Web評論誌「コーラ」53号/哥とクオリアア/ペルソナと哥 第78章 純粋言語/声と文字/アナグラム(その5)

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Web評論誌「コーラ」
53号(2024/08/15)

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■バルトと日本─空虚な記号と強固なコード
 
 佐々木孝次氏は『文字と見かけの国──バルトとラカンの「日本」』の「あとがき」に、次のように書いています。
 バルトの『記号の国』(1970年)、ラカンの二度目の訪日後の講義「リチュラテール」(1971年)、そして『エクリ』邦訳版のために書かれた「日本の読者に寄せて」(1972年)。これらのテキストをくり返し読んでいるうちに、ある印象が拭いがたいものになった。それは、日本についての二人の関心は、単なる異国趣味や好奇心などではなく、いち早く産業化を遂げた非西欧文化圏に対するものでもない。「つまり、「日本」は、二人の「理論」の根幹にかかわるような、もっと切迫した表象を生んでいるということである。」(282頁)
 ここで佐々木氏が言う、二人の理論の根幹にかかわる表象とは、バルトにとっては「空虚な記号」であり、ラカンのそれは「文字」であったと、一言で括ることができるでしょう。まず、バルトについて見ておきます。
《つまり、バルトの「日本」では、ことばの記号は空虚でありながら、堅牢なコードに従っている。すなわち、ことばは意味を欠いているが、行為は規則を遵守して、逸脱することがない。そこでは、記号をコードに従わせる力が強く働いているのである。
 なるほど、記号のシニフィアンの支配が行き届いていて、そのシニフィエは消えている。だが、それがともに実現している環境は、どんなエクリチュールにとって幸運な場所であるかどうか、その疑いは消えない。とりわけ、シニフィエの空虚なことばによって、一般にものを考えることはできるだろうか。もしできるなら、それはいったいどういう「考え」なのだろう。(略)あるまとまった「考え」を、ことばの記号で表明する行為を、きわめて広く「思想」のエクリチュールと呼んでみると、バルトは、「日本」におけるそれについては何も語っていない。もちろん、彼には、そんな義務も必要もなかったのだが。
 バルトが、「日本」という国をとおして行った記号についての考察は、非常に魅力的である。「日本」には、ソシュールやバルトとは違った、記号についての考えの歴史はない。そこで、バルトの言うとおりに、そこにおける空虚な記号と、行為のエクリチュールの規則性とを認めることにする。しかし、その「日本」には、空虚な記号のコードが動作や行動のすみずみまでを支配していることについて、ちょうど西欧の一神教について彼が経験したように、精神的に窮屈で、やりきれないと感じている多数の人がいるのは間違いない。彼は「日本」の記号について、みごとに語ってくれた。そこから、それについての二つの問題がひとつとなって、つまり意味が蒸発したことばによる「考え」と、強固なコードに従った一律の「行動」が同時に、共存して見られることが、これからもそのまま本書の問題になるのである。》(『文字と見かけの国』73-74頁)
 私は、「空虚な記号=意味が蒸発したことば」と「強固なコード=行為のエクリチュールの規則性」との「共存」こそ、音(聲)と姿(舞)が織り成す和歌作品(やまとうた)や和歌的思考(歌論)の表現とその伝達、あるいはより一般的に、連歌や能や舞踊や茶華道等々の日本の芸事や武術における技芸の修得、奥義の相伝といった現象に共通する特質であり、いわばその原理のようなものであると考えています。
 そして、これをさらに拡張していくと、それこそが実は、“やまとことば”の言語現象に限定されない、より普遍的な人間の(諸)言語の根源的・核心的・基底的な帯域における、すなわち、「演劇の言語」が立ちこめ、あるいはそこから立ちあがる、響きの韻律と形の韻律が織り成す「メトリカルな空域」における稼働原理そのものだったのではないかと。
 佐々木氏が言う「本書の問題」にかかわるその後の(権力と言語の関係をめぐる)叙述も魅力的なのですが、ここでは先を急ぎ、次に、ラカンの「文字」について見ておこうと思います。
 
