■モナドロジーと華厳経の世界
『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』の質疑応答で、「赤瀬川原平は、缶詰を裏返して、中に(?)宇宙全体が入っている「宇宙の缶詰」を創ったのですけど、私というのは、たくさん缶詰たちがいる中の、そういう一つだけ裏表がさかさまの缶詰みたいなものですよね?」という聴衆からの質問に、永井氏は次のように答えています。
《赤瀬川原平さんの話は知りませんでしたが、裏表が逆というのはとても心暖まる、いい話ですね。真ん中に裏表の逆な缶があって、宇宙はその中にある。しかし、その宇宙のなかにある他の缶たちも、それぞれとしては、やっぱり真ん中にあって裏表が逆なんですね。だから、本当の真ん中にある缶は、最初からそのことを見込んで裏表ということの意味を設定していなければならない。そして、そのことそれ自体は、宇宙の中の他の缶たちも、やっぱり同じ……というふうに、‘どこまでも’なっている。
とはいえ、これをライプニッツのモナド世界や華厳経の世界みたいに、相互の含み込み合いみたいな形で並列的に描いてしまうと、実態から外れてしまう。むしろ、原初の、真ん中の、裏表が逆の缶は、端的に逆で、そこから宇宙が始まるので、缶詰なんかじゃないし、もちろん逆なんかでもない。他の缶詰たちと同じなのに裏表だけが逆だ、なんてとらえ方は、後から創作されるほかはない。むしろ、これ以上違うものはないほど違う、他の缶詰たちとのあいだに、後から、裏表が逆であることを除いた共通性を見出して、自分もまた一個の缶詰であるとみなす。しかも、その洞察のプロセスを逆方向から他の缶詰たちにも押しつけて、たまたま裏表が逆なだけの同じ種類のものとみなす。だから、相手からもそうみなされているとみなす。一つの宇宙の内部でではあるけど、みなしあう。そのことによって、最初に言ったような描像が出来上がるわけですね。》(『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』49-50頁)
「ライプニッツのモナド世界や華厳経の世界」みたいな並列的な世界の描像が後から創作された話だ、というときの「後から」は、『私・今・そして神──開闢の哲学』で、「開闢それ自体が、その内部で後から生じた存在と持続の基準に取り込まれる。そのことによって、われわれの現実世界が誕生する。だから、現実は最初から作り物であって、まあ最初から嘘みたいなものなのだ」(43頁)云々と語られている、その「後から」と同義です。
ちなみに、永井哲学における「開闢」とは、「そもそもの初めから存在する(=それがそもそもの初めである)ある名づけえぬもの」が存在することを言い、そうした「名づけえぬものに、あとから他のものとの対比が持ち込まれて、〈私〉とか〈今〉とか、いろいろな名づけがなされ」(40頁)たり、(ここにも「あとから」が登場する!)、あるいは「それ以上遡行しようのない、名づけることさえできないはずの開闢の奇蹟が、その開闢の内部で、その内部に存在する一つの存在者として位置づけられ、名づけられ」(42-43頁)ることになる。
それでは、そのような意味で世界を開闢する神は、どの人間が〈私〉でありどの時点が〈今〉であるかを決定し、かつ変更する能力をもっているか。この問いに対する永井氏の答えは、たとえ神さまだってそんなことはできない、というのがカントの洞察であり、ライプニッツは、神にはそれが可能だと言った(と解釈できる)というもの(84頁)。
すこし先走りましたが、私がここで、モナドロジーや華厳経の世界への批判をふくむ永井均の議論を引いたのは、それが、前章の文脈から見て、とても興味深いことだったからです。
というのも、(法華経が説く重々無尽の縁起の世界を喩える「因陀羅網」(帝網、インドラの網)のイメージが、そっくりそのままモナドの世界を表現している、といったことも興味深くはあるが)、安藤礼二氏が『大拙』のなかで、最後の西田幾多郎は、無限(神)と有限(かけがえのない個)の絶対矛盾的自己同一をモナド世界に見出し、最後の鈴木大拙は、禅と浄土による「即非の論理」から華厳の「事事無碍法界」へと向かっていった、と書いていたからです。(安藤氏の論考「井筒俊彦と華厳的世界──東洋哲学樹立に向けて」(澤井善次・鎌田繁編『井筒俊彦の東洋哲学』第七章)によると、最後の井筒俊彦もまた、華厳的な光の世界へと進んでいった。)
そして、この点において、(この点においてとは、「純粋経験」⇒「言語アラヤ識・如来蔵思想・無(心)」⇒「華厳的世界・モナドロジー」とたどることができる思考の系譜に対する批判、あるいはこの際、先走りの作業仮説として述べておくならば、紀貫之以来の、漢字仮名混じり文がもたらした「日本的」思考の系譜に対する批判において、ということ)、永井均と柄谷行人の思考がきわどく接近し、「微細ではあるがしかしかなり明確な形をとった異論」(『〈魂〉に対する態度』108頁)を触発しあうように思われたからにほかなりません。
