Web評論誌「コーラ」48号/哥とクオリア/ペルソナと哥 第70章 人間の言語の三帯域論(マテリアル篇・承前)

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Web評論誌「コーラ」
48号(2022/12/15)

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■「非感性的類似性」と「未来への想起」─マテリアル篇3
 
 森田團著『ベンヤミン──媒質の哲学』第十章「文字とミメーシス」。
 ミメーシスと言語(文字)との関係を規定するため、ベンヤミンは「非感性的類似性」の概念を導入する。この「非」はたんなる否定ではなく、感性に先立ち感性そのものを可能にする「原感性」を指している。そうみなすことで、原ミメーシスを可能にしつつその彼岸に位置する起源の出来事に関係するものとして「非感性的類似性」を解釈することできる。「ベンヤミンのミメーシス概念は、イメージ経験の根柢にある類似性の経験、それも上で解釈したような意味での「非感性的類似性」の経験との連関のうちで究明されねばならない。」(372-373頁)
 
・ベンヤミンは、オノマトペが感性的な類似性によって理解されていることを批判する。語と意味の関係は非感性的類似性の概念によって説明しうるのであり、しかも音声言語と意味されるものだけでなく、文字のイメージ(文字像[Schriftbild])と意味されるもの、書かれたものと話されたもののあいだにも非感性的な類似性が支配している。(380-381頁)
(『ベンヤミン・アンソロジー』における山口裕之氏の訳註(同書198頁)。──「「文字像 Schriftbild」という語は、一般的には、たとえばローマン体やゴシック体といった、印刷における「書体」を意味する。ここでは、そういった一般的な意味と重ね合わせながら、まさに「文字 Schrift」のもつ「画像 Bild」そのものとしての機能、つまり、本来的には「意味されるもの」そのものとは結びついていない文字の画像性が問題となっている。この語は『ドイツ悲劇の根源』でも、「文字」のもつアレゴリー的特質を語る文脈で使われている。」)
 ベンヤミンが、「書かれた言葉が…その文字像[書体]と「意味されるもの」との関係を通じて、非感性的類似性の本質を照らし出す」(「模倣の能力について」)と言うのは、太古(古代・神話に先立つ過去)のイメージ体験を支配する非感性的類似性が、言語能力の行使のたびに何らかのかたちで働いているからにほかならない。(381-382頁)。
《非感性的類似性は、表意文字的なイメージが文字として固定されることによって、つまり物質的、記号的な基盤を持つことによって、衰弱していくのではなく、現象を文字として読むことのうちに、より確固として受け継がれる。
(略)
文字は一定の形態に固定されることで、逆に非感性的類似性が出現する基盤となる。同時に文字は伝達内容の保存に資する道具として用いられ、表意文字的な次元は抑圧されることになる。にもかかわらず文字は読まれる限り表意文字的なイメージの次元を保持する。読むことにとって必要不可欠なイメージは、逆にアルファベットにおいて最小限に還元されたかたちではあれ保存されるわけである。つまり、類似性を見るというミメーシスに源を持つ能力は、言語能力に変転し、残余なく引き継がれるのだ。》(『ベンヤミン──媒質の哲学』399-400頁)
・読むことは忘却されたもの(身体)を想起する試みでもある(401-402頁)。ベンヤミンはミメーシス論の第一稿「類似性の理論」で「魔術的な読み」と「世俗的な読み」の区別[*]を呈示し、第二稿では省かれた「読むことの理論」を展開している。(406頁)