■ラカンと日本─沿岸的なもの、純粋文字
 
 「リチュラテール(Lituraterre)」とはラカンの造語で、佐々木氏によると、文字(Lettre)、土地(terre)、文学(littérature)、沿岸(littoral)などを一つにして、何らかの意味作用を狙ったもの。「「日本」を話題にしていることから、〈Lituraterre〉の一語を、「沿岸地帯」あるいは「文字の土地」と呼んでみたくもなる」(172頁)。
《沿岸的とは、また境界領域のことでもある。だから、Lituraterreという造語は、沿岸地帯とも読めるのである。彼は、文字について言った、その同じことばで「日本」を形容している。(略)それ[ラカンが日本旅行で体験した「沿岸的なもの」、とくに「中宮寺の弥勒菩薩像を前にしたとき強く感じとったもの」──引用者註]は人が象徴的な領域に編入される以前に起こった、母親の身体からの分離によって表現されている根源的な切断のことで、いわば、現実界と象徴界を隔てる皮膜のところで、つまり二つの領域の境界において、人が体験する悲しみの表現だった。
 相互性の関係がないほど異質な二つの領域の境界は、文字とシニフィアンが接するところでもある。言いかえると、文字という自己同一的なものと、そうでない非−自己同一的なものの境界でもある。文字は書かれた跡として、それ自体で「ある」という自己同一性によって、現実的なものの近くにいるが、いつまでもそこにとどまっているわけではない。それは読まれることによって、象徴的なものの領域に参入してくる。つまり、意味の運動のなかに加わってくる。ただしそれは、そもそも自己を自己とは異なったものにさし出している、非−自己同一的なシニフィアンとしてではなく、書かれた跡として、読まれるべきものとして加わってくる。自己同一的なものは、意味に関らない。文字は、象徴的なものの領域に参入しても、つねに意味から無意味に向かう運動を支えているのである。》(『文字と見かけの国』178頁)
 この論考群でこれまで何度か(第4章、第13章、第64章)取りあげた、矢口浩子・新宮一成の共著論文「かなと精神分析」(叢書・想像する平安文学第5巻『夢そして欲望』)で論じられた「読めない文字」、すなわち川底(あの世、現実界)と水面(この世、象徴界)の境で往きつもどりつしている水の中の文字こそ、ここで言われる「書かれた跡」、すなわち読まれるべきものとして意味の運動に加わってくる文字のことにほかなりません。[*]
 そのような意味での文字のことを、小笠原晋也氏は「純粋文字」と呼んでいます。2016年10月16日に催されたワークショップでの小笠原氏の挨拶「≪Lituraterre≫を読む−ラカン読解ワークショップ開催の辞として」から、関連する箇所を丸ごとペーストしておきます。ラカンの原著や翻訳書はもちろん、関連して書かれた文章を的確に要約することなど、私には到底できないので。
 
 ……以下、「東京ラカン塾」のホームページから抜粋。
 
砂漠のなかで忘却のうちに永遠に眠る神聖文字.あるいは,巨大な図書館のなかで或る書棚のかたすみに誰にも読まれないまま打ち捨てられた書物.文字の墓場.そのような墓場に眠る文字は,そのものとしては,死んでいます.読むためには,我々は,まず,文字を死から復活させる必要があります.死せる文字に命を与える必要があります.
 
そして,命を与えられた文字は,signifiant になる.確かにそうですが,その前にもう一段階あります.命を与えられた文字は,lalangue になります.
 
lalangue ? Séminaire の聴衆に 1971年秋に初めて披露されたこの lalangue という用語が差し徴しているのは,そのものとしては曖昧な音声質料のことです.その曖昧さには,あらゆる解釈可能性が重ね合わされている.そのような音声のことです.
 
「読む」とは,曖昧さにおいて耳に聞こえてきた lalangue の断片を読むことです.つまり,何らかの仮定された知にもとづいて「解釈」することです.それによって初めて,lalangue の断片は,狭義における signifiant になります.
 
しかし,既に強調したように,「読む」ことは,単純に「出来合いの意味を了解する」ことではありません.そうではなく,我々は,signifiant を lalangue の断片の関数として読みます.精神分析的な解釈は,意味を流動化し,そこに無意味の裂け目を切り裂く効果を有します.
 
日本語は,実は,lalangue par excellence です.それは,音読みされる漢語が多数あるせいです.例えば,或る人が「セイショにはこう書かれてある」と言ったとき,それはいったい,聖書なのか,成書なのか,青書なのか?我々は,耳に聞こえてきた「セイショ」という lalangue の断片を,文脈という仮定知にもとづいて,読まねばなりません.lalangue としての日本語の問題には,ここでは立ち入らないでおきましょう.
 
