(本文中の下線はリンクを示しています。また、キーボード:[Crt +]の操作でページを拡大してお読みいただけます。★Microsoft Edgeのブラウザーを基準にレイアウトしておりますので、それ以外のブラウザーでご覧いただく場合では,大幅に図形などが崩れる場合があります。)
■素顔と仮面、写実と内面(1)─言文一致をめぐって
承前。やまとことばの“おもて”が、仮面と素顔の両面を意味していることに関連して、ここで、放置したままになっている伏線の回収、とまでいかなくとも、せめて本線への着地もしくは接続をはたしておきたいと思います。
以前、第65章第5節の末尾で、柄谷行人氏が『定本 日本近代文学の起源』において、「素顔=音声的文字(アルファベット)」と「仮面=表意文字(漢字)」を対比させて論じていることに触れました。この話題は本来、貫之現象学B層の第二相(人間の言語篇)のどこか、たとえば「演劇の言語」を論じた箇所で取りあげておくべきだったのですが、適当な着地点もしくは接続点を見つけることができず、いまだ宙に浮いたままになっていました。
『定本 日本近代文学の起源』の文章を引きます。──伊藤整が『日本文壇史』第一巻で、鹿鳴館時代の演劇改良運動を担った九代目市川團十郎の「写実的でかつ人間的な迫力のある演技」をめぐって、「彼は古風な誇張的な科白をやめて、日常会話の形を生かした。また身体を徒らに大きく動かす派手な演技よりも、精神的な印象を客に伝へる表現を作り出すのに苦心した。」と書いたことについて、柄谷氏は次のように論じています(第2章「内面の発見」)。
《団十郎の演技は「写実的」であり、すなわち「言文一致」的であった。もともと歌舞伎は人形浄瑠璃にもとづいており、人形のかわりに人間を使ったものである。「古風な誇張的な科白」や「身体を徒らに大きく動かす派手な演技」は、舞台で人間が非人間化し「人形」化するために不可欠だったのである。歌舞伎役者の、厚化粧で隈取られた顔は「仮面」にほかならない。市川団十郎がもたらし、のちに新劇によっていっそう明瞭に見出されたのは、いわば「素顔」だといえる。
しかし、それまでの人々は、化粧によって隈取られた顔にこそリアリティを感じていたといえる。いいかえれば、「概念」としての顔にセンシュアルなものを感じていたのである。それは、概念としての風景に充足していたのと同じである。したがって、「風景の発見」は素顔としての風景の発見であり、風景についてのべたことはそのまま演劇についてあてはまる。
レヴィ=ストロースは、素顔と化粧・刺青の関係についてこういっている。《原住民の思考のなかでは、すでにみたように、装飾は顔なのであり、むしろ装飾が顔を創ったのである。顔にその社会的存在、人間的尊厳、精神的意義を与えるのは、装飾なのである》(『構造人類学』荒川幾男他訳、みすず書房)。顔は、もともと形象として、いわば「漢字」のようなものとしてあった。顔としての顔は「風景としての風景」(ファン・デン・ベルク)と同様に、ある転倒のなかではじめて見えるようになるのだ。
風景が以前からあるように、素顔ももとからある。しかし、それがたんにそのようなものとしてみえるようになるのは視覚の問題ではない。そのためには、概念(意味されるもの)としての風景や顔が優位にある「場」が転倒されなければならない。そのときはじめて、素顔や素顔としての風景が「意味するもの」となる。それまで無意味と思われたものが意味深くみえはじめたのである。それこそ私が「風景の発見」と呼んだ事柄である。
伊藤整は、市川団十郎が「精神的な印象を客に伝へる‘表現’を作り出すのに苦心した」というのだが、実際は、ありふれた(写実的な)素顔が‘何か’を意味するものとしてあらわれたのであり、「内面」こそその‘何か’なのだ。「内面」ははじめからあったのではない。それは記号論的な布置の転倒のなかでようやくあらわれたものにすぎない。だが、いったん「内面」が存立するやいなや、素顔はそれを「表現」するものとなるだろう。演技の意味はここで逆転する。市川団十郎がはじめ大根役者とよばれたことは象徴的である。それは、二葉亭四迷が、「文章が書けないから」言文一致をはじめたというのと似ている。
