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Web評論誌「コーラ」
05号(2008/08/15)

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■定家論理学に包摂された貫之現象学

 富士谷御杖を紀貫之に接続することには、少しためらいがあります。というのも、丸谷才一著『日本文学史早わかり』によると、日本文学の歴史は五つの時代に区分され、万葉集の編纂を含む第一期「八代集以前」、古今集から新古今集までの第二期「八代集時代」(9世紀なかば─13世紀はじめ)につづく、第三期「十三代集時代」(13世紀はじめ─15世紀すゑ)から芭蕉が活躍した第四期「七部集時代」(15世紀すゑ─20世紀はじめ)までの長きにわたって、藤原定家は指導的な批評家でありつづけた、いいかえれば、第三期、第四期は定家の時代であったとしているからです。(ちなみに第二期の指導的批評家が貫之で、第五期「七部集時代以後」は正岡子規。)この丸谷説にしたがえば、本居宣長の後輩にあたる富士谷御杖も、定家歌論の磁場のうちにあることになります。
 にもかかわらず、富士谷御杖の歌論書『真言弁』(まことのべん)下巻に、「言霊とは、言のうちにこもりて、活用の妙をたもちたる物を申すなり」云々に始まる「言霊の弁」の章があって、そこに、「古今集序に、“力をも入れずして天地を動かし云々”と書かれたるは、すなはちこの言霊の妙用人の力の及ぶにあらぬよしを述べられたるなり」と書かれていること、また、「言霊の弁」の直前に「時の弁」の章があり、「歌の時あるは偏[ひとへ]心の末、ひたぶる心の終なり。畢竟これまでの所思を改め、所欲を捨つべきことにあふをば時とはいふなり。くはしくいへばこの時に彼我あり。我とは今までの所置にたがひ来れる情態なり。彼とは我が所思にたがへる事物なり。」云々とつづく文中に、「この故に、さるひたぶる心をば我が身のうちにさながら置くと、歌のうちに托するとのけじめは、時宜をあやまちあやまたぬのさかひにしあれば、誰かは歌よまであるべからん。古今集序に“花に鳴く鶯、水に住む蛙の声をきけば生きとし生けるもの何れか歌を詠まざりける”と書かれたるは、すなわちこの心[「言霊の弁」でいう「その時宜にかなへむことの難さにせめて歌によみてひたぶる心をなぐさめむとする心」]なり。」の一節が出てくる、たったそれだけのことを足がかりにして、富士谷御杖の歌論を紀貫之の歌論に結びつけようとすることには躊躇させられるというわけです。
 でも、それはそれ、たとえば、定家論理学のうちに包摂された貫之現象学の一つのあり様として富士谷御杖の歌論を読む、といったことは可能だと思うので、気をとりなおして先に進みます。

(丸谷才一の名がでたところで、余談を一つ二つ。丸谷氏の『新々百人一首』には、王朝和歌の歴史を一言でくくった言葉、「呪術としての詩はやがて社交の具としての詩となり、さらには藝術としての詩へと進化する──もちろん呪術といふ要素を幾分かは残したまま」という文章が出てきます。いま私が取り組んでいる貫之の歌の世界は、呪術性の上に社交性の華を咲かせたもの、いずれ取り組むつもりの俊成・定家の歌の世界は、同じく呪術性の上に藝術性の華を咲かせたもの、となるでしょう。そして、貫之歌論における言霊としての歌の効果は、ひとことで「呪術性+社交性」と表現できるし、仮名序の二つの心、すなわち、「よろづのことのは」へと成長する「人のこころ」と、「世の中にある人」が「心におもふこと」が、それぞれ「呪術性」と「社交性」に対応している、と簡単に定式化できてしまいます。
 ところで、この「社交性」は、松岡心平氏が『宴の身体──バサラから世阿弥へ』で、連歌は「言葉のまわし飲み」であり、連歌が張行される場は文芸における「一揆」的な場であったと書いていたことにもつながっていきます。「天使が通る」とか「三人寄れば文殊の知恵」という言い方がありますが、歌の宴であれなんであれ、その時その場にたちこめている言葉は、私の言葉でも座を共にする相手の言葉でもなく、非人称、無人称、「多重人称」、「原人称」、四人称、等々の名づけようのない次元から響いてくる、もしくは洩れてくる言葉で、その言葉に酔うことで私の躰が動かされていく。王朝和歌の「社交性」とは、たとえばそのような体験のうちに、いまも息づいているものなのかもしれません。そして、松岡氏の「一揆」という語から、たとえばアジールといった語への連想を通じて、そのような歌の空間が一種の政治の空間へと接続されていきます。
 それは、坂部恵氏が「日本哲学の可能性」で、日本の精神史における四つの転換期(九世紀、十四世紀から十五世紀、十九世紀後半、一九六○年以降)を、あたかも丸谷氏の日本文学史の時代区分に寄りそうようにして、また、ヨーロッパ精神史におけるほぼ同時期の転換期との並行関係においてスケッチし、そのうち十四世紀から十五世紀にわたる転換期の、日欧双方にわたる特質を「個(体)の思考」のキーワードで括り、「他の個と垂直の超越の絆を介して連帯する個という思想の掘り下げは、この時期日本で同時期のヨーロッパに並行して、十分ひけをとらないほど各思想領域で活発になされたことはたしかであり、この連帯の面での徹底が、かえってアトム的な個をまず擬制的に析出して(後の社会契約論にいたるまで)しかるのちに連帯と謝絶(抵抗権等)のありようを考察するノミナリズム的な[西欧流の]社会哲学の内発的展開をむしろ阻害するようにはたらいた可能性」があるとしつつ、「しかし、一方で、西田から西谷[啓治]にいたる現代日本の哲学者の多くが、共同体の問題を垂直の絆を含めて、ということは宗教(哲学)の考察を必須の到達点として思索していることは、日本の精神史的リソースのもつポジティヴな要素として評価することがすくなくとも可能だろう。」と書いていることと呼応しています。
 ちなみに、坂部氏のこの文章のあとに、第一章でも抜き書きをしておいたあの一文、すなわち、「リベラル・アーツ的な伝統ということをいえば、この時期の歌論(詩論において空海はその先駆者でもあった)、連歌論、その他多くの芸道論の類には、日本におけるひろい意味での哲学的制作に今後活用されるはずの多くの精神史的リソースが眠っているだろう。」がつづくわけです。それにしても、こうやって諸先達の業績にあらためて接してみると、浅学菲才の身で何をいまさら、との思いがつのってきて気が滅入りますが、それはそれ、気をとりなおして先へ進みます。)

■私思欲情としての「神」

 それでは、まず、尼ヶ崎彬氏の「言葉に宿る神――富士谷御杖」(『花鳥の使』)の「要約」を示します。

1.神道と歌道―「神」に形を与えること
 日本書紀に「悪解除善解除」(あしはらいよしはらい)の記述がある。悪を祓うだけでなく、なぜ善をも祓うのか。その解釈に数十年苦しんだと言う富士谷御杖は、人間は「理」と「自然」(善悪の彼岸)の二重の原理の下で生きているという考えに達した。
(1)私思欲情としての「神」
 御杖は、社会に公認された理(公理)に基づく「人道」と、自然(真理)に基づく「神道」を区別する。御杖が専ら取り上げる「神」(迦美)は、人間の外にある天神地祇ではなく個人の内なる神であり、これを定義して「私思欲情」とも言う。各「神」が抱く欲は全く私的なものであり、言挙げ不能である。「悲しい」という語で悲しみの観念は伝えられるが、悲しみの情は通じない。「言といふ物は神をころす」のである。
 では、「神」(私思欲情)の相互理解はどのようにして可能になるのか。ある「神」が他の「神」に「感動」するという現象によってである。感動を呼び起こす媒体(言行)は普通の言語や行為ではなく、真言(まこと)であり真為(まわざ)でなければならない。「神」はこの真言に感動して、他の「神」のありようを自らの内に再現・共有する(感通)。これが「神」による「神」の理解である。
(2)「ひとへごころ」と「ひたぶるこころ」
 御杖の神道は「神」の暴発を抑える倫理学(私思欲情の満足・変換・解消のしくみ)である。歌道はこれを補完するものとして、神道によっても抑えきれぬ「神」を鎮静させ、他の「神」の共感を通じて満足させる道である。
 人は「偏心」(ひとへごころ)、つまり私的な思いこみを抱く。この偏心を「時」(状況)に適合しない言行として外に出すと禍となる。しかし、その根である欲情が余りに深い時、この心は内に抑圧しきれない。この抑えきれない偏心が、やむにやまれぬ鬱情としての「一向心」(ひたぶるこころ)である。和歌は真言をもって一向心に「かたち」を与える。人がこれによって自らの鬱情を客体化し、認識することで、一向心は鎮静する(カタルシス効果)。
 詠歌の効果はもう一つある。他の「神」が歌を見て、作者の「神」に触れるとき、そこに「神」による「神」の理解(感動・感通)が起こる。一つの「神」が他の「神」の情態に感応し、同じ情を生ずるのである。真言を理解するとは、その意味を概念的に知るだけでなく、その情を共有することなのである。そして他者の理解を得たと感じることは、それだけで私思欲情を鎮静する今一つの道である。

