(本文中の下線はリンクを示しています。また、キーボード:[Crt +]の操作でページを拡大してお読みいただけます。★Microsoft Edgeのブラウザーを基準にレイアウトしておりますので、それ以外のブラウザーでご覧いただく場合では,大幅に図形などが崩れる場合があります。)
《おそらくハイデガーは直観をしていたのだと思いますが、こういう次元まで来ると、たしかに詩的言語と哲学的思考はどこかで関連してくるもののようですね。それに加えてわたくしの場合には、映像表現の生成の場と詩的言語の発生もまたそこには絡まってきているのですが。》(吉増剛造『詩とは何か』)
■演劇の言語とやまとことば
人間の(諸)言語をめぐる概念群の相関図を“整理”できたところで、いよいよ本格的に、言語すなわち音声言語と文字言語の本質とその起源や進化、そして言語現象一般について考察を加えるはこびとなりました。
しかし、私にはそのための蓄積も覚悟も力量もないし、そもそもここは、和歌(やまとうた)という言語表現を主たる関心事としつつ(少なくとも、その底流における意図・趣向としては)、それに関連する範囲の議論に徹するべき場なのだから、以下の考察はおのずから、(貫之現象学B層第三相「やまとことば篇」へのつなぎを意識しながらの)きわめて限定されたものにならざるを得ません。
これまでの“紆余曲折”を通じて、日本語や英語といった具体の言語を含む人間の(諸)言語の中軸をなすのは「メカニカルな帯域」であること、そして、そこにおいて遂行されるのが、声や文字を素材とし、かつ、「拡張された」アナグラムを中心的技法として展開される「モンタージュ」の作業にほかならなかったことを見てきたわけですが、その核心とも言える部分、つまり狭義のメカニカルな帯域における言語のあり様を、私は「演劇の言語」と名づけました。
その際、念頭にあったのは、(「演技という行為の視点を持ちこむことで、和歌のさまざまな謎をほどいてゆく」渡部泰明著『和歌とは何か』の議論(本稿第47章他参照)とともに)、かねてから温めてきたアイデア、すなわち、定家に極まる王朝和歌の姿(文ある詞が醸しだす風体)が、連歌的言語実践(松岡新平氏の言う「言葉のまわし飲み」)を経て、世阿弥の「二曲三体」に、すなわち舞歌二曲と老体・女体・軍体の三体(あるいは、これに物狂と鬼を加えて五体)に、とりわけ能役者の「振る舞い」(「身振り」と「声振り」と「面振り」?)のうちに客観化され結実し、文楽や歌舞伎へと変容していったのではないか、との見立てでした(第7章参照)。
王朝和歌(やまとうた)は、やまとことばによって詠まれた詩的表現物にほかならないのですから、いま述べた見立ては、やまとことばの“生理”に即した事柄であると言えるかもしれません。というか、私はそのような見立てのもとで、やまとことばを考察していきたいと考えているのです。
この意味での“やまとことば”は、上代・中古の日本語といった、実在性のレベルでとらえられた言語のことではありません。もちろん、古語や雅語、客観的存在物としての日本語とは無関係ではありませんが──それどころか、“やまとことば”をめぐって、おそらく、主として(「詞」と「辞」の区分に典型的な)日本語に固有の文法などに引き寄せた議論に頼らざるを得ないだろう、とは思いますが──、私が想定している“やまとことば”とは、和歌という詩的言語行為をめぐる生態と論理、すなわちやまとうたの“生理”を明らめるための作業概念、いわば理念型のようなものなのです。
(たとえば折口信夫や吉本隆明の「詩語」、あるいは分節言語と文字の発明によって失われた原初の「歌の力(芸能力)=神の声」(武田梵声『野生の声音──人はなぜ歌い、踊るのか』104頁)を、「先祖返り(アタビズム)」(同書95頁)か「幼体成熟(ネオテニー)」によって受け継いだ言語とでも?)
あとひとつ、「演劇の言語」なる概念を導入したとき、脳裏に浮かんでいたことがあります。ケネス・バークが『動機の文法』で提唱した「劇学(dramatism)」の「五つ組(pentad)」が、それです[*1・2]。──「行為(act)」があるためには、「行為者(agent)」がなくてはならない。同様に、行為者が行為する「場面(scene)」がなくてはならない。場面のなかで行為するには、行為者はなんらかの「手段・媒体(agency)」をもたなくてはならない。さらにまた、行為が十全な意味で行為とよばれるためには「意図(purpose)」をもたなくてはいけない。(『象徴と社会』212頁)
このケネス・バークのペンタッドを“応用”して、能や文楽といった、やまとうたの系譜に属する劇的表現のあり様に即した独自の「五つ組」を、やや強引に考案してみると、次のようになるでしょうか。──「舞(act)=文字」があるためには、「聲(agent)=哥」がなくてはならない。同様に、聲が舞に成るための「設(scene)=舞台」がなくてはならない。設(しつらえ・しつらい)のなかで舞うためには、聲はなんらかの「面[オモテ](agency)=身」を装着しなければならない。さらにまた、舞が十全な意味で舞とよばれるためには「筋(purpose)=物語」をもたなくてはいけない。
[*1]もう三十年以上も前の話になるが、チャールズ・サンダーズ・パースとケネス・バークに日々刺激を受けていた。パースの記号の三つ組「イコン/インデックス/シンボル」とバークの比喩の四つ組「メタファー(パースペクティヴ)/メトニミー(リダクション)/シネクドキ(リプレゼンテイション)/アイロニー(ダイレクティック)」とが、私の「発想」の原点だった。
