Web評論誌「コーラ」55号/哥とクオリア/ペルソナと哥 第82章 ことだま/詞と辞/アイロニー(その3)

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Web評論誌「コーラ」
55号(2025/04/15)

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■あわわ言葉の言語化・メロスと言霊─ことだまをめぐる諸相(1)
 
 この論考群ではこれまで、言霊について散発的に言及してきました。第5・6章では、「聲と言霊」前後篇として、貫之歌論(古今集仮名序冒頭)をめぐって、たとえば大森荘蔵の「ことだま論」を通りすがりに一瞥し、また尼ヶ崎彬、坂部恵両氏の力を借りて、富士谷御杖の歌論を概観したりもしました。
 本来であれば、それらの断片的な考察を繋ぎ合わせ、本格的な言霊論の体系化を目指すべきなのかもしれませんが、ここでは戦線を限定して、ことばが持つ力としての言霊、とりわけ“やまとことば”がその身に纏うクオリア(もしくはクオリアを産み出す力)としての“ことだま”に関連するいくつかの素材を蒐集することに徹したいと思います。そうすることで、“やまとことば”の特質を炙り出せるかもしれないことを期待して。
 
 その1.吉本隆明は『母型論』の「起源論」で、乳幼児の前言語的な「あわわ言葉」(喃語)の段階では、人類の発声器官の構造の同一性ゆえありとあらゆる発音をすることができるのに、その後の言語化の過程を経て、ほとんど相互の了解を拒絶するようにへだたったそれぞれの種族語や民族語の音声の相違、文法の大差がもたらされるのはなぜかを問うている。
 
◎ヤポネシアのことば─自然音と言語音が同じ位相にある言語
《とりまく未開の自然を、食糧、住居、着衣とするために加工する必要がほとんどない環境が半ば永続的であったところでは、「あわわ言葉」の言語化もまた、自然のなかに自然の音声(風、雨、動物、植物などの音)とおなじ位相で永続的におかれ、自然の音声も人間の行為の遅延としての言葉とおなじ位相におかれる状態を、永続的な言語化の外的条件におくことができた。きびしい自然条件をもち、永続的に食糧、住居、着衣について安定した条件を保つために、たえず自然の加工、変形をしなくてはならぬインド大陸からヨーロッパ半島にかけての自然条件のもとでは、自然音の分節化にいたる過程を温和な好ましいものとして保存することはありえず、この段階を離脱し、自然の条件を加工することを強いられたため、熱帯、温帯アジア、オセアニア、南アメリカ、アフリカのように自然との融和状態を永続化することはできなかった。
 ここではインド−ヨーロッパ語族とその種族や民族の特徴について考察する余裕をもっていない。ただ熱帯や温帯の自然環境におかれた言語や種族の特徴を、日本語の、自然環境である日本列島(ヤポネシア)の特徴といっしょにとり扱いたいだけなのだ。》(『母型論』167-168頁)
◎模倣言語─喩としての自然音(擬音語)
《自然音と人間の音声とをおなじ言語音として感じる次の段階は、さまざまな度合の擬音語(擬態、擬情語)だとおもえる。それは自然音を言語音によって結びつけ、その結びつきが、一義的にちかく恣意性がすくなくなったときの模倣言語だとみることだ。自然音、たとえば樹木や草木を吹く風の音を、風や木が悲しい声をだしていると感じることは、音を喩としてうけとることを意味している。この風の音を「ヒュウ、ヒュウ」という擬音語であらわすのは、事実としての風の音をそれにいちばんちかいと感じる母音と子音固有の結合体系で言語化することだ。自然音の喩は、複雑な陰影としてうけとられるが、言語としてみれば、その段階は初源的だということになる。》(『母型論』169頁)
◎言霊と擬人─人類の言葉が一様に通り過ぎた特性
《自然や自然現象が動くことをとらえて擬人化し、こまかく、人名(神名)をつけ、また自然現象の動きは自然が言葉をしゃべっていることだとみなす認識をもっているのは、逆にいえば人間の言葉を自然現象の動きと等価としてみるという認識を語っている。これは初期神話の世界を覆う雰囲気だといっていい。この言語認識の特性は、旧日本語の認識であるとともに、人類の言葉が一様に通り過ぎた特性だともいえるものだ。(略)
 いままで引用で述べたことからわかるように、『[古事]記』(『[日本書]紀』もまた)の神話的な記述は〈概念〉じたいを「神」に見たてることからはじまっている。いいかえればこの「神」のむこう側には言語による認識があるとかんがえられている。つまり言語が自然神としての「神」に対応しているのだ。つぎには自然を地勢と地理と山川草木のあらゆる部分的な姿にわけて神の名をつけて呼んでいる。またもう一方で、自然音(草木や巌をわたる風のそよぎなど)を言語としてきき、草や樹木が言葉をしゃべるものだという認識が信じられ、記述されている。》(『母型論』177-178頁)
 