それまでの観客は、役者の「人形」的な身ぶりのなかに、「仮面」的な顔に、いいかえれば形象としての顔に、活きた意味を感じとっていた。ところが、いまやありふれた身ぶりや顔の“背後”に意味されるものを探らなければならなくなる。団十郎たちの「改良」はけっしてラディカルなものではなかったが、そこには坪内逍遥をしてやがて「小説改良」の企てに至らしめるだけの実質があった。
このような演劇改良の本質が「言文一致」と同一であることはすでに明らかだろう。私は「言文一致」の本質は「漢字御廃止」[前島密の建白]にあるのだと述べた。音声から文字が作られたのではない。文字はもともと音声とは別個に存在するのである。大脳に文字中枢があるということは、人類が生まれたときから文字能力をもっていたということを意味する。たとえば、ルロワ=グーランがいうように、絵から文字が生じたのではなく、表意文字から絵が生じたのである。そのような文字の根源性あるいはデリダのいうアルシエクリチュールをみえなくさせてきたのは、文字を音声をあらわすものとみなす音声中心主義の考えである。
漢字においては、形象が‘直接’に意味としてある。それは、形象としての顔が‘直接’に意味であるのと同じだ。しかし、表音主義になると、たとえ漢字をもちいても、それは音声に従属するものでしかない。同様に、「顔」はいまや素顔という一種の音声的文字となる。それはそこに写される(表現される)べき‘内的な音声’=意味を存在させる。「言文一致」としての表音主義は「写実」や「内面」の発見と根源的に連関しているのである。》(『定本 日本近代文学の起源』52-55頁)
長々と引用しました。私はこの文章をこれまで何度も、数年おきに繰り返し読み返してきました。そしてそのたび、スリリングな知的眩暈を覚え、なにか今まで見たことも考えたこともなかった新しい世界が、そこから開くのを感じました。しかし、それでいながらどうしても、なにかしら咀嚼しきれきないものがかたくなに、沈澱物のように澱むのです。
それはおそらく、次のような事情によるものだろうと思います。つまり、柄谷氏によって暴かれた「記号論的な布置の転倒」の前と後とでは、世界を見るこの私自身の「記号論的パースペクティヴ」とでも言うべきものがまるきり異なっている。そうであるにもかかわらず、私は、転倒後の(言文一致がもたらした)枠組みでしか物事を見たり考えたりすることができない。このギャップが、頭で理解したことと体(心)が納得することとの乖離をもたらすのではないかと。
■素顔と仮面、写実と内面(2)─記号論的転倒をめぐって
柄谷氏の議論を、(私なりの理解に沿って)「転倒」の前後途上に腑分けし、再編集します。
T.転倒前
Α
・音声とは別個に存在する文字(アルシエクリチュール)=Α
・仮面による演技(誇張的な科白、人形的な身ぶり) =Α
・顔はもともと「形象=意味」(漢字のようなもの)としてあった。
・人々は「仮面」にこそリアリティ(活きた意味)を感じていた。
・概念としての顔にセンシュアルなものを感じていた。
U.転 倒
-1.価値論的・記号論的布置の設定
【一次的なもの】 【二次的なもの】
Α > β
・事実として存在していたが見えなかった[*]βが俎上にのぼる。
・Aは「意味するもの」かつ「意味そのもの」と位置づけられる。
-2.価値論的・記号論的転倒
【一次的なもの】 【二次的なもの】
【意味そのもの】 【意味するもの】
β > Α
・文字(Α)を音声(β)をあらわすものとみなす音声中心主義
-3.記号論的転倒の完成
【意味そのもの】 【意味するもの】
(γ) ← Β
・言(β)文(Α)一致が成就し、音声的文字(Β)が成立する。
・写実的な素顔(Β)が“何か(γ)”を意味するものとしてあらわれる。
・素顔による写実的で言文一致的な演技
・観客はありふれた身ぶりや顔の背後に「意味そのもの」を探る。
V.転倒後
【意味そのもの】 【意味するもの】
Γ ← Β