以上を前振りとして、これより、モナドロジーや華厳経の世界に関連する、柄谷行人と永井均の言説をそれぞれ交互に引用し、その微細な差異を味わっていきたいと思います。
(ただし、後者の華厳経の世界については、それ自体をめぐって書かれた文章ではなく、「一即多、多即一」あるいは無限(一なる神)と有限(多なる人間)の合一の経験(=純粋経験)を「超越の方向に考えていけば一神教的(キリスト教的)な神と人との関係となり、内在の方向に考えていけば仏教的な仏と人との関係となる。アートマンとブラフマンの「合一」(「梵我一如」)という考え方はヒンドゥーの「不二一元論」に固有のものである」(安藤礼二『大拙』第五章)云々とされる、その神人合一(受肉)と梵我一如をめぐる議論を引用することになる。)
■ライプニッツ症候群とライプニッツ原理(前段)
第一の話題。
柄谷氏は、『ヒューモアとしての唯物論』に収められた「ライプニッツ症候群──吉本隆明と西田幾多郎」で、竹内康二の論文「モナドはなぜ数多くあるか──ライプニッツにおける多元性の概念」に示唆を受けて、「外部性が実際は内面化されたもの、つまりシステムに属するものであったり、あるいは多数性が実際は単一性にほかならないような論理は、総じてライプニッツにさかのぼることができる」(128頁)と書いています。以下、その議論の骨子を抽出します。[*]
いわく、ライプニッツ的思考の急所は、それが「内面的関係の理論」(関係が実体のなかにふくまれるような考え)になってしまっていることだ。スピノザの実体と違ってライプニッツの実体(個体的実体=モナド)は多数的であるが、すべての述語・属性・関係が主語に内在するモナドロジーの考えのもとでは、実体の多数性(多元性)は関係を介してひとつの実体に統合されてしまう。
ラッセルは「述語は主語に含まれる」というライプニッツの原理を批判し、「関係は実体に還元できない」という原理を提起した。これによってライプニッツがスピノザ的一元論にずれ込む経路を遮断しうると考えたのである。そして自らの関係論を「外面的関係の理論」と呼んだ。「実体と関係とから成る世界が、ラッセルによれば、真に多元的と呼びうる世界である。」(竹内前掲論文)
《ラッセルのその後の理論がこれとどう関連するのかわからない。さらに、スピノザを単純に一元論と呼んでいいか疑問である。それはマルクスを一元論と呼ぶのと似たような見方である。私はむしろラッセルよりもスピノザの方に、「外面的関係の理論」への可能性を見いだしたい。しかし、竹内の指摘がライプニッツ、あるいはライプニッツ的な思考の急所を衝いていることは確かである。今日多数性とか外部とかいう者たちは、結局「内面的関係の理論」になっていしまっている。私が「独我論」と呼んできたのは、いわば「内面的関係の理論」だといってもよい。どんなに他者や共同体やポリフォニーなどを対置しても無駄なのだ。ポリフォニックな多数性は、けっして還元されないような関係の外面性をもってくることなしにありえない。「教える立場」とか「売る立場」という言い方で私がいおうとしてきたのはそのことである。そこにおいて自己または主体の側にけっして内面化されえない関係の外面性(非対称性)、したがって他者の他者性が存するからである。この場合大切なのは、他者とか外部という実体ではなくて、関係の外面性である。》(『ヒューモアとしての唯物論』132-133頁)
柄谷氏は、さまざまなライプニッツ的思考のタイプ、たとえばニューロ・サイエンス(ホロニックス)、ポストモダニズム、構造主義を挙げたうえで、まず、『マチウ書試論』で提起した「関係の絶対性」(けっして内面化しえない関係の外面性・偶然性)を、ライプニッツ的な「表出」概念にもとづく『言語にとって美とはなにか』において「内面化」してしまった吉本隆明を取りあげる。
《さまざまな個体がそれぞれ違いながら、同一的なものを表出しているというためには、いわば無限遠点を想定しなければならない。そうすると、個体は、無限を表出するものである。吉本が「世界視線」などという言葉を使いはじめたことは、とくに今日的な問題と関係しない。「表出」概念を突きつめていくと、ライプニッツがそうしたように射影幾何学の無限遠点のようなものを想定することになるだろうから。要するに、吉本隆明は六〇年代に後退した「内面的関係の理論」のなかで、たどりうべき道筋をたどり、最近では文字どおりわけのわからぬライプニッツ論を書くに至っている。》(『ヒューモアとしての唯物論』145頁)
柄谷氏はつづけて、「部分が即全体であり、全体が即部分においてある」ような──あるいは「部分が全体であるようなモナドロジー的なもの」として大東亜共栄圏をとらえた(154頁)──「生物学」(システム論)的な西田哲学を取りあげます。いわく、今日の支配的な言説(ポストモダニズム)は西田的であり、われわれを戦前の「近代の超克」に連れもどす。