パースの「三」とバークの「四」の間隙を埋めるために、私は第四の記号として「マスク(仮面)」なるものを考想し、その稼働原理を「アイロニー{¬A=A}」とするアイデアを得た。ただ、私の思考の究極の到達点は「五」にあって、記号も比喩もいずれ第五のものが「発見」されるはずだと確信しているが、現時点では、推論をめぐる五つ組「アブダクション/インダクション/ディダクション/プロダクション/コンダクション」の着想を得たにとどまっている。
ちなみに『象徴と社会』の「訳者あとがき」で、森常治氏は「バーク的思考の中心にあるもの」を次のテーゼにまとめている。
《人間には言語を通して複数の思考ベクトルが動いている。それぞれのベクトル(A、Bとしよう)は互いに相互排除的で反対方向に働くが、実はそのベクトルに動力を与えているのは、そのとき忘却されている、あるいは敵視されている他のベクトル(B)なのである。両者はひとつの力学的系のなかにあり、互いに相手から遠ざかる運動もその系のなかで行なわれている。そのためにABは相互否定的であるが、同時に互いに見えない糸のようなもので繋がれている。したがってA方向を追いすぎると、ある時点で逆方向の力が働いて、B極に出てしまうことになる。》(『象徴と社会』525-526頁)
このテーゼは、私が“やまとことばの生理”として想定している「アイロニー」を考えるうえで重要な手掛かりになる。
小松英雄氏は『みそひと文字の抒情詩──古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』で、古今集の和歌表現に特徴的なものとして「複線構造による多重表現」を挙げている。私の考えでは、この複線構造のうちに顕れているものこそが“やまとことばの生理”、すなわち(いずれ本歌取りに収斂していく?)「拡張された」アナグラムの技法である。
これらの二つの“生理”は同一とまでは言えないが、少なくとも同じ一つのものの表と裏の関係にあるのではないかと私はにらんでいる。
[*2]ほんとうはもう一つ、「演劇の言語」の由来がある。話が拡散してはいけないので本文では書かなかったが、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」がそれだ。永井均著『遺稿焼却問題』の「言語行為の重層的演技性」(永井均の卒論のタイトル名)の項に次のように書かれている。
《通常英訳に依拠して「言語ゲーム」と訳されるSprachspielを、私は「言語演技」の意味に理解し、後期ウィトゲンシュタインの哲学にいたく共感した。しかし、彼が例に出すようなものではなく、むしろもっと強い情動をともなった真摯な「心の叫び」のようなものにこそ強い演技性を感じている。》(『遺稿焼却問題』54頁)
この項には「卒論当時私は…言語演技論を時枝誠記の詞と辞の理論で考えており、これには三浦つとむという先達がおり、彼の言語理論は実は言語演技論(吉本隆明にはこの側面は受け継がれない)」(56頁)という見逃せない文章も出てくる。言及された京念屋隆史著「言語行為の根源的演技性──デリダ─サール論争について」(早稲田社会科学総合研究 別冊「2015年度学生論文集」)[http://hdl.handle.net/2065/47966]も面白い論考だった。
■演劇の言語をめぐるペンタッド
演劇の言語をめぐる五つ組(ペンタッド)をめぐって、もう少し素材を蒐集しておきます。
《図》演劇の言語をめぐる五つ組[*]
〔 筋 〕
┃
┃
┃
〔 舞 〕━━━━〔 面 〕━━━━〔 聲 〕
┃
┃
┃
〔 設 〕
1.「舞(act)=文字」
聲の形が舞である。あるいは哥の姿が可視化され、文字すなわち「動きつつある形」(大石昌史)となったのが舞である。「舞は声を根となす」(『花鏡』)。
○「そもそもマラルメの「芝居鉛筆書き」に読まれる「舞踏論」は、マラルメ自身が真っ先に指摘しているように、「バレエ論」なのであって、「バレエは、本来的に言えば、ダンスの名を認めないことも可能」な、言うなれば「象形文字」であり、バレリーナが自分の身体で書いていく「文字」を観客が読み解くという、「高度に詩的な」作業を前提としていた。」(「ピナ・バウシュあるいは「タンツテアター」──『魂と舞踏』の余白に」、『渡邊守章評論集 越境する伝統』82頁)
○「このスペクタクルは純然たる舞台イメージの素晴らしい構成をわれわれに与えるが、その舞台イメージの理解のためにまったく新しい言語が発明されたように見える。衣装をまとった俳優たちは生きて動くほんものの象形文字を構成する。そしてこれら三次元の象形文字は、今度はいくつかの身振りや、神秘的記号に裏縫いされているのだが、それらの記号は何かわからぬ架空の謎めいた現実に対応していて、われわれ西洋の人々はそれを決定的に抑圧してしまったのである。」(アントナン・アルトー「バリ島の演劇について」、『演劇とその分身』(河出文庫)97-98頁)
○「形象的思考の少なくとも一部は、韻の論理によって構成されている」。「形象を読むとは、身をもって韻を辿り、辿ることで踊り、踊りながら自ら形象と似ることだ。」(平倉圭『かたちは思考する──芸術制作の分析』22頁)