・内面=内的な音声(Γ)が“発見”される。
・素顔(Β)が内面(Γ)を“表現”する。
[*]『日経サイエンス』2023年5月号の記事「数学の数学「圏論」の世界」(エミリー・リール、荒武永史訳)に、ライフゲームの考案で有名なジョン・ホートン・コンウェイの言葉が紹介されていた。「それらは間違いなく存在するのに,思考する以外に調べる方法がない。この事実は実に驚くべきことで,私はずっと数学者をやってきたのにいまだに理解できない。実在しないものがいかにして存在しうるのか?」
原文を確認したわけではないが、ここで言われる「実在」と「存在」をそれぞれ「something that exists really:リアルに(事実として物的に)存在するもの」、「something that exists conceptually:概念的・観念的に(思考において)存在するもの」に置き換えて考えると、本文中の「事実として存在していたが見えていなかった」は「“実在”していたが“存在”していなかった」と書き換えられる。
■素顔と仮面、写実と内面(3)─再び、やまとことばの特性をめぐって
ここで、前章最終節で抜き書きした坂部恵の議論を引き合いに出してみると、柄谷氏が(歌舞伎の演技を題材としながら)描き出した「転倒前」の概念・形象としての仮面は、坂部恵が(能舞台における仕掛けを例に挙げながら)見出したやまとことばの“おもて”の特性に通じています。一言で括ると、そこには“うら”(=心)がない、となるでしょうか。
ただ、注意しないといけないのは、転倒前の言語世界は、転倒によってもたらされた「音声中心主義」によって隠蔽され、本来のものとまったく異なって見えている可能性があることです。柄谷氏は『〈戦前〉の思考』所収の講演録「文字論」において、近代のネーションが生まれる過程で生じた「言葉の変革」をめぐって、次のように語っています。
いわく、西洋においても「言文一致」つまり「新たな文章表現の創出」が必要だった。世界帝国の言語つまりラテン語や漢字やアラビア文字といった共通の書き言葉によって表現されてきた普遍的な概念を、身体的・感情的な基盤にもとづくものにすること、すなわち「音声言語あるいは俗語」をつくり出す必要があったのである。
デリダは『グラマトロジー』のなかで、音声中心主義はアルファベットを用いる西洋に固有の考えで、プラトンに遡られるものだといって批判しているが、必ずしもそんなことはない。音声中心主義はきわめて近代的なもので、ナショナリズムと結びつくものだが、別にプラトンから派生してきたわけではない。というのは、十八世紀日本の国学者のなかにすでに音声中心主義があるからだ。(144-145頁)
《…国学者たちは、『万葉集』とか、『古事記』あるいは『源氏物語』などに、漢字によって浸食され汚染される以前の日本人のあり方、すなわち、「古の道」を見ようとしたのです。
しかし、…彼らが完全に見落としているのは、『万葉集』とか『古事記』だとか『源氏物語』とかいったものがその当時あった音声を表記したのではなくて、すでに漢字を前提にしたエクリチュールによって可能になっていた、ということです。たとえば、ダンテがイタリア語で書いたといいましたが、しかし、正確にいうと、彼の書いたものがイタリア語となったのであり、また彼の書いた文章は、その地域の音声言語をそのまま表記したのではなく、ラテン語をその言語に翻訳したものです。(略)
古代の日本も同じことです。たとえば、紫式部は漢字・漢語を使わないで仮名文字・大和言葉で書きました。だから、宣長などはここに真の大和心を見ようとしている。しかし、紫式部は非常に意識的にそれをやったのです。彼女は漢字が非常によくできたということをさりげなく日記に書いています。(略)ところが、紫式部は、あえて意図的に、仮名と大和言葉のみを使ったわけです。しかし、それは漢文でいっていることを大和言葉らしく翻訳したというべきです。》(『〈戦前〉の思考』149-151頁)
