、まず、小林秀雄『本居宣長』から。
《単語を、ただ集めても、並べてみても、文を成すまい。文が文である為には、「その本末を、かなへあはするさだまり」と宣長が言う、もう一つの条件が要る。この条件を現しているものが「てにをは」である。…それは、語の「用ひ方」「いひざま」「いきほひ」などと呼んでいいもの、どうしても外物化出来ぬ私達の心の働きを、直かに現しているものだ。
 言語の問題を扱うのに、宣長は、私達に使われる言語という「物」に、外から触れる道を行かず、言語を使いこなす私達の心の働きを、内から掴もうとする。この考え方の結実が「詞の玉緒」という労作だと言える。言葉という道具には、私達にはどうにもならぬ、私達の力量を超えた道具の「さだまり」というものがあるだろう。言葉という道具は、あんまり身近かにあるから、これを「おのがはらの内の物」とし、自在に使いこなしている時には、私達は、道具と合体して、その「さだまり」を意識しないが、実は、この「さだまり」に捕えられ、その内にいるからこそ、私達は、言葉に関し自在なのである、そこに、宣長は、彼の言う「言霊」の働きを見ていた。(略)
「詞の玉緒」では、「万葉」から「新古今」に至る詠歌の夥しい作例が検討されて、「てにをは」の「とゝのへ」が発見され、「いともあやしき言霊のさだまり」が言われている。しかし彼は、単なる文法学者として、そう言ったのではない。そう言う彼の考えの中心は、これらの歌人達は、歌を詠むのに文法など少しも必要とはしていなかった、言霊の力を信じていれば、それで足りていた、そういう処にあったと言った方がよい。》(『本居宣長』第二十四章)
 次に、時枝誠記『国語学史』の第二部「明和安永期より江戸末期へ」至る研究史、「語法研究の二大学派」のうち「本居宣長の「てにをは」研究」の項から(他の学派は「冨士谷成章の文の分解および語の接続についての研究」)。
《宣長の「てにをは」観は、まずその著書の名称『詞玉緒[ことばのたまのを]』が、如実に示している。宣長に従えば、「玉緒」は玉を貫く緒である(『玉緒』序)。いかに美しき玉も、これを貫く緒によって始めてその美しさを作りあげることが出来る。詞も同様にこれを貫く緒すなわち「てにをは」によって、乱れることなく、絶えることなく保つことが出来る。また宣長は言う。「てにをは」の整わないのは、拙き手をもって繕うた衣のようなものである(『玉緒』巻七、「古風の部」)。宣長に従えば、詞は衣の布であり、「てにをは」はそれを繕う技術であり、従って「てにをは」は、すなわち「てにをは」の整えを意味することになるのである。「てにをは」が品詞的なものを意味せずして、もっぱら語法として考えられているということは、右の比喩をもっても明らかである。かかる見地からして、宣長は、「てにをは」をもって漢文の助字に比較する説を排斥した(『玉緒』巻一)。「てにをは」には本末かなえあわせる定まりがあることをもって助字と截然と区別しようとしたのである。換言すれば、宣長は、「てにをは」に文を統一体たらしめる重要な機能を認めようとしたのである。》(『国語学史』(岩波文庫)175-176頁)
 時枝誠記はつづけて、「宣長は、「てにをは」とその他の詞との間に、次元の相違を見いだしたのである」とし、この考えが「宣長において突如として現れたものでな」いことを示したうえで、宣長門下の鈴木朖[あきら]がその著『言語四種論[げんぎょししゅろん]』で、語を「体の詞」、「形状[ありかた]の詞」、「作用[しわざ]の詞」、「てにをは」の四種に分ち、これを比較したことを表にして紹介している。
 
 三種の詞              てにをは
  さす所あり             さす所なし
  詞あり               声なり
  物事をさし顕して詞となり      其の詞につける心の声なり
  詞は玉の如く            緒の如く
  詞は器物の如く           それを動かす手の如く
  詞は「てにをは」ならずでは働かず  詞ならではつく所なし
 
2,時枝誠記──詞辞の連結と風呂敷構造
 
 『国語学原論』第二篇「各論」、第三章「文法論」、二「単語における詞・辞の分類とその分類基準」中の「詞辞の意味的聯関」の項から。
《Aを主体、Bを主体それ自身の直接的表現である辞とし、弧CDは主体に対立する処の客体界及びその概念的表現である詞とする時、この両者は如何なる関係に立っているのであるか。例えば、「花よ」という様な詞辞の連結をとって考えて見る。この時感動を表す「よ」は、客体界を表す「花」に対して、志向作用と志向対象との関係に於いて結ばれていると見ることが出来る。言語主体を囲繞する客体界CDと、それに対する主体的感情ABとの融合したものが、主体Aの直観的世界であって、これを分析し、一方を客体化し、他方をそれに対する感情として表現したものが即ち「花よ」という言語表現となるのである。従ってこの詞辞の意味的連関は、客体界CDを、主体ABが包んでいるということが出来るのである。詞が包まれるものであり、辞が包むものであるともいえるのである。》(『国語学原論(上)』(岩波文庫)266-267頁)
 