ところで,「読む」ことに関連して,今までのところ,まず,文字から lalangue へ, そして,lalangue から signifiant へ, という方向を提示してきました.しかし,言語の歴史をふりかえってみるなら容易に察せられるように,まず最初に与えられるのは,文字ではなく,lalangue です.
 
およそ十万年前,我々の先祖たちが,悲痛な喪失を前にして発した嘆きの音声.それが,言語の起源となった lalangue の断片ではなかろうか?そう想像します.
 
文字を持たない民族の場合,lalangue と,そこから創出される signifiant しかありません.
文字は,lalangue から生ずる質料的な沈澱として,lalangue に対して二次的なものです.
 
II. Lituraterre を読む
 
さて,以上のように論じつつ,我々は既に Lituraterre の読解へ足を踏み入れています.
 
1971年5月上旬に書かれたこのテクストには,まだ lalangue という用語は登場しません.しかし,そこで Lacan が文字と signifiant とを混同してはならない,文字は signifiant に対して一次的ではない,と強調するとき,その signifiant という用語に lalangue を読み取ることができます.
 
とは言え,Lituraterre において Lacan が問うているのは,確かに,文字についてです.しかし Lacan は,文字一般について問うているわけではありません.その唯一性における或る文字です.すなわち,Edgar Allan Poe の小説 The Purloined Letter[盗まれた手紙]においてかかわっている文字,その nullibiété[無在性]における文字,言うなれば,純粋文字です.
 
 
[*]行き場を失った佐々木氏の文章を一つ。
《彼にあって、シニフィアンは、もともと声によって支えられ、声と切っても切れないのは一貫している。彼はデリダではないから、エクリチュールを第一義的とすることはけっしてない。しかし、シニフィアンはパロールのなかで、すなわち人が話すうちに、そこで調子を変える(=変調する、se moduler)のが、「文字の審級」[『エクリ』所収]において明らかにされている。そして、変調されたシニフィアンが、やがてエクリチュールとして、そのシニフィエとともに水溝を生むのであり[「エクリチュールが、現実界のなかに深く穿たれた水溝だとすれば、文字は、その水溝にたまったシニフィアンの沈殿物である。」(200頁)]、それは他でもなく、パロールが文字のなかに流れ込むことである。これをエクリチュールの方から見ると、エクリチュールはもともと音声化されるのを予想されているということで、文字については、通常の言い方をすれば、それは声を出して読まれる、あるいはやがて読まれなくてはならないということである。エクリチュールは、たんにシニフィアンの写しではなく、言語によるその効果であるが、そこには見かけ(le semblant)が大いに関係している。見かけがシニフィアンを生むかぎりで、それがシニフィエの水溝なのである。》(『文字と見かけの国』201頁)
■ラカンと日本語─操作・解釈・翻訳
 
