Web評論誌「コーラ」51号/哥とクオリアア/ペルソナと哥 第76章 人間の言語の三帯域論(総括・五重塔とエッフェル塔)

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Web評論誌「コーラ」
51号(2023/12/15)

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■五重塔、沈黙の声の重なりとしての
 
 これまでの議論の総括を兼ねて、メカニカルな帯域における人間の言語の「複合フラクタル構造」(第73章参照)を念頭におきながら、諸概念の階層関係を、狭義のメカニカルな帯域を最先端(相輪)とする五重塔として作画したものを披露します。
 
   《図1》五重塔─人間の言語をめぐる諸概念(階層図)
 
            メカニカルな帯域
              (狭義)
                ┃
             ━━━┻━━━
          【五層】メカニカルな帯域
             裏/狭義/表
            (詩/劇/物語)
          ━━━━━━━━━━━━
         【四層】人間の言語の三帯域
       マテリアル/メカニカル/メタフィジカル
 
        ━━━━━━━━━━━━━━━━
       【三層】  言語の三圏域
         私的言語/人間の言語/純粋言語
       (事物の言語/アダムの言語/神の語)
      ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
     【二層】     心の三階梯
            錯綜体/映画/夢
      (ギフト/パランプセスト/フィギュール)
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   【初層】      存在のロゴス
     (物質圏)/生命圏/記号圏/精神圏/(意識圏)
 
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 
 薬師寺の東塔(三重塔)を評して、フェノロサが「凍れる音楽」と形容したという言い伝え[*1]がありますが、私も、この五重塔のうちに弦楽五重奏の重厚な、あるいはクラリネット五重奏の軽やかな音楽が、(原初の言葉、重なり響きあう声や叫びのざわめきが、と言うべきか)、氷結しているのではないかと感じています[*2]。
 
[*1]竹内昭氏の「〈凍れる音楽〉考:異芸術間における感覚の互換性について」(『法政大学教養部紀要・人文科学編』96巻(1996年2月)[http://doi.org/10.15002/00004605])によると、これは誤った巷説。シェリングの「建築は空間における音楽である」「建築はいわば凝固した音楽である」に由来する表現に魅せられ、「東塔=凍れる音楽」説を創案したのは黒田鵬心である。
 
 以下は余談だが、竹内氏はこの論考においてピエール・ブーレーズの『クレーの絵と音楽』を取りあげている。
 いわく、この文献は絵画と音楽における「感覚の互換性」を論ずるための格好の例証になる。「…クレーの作品については、しばしば音楽との関連が指摘されてきたし、彼自身、自作を解説する際に、たとえば音楽の和声学の概念を用いて、作品の重層的な描写を造形的ポリフォニー(多声音楽)と呼び、画面の中での形態の重なり合い、響き合い、繰り返し、軽快感、透明感を説明している。実際、ブーレーズに言わせれば、「これほどポリフォニーに酷似した作品は稀」なのである。」
 また、ブーレーズは「モーツァルトはおそらくクレーの感受性にもっとも近しい音楽家だったといい、「一つの旋律線と一本の描線とは等価物」の実例を、彼の「クラリネット五重奏曲」…の緩徐楽章におけるクラリネットの旋律とクレーの装飾を加えられた独特な線描に…見ている」。
 
[*2]別宮貞雄氏は『音楽の不思議』で、建築と音楽の共通性を論じている(第一部第十三章「構造(下)──その静力学と動力学」──この章は「“建築は凍れる音楽である”という有名な言葉がある。」の一文から始まる)。
 いわく、建築芸術とは人間の重力との闘いの表現である。「あの美しいゴシック建築、その核心であるアーチ、あれは、石という材料をつかった、重力にいかに処するか、ということに対するみごとな解決の表現である。」(172頁)
 
《石造建築ばかりではない、仏寺の塔の美しさ。あれは木材という材料をつかった、重力と闘って、いかに天に近づこうかということの、やはりみごとな表現であろう。石と木とのちがいが、ゴシックの伽藍と五重塔とのちがった形を生んでいるのだが、根本は重力であり、それをいかにうけとめるかという力学である。(略)
 音楽もまたそうなのである。
 ある音の次に別の音がなる。次々と音が流れ出て、ある音でしめくくられる。それが音楽であるからには、あとの音が前に鳴った音をうけとめる、建築で下層が上層をうけとめるようにうけとめる。あるいはうけとめかねて音の勢いのようなものが生ずる、それをまとめて、がっしりとうけとめるような音がさらにあとにひかえる、たくさんの柱をまとめて梁がひきうけるようにうけとめる音が現れる。こういうように音楽はできているわけである。
 音楽における時間の前後は、建築における上下関係のようなものになっている。重力の方向は上から下へときまっていて、そのために建築は上下を逆にできない。
 では建築における重力に相当するものは、音楽においては何であるか。》(『音楽の不思議』173-174頁)
 