《たとえば占星術師は星の位置をまず読み取る。天空のイメージは表意文字的なイメージとして受け取られる必要があるのだ。そしてこの表意文字的なイメージから、ある意味が、すなわち「未来ないし運命」が読み取られる。魔術的な読みにおいては、そのつどイメージを文字と見立てなければならないうえ、このイメージを文字として見出す、〈時〉と〈意味〉とは密接に関連している。魔術的な読み方において、意味は文字に堅固につなぎとめられてはいない。むしろ意味はつねに過ぎ去るものなのだ。したがって、世俗的な読むこと[アルファベットを読むこと──引用者註]の安定性と引き換えに失われたのは、意味との一回的な出会いそのものを読むという[魔術的な]読み方である。》(『ベンヤミン──媒質の哲学』407頁)
・ベンヤミンの後期言語論(ミメーシス論)において、魔術的な読みの可能性の条件として「名」が新たに構想されている。「イメージをそのまま言語へと反転させる可能性としての名」(413頁)。「イメージの翻訳可能性としての名」(414頁)。
《類似性の閃きが現在において一瞬のうちに過ぎ去るものならば、そして閃きの一瞬が同時に想起の瞬間であるならば、「類似性を見ること」(=イメージを見ること)を可能にするのはこの恩寵のような瞬間であるのであり、この瞬間はまたつねにすでに想起でもあるのだろう。そうであるとするならば、太古に位置づけられる原ミメーシスと同じ古さを持つものとして名が考えられているとは言えないだろうか。あるいは、「類似性を見ること」(=イメージを見ること)の可能性そのものを与える瞬間という時間が名であると言ってもいい。
 ところで、魔術的な読みは、まさにこの瞬間を再び想起することだとも言えよう。魔術的読みという行為が照準を定めるのは、イメージと意味が出会う瞬間であるが、まさにこの瞬間──類似性の閃くとき──に、同時に名が、あるいはその可能性が想起される。》(『ベンヤミン──媒質の哲学』415頁)
・読むことは「未来への想起」であり、そこでのみ名が「贈与」として与えられる。名が生きる時間、それはたんなる瞬間ではなく、「イメージと言語の出会いの可能性そのものを与え続けている最古の瞬間」なのであり、いわば「イメージの‘名’を保持している瞬間」なのである。
《…この瞬間の古さはイメージの太古、原ミメーシスの太古を指し示すのではなく、太古とともに潜在的に与えられていた未来の絶対的な古さを指していると読むべきだろう。(略)読むことが試みるのは、太古における未来、すなわち最古の未来を名において想起することなのである。》(『ベンヤミン──媒質の哲学』416頁)
[*]今福龍太氏は『身体としての書物』第11章「模倣、交感、墨書──ベンヤミン「模倣の能力について」」で、ベンヤミンのミメーシス論第二稿の「最大の謎」(と今福氏は書いている)である一文、「書く速さ、また読む速さが、言語領域における記号的なものと模倣的なものとの融合を高めるということも、ありえないことではない。」をめぐって、次のように書いている。
《われわれはゆっくり読むことで、言語が意味の合理性に組み込まれる前に、ベンヤミンの言うあの【蜘蛛の巣】にもう一度引っかかることができる、ということです。そして、難解だと言われるベンヤミンのテクストを、この講義では‘徹底的に遅く読む’ことで、つまり不可解で謎めいた表現をあっさり読み飛ばさずに立ち止まり、文字を指でなぞるようにその真意をゆっくり考え抜くことで、ベンヤミン的な書物論をめぐる別の理解のかたちをつくろうとしてきたわけです。》(『身体としての書物』264頁、【 】は原文ゴシック)
 「言葉のミメーシス」が、言語領域における「記号的なもの」(伝達的側面、意味の合理性)のうちに「埋没されたり回収されたり」することがないよう、文字を指でなぞるようにゆっくり考えながら徹底的に遅く読むこと、すなわち言語領域におけるもうひとつの側面である「模倣的なもの」(非感性的類似性)にかかわる「魔術的な読み」に徹すること。──そのような「読み」は、言語のマテリアルな帯域(=全身)における反復的な模倣行為、すなわち「反響的動作」にほかならない。
 