 ラカンは「リテラチュール」に、「日本語とは、言語活動になった永遠の翻訳である」と書いています。以下、『文字と見かけの国』の十年後に刊行された、佐々木氏の『ラカン「リチュラテール」論──大意・評注・本論』から、該当する個所の「大意」を抜き書きします。
《日本語では、書字が効果をあげているが、それについて重要なのは、それが日本語で二つの異なった発音によって読まれることから、特殊な性質をもった書字だということである。それらは漢字として明瞭に発音される音読み(on-yomi)と、それが日本語の意味だとされている訓読み(kun-yomi)である。
 漢字が文字であるからといって、そこにシニフィエの川を流れるシニフィアンの漂流物を見るなどと言えば、それは滑稽である。そこにおいて隠喩の法則に従い、つまり精神分析がそこに認める言葉の入れ代えの法則に従って、シニフィアンのつながりを出現させているのは、文字そのものである。さらに、ディスクールについてみるなら、それが文字をつかむのは、見かけの網のなかからである。
 けれども、文字は、そのことからあらゆるものと同じほど本質的な指示物としてその地位を向上させ、それが主体のあり方を変化させる。主体が、基本的な同一化のために、たんに一の印(un trait unaire)にではなく、星座のきらめく空(un ciel constellé)に支えを求めることは、主体がもっぱら大文字の二人称(Tu)である「お前」だけに支えられているのを、すなわち、シニフィエをともなう礼儀の関係によって微妙にものの言い方が変わってくるような、あらゆる文法的形式に従って、そうしているのを知らせてくれる。
 真理は、そこではフィクションの構造を強化しているが、それはこのフィクションが礼儀の規則に従っているからである。
 不思議なことに、そのことは防衛すべき抑圧されたものが、そこには何もないという結果を生んでいるようである。なぜなら、抑圧されたものそれ自体が、文字に向かうことによって安住の場所を見つけてしまうからである。
 言いかえると、主体は、地上のどこでもそうであるように、ランガージュによって分離されているが、一方の場所では文字に向かうことによって満たされ、他の場所ではパロールによって満足することができるからである。
 おそらく、そのことがロラン・バルトに、日本人の主体はどのようなふるまい方をしても、結局は何も包み隠さないという、あの陶酔的な感覚を与えたのであろう。彼は、その著書を『記号の帝国』(L'Empire des signes)と名づけたが、その意味は見かけの帝国である。
 あるひとが私に語ったところでは、日本人はその著書を良くないと思っている。というのも、見かけほど書字によって穿たれた空虚から遠いものはないからである。書字は、つねに享楽を迎えるための受け皿になっているか、少なくともそれを書く技巧によって、享楽を呼び求めている。
 われわれの習慣では、結局のところ何も包み隠さないこのような主体ほど、みずからについて何もコミュニケートしてこない主体はない。そのような主体にとって、みなさんは、ただ操作[manipuler──引用者註]すべき相手なのである。みなさんは、主体がまさしくみずからを解体しうることによって形成される、そのような儀式におけるいくつかの要素の一つなのである。文楽(bunraku)という人形芝居の舞台では、そのような構造を、それが日本人にとってはまったく当たり前のものとして、観客に対して彼らの慣習そのものをじっさいに見せてくれるのである。
 さらにまた、あらゆることが文楽の劇場におけるのと同じように、ひとりの語り手によって口にされることもできるだろう。バルトの心を軽くさせたのも、そのことであったに違いない。日本は、ひとりの男性の、あるいは女性の通訳者(interpréte)によって支えられるのがいちばん自然なところである。そして、まさしくそれゆえに、解釈(interprétation)[=精神分析──引用者註]を必要としないのである。
 日本語とは、言語活動(ランガージュ)になった永遠の翻訳[traduction──引用者註]である》(『ラカン「リチュラテール」論』66-75頁)
 佐々木氏の二つの書物では、この「読めない文字」によって綴られた文章に対する評注が施されていて、それはとても魅力的な解読なのですが、ここでもやはり端的かつ的確に紹介することはできません。引用者註として書き入れた事柄について、簡単に触れておくにとどめます。日本語には音読み、訓読みの二つの漢字の読み方があること、そして日本人が「解釈=精神分析」を必要としないこと、これらのことについては次節で。
 
◎「操作」する(manipuler)──この語に注目する理由は、それが「文楽」をめぐる文章のなかで書かれていたこと、そして「礼儀の規則に従うフィクション」という表現ともども、バルトをめぐる「強固なコード=行為のエクリチュールの規則性」との関連性が強く感じられたことにある。「空虚と操作の共存としての韻律」という定義、あるいは「マニュピレートな空域」といった概念を導き出すことができるかもしれない。
 
◎「解釈」と「翻訳」──「翻訳は、いわば主体が、シニフィアンに代理表象される主体としては、そこに関与してこない文字の読み方であり、解釈は、主体がシニフィアンに代理表象されるべく、意味の名において文字にかかわろうとする読み方である。ところで、精神分析では、すでに言ったように、主体を規定するのに一次的な役目をはたすのは、シニフィアンであって、文字ではない。文字はシニフィアンからこぼれ落ちて、それが凝固した、言うなればシニフィアンの沈殿物である。そして、それを扱う仕方がエクリチュールである。」(『文字と見かけの国』238頁)
 
◎翻訳(traduction)──個人的に「推論の五つの形式」(第7章他参照)というアイデアを温めている、帰納[induction]・演繹[deduction]・洞察[abduction]・生産[production]・伝導[conduction]。これに第六の形式を加えることができるかもしれない。あるいは「推論=翻訳」なのだろか。
 