 ここで著者は、“ソ”の音が鳴って“ド”の音が鳴ると安定を得た感じを持つのに、“ド”の音をきき次に“ソ”の音をきくとまだ完結していないひらかれた感じを持つのはなぜか、と問う。そして、この「音楽の根本な不思議」は「自然倍音現象」と関係があると指摘する。
 “ド”の音が鳴ると、音色によっては、その音だけでなく倍音“ソドミシ♭”などの音がまじってきこえる。“ソ”ならば“レソシファ”などが同時にきこえる。「こうしてみると“ソ”のあとに“ド”がくる場合には“ソ”の音の倍音の中に“ド”の音がないために、あとから現われる“ド”が本当に新鮮に感じられるのに対して“ド” のあとに“ソ”がくる時には“ソ”は“ド”の倍音としてあらかじめきかれてしまっているために、新鮮な感じを失っているのが理由ではないかと考えられる。」
 このように、「あとからくる音が前の音をきいていた耳にとって新鮮な感じを持つということが、時間が先へすすむ感じを生むために必要なことではないのかと考えられる」ことから、著者は、「建築における重力の役目を、音楽においては時間が持っているといって、そう見当ちがいではあるまい」(175頁)と結論づけている。
 
■エッフェル塔、純粋な文字としての
 
 五重塔が凝固した声の重なりであるとしたら、エッフェル塔は意味を引きよせる純粋な形=文字である。──以下、「基盤と頂上、また大地と空、この二つを結びつけることだけを機能として持つ」「空虚な表徴(記号)」をめぐるロラン・バルトの言葉を、『エッフェル塔』(宗左近・諸田和治訳、ちくま学芸文庫)から引きます。
 
◎自然現象と同じ意味での文字
 
《…塔はつねにそこにある。…それは石や河なみに、ひたすら頑固に日常生活に合体して存在しつづけていて、無限にその意味をたずねることはできないが、しかしどうあらがいようもなく実在しているという点で、自然現象と同じ意味での‘文字’となっている。》(『エッフェル塔』7頁)
 
