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Web評論誌「コーラ」
07号(2009/04/15)

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■貫之現象学と共感覚
 
 小西甚一氏は、『日本文藝の詩学──分析批評の試みとして』に収録された「「鴨の声ほのかに白し」──芭蕉発句分析批評の試み・1」で、「わたくしの寓目した最古の共感覚技法」として、土左日記二月九日に記された次の歌を挙げています。
 
   千代経たる松にはあれど古の声の寒さはかはらざりけり
 
 この歌は、貫之一行が伊勢物語で知られる禁地・交野の渚の院にさしかかった際、「これ、昔名高く聞こえたる所なり。故惟喬親王の御供に、故在原業平の中将の、世の中に絶えて桜の咲かざれば春の心はのどけからましといふ歌よめる所なりけり」と人々が口にしたまさにその時、「今、今日ある人」つまり船上の貫之が「所に似たる歌」(その場所に似つかわしい歌)として詠んだとされるもので、「千代経たる松」は、一説によると、いわゆる「歳寒の松柏」の故事を踏まえて、惟喬親王の遺徳の永劫不滅であることを讃えた表現(西山秀人編『土佐日記(全)』)。また「声」とは松籟、すなわち渚の院の「しりへなる岡」に群生する「松の木ども」に吹く風の音のこと。その松風の音は昔と変わらず、あたかも早春の交野の地に立ち騒ぐ風の寒さが身にしみるように、立太子を果たせず不遇の生涯を終えた親王の失意を今に伝える悲嘆の声(メッセージ)となって、私の心にしみてくることだ。歌意は、おおよそ、そのようなものでしょうか。
(これには異論もあって、小松英雄氏は『古典再入門──『土左日記』を入りぐちにして』に、この歌は「松は千年」という俗言を前提にしたもので、「千代経たる松」は千年の齢が尽きかけている、よぼよぼで枯れかけたみすぼらしい「松の木ども」をイメージさせる、と書いています。この説にしたがうならば、歌の大意は、「外見こそ衰えていても、吹き渡る早春の寒い風に当たって立てる声は、若い松であったころの鋭さを失っていない」、すなわち、「老松は、吹き渡る風に乗せて、命の限り、この院[渚の院]の歴史を語りつづけている」となります。)
 私はここで、小西氏の威を借りて、貫之と共感覚技法との特権的な結びつきを云々しようとしているわけではありません。稲田利徳氏の「共感覚的表現歌の発生と展開(上)」(岡山大学教育学部研究集録第43号)によると、和歌における共感覚的表現は、俊成編纂の千載和歌集以降、新古今時代の「新風」に至ってピークを迎えるものの、貫之以前にも若干の例をみることはできるようですし、また、「松聲」という聴覚にかかわる事象を「寒し」という触覚に関係づける発想そのものは、漢詩文の世界では古くからみられるものであったようです。(たとえば、本朝文粋・山家秋歌・紀納言に「浪響松聲日夜寒」の詩句がある。)小西氏も、芭蕉の「海暮れて鴨の声ほのかに白し」をめぐる前掲の論文で、「芭蕉が共感覚技法をまなんだのはシナ詩を通じてのことで、和歌ではなかったろう」と推定しています。
 そもそも、共感覚という現象(体験)と共感覚的な表現(言葉)とを同列に扱うことはできません。作中に共感覚体験を思わせる詩句を書きこんだ詩人たち、たとえばボードレール(「万物照応」)やランボー(「母音」)が、そして貫之や芭蕉が、(あるいは、「いざよひの月はつめたきくだものの匂ひをはなちあらはれにけり」と詠んだ宮澤賢治が)、はたして真性の共感覚者だったかどうか。そういった問題とはかかわりなく、これらの詩人、歌人、俳人の言葉遣いを気の利いたレトリックとみることは、いつだって可能なのです。(それは、意識を欠いたゾンビやロボットが、「私は在る、私は存在する」と言明できるのと同じことでしょう。)
 私が取り組みたいのは、そのような言語表現上の技法のことではなくて、あくまで、貫之現象学における(実在する現象としての)共感覚の問題です。いいかえると、言語以前の世界における体験としての共感覚(第5章で使った語彙でいえば、物即心の「原クオリア」のごときもの)が、いかにして「よろづのことのは」の世界における言語的構築物(歌)へと結実していくのか、その理路ないし推論の導管はどのようになっているのか、といったことです。(念のために付言すると、「言語以前の世界における体験としての共感覚」というのも一つの概念なのであって、それそのものが実は「よろづのことのは」の世界における言語的構築物(言語が見る夢)なのだ、といった切り口から共感覚の問題にアプローチしていく途もあります。そして、それは定家論理学の世界に帰属する問いです。)
 言語以前の現象である共感覚そのものと、言語世界における修辞である共感覚的表現とが異なる次元に属するものであることをわきまえた上で、以下、貫之の「千代経たる」の歌に詠まれた「感覚の論理」のごときものを腑分けしておきたいと思います。そのために、まず、「千代経たる」の歌の心(意味)をくみとる際に使った「しみる」の語にも関連させながら、三人の先達の議論を(余分な講釈をはさまず、生の素材のまま)引きます。
 
