Web評論誌「コーラ」42号/哥とクオリアア/ペルソナと哥 第59章 映画/モンタージュ/記憶(その5)

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Web評論誌「コーラ」
42号(2020/12/15)

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■不気味なもの─ヒッチコックのモンタージュ(前半)
 
 和歌的モンタージュによって形成される「心的現象=記憶」をめぐる話題へと転じるため、ここで一本、補助線を引きます。
 大澤真幸氏が、『今という驚きを考えたことがありますか──マクタガートを超えて』(永井均との共著)に収録された論文「時間の実在性」で、マクタガートの時間の非実在論に対する反論を試み、そのなかで「ヒッチコックのモンタージュ」をとりあげていて、これがとても刺激的なのです。以下、その議論の骨格を摘出します。
 
1.時間の実在性の証明
 
〇マクタガートの「時間の非実在論」の骨子は次の通り。
 時間の本質は「出来事の先後関係」(B系列)ではなく、「過去/現在/未来」という区別(A系列)にある。
 ところで、@「過去である」「現在である」「未来である」は互いに両立不可能な述語である。
 しかるに、Aどの出来事も「過去であり、現在であり、未来である」。
 @とAは矛盾している。ゆえに時間は実在しない。
〇マクタガートに対抗して時間の実在性を証明する戦略は二つある。第一は出来事の実在性を否定すること。第二は「過去であり、かつ、現在である」ような出来事、事象、事態を示すこと。
 大澤氏がとったのは第二の戦略で、その際、触媒とされたのが、A系列における〈現在〉と独在性の〈私〉との間に「厳密な並行性」がある、という永井均の「発見」である。
 
2.永井均の驚きの向こう側
 
〇〈私〉の本質(何であるかということ)と〈私〉の実存(現に存在しているということ)とは完全に一致する。〈私〉の本質は「ただ現にある」という実存以外にはない。〈現在〉についても同じことが言える。〈現在〉と他の時制(過去・未来)との関係は、〈私〉と他者との関係と類比的である。
〇〈私〉と他者たちとはまったく同じである。誰もが心・意識をもっている。それなのに、ほんものの心・意識は〈私〉の心・意識だけだ。これはまことに驚きではないか!
 この永井均の驚きの向こう側に、もうひとつの驚きがある。どうして〈私〉は〈私〉以外の他者にも心・意識が帰属していると確信しているのか? どうして〈私〉は他者もまた(その他者自身が)〈私〉であると知っているのか?
 
3.ヒッチコックのモンタージュ
 
〇どうして〈私〉は他者もまた〈私〉であると知っているのか? この問いに答えるため、大澤氏はスラヴォイ・ジジェク(『斜めから見る』)の分析にもとづく「ヒッチコックのモンタージュ」を援用する。
〇たとえば、ヒッチコックは『サイコ』のなかで次の二つのショットを交互に用いている。
@ 行方不明になった姉のマリオンを探すライラが、ノーマンの母が住んでいると思しき古い家へと向かう客観ショット
A ライラが目指している古い家の主観ショット=〈私〉としてのライラの視点から見た世界のたち現れ方を表現する映像
《このように映像を構成されると、次のような効果が生まれる。まず、主人公──ぶきみな事物[*]へと接近している人物──が、その事物を見ていることが示されるのは、当然のことである。その主人公たる〈私〉が見ているものは、今あげた二つのショットの中の後者によって、直接に提示される。観客は、まさに、主人公である〈私〉と同一化している。だが、これだけではない。同時に、その事物、つまり家そのものが、主人公を見返しているように感じられてくるのだ。家の中に、誰かがいるかどうかはわからない──実際、誰もいなかったことが後に判明する。それでもなお、モンタージュの映像によって、家から眼差しが返されているような印象が不可避に生じてくる。われわれ観客はもちろん、主人公──家へと近づいている人物──に同一化して見ているので、われわれ自身が家から見られているように感じる。それが、これらの場面のぶきみさを際立たせているのである。つまり、見られているその事物がまた、独自の、もうひとつの〈私〉である、この〈私〉ではない〈私〉である、という感覚が、抑えがたく生じてくるのだ。この効果が、この場面のぶきみさを際立たせている。》(『今という驚きを考えたことがありますか』111-112頁)
〇このような効果(家も〈私〉を見ている)は、このモンタージュを構成するショットとは別の二種類のショットが排除されていることからくる。
B ぶきみさを発散している家を(ライラの視点以外の)中立的な視点から捉える客観ショット
C 接近の対象となっている家そのものを主観化したショット=家の内側からライラを見下ろすショット
 
