Web評論誌「コーラ」53号/哥とクオリア/ペルソナと哥 第79章 純粋言語/声と文字/アナグラム(その6)

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Web評論誌「コーラ」
53号(2024/08/15)

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■音声・文字・物(韻律)・観念(世界)
 
 第77章のエピグラフに掲げた文章のすぐ後で、吉増剛造氏は次のように書いています。
《ちょうど、ソシュールの「アナグラム」についての論(ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』、ちくま学芸文庫)の中に、ニーチェのこんな言葉があって、わたくしがほとんど盲目的に考えていたらしいことはこれに近いと感じましたので、このニーチェの言葉をご参考に引用しておきたいと思います。
 
「文章を構成するあらゆる原子の順序を一新する」(同書、四七四頁)
 
 いかがでしょう、一気に一新しましたら狂的なことになります。しかし、ここに、「詩的暴力」の波頭が垣間見えているのだと思います。》(『詩とは何か』)
 文章を構成する「原子」とは何でしょうか。まず考えられるのは、音声と文字です。
 山中桂一著『ソシュールのアナグラム予想──その「正しさ」が立証されるまで』によると、ウィリアム・ベラミーは大著『シェイクスピアの言語芸術』(Shakespeare's Verbal Art,2015)において、ソシュールのアナグラム予想が基本的に正しかったことを証明し、同時に、アナグラム法の単位の認定に関するソシュールの過ちを明らかにしました(106-109頁)。
 いわく、アナグラム研究のなかでソシュールは「音素」を強調し、「ホメロスの詩やインド・ヨーロッパの古代の詩に文字の問題を絡ませる気はない」と揚言している。ソシュールの先進的な音韻論を知るスタロバンスキー(『ソシュールのアナグラム──語の下に潜む語』)は、この「音素」という概念にいっそう強く固執した。
 アナグラム法はこのように音声のレベルで捉えられ、定式化されてきたのだが、しかしベラミーの言うように、アナグラムが「読み、読み返し、書き抜き、もういちど読む」べきものであるなら、アナグラム法の単位としてふさわしいのは音声ではなく書記言語である。
《すなわちアナグラム法は第一義的には音声にいっさい関係せず、むしろ図形詩やある種の見せ消ちのような「見る綾」、つまりは文字表記にかかわる字並びの問題である。》(『ソシュールのアナグラム予想』106頁)
 これに関連して、ソシュールのもうひとつの誤ちは、「二連音+x」という字数によって単位を認定したことにある。アナグラム法に関係するのは「定位置に立つ文字(あるいは文字群)」である。
《文字を織り込む「定位置」とは…、《語頭ないし語末》ということである。和歌の沓冠と同じく、ここでもコードの前後両端を特別視する語尾原則(acrosticism)が働いているのである。(略)
 詩行の冒頭や、ときには末尾に文字を隠し入れるアクロスティク詩(折り句)の歴史は非常に古く、紀元前10世紀にさかのぼるとされてい[Fowler,Alastair 2007.“Anagrams,”The Yale Review 95.33-45.]。他方アナグラム法では、行でなく「語句」の冒頭かまたは末尾の文字を点綴することによって「二次的な存在」が構成され、したがってその構成要素はテクストの随所に生起の場をもつことになる。》(『ソシュールのアナグラム予想』108頁)
 文章を構成する「原子」もしくはアナグラム法の「単位」として、次に考えられるのは、物の秩序・連結と観念の秩序・連結、あるいは、マテリアルな「物としての言語」のレベルと、メタフィジカルな「意味としての言語」のレベルです。前者を「物質」または「韻律」、後者を「宇宙」(時空)[*]または「世界」(顕在世界・潜在世界・可能世界・不可能世界)の語で言い表わすことができるでしょう。
 
 さて、私がここで考えたいのは、ソシュールのアナグラム研究が本当は何であったのか、といったこと(だけ)ではなく、かねてから述べてきた「拡張されたアナグラム」の実質についてなのですから、以下、丸山圭三郎によって説得力あるかたちで叙述されたソシュールのアナグラム理論の創造論的な「拡張」の一歩先をめざして、音声、文字、物(韻律)、観念(世界)の四つの項をすべて包含する、より広い(拡張された)フィールドにおいてアナグラムの現象を考察していきたいと思います。
 