2,倒語と表裏境―「神」の交通という奇跡
 それでは、歌が私思欲情としての「神」に形を与え、人が、つまり歌の詠み手以外の他の「神」がこれに感動することができるのは、いかなるしくみによるものか。「神」の相互理解を媒介する真言(まこと)とは、どのような言語なのか。富士谷御杖はこの問いに対して、「倒語の説」(作者が自らの「神」を「言霊」に転化するための技法)と「表裏境の説」(読者が言葉の中の「神」=「言霊」に出会うための解釈の階梯)をもってのぞむ。
(1)倒語の説
 「私」の内には、人の理(公的な規範)と「神」の欲(私的な情)とがある。理の主張は人を屈服させるが、「神」を感服させることはできない。欲をそのまま語る「直言」は他の「神」の反撥を招く。ではどうすればよいか。他の「神」が自ら動き、その「情」を喚起する契機となる言葉を用いることである。そのような言語を、御杖は「倒語」と呼ぶ。歌は、もっぱら倒語のために発明された形式である。
 倒語は、「詞のたえてなき所」である情を間接的に伝達する。これには二様あり、その一つは「花のちるをもて無常をおもはせ」る類の「比喩」である。あと一つは「外へそらす」こと、すなわち「妹を見まほしといふをば、妹が家をみまほしとよ」む類のレトリックである。中村雄二郎・坂部恵両氏が指摘するように、前者は、人生と花の共通項(無常)に注目する「隠喩」であり、後者は、情の生起すべき状況(妹)や結果などに隣接する具体的な事柄(妹が家)を語る「換喩」である。
(2)表裏境の説
 発話された言葉には、表・裏・境の三つの層がある。松という語は、「表」に松を指しつつ、「裏」に柏や榊をもつ。発話者が松の語を選ぶのは、柏や榊では伝え得ないもの、たとえば松が象徴する長寿を語るためである。この時、長寿への願いが松の語の「境」である。和歌も原理は同じである。「表」と「裏」が示すのは、ある「欲」とその実現を許さぬ「時」の事情である。表出できぬ一向心は鬱情となってわだかまり、この「欲」と「時」との葛藤状態が「境」となる。
 鬱情が形を得て歌に宿るとき、御杖はこれをも「神」と呼ぶ。中世歌論に言う「有心」や「余情」もこの「神」のことであると考える。作者の「神」が「活[いき]ながら歌にうつりとどま」ることによって、すなわち形を得た鬱情が一つの生命を得ることによって、それは「言霊」となる。どのようにしてか。御杖は言う。燧石が衝突によって、石の内にはない火を生ずるように。米と水が出会って、どちらにも含まれていなかった酒が生ずるように。「言語は無形也。詠歌は有形なり。」すなわち、「言霊」とは「言」を肉体として生きる一つの「神」(霊)である。

《人の「神」は内に隠れていて、普通目の当りに見ることはできない。しかし「言霊」に感動する時、あたかもその「神」に裸で出会い、これをじかに心で味わっているように思われる。考えてみれば、これは奇跡ともいうべき現象ではなかろうか。「神」と「神」との交通はこの奇跡によって可能になる。しかも歌の「言霊」は、既に亡い人の心さえ私の中に喚び起こし、これに出会わせてくれる。》

 一つ、補足します。
 倒語のうち「比喩」が隠喩、「外へそらす」が換喩であるとは、尼ヶ崎氏もことわっているように、中村雄二郎、坂部恵両氏の説です。中村説(『制度と情念と』)を是とする坂部氏の「ことだま――富士谷御杖の言霊論一面」(『仮面の解釈学』)は、この隠喩・換喩の分類が表裏境の説にもあてはまること、いや、むしろ表裏境における二分類が、「このゆえに古人その思ふ情をば、直にいはずして思はぬ花鳥風月の上に詞をつけられたる物なり」(『歌道挙要』)の倒語の説において極まったのだと解しています。
 坂部氏によると、富士谷御杖のいう「裏」とは、言語行為にあたってそのなかから選択のなされる類似語の一連の系列、すなわち「選択軸」にあたるものを意味しています。また、「裏をおす」(「表」に出た言葉の「裏」を知る)ことは、たとえば、「見に来たり、とばかり申せばもとより見たく思ひし故の事なる事は詞の裏にて聞ゆる事にて」の例のように、選び出された個々の語を並べて文を構成する「結合軸」にそった近接語の系列にかかわるもので、近接語の置きかえによって生ずる比喩の一形式としての「換喩」にかかわり、これに対して、「境」あるいは「境をおす」ことは、「“みる”といふ詞裏に聞くといふ事を持たりといふ事しらるれば、その間に聞くばかりにては不足なりしにといふ心自然と出づる」の例のように、類似語の置きかえによって生じる「隠喩」にあたるとされます。そして、「〈倒語〉の説は、このような詞の〈裏境〉を重んずる考えが、さらにつきつめられ、その極限にまで徹底されたところに形成されたもの」だ、と坂部氏はいうのです。

《御杖においては、倒語という、いわばことばの屈折の理論が、所思・所欲・ひたぶる心の屈折の理論を背景にもち、それと相応じ、またいわばそれを二重化する形で立てられていることにくり返し注意しておこう。現代の言語学の〈隠喩〉や〈換喩〉についての理論を、人間の欲望の屈折の構造分析に導入したラカンの行き方を、期せずして先取りするものが御杖にあるのは、御杖の思考が、このように人間の生死の場をひろく見渡すひろがりと深さをもっていたためにほかならないとおもわれる。》

 ここで、坂部氏がいう「心の屈折の理論」が、尼ヶ崎氏の論を圧縮した要約の「1」に、「ことばの屈折の理論」が同じく「2」に該当します。また、文中に「人間の生死の場をひろく見渡す」云々とあるのは、後に引く坂部氏の文章に出てくる「所思・所欲は、いわばひとたび死んで冥界に下り、彼我の心底を貫流する霊の生命を汲んで」云々を指しています。(なお、倒語の説は表裏境の説の極限だ、という坂部氏の主張に対して、尼ヶ崎氏が、倒語は和歌のレトリックを制作の側から見たものであり、表裏境はこれを解釈の側から見たものだ、としていることとの整合をはかるとすれば、こうなるでしょう。人は歌を読むこと(歌の詞の表裏境を知ること)によって歌詠みになる(倒語遣いになる)と。もちろん、むりに整合性をとる筋合いのものではない、といってしまえばそれまでですが。)

■独神論の語り

 富士谷御杖の歌論で、注目したいことは三つあります。その一は、「神」の定義。その二は、「せめて歌によみてひたぶる心をなぐさめむとする心」。その三は、倒語・裏境における隠喩と換喩。これらのうち、最後の点については、歌の伝導体(歌体)をめぐる考察のなかで、坂部氏がいう「ラカンを先取りする富士谷御杖」の実質を明らかにすること、具体的には、隠喩・換喩の理論を私思欲情としての「神」の屈折の構造分析に導入することを通じて、あらためて取りあげることとして(できるかどうかは、やってみなければわからない)、ここでは、第一、第二の点を中心に、少し立ち入って考えてみることにします。