◎大地と空を結びつける空虚な表徴
《…基盤と頂上、また大地と空、この二つを結びつけることだけを機能として持つ、しかもそれだけを持つエッフェル塔…。
 空虚な表徴と言ってもよいほど純粋なこの表徴から逃れることは不可能である。なぜなら、これはすべてを意味しているからである。エッフェル塔を否定するには…、その中に入ってしまわねばならない、つまり自分をそれと同一化しなくてはならない。自分自身の視線が見ることのできない唯一の者は自分自身であって、つまりこの塔をかこんで全パリがつくり上げる視覚体の中で、この塔だけが自分で見えないものである。》(『エッフェル塔』9頁)
◎能動態(視線)であると同時に受動態(事物)
《…塔は見られているときは事物(=対象)だが、人間がのぼってしまえば今度は視線となって、ついさっきまで塔を眺めていたパリを、眼の下に拡がり集められた事物とする。塔は見る事物であり、見られる視線となる。それは、どんな機能も、どんな態も欠いてはいない(この場合の態とは、文法の微妙なあいまいさから能動態、受動態と言われているものをさす)、能動態であると同時に受動態の、完全動詞である。》(『エッフェル塔』10頁)
◎視線の両性を具有する完全物、純粋に意味をひきよせる形
《…塔は(ここにこそ塔の運命的な力の一つがあるのだが)、この分離、この見ることと見られることというごく普通の区分を、超越する。いわば塔は、この二つの機能の間をいつでも自由に行ったり来たりすることのできる、視線の両性を具有する完全物なのである。このような知覚の世界の光に似た立場は一つの不思議な意味化作用を塔に持たせる。ちょうど避雷針が雷をひきよせるように、塔は意味をひきよせるのである。何でも一つの事物には一つの意味づけをしたがる人間に対して、この塔は奇跡に近い一つの役割、‘純粋に’意味するものの役割、つまり人々が絶えずそれに何らかの意味を与えずにはいられない形(人々が自分たちの知識や夢や歴史の中から好んで一つの意味をとってきてその形に与えるのだが)、そういう形のもつ役割を演じる。》(『エッフェル塔』10-12頁)
◎空を飛ぶ鳥の(パノラマ的)視界、具体抽象(構造)すなわち知覚形式の肉体化
《…この塔は、まず最初は文学に表現された一つの空想を実際に具現するものとなっているといえる…。十九世紀は、エッフェル塔が建てられるおよそ五十年前に、パノラマ的視界という夢のような幻想を…、詩的表現法[エクリチュール]によって実現した二つの文学作品を生み出している。すなわち、空を飛ぶ鳥のように上空から見たパリを描いた『パリのノートルダム寺院』がその一つであり、ミシュレの『フランス展望』がその二つである。(略)エッフェル塔を訪れる人の誰もが一瞬自分のものにする空を飛ぶ鳥の視界は、見るべきものとしてだけではなく、読むべきものとして、世界を眼下にさし出すのである。(略)…空を飛ぶ鳥の視界は、単なる感覚をこえて、事物をその構造から見ることを可能にするのである。つまり、このパノラマ的視界をもった…建築が示しているのは…、新しい視覚と知覚の到来にほかならない。パリとフランスは、ユゴーとミシュレの筆の下で(そしてエッフェル塔の視線の下で)、はじめて理解しうる事物となる。だが──それこそが新しいことなのだけれど──、だからといって、パリとフランスがその具体性を失うことは決してない。なぜなら、こうして一つの新しいカテゴリー、つまり具体抽象というカテゴリーが誕生したからである。そして今日、‘構造’という言葉に与えられる意味は、まさにこの具体抽象であり、すなわち知覚形式の肉体化なのである。》(『エッフェル塔』25-29頁)
 これ以上の深堀は(したくても)できないので、ここでは表層的な言葉摘みにとどめ、先を急ぎます。(それにしても、ロラン・バルトの思考は美しい。)
 一点だけ指摘しておくと、五重塔における「声」(凍れる音楽)が、前々章の《図2》の「沈黙の声」=「聲、オノマトペ」に対応しているとすれば、エッフェル塔は「非人称の文字空間」における「純粋文字」(空虚な表徴)である。私はそのように考えています。
(未練がましくあと一つ、未熟な思いつきを書き留めておく。空を飛ぶ鳥のパノラマ的視界は、言語の誕生と人間の内面空間の発明につながる「地平線」の体験を反復する。この視界がもたらすもの(吉本隆明が言う「パライメージ」?)こそ、最古の言語がもたらした体験(バルトが言う「具体抽象」あるいは「原映画体験」とでも?)だったのではないか。)
 
■五重塔とエッフェル塔
 
 前々節で「人間の言語をめぐる諸概念の階層図」を作図していたとき、私の脳裏をよぎっていたのは、「この図は本来、上下を反転し倒立させた見えない五重塔と、その相輪において(ちょうど砂時計のような形で)繋がった双身図でなければならない」という“着想”であり、「確かこれと同じことを、かつて考えたことがあるはずだ」という“気づき”でした。
 自稿を「検索」してみると、たしかに第71章の《図1》で、私は、井筒俊彦の「意識の構造モデル」をベースにして、「絶対無」(形而下的「無分節1」)を起点とする仏教的(密教的唯識的)な上向きのモデルと、プロティノスの「一者」(形而上的「無分節2」)に発する下向きのモデルを、(背中合わせの二体の毘沙門天ではなく、鏡像反転によっていわば“頭合わせ”になった上下の双身体のごとく)重ね合わせていました。
 この「人間の言語の二契機と三帯域(Ver.4)」の図を、ここでの議論にそくして変形加工してみると、次のようになるでしょう。(下図の「M1・M2」は表層意識(井筒が「A」と表記した領域、私の語彙では「メカニカルな帯域」)とB領域との中間地帯(イマジナルなイマージュの場所)を、「B1・B2」は深層意識(C+B+M)のうち言語アラヤ識の領域、「C1・C2」は無意識の領域をそれぞれ指す。)
 