■古典和歌の感覚世界─万葉集の場合
 
 その一。高橋元洋著『日本人の感情』第二章「“感情”と心の外部──古代的世界観の場合」に、万葉集の感覚世界をめぐって、今日と比較して独特と思えるのは、視覚と聴覚であると書かれている。
 
《自然と人間とは、同様に非人格的な力の観念(霊魂)によって活動し、密接な関係にあった。古代の人たちは、自然に包まれて生き、自然に助けられると同時に、常にその脅威の中にあった。その意味でも、古代人の感覚は自然の動きに敏感である。生きてゆくためには、微細な自然の動きを正確に受け止めなくてはならなかった。
 とくに、今日のわれわれの感覚と比較して独特と思えるのは、古代人の視覚と聴覚である。ものを見る視覚は、すでに触れたように、われわれの場合、主観と客観の関係によって理解する。見るものと見られるものとはあくまでも異なるものと考える。
 しかし、古代の感覚はもっと親密である。古代では、客観と主観は、同じ力の中にあって共振して存在する。視覚は、ただ見るということではなく、触覚にも似ている。見ることが、そのものと触れることと等価である場合がある。また、聴覚も、われわれの聴覚以上の機能を持つ。古代の聴覚は視覚と結びついており、ものを聴くことは目に見えない世界を視覚化することでもあった。》
 
 また、高橋氏は、バークリの触覚優位説を敷衍して、視覚は感覚として独立したものではなく、無意識のうちに形成された触覚・身体感覚を基盤として、これを抑圧するかたちで分離し、洗練されていったものであると論じている。聴覚の場合も同様である。聴覚は「不可視の世界に繋がり、これを可視化する」が、正確に言うと、もはや聴覚とか視覚という独立した感覚が問題なのではない。
 
《意識は聴覚に凝集し、対象そのものに入り込み、自然の律動を直接受け止める。このことも言い換えると、聴覚を契機として、感覚の基盤をなす触覚・身体感覚に働きかけるということにほかならない。人の身体は、自然と接触している。自然は、人の身体を組み込んで動いている。感覚の基盤は、この自然の律動と繋がっている。それゆえ、聴覚に集中した意識は、身体感覚を介して、自然の律動を感知する。(略)
 要するに、聴覚は視覚に、視覚は触覚に近い働きをする。このことからわかることは、感覚はそれぞれ独立して機能するのではないということである。これを理解する上で重要なことは、感覚の基盤をなす身体感覚である。
 古代の人たちの身体感覚は、おそらく今日のわれわれとは異なっていたと思われる。すでに見たところであるが、われわれの感覚は、はじめに触覚による直接の知覚がある。この触覚が身体感覚・身体運動と結びついている。そして、この感覚の基盤に視覚・聴覚などの諸感覚が結合するわけであるが、その後、成長とともに諸感覚が洗練される。つまり、原初の身体感覚は無意識の領域に送り込まれ、視覚・聴覚・触覚などが独立して機能することになる。
 これに対して、古代における未分化な感覚世界では、無意識の領域に抑圧されているはずの身体感覚が発達するという現象が見られる。原初の身体感覚が顕著に働き、視覚・聴覚などはそれぞれ独立することなくこの身体感覚に結びついて機能する。身体感覚の優位とは、独立した視覚・聴覚などでは捉えられない世界があるということである。つまり、不可視の世界が可視的世界より実在感があることを意味する。》
 