[*]グレッグ イーガン 『順列都市』(山岸真訳)から。
《「私たちは、ある事象のとりあわせのうちの、さらにひとつの組みあわせかたを知覚し、そこに住んでいる。‘しかし、その組みあわせが唯一無二だという道理がどこにある?’わたしたちの認識するパターンが、塵を首尾一貫したかたちで並べる唯一の方法だと信じる理由はない。何十億という別の宇宙が、わたしたちと同時に存在しているにちがいない──それはすべてまったく同じ材料からできている。もし‘わたし’が、数千キロ離れ、数百秒を隔てた事象を、隣りあい、かつ同時に存在するものとして知覚できるなら、わたしたちが銀河じゅう、宇宙じゅうに散らばる時空間の点だと考えているものから作りだされた世界や生物も、存在しうるはずだ。わたしたちは、巨大な宇宙的アナグラムの、ありうる解答のひとつだ……。だが、わたしたちが‘唯一の解答’だと信じるのは、馬鹿げている」
 ダラムはかんだかい音で鼻をならした。「宇宙的アナグラムね? じゃあ、使い残した文字はどこに行ったんだ? いまの話に少しでも真実があるなら──原始アルファベット・スープがほんとうにランダムなら──われわれが森羅万象を組みあげられること自体が、ほとんどありえない話だとは思わないか?」
 ポールは考えをめぐらせた。「わたしたちは森羅万象組みあげては、いないんだよ。宇宙は量子レベルでは‘ランダム’だ。肉眼レベルでは、パターンは完璧に見える。顕微鏡レベルになると、それは不確定性におかされる。わたしたちは、パターンを組みあげたあとに残ったランダムさを、もっとも深いレベルに追い払っているんだ」》(『順列都市』上)
■アナグラム、意識的でありかつ無意識的でもあるもの
 