   《図2》五重塔とエッフェル塔
        ─人間の言語の二契機と三帯域(Ver.7)
 
               意識圏        【初層】
             ≪無分節2≫
    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〇 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
               C2
                夢       【二層】
      ……………………………………………………
               B2
              純粋言語   【三層】
        ================
               M2
         メタフィジカルな帯域【四層】
          ━━━━━━━━━━━━
               (表)
           メカニカルな帯域【五層】
             ━━━┳━━━
                ┃
             メカニカルな帯域
              (狭義)
                ┃
             ━━━┻━━━
          【五層】メカニカルな帯域
               (裏)
          ━━━━━━━━━━━━
         【四層】マテリアルな帯域
               M1
        ================
       【三層】   私的言語
               B1
      ……………………………………………………
     【二層】      錯綜体
               C1
    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〇 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
             ≪無分節1≫
   【初層】        物質圏
 
 図中の、仮想された(本来透明で目に見えない)上半身を左方に平行移動し、これを鉄骨トラス構造をもって可視化した(ただし、重力の関係で上下の形が逆転した)建造物がエッフェル塔にほかなりません[*]。
 前節で、私は、五重塔が「沈黙の声」すなわち「聲、オノマトペ」(もしくは「真言」)を凝結させたものであるとしたら、エッフェル塔は「非人称の文字空間」に析出される「純粋文字」に該当すると書きました。このことを、次節で、井筒俊彦の議論を援用して、確認しておきたいと思います。
 
[*]このことを第71章の《図3》を使って表わすと、次のようになる。
 
         [原型]
    =============
          │
       U   │   T
          │
 [字]━━━━━━┿━━━━━━[声]
          │
       V   │   W
          │
    =============
         [母型]
 
 ※T:反復イマージュ:神の〈声〉
  U:原型イマージュ:純粋文字<エッフェル塔>
  V:模倣イマージュ:象形文字
  W:母型イマージュ:沈黙の声(聲、オノマトペ)<五重塔>
 
■真言密教の言語哲学とイスラーム文字神秘主義(前段
 
 井筒俊彦が「意味分節理論と空海──真言密教の言語哲学的可能性を探る」(岩波文庫『意味の深みへ──東洋哲学の水位』)で論じたこと。
 
1.存在はコトバである─経験的次元の問題
 
 井筒はこの論考で、真言密教の言語哲学的思想の中核を、「存在はコトバである」という根源命題の形で提示する(269頁)。そしてこのことを理論的に、すなわち意味分節理論──「我々が普通、第一次的経験所与として受けとめている「現実」は、本当は我々の意識が、言語的意味分節という第二次的操作を通じて創り出したものにすぎない」(277頁)──の観点から解明している。
 その到達点は、「我々の言語意識の深層に遊動する「意味」が、様々に異なる形、様々に異なる度合において、存在喚起的エネルギーとして働いている」(288頁)領域、つまり「言語アラヤ識」である。
《…表層的シニフィエの底辺部には、広大な深層的シニフィエの領域が伏在している。そればかりではない。言語意識の深層には、まだ一定のシニフィアンと結びついていない不定形の、意味可能体の如きものが、星雲のように漂っているのだ。まだ明確な意味をもっていない、形成途次の、不断に形を変えながら自分の結びつくべきシニフィアンを見出そうとして、いわば八方に触手を伸ばしている潜在的な意味可能体。まさに唯識の深層意識論が説く「種子[しゅうじ]」、意味の種[たね]だ。既に一定のシニフィアンを得て、表層意識では立派に日常的言語の一単位として活躍しているものと、いま言ったような形成途次の流動的意味可能体と、無数の「意味」が深層意識の底に貯えられている。》(『意味の深みへ』286-287頁)
 井筒は「深層的意味エネルギー」の問題に関連して、「シニフィアンとシニフィエとの間に、時として著しい形で看取される不均衡性」に言及し、「本論のこの個所で、いま問題になるのは、…シニフィエの側に起こる異常事態、すなわち、人がよく、コトバの意味的側面に感知する底知れぬ深淵のごときもの[例:ヌミノーゼ]のことである」と述べている。
 