 高橋氏によると、感情の問題は単なる心の問題ではなく、存在の問題である。人間の心は、心以外の何ものかと繋がっている。その何ものかは、(デカルトのように)身体に限定されない。自己の身体の外には他者があり、自然があり、無限に広がる宇宙がある。その外には、目に見えない時空の領域もある。過去があり、未来があり、他界がある。そうしたさまざまな何ものかが心に繋がり、心に作用している。心のさまざまな関係が無意識の領域を構成し、いわば「身体の記憶」となり、感情として現われる。万葉集を見てきてわかることは、この関係の原型というべきものは身体感覚・触覚だということである。高橋氏はそのように述べて、万葉集の感覚世界をめぐる章を締めくくる。
 
《「心」に繋がり「心」に作用する関係というと、「心」と「心」以外の何ものかとの関係であるから、普通、主観・客観という認識論の図式を考えやすい。しかし、デカルトも精神に対してまず身体を対応させたように、主観・客観の図式以前に「心身」の関係がある。この「心身」関係は、デカルトの場合、相互に異質な「心」と「身」との対応関係であるが、ここで見てきた『万葉集』の感覚世界では、「心」・「身」未分化の身体感覚・触覚が問題であった。
 古代的世界観においては、関係の質そのものがわれわれのそれとは異なっていた。したがって、“感情”の様相も違う。本章でとりあえず確認しえたことは、古代の感覚世界では感覚の基盤である身体感覚が発達していたこと、またこの感覚世界の構造を要約すると、@「全体」(存在するすべてのものは繋がっている)とA「力」(全体には非人格的な力が働いている)という二つの考え方になるということであった。》
 
■古典和歌の感覚世界─「見る」から「思ふ」へ
 
 その二。藤原克己氏は、共著『源氏物語――におう、よそおう、いのる』の第一章「匂い──生きることの深さへ」で、万葉集における視覚・嗅覚の共感覚的表現について論じている。
 いわく、万葉集にあっては、「紫草[むらさき]のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも」のように、「にほふ」という言葉は視覚的な美しさに関して用いられることが多い。しかし、大伴家持の「橘のにほへる香かもほとどきす鳴く夜の雨に移ろひぬらむ」のように、嗅覚に用いた例がみられる。「ことさらに衣は摺らじ女郎花咲く野の萩ににほひて居らむ」(わざわざ衣に草花を摺りつけたりはしまい、女郎花に萩もまじって咲き乱れているこの秋の野のはなやぎに、このまま染まっていよう)のように、「染まる」という意味で用いられている例も少なからずある。これらのことは、「にほふ」が本来、「視覚と嗅覚との両方にわたるような共感覚的な感覚を表していた」こと、そして「その視覚の内側に、一種の接触感覚が濃厚に息づいていた」ことを示唆しているように思われる。
(朱捷著『においとひびき──日本と中国の美意識をたずねて』に、物事の余韻、余情を表現するのに、日本では「匂」(にほひ)といい、中国では「韻」(ひびき)といいあらわした、とある。「「匂」という和製漢字は、日本語の「ニホフ」には嗅覚をあらわす漢語の文字ではカバーできない意味領域があること、および、そのカバーできない領域は漢語の聴覚を示す文字を借りればカバーできることを、示唆しているのである。」)
 藤原氏は、さらに、土橋寛氏が『日本語に探る古代信仰』で示した、「ニ」は森羅万象に宿る霊的な力を表わす言葉の一つであったとする説を踏まえて、「にほふ」とは「霊延[ニハ]ふ」(「延ふ」は「けはひ」や「さきはふ」のハヒ、ハフと同じで、あたり一面に延び広がる感じを表わす)ではないかと指摘し、源氏物語での用例を挙げる。また、物の匂いがもつ、記憶を呼び覚ます力の独特な深さをめぐって、「それは、過ぎ去った時の記憶を、意識の底、体の奥のほうから、一挙によみがえらせてくるようで、しばしば何かせつないような、かなしみに似た情感をすら覚えます。」と述べたあとで、万葉集から古今集への変化について、次のように語っている。
 