○「ふるまい──ふり──まい」すなわち「水平の〈ふるまい〉から垂直の〈ふるまい〉(としてのたとえば儀礼における宗教的な意味を帯びた身体演技〔ミメーシス〕から、憑依状態における〈ふり〉さらには〈まい〉等)へ」、究極のところは世阿弥のいう「せぬひま」へ(坂部恵『かたり──物語の文法』(ちくま学芸文庫)51頁)。
2.「聲(agent)=哥」
聲(クオリア性言語)は哥(ペルソナ性言語)へと変生する(第73章参照)。
○「謡の専門用語で、カタリという一段があります。これは…謡い方としては節らしい節はなく、いわば普通の芝居のセリフに近い謡い方です。(略)しかし一方、「芭蕉」という曲の「それ非情草木といつぱ、真は無相真如の体…」といった部分などになると、たとえそのことばとしては正確に、ムソウシンニョと聞えたとしても、それが直ちに、無相真如の文字を当てるので、形相を超えて存在する絶対的真理、という意味だとわかってもらえるとは、到底考えられないことです。(略)私の考えでは、以上のふたつの中で、前者のようなところはことばの意味がはっきりと伝達されなければならないが、後者に類するところは断片的に出て来る単語や慣用句によって、その一段の、全体的なイマージュさえ感じられれば良いので、ひとつひとつのことばの意味は必要でなくなってしまうのではないかと思います。」(観世寿夫「無相真如」、『観世寿夫 世阿弥を読む』(平凡社ライブラリー)13-14頁)
○「「かたる」とき、語り手はすでに多重化した人称を帯びてしまっている。「かたどる」に由来するともいわれる「かたる」という言語行為は、私や他者によってすでに経験されたり、ある様式をもって言説化されたものを、再述することにほかならないからである。」(河田順造『聲』第16章「人称の多重性」222-223頁)
○「声のパフォーマンスの力は、何よりもまず、文字にしたのでは消えてしまう言語の超分節的(韻律的)側面を、声が自在に操って表現できるところにある。いいかえれば声は。意味するものと意味されるものとのあいだに心情的により直接の、つまりより有契的な関係をつくりうるということだ。」(川田順造『聲』第18章「記号をこえて」261頁)
○「はなし──かたり──うた」すなわち「水平の言語行為から垂直のそれへと移行するにつれて、個人的主体と共同的主体(さらにはいわば宇宙そのもののいのち)がオーバーラップする度合もまたおのずから高くなる…三つの言語行為」、究極のところは「しじま[しじ(縮・密・黙)ま(間)?]」へ(坂部恵『かたり──物語の文法』(ちくま学芸文庫)45-46頁)。
3,「設(scene)=舞台」
設=舞台とは「地平線」(三浦雅士)である。此岸と彼岸、男と女が出会う一線、「遠さ」を表象する「橋懸かり」である。(第75章参照)
○「劇[ドラマ]、それは何事かの到来であり、能、それは何者か[たとえば死者・死霊・まれびと──引用者註]の到来である。」(ポール・クローデル「能」、内藤高訳『朝日の中の黒い鳥』(談社学術文庫)117頁)
○「遠見の空間は、シテ自身が強い力の磁場とならなければ決して醸成されるものではない。それは、…世阿弥による「動かない」身体の発見と同時にめざされる、世阿弥独自の空間の詩学であった」(松岡心平『宴の身体──バサラから世阿弥へ』第八章「能の空間と修辞──世阿弥の遠見≠めぐって」(岩波現代文庫)200頁)。
○「時間・空間の感覚は、倍音によって歪みます。能舞台は、その歪みが遥か彼方にまで至る、歪みの極みを演出していると言えます。この世界(目の前の舞台)と異界(能の中で語られる異界)との懸け橋を、地謡[じうたい]、能管、鼓などから繰り出される倍音が務めているわけです。能においては、倍音による歪みが極まり、ひとつの舞台の上に、まったく異なった次元の場面を呼び出すことができるのです。」(中村明一著『倍音──音・ことば・身体の文化誌』第5章「日本文化の構造」144頁)
4.「面[オモテ](agency)=身」
仮面なるもの──「固体と液体の中間のようなどろどろしたもの=ヒュポスタシス」(坂口ふみ)、声がそこを通り響きわたる穴(洞)、顔なき貌、見えぬものが憑依する体(器官なき身体)。
○「面は元来人体から肢体や頭を抜き去ってただ顔面だけを残したものである。しかるにその面は再び肢体を獲得する。人を表現するためにはただ顔面だけに切り詰めることができるが、その切り詰められた顔面は自由に肢体を回復する力を持っている。そうしてみると、顔面は人の存在にとって核心的な意義を持つものである。それは単に肉体の一部分であるのではなく、肉体を己れに従える主体的なるものの座、すなわち人格の座にほかならない。」(和辻哲郎「面とペルソナ」)
○「声は、それを発している主体=人称[ペルソナ]の息にのせて、その主体を他のペルソナとかかわらせる…、ある主体から発せられた声が他の名を呼ぶことで、名づけられた他の主体=人称[ペルソナ]を、声の中にひき出して、呼ぶ者をはじめとする他のペルソナとかかわらせる…。死者はしばしば、声で呼ばれた名の中にしか、いや名を呼ぶという行為の中にしか存在しない。これらの主体=人称[ペルソナ]が、決して単子的に実在するのではなく、呼ぶ声を媒介として幾重にもなった、あるいは屈曲した“関係”のうちにあることは、これまでさまざまな事例を通して見てきたところである。」(川田順造『聲』第18章「記号をこえて」(ちくま学芸文庫)282-283頁)