《[このような]家そのものを直接に「私」とするショットを入れると、この〈私〉──すなわちライラ=観客──にとって、自分が見つめている対象であるあの家もまたもうひとつの〈私〉かもしれない、という不穏な印象は、なくなってしまう…。家の中からの主観ショットを導入した場合には、「家(の中から誰か)が見ている」という事態は、われわれにとっては既知の、そして映画の登場人物(ライラ)にとっては未知で、しかも無関心の事実になる。この事態が帯びる──登場人物とわれわれにとって共通にぶきみな──蓋然性を維持するためには、眼差しの担い手(家)を主観化してはならない。》(『今という驚きを考えたことがありますか』114頁)
[*]中井正一は「生きている空間――映画空間論への序曲」(『中井正一全集第三巻 現代芸術の空間』)で、「ローマン的皮肉[イロニー]とは、ヘーゲルの友人のゾルゲルで代表されるところの一つの表現、自分たちのすべてのおこないや言葉のすぐそばに、「黙ってジッと自分を見つめているまなざし」があるという一つの不安と怖れである。」(210頁)と書き、「ハイデッガーの存在論も、この不安の凝視を哲学の中に再現している。」(211頁)と書いた。
 また「芸術的空間──演劇の機構について」(『中井正一評論集』)では、「ゾルゲルのイロニーの眼」をめぐって「ハイデッガーのいう何ものかの前に感ずる‘てれたるこころもち’unheimlich」(141頁)をとりあげている。
 
 伊集院敬行氏は「モンタージュが暴露する「無気味なもの」としての現実──中井正一の映画理論にある精神分析的側面について」のなかで、「「模写論の美学的関連」で中井は,カントの実体論に対してハイデ ガーの存在論を評価し,ハイデガーのいう存在の開示を精神分析による無意識の暴露と重ね,モンタージュがこれをもたらすと考えた」と書き、次のように論じている。(以下に引用するのは、前々章の最終節で引いた個所に先立つ文章である。)
《ハイデガーにとってこの無気味なものは,現存在を自らの死へと向き合わせるものである。これにより現存在は,時計が刻む均質で終りのない時間から,自分に固有の死という終りのある時間である「本来的な時間」を生きるようになる(「死への先駆」)。このような時間をハイデガーは「歴史(Geschichte)」と呼び,一連の出来事の羅列としての「歴史(Historie)」と区別した。一方,フロイトも「快感原則の彼岸」(1920)で,死や不安について論じている。フロイトはそこで,我々の心に「快感原則」に従う「性の欲動」や「現実原則」に従う「自己保存欲動」では理解できない不安や無気味さへ向かう強迫的な力を認め,人間を死へと駆り立てるその力を「死の欲動」と名付けた。
 これら死と深く関わる無気味なものや存在やエスが,基礎射影[=無意識]のまなざしとしてスクリーンに現れる。そのとき我々は「認識の達しない深みにおいて自分自身にめぐりあう」。中井は このような自分自身を「ほんとうの自分」,「大いなる自分」と呼ぶ。これは一見すると,主体的に生きる主体や自分の理想像とも取れる表現である。しかし,これまでの議論が明らかにしたように,それは人間が自らの存在としての在り方に立ち返るきっかけとなる無気味なものとしての存在であり,心の奥底からこちらにまなざしを向ける自分自身の無気味なエスなのである。そして…,映画において主体が集団的なものになるのなら,そのエスは個人のそれというより,むしろ集団,大衆のそれと考えるべきである。》(「モンタージュが暴露する「無気味なもの」としての現実」)
 文中に「認識の達しない深みにおいて自分自身にめぐりあう」とあるのは、プルーストの言葉。
《…「基礎射影」とは、自分が知っている考えているものよりもっと深部で、自分にもわからない自分が、深く横たわっている。ある場合は、その自分の瞳が自分を、じっと、のがれようもなく見つめているというような、不安をおぼえる。その瞳は、誰もがまともに見かえされないような深い瞳、そんな瞳に映っている射影像がこの正射影[=基礎射影]の世界である。プルーストのいう、時間から解放された瞬間に、新しい人間を創造するという「認識の達しない深みにおいて自分自身にめぐりあう」という世界もこうした世界を指すともいえるのである。》(「美学入門」、『中井正一評論集』341頁)
■不気味なもの─浮遊する視点、アウラ的知覚
 
 いったん中断。
 ここまでの議論を参照しながら、(和歌的)モンタージュの空間から(和歌的)記憶の垂直軸が立ちあがるメカニズムの前段、すなわち、和歌的モンタージュの動態を通じて「歌の姿」が立ちあがり、そこに「歌の心」が吹きこまれていくプロセス[*1]をめぐって、若干の「外形的」考察をくわえます。
 
・フロイトによれば、「不気味なもの」とは「慣れ親しんだもの、馴染みのものであり、それが抑圧された後に回帰してきたもの」のことである(「不気味なもの」、中川元訳)。
・そうだとすると、ヒッチコックのモンタージュにおいて〈私〉を見つめ返すもうひとつの〈私〉、この〈私〉ではない〈私〉=〈他者〉[*2]の「ぶきみな」眼差しとは、「ライラ=観客」としての〈私〉のうちにはりつき同一化した「観客=共視者」の視点が(剥離するのではなく)身体なき意識のように浮遊し、モンタージュ空間の「外部」に通じる事物(物自体?)に定位(憑依?)したものなのかもしれない。
 