《西田哲学においては、もともと関係の外面性(事実性)が消されている。主体にかかわるその深遠かつ高邁な考察のなかで、他者が抜けている。…西田のいう「我と汝」における「汝」は、相対的な他者ではなく、無としての絶対者でしかない。こういう外面的関係の消失は、彼の哲学から「歴史」を消すことと同義である。歴史とはまさに他者性としての事実性だからである。つまり、西田のいう「場所的弁証法」とは歴史性=事実性を消去するものだ。「歴史」が消えれば、それは基本的に「生物学」(システム論)にならざるをえないのである。》
ここで、「関係の外面性(事実性)」や「他者性としての事実性」や「歴史性=事実性」といったかたちで登場する「事実性」は、永井哲学のキーワードである「端的な事実」性につながっています。
[*]安藤礼二氏は『近代論』の第4章「場所──西田幾多郎論」で、柄谷のこの論考を取りあげている。以下は、その冒頭と末尾の文章。
《歴史は反復する。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。たとえば、八〇年代日本で勃興したポストモダン思想というもの(自己と他者、一と多、全体と部分、個と普遍の統一と調和、等々)には、なんら新しいものは存在していない。それらはすべて戦前の思考、いわゆる「近代の超克」論争で議論されたものの無意識的な反復でしかない。その反復を意識化しない限り、この日本という「悪場所」から外へ出ることなどできないであろう──。》(『近代論』231-232頁)
《確かに吉本はライプニッツを援用することで高度資本主義社会を肯定し、また西田はモナドロジーのヴィジョンを借用することで大東亜共栄圏を肯定した。柄谷の批判は両者の致命的な弱点を鋭くついたものである。廣松〔廣松渉『〈近代の超克〉論──昭和思想史への一断想』〕から柄谷にリレーされたこの知の地平からこそ、新たな歴史観の導入による西田哲学の解体と再構築がはじまるだろう。》(『近代論』232-233頁)
■ライプニッツ症候群とライプニッツ原理(後段)
私はむしろラッセルよりもスピノザの方に、「外面的関係の理論」の可能性を見いだしたい。柄谷行人はそう書いていました。たとえば、『探究U』第三部「世界宗教をめぐって」の第一章「内在性と超越性」で、柄谷氏は、「他者の超越性=外面性」をめぐって次のように論じています。
《スピノザは、神は超越的ではなく内在的であるという。言葉の上では、それは先にのべたキルケゴール[「キルケゴールのいう「使途」は、預言者といいかえてもよいが、彼らの言葉≠ヘ、けっして共同体の内部からきたものではないし、また内在化されることもない。」(242頁)──引用者註]と正反対のように見える。しかし、この「世界」をこえた超越者は表象[イデオロギー、想像物]にすぎないというとき、スピノザがいわんとするのは、他者との関係を超越できないということである。つまり、彼はまさにこの意味での他者の超越性(外在性)について語っているのだ。彼の倫理(エチカ)は、いつも「他者」との関係に向けられている。》(『探究U』(講談社学術文庫)243頁)
永井均の「世界宗教の外部へ―─柄谷行人『探究』批判」(『〈魂〉に対する態度』)によると、イエスによる他者の「発見」を通じて創り出された世界宗教には、もはやそれ以上の外部がなく、この「高階の等質空間」(柄谷はそれを「社会」と呼ぶ)には「善悪の彼岸」が存在しない。「私[=永井]は、柄谷が肯定する「世界宗教」の外部なき無限空間を肯定することができない。」(125頁)
永井氏は「外部なきものの外部を求めて」、柄谷による「デカルトのスピノザ化」に対する批判へと論を進めていきます。「デカルトのスピノザ化」とは、デカルト的な「この私」をスピノザ的な「この世界」(固有名によって表現できる「この人」)に置きかえること、すなわち、「本性上の唯一者、単独者であり、かつまた同時に、世界内属的な存在者ではなく、世界を開く(ただひとつの)原点、それゆえにまたある意味では世界そのもの、といってもよいもの」(129頁)をとらえそこね、もっぱら概念として、世界内属的なものとしてとらえることを指しています。永井哲学の表記法を使えば、独在性の〈私〉(のアクチュアリティ)を単独性の《私》(のリアリティ)としてとらえること、と言っていいでしょう。
ちなみに、永井氏は「デカルトのカント化」という言葉も用いていて、これは、デカルト的な「この私」をカント的な「私一般」に読みかえること、と説明されます。
《もし「外部」というのであれば、デカルトは、「教える─学ぶ」関係によって特徴づけられる、もはや外部なき社会空間の、そのまた外部を志向したのだ、といわざるをえないと私は思う。それはいわばスピノザ的な「無限」の、すなわち「神あるいは自然」の、そのまた外部なのである。
「疑う」というのは、そういうことである。そこには、たまたま「外部的な実存」になってしまった自己に対する疑いも含まれうる。デカルト的コギトは、「デカルト」と名づけられたその人物の単独性の、そのまた外部に「在る」のだ。だから、「なぜ私はここにいて、そこにはいないのか」という[パスカルの]問いをもしデカルトが立てたとすれば、それはなぜデカルトという人物がオランダにいてフランスにいないのか、という「現実的なものの偶然性」を問題にしたのではない。そのオランダにいるデカルトがこの私であるのはなぜなのか、という現実的なものの偶然性の「外部」にある偶然性を問題にしたのである。》(『〈魂〉に対する態度』131-132頁)