2.存在はコトバである─異次元のコトバのレベル
 
 シニフィエの側に起こることはシニフィアンの側にも起こる。かくして、議論は日常言語のレベル、すなわち経験的次元を超えていく。
《本稿の主要テーマにとって、より重要なことがある。それは、コトバの存在喚起エネルギーが、通常の経験的次元だけの問題ではなくて、実は、言語意識の表層と深層とをともに含む全体を、さらに超えた異次元のコトバのレベルにまで遡及していく、ということである。少なくとも真言密教や、それに類する他の東洋的言語哲学はそう主張する。》(『意味の深みへ』288頁)
 以下、異次元のコトバの「宇宙的スケールの創造力、全宇宙にひろがる存在エネルギーのようなもの」(289頁)をめぐる議論がつづくのだが、ここでは、かの“五重塔”につながる空海の『声字実相義』と、“エッフェル塔”に結びつけて考えることができるイスラームの文字神秘主義について述べられた文章を引く。
 
2-1.真言密教の言語哲学─『声字実相義』
《無限にひろがった宇宙空間、虚空、を貫いて、色もなく音もない風が吹き渡る。天籟。この天の風が、しかし、ひとたび地上の深い森に吹きつけると、木々はたちまちざわめき立ち、いたるところに「声」が起こる。
 この太古の森のなかには、幹の太さ百抱えもある大木があり、その幹や枝には形を異にする無数の穴があって、そこに風が当ると、すべての穴がそれぞれ違う音を出す。岩を噛[か]む激流の音、浅瀬のせせらぎ、空にとどろく雷鳴、飛ぶ矢の音、泣きわめく声、怒りの声、悲しみの声、喜びの声。穴の大きさと形によって、発する音は様々だが、それらすべての音が、みな、それ自体ではまったく音のない天の風によって呼び起こされたものである、という。
 『荘子』全篇のなかでも、その文学性の高さにおいて屈指の一節、これを読んで、空海の著作中のいくつかの個所を憶い出すのは、私だけではないだろう。》(『意味の深みへ』290頁)
(仮面もしくは仮面的なものをめぐる私の「理論」によると、ここに描かれた無数の穴を持ち、声(地籟?)を発するものは仮面の原初形態もしくは原器的なものなのだが)、井筒はここで『声字実相義』の「内外の風気、わずかに発すれば、必ず響くを名づけて声というなり」を挙げ、つづけて「五大にみな響あり、十界に言語を具す」を引いている。
《地・水・火・風・空の五大、五つの根源的存在構成要素は、普通は純粋に物質世界を作りなす物質的原資と考えられているのであるが、それが、実は、それぞれ独自の響を発し、声を出しているのだ、という。すなわち、空海によれば、すべてが大日如来のコトバなのであって、仏の世界から地獄のどん底まで、十界、あらゆる存在世界はコトバを語っている、ということになる。》(『意味の深みへ』290-291頁)
2-2.ファズル・ッ・ラーの文字神秘主義的世界像
《ファズル・ッ・ラーによれば、力動的に働いてやまぬ四元素が触れ合い、ぶつかり合うとき、その衝撃で響を発する。響は、すなわち、四元素の「声」であるという。四元素が、動いても互いにぶつかり合わなければ、「声」は発出しない。と、いうことは、ただ「声」が実際に我々の耳には聞こえないということにすぎないのであって、実は元素間に衝突が起こらなくとも、「声」はいつでも現に起こっている。この万物の響、万物の「声」こそ、ほかならぬ神のコトバなのである、と。(略)この「声」の究極的源泉を、空海のように大日如来と呼んでも、ファズル・ッ・ラーのように神[アッラー]と呼んでも、もうここまで来れば、まったく同じことだ。とにかく、ファズル・ッ・ラーにとっては、‘いわゆる’物質は、実はすべて神の声であり、神のコトバなのである。》(『意味の深みへ』295-296頁)
 この不可視、不可触の、人間にとっては無にひとしい神(宇宙的存在エネルギー)は、その(@無記無相のコトバ→A根源アルファベット→B文字結合(万物の「声」)へと段階的に進む)「自己顕現の位層」において、その本体であるコトバ性を露呈する(297頁)。
《神が、わずかに、自己顕現的に動くとき、そこにコトバが現われる。但し、コトバとはいっても、神の自己顕現のこの初段階では、我々が知っているような普通のコトバではない。一種の根源言語、つまりまだなんの限定も受けていない、まったく無記的なコトバ、無相のコトバ。それが、次の第二段で、はじめてアラビア文字、三十二個のアルファベットに分岐する。(アラビア語本来のアルファベットは二十八文字だが、ペルシャ語に入ると四文字加わって、三十二文字となるのである。)もっとも、そのアラビア文字も、この段階では、まだ純粋に神的事態であり、神の内部に現われる根源文字なのであって、人間はこれを目で見ることはできないし、その字音は人間の耳には聞えない。人間の耳に聞えないままに、このアルファベットは全宇宙に遍満し、あらゆる存在者の存在の第一現類として機能する。
 ところで、この宇宙的根源アルファベットは、それ自体では、まだなんの意味も表わさない、つまり、無意味である。無意味であるということは、具体的存在性のレベルには達していないということだ。有意味的なもののみが存在であり得るのだから。コトバが有意味的であるためには、なんらかの‘もの’の名でなくてはならない。「声発[おこ]って虚[むな]しからず、必ず物の名を表わすを号して字というなり」という空海の言葉が憶い合わされる。
 そのようなことが起こるのは、根源的アルファベットの段階ではなくて、次の段階、すなわち、アルファベットの組合せの段階である。(略)…この段階で、文字はいろいろに組み合わされ、結合して語(あるいは名)となり、それによって意味が現われ、意味は、それぞれ己れに応じた‘もの’の姿を、存在的に喚起する…。(略)根源アルファベットの段階では、未分の流動的存在エネルギーであったものが、文字結合の段階では、その流れのところどころに特にエネルギーの集中する個所が出来て、仮の結節を作る。その結節の一つ一つが‘もの’として現象する、というのだ。
 こうしてファズル・ッ・ラーの文字神秘主義的世界像においては、すべては文字であり、文字の組合せである。この広い世界、隅から隅まで、どこを見ても、人はただアラビア文字アルファベットの様々な組合せを見る。それ以外には何もない。存在世界は一つの巨大な神的エクリチュールの拡がりなのである。》(『意味の深みへ』297-299頁)
■真言密教の言語哲学とイスラーム文字神秘主義(後段)
 