 ちなみに、文中の「蜘蛛の糸」は、『一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代』に収められた「幼年期の本」の一文、「あちこちのページには、かつて字を覚え本を読み始めた頃私を絡め捕った、あの網になった細い糸が、秋空の木々の枝に漂う蜘蛛の糸のように掛かっていた」(『ベンヤミン・コレクション3』502頁)を踏まえたもの。
 今福氏は同書第10章「ページに掛かる蜘蛛の糸──ベンヤミン「幼年期の本」「学級文庫」」で、「秋空の木々の枝に漂う蜘蛛の糸」とは、初歩的な読み書きができるかできないかの頃、読めない文字の線がぼんやりと絡まり合って細い糸の網の目のように見えたこと、つまり「幼い子どもたちが感じる不可解なつづり字への謎の感覚」を指しているのではないかと書いている。
《本を読もうとしても分からない文字が目の前にたくさん並んでいる状況を、視線の先にある木の枝にうっすらと網が垂れ下がっている風景として描写しているのでしょう。やがて蜘蛛の巣の網の目が少しずつ破れていって、意味がはっきり見えてくるという経験は、漢字のような複雑な表意文字だとより分かりやすいのですが、アルファベットのような音声記号化された文字においても同じような感覚があるはずです。》(『身体としての書物』229頁)
■根源的産出をめぐって─マテリアル篇(落穂拾い)
 
 森田團著『ベンヤミン──媒質の哲学』の議論を抜き書きしている間、脳裏に去来していた事柄をいくつか記録しておく。
 
 媒質による二項の根源的産出をめぐる森田氏の議論を私なりに咀嚼し定式化すると、次のようなものになる。(永井均オリジナルの独在性の符号を使って、aを〈A〉、bを〈B〉に書き換えると、より実相に迫り得ると思う。)
 
 M(a,b)⇒AmB
 
 ※M:根源的媒質(絶対的媒介)
  m:媒介
  A:自然、感覚、直観、対象、個別、…
  B:人間・精神・歴史、思考、悟性、概念、普遍、…
  ⇒:根源的産出(根源的媒質が消去され、A・Bの二項が自立する出来事)
 
 ついでながら、前章では十分に抽出できなかった森田氏のミメーシス論の構図を、「身分け・言分け」[*]によって区画される層構造のうちに粗描すると、次のようなものになる(第四層の設定をはじめ「若干」の改変を施している)。
 
【第一層】
 ・「身分け」以前の「太古」の世界
 ・「原ミメーシス」を可能にしつつその彼岸に位置する起源の出来事
  =イメージ経験の根底にある「非感性(=原感性)的類似性」の世界
 
【第二層】マテリアルな帯域
 ・「身分け」後かつ「言分け」前の「模倣する身体」(反響的動作)の世界
 ・「原ミメーシス」のはたらきによるイメージ(やオノマトペ)の産出(根源的産出1)
  =イメージを文字と見立て、意味との一回的な出会いを読む「魔術的な読み」の世界
 
【第三層】メカニカルな帯域
 ・「言分け」後の記号としての言語(アルファベット)の世界
 ・「模倣する身体」によるイメージから言語への変転(根源的産出2)
  =意味が堅固につなぎとめられた文字を読む「世俗的な読み」の世界
 
【第四層】メタフィジカルな帯域
 ・「言分け」後かつ「身分け」前の「意味」の世界
 ・第一層から第二層への変転(根源的産出1)を鏡像反転的に反復して導出される世界
  =「未来への想起」としての読むことのうちに「名」が贈与として与えらえれる瞬間
 