《…ここでは言語の音声が自然現象の動きとおなじような自然音であり、自然現象の動きは言語の音声が言霊であるとおなじように人間の動きにひとしい擬人とみなされることになる。》(『母型論』197頁)
 その2.九鬼周造は「日本詩の押韻」(全集第四巻)において、「韻律の無いところには言霊は宿らないというのが我等の祖先の信仰であった」(443頁)と書いている。
《…わが国の詩人は、自己に委託された国語の音楽的可能性を発揮させて詩の純粋な領域を建設することを、自分の使命の一つと考えなくてはならない。それには既存を回顧して伝統の中に自己と言葉とを確実に把握すればよい。与えられた可能性を与えられるべき現実性に展開せしめ、匿された潜勢性をあらわな現勢性に通路させればよいだけである。またこの使命が果されたときに、すなわちロゴスがメロスとして目覚めたときに、初めて「言霊のさきはふ国」ということが、世界にむかって聊かの欺瞞なく云われ得るのである。詩は日本性と共に世界性に於て自覚しなければだめである。》(全集第四巻449頁)
 また、『偶然性の問題』では次のように述べている。
《ポール・ヴァレリーは一つの語と他の語との間に存する「双子の微笑」…ということをいっているが…、語と語との間の音韻上の一致を、双子相互間の偶然的関係に比較しているのである。なおヴァレリーは詩を形式的見地から定義して「言語の偶然(運)の純粋なる体系」…といいまた押韻の有する「哲学的の美」…を説いている。また、オスカー・ベッカーは「果無[はかな]さ」…「壊れやすさ」…が美的のものの基礎的特質であるといっている…が、偶然ほど尖端的な果無い壊れやすいものはない。そこにまた偶然の美しさがある。偶然性を音と音との目くばせ、言葉と言葉の行きずりとして詩の形式の中へ取入れることは、生の鼓動を詩に象徴化することを意味している。そうして「言霊」の信仰の中に潜在している偶然性の意義を果無い壊れやすい芸術形式として現勢化することは詩の力のゆたかさを語っていなければならない。要するに偶然性が文学の内容および形式の上に有する顕著なる意義は、主として形而上的驚異と、それに伴う「哲学的の美」に存している。》(『偶然性の問題』(岩波文庫)239-240頁)
■言霊の人称・言葉が心を形成した時代─ことだまをめぐる諸相(2)
 
 その3.藤井貞和氏は『〈うた〉起源考』の第三章で、和歌を「詠む主体」とはだれかという問いを立て、それはあくまで「一首の表現を支える存在」であって、たとえば「〈わ〉がつまも 画にかきとらむ。いづまもが。たびゆく〈あれ〉は みつゝしのはむ」の作中に言及される一人称「わ」「あれ」にそのままなるわけではないと論じている。
《詠歌にあっては〈わ〉がいて(一人称)、あいて(二人称)がいて、話題は三人称としてある。一人称、二人称、三人称はインド・ヨーロッパ語による言語学を応用してそのように認定するものの(それはかまわない)、一人称、二人称が当事者であるのに対して、三人称は場面の外部にある話題をなす。
 言説内部での、そのような一人称、二人称、三人称とは別個に、表現主体そのものの人称をゼロ(ゼロ人称)として認定したいと思っている。》(『〈うた〉起源考』79-80頁)
 藤井氏は「言説内部」での人称、言い換えれば「論理上の文法」における人称(一人称、二人称、三人称──さらに、物語の語り手によって引用される(作中人物が詠む)物語歌における「引用の人称=四人称(物語人称)」)とは別に、それを下支えする「表現主体の文法=表出文法」での人称として、時枝誠記の「零記号」(言説をなす意味語から分離され、表現主体のおもわくを直接に担う助動‘辞’、助‘辞’などの機能語を言う)とも関連させた「ゼロ人称」を──さらに「自然称」や「擬人称」(=地名)、はては「時称」(=現在)を──呈示している。
 私は、藤井氏が提唱する「ゼロ人称」を──さらに「自然称」「擬人称」「時称」を──総称して、「言霊の人称」と呼びたい。
 