それでは、「外部なきものの外部」を求める、その後の永井哲学の軌跡はどのようなものだったか。そのあらましを、『私・今・そして神──開闢の哲学』の議論で確認しておきたいと思います。永井氏はそこで、「強いライプニッツ原理=デカルト原理」というアイデアを呈示し、いわば「デカルトのライプニッツ化」ならぬ(奇妙な言い方になりますが)「デカルトのデカルト化」を敢行しているのです。
永井氏によると、ライプニッツは真理を、@「神の知性」にのみ依存する概念・理性の真理と、A「神の意志」によって「現実に」創造される必要がある個体・事実の真理、の二種類に分類しました。「この分類において、神の知性を神の意志に吸収してしまうのが、デカルト哲学。逆に神の意志を神の知性に吸収してしまうのが、スピノザ哲学である。」(87頁)
正二十面体が可能であることが証明されれば、それは神の知性の中にあるあらゆる可能世界に同じように存在するのだから、「現実に」創造される必要はない。これに対して、三島由紀夫は個体概念として可能であることが証明されても、神の意志によって「現実に」創造されなければ、それだけで存在することにはならない。
それでは、現実に存在するのが割腹自殺した三島由紀夫だけなのはなぜか。その理由は「充足理由律」が与える。そのとき登場するのは、かの「最善観」だろう。しかし、神がどういう理由で現実世界(割腹自殺する三島由紀夫)を選択して創造したのであれ、そのとき神はいったい「何を」したことになるのか。
《この問いは、その‘概念自体がそれの現実存在によってしか理解できないもの’の存在によってしか答えられない。ライプニッツの場合、それはもちろん神である。(略)
概念自体が現実存在によってしか理解できないものの存在を、神の存在ではなく、私の存在と考えてみたら、どうだろうか。「私」という概念の意味がわかるには、まずは私自身が存在しなければならない。たしかにある観点に立てば、私は多くの「私」たちの一例であるにすぎない。しかし、一例にすぎないはずのものこそが、その概念にはじめて‘本当の’意味を付与している。だから、ここでは「現実に存在する」ことは概念が‘ときに’持ちうる性質なのでは‘ない’。私は、正二十面体とも三島由紀夫ともまったくちがうありかたをしているわけだ。それは、正二十面体とちがって‘現実世界’に、三島由紀夫とちがって‘必然的’に、存在するのである。
もしこのアナロジーが成り立つとすれば、神の世界創造とは、概念自体が現実存在によってしか理解できない‘もうひとつのもの’を創り出すこと、つまり、(神にとっての)他我問題の創出だったことになるだろう。》(『私・今・そして神』88-89頁)
(私は、「概念自体が現実存在によってしか理解できないもの」をめぐる言語現象こそ、かの「純粋経験」なのではないかと考えている。そして、神に匹敵する(神にとっての他者であるような)四つのもの、〈私〉、〈今〉、〈現実〉、〈感情(思ひ、心)〉をめぐる四つの私的言語なるものを考察したいと考えている。しかしここでは、これ以上この話題に深入りしない。というか、まだ準備ができていない。)
永井氏いわく、神がその自由意志によって可能性を現実性に変換することができるならば、逆に、この現実世界(や私や今)から現実性(アクチュアリティ)だけを奪い、その内容(リアリティ)をまったく変えずに、神の知性の中の諸可能世界の一つとして存在させることができる。それは、「ある観点[〈私〉の観点]から見れば、存在から無への最も根本的な変化である。しかし、別の観点[《私》や「私」の観点]から見れば、いかなる変化もないのだ」。
《もちろん、ライプニッツがそう考えたわけではない。三島由紀夫のような個体的概念は、一般概念とちがって必ず無限の述語を含むから、定義ということができない。もしすべての述語が同じなら同じ物なのである。これがライプニッツの「不可識別者同一の原理」と言われるものである。識別できないものは同じものであるということだ。ライプニッツの有名なモナドという概念は、この個体性にパースペクティヴ性がつけ加わって成立している。すべてのモナドは、それぞれ固有の観点から世界を表象するので、空間位置だけが異なる二つの同じモナドは存在しえない(別のモナドであるためには別の空間位置になければならない)、というわけである。つまり、私と私そっくりの他人との違いの根拠は、世界を表象するパースペクティヴが必ず少しは異なっているという点に求められることになる。
だが、そうではない。もしそのような区別しか存在しないなら、私と他人の違いは他人Xと他人Yの違いと同じということになってしまう。もちろん、他人Xと他人Yは別人である。それは今述べたようなライプニッツ的装置で説明できる。しかし、私と他人の違いはそのような違いではない。それは今述べたようなライプニッツ的装置では説明できない。