[*]私はここで、かつて斎藤慶典氏の著書から二度(第3章と第10章で)引用した、フッサール由来の「基づけ関係」を想起している。丸山圭三郎が提唱した「身分け」(身体的分節化)と「言分け」(言語的分節化)の区別をめぐって、斎藤氏は次のように論じていた。
《たとえば、これまでひとしなみに、十把からげてひとまとまりにしか見えていなかった路傍の草たちや森の木々が、草や木の名前を覚えることで急に生き生きと見えてくるといった経験をもつ人も多いのではないか。「言分け」によって、いわば世界の解像度が飛躍的に高まるのだ。
 もちろん、そうは言っても、何もないところで言葉がすべてを産み出すわけではないこともまた確かである。「言分け」はたしかに「身分け」を基盤にもち、「身分け」をみずからの不可欠の分身としている。「言分け」は、それだけで宙に浮いているわけではないのだ。「身分け」と「言分け」のこのような関係を、いったいどのように捉えたらよいだろうか。ここには、かつてフッサールが「基づけ」(正確には「一方的基づけ」)と呼んだ関係が成り立っているように思われる。これは、A、B二つの秩序があった場合に、一方(B)はみずからの存立のために他方(A)による支えを必要とするが、ひとたびその支えのもとに一方(B)が存立すると、それ(B)はみずからを支えている他方(A)を自身の内に包摂し・統御する、という関係である。このとき、AはBを「基づけ」ている、あるいはBはAに「基づけ」られている、と言う。したがってここでは両者の間に、決して逆転することのない(一方向的な)上下関係(階層秩序[ハイアラーキー])が成り立っている。すなわち、BはAなしには存立しえないが、AはBなしでも存立しうるのである。つまり、AはBの下にあり、BはAの上にある。
(略)
「言分け」が「身分け」をみずからの内に包摂し・統御するとは、具体的には、「言分け」による「現象」の分節化が「身分け」の内に浸透し、…雪の多様な形状を表わす言葉を習得することで実際にそれらを見分けることができるようになる、といった事態のことである。すでに「言分け」による世界の分節化が存立している私たちの下では、「身分け」の内にも深く「言分け」が浸透し、すべての「現象」は言葉によって統べられているのである。私たちの下では、「現象」するすべて(すなわち、世界)に言葉があまねく染み渡っており、「身分け」をはじめとする他のすべての「現象」形態は、いわば言葉を透かして見て取られるのだ。》(『知ること、黙すること、遺り過ごすこと』66-67頁)
 ここで言われる「基づけ関係」を「根源的産出」に倣って定式化すると、たとえば「a⇒b(A→B)」のようなかたちになる。(ここにA=身、B=心を代入すれば、身心問題の構図になる。)
 
■擬態と死の欲動をめぐって─マテリアル篇(落穂拾い)
 
 森田氏は、前期ベンヤミンのアレゴリーについての洞察を後期のミメーシス論によって基礎づけている。いわく、ベンヤミンは『ドイツ悲劇の根源』で、自然が死の手に堕ち(自らの「意味」を無媒介的に現前させることができなくなり)アレゴリーと化すことを堕罪の言語論的解釈によって説明した。
《同じことをミメーシス概念によって再解釈するならば、死は堕罪によってではなく、自然を二重化するミメーシスの作用によって生じることになろう。ミメーシスは、意味を孕んだものとして自然を表現すると同時に、自然を死したものとして表現する可能性を与える。ミメーシスの動物的な段階と言ってよい〈擬態 Mimikry〉が、死を模倣することともみなしうることを想起してもよいだろう。あるいは、…ミメーシスとはそもそも死の模倣を自らの極限として孕んでいる。》(『ベンヤミン──媒質の哲学』396頁)
 文中の「擬態」に触れた箇所で、森田氏は次の註をつけている。「ロジェ・カイヨワは、擬態の考察において、その現象の意味を死への欲動とも呼びうる傾向に結びつける方向へと進んでいる。つまり、有機物が無機物へと退行する線上に擬態が位置づけられている。(略)またラング[Tilman Lang]は、ベンヤミンのミメーシス論とカイヨワとの関係について論じる際に、ミミクリーをフロイトの死の欲動に結びつけている。」(503頁)
 カイヨワの擬態論(「擬態と伝説的精神衰弱」)は『神話と人間』(久米博訳)の第二部に(かまきりの神話作用を論じた章に続いて)収録されている。「…‘空間への同化による人格喪失’、換言すれば、それはある種の動物がまさに擬態によって形態的に実現していることである。」(117頁)
《存在を生命のほうへといわば極性化する保存本能とならんで、極端な場合にはもはや意識も感覚もなくなるような縮小した生存へと存在を極性化する一種の‘自己放棄本能’が非常に一般的に認められる…。それはいうならば「生の飛躍[エラン・ヴィタル]の無力化」であり、一般的法則の特殊事例である。その法則とは、どんな作用も、それが展開する過程で、その展開に応じて、その作用を阻止するような反作用をうみだそうとする、ということである。》(『神話と人間』124頁)
 カイヨワは『遊びと人間』(多田道太郎他訳)では次のように書いている。
《…昆虫の不可解な擬態は、…人間が変装し、仮装し、仮面をつけ、‘或る人物を演ずる’という趣味に、ひじょうによく似たものと思えてくる。もっとも昆虫の場合、仮面、仮装は作られた付属品ではなく、身体の一部となっているが。しかし、いずれの場合にせよ、それを身につけている者は外見を変え、他を威嚇するという目的はまったく同じである。》(講談社学術文庫『遊びと人間』55頁)
 これに付されたカイヨワの注。「この研究[『神話と人間』所収の「伝説に現われた擬態と精神衰弱」]の問題のとりあげ方は、現在の私にはあまりにも空想的に思える。いまの私は、擬態を空間的知覚の混乱とか非生物への回帰傾向とは考えない。ここ[『遊びと人間』]で提案しているように、昆虫の世界での人間の擬態の遊びに対応するもの、と考える。」(56頁)
 