 第一。人間の外にではなく個人の内にある私思欲情、それを御杖は「神」と定義したのでした。尼ヶ崎氏によると、「これは御杖一流の逆説的用語法であって、「私思欲情」は悪という我々の常識を挑発するための戦術である。」ということになるのですが、私としては、あえて、この御杖の神の定義を真にうけておきたいと思います。
 貫之には内面がない。このことと関連して、前章で、「和歌(みそひと文字)とは、世界の開闢とともにあったやまとうたの伝統のうちに結晶する心が、実生活における歌人の具体の心を使って自己を詠み出したものにほかならない」と書きました。ここでいう「やまとうたの伝統のうちに結晶する〈心〉」、これが〈神〉であり、この〈神〉は同時に「実生活における歌人の具体の《心》」、すなわち《私思欲情》としての《神》である。そして、〈神〉が自らを表現するためには、すなわち他の〈神〉と相理解するためには、実生活における複数の人のうちに分岐した具体の《心》を使って、言葉を発しなければならない。このような構図でとらえたとき、富士谷御杖の言霊論を貫之現象学の世界のうちに回収することができます。
 ただし、いま文字にした「他の〈神〉」などは言語の暴走がもたらす妄想以外のなにものでもなくて、結局のところ、〈神〉が他の〈神〉と相理解するとは、〈神〉が〈神〉自らを知ることと同義です。そして、この「〈神〉が〈神〉を知る」という構造が《神》の領域に及び、異なる相貌のもとで反復・模倣されることによって、「《ひたぶる心》としての《神》に「かたち」が与えられ、《神》が歌に宿ること」、いいかえれば、「《神》が《神》自らを知ること、端的に、「もののあはれ」を知ること」、すなわち、「《ひたぶる心》としての《神》を鎮めること」、という等式が成り立つことになるわけです。
 さらに、これは言語の遊戯に近いトリッキーな物言いになりますが、詠歌によるカタルシス効果をもたらす「《神》が《神》を知る」という現象を、ふたたび〈神〉の領域から見たとき、(そこから見た世界の「相貌」においては、ある《神》と他の《神》との区別など無意味ですから)、そこに、「これは奇跡ともいうべき現象ではなかろうか」と尼ヶ崎氏がいう、ある「神」と他の「神」との交通が成り立っている。いってみれば、独「我」論の語りならぬ独「神」論の語りが成り立っている、というわけなのです。
 ちなみに、いま述べた「言語の暴走」や「言語の遊戯」は、私がおぼろげに夢想している定家論理学の世界の開闢に関係してきます。それは、「言語の暴走がもたらす妄想」が、たとえば狂気の世界が、定家論理学がひらく世界の「相貌」の一つなのではないか、といったことを手がかりにして、定家論理学の世界に接近していこうという趣旨です。先の要約に、「鬱情が形を得て歌に宿るとき、御杖はこれをも「神」と呼ぶ。中世歌論に言う「有心」や「余情」もこの「神」のことであると考える。」とあったように、俊成・定家の「中世歌論」における「心」とは、もはや実生活における歌人の具体の《心》からは切り離されて、それが暴走によるものであれ遊戯によるものであれ、いずれにせよ言葉によってのみ世にあらわれる「主体」(ペルソナ)にかかわるようになったもののことであって、貫之現象学における〈心〉とは、その成り立ちを根本的に異にするものなのです。(富士谷御杖の歌論が、もしも、定家論理学のうちに包摂された貫之現象学の一つのあり様であるのだとすれば、それは、このあたりの事情によるものなのでしょう。)
 坂部氏の「ことだま」から、関連する文章を抜書きしてみます。「言霊の宿る歌の言は、所思・所欲の屈折をはらんでおり、時宜をやぶることのないがために、ついに為[わざ]・言行としてまっとうされることなくおわった主体・ひたぶる心の墓標にほかならないのである。/そのゆえにこそ、所思、所欲の屈折、「その時やむをえざるさま」は、日常の用のうちに使い捨てられることもなく、特定の主体からはなれ独立して、「おのずからとどまりて霊となる」のでもあろう。」「為[わざ]に出て時を破ることをせきとめられた所思・所欲は、いわばひとたび死んで冥界に下り、彼我の心底を貫流する霊の生命を汲んで、通常の言語の道のたえたところに、人称的帰属をもたぬ歌の言として、よみがえる。」
 また、「特定の主体からはなれ独立し」た心、あるいは「人称的帰属をもたぬ歌の言」に関連して、この章の冒頭に引用した御杖の「我とは今までの所置にたがひ来れる情態なり。彼とは我が所思にたがへる事物なり。」をめぐり、坂部氏は、「我といい彼というも、いずれも、いわば、全体的な〈情態〉という場の〈所置〉(今日流にいえば configuration の「たがひ来れる」こと、すなわち〈時〉の出現)とともに、はじめて、情態の地のなかから、分離された一定の図柄として分節化され、一定の規定を得て立ちあらわれてくるひとつの関係項あるいは変数の値にすぎない。」と書いています。
 これらの坂部氏の文章は、まさしく「ペルソナ」の問題をあつかう『仮面の解釈学』の最終節にちりばめられたものでした。貫之現象学が俊成系譜学による屈折を経て定家論理学へと「接続」されていく、そのありえない現場の情景が、これらの文章によって見事に言語化されている。私には、そう思えます。

(私思欲情としての「神」をめぐる若干の覚書。
 その一。「驚きとしての神」の説が成り立つのではないか。もしくは、「驚きとしてのクオリア=神」の説が。たとえば、ロレンスが『黙示録論』で、古代ギリシャ人の「神」について述べた言葉、「ある瞬間、なにかがこころを打ってきたとする、そうすればそれがなんでも神となるのだ」、「水に触れてそのつめたい感触にめざめたとするなら、その時こそまた別の神が、《つめたいもの》としてそこに現象するのである」には、神が出現するときの驚きが表現されてはいないか。また、かのヘレン・ケラーが流れ落ちる水に触れ、「手に触れているものを〈水〉という概念をもって捉え、この概念が『WATER』という記号によって表されることを知った」(『花鳥の使』)ときの驚きが。
 デカルトは『情念論』に、「驚き」はあらゆる情念(感情)の最初のものだと書いた。渡仲幸利氏はこのことに着目して、「デカルトと宣長」(『新しいデカルト』)で、「驚き」とは「だれにでも、いつでもある、物との最初の出会いをいうのではないだろうか」、「なにか純粋な全的な直観を指して、デカルトは「驚き」と名づけたにちがいない」と書き、このデカルトの「驚き」を宣長の「人の情の事にふれて感[うご]くはみな阿波禮[あはれ]也」(『石上私淑言』)に関連づけている。「デカルトにしても、宣長にしても、身体と行為とでは説明がつかないもの、身体を介していては見えづらいもの、すべての土台であるわたしたちの直観、物事を与えられたままに受けとめた全的なものを、まずとりあげている。それが、「驚き」であり、情であり、あはれである。」
 茂木健一郎氏が『クオリア降臨』で、クオリアという私たちの意識体験を織りなす「マテリアル」は、一種の「縮小写像」であり「結晶的表象」であると書いていた。「写像」や「表象」という語彙に目をつむれば、茂木氏がいう「縮小」や「結晶」は、渡仲氏がいう「全的なもの」と、つまり、「物との最初の出会い」がもたらす「驚き」もしくは「阿波禮」が、「すべての土台であるわたしたちの直観、物事を与えられたままに受けとめた全的なもの」そのものであるというときの、その「全的なもの」と、強く響き合ってはいないだろうか。
 その二。坂部氏が、「御杖のさめた目には、たんに外来の形式主義にたいしておのずからなるやまと心を対置するだけでは、ことはとうていおさまらぬであろうことがよく見えていたはずである。/ともあれ、宣長という巨峰に発する国学の流れは、よく知られているように、御杖よりも八歳年下の平田篤胤らによって、いわば真言[まこと]を公身と、情念を日常の政治的世界と、短絡する方向へと受け継がれ、それが主流を占めるものとみなされて今日にいたっている。」と書き、これにつづけて「やまと心の病患」に説き及んだ上で、さらに、「従来はひとつの傍流として比較的軽視されがちだった御杖にまでたちもどって」、「異霊[ことだま]を言霊[ことだま]のうちへと鎮魂する道をさぐってみることは、緊急の必要事なのではないだろうか」と、その富士谷御杖論を結んでいることは、「私思欲情としての神」の説が含意するものとけっして無関係ではない。私はそう思っている。
 妄想をふくらませると、先に引いた文章で、坂部氏が、「他の個と垂直の超越の絆を介して連帯する個という思想の掘り下げは、この時期日本で同時期のヨーロッパに並行して、十分ひけをとらないほど各思想領域で活発になされたことはたしかであり、この連帯の面での徹底が、かえってアトム的な個をまず擬制的に析出してしかるのちに連帯と謝絶のありようを考察するノミナリズム的な社会哲学の内発的展開をむしろ阻害するようにはたらいた可能性」があると書いていたことに関連づけて、そこでいわれる「アトム的な個」の擬制や「ノミナリズム的な社会哲学の内発的展開」を、御杖歌論のひとつの可能性として読み込み、はては、「言霊」とは「言」を肉体として生きる一つの「神」(霊)である、といった言い方のうちに「受肉」の秘儀を思わせる響きをききとり、ユダヤ=キリスト教的な一神教のごときもの、とりわけ愛の神としてのそれへの接近可能性を云々することすら、けっして言語の暴走や遊戯の類に堕した無謀な試みではないのではないかとまで私は考えている。)