・ベンヤミンは、「…夢の中では[私と私に見えている事物とのあいだに]等式が存在する。私が目にしている事物は、私がそれを見ているのと同じように、私を見ているのだ。」というヴァレリーの文章を引き、このような「夢における知覚」を「アウラ的知覚」と名づけた[*3]。
・夢(映画)のなかでは、事物を見つめる「ライラ=観客」としての〈私〉と、この〈私〉を見つめ返す事物(「観客=共視者」としての〈私〉=〈他者〉もしくは集団的なエス)とのあいだに「等式」が存在し、そこには「アウラ的知覚」が成り立っている。
 
[*1]そのプロセスの骨子を記しておくと、まず「歌の姿」は、前章の末尾に「使い道のない追い書き」として示したイマージュの四分類を想定している。
 
【歌の姿U】=「インデックス」(オリジナルに対するコピー)としての「像」
【歌の姿T】=「イコン」(オリジナルが受肉したコピー)としての「喩」
【歌の姿V】=「シンボル」(コピーなきオリジナル)としての「象」
【歌の姿〇】=「マスク」(オリジナルなきコピー)としての「肖」
 
 また「歌の心」については、これまでこの論考群で様々な観点から論じてきたし、その中間総括と言えるものはかつて(第42章で)整理したところだが、ここでの論脈にそくして、あらためてその四類型をめぐる試案を示しておく。
 
【歌の心U】=詠み出された心(狭義の歌の心、実在の作者の心)
・世の中を「ことわざしげく」生きる生身の人の「思ひ」(「和歌」を言い出す心)
【歌の心T】=詠みつつある心(虚構の作者の心)
・すべての「生きとし生けるもの」のうちに宿る普遍的な心(「こゑ」を生む心)
【歌の心V】=個別の和歌の詠出に先立つ心
・ある特殊な生物種のうちに宿り、やがて「ことのは」へと生長する「たね」としての心(「やまとうた」を詠み出す心)
【歌の心〇】=読みつつある心(実在もしくは虚構の読者の心)
・森羅万象にわたって様々に分岐する心の無限集合、カミの心、タマやスピリット、霊の次元の心(「響き」となって顕われる心)
 