 ちなみに、岡本和子氏は「「住む」,「歩く」,「書く」──ベンヤミンにおける模倣の身振り」のなかで、「擬態は生命維持にかかわる一種の模倣であるとする考えや、子どもの遊びと模倣の深い連関といった、自身の模倣理論を構成する重要な観点を、ベンヤミンはカイヨワから得ている。」と書き、森田氏が援用したラングの論文の参照を促している。
 
 養老孟司氏は『虫は人の鏡──擬態の解剖学』の「はじめに」で、「擬態を典型とするマクロ的な情報現象の分析は、基本すらまだ成立していない」と書き、「擬態として一括されている事例は、いわば「症候群」であって、単一の現象ではない」と論じている。以下、同書から、養老氏の(カイヨワ−ベンヤミンの系譜とは別の、いわば「生物−情報論」的観点からの)擬態・模倣をめぐる洞察を二点、抽出する。
 
 その1、写真家・海野和男氏との対談「偶然か必然か」から。
《擬態というのは、モデルがあって、誰かが真似をするわけです。これを、例えば鳥なら鳥が見てだまされるという構造になっていて、これは三者関係ですね。いわゆる従来の科学だとここで切っちゃうわけです。僕はここに人間を加えて、四者関係で擬態を考えてみたいんですね。擬態はそもそも不思議な現象なわけです。その、不思議だと思う自分の脳も含めて考えようとするものだから、整理しにくくて、往生してるんですが(笑)。》(『虫は人の鏡』63頁)
 その2、最終章「虫とヒト」から。
 いわく、虫は考えない。考えずにきわめて合目的的な行動を行う。ヒトが脳を使ってあれこれ考えてやることを「本能的に」(ゲノムに書かれた行動のプログラムにしたがって)やってしまう。ヒトの脳はそれを見てなるほどと思う。思ってどうするか。その「真似をする」のである。だからヒトの世界はどんどん合目的的な行動で覆われていく。「予測と統御の世界、脳化世界である。」(204頁)
《生物は遺伝子系と神経系という、二つの情報系を持っている。その生物は、大きな特徴として、合目的的な行動をする。
 それを本能的に、すなわち主として遺伝子系を介して行うのが虫である。他方、脳を介してそれを行うのが、ヒトである。もちろん、虫の場合にも、行動は脳を介している。
 しかし、その[昆虫の]脳に融通性がないから、ゲノムと行動を直結して考えて済む。他方、ヒトの脳も、ゲノムが用意する。しかし、〔ヒトの脳に〕可塑性が大きいことと、意識が邪魔をするために、われわれは自分の行動を、自分で「決めている」と思う。つまり、ゲノムではなく、脳がやっていると思うのである。事実、ヒトの行動は、ほとんど意識的である。
 それで脳がゲノムの「真似をする」ことの意義がわかっていただけるであろうか。
 ゲノムのほうが、進化上では、はるかに先輩である。それは、数十億年をかけ、合目的的行動を営々としてゲノムに組み込んできた。それによって原始的な脳ができたが、さらに大きくなった脳は、進化のその結果を、自己の構築に利用するのである。ゲノムでうまくいったのだから、安心して脳でも使える。そういうことになる。だから、ヒトにいたって、合目的的行動は「意識化」されるのである。》(『虫は人の鏡』206-207頁)
 以上、総論。ここからが擬態論。
《脳はどうも、自分のしているその「真似」に、どこかで気づいているらしい。だから、ほとんど「本能的に」、たとえば擬態に惹かれるのであろう。なぜなら擬態は、ゲノムが起こすできごとであるけれども、それを実際に支配しているのは、神経系だからである。鳥の脳が「これは同じだ」と判定するように、虫は自分の形や色彩を変える。そこには遺伝子系の変化が存在している。その変化を起こしたのは、鳥の神経系なのである。