 その4.下西風澄著『生成と消滅の精神史──終わらない心を生きる』第5章のうち、主として「『万葉集』から『古今和歌集』へ──言葉から心へ」からの抜き書き。
 
「人間ははじめに心を持ったからそれを言葉で表現したのではない。むしろ人間は先に言葉と振る舞いをインストールし、何度もそれを実行することによって心を生成・形成することができたのだ。」
 
「…『万葉集』の歌に詠われている意識は「なにものかについての意識(consciousness about something)」であるというより、「なにものかと共にある意識(consciousness with something)」」である。意識は単独で存在することはできず、常に自然と共に在ってはじめて可能になる。」
「彼ら[万葉の歌人]は「雪と共に」悲しんだのであり、「月と共に」愛する人に思いを馳せたのだ。すなわち彼らは自然を通じて心という存在をたしかめた、というよりもむしろ、自然と交わることによってはじめて心を存在させた、とさえ見えるほど、自然と交雑することの意味は大きかったのである。」
 
「‘自然を通じて心を生成’させていた万葉の歌人らと比べ、古今の歌人らは、自然よりも‘言葉を通じて心を表現’するようになった。すなわち、万葉歌人らが自然と共になければ心さえ存在しない、といった思想を持っていたとすれば、古今の歌人らは、この自然との最初の決別を断行し、自然がなくても成立する心の創造に立ち会っているように思える。」
「…古今時代の人々が見た自然は、桓武天皇によって新造された平安京という都市的文化のなかで‘人工的に構成された自然’であった。」
「…平安京は単なる建築構造物ではなく、一方では宇宙にまで広がる大自然へとアクセスするための巨大な知覚拡張メディウムであり、また同時に大いなる自然を意識のなかへと集約してしまう膨大な圧縮プロトコルの集積回路でもあった。」
「…古今の歌人たちが向き合った自然は、都市的でありかつ場合によっては絵画的な自然、あえて言い換えれば「情報論的な自然」であった。」
 
「…『イリアス』において「四肢」や「骨」「肉」「皮膚」などの語はあっても、その総体としての「身体」という語が存在しなかったように、万葉の人々にとって「花」や「風」、「霞」「波」「月」は存在したが、その全体としての「自然」はいまだに発見されていない。古今的な心は、そのような生の自然がなくても成立した。すなわちそれは、かつての自然からの決別が、かえって「自然」という対象を存在させた(前景化させた)、という逆説的状況において成立したのである。」
 
「意識の共存在である万葉の自然から、情報としての古今の自然、という変化のうちに、自然物に対する態度も明確に変わっている。万葉の人々において自然は人の心と不可分であり、彼らは自然のあらゆるもものにメッセージを読み取った。」
「…万葉の歌人たちが、自然を「見る」ことによって自然と「共に」ある意識を持っていたのに対し、古今の歌人たちは自然を「心の対象」として捉えた。これが「見る」から「思う」という表現上の変化、すなわち視覚から思考という意識の変化をもたらしている。」
 
「私たちは『万葉集』の前史から、『古今集』に至るまでの意識の在り様の変遷を追ってきた。かつて神の言葉の模倣としてはじまった祝詞、その律文形式の洗練から発達した和歌、それは継承された神の言葉であり、神の言葉をシミュレーションすることによって人間ははじめて心のプロトタイプを形成した。そして『万葉集』ではその心を自然と重ねることで日本的な心の在り様を見つけ、『古今集』に至っては言葉そのものが心の支柱を担うほどに役割を強め、和歌はついに「心の表現」となった。別の言い方をすれば、「言葉が心を形成した時代」から、「心が言葉を形成する時代」へと変わったのだと言えるのかもしれない。紀貫之の序文に込められた言葉はその意味で、日本における「心の時代の宣言書」であると考えることもできる。」
 
 強引な括りだが、私は、下西氏が万葉歌に関して述べた「自然」と「言葉」を同義ととらえ、それを「言霊」の語に置き換えて考えている。すなわち、言霊とは、振る舞いと共に人間にインストールされて意識・心を形成し、やがて(情報として)この意識・心のなかへ圧縮・集約されていった「自然=メッセージ=神の言葉=はじまりの言語」であると。
 