坂部恵が言う「元来の日本語」すなわち“やまとことば”は、「音声言語」のことではありません。より精確には、「純粋な音声」といった(国学的?)想像物を指しているわけではないということです。
むしろ坂部は、“おもて”(=表面)における反映(同一性と差異性)の戯れをめぐって、「そこには、みずからのうちにさまざまな成層ないし次元をふくんだ、一種の〈エクリチュール〉ないし〈テクスト〉がある」とさえ言っているのです。それは、柄谷氏が「転倒前」の顔すなわち仮面を、「文字の根源性あるいはデリダのいうアルシエクリチュール」になぞらえていることとパラレルです。
私は前章で、次のように書きました。はじまりの言語の記憶を「かたち」(フィギュール)として伝えるのが“やまとことば”なのであって、そのような規定のもとで「やまとことば=ネオテニー(幼体成熟)説」を考えているのだと。そしてこれにつけた註のなかで、洞窟壁画に描かれた文字以前の形象に対してアンドレ・ルロワ=グーランが命名した「神話文字(ミュトグラム)」と、「フィギュールとしてのことば」すなわち“やまとことば”との関係をどうとらえるかが、その一つのテーマであると書きました。
その答えは、(それが直接的かつ最終的なものではないとしても、少なくともそこへ至る道筋としては)、すでに示されているのではないかと思います。柄谷氏がルロワ=グーランの議論を借りて書いていたように、「絵から文字が生じたのではなく、表意文字から絵が生じた」のだとしたら、そこで言われる(音声や音声的文字との対比を超えた)“表意文字”すなわち「フィギュールとしてのことば」──根源的な“原イメージ”とでも名づけるべきイメージ以前のイメージ、マラルメやヴァレリーが踊り子の動きのうちに見てとった“象形文字”、あるいは木村重信著『はじめにイメージありき』に描かれた観念やシンボルに先立つ“はじまりのイメージ”──こそが、その答えなのではないかと。
そして、(少し先走ったことを書いておくならば)、このことをより具体的かつ日常的な場面で観察できるのが、「かたち」(フィギュール)としての“やまとことば”の特性をなす、詞と辞の文法であり、(柄谷文字論が重視する)漢字仮名交用の表記法である、などと言うことができるのではないかと。
■能楽と操り浄瑠璃と歌舞伎─やまとことばのメカニカルな展開
先へ進む前に、もう少し坂部=柄谷氏の議論にこだわります。
柄谷氏が「もともと歌舞伎は人形浄瑠璃にもとづいており、人形のかわりに人間を使ったものである。」と書いているのを読むたび、私は和辻哲郎の『歌舞伎と操り浄瑠璃』を想起するのです。和辻はその序文に、歌舞伎や操り浄瑠璃の通り一遍の鑑賞者にすぎない自分がなぜこのような書物を書いたのかを弁明しています。
《…これらの演劇[浄瑠璃劇]において舞台上に作り出されてくる世界、すなわち‘想像力によって作り上げられた世界’には、一種独特な、‘不思議な印象’がある。それはただ現実の世界を芸術的に再現したというにとどまらず、何か‘現実と異なったもの’、といって単に非現実的あるいは夢幻的であるのではなく、むしろ‘現実よりも強い存在を持ったもの’を作り出しているように見える。そういう意味で‘エキゾーティック’な(外から来たものらしい)‘珍しさ’や、超地上的な‘輝かしさ’が、そこには感ぜられるのである。そういう不思議な印象は一体どこから生じたのであろうか。》(『和辻哲郎全集 第十六巻』3頁)
和辻はつづけて、本朝二十四孝や忠臣蔵のような正真正銘の歌舞伎芝居と思っていたものが「もと浄瑠璃で語られるに伴って‘人形が演じた’のであって、歌舞伎役者が演じたものでなかった」ことに気づいて「初めてはッと思った」(7頁)と書き、「日本の戯曲のなかの最も戯曲らしい種類のものは、皆‘人形芝居の脚本’である」ことのうちに「あの疑問を解く鍵があるであろう」(8頁)と括っています。
和辻が言う「鍵」はおそらく、それぞれ独立した起源をもつ能楽と操り浄瑠璃と歌舞伎の「構造論的ないし構造変換論的」(坂部恵『和辻哲郎』32頁)な関係性のうちにあるのでしょう。以下、和辻本の「総論的な構造分析」(同書37頁)を担う第一篇から、いくつかの文章を引きます。