《包むものと包まれるものとの関係は、別の言葉を以ていうならば、ABとCDは秩序を異にし、次元を異にしているともいい得られるのである[熊野純彦著『本居宣長』によると「詞辞が次元を異にするとする説」は時枝理論の根幹をなす(199頁)──引用者覚書]。これを譬えていうならば、風呂敷とその内容との関係である。内容である甲乙丙は凡て皆同一次元のものであるが、これを包む風呂敷は、それらとは全く別の次元に属するものである。詞辞の表すものが、異なった次元に属するものであるということは、先に述べた鈴木朖が既にこれをいっている。鈴木朖の説は本居宣長の考えに出ているのであるが、それによれば、詞は玉であって、辞はこれを貫く緒であり、又詞は器物であって、辞はこれを使う処の手であるという風に述べられている。》(『国語学原論(上)』(岩波文庫)267頁)
 以前、人間の(諸)言語におけるメカニカルな帯域を、ミルフィーユ状に積層する三葉(層)構造として描いたことがあった(第73章)。「辞」すなわち時枝誠記の「風呂敷」は三枚ある(三枚しかないとも言える)。
 
■〈辞〉をめぐる思考の系譜─西田幾多郎
 
3.西田幾多郎[*]─三つの場所による重層的内在論、多重的包摂構造
 
 時枝誠記の「包むものと包まれるものとの関係」という言葉遣いには、西田幾多郎の「場所」の論理における包摂関係が反映している。小坂国継著『西田幾多郎の哲学──物の真実に行く道』によると、西田哲学にあって「包むものは「より大なるもの」ではなく、「より深いもの」である」(118頁)。
《…西田は、特殊的なものを包む一般者としての「場所」を三種類考えている。「有の場所」「意識の野」「絶対無の場所」である。…有の場所は形のある世界であり、目に見える外界である。これに対して意識の野は意識的世界を指しているが、内面的な意識の世界は形をもたず、目に見えないから無である。…「意識の野」はその性質上、無限に拡大していくことができる。それは浅いといえばどこまでも浅く、反対に深いといえばどこまでも深い。その深さに際限はない。そしてそうした深さの極限に「絶対無の場所」が見られる、と西田は説く。》(『西田幾多郎の哲学』119頁)
 三種の異なった場所があるのではない。同一の場所の異なった三つの段階・位相があるのであって、それらは重層的に重なりあっている。この「重層的内在論」を具体的に説明するには、いくつもの平面に分割できる「逆円錐体」を思い描けばよい。
《…われわれは「包摂」とか「包む」とかいう場合、とかく空間的な大小を念頭において考えがちなので、どうしても有の場所が一般者であると見なしてしまう。この意味では、西田哲学では狭いものが広いものを包むのである。否、正確にいえば、深いものが浅いものを包むのである。したがってもっとも深いところにあるものはもっとも狭いものであり、もっとも小なるものである。この意味では、絶対無の場所は無限大の球のようなものであると同時に、無限小の点のようなものでもある。そしてわれわれの自己は、各々こうした無限大の球の無限に多くの中心と考えられている。西田哲学においては、もっとも普遍的なものがもっとも個物的なものであり、もっとも個物的なものがもっとも普遍的なものである。われわれの各々の自己が絶対無の場所である。》(『西田幾多郎の哲学』121-122頁)
 小坂氏が言う「逆円錐形」は、かの井筒俊彦の「意識の構造モデル」(『意識と本質』)、あるいはベルクソンの逆円錐(『物質と記憶』)を思わる。これに対して、浅利誠氏は『日本語と日本思想──本居宣長・西田幾多郎・三上章・柄谷行人』で、西田自身が場所論において語った「円」──「我とは主語的統一ではなくして、述語的統一でなければならぬ、一つの点ではなくして一つの円でなければならぬ」(「場所」、『西田幾多郎哲学論集』(岩波文庫)141頁)──に着目して、次のように書いている。
《…西田における「円」の形象は、彼の場所論の要点をなす「意識」としての場所の規定[「空間においては、一つの空間において同時に二つの物が存在することはできないが、意識の場所においては、無限に重なり合うことが可能である。」(「場所」、『西田幾多郎哲学論集』(岩波文庫)117-118頁)]が問題なのであり、意識=場所の特性として、円が円で包まれる多重的包摂構造が語られており、その際に西田は鏡(反射=反省)の反射の像、鏡に映る像の多重構造をモデルにして考えている。この鏡の形象が「円」なのだが、これまた西田は言明を避けているが、私見によれば、道元の「古鏡」における古鏡(円鏡)のイメージと重ねられているのである。》(『日本語と日本思想』57頁)
[*]森村修「西田幾多郎の「グラマトロジー」序説 ──〈日本語で哲学すること〉の〈意味〉について」(法政大学国際文化学部編『異文化21』、2020年)は、小林秀雄が「日本語では書かれて居らず、勿論外国語でも書かれてはゐないという奇怪なシステム」(「学者と官僚」)と評した西田の文体と、彼の思想・思考との不可分離性を論じている。
 結論は、西田の独自の「文字システム」こそ西田哲学であるというもので、森村氏はその起点に、下村寅太郎の議論──講演録「西田哲学と日本語」で、本居宣長も問題にした「は」と「が」の区別をめぐって、それらは「果たして主語を表わす助詞であるかどうかは問題である」としたうえで、「絶対無の自己限定とか、場所の自己限定とかいう考え方は主語のない日本語と相対応するものがある」(著作集第12巻、183頁)と規定したもの──を据えている。
(付言すると、森村氏は論考の末尾で、現前の形而上学やロゴス中心主義に対するデリダの批判が、漢字仮名交じり文というエクリチュールをもつ国、「ロゴスという〈ことば〉そのものを持たない「言霊の幸わふ」国の言語にも妥当するとデリダ自身が本気で考えていたとすれば、彼もまたヨーロッパ中心主義や自民族中心主義を暗黙のうちに前提していたといわざるを得ない」と書いている。)
《さらにいえば、著者は、「グラマトロジー」という学問の視点は、デリダに負う必要がないと考えている。私たちが注意しなければならないのは、──本稿の考察範囲を超えるため、稿を改めなければならないが──、西田の「書記言語・文字言語[エクリチュール]」を〈形象(figure)〉という点から、哲学的「グラマトロジー」として考察することができるということだ。著者の見解では、西田哲学には、彼の様々な著作や論文と並んで(とは別に?)、〈文字形象〉としての〈書の哲学〉が存在する。それもまた、西田にとって、〈日本語で哲学する〉ための、もうひとつの哲学的実践であり、哲学的「グラマトロジー(文字学=書差学)」と考えられる[「「書」は何を表現するのか?──西田幾多郎の「グラマトロジー」(2)」、「西田幾多郎の「グラマトロジー」──〈書〉の〈美学=感性学[エステティクス]〉の可能性」参照──引用者註]。》[https://doi.org/10.15002/00023208
■〈辞〉をめぐる思考の系譜─柄谷行人
 