 先へ進む前に、丸山圭三郎による「拡張」の中身を確認しておきたいと思います[*]。
 私が読み得たかぎりでは、『言葉と無意識』(V「アナグラムの謎」)の次の指摘が、その起点になっています。(本節での引用は、本稿第33章第3節「アナグラム、あるいは深層のポリフォニー」でのそれと重複する。なお、『言葉と無意識』については第10章でも参照している。)
《問題の所在はもはや明らかであろう。ソシュールがアナグラム研究に挫折した原因は、晩年のソシュールでさえ<表層のロゴス>における<意識的か、偶然か>という二項対立は乗り超えられず、彼の考えていた意味創造とは、‘意識的’主体による既成要素の再編成(ブリコラージュ)であり、新しい結合関係の樹立であり、せいぜい模倣とか剽窃という低次の作業にはおとしめられない真正なる<パロディ>としての<間テクスト性>でしかなかった。
 のちにも改めてとりあげる<間テクスト性>とは、しかしながら、単にある詩人なり作家なりが前世代や同世代に属するテクスト群から受けた有形・無形の影響のもとに新しいテクストを生産することではない。日常生活においてこそ‘意識的’な読み手と書き手にとどまる私たちが、非人称的主体となる深層意識の意味生成の現場では、言葉が言葉と交錯して自己増殖をとげるように、テクストは不断に他のテクストと交錯し増殖するのである。》(『言葉と無意識』115頁)
 フランシス・ポンジュの作品、ポール・エリュアールの証言、ロマン・ヤーコブソンとジュリア・クリステヴァによるソシュール解釈の紹介を経て。
《つまりパラグラム[テーマ語がアナグラムより広くテクスト中に散種される、ソシュールが広義のアナグラムのうち最も重要な形と見なしたもの──引用者註]にあっては、一連の語の下に潜む異なった位相の語が、既成の分節の境界線を危ういものにさせ、言葉は記号にして非記号、単線にして複線、線状にして面状、不可逆にして可逆という相矛盾する双面を有し、このために合理と非合理、言述的なものと前・言述的なもの、表層意識と深層意識さらには無意識との間の枠が取り払われ、その断層の流れを生み出している。
 このパラグラマティスムが、ロシアフォルマリスト・M・M・バフチンやソヴィエトのタルトゥ学派の記号論者・L・メルの対話理論と結びついて、クリステヴァの<間テクスト性>なる概念を導いた道筋は容易に想像できよう。この考え方によれば、すべてのテクストは、これに先行する諸テクストの連関において‘書かれ’、かつ‘読まれる’。現に存在する‘現象’としての<表層のテクスト(フェノテクスト)>の背後には、このテクストを可能ならしめた‘発生’としての<深層のテクスト(ジェノテクスト)>が「常に、すでに」存在するからである。》(『言葉と無意識』118-119頁)
 以下、「意識的であり‘かつ’無意識的でもある<間テクスト性>の一種」(120頁)としての本歌取りの事例をS・ソンダクの短編小説集『わたしのエトセトラ』他のうちに見てとり、その延長上に、引用の無限の連鎖としてテキストをとらえた宮川淳の思索と実践に言及し、さらにアナグラムの「ポリフォニー性」に説き及ぶ。
《実は、アナグラムとポリフォニーのあいだに見られる本質的相違にこそ、アナグラムが有する独自の多声性がある…。すなわち、アナグラムに聴きとられるものが‘深層意識’における言葉の多声性・多義性であるのに対し、ポリフォニーやカリグラム、そして<変態ルビ>の技法が生みだす重層性は、それぞれに複数の音や文字が‘表層意識’に直接訴えるものに過ぎない。アナグラムの多声性は、あくまでもモノフォニーのなかから‘内なる’耳目に感じとられる複数の声なのである。》(『言葉と無意識』128-129頁)
 丸山氏は続けて、共感覚や倍音の現象のうちに「無意識的連合作用の可能性」(139頁)を見出し、「アナグラムのポリフォニー性は、むしろ東洋的なモノフォニーの‘音色’にあり、その単旋律が同時に下意識において無数の複音を紡ぎ出すところにあると言えるのではあるまいか」(130頁)と指摘し、節を改めて、「非人称的空間」すなわち深層意識における「音のイメージに媒介される言葉の連鎖」(139頁)、すなわち擬似論理的(パラロジカル)もしくは古論理的(パレオロジカル)な過程を介した意味や主体の壊乱を論じていく。
 
[*]吉増剛造が言及した『象徴交換と死』におけるボードリヤールの「拡張」をめぐって、林道郎著『死者とともに生きる──ボードリヤール『象徴交換と死』を読み直す』から、いくつかの文章を引く。
 
◎詩の生成とテーマ語解体のプロセス
《ボードリヤールにとっての問題は、しかし、アナグラムが検証可能な法則なのかどうかにあるのではない。(略)それはスタロバンスキーのアプローチだ。深層に隠されたテーマ語や音素の対構造などを掘り起こすことで、言語の無意識を明るみに出し、その真の欲望を言い当てるという、いわば精神分析的な方法がスタロバンスキーのそれであったとすれば、ボードリヤールは、そのような方法に対して正面から否を突きつける。彼が関心を持つのは、その隠されたテーマ語が、詩の真の意味(シニフィアンでありシニフィエでもある)として詩全体を統御しているというような表層と深層の物語ではなく、逆に、もしテーマ語が機能しているとすればそれはなぜそれが、解体され詩句上に散りばめられなければならなかったのかという、詩が生成する過程における解体のプロセスの方なのだ。これは、たとえば、抽象絵画においてしばしば隠された形象を見つけ出して、それこそが眼前の抽象絵画の隠されたメッセージだとする態度と、そのような形象が存在したとして、なぜそれが隠されて抽象絵画全体の中に散逸しなければならなかったのかと問う態度の対立に似ている。後者がボードリヤールの態度であることは言うまでもない。そして彼がこの解体のプロセスにおいてもっとも重要視するのが、他ならぬ「死」の問題である。つまり、テーマ語として神の名が詩の中に埋め込まれているとすれば、その解体のプロセスとは、神の名の殺人であり、その死を糧にして詩がその生を得たという、あの未開社会における生者と死者との関係に相同の関係がそこにあるということになるのだ。》(『死者とともに生きる』66-67頁)
 ここで林氏はボードリヤールの次の一節を引く。「結局、アナグラムのなかにあるのは、記号表現とそれを具現化する名前の平面でいえば、供儀における神殺しや英雄殺しと同じものだ。」(『象徴交換と死』460頁)
 