■アルシエクリチュール・言葉の魂─ことだまをめぐる諸相(3)
 
 その5.中島隆博氏は『思想としての言語』の冒頭で「しばしば日本には形而上学がないと言われるが、歌論や文学論こそが日本の形而上学であり、思想としての言語の精髄である。」と書き、空海、紀貫之、本居宣長と夏目漱石を論じている。いずれも興味深く刺激的だが、ここでは第2章「『古今和歌集』と詩の言語」の議論を抜き書きする。
 中島氏はそこで、「文(アルシ・エクリチュール)」が和歌の形而上学的対象である“ことだま”の棲息地、発生場所であると論じている。──この「物がそもそも文であり、自然がそもそも文である」ような世界のことを、鶴見俊輔は(自然科学ならぬ)「歌学」と呼んだ。
 
◎『古今和歌集』の形而上学─自然を可能にする文
《言語について考えることは一種の形而上学である。というのも、そこでは常に言語の背後で働いている真理・秘密・神秘といった次元が問われているからだ。なにも超越的な神を問うことのみが形而上学の型ではない。形ある世界に張りついて働く見えない次元、いわば微分的な次元を問うこともまた形而上学である。ここで検討しようとしている仮名序と真名序には、日本と中国における形而上学の一つの型が備わっている。それは、言語に関する自然と技術の二項対立を越えて、自然を可能にしている次元としての「文」を指し示しているからである。》(『思想としての言語』23-24頁)
◎万物が歌をヨム世界─自然の根源にすでに文があった
《…わたしたちは、文が自然に触発されて生じた結果であるというだけでなく、逆に、‘自然の根源にすでに文があった’という可能性を考えることができるだろう。外界の物もまた一種の文なのであり、わたしたちが表現する文の手前には、ジャック・デリダ…がかつて語った、エクリチュールの手前にあって、それを可能にすると同時に他なるものに開いてしまうような、原─エクリチュール(アルシ・エクリチュール)がある、ということだ…。(略)
 考えてみれば、仮名序が「生きとし生けるもので歌をよまないものはない」と述べた際に、わたしたちの世界はすでに文によって成り立っていることを承知していたのではないだろうか。物がそもそも文であり、自然がそもそも文である。わたしたちは、そのような文がねじれた形で自己反省的に循環する世界に生きているのだ。万物が歌をヨムのならば、こうした文という条件を受け入れなければならない。》(『思想としての言語』50頁)
◎翻訳による文学空間─物と心情と文が織りなす入れ子状の構造
《紀貫之の着想の背後には、『礼記』月令の「孟春之月[中略]東風解凍(正月[中略]東風が凍を解かす)」があると指摘されており、この歌[袖ひぢてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ]の起源においてすでに中国の文が反復されている。ここには、単純に物に感じた心と情から詩文が表現されるというよりは、物、心と情そして歌や詩文が織りなす入れ子状の構造が出現している。
 この入れ子状の構造が、『古今和歌集』の文学空間である。幾重にも重なり合った時間性に基づく反省的な文学空間は、…情を養う礼と同様の機能を果たす。技術=力によって剥き出しの情が和歌に洗練されなければならないからである。
 こうした文学空間が可能になったのは、中国という圧倒的な普遍を前にして、そこに飲み込まれるのではなく、それを翻訳し、普遍に加わろうとしたからにほかならない。》(『思想としての言語』60頁)
 ──備忘録。「文学」の「文」すなわちアルシ・エクリチュールが「憑依体験やシャーマニズムと結びつく」ことについて、出口顯著『声と文字の人類学』が参考になる(第七章)。
 