[*2]このもうひとつの〈私〉を「ドッペルゲンガー」と捉えていいだろうか。
 フロイトは、ドッペルゲンガー(分身)とは「自我の消滅を防ぐための防衛機構」であり、「不死」の霊魂こそが肉体の最初のドッペルゲンガーだったと書いている。そして、ドッペルゲンガーの不気味さを「反復強迫」の不気味さに関連づけている。この反復強迫は「欲動のもっとも内的な本性から生まれるものであって、快感原則を超越してしまうほど強いものであり、精神生活の特定の側面にデモーニッシュな性格を帯びさせる」。
 道籏泰三氏は「不気味なものを見つめる――ベンヤミン特集によせて」(『思想』2018年7月号の「思想の言葉」)で、次のように書いている。
《フロイト(『不気味なもの(Das Unheimliche)』)によれば、不気味さとは、「生の欲動[エロス]」による文明化を妨害し中断する「死の欲動[タナトス]」の現われであり、かつて人間が非文明の時期に馴染んでいたもの―文明化の過程で繰り返し抑圧され、無意識の淵に沈澱していたもの―が、何かの契機にふいに姿を現わしてきたときに生じる、世界に突然亀裂が走るような不安の感情である。生と文明化を中断せんとする死と退行の表徴[しるし]、それがフロイトのいう不気味なものである。(略)
 不気味なものは、フロイトの言うように「生の欲動」の真っ当な進展を妨害するゆゆしきものであるだけではない。その盲目的な暴走、生きんがための盲進を中断し、沈黙のうちに新しい生のありようへと人を差し向けようとする「救いのメッセージ」の担い手でもあるのだ。(略)
 フロイトはこの沈黙の異物に傾ける耳をもっていなかったが、彼が不気味なものに注目しはじめた第一次大戦直後、不気味という言葉こそ用いないものの彼とは逆の志向をもってこれに眼を向け、その未知の「メッセージ」に思考をめぐらせた真っ当な思想家たちも、むろんいた。
 その代表的とも言える一人がベンヤミンである。》(https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/906
[*3]ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」(山口裕之訳『ベンヤミン・アンソロジー』262頁)による。ただし、以下の引用は『ベンヤミン・コレクション1』収録の久保哲司訳。
《プルーストは、ヴェネツィアに関して意志的記憶[メモワール・ヴォロンテール]が与えるイメージの乏しさ、深みのなさに文句をつけているが、それに続けて、〈ヴェネツィア〉という単語を思いついただけで、このイメージの宝庫が写真の展覧会のように味気ないものに思えてきたと書いている。無意志的記憶[メモワール・アンヴォロンテール]から浮かび上がるイメージの特徴がアウラをもっていることであるとすれば、写真は〈アウラの凋落〉という現象に決定的に関与している。銀板写真において、非人間的、いわば殺人的な点と感じられざるをえなかったのは、器械を(しかも長いあいだ)見つめることであった。なぜなら器械は人間の像を写し取り、しかもその人にまなざしを送り返すことがないからである。だがまなざしには、自分が見つめるものから見つめ返されたいという期待が内在するのである。この期待(それは、言葉の普通の意味でのまなざしに同様、思考の領域での注意力という志向的まなざしにも付随していることがある)がみたされるとき、まなざしには充実したアウラの経験が与えられる。「知覚能力とは注意力」であるとノヴァーリスは断じている。彼がそのように述べている知覚能力とは、アウラを知覚する能力にほかならない。したがってアウラの経験は、人間社会によく見られる反応形式が、無生物ないし自然と人間との関係に転移されることに基づいている。見つめられている者、あるいは見つめられていると思っている者は、まなざしを打ちひらく。ある現象のアウラを経験するとは、この現象にまなざしを打ちひらく能力を付与することである。》(『ベンヤミン・コレクション1』470頁)
 この最後の文章にベンヤミンは次の註をつけている。
《この能力の付与が、詩[ポエジー]の源泉のひとつである。人間であれ獣であれ無生物であれ、詩人によってそのような能力を付与され、まなざしを打ちひらくと、このまなざしは遠くへ引かれる。そのように見覚めさせられた自然のまなざしは夢を見る。そして詩作する人にその夢の後を追わせるのである。言葉もまたアウラをもつことがある。カール・クラウスはこのアウラを次のように描写した。「ひとつの言葉を近寄って見つめれば見つめるほど、それはいっそう遠くを振り返る」。》(『ベンヤミン・コレクション1』488頁)
 言葉もまたアウラをもつ。のみならず「真のアウラはあらゆる事物に現われる」(飯吉光夫訳『陶酔論』143頁)。
《プルーストがアウラの問題にいかに精通していたかは、あらためて強調するまでもない。それにしても彼がアウラの理論を含む諸概念におりに触れて言及しているのは注目に値する。「神秘を愛する人びとは、こう信じたがる、──物には、過去にそれをながめたまなざしのいくぶんかが残っていると」。(これはまさにまなざしを送り返す能力ということであろう。)「彼らの意見では、史蹟や絵画は、幾世紀にもわたって多くの讃美者の愛と観想が織りなした柔らかなヴェールをかぶってしかわれわれのまえに現われないのである」。ここでプルーストはやや話の方向を変えて、次のように結論する。「そのような幻想[キマイラ]も、この人びとが、各個人にとって存在する唯一の現実、つまり各自に固有の感覚世界にその幻想を関係づけるならば、真実となるであろう」。夢における知覚をアウラ的知覚と規定するヴァレリーの考え方もこれに近いが、客観的な方向をとっているだけに、より発展性がある。「私にはそこにあるそれが見えると私が言うとき、私とその物とのあいだに定着されるのは、釣り合い[等式]ではない。……それに対して夢のなかには釣り合い[等式]がある。私に見える物たちには、私にそれらが見えるのと同程度に、私が見える」。まさに夢の知覚にとって自然は、
 
  その中を歩む人間は、象徴の森を過[よぎ]り、
  森は、親しいまなざしで人間を見まもる。
 
といわれているあの神殿なのである。》(『ベンヤミン・コレクション1』471-472頁)
■純粋過去─ヒッチコックのモンタージュ(後半)
 
4.他者はどこにいるか
 
〇ヒッチコックのモンタージュの効果として現れたもうひとつの〈私〉すなわち〈他者〉をめぐって、大澤氏はレヴィナス(『存在するとは別の仕方で』)の議論を援用する。レヴィナスは、〈他者〉の現前(=現在)は「そこにないものであるかのように」求められると書いた。
〇他者の皮膚に触れている最中にそのことを意識してしまうと、それは愛撫ではなく触診に変わってしまう。〈私〉が他者の〈顔〉を見ているとき、〈他者〉(他者の〈私〉)はすでに(〈私〉への)現前から退いてしまっている。(このような〈他者〉の逆説的・否定的な現前の様態を、大澤氏は「遠心化」と呼ぶ[*]。)
 それと同じように、〈他者〉を〈私〉が何ものかとして同定し〈私〉へと現前(=現在)させようとしたとき、〈他者〉はもはやそこにないものとして現れるほかない。
《〈私〉が〈他者〉を捉えようとしても、〈他者〉はそこにはいない。〈他者〉は、言わば遠くに去ってしまっている。ところで、〈他者〉は、‘どこに’去ったのか? 〈他者〉は‘すでにいない’。ということは、〈他者〉は‘かつて’そこに‘いた’ということでもある。そうである。〈他者〉は、過去へと去っていったのだ。
 こうして、われわれは、時間という主題、A系列の時間という主題に回帰することができた。〈他者〉は、〈私〉に対して現前しない。つまり、〈私〉と共時化しない。〈他者〉は、過去にいる……いやむしろ、論理の順番に正確に従うならば、こう言うべきである。〈他者〉の存在の様態──「すでに(去った)」という様態──が、「過去」なるものを存在せしめるのだ、と。「過去」がまずあって、〈他者〉がそこに逃げ込むのではない。逆に、〈他者〉の、〈私〉からの退却のベクトルが、過去という時制を切り拓くのである。》(『今という驚きを考えたことがありますか』119頁)
5、純粋過去
 