《『万葉集』には、香りを詠むということじたいが少なかったのでしたが、『古今集』になりますと、むしろ好んで香りが詠まれるようになります。そしてこの変化は、『万葉』から『古今』にかけて和歌に生じた、ある大きな変化に対応しています。唐木順三氏の名著『日本人の心の歴史』(筑摩叢書・一九七六年)に、『万葉集』には「見れど飽かぬ」という言い方を代表として、「見る」という動詞がたくさん出てくるのに対し、『古今集』では「見る」が大幅に減って、代わりに「思ふ」が増えてくる、ということが指摘されていますが、まことにしかりで、古今集歌には、目の前に見えているものよりも、遠くはるかなものを思いやる──たとえば眼前に今を盛りに咲いている桜よりも、霞に隔てられている桜を思いやるとか、川面に流れる花びらを見て、水上で咲いている桜を思いやるとか、そんなふうに遠くはるかなものを思いやる、あるいは目に見えない音や香りですとか、水に映る影や夢ですとか、要するに、確かに現前するものよりも、非在のもの、非有非無のものを好んで歌うという傾向が顕著にうかがわれます。》
 
 藤原氏は続けて、「そのような傾向にも関わって、とくに興味深く思われる歌」として二首、いずれも古今集撰者の一人、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)による、「闇がくれ岩間を分けてゆく水の声さへ花の香にぞしみける」と「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる」を取りあげ、前者の「闇がくれ」の歌について、「目に見えないものを思いやって詠むという歌の典型ですが、と同時に、渓流の音が花の香に染まるという、のちの時代の歌人たちにたいへん好まれるようになった共感覚表現を先取りしている点でも注目されます。」と書き、その一例として、俊成の「春の夜は軒端の梅をもる月の光もかをる心地こそすれ」を挙げる。
 
 いま一つ、大岡信氏の議論を引く。『日本の詩歌──その骨組みと素肌』に、「和歌は、助詞や助動詞が最も活躍する文学領域であります。特に『古今和歌集』がそうでした。『古今集』の和歌は、いわば極めて微妙な音の響きの重なり合いで成り立っている室内楽、あるいは複雑に交錯して繊細な模様を生み出しているアラベスクの線にも似ていると言えましょう。」とある。また、室内楽の比喩に関連して、古今集巻第四秋歌上の巻頭におかれた「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる」をめぐって、次のように指摘される。
 
《ここで重要なことが明らかになります。「視覚」よりもさらに微妙でとらえがたいのが普通であるはずの「聴覚」が、和歌では視覚よりも一層深い味わいをもった感覚として喜び迎えられているということです。
 これは言いかえると、平安時代の歌人たちが、男も女も、いま眼の前で現実に見ているものよりも、むしろ音として遠方から聞こえてくるよそのものの「気配」に敏感だったことを示しています。そのことは彼らの生活形態そのものと密接に関係する事実だったろうと私は思います。というのも、多くの場合、彼らの生活圏はきわめて狭く限られていたので、見て確かめることよりも、耳で聞くことによって生活が大きく左右されたからです。人の噂は、今とは比較にならないほど人々を動かす力がありました。特に男女関係では、耳で聞くことにたえず注意深くある必要がありました。視覚よりも一層聴覚に鋭敏である必要があり、それがおのずと今読んだ歌のような感覚をも生んでいるのです。(略)
 和歌は、このこと[有力者の娘との結婚を通じて立身出世を夢見る若い貴族にとって、深窓の内側深く身を守っている女性に近づく唯一の手段は、恋の和歌を手紙として贈ることだった]からも明らかなように、相手の心を捉え、説得するための、きわめて実用的な手段であり、武器でもありました。それは決して単なる詩的才能の見せ場ではなく、場合によっては命がけの恋の駆け引きの道具だったのです。当然それは、男女の、また宮廷人たちをはじめとするさまざまな社会階層間の、社交の道具でした。和歌はその意味ではひどく現実的効用のあるものなのでした。
 和歌が極度の感覚的洗練にまで達するのも、決して単に純粋に文学的な意味においてではなく、むしろ今のべたような実用上の必要からそうなっていったと考えるべき事柄です。》
 