 空海の言語哲学とファズル・ッ・ラーの文字神秘主義をめぐる井筒俊彦の議論を、やや強引に、五重塔とエッフェル塔の図のなかに落としこんでみます。
 
   《図3》五重塔とエッフェル塔
        ─人間の言語の二契機と三帯域(Ver.8)
 
            神のコトバ(神の声)
        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
       無記無相のコトバ
      ……………………………………………………
      根源アルファベット
    ========================
     文字結合(万物の声)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    文字言語                音声言語
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
                      字(音素)
    ========================
                    声
      ……………………………………………………
                  響
        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
                 風
 
 一点、補足します。
 図中に「字(音素)」とあるのは、竹村牧男著『空海の言語哲学──『声字実相義』を読む』の解説に基づいています。たとえば、『声字実相義』「釈名」の一節、「此の十界所有の言語、皆な声に由って起こる。声に長短高下音韻屈曲有り。此れを文[もん]と名づく。文は名字に由る。名字は文を待つ。故に諸の訓釈者、文即字と云うは、蓋し其の不離相待を取るのみ。此れすなわち内声の文字なり。」をめぐって、竹村氏は次のように解説しています。
《ここにも、言語は音が所依であり、その「長短高下音韻屈曲」が文(音素。母音・子音)であるとある。それ(文)は「名字に由る」とあるが、一方、「名字は文を待つ」とあるように、言語は音の「あや」としての母音・子音に基づくものであることを述べているであろう。ここではまだ、字は音ではない視覚の対象(色境)の文字をも意味するとは考えられていない。字も音としての母音・子音であって、文と字とは、要は同じものの別の名前と見るべきものである。そこで訓釈者は、「文即字」と言っているわけである…。ここで空海は特に「内声の文字」と言っていて、個体(衆生等の身心)が発する音声の母音・子音のことであると言っていることにも注意を要する。》(『空海の言語哲学』50頁)
     ※
 余談、その一。竹村氏は同書の第五章「井筒俊彦の空海論について」で、「意味分節理論と空海──真言密教の言語哲学的可能性を探る」を批判的に取りあげている。
《また、井筒の思想には、どこか発出論的な見方が常に付きまとっている。阿字一つとっても、ア音と言いつつ、まったく無意味な音声のレベルを設定し、それがだんだん後から意味づけされてくるという。何よりも絶対的一者から、コトバが発せられてこの世の存在が喚起されてくるというのでは、結局、無意識の中の存在喚起エネルギーとして想定したものを、異次元の絶対的一者に投影したにすぎないものではないかと思われる。しかしそうした理解は、そもそも仏教思想とはおそらく相い容れないものと思わざるをえないのである。あるいは、異次元のコトバの展開と、我々の無意識の中の意味分節追求エネルギーとの関係はどのようなのかの説明は見られない。真言の世俗言語への衝撃(インパクト)を語ることなしに、『声字実相義』の言語哲学を十全に語ったことにはならないであろう。
 以上のような次第で、こと空海の言語哲学に関する限り、井筒の論説は私にとってはほぼ受け入れがたいのが正直な感想である。仏教が、多彩なインド古代の思想の中で、実は例外的に異端であること(ゆえに東洋思想全体の中で異端であるはずのこと)に、もっと注意を払う必要があると思われるのである。》(『空海の言語哲学』376-377頁)
 私は、竹村氏の著書から多くのことを学んだ(本稿に反映させることはできなかったが)。その井筒批判にも説得力を感じている。しかしその上で、あるいはそれ以上に、井筒自身が論考の冒頭に綴った戦略的・創造的な「誤読」という、テクストの「読み」をめぐる宣言に、より強く惹かれてもいる。
 