 その6.野矢茂樹氏は『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い』において、ウィトゲンシュタインが論じているのは「心が言葉に意味を与えるのではなく、言葉が心に志向性を与える」(230頁)こと、すなわち「音声や文字模様等が直接に相手の反応を促すのであり、意味なる何ものかや意味理解なる心の状態がその間を媒介する必要はない」(265頁)ということだったと書いている。
 たとえば、誰かに命令するとき、音声や文字模様や身振りを用いて相手にしかるべき反応を引き起こそうとする、まさにその意味において、その「音声や文字模様や身振そのものが「言語」と呼ばれうる道具なのである」(265頁)。
《ウィトゲンシュタインのこうした議論を踏まえて、大森荘蔵は言葉を発することを身振りの一種として「声振[こわぶ]り」と呼んだ。手を使って相手を突き飛ばしたりするように、われわれは言葉を発することで相手をさまざまに動かす。大森がそう主張することの最大のポイントは、手を使って相手を突き飛ばすことに「意味」のような媒介は不要であるのと同様に、言葉を発して相手を動かすにも「意味」など不要だということにあった。「ことだま論──言葉と「もの‐ごと」」(『物と心』…所収)》(『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い』336-337頁)
 野矢氏はまた、「「シューベルト」という名前はシューベルトの作品と彼の顔にぴったり合っているかのように、私には感じられる。」(『哲学探究』第二部、第二七〇節)というウィトゲンシュタインの所見を引いたうえで、ある言葉が「身につき、なじんだ道具がそうであるように、私の体の一部と化している」とき、それを身から引き剥がし、別の言葉で呼んだときに失われる「言葉にとってきわめて大きなもの」のことを、ウィトゲンシュタインが「言葉の魂」(第五三○節)と呼んだことを指摘する(269頁)。
 そして野矢氏は、ウィトゲンシュタインの言う「言葉の魂」と、大森荘蔵が「相手を直接に動かす言葉の力」をそう呼んだ「ことだま」が、「同じかどうかは定かではないが、二人がここで同じような語を用いていることは興味深い」と註をつけている(337頁)。
 
 ──私は、心に「意味」そのもの(リアルまたはイマジナルな内容性)をではなく「志向性」(アクチュアルまたはヴァーチュアルな形式性、あるいは茂木健一郎氏が言う「志向的クオリア」)を与える言葉のはたらきが「言霊」であると考えている。「語クオリア」は、語(詞)が喚起する意味やそれが指し示す物的対象の「感覚クオリア」そのものではなく、あくまで「語」が孕む「質」であり「言語感情」なのであって、そのような(マテリアルな次元ではなく、「見えない次元」すなわちメタフィジカルな次元における)クオリア[*]に対する志向性として働くのが「言霊」であり、“ことだま”なのだと。
 つまり、“ことだま”は「イマジナル/リアル」の(マテリアルでホリゾンタルな)軸と「ヴァーチュアル/アクチュアル」の(メタフィジカルでヴァーティカルな)軸を繋ぎ、「ヴァーチュアル/アクチュアル」なものが、「イマジナル/リアル」な世界の事物事象が発する音声やその形姿、イメージのうちに顕れるための通路・導管(もしくは依代)である。あるいはその結果として、「イマジナル/リアル」な世界の事物事象が、それを遡行して「ヴァーチュアル/アクチュアル」な世界へ帰還する通路・導管(もしくは痕跡)である。この双方向のプロセスは、音声のみならず文字においても成り立つ。「音霊」に対する「文字霊」として。
 
[*]メタフィジカルな次元における「クオリア」には、マテリアルな次元における「感覚クオリア」に対応する「語クオリア」とは別の、ウィトゲンシュタイン=野矢の議論に出てきた「シューベルト」に対応するものがある。そのようなものを私は、平井靖史氏の概念を援用して「文章クオリア」もしくは端的に「ペルソナ」と呼びたい(第80章第6節の註1参照)。
 それは「自然(万物)としての文」もしくは「体験質(記憶クオリア)としての文」が累積することによって構成される「人生という巨視的な時間を貫いて存続する一人の人格」のクオリアであり、アルシ・エクリチュールの集積物(パランプセスト)としてのテクストが持つクオリアである。
 
 ──留意すべきこと。いま述べたメタフィジカルな次元は「ヴァーチュアル/アクチュアル」な世界に属しているわけではない。それはあくまで「イマジナル/リアル」な世界に属する事物事象という「形ある世界に張りついて働く見えない次元」である。
 余談ながら、このメタフィジカルな次元とマテリアルな次元と共に人間の言語の三帯域を構成する「メカニカル」な次元に属する言語をめぐって、ウィトゲンシュタインは次のように書いている。
《その使用に際して言葉の「魂」がいかなる役割も果たさないような言語もありうるだろう。たとえば、ある言葉[例:シューベルト──引用者註]を任意に考案した新しい言葉で置き換えることなど我々が全く意に介さない、というような言語が。》(『哲学探究』第五三〇節、古田徹也訳(『言葉の魂の哲学』83頁))
 このような、クオリアなき文字列のやりとりのことを、古田徹也氏は「魂なき言語」と呼び、茂木健一郎氏は「言語ゾンビ」と呼んだ(第73章第3節参照)。
 