<操り浄瑠璃の三つの要素>
《浄瑠璃は、まず第一に、平家がたりのような‘叙事詩朗唱’の伝統をうけ、そうしてその伝統をみずから重んじている。もちろん浄瑠璃が浄瑠璃として立ち始めたときには、在来の伝統の上に‘根本的な変革’が加わったであろう。その変革は、‘抒情詩をうたう’という歌謡としての要素を強度に注入し、それと結びついて三味線による音楽的な性格を全面的に浸潤させることであったであろう。しかしそういう変革にもかかわらず、浄瑠璃は決して物語を「語る」という立場を捨てたのではない。浄瑠璃は「歌う」のではない、「語る」のだということは、この技を学ぼうとするものに対しても、またそれを鑑賞しようとするものに対しても、常に警告されていたことである。このように「語る」ということを、すなわち叙事詩朗唱の伝統を、堅く守っていたということが、何よりもまず浄瑠璃の特徴に数えられてよいであろう。
しかし第二に、この伝統に対して加えられた変革も、決して軽視することを許さないほど重要なものである。三味線やその小唄の節による浄瑠璃節の変貌は、恐らく当時の人を驚かすに足りたであろう。それは人をして浄瑠璃節は「語る」のではなくして「歌う」のであると誤認させるほどに、強度に音楽的性格を帯びていたであろう。だからこそ「歌う」のではなくして「語る」のであるということを、わざわざことわらなくてはならなくなったのである。とすれば、浄瑠璃は、「語る」のか「歌う」のかの区別が素人に明らかでないほどに、叙事詩朗唱のぎりぎりの限界点にまでに達していたのである。そうなると、在来の代表的な演芸であった能楽の、謡を「うたう」態度と、浄瑠璃を「語る」態度とは、ただ一歩の差違に過ぎなくなった。従って浄瑠璃に伴って演技する人形も、謡に従って演技する能役者と、ただ一歩の差違に過ぎない。いずれも‘音楽的表現’に即して‘形象的表現’をやるのである。悲しみの歌が耳に響いてくる時には、悲しい姿が眼に見える。そういう楽劇として、操り浄瑠璃と能楽とは、ほとんど同じ立場に立っていたのである。
がそれにもかかわらず、第三に、浄瑠璃は「語る」立場を固守し、それによって人形の演技を明白に能役者の演技から分離せしめた。浄瑠璃の叙事詩的な描写は、謡曲の抒情詩的な詠嘆よりも、一層具体的に人間の出来事を取り扱うことができる。そうしてそれを舞台上に表現する場合に、「うた」に伴なう演技はおのずから‘舞踊’になって行くに対して、「語られる」人間の動作はおのずから‘しぐさ’となってくるであろう。だから人形の演技は、生きた能役者の演技よりも、一層具体的に、また写実的に、人間の生活を表現することとなったのである。》(『和辻哲郎全集 第十六巻』54-55頁)
<能楽の否定としての操り浄瑠璃>
《人形は能楽に取って代わろうなどという野心を抱いていたわけではなかった。能楽が舞台芸術の代表者として栄えているゆえに、その盛名を利用して、人形使いは、人形に‘能役者のまねをさせて’見物を喜ばせようとしたのである。それは‘生命のない人形’が、‘生きた能役者’のまねをする、というところに、興味を引こうとしたのである。しかし元来能役者の動き方はできるだけ生きた人間の動き方を殺したもの、すなわち人形に近づこうとしたものであり、従って能役者は本来‘人形のまね’をしているのである。能の演技の特徴は、‘生きている’役者が‘生命のない’人形のように動いているところにある。そういう演技をもともと生命のない人形がやったところで、何の妙味も出て来ないであろう。人形が妙味を発揮し得るのは、‘生命のない’人形が‘生きた人のごとく’に動くというところにあるであろう。従って能役者のように生きた人間の動き方を‘殺した’動き方でなく、逆にそれを‘拡大し誇張した’ような動き方の方が人形に向くのである。だからこそ人形が能のまねをすることはやがて廃れてしまい、能とはまるで反対な動き方をする操り浄瑠璃となって来たのである。