 余談、その二。『意味の深みへ』の文庫解説で、斉藤慶典氏が「井筒東洋哲学の基本的骨格」をめぐる問題を指摘している。
 いわく、東洋哲学に通底する構造の一つとして、井筒は「世界の虚妄性」の洞察を挙げる。ところが、「意味分節理論と空海──真言密教の言語哲学的可能性を探る」で井筒は、真言密教をその唯一の例外として位置付けている。なぜなら、私たちの生きるこの世界のすべては、究極の存在たる大日如来の語るコトバの顕現体であり、しかも大日如来そのものがコトバ(すなわち「真言」)だからである。(378-379頁)
 だが、そうだとすると、先の洞察はどうなるのか。唯識・中観・禅の仏教哲学、マーヤーを指摘するインド哲学、無や空を世界の真相と見る老荘、それらすべてが誤っていたことになるのか。「井筒はこの問題に最終的な決着を与えていない。彼の内には、禅や「もののあはれ」に対する共感もまた間違いなく存在する。そうであれば、対立するように見えるこれら二つの洞察をどのように捉え直せばよいのかを論じなければならないはずだ。」(380頁)
 斎藤氏はここで、両立不可能に見えるものの両立可能性を、フッサールからメルロ=ポンティへと受け継がれた「基付け」(Fundierung)関係──「世界内の存在者間には或る種の階層関係が成り立っているのだが、それは下の階層が上のそれの存立を「支え」、かつそのようにして存立する上の階層が下のそれを「包む」という関係」(383頁)──の内に看て取る。
 すなわち、ひとたび言語的分節に基づく存在秩序が成立したなら、その存立を支えるすべてはこの言語の作動原理に「包まれ」て姿を現わす。言語に先立って存在していたはずのものは「先言語的分節」として“言語的に分節化されて”のみ、存在するのである。
 これを神という絶対者の下での世界創造の場面に置き移してみれば、創造以前の「無」はそのままの形で姿を現わすことはなく、「いまだ何ものでもないところの何か」として、すなわち「カオス」「混沌」「空」として規定されて姿を現わす。「先言語的」が「言語的」であることの一様態であったように。(387-388頁)
 ここで次の問いが浮上する。「「無」はあくまで「空」の延長上に位置するその極限なのか、それとも「空」とは決定的に区別された・それとは異質の次元を指し示すものなのか」(390頁)。井筒において、「無」は「空」の延長以外ではなかったのだが、そのような事態把握ははたして事柄に即したものなのか。「空」とは次元の異なる「無」に向かって思考を進めるため、「死」という事態が通路となりうるのではないか。──以下、斉藤慶典独自の思索が展開される。
 死に対する東洋哲学の対応は概ね「大らか」で肯定的なものである──「表層において特定の一人物として分節化されて姿を現わした私が、何かとして分節化されて世界が姿を現わす以前に位置する深層の次元(あの「存在エネルギー」の塊、すなわち「混沌」)に戻って行くこと以外ではない」(391頁)──のに対して、西洋のそれは様相を異にしている。
《これは、死の中にもはや二度と反復されないものを、つまりあの「存在エネルギー」に回帰するのではないものの影を、西洋が看て取った可能性を示唆する。もし、死の中にそのような問題次元が隠されているのだとしたら、それは「空」という「存在エネルギー」の充満の延長上にその極限として位置する「無」、つまり‘そこから’「存在」が誕生したところの「無」では‘なく’、いかなる存在の兆しも見いだされない端的な「無」、存在とは別の、まったく異質な次元を構成するところの「無」に、神ならぬ私がほかならぬ私の死において(なぜなら、死ぬのは私なのだから)直面することを意味する。》(『意味の深みへ』393頁)
 斎藤氏は、『存在と時間』で死に集中的な分析を加えたハイデガーが、そのような端的な「無」、「どこにもない」「無」に向かい合った可能性があることを指摘し、次のように述べている。「この厳密な意味での「無」に思考が触れたとき初めて、かの「存在エネルギー」の根底性が相対化される。全東洋哲学の一方の根本洞察だったすべてが虚仮である可能性は、この地点に至って初めて思考の事柄になるのではないか。」(394-395頁)
 