■ラカンと日本語─音読みと訓読み、声と文字
 
 『エクリ』の日本語版序文「日本の読者に寄せて」から、よく知られた一節を、その前後を含めて引用します。
《…無意識は言語(un langage)として構造化されている、と私は言っているのです。
 それは日本語にその形成を非常に完全に地固めすることを可能ならしめるもので、そのため私は或る日本の女性が機知(mot d'esprit)とはなんぞやを‘発見する’のに居合わすことができたほどです。ついでながら、それは成人した日本の女性だったのです。
 ここから証明されるのは、機知が日本では最もありふれた話[ディスクール]の次元そのものだということであり、またそういうわけで、マシン・ア・ス〔硬貨を入れて遊ぶ装置〕との、さらにはもっと単純に機械的な客との諸関係を調整するためでもなければ、この言語を占有する人のだれひとりとして精神分析されることを必要としないのです。
 本当に語る人間のためには、‘音読み’(l'on-yomi)は‘訓読み’(le kun-yomi)を注釈するのに十分です。お互いを結びつけているペンチは、それが焼きたてのゴーフルのように新鮮なまま出てくるところをみると、実はそれらが作り上げている人びとの仕合わせなのです。
 どこの国にしても、それが方言でもなければ、自分の国語のなかで支那語を話すなどという幸運はもちませんし、なによりも──もっと強調すべき点ですが──、それが絶え間なく思考から、つまり無意識から言葉[パロール]への距離を蝕知可能にするほど未知の国語から文字を借用したなどということはないのです。精神分析のためにたまたま適当とされていた国際的な諸言語のなかからとり出してみせるときには、やっかいな逸脱があるかもしれません。
 誤解を恐れないで言えば、日本語を話す人にとっては、嘘‘を媒介として’、ということは、嘘つき‘であるということなしに’、真実を語るということは日常茶飯の行ないなのです。》(宮本忠雄他訳『エクリT』)
 柄谷行人氏は、講演録「日本精神分析再考」(ちくま学芸文庫『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』)でラカンのこの文章(「本当に語る人間のためには」以下)を引いて、「実のところ、私は、これが何を意味するのか、いまだにわかりません」と書いています。「ただ、私はかつてこう考えたのです。日本人は漢字を受け入れたときに、それを訓で読んだ。つまり自国の音声で読んだわけです。その結果、自分の音声を漢字を使いながら表現するようになる。これはありふれたことのようですが、実はそうではないんですよ。」(80頁)
 柄谷氏の議論はとても刺激的なのですが、これについてここではこれ以上触れません[*1]。ここで「かつて」と言われているのは、「日本精神分析再考」(2008年)のほぼ二十年前(1991年頃)に書かれた論文「文字の地政学──日本精神分析」(『定本 柄谷行人集4──ネーションと美学』)を念頭においた発言で、そこで柄谷氏は次のように書いていました。
《音読みは訓読みを注釈するのに十分だとは、何を意味するのか。それは、日本語の音声は、ただちに漢字の形態に変えることができるということである。いいかえれば、音声とは別に、それを漢字で表示して意味を知ることができる。ラカンがそこから日本人には「精神分析が不要だ」という結論を導き出した理由は、たぶん、フロイトが無意識を「象形文字」として捉えたことにあるといってよい。精神分析は無意識を意識化することにあるが、それは音声言語化にほかならない。それは無意識における「象形文字」を解読することである。しかるに、日本語では、いわば「象形文字」がそのまま意識においてもあらわれる。そこでは、「無意識からパロールへの距離が蝕知可能である」。したがって、日本人には「抑圧」がないということになる。なぜなら、彼らは無意識(象形文字)をつねに露出させている──真実を語っている──からである。》(『定本 柄谷行人集4』232頁)
 柄谷氏の解釈は、「音読み=文字(漢字)」が「訓読み=声(やまとことば)」を注釈する(翻訳する、通訳する、解釈する)ということです。ここで私は、ちょうど読み終えたばかりの辻邦生著『西行花伝』に、「森羅万象[いきとしいけるもの]」や「存在[あるまま]」といった独特のルビを振った漢字が使われていたことを想起しています。このほかにも、任意に開いた頁から拾うと、理想[のぞみ]、連帯[むすびつき]、所管事項[なすべきこと]、倫理規範[いきかた]、影響[かげのちから]等々。
 漢字(象形文字)とルビの関係は「マンガの絵とフキダシ」の関係である(養老孟司)とか、少女マンガのフキダシは「心の中の声」や「無意識の声」まで語っている(内田樹)といった議論[http://www.radiodays.jp/item/show/200051]をここに持ち込むと面白いと思いますが、私が気になっているのは、音読み(シンラバンショウ)も訓読み(いきとしいけるもの)も共に「読み」であること、すなわち音声を対象にしていると捉えるのが素直なのではないかということです。
 これもまた、この論考群でたびたび言及してきた「ムソオシンニョ」、すなわち能における「音と動き[といった、より抽象的なもの]の流れに添って謡われる歌、…歌というより、むしろ一種の呪術的な祈りのことば」をめぐる観世寿夫の議論(第33章、第51章)にあっては、文字(漢字)ではない、字義通りの「音(読み)」がマテリアルなかたちで露出しています。
 あるいは、「音読み=文字(漢字)」に対する「訓読み=文字(かな)」を考えるることもできるはずです。山城むつみ氏は「文学のプログラム」で、次のように書いています。
《…日本語においては、〈訓読みによる音読みの注釈〉と〈音読みによる訓読みの注釈〉と両方の可能性があるにもかかわらず、ラカンが特に後者に注目したのはなぜだろうか。と問うことで気になってくるのは、音読みにより訓読みを注釈するという場合、この注釈において隠れた核となっているのが文字の機能だということである。「よむ」という音声の下には外来の文字(読、詠、数、節、誦、訓などの漢字)の力が働いている。だからこそ「音読みは訓読みを注釈するのに十分」たりうる。端的に言えば、音読みにより訓読みを注釈するということが可能なのは、日本語が中国語から文字を借用しているからである。〈音読みによる訓読みの注釈〉にラカンがとりわけ注目したのは、そこに外来の文字の機能が含まれているからなのである。「本当に‘語る’人間のためには……」「……を‘話す’などという幸運」など、ラカンはもっぱら音声言語に注目しているように見える。だが、より接近して‘読む’ならば、すなわち聞くだけで流しさえしなければ、彼が発見しているのは、実はむしろ、日本語の話し言葉[パロール]の内部における文字[エクリ]の機能の方であることがわかる。》(講談社文芸文庫『文学のプログラム』180-181頁)
 