◎消費社会における詩的実践
《彼は、デリダやクリステヴァのように、文学プロパーの研究者として、その内部から詩的実践へとたどり着いた思想家ではなく、むしろ、社会学に近い立場からアナグラムおよび詩的実践の可能性へとたどり着いたのであって、であるならば、その意味でのアナグラム概念の拡張の可能性、その可能性を私たちはさらに考えてみることができるのではないか。つまり、ボードリヤールにしてみれば、記号表象とその交換という現代の消費社会全体を成立させているシミュラークルの網の目そのものが、散文的で脱出不可能な牢獄と見えていたということであり、そのシステムが壊乱するような詩的実践を示唆する可能性をアナグラムという概念は指していたということになる。
 しかし、ボードリヤールは、そのシミュラークルの牢獄から脱出する方法について、あまり語ったことはない。》(『象徴交換と死』81-82頁)
 ここで林氏は「9.11」「3.11」以後の日本の政治状況に「アナグラム」の概念を適用する。隠されたテーマ語は「日本」そして「アメリカ」である。
 
◎多元的なシニフィアンの交響の世界の現出
《つまり、アナグラムおよびそれに代表される詩的実践とは、通常の意味作用を司る散文的な言語構造に介入し、歪曲し、破砕し、解体し、そのような異化の作用を通じて、意味の一義的な生産の流れを堰き止め、逆流させたり、支流を派生させたり、あるいは歪みとして停滞させたりする。意味の危機や停止という意味でそれは「死」を垣間見させる言語であるのだが、一方で、その死の縁にとどまることによって、意味の流れ、いや、意味への一義的還元を拒む多元的なシニフィアンの交響の世界を現出させるという働きをなす。詩的言語は、その意味で、言語の言語による消尽であり、一般交換の経済原理から言えば、浪費以外の何物でもない過剰性の徴のもとにある。しかし、その浪費性こそが、自分自身の死を賭した言語の生の輝きの奪回のわずかな可能性を保証するのであり、私たちは、その死の縁にとどまる過剰な言語の贈与(供儀)に対して、返すことが不可能な困難な負債を負うのである。そして、そのような死の縁から、意味の透明性に囚われていた散文的言語が、閉ざされた体系の中にあってほとんど仮死状態にあったことを私たち読者に知らしめてくれる。
 詩的言語は、その意味で、言語自身の中に詩の可能性を召還することによって生の活力を呼び戻し、自分自身を二重化し、生と死の円環的交流を起動させるという、一つの賭けなのであり、それは、私たちの世界が「生」至上主義の錯覚に囚われている限り、いつまでたっても仮死状態から抜け出すことことができないということを直覚させるための思想的な営為なのである。》(『死者とともに生きる』199-200頁)
■本歌取り、無意志的想起の意志的創出
 
 前々節で私は、筆の勢いでつい、丸山圭三郎による「拡張」の一歩先をめざす、と書きました。手がかりは、丸山氏の議論が孕んでいるある種の“単調”さにあります。それは、(丸山氏がしばしば言及する)井筒俊彦の議論にも通じることなのですが、一言で言えば、「深層/表層」の二元論でもってすべてが説明される、ある意味“退屈”な議論であるというに尽きます。
 急いで付け加えると、“単調”や“退屈”は、丸山圭三郎や井筒俊彦の思考がもつダイナミックな躍動感、時に読み手の身心の変容を要求するシャーマン性のようなものと裏腹な関係をもっています。平たく言えば、読み手の側が、書き手の内に湛えられた強度に拮抗する緊張感を欠くと、その論述は単調で退屈な、(あたかも下手な演者によって演じられた古典劇のように)白々とした反復的言説に見えてしまうということ。
 井筒‐丸山の「深層/表層」の二元論を、その究極のところまでつきつめていくと、溶融し熔接された「深層」がマグマ状に流動する灼熱の「表層」が出現し、これを冷却すると、あたかも地上に顕われた硬玉翡翠の原石のように、「深層」が露頭した「表層」(ラカンの口吻を真似るなら、志那語=象形文字(無意識)を蝕知可能なかたちで露出させている表層の国語のシステム)として凝結します。
 そのような(冷却された)「表層」における言語的出来事として、以下で、意識的でありかつ無意識的でもある「間テクスト性」の一種として、丸山氏が言及した本歌取りを取りあげたいと思います。
 本歌取りについて、以前(第41章で)、プルーストの「無意志的想起」と関連づけて考察したことがあります。前後の文脈や論脈を捨象して、その結論部分だけを抽出し、若干の編集を施し順不同で並べると、次のようになります。
 