■「いひいだす心」と「物の見えたるひかり」

 第二。富士谷御杖の歌論を眺めていて、とりわけ強く印象に残ったのは、「言霊弁」の次の文章でした。

《さてその霊となるはいかなるものぞといふに、所欲の筋は為[わざ]にいづべからぬ時宜の、その時宜にかなへむことの難さにせめて歌によみてひたぶる心をなぐさめむとする心これなり。さる心より歌のなり出たるなれば、言のうちに、その時やむことを得ざるさま、おのずからとどまりて霊とはなるにて候。》

 情欲のままに振る舞うと社会の制裁を受け、わが身は破滅する。そう思うとますます感情が募り、欲望は嵩じ、はては身も心も狂わんばかりになる。せめて歌にして外に表現することで、わが心を鎮めよう。そのようにして詠出された歌であってみれば、詞として「表」にあらわれたその「裏」に情欲のまま振る舞うことの断念が伴い、この表裏の「境」として「やむことを得ざる」心の情態が全体として立ち現われてくる。それこそが、つまり「せめて歌によみてひたぶる心をなぐさめむとする心」そのものが、歌の詞に宿る言霊の本体である。
 なんの変哲もない文章です。古今集仮名序の、「世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心におもふことを見るものきくものにつけていひいだせるなり。花になくうぐひす水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。」の説明として、とりわけ、尼ヶ崎氏がいうように、生ある者にとって詠歌が普遍的現象であり、かつ、「必然的である」ことの説明として、とても説得力があります。では、そのどこが強く印象に残ったのかというと、まさに、そのあまりにも変哲がなさすぎるところが、いってみれば、あまりに近代的すぎるその説得力の強さが気になったのです。平安時代の人には「内面」がなかった。それと同じことが近世の人にもいえるのかどうか、私には判りません。でも、判らないなりにも、富士谷御杖の所説の外見上の(近代主義的な意味での)判りやすさにまどわされてはならない、と私は考えます。
 この章の冒頭で引いた、「古今集序に“花に鳴く鶯、水に住む蛙の声をきけば生きとし生けるもの何れか歌を詠まざりける”と書かれたるは、すなわちこの心なり。」でいうところの「心」とは、いま引いた文中の「せめて歌によみてひたぶる心をなぐさめむとする心」にほかなりません。これは間違いがないところだと思います。この「せめて歌によみてひたぶる心をなぐさめむとする心」に二度も出てくる「心」は、いかにも(近代的な)自意識や反省意識のようなものを思わせます。しかし、そのようにとらえてしまうと、内面にわだかまる「ひたぶる心」の量的な強さと、これを反省的に認識し、言葉に託し表現することで自らを「なぐさめむとする心」の質的な強さとが掛け合わされることによって、作品としての歌の力(「言霊」の比喩によって誇張的に表現される、読み手の心に及ぼす歌の効果)が生まれる、といった判りやすい、そして平板な解釈がまことしやかに提示されてしまいます。
 もう、富士谷御杖の真意がどうだったか、などはどうでもよくなってきました。私なりの解釈を論証抜きで示します。坂部氏がいうように、「現代の言語学の〈隠喩〉や〈換喩〉についての理論を、人間の欲望の屈折の構造分析に導入したラカンの行き方を、期せずして先取りするものが御杖にある」のだとすれば、そして、そういえるのは、御杖の思考が「人間の生死の場をひろく見渡すひろがりと深さをもっていたためにほかならない」のだとすれば、御杖の「所思・所欲・ひたぶる心の屈折の理論」は、すでにして言語学の概念によって解析されうる対象として構成されたものだったのであり、かつ、そこでいう「心」は、純粋経験としての「場所」においては死に、同じく御杖の「ことばの屈折の理論」によって、「言語化された場所」において復活をなしとげるものだったのではないか。それが、坂部氏がいう、「時を破ることをせきとめられた所思・所欲は、いわばひとたび死んで冥界に下り、彼我の心底を貫流する霊の生命を汲んで、通常の言語の道のたえたところに、人称的帰属をもたぬ歌の言として、よみがえる。」ということの実質なのではないか。
 もう少しかみくだいていうと、御杖の「ひたぶる心」とは、実は身体のことなのであって、その心は言語で表現されてはじめて、それとして存在するものなのではないか、と私は主張したいのです。そして、同じく御杖の「なぐさめむとする心」とは、そのような言語表現へと向かう志向性のようなものを指しているのではないか、と私は考えたいのです。それこそが、貫之歌論における「いひいだす心」の本体にほかなりません。
(いま、「その心は言語で表現されてはじめて、それとして存在する」と書いたところを、〈心〉と《心》の記法を使って精確に表現すると、「その〈心〉は言語で表現されてはじめて、《心》として存在する」になります。また、「声は身のうち」という大森荘蔵オリジナルの思考を借用すると、貫之歌論にいう「花になくうぐひす水にすむかはづのこゑ」、あるいは、御杖歌論におけるそのいいかえであった「なぐさめむとする心」もまた、身体に属するものであり、かつ、身体と言語の両世界の「境」を行き来し、二つの領域を交差させる媒介のはたらきをしている、ということがいえると思います。)

 以上の議論と関係してくるのか、それとも関係しないのか、はっきり見定めた上でのことではありませんが、ここで、(「神ながら、言挙げせぬ国」において、歌を「いひいだす心」のはたらきを考える際)、決定的に重要だと思う坂部氏の文章を引用しておきます。それは、御杖が「歌一首の意は、ただ脚結の意なり。畢竟名は死物なり、脚結は活物なり。」という脚結(あゆい)の説、すなわち、歌における「てにをは」のはたらきの理論を、御杖歌論の「究極の到達点のひとつ」と讃えた一文です。
(脚結すなわち「てにをは」とは、「言の葉」ならぬ「言の端」のことです。仮名序にいう「人のこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける」の「ことのは」とは、実は「言の端」のことだったのかもしれません。そして、「畢竟名は死物なり、脚結は活物なり。」といわれる「名」つまり「詞」と、「脚結」すなわち「辞」との、歌における比重関係についていえば、貫之歌論にあっては、歌詞(うたことば)への付託法、つまり「見るものきくものにつける」ことよりも、「てにをは」のはたらきを使って歌を「いひいだす」ことの方が、むしろ大切なことだったのではないか。そして、「もののあはれを知る」とは、「詞」(もののあはれ=クオリアの言葉による表現、すなわち「死物」)を「辞」(志向性)のはたらきによって生きた「活物」へと転じることだったのではないか。また、「てにをは」もしくは「辞」とは、フィギュールの異称の一つなのではないか。私はそんなことを考え始めています。)