○「まことに、アナグラムのポリフォニー性は、むしろ東洋的なモノフォニーの‘音色’にあり、その単旋律が同時に下意識において無数の複音を紡ぎ出すところにあると言えるのではあるまいか。/真に〈内[うち]なるもの〉とは、決して物質化される以前の観念の世界などではなく、物質/観念の二項対立が成立しない身[み]の深層における言葉=意識(パトス)の風景にほかならない。過日たまたま国立能楽堂で世阿弥の『山姥』を見て、アナグラム的ポリフォニーの極致はひょっとしたらバッハでもワーグナーでもなく、謡曲の声や能管の‘音色’の幽玄のなかにこそ聞かれるのではないかという気がしてならなかった。」(丸山圭三郎『言葉と無意識』130頁)
○「つぎの超空短歌[心 ふと ものにたゆたひ、耳こらす。椿の下の暗き水おと]は、万葉集で使われた「たゆたひ」の状態を、近代詩作の自覚的な方法として用いて、「音による写生」を実現したものである(『海やまのあひだ』全集21巻)。同じ「たゆたふ」という言葉を用いながら、古代信仰的な意味は、霊魂の遊離や憑依と関連して説かれたのに対して、近代詩人である釈超空において、「たゆたふ」とは、意識の流動性が高まり、意識と無意識、主客、内外、明暗、悲喜、といった分節・境界が溶解し、限界的な次元に無媒介に触れる、剥き身のような生々しい状態を意味している。」(津城寛文『深層文化から頂点文化まで──発信する日本研究』)
5.「筋(purpose)=物語」
夢の体験世界(物語)は「夢世界の原理」(夢の世界では過去の想起が現在の現実(知覚)になる)と「夢見者のパースペクティヴ」(離見の見)とから出来ている(第50章参照)。
○「能にはご承知の如く、極めて単純ではありますが、一曲の筋書きがあります。しかしそのストーリー自体は単にその曲に入って行く為の手掛りに過ぎないので、曲の進展にしたがって表面的な筋書きはどうでもよくなって、シテの人物にしても、それが芭蕉の精であろうと、式子内親王であろうと、たいした問題ではないといったものになってしまう事が多いのです。そして単純な笛の音、大小の鼓のカケ声やリズム、それに伴った意味のない動き、これらの音と動きの流れに添って謡われる歌、それは歌というより、むしろ一種の呪術的な祈りのことばに近いものとなるのです。この状態においては、もはや歌詞の意味はたいした問題にはならなくなってしまうのです。」(観世寿夫「無相真如」、『観世寿夫 世阿弥を読む』(平凡社ライブラリー)14-15頁)
○「連歌と能に見られる、物語の外と内を往還する精神は、中世の精神をもう一度新鮮な眼で見る手掛かりになっている。そこには、物語られてしまった時代の後に、歴史に対して自由にかかわろうとする、ひらかれた歴史感覚がある。ヨーロッパのドラマが、こうした物語の内と外とを往還する、自由なドラマ感覚をもつためには、二十世紀を待たなければならなかった。」(土屋恵一郎『能 現在の芸術のために』(岩波現代文庫)136頁)
○「見所は殺されにくる。シテは殺しにくる。能は仮死光線を瀰漫させる演劇機械[プレイ・マシーン]にほかならぬ。もって、見所をこの世を一寸だけ浮揚した高みへ拉致し、存在神秘を体感できる〈位〉〔離見の見=闇の劇場〕へ幻容させる。そしてふたたび、しかし今度は〈帰還するまなざし〉をたずさえて、観客は家路〔この世〕につく。それが世阿彌の演劇戦略[ドラマトゥルギー]ではなかったろうか。もしそうであれば、それはほとんど宗教的菩薩行〔廻向〕である。」(古東哲明『〈在る〉ことの不思議』305頁)
[*]吉本隆明が『言語にとって美とはなにか』で提示した言語表現の四段階「韻律(場面)・撰択・転換・喩」と、後に(『詩人・評論家・作家のための言語論』収録の「言語論からみた作品の世界」)これに加えられた「パラ・イメージ」(上方からの視点のイメージ)をこの図に落とし込むと、次のようになるだろうか。
〔パラ・イメージ〕
┃
┃
┃
〔 喩 〕━━━━〔転換〕━━━━〔撰択〕
┃
┃
┃
〔韻律(場面)〕
■メトリカルな空域をめぐって
演劇の言語をめぐる五つ組がかたちづくる境域。「舞─面─聲」の横軸(あるいは「反復と模倣」の現象学的な地平)と、「設─面─筋」の縦軸(あるいは「憑依と受肉」の記号論的な力の導管)との交叉によって生みだされる場所。──これまではそれを、メカニカルな帯域(モンタージュの時空)の核心をなす「狭義のメカニカルな帯域」と呼び習わしてきたのですが、この際、この場所に固有の名を与えておきたいと思います。すなわち、「メトリカルな空域」。
言葉遊びをしているようですが、私は、この新しい呼称を通じて、言語誕生の場に立ちこめていただろう“響き”や“形象”の韻律的(metrical)なダイナミクス、とでも表現できる詩学上の概念と、距離空間(metric space)などの現代数学における抽象的な空間概念とを結合させてみたいと夢想しているのです。もちろん、詩学はおろか、数学に至っては仰ぎ見る方向さえ定かならぬ身ゆえ(距離空間云々については、第65章第3節で引用した『〈現実〉とは何か』のコラムの記事を参照)、それは夢想どころか妄想でしかないわけですから、これ以上の駄弁を弄さず、ここでは、「メトリカル」の語に関連するいくつかの話題を、生の素材のまま列記するにとどめます。