・本歌取りという「意志的」テクニックを駆使して歌を詠み出だすのは生身の歌人だが、その詠歌プロセスにおいて生起する「詠みつつある心」(尼ヶ崎彬)のうちに「無意志的」想起が生じる。無意志的想起の意志的創出としての本歌取り。
・ヴァーチュアルな次元(和歌の集蔵庫)から「いま、ここ」のアクチュアルな次元にむけて生起した「詠みつつある心」にとって、古歌(本歌)とは一種の手続き記憶(文法、型、韻律)である。
 
・無意志的想起は、異なる光景・時間・感覚を同じ一つの平面上に等価なものとして共在させる。そうした隠喩的関係を媒介するのは、生きた身体の動静である。
・本歌取りは、古歌(本歌)と新作歌(本歌取り歌)、集団的類型歌(俗謡)と個人詠(純粋詩)とを、歌人たちの身体的行為(唱和)によって「いま、ここ」にある同じ一つの場に共在させる営みである。
 
・無意志的想起によって姿をあらわす過去・記憶の原初形態は「言語的制作物=物語」(大森荘蔵)である。無意志的想起は脱自による「歓び」(言語以前の共感覚的な身体の体験)をもたらす。
・「詠みつつある心」の物質化された極限の姿は、能舞台のうえに顕現する「ペルソナ」であり、そこにおいて無意志的想起と本歌取りとが共在する。
 
 言葉遣いや概念の系譜、相互の論理的関係の詰めが甘く、精錬が足りません。が、平板になることを恐れず、いま箇条書きのかたちに集約した議論をもとに、「拡張されたアナグラム」としての本歌取りの特質を、かの演劇の言語をめぐる五つ組「舞・聲・設・面・節」とアナグラムのフィールドを組成する四項「音声・文字・物(韻律)・観念(世界)」に強引に関連づけて整理し、前章の《図》を下敷きにして示します。
 
<「舞─(面)─聲」の横軸>
・本歌取り歌が、リアルかつあらゆる可能な音(声)や形(字)において出現する(詠み出だされる)アクチュアルな表層(いま、ここ)のフィールド。意志的操作の軸。
・広義の「倍音」現象と「共感覚」現象が、下方(物)と上方(観念)にまたがり生成する。物としての音や形から音象・形象を経て天上の音楽・純粋文字へ。唱和(ポリフォニーもしくは「モノフォニーの幽玄」(丸山))。感覚の積層化(パランプセスト)。形の重層化(モンタージュもしくは「グラフィック・アナグラム」(丸山))。
 
<「設─面─筋」の縦軸>
・本歌(古歌)群が集積する深層のフィールド。無意識的想起の軸。
・下方(狭義の深層)における「手続き記憶」(文法、型、韻律)と上方(広義の深層もしくは高層)における「言語的制作物=物語」との接触面(ミーティング・プレイス、あわい)に「詠みつつある心」(ペルソナ)が生起する。異なる光景・時間・感覚が同じ一つの平面上に等価なものとして共在する。
 
   《図1》「拡張されたアナグラム」と本歌取り
 
         〔観念〕
          物語
           ┃  (倍音)
           ┃    ↑   
           ┃    │  
 〔文字〕━━━〔ペルソナ〕━┿━〔音声〕
           ┃    │
    (共感覚)←─╂─→
           ┃
          韻律
         〔 物 〕
 