こう考えれば、操り浄瑠璃が、音楽の側からも動作の側からも、‘能楽の中から押し出されて来た’というゆえんが明らかとなるであろう。またそれが、能楽の含んでいた人間の自然性の否定をさらに否定して、人間の自然性を恢復するという意味を含んでいることも明らかとなるであろう。これが操り浄瑠璃をして能楽に取って代わって新しい時代の代表的舞台芸術たらしめたゆえんなのである。》(『和辻哲郎全集 第十六巻』64頁)
<エロティックな歌舞としての歌舞伎/能楽の常軌をはずれたもの>
《能楽が殺していたのは人間の自然的な動きや旋律である。そういう自然的なものをかぶき踊りが極端に活かせることになると、そこにエロティックなものが強く現われてくるであろうことは察するに難くない。それはヨーロッパでも日本でも、近世の初めに顕著に起こった現象である。(略)しかしそれはかぶき踊りの芸術的本質が性的魅力にあるということではあるまい。ちょうど水墨画に変わって現われた極彩色の草花の図が水墨画の持たない濃艶な美しさを発揮し始めたように、かぶき踊りが能の所作の持たない‘艶めかしさ’や‘柔らかさ’を発揮し始めたことが、ここでの重要な問題である。それはかぶき踊りが‘自然的な動きや旋律を自由に使い始めた’ことを意味するのであって、必ずしも性的魅力をのみねらったことを示すのではない。》(『和辻哲郎全集 第十六巻』67頁)
《…能では女の役を男がつとめたが、しかしその男は‘声や身ぶりにおいて’女をまねようとは決してしなかった。従って女形としての特別の習練などはなかったはずである。しかるにお国歌舞伎に現われて来た女形は、女体に固有な女らしさを極力まねようと努めた。これは能において否定していた女らしさ、色っぽさを、極力復活させることを意味する。これもまた能楽から見れば常軌を逸したやり方であるが、しかしここに歌舞伎特有の女形という現象が始まっているのである。(略)
女の男装や男の女装のような性の倒錯の現象は、いろいろと性的刺激を与えたでもあろうが、しかしそれの担っている芸術史的意義はもっと大きいであろう。それは歌舞伎特有の女形の現象や荒事のような様式化された演技の源流となるものであって、その限りお国歌舞伎をして歌舞伎の創始者たらしめているのである。》(『和辻哲郎全集 第十六巻』72頁)
坂部恵は『和辻哲郎──異文化共生の形』の第一章「見出された時」で、浄瑠璃劇における「現実よりも強い存在を持ったもの」をめぐる和辻の問いを、「人間と世界の存在の宗教的次元」にかかわるものと捉えています(9頁)。
そして、幼年期の和辻における「一種の脱我体験ないし憑依体験に近いもの」(33頁)、あるいは「神に隠されやすい子供」であった柳田國男に通じる「神話的想像力」(34頁)や「一種の脱我と神隠しの体験」(35頁)などに言及したうえで、「『歌舞伎と操り浄瑠璃』一巻は、一面で、民衆の構想力のかくされた古層への探究と発見の旅であると同時に、そうおもってみれば、著者自身にもなかば隠されたみずからの心のはるかな奥行へ向けての果てることのない旅という性質を、他面で色濃くもっていたと考えられる。」(38頁)と述べています。
和辻=坂部の議論は、「はじまりの言語」の記憶をフィギュールとして、形象、かたちとして保持する“やまとことば”のメカニカルな展開を、すなわち憑依=表意(意味の受肉)のプロセスを内側から叙述したものなのではないか。私はそんなことを考えています。以下、唐突かつ強引な括りになりますが、いま未分化未整理のまま頭の中に渦を巻いている“アイデア”めいたものを素描しておきます。
……舞台上で操られる人形は「仮面」であり、そのメカニカルな動きは「脱我的な憑依体験」をかたちとして現わすフィギュールである。フィギュールすなわち文字、あるいは「心の声」(鈴木朖)。
すべては“おもて”すなわち舞台上の外面的な関係性の中のメカニカルな出来事なのであって、そこにはただ文楽を構成する「三つのエクリチュール」(ロラン・バルト)のうちの一つ、すなわち太夫が絞り出す鍛え抜かれた声しか響かない。それは「内面」から洩れ出る声ではない。そこに“うら”はない。