《〈ひたぶる心〉からの言霊の生成とはたらきにおもいをひそめ、詞の裏境や倒語に考えおよんだ御杖にとって、このような脚結についての透徹した思考は、その究極の到達点のひとつにほかならなかったはずである。「心うべき事はすべて両端をいはざれば、その理尽きざるを、片方ばかりをいひて、両端を知らする」ものとしての脚結は、所思・所欲の原初の分節のあり方を示し、世界を意味づける網の目のもっとも基本的な結節点を示し、さらにまた、歌の修辞にあっては、多く各句のしめくくりの位置に立つことによって、もはや人称的規定を脱した情念の深みの原初の律動さながらにつたえるものでもある。『和歌以礼ひ裳』に並べられた、脚結以外の部分をすべて空白にした多くの歌の群[*]は、このような脚結のはたらきを、おのずから示しているとみることができるだろう。
 ここには、中世の『手爾葉大概抄』に発して、宣長の『詞玉緒』、ほかならぬ御杖の父成章の『あゆひ抄』から、鈴木朖の『活語断読譜』にいたって一応の大成をみ、さらには春庭、時枝誠記にまで受け継がれて行く日本語のいわゆる〈辞〉についての思考が、その途次に結んだ、きわめて特色ある思索の結実がみられるのである。》

 それにしても、「人称的規定を脱した情念の深みの原初の律動」とは、言霊のあり様そのものではないですか。大岡信氏の『詩の日本語』にも、「日本語では、「言」の「端」にこそ霊妙な命が凝縮されている」とありますが、ここでいう「霊妙な命」もまた、言霊そのものです。この大岡氏の文章は、次のようにつづきます。「それはおそらく、「てにをは」というものが、ことばの総体の中でも最も敏感に、事や物の変容に関与し、変容そのものの姿を、芭蕉の言葉を借りれば、「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」(『あかさうし』)という、その「ひかり」の姿においてとらえ、いいとめることのできる要素だからにほかなるまい。」(大岡氏が『紀貫之』で、「あるものを見るのに、それをじかに見るのではなく、いわば水底という「鏡」を媒介としてそれを見るという逆倒的な視野構成」を語った際、その貫之の「鏡」が、遠く時代を隔てて、芭蕉の「ひかり」を反射している様が、大岡氏の脳髄に思い描かれていたのではないでしょうか。)
 貫之歌論における「ことのは」から、芭蕉俳論における「物の見えたるひかり」まで、さらには、「詞と辞の区別というのは、漢字と仮名で書く、その区別そのもの」と語り、また、「「てにをは」が西洋語におけるコプラ(繋辞)に対応している」と語った柄谷行人氏の「文字論」(『〈戦前〉の思考』)などに見られる、「詞と辞」をめぐる日本語文法論のあやしい展開を含めて、坂部氏がいうところの、御杖歌論の「究極の到達点」は、まことに底知れない深さを湛えて、現代にまでつながっています。(これらのことについてもまた、できれば西田幾多郎にかかわる局面に関連させながら、貫之現象学における歌体論のなかで一瞥し、さらに、インド・ヨーロッパ系の屈折語とウラル・アルタイ系の膠着語との関係をめぐる、『善悪の彼岸』でのニーチェの思索などを経由して、そしてもちろん本居宣長を迂回して、俊成系譜学の実質を考察する運びとなったあかつきの作業に委ねます。)

 ここまでで、「聲と言霊」の本編は(たくさんの事柄を次章以降に丸投げしたまま)一応の区切りをつけたいと思います。以下に述べることは、その補遺または余禄です。

[*]引用文中でふれられた、『和歌以礼ひ裳』(わかいれひも)という御杖の「特異な著作」に出てくる「脚結のみを残した一種の歌の稽古台本」の実例を、坂部氏の書物から孫引きしておく。

  ○○○○て○○し○○の○○○○○を○○○○○の○○○や○○らん
  ○○○○に○○○○にけり○○○○を○○とや○○む○○○とや○む
  ○○○○に○○て○○○の○○○せば○○の○○○は○○○からまし

 これらは、いずれも古今集(巻第一春歌上)から採られているもののようなので、その元歌と思われるものを拾っておく。

  袖ひぢてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらん(紀貫之)
  としのうちに春はきにけりひととせをこぞとやいはむことしとやいはむ(在原元方)
  世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし(在原業平)

■言語の成立という基底的な出来事

 前章からつづけて書いてきたことのなかで、どうしても手がつけられず放置している事柄が三つある。その一は、心が詞へ生長していくプロセスとはどのようなものか。その二は、言霊を云々するより前の問題として、そもそもなぜ詞もしくは言葉が他者に伝わるのか。その三は、「花になくうぐひす水にすむかはづのこゑ」と「ことのは」との関係(あるいは〈哥〉における〈聲〉と〈詞〉の関係、また、歌の姿=フィギュール(詞姿)としての仮名文字と「声」の関係)はいかなるものなのか。
 これらのうち最初の二つの問いは、永井均氏の『西田幾多郎』に(その「答え」とともに)出てきた。これまで何度かふれてきたが、大切なことなので繰り返す。いわく、「言語に云い現すことのできない赤の体験」のような、純粋経験について一般的に語る言語を、西田哲学はどこからどうやって手に入れるのか。答えは一つ、純粋経験それ自体が言語を可能ならしめる内部構造を内に宿していたから。またいわく、西田は、「他人と私とは言語とか文字とかいう如きいわゆる表現を通じて相理解する」、「音とか形とかいう物体現象を手段として相理解する」というけれども、直接に結合していない私と他人がなぜ「相理解」できるのか。西田の答えは、そんなことができるということがすなわち言語(言語化された新しい種類の場所)の成立そのものだというもの。永井氏いわく、「私は、西田がこの問いに答えることに成功したとは思わない(成功した人は今のところ誰もいない)」が、「しかし西田は、それがなぜ問いであるのか、なぜ哲学的な問いであるのか、そのことの意味を──ひょっとすると誰よりも──深めることに成功していると思う。」
 第一の問題に関連して、永井氏は、「純粋経験は、抽象的一般者を作り出す力を初めから内に持っている」とも書いていた。ここでいう「抽象的一般者」とは、実は、「何ものの一例でもない。ただ端的にそうあるだけである」ところの具体的一般者、すなわち、(超越的主語面と超越的述語面とが一致する場面において)、ただ「これ(ら)は、このとおり、こうなっている」としかいえない(いったい「どれ(ら)」が「どのとおり」に「どうなっている」のか、と問われても、ただ「これ(ら)が、このとおり、こうなっているんだ」としか答えられない)具体的一般者が、「なぜか似たものが寄り集まって、自らなる分類が生成し、さらに、あるものとそれのもつ性質(すなわち主語と述語)という組織化がなされていく」といった「自己自身を限定し、有限化していくための内部構造」にもとづく具体的なプロセス(場所の自己運動)を経て限定されたあり方なのである。

《かくして、「これ(ら)は、このとおり、こうなっている」は、「この色は、このように、赤である」、「この感覚は、このように、痛みである」等々へと、自己を展開していくことになる(ただし、そこに「色」とか「赤」という記号があてがわれるのはまた別の過程である)。こうした判断においても、そこに働いているのは場所の自己限定の働きであるから、真の主語は「この色」や「この感覚」ではなく、色という場所、感覚という場所、とつづく場所の系列である。
 この議論の肝は、色なら色の、実存と本質が、つまり生の質(クオリア)とそれをつかむ概念が、地続きである点にある。概念は外から質を規定するのではなく、無限個の概念を内に含んだ非概念的な質が、その内側からおのれを限定していくわけである。すなわち、「分節化されていない音声」が一つの言語表現になりうるのは、外部から「一定の言語ゲーム」があてがわれることによってではなく、分節化されていない音声を自ずと分節化させていく力と構造が、経験それ自体のうちに宿っていることによってなのである。》

 正直にいって、私は、永井氏の議論がちゃんとつかめていない。何がつかめていないかというと、純粋経験から言語へといたるプロセスと、具体的一般者から抽象的一般者へといたるプロセスとの関係をどう考えればいいのかが、である。
 永井氏は、具体的一般者について、「これ(ら)は、このとおり、こうなっている」としかいえないとしても、「それでも一応そう言えるのは、超越的主語面が超越的述語面によって包摂され、そこに原初的な判断が成立しているから」だと書いている。そして、「いや、そもそも判断はそこから始まるのだ。それは場所の自己運動である」として、先にも引用したように、「具体的一般者は、具体的であってもやはり一般者なので、自己自身を限定し、有限化していくための内部構造を内に宿している」とつづけているのだが、ここで、「そもそも判断は“そこ”から始まる」とされる「そこ」とは、つまり「原初的な判断」が成立する「そこ」とは、実は、言語という場所にほかならないのではないか。私はそう理解している。
 だとすると、永井氏が「純粋経験は、抽象的一般者を作り出す力を初めから内に持っている」というのは、純粋経験から言語へといたる(言語という場所が成立する以前の、あるいは「言語(空間)の外」における)第一のプロセスと、具体的一般者から抽象的一般者へといたる(「原初的な判断」が成立して以後の、あるいは「言語(空間)の内」における)第二のプロセスとを短絡させた、いわば中間省略命題ではないか。
 だから間違っているといいたいのではない。永井氏が、「色なら色の、実存と本質が、つまり生の質(クオリア)とそれをつかむ概念が、地続きである」とし、別のところでは、「論理的推論と生の事実、つまり本質と実存は連続している」と書いているそのプロセスとは、実は、中間省略された「純粋経験⇒抽象的一般者」という命題を構成する二つのプロセスのうちの後段、つまり「具体的一般者⇒抽象的一般者」を指すものなのであって、前段の「純粋経験⇒言語」の方は手つかずのまま残っているではないか。そういいたいのである。