(いま少し駄弁を弄すると、ここで述べた数学はほとんど哲学と同義である。少なくとも「韻律」とともに開かれる(言語誕生前後の)世界にあっては。さらに加えるならば、芸術的表現とりわけ(次節で触れる)「映画的なもの」や宗教もまた同じ仲間である。)
その一。私がこの語を意識したきっかけの一つは、以文社のホームページに掲載された鼎談「参与と融即のアニミズム/加藤学×奥野克巳×清水高志」での加藤氏の発言だった。この鼎談は、奥野・清水両氏の共著『今日のアニミズム』の刊行を記念して実施されたもの。
進行役の加藤氏が冒頭で、岩田慶治が記述したアニミズムの世界──伝統社会における空間の構造は、現世と他界、地上と天上のように二元的である、人間は何とかして、この分裂した二つの世界を一元的に生きようとする、そういう一つのねがい、一つの祈りをもっている、云々(『カミの人類学――不思議の場所をめぐって』)──を引用した後で、次のように語っている。
《アニミズムについて何かを言うと、岩田慶治もインゴルドもそうなのですが、同じことの繰り返し、金太郎飴のように言えてしまうところがある。これをいかに、より根底的な形で公式化するかということが重要になってきます。岩田が言うような、二元を一元として生きるというようなある種、詩的というかメトリカルな表現ではなく、哲学的にもう一つ掘り下げた次元で公式化していくことはできないか。本書で清水先生が書かれているトライコトミー、三分法というのは、要するに、トライコトミーと言うのはアニミズムの一つの公式化である。そのように捉えられます。》
ここで「詩的というかメトリカルな表現」は「哲学的というか根底的な公式化」と対比して、どちらかというと否定的なニュアンスで用いられている。たとえば、やまとことばが通用する伝統社会は「メトリカルな詩的次元」に深く根差しているなどと言われるとき、そこには漢語漢文と比較した“やまとことば”の劣性が示唆されている。しかし一方で、やまとうたをめぐる歌論のように「根底的な哲学的次元」に深く根差した言説もその伝統社会には組み込まれている。というより、この二つの次元は本来、同床・同根の出自をもったものというべきだろう。
付言すると、清水高志氏が同書第二章で展開する「トライコトミー(三分法)」(「主体/対象」「一/多」「内(内在)/外(超越)」の三つの二項対立の組み合わせ)は、“やまとことばの論理”を考える上でとても有益なアイデアだと思う。
その二。川本皓嗣「二重像の詩学──比喩と対句と掛詞」から。
川本氏はこの論文(講演原稿に補筆修正を加えたもの)で、西洋修辞学の「比喩」、中国詩学の「双声・畳韻・対句」、日本歌学の「掛詞・縁語」を、認知科学の視点に立ち、「詩一般」という広い見地から比較分析している。
《西洋であれ東洋であれ、比喩はけっして同音性を要請しない…。(略)比喩はあくまでも両者の観念的な類似性に依拠している。言い換えれば、比喩にはことばの意味面、つまり「記号内容」(シニフィエ)が関与するのみで、音声や語形といった「記号表現」(シニフィアン)は、まったく度外視されている。
それに対して、双声や畳韻や対句法、掛詞や縁語には、ことばの形式と内容の双方がかかわっている。そこにはより強い言葉自体への信頼がある。それは、同じ音の言葉なら、きつと意味の上でも何かのつながりがあるに違いないという、近代理性の目から見れば迷信に近い信頼であり、過去何千年、何万年にわたって言葉というものに蓄積されてきた人類の深い知恵に対する信頼である。だが実は、西洋詩の脚韻もまったく同じ信頼の上に立っている。その脚韻がいま、息も絶え絶えの余命を保っている一方、西洋の pun(しゃれ、双関語)が、見る影もない零落の憂き目に逢っているのは、偶然ではないだろう。
そして、これは決して他人事ではない。中国や日本でも、掛詞や対句法が詩の世界から遠ざけられて久しい。ところが、もつとくだけた日常生活の場面では、西洋でも中国でも日本でも、相変わらず「しゃれ」に類する同音の戯れが、大いに愛好され、尊重されている。わざわざ断るまでもなく、詩は理性のみの業ではない。いまこそもう一度、言葉のはらむ潜在的な可能性、言葉に秘められた人間の叡智を再発見すべき時ではないだろうか。》(『大手前大学論集』第8巻(2008)20-21頁)
その三。今井むつみ・針生悦子著『言葉をおぼえるしくみ──母語から外国語まで』から。
《…胎児がなじむことのできる「母語」とは,せいぜいそのリズムなのだといえるだろう。この「言語のリズム」については現在,3種類のものが指摘されている。その第一のものは,英語やオランダ語などに代表される強勢(ストレス)ベースのリズム,第二に,フランス語やイタリア語などの音節(シラブル)ベースのリズム,第三が,日本語などの拍(モーラ)ベースのリズムである。》(『言葉をおぼえるしくみ』第2章1節)
《多くの大人は,擬音語や擬態語は,対象が出す音やその状態を音でなぞったものなので,その語をはじめて耳にする人にも,その指示するところはすぐにわかるのではないか,と素朴に考えているかもしれない。しかし,また別のところではよく指摘されるように,どのような音を「〜らしい」と感じるかは,何語の話者であるかによって異なる。おそらく実際には,その対象が出す音や状態は、その言語の音韻体系の枠組みにあてはめられ,その言語を話す人たちに受け継がれてきた生活に味つけされ,その言語の話者たちにとって「〜らしい」と感じられる音韻が共有されるようになっているのである。》(『言葉をおぼえるしくみ』第12章4節)