 余談、その三。永井均氏が Twitter で「井筒俊彦は単に哲学の素人であるにすぎない」(2021年10月15日)と書いている。同じ趣旨のことが何度か発言されている。「私が哲学的意義を全く否定したいのはむしろ『意識と本質』を始めとする井筒俊彦の諸著。イスラム学的には知らないが哲学的意義は皆無ですよ。」(2021年10月14日)
 若松英輔氏の発言「吉本[隆明]の言語観、本質論は、井筒と強く共振する。」に対する永井氏のツイート。「吉本と井筒の言語観の共振は慧眼だ! しかし、はっきっり私の意見をいうなら、二人とも哲学的なセンスが(非常に似たような仕方で)全くない。もっと繊細に内的な志向関係(等)を探っていかなければならないところで、すべてを無骨に実体的に積み重ねていってしまう。」(2019年1月29日)
 あるいは、次の発言。「井筒という人は、大学者とされているが実はシャーマンのような人だったのではなかろうか。まさにそれゆえに、その宗教的直観は以外なほど平板で、やはり安っぽい。」(2014年2月1日)
 永井氏はまた、「私がもっと若かったら、アラビア語を学んでイスラム哲学を研究するだろう。」(2017年4月18日)、なぜなら「イブン・スィーナーが好きだからです。」(2021年8月21日)とも書いている。
 ──私は、吉本隆明と井筒俊彦と永井均を、私自身が持ち合わせている「類化性能」にしたがって、よく言えば方法的「誤読」のもと「無骨に実体的に積み重ねて」、この論考群を書いている。だから(という接続詞はおかしいが)、永井氏の発言の真意が分かるような気がする。
 
 井筒俊彦の著書は文学作品である。『神秘哲学』はほとんど長編抒情詩である。詩は何も伝達しない。純粋言語によって叙述もしくは編集された純粋伝導体だ。お経の意味を考えながら唱えては有難味が薄れる。途端に退屈する。それと同じで、井筒俊彦の本は退屈だ。同じことが繰り返し書かれているが何も伝達しない。「平板だ」と言ってもいい。
 演芸、劇、映画、音楽、文学作品は何度接しても退屈しない。何度接しても退屈しないものを芸術作品と言う。そういう意味では、井筒俊彦の書物は芸術作品であって哲学的思惟の書物ではない。哲学的思惟の書物ではあるのだが、真正の哲学書ではない。
 井筒俊彦は「シャーマンのような人」なのだ。シャーマンなのだから、何を語るかではなく井筒俊彦が「語る」こと、その声(声振り)と表情(面振り?)と身振りに意味があるのだ。
 私は、斉藤慶典氏が言う「端的な無」は、永井氏や入不二基義氏の言う「現実性(アクチュアリティ)」の界域にあるものだと考えている。シャーマン・井筒俊彦が語る事柄は、本人が気づいているかどうかは別として(おそらく気づいていない、なにしろシャーマンなのだから)、この「無」の界域(無内包の現実性)に属している。私はそう思う。
 
(52号に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」51号(2023.12.15)
<哥とクオリアア/ペルソナと哥>第76章 人間の言語の三帯域論(総括・五重塔とエッフェル塔)(中原紀生)
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