 擬態はゲノムのすることなのに、脳がすることにソックリである。もちろんそれは、右の意味で、神経系の機能の反映だからである。脳はそこに自分の秘密を見る。十九世紀およびそれ以前の科学者たちは、虫がする本能的行動を見て感嘆した。これこそ神の設計にほかならない、と。かれらは進化を知らなかった。だから、本能のほうが先で、神経系がそれに従って形成されたことに気づかなかったのである。かれらは虫を見て、本能を「発見した」つもりだったが、発見したのは、自分自身の出自だった。いまでもそうは思っていない人は、たくさんいるはずである。脳はなにか特別で、心というはたらきを示す。虫は馬鹿の一つ覚えをくりかえしているだけだ、と。
 私が虫なら、ヒトを笑う。あいつらのやっていることは、われわれが何気なく、何の苦労もなくやることを、さんざん考えて、やっとの思いでやっているに過ぎない。(略)
 脳の基本的な機能は、アナロジーである。それはすなわち、真似ることである。あるいは並行した回路を形成することである。生物が原始的な神経系のなかに、進化の過程で試行錯誤で作り上げた回路は、われわれの合目的的行動に、基本的に利用できる。そうした利用が、まさにアナロジーなのである。
 擬態はやはりアナロジーの一種である。だからわれわれは、そこに自分の脳のはたらきを見る。だから私の場合は、擬態を見ると、ついヒトの社会を考えてしまう。ヒトの社会には、いわば擬態は蔓延している。それは、社会がヒトの脳で作られているからである。》(『虫は人の鏡』207-209頁)
 擬態という「情報現象」をめぐる養老孟司氏の(人間科学的)構図を、森田團氏のミメーシス論の構図と関連づけておく。
 
 ◎物質系      ∽ 【第一層】
 ◎情報系(遺伝子系)∽ 【第二層】マテリアルな帯域
 ◎工学系(情報学) ∽ 【第三層】メカニカルな帯域
 ◎情報系(神経系) ∽ 【第四層】メタフィジカルな帯域
 
■ライムとモワレをめぐって─マテリアル篇(落穂拾い)
 
 平倉圭氏は『かたちは思考する──芸術制作の分析』の序章で、「形象」(figure)を「多数の人間的・非人間的作用が絡まりあう、心的‐物的な記号過程の結び目をなす形」(10頁)と定義し、人間ではなく形象が思考することを「形象の思考」と表現している。そして、そのような形象の思考を内的に統御する「論理」、すなわち詩における「ライム(韻)」のシステムのような基本的な形式の候補として、ベイトソンに倣い「モワレ」(二つの周期的パターンが重ねられるときに現れる第三のパターン)を挙げる。
 モワレ的論理をめぐって、ベイトソン(『精神と自然』)は次のように書いている。「カニをエビと結びつけ、ランをサクラソウと結びつけ、これら四つの生き物を私自身と結びつけ、その私をあなたと結びつけるパターンとは?」「ヒナギクに見とれている者は、ヒナギクと自分との‘類似’に見とれているのではないか。」
《一見まったく異なると思われた複数種のパターンが重ねあわされるとき、モワレが生まれ、カニとエビ、あるいはヒナギクとヒトが共有する構造が見えてくる。それは差異のなかに隠された類似だ。ヒナギクとヒトは種を超えて「韻」を踏むのだ。
 前言語的精神[マインド]は、理性(reason)ではなく、韻(rhyme)を通して思考する。形象の思考の論理はモワレであり、モワレから現れる韻である。韻とは、複数のパターンを共鳴させるあざやかな結び目のことだ。》(『かたちは思考する』15頁)
 