その四。「メトリカル」という語のもう一つの(直接的な)出自は、石田英敬氏のエッセイ「<石庭にて>──詩学のポリティクス5」(『現代詩手帖』1997年5月号)で使われた「メトリカルなことばの空間」という表現にある。
石田氏はこの小論で、バルトの『記号の国』に収められた俳句をめぐる四つの断章群を一覧し、そこで、東福寺の石庭(記号の生成と消去、運動と停止とを無限定につくりだしている「空虚な記号の場」)に託して論じられた俳句が、バルトが夢見ていたような「<無の記号>の詩学」を裏打ちするものであったかどうかを吟味している。たとえば、「偶景」に引用された子規の句「牛つんで渡る小船や夕しぐれ」。
牛をのせて
小舟が一艘河を渡る
夕暮れの雨を渡って
「かれが引用する俳句のフランス語訳を、そのまま訳してみれば、それらは、ミニマリスト的な自由詩の域をたしかに出ていないように感じられる。」石田氏はそう述べた上で、川本皓嗣(『日本詩歌の伝統』)の議論に準拠しつつ、「バルトの“俳句”に欠けているのは、季語、区切れの位置、語彙のレヴェル、韻律など、ジャンルとして俳句を成立させている、およそすべての要素である。」と指摘している。
《俳句は、「コトバを停止させる」とバルトは書いていた。この停止をつくるのは、韻律とリズムの働きである(それは、俳句にかぎらない、すべての詩に共通した問題である)。(略)ことばの連続した流れを止め、ことばの断片をそれ自身の上へ回帰させるのは、韻律がもたらす休止のリズムの働きである。日常言語による意味の侵入をくい止めて、詩の言語の領域を休止や行変えの空白によって画するのもリズムの働きである。ことばの絶えざる内なる流れを止める「沈黙の記号」を挿入することによって、ことばはそれ自身の固有な身ぶりを取り戻し始めるかに見えるのだ。
「ことばそれ自身の固有の身ぶり」という表現も記憶にとどめるべし。
■バルトと俳句─アナグラムの声、不連続な描線
ロラン・バルトと俳句に関して、かつて(第22章第4節で)、通りすがりに触れたことがあります。前後の文脈を抜きにして再掲すると、そのときは、『ロラン・バルト映画論集』(諸田和治訳、ちくま学芸文庫)の冒頭のエッセイ「第三の意味──エイゼンシュタインの映画からとった何枚かのフォトグラムについての研究ノート」から、「映画的なもの」(ル・フィルミック)との関連で述べられた、「俳句は、表意的な内容を持たない頭語反復的な身振り、意味(意味の希求)が抹殺された一種の傷跡なのである」(37頁)という一節を切り貼りしたのでした。
バルトは、この「第三の意味」を「鈍い意味」とも呼んでいます。
《…〈鈍い意味〉は構造的に位置づけられているわけではなく、意味論学者はその客観的な実在を認めるわけではない(だが、それでは客観的な読みとはなんだろう)。それで、もし私に(私にとって)それが明らかであるとすれば、それはおそらく‘ふたたび’(今)、古い詩句のなかにある謎のような、出所不明な、心につきまとう声、アナグラムの声を、不幸なソシュール一人に聞くことを‘強いた’その同じ脱線[アベラシオン]≠ノよってあるものである。この〈鈍い意味〉を‘叙述する’こと(それが立ち至る場所、それが立ち去る場所についてのある観念を示そうとすること)が問題とされるときにも、同じ不確実がある。〈鈍い意味〉は、〈意味されるもの〉のない〈意味するもの〉である。》(『ロラン・バルト映画論集』34頁)
《要するに、〈鈍い意味〉は‘強調’として、すなわち情報や意味作用の重い広がりが表明される突起体や襞(悪い‘くせ’のついた)の形をしたものとして見えるかもしれない。それを叙述しうるとするなら(それは用語上矛盾するのだが)、まさに日本の俳句というものになるだろう。つまり俳句は、表意的な内容を持たない頭語反復的な身振り、意味(意味の希求)が抹殺された一種の傷跡なのである。》(『ロラン・バルト映画論集』37頁)
『記号の国』(石川美子訳)に収められたエッセイ「このような」では、「フィルムが入っていないカメラ」や「小さな子供がゆびさす身ぶり」といった印象的な比喩を使って、次のように述べられています[*]。
《俳句は、描写も定義もしない(結局、わたしが俳句とよぶのは、不連続な‘描線’すべてのことであり、わたしの読みに提供されるような日本の生活のできごとすべてのことである)。俳句は、細くなってゆき、ただ指示するだけになってしまう。「それはこうだ」、「このようだ」、「そのようなものだ」と俳句は言う。あるいは、「このような!」とだけ言う。きわめて瞬間的で短い調子で(音のふるえも繰りかえしもなく)言うので、繋辞さえもが余計なものに思われるだろう。定義を禁じ、永久に遠ざけたことを後悔しているようにみえるから。俳句においては、意味は一瞬の閃光、光の浅い傷跡にすぎない。シェイクスピアは「見えない世界を照らしだした閃光とともに、意味の光が消えゆくとき」と書いたが、俳句の閃光はなにも照らしださないし、明らかにもしない。とても注意ぶかく(日本人のように)写真を撮るときのフラッシュなのだが、そのカメラにはフィルムが入っていない。あるいは、こうも言えるだろう。俳句(‘描線’)とは、小さな子供が「これ!」とだけ言って、なんでも(俳句は主題の選り好みをしないから)ゆびさすときの、あの指示する身ぶりである。》(『記号の国』132-133頁)