 そんなことは当たり前だ、なぜならそれは「言語の外」の出来事なのだから。ビッグバン以前の(あるいは、アインシュタイン方程式が通用しないプランクスケールにおける)時間や空間を問うことがナンセンスであるように、言語の成立以前の出来事について言語を使って云々することはできない。言語以前を言語で問うたところで、それは何も問うていないのと同じことだ。──そんな「無からの創造」みたいな神学めいた話をもちだされるとそれまでで、言語を使った思考は停止するしかなくなってしまう。たとえば言語の生成を組み込んだ宇宙の進化といったことを考えて、物質から生命へ、生命から精神、言語へという進化の過程を問うたり、あるいは人が言語を修得する過程を問うのであれば、「言語以前を言語で問う(思考する)」ことは有意味に成り立つではないか。
 そうではない。そうした科学の言語が扱うのは、結局のところ、具体的一般者としての《宇宙》(物質や生命や精神を経て、やがて言語そのものを生み出す内部構造をもった宇宙)や《心》(いずれ「ことのは」へと生長する種としての「人のこころ」)が、抽象的一般者としての「物質」や「生命」や「言語」へと分節されていく過程を、そのような過程を通じて生まれた(かどうかはともかく、そのようなものとして仮定された)言語を使って記述しようとすることであって、いずれにせよ「言語の内」での結論先取り式の議論でしかない。──それをいうなら「純粋経験それ自体が言語を可能ならしめる内部構造を内に宿していた」や「人のこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける」も所詮、言葉を使ってはじめてそういえることではないか。「言語の外」や「言語の内」だって同じことだ。「言語の内」におけるプロセス(具体的一般者⇒抽象的一般者)、つまり言語という場所が宿している内部構造は、「言語の外」で遂行されるプロセス(純粋経験⇒言語)と平行している。いや、平行しているかどうかはともかく、何らかのかたちで関係している(「純粋経験⇒言語」のプロセスを「具体的一般者⇒抽象的一般者」のプロセスが同型的に反復している、等々)。それどころか、そもそも「言語の外」それそのものが「言語の内」で構成された概念だともいえる。だから、「言語の内」を語ることが、実は(本来語りえない)「言語の外」を語ることなのだ。
 いや、「言語の外」と「言語の内」はそのような対称関係のうちにあるものではない。「言語の外」とは、「言語の内」において(内と外との対称関係のもとで)いわれる外よりもっと外のことなのだ。むしろ、「言語の内」においては無としか語りようのないものなのだ。精確には、「言語の内」において(有と無との対称関係のもとで)いわれる無よりもっと無いことなのだ。──それは、「今日は何もないから、カレーにした。」「何もないって、カレーがあるじゃないか。」というときの、そのカレーさえ無いことか?

 自問自答はおしまい。私がいおうとしていることは、永井氏自身によって、とうに指摘されている。いわく、(純粋経験、開闢の奇跡としての独在性の〈私〉の方へ向かう)西田現象学は、(具体的一般者、複数化された開闢の奇跡としての単独性の《私》の方へ向かう)西田論理学によっては捉えられていない。それに、純粋経験から言語へのプロセスが解明されるということは、あの「成功した人は今のところ誰もいない」問いが解けるということでもあるのだから、結局、私がちゃんとつかめていない議論は、言語の成立という、根源的かつ基底的な出来事をめぐるものだったのだ。
 そもそもこの論考は、「言語の内」にある二つの言語の関係を、すなわち、「これ(ら)は、このとおり、こうなっている」のようなかたちで表明される私的言語と、先ほどの自問自答にでてきた科学の言語との関係を、「言語の外」という次元におきかえて探求していこうとするものだった。いいかえると、「体験は言葉と独立にそれだけで意味を持ちうる。言葉の意味もまたそういう体験にすぎないのだ」とする西田(=貫之)現象学における「強い私的言語」と、「言葉は体験と独立にそれだけで意味を持ちうる。「体験」もまたそういう言葉にすぎないのだ」とするウィトゲンシュタイン(=定家)論理学における「強い言語ゲーム」とをむすぶミッシング・リングを探求しようというものだったはずなのだが、それよりも先に、そもそものことの発端であった言語の成立という問題が手つかずのまま放置されていた。それだけのことだ。

(練られていない註を三つ。その一。いま例としてあげた「科学の言語」は、より一般的に「公共言語」といってもいいし、さらに、これはうかつな言葉遣いになるのかもしれないけれど、日常の言語や科学の言語はもちろん、「私=世界という場所」をめぐる西田現象学の議論を「言語化された場所」に適用した西田論理学を含めて、もっと一般的に「言語ゲーム」といってもいい。
 その二。強い私的言語の棲息地である「言語の外」と区別するために、強い言語ゲームは「言語の外」にあるというよりは、むしろ「言語(消滅)の後」にあるというべきかもしれない。同様に、強い私的言語は「言語(誕生)の前」にあるというべきかもしれない。
 その三。以前、第三章で使った記号をもう一度、少し加工して使いまわすならば、貫之現象学の世界を表示する「Q⇒P(q→p)」と、定家論理学の世界を表示する「(p→q)P⇒Q」とが、言語の成立という根源的かつ基底的な出来事をはさんで対峙している。私の構想で、この二つの世界をつなぐことになっている俊成系譜学は、「P(q=p)=Q(p=q)」とでも表記しておくことできるかもしれない。)

■声の力─身体の振動と言語の振動をつなぐもの

 で、第三の問題はどうなったのか。「こゑ」はどこへいったのか。このことについては、歌体論(伝導体論)をめぐる議論のなかで、また、貫之現象学における強い私的言語をめぐる議論のなかで、(できれば、幸田露伴の「音幻論」やデリダの『声と現象』などにもあたりながら)、あらためて取りあげたいと思っている。ここでは、その準備をかねて、前田英樹著『言葉と在るものの声』の結末部分から、そのさわりの箇所を抜き出しておく。前田氏はそこで、ソシュールのいう「ラング」(潜在的な言語単位の持続)が「パロール」(心の作用や物の存在に対して効果をもつ言語表現)へと現働化するためには、質料世界に属すると同時に言語世界にも通じている「ランガージュ」(言語能力)の力によらなければならない、と書いている。

《この力とは、一体何なのか、それはどこから来るのか。ソシュールの言う「ラング」の存在は、こうした力の結果なのか、原因なのか。ラングの在り方を、その「第一次性」(パース)を究めていくほど、そのいずれでもないことがわかってくる。言語学者ソシュールは、その地点で口を閉ざした。ラングの起源は、生命の起源と同じくらい、問うことが困難なものだ。それを問う科学者の知性の限界で、限界に応じたさまざまな答が現われてくる。
 けれども、「ランガージュ」を想定することなしに、「ラング」の潜在的持続を、質料世界におけるその現働化を考えることは、ついにできないだろう。すでに見たように、空海はこうした力を「声」と呼んだ。「声」は「字」を引き寄せ、「字」のなかに「実相」を顕われさせる。「声」は、万物、万象の動きから生じる。「内外の風気、わづかに発すれば、必ず響くを名づけて声といふなり。響は必ず声に由る。声すなはち響の本なり。声発[おこ]つて虚しからず。必ず物の名を表するを号して字といふなり。名は必ず体を招く、これを実相となづく。声と字と実相の三種[さんじゅ]、区[まちまち]に別れたるを義と名づく」(『声字実相義』)。「声」が起こらなければ、「字」は沈黙している。起これば、「必ず物の名を表する」。物の名となることに向けて、言語記号は収縮する。「名は必ず体を招く」。つまり、収縮した言語記号(「名」)は、質料世界の内側に入り込み、そこで効果を持つ。
 「声」と「字」と「実相」との存在論的区別(「義」)は、なくてはならないものである。「声」の力と質料世界の生命的な力(実相)とは、互いに異なる。前者だけが、言語と生との両側に直接に通じ、二つの弛緩と二つの収縮を結び付ける。生は、それ自体において収縮と弛緩とを繰り返す。言語は、「声」の力の緊張と共に収縮し、その弛緩と共に弛緩する。「声」が弛緩の果てに達すれば、言語は潜在的なシニフィアンの不確かな連鎖となり、言語単位はその区分を融解させていく。「声」の力が緊張していけば、言語の収縮は、生の収縮に重なり合い、そこで生にとっての意味や効果を引き起こすのである。》