《見る者は形象に近づき、また遠ざかりながら、形象を複数の眺めから抱握し、その眺めに自分自身がくり返し抱握され、形象と多重の「韻」を踏む。形象が十分に強く造形されるとき、見る者もまた波及的に「造形」される。そうして見る者の心身は、形象の思考を‘外的に延長する’記号過程の一部となる。形象の思考は、見る者が形象によって変形されることで、見る者において引き継がれる。
 形象と見る者との間に起こるこの関係を、「巻込(convolution)」と呼ぼう。「巻込」とは巻き込みであり、巻き込まれだ。見る者は自身の動きと知覚に形象を巻き込み(形象は巻き込まれ)、形象は自身の特異な布置のなかに見る者を巻き込む(見る者は巻き込まれる)。》(『かたちは思考する』17頁)
 巻込はなぜ起こるのか。「たとえば母語の獲得がそうだ。人は周囲で交わされる音声や身振りのパターンに巻き込まれ、またそれを巻き込みながら自己を形成する。巻込は、自己形成に侵入する強制力ある「模倣」である。」(18頁)
 ここで平倉氏はベンヤミン(「模倣の能力について」)の議論に言及する。かつて宇宙の諸事象と魔術的に「交感(コレスポンデンツ)」していた人類の「古い」力の残滓・痕跡が個体発生上の問題として「子供の遊び」にあらわれている。そして、「まったく書かれなかったものを読む」こと、すなわち内蔵・星座・舞踏から読み取る最古の読み方という、「最深部」の模倣に関するベンヤミンの言葉を踏まえて、次のように括っている。
《前言語的領域において私たちは、内臓や星座と「似る」ことでそれらを「読む」。それはいわば、内臓や星座のパターンとともに「踊る」ことである。しかし私たちはそのとき、いったい‘何を’読んだことになるのだろうか。内臓や星座に巻き込まれるとき、読まれたパターンはその意味をいかにして確保するのか。形象の読解に取り憑くこの不確定性を、くり返し問題化した一人の著者がいる。エドガー・アラン・ポーだ。》(『かたちは思考する』19頁)
 これ以後の平倉氏の議論(「形象読解の不確定性」に関するポーの長短小説・評論・詩、ロバート・スミッソンの「大地語」の概念、「外化された模倣体」やカイヨワの擬態をめぐる)は刺激的だが、ここでは割愛する。
 
■テレパシーをめぐって─マテリアル篇(落穂拾い)
 