■倒語・イロニー・文法─保田與重郎の言霊観
 
 桶谷秀昭は『昭和精神史』第七章「言霊とイロニイ」で、保田與重郎の言霊解釈の「ぜんたいの論理は富士谷御杖の言霊理論からの暗示に負うてゐる」(扶桑社,196頁)と指摘しています[*]。
 御杖の言霊論は、たとえば「言語に精霊がひそみ、 その力によって事物や過程がことば通りに実現されるのを期待する」(西郷信綱『詩の発生』)といった類のものではありません。桶谷氏は、次のように解説しています。
《およそ言挙げといふものは神をころすもので、人の心の奥底に徹することができない。神とは人の内側をいふのである。
 思ふところをいふのは「直言」であつて、直言すれば、人の中心にひそむ妖気がたちまち来てわざはひをする。そこで直言のかはりに「倒後」を古代人は用ゐた。(略)
 言霊は、思ふところをそのままにいふ言葉に宿るのではなく、言葉の裏に宿るので、そこから思はぬところをいふ「倒語」が生まれたといふ[「倒の字の義は、うれしきをかなしといひ、みじかきを長しといふ、これなり」(『万葉集燈大旨』)]。(略)
 言霊は「直言」といふ言挙げによつて殺されてしまふが、「倒語」によつてその機能を発揮するといふ御杖の説は、彼が幼少の頃より父成章から伝授された作歌の道のなかで発見されたといふ。》(『昭和精神史』197-198頁)
 桶谷氏は、この富士谷御杖由来の「倒語=言霊」を、保田與重郎が多用した「イロニー」の概念と結びつけます。
《…保田與重郎が、イロニイを、ドイツ・ロマン派の用語概念に忠実に使つてゐたかどうかは別問題で、むしろ、それは保田與重郎の心情において変質をかうむつてゐるとみた方がいい。つまり、私のいひたいのは、彼におけるイロニイとは、御杖のいふ倒語により近いのではないかといふことである。
 イロニイとは倒語である。それは、ヘエゲルやカール・シュミットがドイツのロマンティークを対象にして、しんらつな分析によつて、或るいかがはしい自我構造の異名としてとらへたやりかたよりは、この現実の歴史的展開を超えたなにものかへの信に由来する倒語としての言挙げと考へた方がいい。》
 かくして、本論考の当面のテーマ群のうち「ことだま」と「アイロニー」が結びつきました。
 ところで、河田和子氏は「保田與重郎における「言霊」思想」で、この桶谷の見方は、初期評論(「『好去好来の歌』に於ける言霊についての考察」「戴冠詩人の御一人者」など)ではいいが、その後、保田は御杖の言霊倒語説から離れていったのであり、「言霊私観」やその前後の言霊論になると、保田のイロニーを倒語と同一視する図式は当てはまらないと指摘しています。
 河田氏によると、保田が「言霊私観」を発表した昭和17年から19年にかけて、文壇では言霊に対する議論が盛んだった(「大東亜文学者大会」における横光利一の発言や小林秀雄「文学者の提携に就いて」、亀井勝一郎『続人生論』中の「言葉」など)が、当時の言霊論は、音義言霊学的な言霊思想の流行もあり、音声中心に考えられていた。「そこに、同時代の知識人の言霊論と保田の言霊観との相違もある。」
《寧ろ、保田の考える言霊は、文法にあった。それも、明治期に西洋文法の概念によって整理されたものではなく、近世期に宣長ら国学者によって見出されたものである。宣長の「詞の玉緒」(天明5年刊)巻之一「詞瓊綸」では、「てにをは」の用法が首尾照応している事が述べられ、係り結びの法則に「あやしき言霊のさだまり」を見出しており、その法則性において言葉に宿る霊力を見ていた。保田の考える言霊は、そうした宣長など国学者によって整備された文法体系にあり、音義言霊説と同様、近世期に形成されたものにほかならないが、言葉を音に分解し一音一音に霊が宿るといった言霊観とは異なっている。
 保田は、言葉の関係性に備わった法則性に対し神妙な力を見ていたのであり、「言霊について」では、「無数にあることばが、体系と組織をもつてゐる」文法を「神造の体系」としている。保田にとって、言葉は「我々と神々とを結ぶ」もので、「ある法則にたよれば、神々のことばと意味が通じるといふことは、大きい驚嘆」でもあり、そこに「文法を人為の便宜で改めてはならぬ理由」も見ていた。そこには、歌が生まれるのに神の作用を認めていたのと同じ発想があり、人為人工を越えた自然の体系を文法に見ようとしている。
 保田は、歌と同じく、文法の秩序体系を、神異にもとづく「神造の体系」と見、古の道(=随神の道)を顕現しているものと考えていた。即ち、文法においても「皇神の道義は、言霊の風雅にあらはれる」という古の道を見ていた。そこに、やはり、19世紀的知識体系に対するものとして言霊を考えている保田の志向が見られることは繰り返すまでもない。保田が自らの言霊思想を「私観」としたのも、当時流布していた、非合理なものを合理的に解釈しようとする音義言霊学的な言霊論に対する批判があったからである。が、そこには、非合理なものまで合理的に説明していた近代主義批判に対する批判も含まれていた。》(「保田與重郎における「言霊」思想」)
 ──かくして、「ことだま」と「文法」(詞と辞)が結びつきました。
 