■古典和歌の感覚世界─「広がり」から「深み」へ
 
 その三。大岡氏は『詩の日本語』で、日本の詩歌人たちは、光(色)を純粋視覚の見地から感じとるということがあまりなく、多くは触覚的、さらには「内触覚」的な見地からこれをとらえてきたと指摘している。そして、この種の「触覚的認識法」が、新古今歌人をずっとさかのぼって古今集の歌人たちにも親しい世界であったとして、躬恒の「闇がくれ」の歌を例に挙げ、次のように続けている。
 
《こういう「しみる」感覚の系譜が、実は日本詩歌の歴史に一本のけざやかな線をつくっているのであって、
   夕されば野べの秋風身にしみて鶉(うずら)なくなりふかくさの里 藤原俊成
という歌ではまだ純触覚的だった「身にしむ」は、俊成の息子の時代に至ると、
   白砂のそでのわかれに露おちて身にしむ色の秋風ぞふく 藤原定家
と、「秋風」が「身にしむ色」をしているという内触覚的な認識にまで達する。念のためにいえば、定家のこの歌は、恋の歌なのである。同じ定家に、
   消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの森の下露
のごとき歌もあって、「色」はもはや完全に「色離れ」しているといわねばならない。にもかかわらず、なぜか私は、これらの歌のなかに日本の詩歌の「色」を強く感じるのだ。言ってみれば、ここにこそ、自然界のものに密着した色の世界から、渾身の力をこめて抽出され、いわば「無色の原色」として意識された「色」があるとはいえないだろうか。
 風に色を見るということは、もはや視覚の問題ではない。心の眼の問題である。風のなかに色を見る「心」があるのだ。それはあらゆる現実の色彩の世界から遠ざかっているが、自然にそうなったわけではない。意志によって遠ざかっているのである。実生活においては、彩り豊かな服もあり、調度もあり、寺院の内装もあり、植物世界もあったわけだが、そういう現実世界の色を拒絶することによって、無色のもののなかに色を見る一種の透視的な眼を獲得しようとして、彼らは骨身をけずった。》
 
 大岡氏がいう「触覚的認識法」もしくは「触覚の原則」とは、「現実世界の色を拒絶することによって、無色のもののなかに色を見る一種の[触覚的、また内触覚的な]透視力」、あるいは、「視覚的な「色」[物心一体の境において感じとられる事物の色]だけでは満足できず、触覚的に「しみる」色[心の色]を追求しようとする衝動」に発するもので、大岡氏は、それを「日本の詩歌の反俗主義」としてとらえ、「一見華麗なもの優美なものを豊かにもっているとみえながら、日本の詩歌が全体として「ひえさびた」境地へとたえず磁針を合わせつづけてきた理由も、この反俗主義の現実的なあらわれとしての禁欲主義によるだろう」とする。
 大岡氏はまた、「幽玄」という中世歌論における美の理念をめぐって、能勢朝次著『幽玄論』に、「この語は、美の性質や色彩を表現する点に特色がなくて、美の深度や高度を示す所に特色を持って居る」、「その内容は「虚」とでもいふべき性格であるから、「あはれ」の極まれるものをも、「艶」の極まれるものをも、「さび」の深きものをも、「優」のすぐれたるものをも、また、それ等の情調の微妙な複合状態にあるものをも、何れもその内容として持ち得てゐる」とあるのを踏まえ、「これを五官の領域にあてはめていえば、幽玄をはじめとする美の諸理念は、視覚あるいは聴覚のように、明確な、あるいは比較的明確な、尺度を適用しうる感覚の領域ではなく、触覚、嗅覚、味覚のように、その種の尺度がないといってもよい感覚の領域においてこそ、真に生きてくるものなのである。」と述べ、俊成こそが、「広がり」ではなく「深み」において歌の本質を見るという大きな「中世的価値転倒の意識」をみずからにおいて体現し、代表していたと指摘する。
 