〇大澤氏はここでドゥルーズの「純粋過去」の概念に接続する。ジェイムズ・ウィリアムズによると、純粋過去とは「すべての出来事が蓄積され、去り行くものとして記憶される、絶対的過去」である。
〇たとえば、今まさに起きつつある出来事について「私は今……している。」と言明するとき、この言明はすでに「過去の出来事の回想」というモードをわずかであれ含んでいる。つまり、「未来を先取りし、その未来の視点から遡及的に捉えたときに過去になるはずの出来事」として、現在は言及されているのである。
《したがって、次のように言うべきである。現在の出来事は、自らを「過去」の一部として知覚する。まさにその限りにおいて、現在の出来事である自己自身を認知することができるのだ、と。もちろん、同じことは、かつての現在の出来事(過去の出来事)、やがて現在になる出来事(未来の出来事)についても言える。どの出来事も、自らを、「過去」の一部として認知するほかない。このカギカッコで記した「過去」こそが、純粋過去、あらゆる出来事の認定を可能にするアプリオリな形式としての過去である。
 さて、そうだとすると、出来事は現在でありかつ過去である、ということになるのではあるまいか。その通りである。しかし、これこそ、まさにマクタガートが指摘した矛盾ではないか。同じ出来事に関して、「過去」「現在」という両立不可能な規定がともに与えられることは背理だ、というのがマクタガートの証明のポイントだったはずだ。となれば、結局は、時間の非実在という結論に向かわなくてはならないのか。
 違う。今やわれわれは、その出来事が現在であり、同時に過去である、ということをためらいもなく堂々と言うことができるところに来ているのだ。どうして? 何が、状況を換えたのか? それこそ…、「〈他者〉の実在性」についての証明だ。〈他者〉の現前(=現在)とは、その過去──「すでにいない」「かつていた」──であった。〈他者〉の実在において、われわれはもう、現在でありかつ過去である──過去であることにおいて現在する──という様態を認め、導入している。》(『今という驚きを考えたことがありますか』123頁)
〇こうして、われわれはマクタガートの「時間の非実在」についての証明を破り、克服することに成功した、と大澤氏は括る。
 