「悲しみの歌が耳に響いてくる時には、悲しい姿が眼に見える」。すなわち能役者と人形は「音楽的表現」に即して「形象的表現」をやる。コレスポンダンス(掛詞、縁語)とアナロジー(見立て、本歌取り)による規律のもとで。
操り人形の「写実的に、人間の生活を表現する」エクリチュールを介して能役者のメカニカルな「舞」と歌舞伎役者のエロティックな「しぐさ」もしくは「踊り」が分岐していく。……
■折口信夫『言語情調論』─やまとことばの幼体性
あとひとつ、伏線を回収します。少なくとも、忘れているわけではないことを、確認しておきたいと思います。
第72章の最終節で、私は次のような「予告」をしました。折口信夫の『言語情調論』は、「文字以前の初期状態の言語の「幼体」を保持するやまとことばのネオテニー性(あるいは「詩語」としてのやまとことば)をめぐる議論へと誘導し、その根源をしつらえる射程の広さと深さをもっている」のではないかと。
そこで念頭においていたのは、たとえば『言語情調論』最終第九章「言語と記憶心像と」の第一節における「斜聴」をめぐる議論でした。
《諸君は、視覚に、斜視という事実のあることを知って居られるであろう。物体の影が、網膜の中心に落つる時の眼球の運動は、直視であるが、その以外に影を結ぶものは即、斜視である。眼を動かさずして、進行する物体の影の連続を断つことなく、見ることの出来るのは、この斜視あるが為で、直視せられた物体の連続を、ほのかに見ることの出来るという斜視の作用は、これを聴覚の上にも移して考えることが出来ると思う。言語には、ある音声が、次に来る音声、或は前の音声によって、幾分か音質音量音調音脚に変化の来ることは、否むべからざる事実である。そうであるから、今少し研究法が進めば、ある言語の一部を截り取って、仔細にこれを点検すれば、前後の音はもとより、次第に薄くはなるが、前後の音に連続している音を知ることが出来るようになるかも知れない、これは、具体的の結果を予想したのであるが、事実不明瞭ながらも、現在この斜聴(といい得べくんば)の事実を、無意識的に知覚しているに相違あるまい。さもなければ、談話の進行が、音量、音調、音質、音脚の意識を失ってしまって、さっぱり通じなくなるであろう。》(『言語情調論』(中公文庫)111-112頁)
折口が挙げているいくつかの例の一つを取りあげます。
いわく、「女殺油地獄」に、女房の身体美を商売物を用いて述べる「…柳髪とろりとせいもたね油…」のくだりがある。「すらりと」というと、誰しも「すらりと‘せい’がたかい」という語を連想する。すなわち、「一種の斜聴が記憶心像に結びついて」、たね油という語の「た」と「高い」という内容を直覚するのである。「言語情調の知的方面にはこういう事実もあるということをはなしたまでであるが、懸辞というものは大抵みな、この記憶心像の内容斜聴作用にまってはじめて意味あるものとなるのである。」(118頁)。
率直な感想を述べると、私には、物体や音の連続を知覚する作用を説明するのに、はたして「斜視」や「斜聴」といった概念を持ち出す(作り出す)必要があったのかどうか、疑問なしとしません。
ただ、折口が述べた「懸辞」(掛詞)が、和歌のレトリックにおいて、古代的・集団的な記憶(や呪文)に根差す序詞、枕詞を基盤として発展したものであることを踏まえるならば、「斜聴」とは、たとえば神の声を聴くシャーマンの知覚のような、“コトバ”(井筒俊彦)がそこから立ちあがって来る(あるいはそこへ到来する)変性意識状態を表現しようとしているものと解することはできると思います。
安藤礼二氏は『折口信夫』で、次のように書いていました。──折口は「和歌批判の範疇」においても『言語情調論』においても、その結論部分で言語における聴覚と視覚の共感覚現象、「斜聴」を論じている。折口はこの後、「象徴言語」の発生を、主客の区別が消滅してしまう「憑依」に探り、「国文学の発生」という論考を書き継いでゆく。そこから折口の古代学がはじまったと。
『言語情調論』については、いや、折口信夫については、もっと丁寧に、もっと深く掘りさげて考えておきたい論点がたくさんあります。