[*]保田が御杖を「いつ知つたのかつまびらかにしない」と桶谷氏は書いているが、奥山文幸氏は「橋と言霊──保田與重郎「日本の橋」をめぐって」において、「富士谷御杖を象徴主義者として近代文学的に再解釈した土田杏村経由のものである」とし、土田の「御杖の言霊論」から次の一文を引いている。
《一つの詞の決定が、かくしてそれとは全く反対の意味を喚び生かすことが、御杖の所謂「倒語」なのだ。人は直語によつて、却つてその所思の真を他人に伝へることが出来ない。倒語し、 その所思を他人に察せしめることによつて、人はその所思を他人へ伝へる。倒語こそは古典を一貫した精神であつた。》(『土田杏村全集』第十一巻、『国文学への哲学的アプローチ』)
■ことだまとふろしき─大森荘蔵と時枝誠記
 
 「ことだま」と「文法」を繋ぐ、もう一本の補助線を引きます。
 
 大森荘蔵生誕100年の特集を組んだ『現代思想』(2021年12月号)[*]に掲載された「言葉で世界を造形する──大森荘蔵の芸術哲学素描」において、安藤礼二氏は、大森の言語論・意味論である「立ち現われ」一元論をめぐって──『物と心』に収録された「ことだま論──言葉と「もの‐ごと」(桑子敏雄氏が『感性の哲学』で「大森哲学の白眉」と記した論考)の叙述を踏まえ──次のように書いている。
《…「心」と「物」を区別することができない一元論的な領野において言葉を使う者たち、言語芸術家である作家たちがしていることは、一体どのようなことなのか。言葉を通して世界を、その一つの「立ち現われ」を文字通り創り上げているのである。そこでは現実と虚構、現在の知覚と過去の想起、認識と想像の区別が無化されてしまうのだ。作家は、過去の想起から一つの世界の「立ち現われ」を創り上げ、認識とは異なった想像から一つの世界の「立ち現われ」を創り上げる。過去の「海」を現在の「海」として今ここに立ち現われさせ、想像の「海」を現実の「海」として今ここに、作品として立ち現われさせているのだ。言葉は世界を、風景を、文字通り造形するのである。言葉が一つの「立ち現われ」を実現するという意味で、一元論的な言葉、一元論的な「意味」とは、「ことだま」と名づけることが最もふさわしい。「ことだま」とは、未開にして野蛮──現在においては「野生」を用いる方がふさわしいであろう──な社会で、呪術師たちが、他の誰にも理解されないような独自の言葉、呪術としての言葉を用いて現実に働きかけ、現実を望むように変えていく、つまりはもう一つの現実を「立ち現わせ」ていくような「呪文」に他なるまい。(略)そして、そうした大森の知覚の哲学は、おそらくは芸術の哲学として真の完成を迎える。》(『現代思想』(2021年12月号)130頁)
(安藤氏は、大森の「ことだま」を鈴木大拙の「如来蔵」や折口信夫の「憑依」と関連づけ、そして、大拙と折口を「総合」した井筒俊彦の言語論の呪術的(マジカル)な側面に重ね合わていく。刺激的な議論だが、ここでは割愛する。)
 