6.ふたつの補足─自由と未来
 
〇すべての出来事は純粋過去の中に含まれている。このような主張は極端な決定論を含意しているように見えるかもしれない。過去・現在・未来のあらゆる出来事が「純粋過去」という非時間的な領域の中で、互いに互いを規定する緊密なネットワークを構成し、そこにはいっさいの「自由」がないといったように。
《現在の出来事が過去の出来事にトータルに因果的に規定されている、という決定論の主張は全面的に正しい。だが、どの過去の出来事(たち)が現在のこの出来事を決定しているのか。どの過去の出来事の因果的な連鎖が、現在の出来事へとつながっているのか。このことを規定しているのは、現在の出来事と過去の出来事とを遡及的に見返す未来の視点である。どのように未来の視点を措定するのか、というところに、自由が関与している。原理的には、未来の視点はどのようにも設定できる。この未来の視点が、決定論的な連鎖そのものを選択している。》(『今という驚きを考えたことがありますか』127頁)
〇大澤氏は最後に、「未来」という時制の由来、本性について考察している。未来の未来たるゆえんは「絶対に還元できない不確定性」である。そしてそれは〈他者〉を規定する条件でもある。だとすると、こう断言してもよいのではないか。未来とは〈他者〉であり、〈他者〉は、その本来性においては未来なのだ、と。
《〈他者〉の他者性が生[なま]のままに現れているとき、〈他者〉は「未来」として現れている。その〈他者〉を同定し、その不確定性を縮減しようとするとき、〈私〉は、必然的にそれに失敗する。その失敗は、「過去」という痕跡を残す。
 …自由は、現在と過去とを遡及的に見返す未来の視点を設定する営為のうちにある…。このことは、自由が〈他者〉との関係のうちにこそある、ということを意味している。》(『今という驚きを考えたことがありますか』130頁)
[*]「遠心化」について、大澤真幸著『身体の比較社会学T』から。
《あらゆる身体的な志向作用(知覚、運動等)は、今この座にある身体に対するものとして事象を把持する。すなわち、身体は、志向作用の発動に伴って、事象を今この座にある身体(上の一点)の近傍に配列させた相(地平構造)で把握するような自己中心化の働きをもっている。この働きを我々は求心化作用と呼ぶことにしよう。またこのとき「近傍の中心」となった身体上の点を「志向点」と呼ぼう。だが、アンドレ・マルシャンの体験[メルロ・ポンティが『眼と精神』で引用した画家アンドレ・マルシャンの体験をさす。「森のなかで、私は幾度となく私が森を見ているのではないと感じた。樹が私を見つめ、私に語りかけているように感じた日もある」──引用者註]の核心的な特徴は、身体が求心化作用を発動させつつあるまさにちょうどそのときに(マルシャン自身が樹を見つめているまさにちょうどそのときに)、志向点を他所へと移転させるような操作(「樹が私を見つめ、私に語りかけているように感じた」)、が共働しているところにある。このような、志向作用が把持する事象が‘それ’に対して存在しているような志向点を他所へと移転させる操作のことを、我々は遠心化作用と呼ぶことにしよう。……遠心化作用を通じて、身体は志向点を空間内の任意の場所へと拡散させることができる…。》(『身体の比較社会学T』26-27頁)
 大澤氏いわく、「驚くべきは、求心化作用を励起させつつ遠心化作用をも作動させることができる、身体の能力である」(33頁)。
《〈他者〉の顕現(〈他者〉の存在の覚知)は、求心化作用に遠心化作用が連動することによって、可能になる…。〈他者〉とは、‘この’志向作用に対して異和的であるような志向作用の帰属点として現れる身体のことである。〈他者〉とは要するに一種の差異のことだが、〈他者〉を構成する差異とは、差異の中でも最も強い意味におけるそれである。一般には差異は、ある同一性に下属している。たとえば類の差異が種の同一性を前提にしているように、差異はある同一性を前提にした、相対的な差異として現れる。しかるに、〈他者〉における差異とは、いかなる同一性も前提にしない、絶対的な差異でなくてはならない。》(『身体の比較社会学T』41頁)
 なお、大澤氏は『身体の比較社会学U』の「あとがき」で、次のように書いている。
《…留意すべきことは、求心化作用と遠心化作用とは、相互に反転しうる、ということである。(略)求心化/遠心化作用が、反転可能だというのは、求心化が収束していく「この身体=自己」と、遠心化によって顕現する「あの身体=他者」とが、固定的ではない、ということである。言い換えれば、どれ(どこ)がまさに自己となるべき身体であるか、ということは確定的ではない。ということである。あるときは求心点として定位される「この身体」も、このとき遠心点となっていた「あの身体」の側に定位した場合には、逆に遠心点として位置づけられることになる。
 このような反転を、類推のような操作にともなう視点の互換性と混同してはならない。(略)それに対して、求心化/遠心化作用の反転は、定位している志向作用そのものの担い手が根こそぎ直接に反転してしまうことであり、それゆえ、他者という存在についての前提[「あの人」が自己と同一の意識を備えた存在(他者)であることについての直観]そのものを構成する過程となっているのである。最も端的な事例は、私が触れるということが、直接に私が(他者に)触れられるということへと反転してしまう、という現象学ではなじみの事態である。この場合に、触れるということは、触れられるということと同一のことである。まさにその同一性の内に反転(差異)が孕まれているのだ。それに対して、類推の操作の中では、私が他者についてあれこれ推論する操作と、他者が私について推論する操作とは、明確に区別されていなくてはならない。後者の推論は、前者の推論の内部でのみ、再現されるのだから。》(506-507頁)
 大澤氏がここで示唆しているのは、いや明言しているのは、〈私〉と〈他者〉が絶対的な差異性において同一であるということだ。あたかも「ライラ(〈私〉)=観客・共視者(〈他者〉)」であるように。(この「同一性」の解釈に応じて、かの「一者」と「白光」が分岐するのだろう。)
 
■純粋過去─時間の実在化、想起のコペルニクス的転回
 
 以上の議論を手掛かりに、(和歌的)モンタージュの空間から(和歌的)記憶の垂直軸が立ちあがるメカニズムの後段、すなわち、「歌の姿」に充填された「歌の心」が、その濃度(深度と高度)を増し、やがて、いにしへよりこのかたへ伝承される「歌の道の深き心」、言い換えれば「詩的共同主観」の系譜がかたちづくられるプロセス[*1]をめぐって、「外形的」考察をかさねます。
 
・ドゥルーズは『差違と反復』第二章で「生ける現在(現実性)/純粋過去(潜在性)/未来に向かう超越論的時間(永劫回帰)」という三つの時間概念を提示した[*2]。
・これを参照すると、第一の時間(現在)は身体なき意識が自在に移動する(和歌的)モンタージュ空間において生起し、そこから垂直方向に立ちあがる(和歌的)記憶の軸における二方向のうち、第二の時間(過去)はいわば「深度」=(和歌的)伝統の形成に、第三の時間(未来)は「高度」=(和歌的)生成・創造にそれぞれかかわる。
 