 山城氏の議論、すなわち「音声(パロール)の下の文字(エクリ)」という解釈は、柄谷氏のそれに通じています。そのことを確認したうえで、あえて誤読をして、次のように言っておきたいと思います。すなわち、山城氏が言う「音声」(=日本語の話し言葉)とは、実は、中国語から借用した日本語の文字としての「かな」(偽装された日本語音)のことであり、したがって、ラカンがもっぱら注目したのは、「文字(かな)の下の文字(漢字)」すなわち「表音文字の下の表意文字」であったと解釈することが可能なのだと[*2・3]。
 
[*1]大澤真幸氏は『思想のケミストリー』で、ラカンのこの「皮肉混じりの指摘」(16頁)をめぐって次のように書いている。
《かなと漢字の分担に関して、常識的には、かな(訓読み)こそが漢字(音読み)を注釈していると見なしたくなる。たとえば「啓蒙」とは、「蒙(暗部)」を「啓く」ことである、といったような解説がそれである。だが、ラカンは、まったく逆に、漢字が、かなを注釈することにおいて、無意識を触知可能なものとして浮上させていると暗示したのであった。今や、ラカンのこの暗示に、日本語の書字体系に対する深く、正確な洞察が含まれていたことが明らかになる。述べてきたように、日本語にあっては、漢字は、かなから区別されることで、外来性を明示し続ける。発話に必然的に随伴するあの「残余」は、つまり無意識は、この漢字の外来性に感応し、そこに表現の場を見出すのである。》(19頁)
 この指摘は、「日本精神分析再考」での柄谷氏の議論に通じている。──「漢字やカタカナとして受け入れたものは、所詮外来的であり、…漢字やカタカナとして表記上区別される以上、本質的に内面化されることなく、また、それに対する闘いもなく、たんに外来的なものとして」保存されてきた(78頁)。すなわち「漢字、かな、カタカナの三種のエクリチュールが併用されてきた事実」が「日本的なもの」を考えるにあたって「最も核心的なものではないか」(79頁)。
 