私は、バルトの文章を実地に検分して、石田英敬氏が、バルトの“俳句”に欠けていると指摘した「韻律とリズムの働き」が、実は、「視覚的」なレベルにおいて過不足なくとらえられているのではないかと感じました。文字通り、メトリカルなことばの「空間」が、そこに確かに抽出されているのではないかと。
実際、石田氏は、「バルトの立論にもっとも役立っているのは、名詞文に訳されている句や、論理的結合を希薄化され平行構文されて訳された句である」として、「語がすでにひとつのトポスとなっている」作品、たとえば(「このような」に引用された)子規の「海士が家に干魚臭う暑さかな」を掲げているのです。
漁師の家
干し魚の臭い
そして暑気
私は、バルトが「映画的なもの」と呼んだ「第三の意味(鈍い意味)」の領域を、言い換えれば「ことばそれ自身の固有の身ぶり」を、メトリカルな空域から立ちあがるもう一つの「韻律」ではないかと考えています。
[*]『エッフェル塔』の巻末に収録された「ロラン・バルトの彼方へ」の中で、宗左近が次のように書いている。
《この‘くだり’を読むたびごとに、いつもわたしは驚きを新たにします。フィルムの入っていない空虚なカメラの撮る(じつは撮れはしない)空虚が俳句だ、なんて。なんという、独自でありすぎる判断……。呆れます。
日本の俳人から出るであろう意見は、まず次のようなものです。「俳句への無理解も甚だしい。一粒の草の露。そこに全宇宙を映しとることこそが、俳句の本質なのに」。いかにも、俳句の理念は、そこにあります。わたしも同感です。そして、次のことを、つけ加えます。
「物の見えたる光」を、いち早く書きとめなさいと、芭蕉はいったと伝えられています。この場合の「物」とは、「物思い」の「物」であって、宇宙を動かしている基本原理のことです。それを捉えるのが、俳句の役割。「荒海や佐渡によこたふ天の川」は、それを果たしている。芸術であるからには、成功不成功はある。しかし、俳句というカメラの写しとるはずのもの、その内容は「物」です。フィルムが入っていないわけがない。俳句の内容は、空虚ではない。ロラン・バルトに空虚と見えるのは、当人が感得しないだけのことです。》(『エッフェル塔』(ちくま学芸文庫)207-208頁)
私は、ここに記された批判に強い違和感を覚える。「空虚」という言葉は、俳句に対する最高級の評言だと思うが、宗左近は何か勘違いをしている。これに対して、石田英敬氏の批判は極めて正当なものだった。だからその肩に乗って(安心して)、メトリカルな空域から立ち上がるもう一つの(聲ではなく舞にかかわる)「韻律」について語ることができたのだ。
なお、佐々木考次著『文字と見かけの国──バルトとラカンの「日本」』第T部「記号の国──バルトの「日本」」の第3節(C)「日本人の意見」に、宗左近のバルト評に対する詳細な批判が展開されていて、私はこれに全面的に説得されている。
■バルトと文楽─声そのものを表現する声、生命なき身体
もう一つの「韻律」に関連して、ロラン・バルトの『記号の国』に収録されたバルトの文楽論を見ておきたいと思います。邪道ですが、佐々木考次著『文字と見かけの国──バルトとラカンの「日本」』(第T部)からの孫引きのかたちで[*]。
(俳句的韻律に対する和歌的的韻律が、文楽において濃厚に立ちあがる。文字のモンタージュ/アナグラムに対する声(身体)のモンタージュ/アナグラムが。とはいえ、神田龍身著『紀貫之──あるかなきかの世にこそありけれ』によると、和歌の言葉(仮名文字)は偽装された日本語音である。だとすれば、舞と聲は等しく“文字”という設えの上に同時に立ちあがる「韻律」である。形の韻律と響きの韻律の共感覚的連合として?)
《声は文楽において、けっしてシニフィエに、すなわち内容になることはないのである。「声が表現しているのは、結局のところ、声がもたらす内容(「感情」)ではなく、声そのものであり、声の切り売りである。シニフィアンは、巧妙に、手袋のように裏がえるだけである」[「三つのエクリチュール」、『記号の国』80頁]。声がなそうとしているのは、感情の激発を表現する記号に充実したシニフィエを、すなわち内容を詰め込むことではなく、記号のシニフィアン、つまりある表現から、もう一つの表現へと、たんにめまぐるしく移り行くことである。》(『文字と見かけの国』53頁)
《彼[バルト]は、文楽では声から遠く離れた人形遣いの他動的なエクリチュールと、人形の動作によるエクリチュールとが、ほとんど身体表現をともなわない沈黙のエクリチュールとして、「ある種の麻薬に起因するとされている知的過敏化とおそらく同じくらい特殊な高揚感を生みだす」[「三つのエクリチュール」、『記号の国』84頁]と言っている。彼がそう言うのは、もちろん西欧の演劇の伝統を念頭においているからである。
(略)バルトは書いている、「フランスでは、あやつり人形は、俳優の反対のものを映しだしてみせる役目をになっている。生命なきものを生命があるように動かすのである…」[同書90頁]。それに対して、…「‘文楽’のほうは、俳優のまねをしない。わたしたちを俳優から解放してくれる。どのようにしてか。まさに人間の身体についてのある観念によってである。ここでは生命なき物体のほうが、生命のある(『魂』をもった)身体よりも、かぎりない厳密さと戦慄感とをもって、その観念をもたらしている」[同書90頁]。》(『文字と見かけの国』54-55頁)