・未来の視点(虚焦点)から自らを過去の一部として知覚する。この「現在の出来事」にかかわる時間的パースペクティヴを「過去の出来事」にあてはめることによって「想起のコペルニクス的転回」[*3]が生じ、(和歌的)過去の歴史(歌の道)が、すなわち〈他者〉(詩的共同主観)の系譜が、(和歌的)現在において制作される。
・さらにこれを「未来の出来事」にあてはめると「アクチュアル」な〈他者〉、つまり「詠みつつある〈私〉」=「読みつつある〈私〉」が、言い換えれば〈言語〉が産出される。
 
[*1]俊成の「古来風躰抄」に、「この道[歌の道]の深き心、なを言葉の林を分け、筆の海を汲むとも書き述べんことは難かるべければ、ただ、上、万葉集より始めて、中古、古今・後撰・拾遺、下、後拾遺よりこなたざまの歌の、時世の移りゆくに従ひて、姿も詞もあらたまりゆく有様を、代々の選集に見えたるを、はしばし記し申すべきなり。」とある。尼ヶ崎彬氏は、『花鳥の使──歌の道の詩学T』に収められた俊成論のなかで、この一文を引き、「改まるのは、むろん「姿」と「詞」だけであって、「深き心」は「時世」を超えて貫道する。」(88頁)と書いている。
《彼の脳裏には、遠く時代を距てる歌人たちが、ただ一つの「心」(詩的主観)を共有して、互いに手をつないで道を行く姿が見えていたであろう。この超時代的な歌人の精神共同体に参加することが、俊成にとっての「歌の道」であったと言ってよいように思われる。〈道〉は古人の歩いたものであり、自分も歩こうと思えば歩けるものである。つまりこの共同体は時代を越えて開かれており、いつの時代の人もこれに加わることができる。そして参加すると同時に、彼は、時を距てる古人たちと手を携えて歩むことができる。彼はこの時、現在・過去・未来といった歴史的時間とは別の時間を、古人と共に生きるのである。そして詩的主観とは、孤立した魂ではなく、実はこのような詩的共同体をつくり上げているものである。この共同体は自ら言葉によって作り上げた詩的世界を共有し、伝承している。人は、この詩的世界がいかなるものであるかを学ぶことによって、より容易にこの詩的主観を手に入れることができるであろう。いや、天才の外は、このような学習によってしか本当の歌人になる道はない。それゆえ、人は歌人になるためには、語彙と文法を覚えるだけでは不十分であって、古人の和歌(その〈言葉の型〉と〈価値体験の型〉)を通して、この詩的共同主観性を学ばねばならない。そしてこれを手に入れた時、人は詩的共同体に参加する必要にして十分な条件を得るのである。》(『花鳥の使』85-86頁)
 この「歌の道の深き心」=「詩的共同主観」の系譜がかたちづくられるプロセスを通じて、歌の道の伝統すなわち(和歌的)記憶が形成される。
 しかしそこで根幹をなすのは、記憶内容ではなく記憶主体である。それは、歌の道の伝承にあたって肝心なことは詠歌内容(狭義の歌の心)や歌の姿・詞にではなくて、歌の姿・詞の系譜の通奏低音をなす「深き心」(詩的共同主観)の方にあるのと同断である。
 
 永井均氏が『存在と時間──哲学探究1』で、記憶について考察している。いわく、思い出す記憶は必ず自分の記憶であって、自分の思い出が全体として他人の視点からの思い出に変わっているのに気づくなどといったことはない。もしあったとしても、それはあくまでも推論であり直観ではない。自分が体験したという形をとって現われなければそもそも記憶であるとはいえない。
《記憶というものが成立するためには(じつをいえば時間というものが成立するためにでもあるのだが)、じつは[体験主体と想起主体の同一性・連続性より]もっと本質的な条件がある。…それは、本来事象内容[リアリティ]ではない「今体験している」という事実を、一個の事象内容[リアリティ]として世界に起きる事実の一部に組み込み、それを記憶の対象とする、という業である。これによって「その時の今の体験」のような捉え方が可能になり、複数のそれらをつなげていくという荒業も可能になる。われわれは単に体験内容そのものを記憶しているのではなく、いわば体験体験(体験するという体験)そのものを対象化して記憶するわけである。そうすれば、‘この’今にかんしても、あらかじめそういう捉え方の可能性を持ち込むことができる。》(『存在と時間』131-132頁)
 詠歌をめぐる体験体験の記憶のアルシーヴ、精確に言えば、詠歌内容のリアルな集積ではなく、歌の道の深き心のアクチュアルな系譜の積層(「俯瞰的で遠近感を失った重なりあい」)にアクセスすること、それが、「本当の歌人」にいたる道である。
 
[*2]本文で参照するほど充分に咀嚼できなかったが、檜垣立哉著『瞬間と永遠──ジル・ドゥルーズの時間論』は刺激的な考察に満ちている。ここでは、ドゥルーズとベンヤミンの関係性について(「アウラ」と「アクチュアルなもの」をめぐって)論じられた箇所をとりあげておきたい。
 