ライプニッツ自身の概念を使って、私はその違いをこう表現したい。‘まったく’そっくりな二つの世界が、一方は現実世界で他方は可能世界であるということが考えられるように、ちょうどそのように、‘まったく’そっくりな二人の人物が、一方は私で他方は他人であるということが考えられるのだ、と。つまり、神が一つの世界を選んで、知性を超えて‘意志’を行使するときに現れるその対比が、ここでもまた反復されるのである。》(『私・今・そして神』90-91頁)
以上、『私・今・そして神』の中心をなす(と、著者自身が「はじめに」で明かしている)第2章「ライプニッツ原理とカント原理」から、その第1節「ライプニッツのお勉強」の議論の一部を抜粋しました。
(『存在と時間──哲学探究1』に付録として収録された「風間くんの「質問=批判」と『私・今・そして神』」という文章のなかで、永井氏は、『私・今・そして神』の第2章(と第3章のある部分)が「現在の私の哲学的思考の出発点」になったと書いている。いま引いたのは、まさにその「現在の」永井哲学の開闢を告げる箇所にほかならない。私はこれまで、このあたりの文章を何度か読みかえしては、そのつど初めての「哲覚」的興奮を味わってきた。〈私〉と《私》あるいは「私」との根本的な差異を鋭く剔抉する別化性能と、〈私〉と〈今〉や〈現実〉をアナロジカルに対比させる類化性能の融合!
ここには、開闢と(開闢によって開かれた世界の)持続、独在性の〈私〉と単独性の《私》といった永井的概念と、神の意志と神の知性、現実世界と可能世界といったライプニッツ的概念、そして、現実存在(実存)と概念(本質)の区別をめぐる西欧中世哲学由来の概念[*]と、その永井的ヴァージョンである「現実性、アクチュアリティ」と「実在性、リアリティ」、等々の対となる概念群が、互いに折り重なって登場し、あたかも、その後の永井哲学の起点となる「たね」、あるいは「アラヤ識」か「如来蔵」のごときものをかたちづくっている。)
引用文の最後に出てきた「‘まったく’そっくりな二つの世界が、一方は現実世界で他方は可能世界である」とか、「‘まったく’そっくりな二人の人物が、一方は私で他方は他人である」といったことが、そもそも考えられるのかという問いをめぐって、永井氏は、これを肯定する「ライプニッツ原理」(何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ)とこれに否定的な「カント原理」(起こることの内的なつながりによって何が現実であるかが決まる)の区別を立てています(105頁)。
《ここには原理の対立があるのだが、ここで重要なことは、ライプニッツ原理とカント原理は、一方の原理によって他方の原理を包み込んで消滅させることはできない、ということである。
ただし、カント原理がライプニッツ的現実の内部でしかはたらかなくてもじゅうぶんカント原理だといえたのと同じように、ライプニッツ原理も、カント的に可能なもの‘の中からの選択’(そのうち一つの現実化)としてしかはたらかなくても、じゅうぶんライプニッツ原理だといえるだろう。可能性の空間をはじめてつくりだすような強いライプニッツ原理は、むしろデカルト原理と呼ばれるべきかもしれない。》(『私・今・そして神』126-127頁)
この、永井均オリジナルの哲学原理の区分を、その「強弱」に応じて並べると、次のようになります。
1 「強い」ライプニッツ原理=デカルト原理
2 ライプニッツ原理
・何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ。
・何が経験されようと経験するのはつねに私だ。
3 カント原理
・起こることの内的なつながりによって何が現実であるかが決まる。
・経験されることの内容的なつながりによってどれが私であるかが決まる。
4 「弱い」ライプニッツ原理
[*]神の意志と知性の区別、開闢と持続の対比、端的な現実世界(や私や今)と他のパースペクティヴから見た現実世界(や私や今)との差異。永井氏はそれらを「断絶」と呼び、その起点を西欧中世哲学に据える。
《…この「断絶」(つまり存在の本質からの自立)を史上最も早い時期に、強くかつ明確に主張したのは、中世イスラムの哲学者たち、とりわけアル・ファーラービーとイブン・スィーナ(ラテン名アヴィセンナ)であった。あるものが「何であるか」がどれほど明らかになっても、そこからそれが「現に存在する」ことが導かれることはない。中世風の用語で言うなら、これ性(haecceitas)は何性(quidditas)からは導かれない。存在は、そのものの本質を内的に構成する要素ではない。それはむしろ外から、つまり超越神の単なる意志によって、外的に付加される外的構成要素にすぎないのである。》(『私・今・そして神』101-102頁)
ここに出てきた「外から」は、「後から」とともに純粋経験をめぐる私的言語の議論にとってきわめて大切な役割をはたす。