 いま手元にあるベンヤミンのミメーシス論(初稿)の邦訳。
・道籏泰三訳「類似したものについての試論」(『来たるべき哲学のプログラム』(1992年12月))
・浅井健二郎訳「類似しているものの理論」(『ベンヤミン・コレクション5』(2010年12月))
・山口裕之訳「類似性の理論」(『ベンヤミン・アンソロジー』(2011年1月))
 このうち道籏訳には、付録として、ベンヤミンが残した「類似・模倣についてのメモ四篇」が訳出されている。どれも興味深い思考細片だが、ここではフロイトのテレパシー論の引用を取りあげる。
《もしわれわれが、テレパシーという考えに慣れてしまえば、これによって多大の効果をあげることができるようになるかもしれない。むろんこれは、今のところはまだたんなる空想の域を出るものではない。周知のことだが、大きな昆虫社会においてどのようにして集団全体の意志が成立するのかは、なお知られてはいない。もしかするとこれは、テレパシーのごとき直接的な心的伝達の道程を経て行なわれるのかもしれない。ついこう想像してみたくなるのだが、こうしたやり方こそ、個体どうしが意志疎通するための本来の太古的な方法なのであって、これが、系統発生的発展の途上で、感覚器官によって受信される記号を用いたよりすぐれた伝達方法によって駆逐されてゆくということである。とはいえ、このより古い方法は、その後も、背後に隠れたまま存続をつづけ、やがて何らかの条件がそろったとき、がぜん姿を現わしてくることもありえる。たとえば激しく興奮した群のなかにいるときなどがそうである。以上のことはすべてまだ不確かであり、いたるところ未解決の謎に包まれてはいるが、だからといって、驚いて尻込みするにはあたるまい。》(『続・精神分析入門講義』第30講「夢とオカルティズム」、『来たるべき哲学のプログラム』287頁)
 ベンヤミン自身がテレパシーに言及した文章を、「シュルレアリスム---ヨーロッパ知識人の最新のスナップショット」から引く。
《たとえばテレパシー現象のどれほど情熱的な研究でも、それが読むという行為(これはすぐれてテレパシー的な過程である[*])について教えてくれることは、読むという行為の世俗的啓示がテレパシー現象について教えてくれることの半分にも満たないであろう。あるいは、ハシッシュの陶酔のどれほど情熱的な研究でも、それが思考(これはすぐれた麻酔薬である)について教えてくれることは、思考の世俗的啓示がハシッシュの陶酔について教えてくれることの半分にも満たないであろう。》(『ベンヤミン・コレクション1』514頁)
 テレパシーで私が想起するのは、吉本隆明が『母型論』で書いていた旧日本語の世界、つまり自然物(磐ね、樹立、草の片葉)の発する音が言語になった世界だ。鎌田東二氏はインタビュー「言霊の世界」[https://www.toibito.com/interview/humanities/philosophy/1535/2]のなかで、「草木言語っていうのは、よく使われる言葉でいうとテレパシーみたいなものだと思うんですね。」と語っている。憑依も「テレパシーみないなもの」かもしれない。あるいは、受肉や啓示や直接伝達(キルケゴール)こそ「テレパシーみないなもの」なのかもしれない。
(ちなみに、鎌田氏は『南方熊楠と宮沢賢治』で、テレパシーと「二人のM・K」とのかかわりを取りあげている。潜在意識(アラヤ識)から発現する「静的神通」(テレパシー)などの神秘現象のメカニズムを探求したM・Kと、『銀河鉄道の夜』第三次稿でブルカニロ博士にテレパシー実験をさせたもう一人のM・K。)
 
[*]栗田勇著『日本文化のキーワード──七つのやまと言葉』に「面授、口伝にみる東洋的伝達方法」の見出しがついた文章があり、禅の不立文字や以心伝心、釈迦と迦葉の拈華微笑の話題がでてくるが(211−212頁)、それらもまた「すぐれてテレパシー的な過程」ではないかと思う。
 あるいは「書くという行為」もまたテレパシー的(表意=憑依的?)なのかもしれない。栗田氏は、ときに幼児の遊び書きのようにもみえる良寛の書をめぐって、次のように問うている。彼はなぜ書を書きつづけたのだろうか、書家として書を書くことが目的でないとしたら手段だろうか、何の手段なのであろう、分析すればするほどわからなくなる…。
《だが、私は思う。わからないのが正当な見方なのだ。そこに書というものに対するきわだった特徴がある。日本人にとっての芸、もしくは芸道というものの本質が現われていると思うからだ。
 書は、字としての意味を目指しているが、それらの字句はけっして、単一の確定した意味を持っているのではない。もともとが象形文字であり、画像的に意味を超えたある世界の意味を表象しようとしている。しかも多くの場合、その字句の背景に神話、伝説や経典、詩句をふまえていて、書はそのほんの暗示にすぎない。
 書を書くことは、その意味を形として伝達するのではなく、その言語の世界全体を、書くという行為を通じて体験することなのである。見るのではなく筋肉を動かすことによって、ほとんど無意識のうちに、智も情も意志も一体化した、ひとつの象徴化された世界の雰囲気を生きることである。》(『日本文化のキーワード』131-132頁)
 
(第49号に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」48号(2022.12.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第70章 人間の言語の三帯域論(マテリアル篇・承前)(中原紀生)
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