 ソシュールの「ランガージュ」と空海の「声」。それこそ、仮名序の「いひいだせる」だ。(「辞」による「陳述」が、西田幾多郎や御杖、宣長を介して、貫之の「いひいだせる」とどこかしらあやしい関係を結んでいそうな気がする。また、「声」が引き寄せる「字」と、貫之の仮名文字との関係もあやしい。これらもまた後の考察に委ねる。)
 いま一つ、抜き出しておく。先の引用文末尾の「生にとっての意味や効果」について、前田氏は、それは「質料に入り込む一種の振動のようなもの」であって、「しかじかの心の作用、物の存在に関わっていない」一般的で辞書的な意味ではないとし、マラルメの「こうした状態にあって、歌が湧きあがって来る。歌とは軽やかにされた喜びである。」(『詩の危機』)の引用につづけて、次のように記している。

《「歌」は、心を揺るがす純粋な振動であればいい。その振動は、「軽やかにされた喜び」という至高の効果を持つ。それがマラルメの信じたことだった。「歌」が軽やかなのは、それが事物や観念に片時も留まっていない進行そのものだからだろう。(略)
 むろん、「歌」には「歌」であることのさまざまな度合があり、度合がもたらす質の差異がある。けれども、そこでの〈言語的収縮〉は、日常生活の必要をはるかに超えて大きい生の収縮、記憶の収縮に入り込むのでなくてはならない。大きく弛緩したものだけが、まさにその分だけの大きな収縮を為すことができる。このことは、言語においても、生においても同じように言える。言語における大いなる弛緩は、純粋なシニフィアンの限りない持続にまでいく。生における大いなる弛緩は、純粋な記憶の限りないニュアンス、記憶の最も拡張された平面(ベルクソン)にまでいく。これら二つの大いなる弛緩は、まさにその水準からの収縮において結合することができる。前者が後者に入り込み、身体を貫く振動を言葉の振動に転換させることができる。このような、二つの大いなる弛緩からの唯一の収縮、現働化は、滅多には起こらない。有用な生活のほとんどのケースが、それを必要とはしていない。しかし、それは起こりうる。起こりえたその収縮を、マラルメは「歌」と呼んでいるのである。》

■意識の内と外

 詞の表・裏や言語の内・外といった語彙には、居心地の悪い思いがつきまとう。それらの概念をつかみ、使い分けていると思っているけれど、逆に、それらの概念によってつかまれ、使い分けられているのではないか。私が考えているのではなく、私を使って詞や言葉が考えているのではないか。そんな疑いが、ときおり強い実感をともなって明滅する。
 表と裏が連続するメビウスの帯。内が外に通じるクラインの壺。未来(最後に来るもの)と過去(最初にあるもの)がループする夢幻の橋(ボロメオの輪のごときもの)。そうした幾何学的形象の内部にはまりこむと、「甲の中に乙があり、その乙の中に甲があり、その甲の中に……」と定式化できる入れ子式のフラクタル構造のうちにからめとられてしまう。永井氏の『私・今・そして神』には、この甲と乙にそれぞれ「私的言語」と「言語ゲーム」が入ったものが出てくる。また、『なぜ意識は実在しないのか』には、「現象的」と「心理的」、「現在(今)」と「過去・未来」(これは『私・今・そして神』にも登場した)、「私」と「他者」、「現実的」と「可能的」といった例が、相互に類比的な「累進構造」として出てくる。
(さきほどの「幾何学的形象の内部」も、これと対になる「幾何学的形象の外部」とともに、そのような入れ子式のフラクタル構造のうちに、ただし、より複雑化した高次の構造のうちにからめとられてしまうだろう。ちなみに、連分数や無限集合などの内部にはまりこむと、「甲の中に甲があり、その甲の中に……」という構造にからめとられることになる。それは、新宮一成氏がいう夢の「累層構造」のようなもの、つまり「夢の中に夢(の語らい)があり、この夢(の語らい)の中に夢があり、その夢の中に……」といった構造と類比的なものであるだろう。)
 この論考のはじめから、私は、こうした「入れ子式のフラクタル構造」、もしくは相対峙するものの「相互包摂関係」にこだわってきた。そして、こうした構造や関係を二次元平面の上に表現したもの(といっていいかどうかは、吟味が必要)、たとえば図と地が反転するルビンの杯やアヒル−ウサギ図などとの類比を念頭におきながら、それを、縁語や掛詞の技法を駆使し、清濁を書き分けない仮名文で表記された古今集和歌の「複線構造による多重表現」(小松英雄氏)に関係づけて考え、ひいては、哥のパランプセストの議論(歌体論、もしくは哥の伝導体論)につなげていこうと目論んでいた。
 その際、貫之歌論における複線構造、すなわち仮名序冒頭の二つの文に出てくる二つの心(言語を生み出す「人のこころ」と、言語を使って言い出される「思う心」)を区別し、さらに「こゑ」(や「霊の心」)とも関連づけながら、歌の伝導現象(言霊としての歌の効果)の議論へ接続していこうと考えていた。その二つの心(永井均オリジナルの表記を使えば、〈心〉と《心》)が、まさに「入れ子式のフラクタル構造」や「相互包摂関係」のうちに繰り込み可能なものだった。(そもそもの発端からいえば、そうした構造や関係は、永井氏が「解説」するところの西田幾多郎の思索そのものに由来するものだった。)
 前章の冒頭で、「貫之現象学における強い私的言語としての歌」に関連して、「思いを言葉にすることとその言葉がそこにおいて立ち上がる世界そのものが実在すること、私が悲しいことと世界が悲しいこと、等々が区別できない、そのような意味での〈思い〉や〈感じ〉の言語的な「立ち現われ」としての〈哥〉」と、山括弧を使って〈思い〉や〈感じ〉や〈哥〉という語彙を表記した。註にも書いておいたように、これらは、永井語でいうところの〈私〉や〈今〉や〈心〉や〈生〉や〈現実〉などと相並ぶもの、端的にいえば、仮名序にいう「あめつちのひらけはじまりける時」から存在している「名づけえぬもの」のことだ。以前、第二章で、『私・今・そして神』から引いた永井氏の文章を、その前後を含めてもう一度引用しておく。