なお、「断絶」をめぐって永井氏は、「ひょっとすると、言語の本質的な機能は、この断絶を否定することにあるのかもしれない。様相、時制、人称といった諸装置は、そのことによって生まれたのではあるまいか?」(97頁)と書いている。
■梵我一如とキリストの受肉(前段)
第二の話題。
『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』の付論「自我、真我、無我について──「気づき(サティ、マインドフルネス)」はいかにして可能か」から、永井均の文章を引きます。
《〈私〉の存在は、科学的であれ歴史学的であれ、この世界の客観的事実を超えた超越的な存在なのである。と、このように語るとき、それは(私が語っているからと言って)永井均のことを語っているのでもなければ、またもちろん一般的な自己意識としての「私」のことを語っているのでもない。実を言えば、それについて通常の言語で語ることはできないのである。だからじつは、ここでも語れていない。という意味では、実在してもいない。
そして、これが「真我」の真の意味であろう。バラモン教(やヒンドゥー教)の説くところによれば、それぞれの個我の世界である小宇宙は宇宙に遍在するその根本原理であるブラフマン(梵)と、通常は切り離されているのだが、アートマン(真我)という自分の真のあり方を自覚すれば、それと合一することができる。これは、世界にはたくさんの人間が並列的に存在し、それぞれに自我があるというような、通常の平板な世界解釈の内部でだけ理解しようとすれば、何やら神秘的なお話のように思える。しかし、そのような平板な世界解釈を超えて、端的な事実をありのままに捉えれば、むしろ端的な事実をありのままに語っているだけだ、と見ることもできるだろう。たくさんの個我たちのなかになぜか〈私〉が存在しているとは、つまり一人だけ世界(宇宙)そのものと合一している不可思議なものが存在しているということであり、じつのところはそうとしか捉えようがない(通常の平板な世界解釈では捉えられない)からである。そう捉えれば、「梵我一如」はむしろ単純で自明な事実にすぎないことになる。そのような捉え方によってしか、私はたくさんの人間のうちどれが私であるかを識別できないからである。
そして、この意味での真我はまた無我でもあらねばならない。なぜなら、それは本質的に属性を持たない空っぽの存在であって、そうでしかありえないからである。すなわち、それは必然的にだれでもなく、だれかであることができないからである。もしだれかとして(すなわち固有の属性を持った者として)捉えられてしまえば、そこには捉え間違えの可能性が生じてしまうが、そういう可能性は存在しないからだ。属性の違いによる識別は、ここではそもそも働いていない。だから〈私〉は、だれでもないどころか、何でもないのだ。しいていうなら、ただ‘これ’でしかない。それが‘何であるか’は決してわからないどころか、いやむしろ、それは‘何であるか’がない。
さらにまた、〈私〉は、科学的に捉えられる一般的事象でもなければ、歴史学的に捉えられる個的事象でもないのだから、この世界に実在してはいない。この世界に実在しているのは、属性の違いによって他の人々から識別される一人の人間(たとえば永井均氏という人物)だけである。彼が、彼だけが、なぜか〈私〉であるというあり方をしている、などという事実は、われわれの世界の中には実在していないのだ。その意味で、〈私〉は、無我であるどころかむしろ端的に無である。》(『世界の独在論的存在構造』289-291頁)
ここに話題として出てくる「梵我一如」の思想は、(前章で)『大拙』から引いた文章のなかに、鈴木大拙は自らの提唱する「東方仏教」(小乗と大乗を総合する仏教の如来蔵的展開)が、ヒンドゥー教の神秘主義思想ともキリスト教の神秘主義思想とも接合可能であると確信していたと書かれていた、そのヒンドゥー教の思想につながります。すなわち、内在(アートマン)と超越(ブラフマン)をひとつに結び合わせる不二一元論に。
また、文中に「世界にはたくさんの人間が並列的に存在し、それぞれに自我があるというような、通常の平板な世界解釈」とあるのは、「一般的な自己意識」としての「私」たちの、つまり、「だれかとして(すなわち固有の属性を持った者として)捉えられ」、「属性の違いによって他の人々から識別される一人の人間(たとえば永井均氏という人物)」たちの世界を描写するものです。
これに対して、先に引用した『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』の文章に出てくる、「相互の含み込み合いみたいな形で並列的に描」かれる「ライプニッツのモナド世界や華厳経の世界」の方は、同じく「並列的」であっても、これよりはもっと複雑です。というのも、それは、「この世界の客観的事実を超えた超越的な存在」という本質を持ち、あるいはそのような概念によって規定され、そして同時に、固有の属性によって捉えられ、固有名でもって他から識別されるところの単独性の《私》たちの世界を描写するものだからです。