■感覚の論理から感情の論理へ
 
 さて、これらの議論(万葉集や古今集、源氏物語、新古今集などに詠み込まれた具体の歌をめぐる実地の体験を通じて、つまり「実験」をもとにして紡ぎ出された実証的な議論)を素材として、古典和歌における「感覚の論理」とその変遷を、私なりの理解をまじえながら抽出しておきます。
 まず、見ることと触れること、そして匂いを嗅ぐことが等価であり、あるいは聴くことが見えないものを見ることであるといった、「異種感覚間連合」という意味での(狭義の)共感覚の根底に、そもそも個別の感覚がそこから分岐していく基盤となるところの原初の身体感覚(広義の共感覚)が実在しています。この身体感覚は、非人格的な力がはたらく不可視の(潜在的な)領域に接触しつつ、森羅万象のリアルな事物事象とつながっていき、そこでは、物心一体、心身一如、主客合一の事態が成立しています。(万葉集の感覚世界)
 そこに、「見る」から「思ふ」へという、第一の大きな変化が生じます。「見る」といっても、それは見るものと見られるものとが親密に結びつき、また身体感覚を介して自然の律動へとつながっていくといった類の共感覚的な視覚のことなのですが、そうした視覚の内側に濃厚に息づく接触感覚、とりわけ「しみる」感覚や過ぎ去った時の記憶を一挙によみがえらせる嗅覚、あるいは不可視のものを可視化する聴覚が、和歌の世界においてしだいに重んじられるようになり、その結果、確かに現前するものよりも遠くはるかなもの、非在・非有非無のものへの「思ひ」を詠む歌、あるいは遠方から到来する「よそのものの気配」に敏感な歌が好まれるようになっていきます。(古今集の感覚世界)
 そこに、「広がり」から「深み」へという、第二の大きな変化がもたらされます。「広がり」とは、視覚についてだけいわれるものではなくて、遠くはるかなものを思いやる嗅覚や聴覚についても、すなわち、およそ原初の身体感覚から独立し社交的に洗練されていった個別の感覚全般についていわれるものです。そして「深み」とは、そのような「広がり」を不可視の内部に繰り込んだもの、つまり、かつて「物」としてリアルに実在していた触覚=身体感覚が、無色のもの(言語)のなかに「心の色」を見る透視力を通じて(言語的に)再構築された身体についていわれるものです。この新しい身体は、端的に「心」と呼んでもさしつかえないでしょう。(第5章で引用した尼ヶ崎彬氏の言葉を用いるならば、現実という土壌から根を断ち切られた言語空間のうちに、虚なる「新しい花」を咲かせる種としての心。)こうして、純触覚的な「身にしむ」感覚が、内触覚的な「心にしむ」認識に達していきます。(新古今集の感覚世界)
 以上のことを踏まえて、「千代経たる」の歌に詠まれた感覚の論理を読み解くと、次のようになるでしょうか。
 