──純粋なアクチュアリティの痕跡もしくは「お零れ」としての〈思い(感情)〉が〈いま〉〈ここ〉(この現実)において、リアリティ(内容)をともなわない(魂をもたない、生命なき)〈私〉の身を通じて、声そのもの(演劇の言語、あるいは「沈黙のエクリチュール」と言うべきか)として顕現する、表現される。
「虚[imaginal]/実[real]」の水平軸ではなく「空[virtual]/現[actual]」の垂直軸における、より精確に言えば「空・虚」の第三象限と「現・実」の第一象限を貫く斜行軸における高次元の「虚実皮膜」。(この水平軸と垂直軸が平面に射影されて「舞・聲・面・設・筋」のペンタッドが形成される。)
[*]謎めいた書き付けに終始した本文の叙述に、孫引きと親引き(?)を重ねる。
◎現実よりも強い存在を持ったもの/坂部恵『和辻哲郎』
《ここで、われわれは、人形の動作に「自然性の恢復」という面のみを見る自然主義的な先入見を去って、むしろそこに人間の動作の抽象と誇張による象徴的表現を見るという和辻[和辻哲郎『歌舞伎と操り浄瑠璃』]の着想がすでに含んでいた側面を純粋にとりだしさえすればよいのである。(略)能役者やあるいはのちの女形の動作が一種の身体の虚構であるとすれば、人形は虚構の身体そのものであるといってもよい。生身の身体に生命のない素材が取って代る分だけ、ある意味では抽象度と象徴性は当然高くなるのである。
(略)生命のない物質でできた人形が、通常の生命ある自然的な身体以上に、表現的象徴的特質を帯びた、あえていえば文化的身体、精神そのものとしての身体として、生き生きとひとの心に訴えかける力をもつ。(略)
死んだ物質である人形が、生きた自然の身体にまさって、「現実よりも強い存在を持ったもの」を作り出す。ここには、自然に根ざしながら、いわば象徴的転位によって自然と交叉反転[キアスム]の関係をとりむすびそれを超えて行く人間のもつ文化的世界の一つの集約された姿がある。人形の身体に集約される死と生の交換・交錯は、厳密に、より拡大されたレヴェルでの、性の世界と死の世界、〈この世〉と〈あの世〉の交換・交錯と同型である。そうであればこそ、それは、「エキゾティックな(外から来たものらしい)珍しさや、超地上的な輝かしさ」を感じさせる超自然的、イデア的世界ないしは宗教的世界に向くのではないか。》(『和辻哲郎』(岩波現代文庫)40-42頁)
◎動物的で文字のない音/ポール・クローデル『朝日の中の黒い鳥』
《もう一人の楽師は長い梓のついた日本のギター、白い革の張られた三味線を手にしている。象牙の撥によって、おそらく古代の竪琴にかなりよく似た音を時折爪弾く。しかしさらに、鼻歌のような人形浄瑠璃の歌全体が彼のみに拠っているのである。この男には言葉を話す権利はない。稔り声と叫び声を上げる権利しかない。胸の奥から直接湧き上ってくる動物的で文字のない音、われわれの体の舌や弁が息とぶつかって生じる音をたてる資格しかないのである。彼は問いかけ、喜び、不安になり、苦しみ、欲し、怒り、怯え、何やら考え、ぶつぶついい、泣き、嘲り、罵り、疑い、ほのめかし、猛り狂い、怒号し、愛情を示す。その役目は聴衆を惹きつけることである。聴衆みんなが「おー」とか「あー」とか叫ぶのはひたすらこの男によっている。ただ言葉[パロール]のみがこの男には欠けているのだ。》(内藤高訳『朝日の中の黒い鳥』154頁)
◎諸感覚のリズム的統一/フランソワ・ビゼ『文楽の日本──人形の身体と叫び声』
《ドゥルーズがベーコンの絵画について「諸感覚のリズム的統一」を認める以前に、劇場でこの「諸感覚のリズム的統一」を予感した人物、それがエイゼンシュテインであった。これは、ドゥルーズが「多面的感受性に富む絶対的形象」と呼ぶもの、つまり、全面的かつ未分化の感覚、〔異なる感覚間の連合としての〕共感覚に近いものだが、エイゼンシュテインは歌舞伎のモスクワ公演を見た後、この共感覚が映画にも取り入れられるべきだとして、次のように述べた。「自らのうちに新たな‘感覚機能’を引き入れ、‘視覚と聴覚を一つにする’能力を開発しなければならない」と。このときエイゼンシュテインが見た歌舞伎の演目『仮名手本忠臣蔵』は文楽版ときわめて近いものだが、通常は従属の法則に従えられる様々な要素がそこでは奇妙な共存を見せている。
「音、動き、空間、声は日本人においては、‘いずれかが主役となり’、‘いずれかが脇役に甘んじるという関係ではなく’(並列に並べられるのでもなく)、どれも‘対等の意味を持つ要素’として扱われる」〔とエイゼンシュテインは述べる〕。
つまりそこには「‘一元論的全体’」が現われるのであり、感覚列島ではすべてが、万物照応の効果によって命を宿す。(暗闇は舞台袖で演奏される太鼓の音で表され、三味線の高音が高速で掻き鳴らされて殺人の狂気が表現される。太夫の沈黙は死が迫っていることを示す)。こうした万物照応が観客に強い衝撃を与えるのだとエイゼンシュテインは繰り返し強調する。「‘まるで神経が今にも張り裂けるかのようだ’」。》(秋山伸子訳『文楽の日本』234-235頁)
(53号に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。
Web評論誌「コーラ」52号(2024.04.15)
<哥とクオリアア/ペルソナと哥>第77章 純粋言語/声と文字/アナグラム(その4)(中原紀生)
Copyright(c) SOUGETUSYOBOU 2024 Rights Reserved.
|