4.柄谷行人─エクリチュール(漢字仮名交用)の歴史性
 
 最後に、柄谷行人の文字論から、構文論の非歴史性と文字論の歴史性(詞辞論は歴史的であり、それは漢字仮名交じりの表記法(エクリチュール)のうちにあらわれている)をめぐる議論を引く。まず「文字論」から。
《日本に固有なのは、外来的なものがけっして内面化されない、内部化されないということであり、それは、漢字仮名交用という表記法と密接に関連しています。それは非常に歴史的な出来事です。それは、日本語の文法のような非歴史的な構造とは関係ありません。また、日本人の心理とか、思考方法とかそんなものでもない。なぜなら、こうした表記法は歴史的な問題なのですから。》(『〈戦前〉の思考』(講談社学術文庫)149頁)
 次に、「ネーション=ステートと言語学」から。
《日本では、七、八世紀に、漢字をもちいた俗語の文字表現が始まっていた。そして、漢字の表音的使用の慣習から、それを簡素化した表音文字が自然発生的に作られた。一一世紀には『源氏物語』のような作品がそのような文字で書かれた。しかし、一般的には漢字と仮名を交用するエクリチュールが用いられたし、漢字・漢文が優位に置かれていた。たとえば、日本の表音文字が「仮名」──真名は漢字である──と呼ばれているように、あくまで「帝国の言語」が優位にあったのである。それを覆そうとしたのが、一八世紀後半の国学者、本居宣長である。彼はそれまで軽視されてきた大和言葉で書かれた古典、『古事記』や『源氏物語』を漢文より優位においた。それは、それまで支配的であった儒教や仏教がもつ知や道徳に対して、感情──「もののあはれ」──を優位においたことと対応する。
 宣長は日本語の文を、漢字で表記されるような「詞」と、仮名でしか表記できない「辞」に分けた。彼のメタファーによれば、数珠玉のような詞をつなぐ糸が辞である。しかし、これはいうまでもなく、日本語のエクリチュール(漢字仮名交用)が、漢文を訓で読むことから形成されたことによっている。たとえば、詞と辞を区別するような考えは、日本語と同じアルタイ系言語(膠着語)であり同じく漢字を使った朝鮮には生じなかった。宣長が示した構文論は、それ自体、「帝国」から来た文化──仏教や儒教や道教といった概念(内容)よりも、概念にならないような情感・情緒(もののあはれ)に価値をおく考えを裏づける。すなわち、日本語論がナショナリズムと直結したのである。》(『定本 柄谷行人集4』190-191頁)
 ──かくして、議論は振り出しに戻りました。原点となる本居宣長から出直すべきなのかもしれませんが、その風呂敷をひろげるだけの余力がありません。議論の起点は、フィギュール(形象)としての「辞」の動態的なはたらき(推論)を「アイロニー」として捉え、これを具体的に考えていくこと。これが私の「ロドス」でした。
 
(84章に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」56号(2025.08.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第83章 ことだま/詞と辞/アイロニー(その4)(中原紀生)
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