思い浮かぶものを順不同に書きつけると、たとえば、『言語情調論』の冒頭で、「言語は、音声形式の媒介による人類の観念表出運動の一方面である。」と記し、「言語表象の完成は、音声の輻射作用によって、観念界に仮象をうつし出すことによってえられる」と書かれたことの実質、とりわけ「音声の輻射作用」と「言霊」の関係。
あるいは、「妣が国へ・常世へ──異郷意識の起伏」(『古代研究』民俗学篇1)で述べられた「間歇遺伝(あたゐずむ)」とネオテニーとの関係[*]。──「十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王个崎の尽端に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかつた。此をはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今以てなれない。此は是、曾ては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか。」
また、安藤礼二著『折口信夫』のある印象的な断片に出てくる「詩語」と「ライフ=インデキス」と“やまとこば”の関係、等々。──「霊魂として存在する「音」に導かれ、はじめて古代という「記憶」が甦るのである。「祝詞」は記録され、ただそこに存在しているだけでは歌としての生命をもたない。詩人によって実際に口ずさまれるとき、はじめて生命をもった歌となり、過去を甦らせる…。/現在の音と現在の記憶に導かれて過去の意味と過去の記憶が甦る。詩語の生命とは、音と意味の間に、音と意味の「差異」そのものとして、つまりは現在の時空と過去の時空の「差異」そのものとして孕まれる。古代とは、霊魂として存在する「祝詞」、歌を発生させるライフ=インデキスとしての詩語に宿るのだ。」
これらの事柄については、問いを問いとして抱き続けることしかいまはできないので、ここでもまた、未分化未整理な“思い付き”を備忘録として書き残しておきます。
……折口信夫の「言語情調」は前田英樹が言う「言語感情」、すなわち「語クオリア=言霊」につながる。
それは過去の記憶、つまり言語誕生の記憶(原クオリア)としての「古代」を間歇遺伝的に現在に出現させ、憑依させ、あるいは受肉させ、復活させる「ライフ=インデキス」としての詩語の核心をなす。
生命の記号(インデックス)としての詩語、クオリアと地続きのコトバ、すなわち“やまとことば”。……
[*]武田梵声『野生の声音──人はなぜ歌い、踊るのか』から。
《マレビトとは、狭義には時の裂け目(盆や正月、夏至や冬至)に異界から来訪する神のことであり、その来訪神を迎える祝祭芸能全体を捉える言葉でもある。ただ、折口はマレビトを、こうした文化的形態に留まるものだけではなく、あらゆる芸能の根源に働くフォルス(力)として位置づけた。つまり、【「マレビト」とは、あらゆる芸能に、無意識のうちに潜在する民俗心性や古代心性】であるというのが、折口の着想であったのだ。
こうした折口の発想の原点は、熊野の大王崎灯台でのアタビズム体験にあると言われている。アタビズムというのは、かつて浅草十二階最高の芸能者の一人であった辻潤により翻訳されたロンブローゾの天才論に記されている概念であり、【古代の記憶が、間欠泉が吹き出るようにして立ち上がる現象】を指す。折口信夫はこの大王崎で、海の彼方にある「常世の国」を、古代人が実感していたのとほとんど同じ感覚で認識したのだと語っている。》(『野生の声音』24頁、【 】は原文ゴシック)
(82章に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。
Web評論誌「コーラ」55号(2025.04.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第81章 ことだま/詞と辞/アイロニー(その2)(中原紀生)
Copyright(c) SOUGETUSYOBOU 2025 Rights Reserved.
|