 この歌には、「デタッチメント」な遠隔感覚に分類される視覚と聴覚、そして「アタッチメント」な接触感覚の代表格である触覚という、三つの感覚の対象が詠みこまれている。まず視覚がとらえる対象は、今そこに、早春の景色のなかで緑に生い茂っている(もしくは、寿命が尽きて朽ちかけた)松の姿である。しかし、その松が千年の歴史を耐えてきたことを、視覚は表象することができない。目に見えない時の推移をとらえるのは、聴覚の仕事だからだ。(「秋来ぬと」の歌を想起されたい。)その聴覚は、今、風に騒ぐ松の音(声)に聴きいっている。それでは、この声(メッセージ)はいったいどこからやって来るものなのだろうか。こうして、聴覚は不可視の世界である過去(「古の声」)へと遡行していく。(ただし、貫之がいう「いにしへ」は、歴史的な過去の現実の出来事を指すのではなく、伊勢物語八十二段に描かれたフィクショナルな歌物語の世界を指している。聴覚が導く不可視の世界のリアリティは、現実世界におけるそれには限られない。)
 また、このとき同時に、吹きわたる風の身にしむ寒さを、表面的な皮膚感覚としての触覚がとらえている。この感覚が「声の寒さ」として聴覚との融合をはたしたとき(狭義の共感覚)、過去世界のリアリティそのもの(「古の声の寒さ」)が全面的に一挙に召喚されることになる。死者(惟喬親王)が昔と変わらぬ実在の相をもって、今ここに顕現するのである。そのとき、松はもはや松ではなく、松風の音は単なる風音ではなく、寒さも表面的な寒さではありえない。それらの感覚は、それぞれの感覚モダリティの区別を失い、いわば「内部感覚」としての触覚=身体感覚のうちに合一し(広義の共感覚)、あるいは内触覚的な(言語的に構築された)感覚として統合され、「原身体」とでもいうべきもの(端的に〈心〉といっても、あるいは、物即心の「原クオリア」や人称化以前の「原ペルソナ」が棲息する場所としての〈身=心〉すなわち〈身(み)〉と表記しても、さらには、「器官なき身体」などと呼んでもさしつかえないもの)のうちにしみていく。そこでは、視覚主体や聴覚主体とそれぞれの客体との(デタッチメントな)距離は解消され、強いて主語を立てるならば、「千代経たる」云々というそのこと自体が「私」なのだ、といった(アタッチメントな)事態が、すなわち貫之現象学の世界が成立しているだろう。
(これらのことを、和歌六様、とりわけ、尼ヶ崎氏によって、貫之歌論における「標準的な和歌」を規定するものとして再構成された四つの付託の様式に即していうと、次のようになる。まず、視覚的な松の姿が故惟喬親王のありし日の姿、もしくはその現在の姿に「そへ」られて(擬されて)いて、強いていうならば、これが万葉集的な感覚世界(原初の身体感覚)につながる通路をひらいている。そして、その松が風にあおられて発する聴覚的な音は、不可視の過去世界からの、あるいは過去世界における声(メッセージ)に「かぞへ」られ、さらには「なずらへ」られていて、ここに、古今集的な感覚世界における「時間志向的美意識」(梅原猛)が表現されている。さらに、この聴覚的クオリアが風の寒さという触覚的クオリアと融合することを通じて、現在と過去、生と死、主体と客体、現実と仮構、等々が相並び立つ「いにしへ」の世界そのものが、いいかえると、原初の、自然の律動へと直接的につながっていく万葉集的な身体感覚と、新古今集的な感覚世界における新しい(言語的に再構築された)身体感覚とが重ね合わされた場所が開示され、それが「古の声の寒さ」の語によって「たとへ」られている。)
 
 それでは、「千代経たる」の歌において、貫之が松の姿や松籟や寒さのクオリアに付託した、その当のものは何だったかといえば、それはいうまでもなく「思ひ」としての心、つまり感情にほかなりません。そして、感覚にロジックがあるように、感情にもロジックがあります。共感覚をめぐる言語表現のうちに示された感覚の論理の解析を通じて、原初の、あるいは言語的に再構築された身体への通路が見出されていったように、感情をめぐる諸々の現象が、こうした感覚の論理の推移とパラレルなかたちで、和歌の論理の基層をなすもう一つの「感情の論理」のはたらきを通じて、原身体への、あるいは詞への通路をひらいていくことになるでしょう。
 古典和歌における感情の論理をめぐる考察を進めるため、次章で、梅原猛氏によって「感情の様式による分類」として鮮やかに読み解かれた、壬生忠岑の和歌体十種を取りあげたいと思います。
 
(9章へ)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」07号(2009.04.15)
<哥とクオリア>第8章 哥と共感覚・上(中原紀生)
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