[*2]やや先走った素材蒐集。柄谷行人編著『シンポジウムT』収録の鼎談「音声と文字/日本のグラマトロジー──十八世紀日本の言説空間」で、子安宣邦氏の(宣長の音声中心主義に関する)発言の一部と、これに対する柄谷氏の発言の全文を抜き書きする。
《宣長が『古事記』の読みとしてやったことは、表記されている漢字漢文の文章を、古えの口誦の言語に還元すると言いながら、実際はその漢字漢文の文章をどうにかして読み下すということをやっているのです。宣長が実際にやってしまったことは、『古事記』を結局漢字仮名混じり文として読み下したということです。のちに「やまとことば」として成立する漢字仮名混じり文を、宣長は、口誦の言語を言いながら『古事記』によって遡及的に正統化したように思われてなりません。》(『シンポジウムT』270頁)
 
《話すことと書くことは、根本的に違いますね。書くことが話すことのあとから始まったというわけではない。第一、脳の文字中枢というのは、すでに人類としての進化の段階で形成されているのであって、文明化以後の短い期間にそんなものができるはずがない(笑)。困難は、書くこと(文字)と話すこと(音声)の結合にあったと思うんです。表音文字といっても、それは、音を文字にあらわすのではなく、文字をどう音で読むかということから生じています。これはどこであってもそうです。ところが、「表音文字」のごときものができあがると、あたかも文字は音声を写すものであるかのような観念が生じる。また、話すことと書くことの差異が、音声文字と表意文字の差異にすり替えられてしまう。これもどこでも生じることです。また、それが思想的な問題の核心になることも、日本だけではない。西洋でも十八世紀にそれが生じています。西洋では、漢字にあたるのがラテン語ですね。それに対して、各地の俗語が身体的な直接的な言語((話し言葉)として立てられる。しかし、この場合、文字としてはアルファベットだから同じです。
 日本の場合が特異なのは、やはり漢字仮名交用ということを歴史的に続けてきたからだと思うんです。つまり、概念は漢字で、テニヲハは仮名で書くという歴史的な慣習があった。そうすると、本来はどこでも共通する事柄なのですが、日本では、それが、文字の差異という問題に、また、宣長が「玉の緒」と言ったように、漢字で書ける部分と仮名でしか書けない部分の差異という問題に転化されている。そして、それが漢意と大和心の差異にまで転化される。》(『シンポジウムT』270-271頁)
 ちなみに、「話すこと」(音声)と別の系統で進化した「読むこと」(文字)、あるいはラカンの言う「書かれた跡」としての文字については、マーク・チャンギージー『ヒトの目、驚異の進化──視覚革命が文明を生んだ』第4章「霊読(スピリット・リーディング)する力──ヒトが文字をうまく処理できる理由」を参照。
 チャンギージーはそこで、下條信輔他との共同研究の成果として、アルファベット、漢字、ハングル、かな、等々世界のあらゆる文字に共通する基本要素(L、T、Xなど36個の図形)を示している。それらはいずれも自然の中に、物の輪郭線やその結合部に見出すことができる。
 
[*3]いま一つ、山城氏の議論を引いておきたい。
《精神分析の任務は、…無意識と話し言葉との間の距離としてある「無意識」のメカニズムを解明することにある。してみれば、そのメカニズムを言語的な装置、すなわち文字通りメカ、あるいはマシンとして持っているような言語──ラカンは日本語がそうだと言うのだが──においては、精神分析はそのような言語装置を、文字通り機械的に記述すること以上のものではなくなる。》(講談社文芸文庫『文学のプログラム』183-184頁)
 メカ、マシンとしての言語装置という日本語の特質は、かの「強固なコード=行為のエクリチュールの規則性」につながる。
 
■ラカンと日本語─音読みと訓読み、声と文字(承前)
 