 ここで考察した「拡張されたアナグラム」としての本歌取り、すなわち、古歌(深層)という言語的世界から生起する「ペルソナ」による無意志的想起は、別の言い方をすれば「拡張された本歌取り」あるいは「広義の本歌取り」であるということになります。そしてそれは、狭義もしくは本来の意義における本歌取りを含む「和歌のレトリック」もしくは“やまとことば”の手続き記憶そのものです。というか、私はそのように考えています。
 和歌のレトリックについては、かつて(第46章から第48章にかけて)主題的に取りあげたことがあります。ここでもまた文脈、論脈を捨象し、結論部分だけを抽出し、《図1》の上に重ね描いておきます。[*]
 
1.顕在=顕現的次元における広い意味での「引用」
 @「見立て」 :水平的(共感覚的)連合
 A「本歌取り」:垂直的(倍音的)統合
 
2.非顕在=非顕現的次元における広い意味での「含み」
 @「掛詞」:水平的(共感覚的)照応
 A「縁語」:垂直的(倍音的)複合
 
   《図2》「拡張されたアナグラム」と和歌のレトリック
 
         〔観念〕
          物語
          ┃
       ←──╂──→
        【見立て】
           ┃  【本歌取り】
     ↑     ┃     ↑
     │     ┃     │
〔文字〕━┿━━〔ペルソナ〕━━┿━〔音声〕
     │     ┃     │
     │     ┃     │
   【縁語】   ┃
         【掛詞】
       ←──╂──→
          ┃
          韻律
         〔 物 〕
 
[*]アナグラムをめぐる議論は(少なくとも私の目論見としては)ほぼ尽きた。その実質への論及や子細の説明を欠き、外形的なことばかりに終始し、存分に“解明”できなかった論点は先送りした。「拡張されたアナグラム」とは、ほとんど“やまとことば”の、そしてその精粋である“やまとうた”の生理とも言うべきものに等しいのではないか。この思いがしだいに確信に変わっていき、残された課題は丸ごと貫之現象学B層第三相(とりあえず「ことだま/詞と辞/アイロニー」の共通章名を予定している)に委ねられる。
 とはいえ、うまく言葉にできなかったアイデアの“たね”らしきものが心残りなので、その一端を覚書風に書き連ねる。
 
◎メトリカルな空域のうちに重ね描きされた「拡張されたアナグラム」のフィールドは遊戯空間であり、自由・公共空間(アレント)である(國分功一郎・千葉雅也『言語が消滅する前に』第四章「情動の時代のポピュリズム」参照)。
 
◎遊戯空間における言葉は「魔法の言葉」であって「情報」ではない。──言語が失墜すると距離(空間)がなくなる。距離がなくなると時間がなくなる。言説が発酵・醸成する「空間の多元性」を確保することで「重層的な時間」が復活する(同書第五章「エビデンス主義を超えて」)。
 
◎遊戯空間におけるメッセージは純粋な「二人称的確定指示」(森岡正博)である。そこでは韻律がNFTの機能を果たす。──絶対外部(異なる空間)、絶対他者(異なる時間)からのメッセージは解読できない。コードを異にするから。しかし自分に向けられていることはわかる。主が「モーセ、モーセ」と呼ぶと、彼は「はい。ここにおります」と答えた(内田樹『レヴィナスの時間論』58頁)。
 
◎遊戯空間はまた演劇の空間である。──「幼児の言語習得とは、役者がいつの間にか演じている当の役になってしまうような奇妙な転倒である」。「根源が演技であるということは、我々はもはやその背後には何もないような仮面を被っているということに他ならない。」(京念屋隆史「言語行為の根源的演技性──デリダ─サール論争について」)
 
◎遊戯空間はまた儀礼空間である。──和歌のレトリックは「儀礼的空間」と呼ぶべき場での行為、つまり「儀礼的行為」である。「レトリックには、儀礼的空間を呼び起こす働きがあるのではないか」(渡部泰明『和歌とは何か』序章)。「本歌取りの歌は、本歌を暗唱し朗誦する声を重ねて響かせるよう、要求している。…その意味で、本歌取りにおいても、儀礼的空間が言葉で呼び起こされている」(同108頁)。
(54号に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」53号(2024.08.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第79章 純粋言語/声と文字/アナグラム(その6)(中原紀生)
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