《五分前世界創造説と五十センチ先世界創造説には、大きな違いがあった。第一の違いは、今から五分前は客観的な時間点だが、私から五十センチ前方は客観的空間点ではない、ということだった。(略)
 第一の違いについては、《今》とは《私の今》以外ではありえないのだ、と考えるなら、今から五分前も客観的な時間点ではなくなる。というか、そもそも客観的と主観的の区別そのものがなくなる。(略)
 まあ、基本的に、私はそういう気分の強い人間である。気分を率直に語るなら、「私」と「今」とは同じものの別の名前なのではないかとさえ感じている。そもそもの初めから存在する(=それがそもそもの初めである)ある名づけえぬものに、あとから他のものとの対比が持ち込まれ、〈私〉とか〈今〉とか、いろいろな名づけがなされていく、といった感じである。
 他人との対比が持ち込まれれば〈私〉ということになり、過去や未来との対比が持ち込まれれば〈今〉ということになる。身体との対比が持ち込まれれば〈心〉といいうことになり、外界との対比が持ち込まれれば〈内界〉ということになり、死との対比が持ち込まれれば〈生〉ということになり、さらに非現実との対比が持ち込まれれば〈現実〉ということになり、もっとさらに決定論のようなものとの対比が持ち込まれれば〈自由意志〉ということにもなる……といったぐあいである。
 対比が持ち込まれた後では、あたかも対比が成り立つための共通項がもともとあったかのような錯覚が生まれる。そして、この錯覚こそが現実になるわけだ。〈私〉と他人との対比が持ち込まれると、あたかもそれらに共通の「人間」というものが存在するかのように考えられることになり、〈今〉が過去や未来と対比されると、あたかもそれらに共通の客観的な「時間」というものが存在するかのように考えられるようになる。
 もともと存在しているのは〈 〉で囲んだほうだけなので、それがそれ以外のものと一緒にその内部に位置づけられるような共通項は、じつは存在しない。人間たちの中に私はおらず、時間の中に今はない。むしろ〈私〉の中に人間たちが、〈今〉の中に時間がある。〈 〉で囲んだほうが存在することこそが、世界の開闢そのものなのである。これを「開闢の奇跡」と呼んでおこう。
 ところが、対比が持ち込まれた後では、話が逆になって、もともと存在していた〈 〉で囲んだほうが共通項の中の一つとされるので、その例外的なありかたを何とかうまく共通項の中に埋め込んで消去しようとする、倒錯的な努力が開始されるわけである。(略)
 開闢それ自体が、その内部で後から生じた存在と持続の基準に取り込まれる。そのことによって、われわれの現実が誕生する。だから、現実は最初から作り物であって、まあ最初から嘘みたいなものなのだが、しかし、それこそがわれわれの唯一の現実なのだから、それを認めてやっていかなければならない。この構造こそが、本書全体を通じて私が問題にしたいことの根源である。》

 私は、〈私〉を指し示すつもりで「私」と発語する。これが他人に伝わると、《私》の意味で理解されてしまう。ただ一つの(ほんとうは、一つ二つと数えられない)〈私〉の実在を述べる言葉が、複数性をもった(しかし、何ものの一例でもない、ただ端的にそうあるだけの)《私》という概念を指し示す言葉に読み替えられてしまう。そして、(こちらの方がむしろ重要なのではないかと思うが)、当の私自身にとっても、「私」は《私》を指し示すものとして了解されるようになる。(永井氏が『私・今・そして神』で使った「日記」の例でいえば、私の過去の「日記」に書かれている「私」は、少なくともいまその日記を読んでいる私から見ると、〈私〉ではなくて《私》である。ただ、その「私」がかつて〈私〉を指し示したという記憶はあるので、その《私》を別の《私》と見間違うことはない。いや、その記憶が証拠立てる「私」の同一性こそが、そもそも《私》という概念の実質をなすものだったのである。)
 こうして、言語以前の〈私〉が、「私」と言語化されることを通じて、(『西田幾多郎』での永井氏の言葉を使えば)、「自己意識なき意識」と「意識なき自己意識」とが重ね描かれた《私》になる。この具体的一般者が、言語化された場所の自己運動によって、「自己意識なき意識」につながる主観面としての「心」と「意識なき自己意識」につながる客観面としての「身体」という、主客の構図をもった「私」へと限定される。ただし、ここでいう主観面と客観面は、同じ一つの「共通項」の上にあるものではない。どういうことかというと、「私」がその心(内側)を見る視線と、他人が「私」の身体(外側)を見る視線とでは、その属する空間が異なるし、そもそも他人が見る「私」の身体を当の「私」が見ることはできないのだから、この二つの視線は交差しない。あるいは、「私」がその内側から見る「主観的な」世界のなかに、当の「私」の身体が(他人の身体とともに)「客観的に」位置づけられ、その客観的な世界のなかで「私」が世界を主観的に見ているといったように、「主観」と「客観」は相互に包摂しあう。
 で、(さらに視覚の比喩をつづけると)、いま述べた視線から独我論的な、というよりは自己中心的(幼児的)な要素が抜け落ちると、私と他人を同時に見る第三者(たとえば脳科学者やロボット工学者)の視線といったものが確立され、そうして最後に、かの《私》は、着脱可能な「心」(内面)と操作可能な物理的「身体」(外面)をもった「人間」という抽象的一般物へと限定される、というかそのようなものへと自らを限定していく。
 この「お話」には、三つの「内」が出てくる。そのうち最後に出てくる「内」は、人間の心がそこに位置する「内面」のことだが、この意味での「内」は、実は「外」である。というのも、着脱可能な心と操作可能な身体をもつものは、そのような内面と外面をもつものとしてプログラムされ設計され組み立てられたロボットであってもいいわけで、だとすると、その内面は、少なくともロボットの制作者やプログラマーにとっては観察・制御可能なものでしかない。それは、定義によって「外」である。
 最後から二番目に出てくる「内」は、《私》を合成する二つの要素のうち「自己意識なき意識」の「私」版、すなわち主観的な「心」が位置する「内側」のことで、この意味での「内」は、「外」との間で相互包摂の関係、もしくは入れ子式のフラクタル構造をかたちづくる。この関係ないし構造は、それが《私》により近いか「私」により近いかで、まったく様相を異にする。このあたりのことを、永井氏は『なぜ意識は実在しないのか』で、次のように語っている。

《意識は複数のものが並列的に存在するというあり方をすることができません。そもそも一つしかなくて、その一つが他のすべてを包み込んでしまう、という構造を本性上持っている。しかし、他の意識だけは包み込み切ることができない。と同時に、包み込まれ切れなかった側の意識もすべてまた、同じ仕方で他のすべてを包み込んでいる、というあり方をしています。ところが、これを、相互に包み込み合っている、というふうに言ってしまうと、再び並列化されてしまうわけです。これは意識がたまたま持つ性質ではなく、意識の本性、いやむしろその構造こそがすなわち意識だ、と言った方がいい。だから、よく言われる「意識の私秘性」という捉え方でも不十分ですね。それは一つには、意識というものがたまたま私秘的性格を持つのではなく、世界が私秘的なあり方をする側面こそが意識だからですし、もう一つには、その私秘性もまた並列的に存在するのではなくて、むしろ逆に、その並列的に存在することのできなさこそが、(無理に並列化された場合)いわゆる私秘性というものを生み出しているからです。》

 ここで、「これを、相互に包み込み合っている、というふうに言ってしまうと、再び並列化されてしまう」とあるのが、「私」の位相での相互包摂関係のこと、また、「意識は複数のものが並列的に存在するというあり方をすることができません」といわれているのが、《私》の位相での相互包摂関係のことだ。「相互に包み込み合っている」とは、相互包摂関係の別の表現のようにも読めるが、相互に包み込む合う動的な関係を「包み込み合っている」と静的に表現してしまうと、そこからはもう「累進構造」としての入れ子式フラクタル構造は消えてしまう。
 では、この「お話」には三つの「内」が出てくる、といったときの、その三番目の「内」とは何か。つまり、「お話」のそもそもの初めに出てくる「内」とは何かというと、それは、先の『私・今・そして神』からの引用文の最後のパラグラフに、「開闢それ自体が、その“内部”で後から生じた存在と持続の基準に取り込まれる。」とあった、その開闢の「内部」のことだ。いいかえると、〈私〉の内部のことだ。そうすると、ここに、〈私〉の中に《私》がいて、その《私》の中に〈私〉が……、という、言語以前と言語以後にまたがる累進構造が出てくることになる。
 これを、まるごと言語の世界にもちこみ、《私》の中に「私」がいて、その「私」の中に《私》が……、と読み替えると、そして、その累進性を「私」の方向に収束させると、永井氏がいう「並列化」された「私」が限定されてくる。一方、〈私〉の中に《私》がいて、その《私》の中に〈私〉が……、の累進性を逆の方向に極めていくと、この節の冒頭の註のなかに書いた「より複雑化した高次の構造」があらわれてきて、それが、(どのように表記したらいいのかもはや判らないが、とにかく)、「言語の外」で稼働している「純粋経験⇒言語」の累進構造になるのだろう。

(06号に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。神戸在住。三ヶ月以上、一つのことに関心が続かない。それができたらきっと凄いことになる(たぶん)。
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Web評論誌「コーラ」05号(2008.08.15)
<哥とクオリア>第6章 聲と言霊・後篇(中原紀生)
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