 ラカンは「日本の読者に寄せて」のなかで、音読みと訓読みを「結びつけているペンチは、それが焼きたてのゴーフルのように新鮮なまま出てくるところをみると、実はそれらが作り上げている人びとの仕合わせなのです」と書いていました。
 このことについて、山城氏が判りやすく解読しています。いわく、ゴーフルが「蜂の巣状の格子縞のついた鉄板によって両面から、丁度「ペンチ」ではさむようにして焼き上がる」ように、「ラカンは、訓読みと音読みもまた、なんらかの「ペンチ」によってはさむようにして圧着され表裏をなしていると言いたいのである」。
《すでに見たように、訓読みと音読みとがこのように緊密に連合しているとは、固有の音声と外来の文字とが強い連想関係にあるということにほかならない。ラカンは、この両者を結びつけている「ペンチ」が、日本語を話す人々にとっての「仕合わせ」であると書いていた。だが、日本語固有の音声(大和言葉)と中国語の文字(漢字)とをはさんで一つのゴーフルに焼き上げる「ペンチ」とは具体的に何であり、それは本当に日本人にとって「仕合わせ」なのだろうか。》(講談社文芸文庫『文学のプログラム』187-188頁)
 これにつづく山城氏の(「ペンチ=訓読というプログラム」と日本人の「仕合わせ」をめぐる)議論については、これもまた「やまとことば篇」に譲ることにして、ここでは「ゴーフル」の比喩を借用して、ある図式を作成しておきたいと思います。
 その図式とは、第74章の《図2》や第76章第3節註の図(第71章《図3》の変形判)を、精確には、そこに書き入れた「神の〈声〉」「純粋文字」「象形文字」「聲、オノマトペ」の四つの項を、前章の《図》(メトリカルな空域)のうちに落とし込んだものです。
 以下、横軸と縦軸、それぞれの両面から圧着され、表裏一体化した声と文字が組み合わさってかたちづくる四態を製図します。
 
1.横軸における圧着
 「反復と模倣」の現象学的地平において、「かな=神の〈声〉」(パロール、やまとことばの音声)を「漢字=象形文字」(無意識、外来性、概念)が注釈する。
 
         神の〈声〉
       ━━━━━━━━
         象形文字
 
 「神の〈声〉」については、これまで「天空からの〈声〉」(第69章)や「根源音「アーレフ」に始まる子音システム」(第71章、第76章)、「歌の力(芸能力)=神の声」(77章)といったかたちで触れてきたが、「やまとことばの音声」としての「カミ(迦美)の声」は「歌(韻律)の力」の系譜に属する。
 
2.縦軸における圧着
 「憑依と受肉」の記号論的な力の導管において、「聲、オノマトペ」(沈黙の声、真言)を「純粋文字」(非人称の文字空間)が注釈する。
 
           ┃
           ┃
      純粋文字 ┃ 聲、オノマトペ
           ┃
           ┃
 
 「聲」は「地下世界からの聲」(第69章)であり、いわば「無意識の声」(シンラバンショウ、ムソオシンニョ)あるいはマテリアルな帯域に根差したオノマトペ、「クオリア性言語」(第73章)のこと。また「純粋文字」は「イスラームの文字神秘主義」や「カッバーラー文字神秘主義」(第71章)もしくはラカンの「書かれた跡」(本章)にかかわる概念であり、メタフィジカルな帯域に昇華(昇天)する「ペルソナ性言語」(第73章)のことだが、ここでの文脈では「かな」を、それも連綿体で綴られた水茎の跡としての、すなわち純粋な「かたち」(読めない文字)としての仮名文字をイメージしている。
 
3.メカニカルな合成
 以上のプロセスがメカニカルに合成されることによって、新たな圧縮のパターン──横軸における「象形文字/純粋文字」「聲、オノマトペ/神の〈声〉」と縦軸における「純粋文字|神の〈声〉」「象形文字|聲、オノマトペ」──が生成し、「空虚な記号」と「強固なコード」によって設営され稼働する「言語装置」(メトリカルな言語の四態と演劇の言語の五つ組)が完成する。
 
   《図》メトリカルな空域における声と文字の四態
 
         〔 筋 〕
           ┃
      純粋文字 ┃ 神の〈声〉
           ┃
 〔 舞 〕━━━━〔 面 〕━━━━〔 聲 〕
           ┃
      象形文字 ┃ 聲、オノマトペ
           ┃
         〔 設 〕
(79章号に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」53号(2024.08.15)
<哥とクオリアア/ペルソナと哥>第78章 純粋言語/声と文字/アナグラム(その5)(中原紀生)
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