これらに比べて、「端的な事実」として「超越的な存在」(=ブラフマン)であり、したがって「本質的に属性を持たない空っぽの存在」(=無我)であるところの独在性の〈私〉(=アートマン、真我)の世界は、ほんとうは、これ以上単純で明晰かつ判明な事実はないにもかかわらず、《私》たちの世界よりもっとずっと複雑で精妙な構造をはらんでいます。というのも、《私》たちの世界の並列的な描像こそがそこから、そして「後から」創作されるものだからにほかなりません。
さて、ここに三つの私が登場しました。私(=中原)はそれらに加えて、第四の類型を呈示したいと考えています。それは、第一の一般的な「私」(のうち、科学的・歴史学的要素を捨象した、純粋に言語的な「私」)と、第二の単独性の《私》とのあいだに位置づけられるものです。すなわち、たんなる言語上・文法上の存在ではなく、この世界に実在する科学的・歴史学的な存在(物質的・生命的かつ心理的・精神的な存在)としての私。この、第一の「私」から分岐してできた、いわば愛と経済の主体ともいうべき私のことを、ここで『私』と表記することにします[*]。
永井均解説による「梵我一如」の宗教的特性を、私をめぐる四つの表記を用いて表現すると、次のようになるでしょう。すなわち、〈 〉=〈私〉。この等式で、〈 〉はブラフマン(あるいは「空っぽの存在」=空虚な器)に、〈私〉はアートマンに、それぞれ対応します。そして、これと対比されるキリスト教の思想は、〈私〉⇒『私』と表記することができるでしょう。この「受肉」の定式において、〈私〉は父なる神(=〈 〉)に対する子なる神・キリストに、そして『私』はナザレのイエスにそれぞれ該当します。
[*]この第四の私は、『〈私〉のメタフィジックス』(永井均)の章立てで言えば、第U部「利己性[エゴイズム]―─『私』の倫理学[エシックス]」で論じられた利己的な『私』と、第V部「自己愛[ナルシシズム]─―“私”の人間学[アンスロポロジー]」でとりあげられた人間学的な(生物としての)“私”を合成したものと言える。
ちなみに、同書の第T部「独我論[ソリプシズム]──〈私〉の形而上学[メタフィジックス]」は独在性の〈私〉を対象とし、当初の構想で第T部と第U部のあいだに設けられるはずだった(と「あとがき」に書いてある)「自己中心性──「私」の論理学」の部が単独性の《私》を主題化するはずのものだった。その意味では、書かれざる第U部は「単独性──《私》の論理学」と命名されるべきだった。
■梵我一如とキリストの受肉(後段)
一般的な、あるいは日常言語における第一人称としての「私」。愛と経済の主体、あるいは生物学的・心理学的・社会学的存在としての『私』。「他でもないこの私」として固有名によって識別され、世界の内部にリアルに実在する単独性の《私》。アクチュアルな開闢の奇蹟、そしてリアルな属性や事象内容を持たない「空っぽの存在」(空虚な器)としての独在性の〈私〉。
これら四つの私について考える際、そこに他者という概念をもちこむと、それぞれの違いがより鮮明になるでしょう。たとえば「私」について言えば、「他者」もまた一般的な意味での「私」にほかならず、そこに「私=他者」という等式が(一般的に)成り立つのは見やすいことです。しかし『私』は違います。本質的には同じ生物種である(『私』∽『他者』)にもかかわらず、いやそうであるからこそ『私』と『他者』は両立(合一)しえず、友愛か抗争の関係を切り結ぶ(『私』≠『他者』、あるいは『私』⇔『他者』)。
《私》にとっての《他者》は「他者」や『他者』ほど単純なものではありません。宇宙の缶詰の比喩で言えば、《私》と、もう一つの《私》である《他者》とは、そのどちらがほんとうの「原初の、真ん中の、裏表が逆の缶」なのかが「どこまでも」定まらない。そして〈私〉に対する〈他者〉は、そもそもそれについて考えること自体が意味をなさない。なぜなら、もし仮にそれが〈私〉と同様、端的な事実として存在するのだとしても、「それが‘何であるか’は決してわからないどころか、いやむしろ、それは‘何であるか’がない」のですから。
柄谷行人は『探究T』の第十章「キルケゴールとウィトゲンシュタイン」で、「近代人はキリストを抹殺してしまった」というキルケゴールの文章(「キリスト教の修練」)をめぐって、次のように書いています。
《キリストが神であり同時に人間であるということは、別の意味では、彼が人間ではなく、また神でもないということである。キルケゴールがわれわれに指し向けようとするのは、そのような他者である。他者は、ヘーゲルがいうような、もう一つの自己意識(人間)ではない。彼は、われわれにとって“超越的”だから。しかし、彼は超越者(神)としてあるのではない。彼はありふれた無力な人間だから。他者との関係は、「超越者との関係」でもなく、「人間との関係」でもない。そして、そのような他者との関係こそが「現実的」(実存的)なのであり、それを「超越者との関係」や「人間との関係」に還元してしまうことが「キリストの抹殺」なのだ、とキルケゴールはいうのである。