 安藤氏の論考とともに『現代思想』(2021年12月号)に掲載され、その後『日本近代思想論』に収録された「大森荘蔵と西田幾多郎──現在と身体をめくって」において、檜垣立哉氏は、大森荘蔵と西田幾多郎の深いつながりを示す例の一つとして、大森が『物と心』所収の「科学の地形、と哲学」で、主体=私なき日本語の構造を説明するため「時枝文法」に言及したことを挙げている(95頁)。
 「私はAを見る」の私(主観)・見る(作用)・A(もの)の各項は互いに分離(分節)可能な対象なのではなく、「一体で不可分な事態」の「副詞的な限定の積み重ね」と見るべきだ。この関係は「私が」→「見る」→「A」の形ではなく、{私が《見る(A)》}の形なのである。大森はそのように述べたうえで、「時枝文法のふろしき構造がこの場合に最も適切に思われる」と書いている。
《この点、日本語の方が欧文に比較して遥かに素直に事態を表現しているように思われる。日本語での「見る」は多くの場合、「視線をむける」「目をむける」の意味であって、普通には「机を見る」とは言わず、「机が見える」という。つまり、端的に机の姿がそこにある、という事態に沿っているのである。》(『物と心』(ちくま学芸文庫)41頁)。
 すなわち、「私は机を見る」の場合だと3枚のふろしきが重なっていて、外側のふろしきを広げると「机」の姿が立ち現われ、2枚目で「机が見える」となってこれが普通の日本語。最後のふろしきを広げると「机が見える、(強いて言うとこの)私に(おいて)」といった文になるということだろう。
 
[*]同誌に掲載された森岡正博・山口尚の対談「未来の大森哲学──日本的なるものを超えて」は、後に刊行された『生きることの意味を問う哲学 森岡正博対談集』の第3章「日本的なるものを超えた未来の哲学」として収録されている。これに付された「解説」の中で、森岡氏は次のように書いている。
《大森が「ことだま論」と「アニミズム」で主張していたことを、私は「アニメイテッド・ペルソナ animated persona」の概念として引き継いで、さらに展開しようとしているので、それについて少しだけ述べておきたい。最近の研究によると、死んでしまった家族に出会う経験をした人がたくさんいることがわかっている。部屋にひとりでいるときに、ふと、亡くなった人が目の前にいるという強烈な感覚に襲われるとか、家族の遺品や位牌に亡くなった人を感じるなどの経験は、世界中で見られるものである。あるいは精巧に作られた人形や、自律的に動く配膳ロボットに、なにか人間の心のようなものが現われるのをありありと感じる人がいる。私はそれらを、「アニメイテッド・ペルソナ」という概念のもとに包括して捉えようとしている。》(『生きることの意味を問う哲学』146-147頁)
 
《和辻哲郎は、能舞台で役者が能面をつけて演じるときに、その能面のうえに現われる人格的なものをペルソナと呼んだ。このペルソナは、役者の内面が外へとにじみ出たものではない。このペルソナは、能のストーリーと役者の演技によって、能面のうえへと呼びだされてきたものである。私は、それと同じことが、私たちの日常においてもひんぱんに起きていると考えた。
 これは遺品や人形だけに起きる現象ではない。私が生身の他人と話をするときに、その相手の顔や身体のうえに立ち現われているものもまた、アニメイテッド・ペルソナであると言うことができる。そして興味深いことに、生身の人間にアニメイテッド・ペルソナが立ち現われているからといって、その人間の脳の中にアニメイテッド・ペルソナを生み出した内的意識があるとはかぎらないのである。これは、よくできたロボットのうえにアニメイテッド・ペルソナが立ち現われているからといって、そのロボットの頭の中に内的意識があるとはかぎらないのと同じである。
 アニメイテッド・ペルソナは、大森の言う「立ち現われ」の表面性をさらに拡張したものだと言うことができるだろう。》(『生きることの意味を問う哲学』147-148頁)
 ──ペルソナを成り立たせる要素として、「顔」と「固有名」あるいは「身体」(姿形、ふるまい、表面性、等々)と「記憶」(歴史、愛着、文脈、等々)を挙げることができるだろう。これらのうち、アニメイテッド・ペルソナは「身体」の成分を濃厚に含んだ概念であると思う。そしてそれは一種の「ゾンビ」性を孕んだ概念でもある。いわば「ことだまゾンビ」。(これは否定的な意味合いでそう述べているのではない。)
 
(56号に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」55号(2025.04.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第81章 ことだま/詞と辞/アイロニー(その2)(中原紀生)
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