すでにいったように、ウィトゲンシュタインは、「われわれの言語を理解しない者、外国人や子供」を、いつも思考の前提としている。彼にとって、それが他者のイメージである。しかし、一見して似ても似つかないものだとしても、このような《他者》の導入において、ウィトゲンシュタインはキルケゴール的だというべきである。
ウィトゲンシュタインにとって、他者とは、「われわれの言語を理解しない者」、つまり言語ゲームを共有しない者にほかならない。そして、コミュニケーションは、「直接的伝達」(キルケゴール)ではなく、それを可能にするものそのものの伝達(規則を教えること)のレベルにおいて考えられなければならない。「直接的伝達」は、言語ゲームを共有する者同士では可能である。また、その場合、その伝達を可能にする社会的規則・コード(超越者)をとり出すことができるだろう。しかし、それらは言語ゲームが共有化されたあとでの‘事後的な’説明にすぎない。それらは、コミュニケーションの基礎づけたりえない。むろん、私は、他者(言語ゲームを異にする者)とのコミュニケーションが不可能だといいたいのではない。その逆に、コミュニケーションが合理的には不可能であり基礎づけることができないにもかかわらず、現実にそれがなされている‘事実性’に驚くべきだといいたいだけである。このパラドキシカルな事実性を抹殺したところに生じる、合理的な基礎づけや懐疑論は、キルケゴール的にいえば、「キリストの抹殺」にほかならない。
われわれの文脈でいえば、キルケゴールはコミュニケーションの基礎的な在り方を提起している。つまり、イエスと弟子たちの関係は、「教える─学ぶ」関係である。イエスが「直接的伝達」をしないのは、それができないからだ。キルケゴールは、それがイエスが神人であり、弟子たちが人間だからだという。つまり、「単独者と神人とのあいだに横たわっている深淵は越えがたい」のであり、そこに「躓きの可能性があらゆる瞬間にあらわれてくる」という。
だが、躓くとは、イエスを《他者》とみなさず、勝手に自己流に理解してしまうことである。イエスの方が、弟子たちという《他者》の前で困惑している。この「深淵」あるいは「躓きの可能性」は「教える─学ぶ」という非対称的な関係に存する。そこでは、「直接的伝達」はありえない。》(講談社学術文庫『探究T』188-190頁)
ここで論じられた他者が、「もう一つの自己意識」としての「他者」でないことは明白です。著者自身がそう書いているのですから。それでは、柄谷氏が語っている他者は、リアルな実在性をもった単独性の《他者》のことなのか、あるいは、アクチュアルな事実性(現実性)においてとらえられた独在性の〈他者〉のことなのか。
前段の、キルケゴールが差し向ける他者すなわち「キリスト」は、われわれとの間に、「超越者との関係」でも「人間との関係」でもない「現実的」(実存的)な関係をもたらすとされています。ここに出てきた「現実」を、かの「空っぽの存在」(空虚な器)にかかわるもの(精確には、永井哲学の鍵概念である「現実性、アクチュアリティ」にかかわるもの)と理解すれば、キリストは紛れもない〈他者〉であると言えるでしょう。すなわち、{〈私〉⇒『私』}=〈他者〉。
これに対して後段の、ウィトゲンシュタインがイメージする(と柄谷氏が語る)他者、つまり「言語ゲームを異にする者」、あるいは、コミュニケーションの基礎的な在り方を提起した(と柄谷氏が語る)キルケゴールの他者の方は、微妙です。それはもはや〈他者〉ではなく、(柄谷氏がそう表記しているとおりの)《他者》でしかないのではないか。私には、そう思われます。
この論点は、永井均著『西田幾多郎』が提起した二つの問いのうちの第二のもの、すなわち、直接的に結合していない「私と汝」が言語を通じて相理解できるのはなぜか、という問題にかかわってくるものです。第一の問いは、言詮不及の純粋経験を(西田哲学は)なぜ語れるのか、というもの(貫之現象学に固有の問題)で、このことについては、次章から「私的言語」の問題として取りあげます。第二の問いは、これとはまったく別次元の問題(定家論理学を本籍とする問題)で、私の直観が告げ知らせるところでは、貫之現象学のC層にいたって、たとえば「言語ゲームと歴史」といった論脈のもとで取りあげるべきものです。
(ついでに書いておくと、私は、柄谷の「言語ゲーム」論に魅力を感じない。永井は「世界宗教の外部へ」で、「柄谷自身においてもまた[ウィトゲンシュタイン自身においてと同様]「「言語ゲーム」概念の画期性」は見失われている」(『〈魂〉に対する態度』116頁)と書いている。言語ゲーム概念の「画期性」とは何なのか。これもまた、貫之現象学C層の、最終的には定家論理学のテーマである。)
(44号に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。
Web評論誌「コーラ」43号(2021.04.15)
<哥とクオリア/ペルソナと哥>第61章 純粋経験/私的言語/アレゴリー(その2)
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