 その1.檜垣氏は、第5章「断片の歴史/歴史の断片」の「ベンヤミン──瓦礫の断片とドゥルーズの歴史」の項で、ベンヤミンが「歴史の概念について」に書きつけた「現在時(Jetztzeit)」や「アクチュアルなもの」という概念を、「複製技術時代における芸術作品」で論じられた「アウラ」(「夏の午後、静かに憩いながら、地平に連なる山なみを、あるいは憩っている者の上に影を投げかけている木の枝を目で追うこと」云々)に関連づけて論じている。
《さて、こうしたアウラ概念や、静止状態の弁証法において描かれる過去と現在との俯瞰的で遠近感を失った重なりあい、そしてそこでの一回性が、現在における反復というあり方にただちに結びつけられうることは、ドゥルーズが『意味の論理学』で「永遠の現在」とでもいえる反−実現の時間を提示したこと、そして『シネマ』では、そのような反−実現的な現在のイマージュをそのまま描こうとしたことに、かなりはっきりと重なる部分がある。とくに「複製芸術論」の文脈は──もちろん、そこでアウラは消失するにしても、技術論的に新たな知覚が生じているのだから、ベンヤミンの記述そのものが、たんなる喪失的でノスタルジックな色彩にだけ結びつくわけではない──『シネマ』における時間イマージュの「発見」に関する議論(ドゥルーズは、むしろテクノロジーが、新たでより根源的なアウラをとりだすという方向で議論されるだろう)と、とくに知覚と技術の問題系に関して連関させうるとおもわれる。》(『瞬間と永遠』126頁)
 この最後の一文に付した註のなかで、檜垣氏は、「ドゥルーズが描く映像のテクノロジーは、透明な夏の空気のなかでいっさいの距離を近くにとり戻すアウラ的なものを「見せる」装置そのものではないか」(136頁)と書いている。
 これと同じことがベンヤミンンも言える。「…ベンヤミンは複製芸術そのものにノスタルジックな「本物性」の消滅を読み込んでいるだけではない。…むしろファシズムが「耽美主義的」に利用してしまった複製芸術を(ベンヤミンが述べるところの)コミュニズム的な利用においてとり戻すことにある。写真や映画というメディア一般に対して、ベンヤミンはあくまでも新しい時代の「知覚」の到来をみている。」(18頁)檜垣氏はここで、自著論文「記憶の実在──ベルクソンとベンヤミン」(『思想』2009年12月)の参照を注記する。
 
 その2.終章「自然の時間と人為の時間」で、檜垣氏は第三の時間に関連して次のように論じている。
《オリジナルなものがコピーをあらかじめ反復しており、そうした仕方で反復をなしつづけるコピーとしてしか規定されないような繰り返しが、儀礼的な行為の基本になっている。チューリンガを利用した儀礼が、もともと実在した何かを反復するのではなく、儀礼こそがそもそも「離接」的な「原初」に「連接」的なつながりを生みだすといえるように、反復的行為こそが「出来事」的な生成の時間なのである。》(『瞬間と永遠』152頁)
 ここでも檜垣氏は註をつけている。そのなかで「身体は、オリジナルな体験の装置というよりも、そこにはまさに「振る舞い」において「ふりをする」という事態が織り込まれている」と書き、坂部恵の参照を促している。
 
 場違いな付言。ほんとうは「歌の姿」や「歌の心」と同様、「夢の時間」の四類型(第54章で論じた「インメモリアルな過去、未来完了・前未来、回帰する時間、永遠の今」)をここでの文脈にそくして(また、第56章の想像的叙述のなかで言及した、モンタージュの空間における「永遠の今」と「永劫回帰する今」との整合性に留意しながら)再整理のうえ提示すべきところだが、「理論的」に錯綜をきわめ手に負えない。
 ただ一言述べておくとすれば、(和歌的)記憶の垂直軸の形成、すなわち三つの時間の生起を通じて、「夢の時間」の四類型という時間の概念が実在化する(「離接」的な「原初」に「連接」的なつながりが生みだされる?)のではないか、そしてそのことによって(言語や歴史といった)貫之現象学のより高次のステージがひらかれていくのではないか。(だから、この論考群のこの段階で【時間〇】から【時間V】までの四類型を提示することが叶わなかったのではないか。)
 
[*3]ベンヤミンは『パサージュ論──V 都市の遊歩者』に収録された「K:夢の街と夢の家、未来の空間、人間学的ニヒリズム、ユング」の項の冒頭に、「私が以下で提供しようとするのは、目覚めの技法についての試論である。つまりは、追悼的想起[Eingedenken]の弁証法的転換あるいはそのコペルニクス的転換を認識しようとする試みである。」と書いている。
《歴史を観るに当たってのコペルニクス的転換とはこうである。つまり、これまで「既在[das Gewesene]」は固定点とみなされ、現在は、手探りしながら認識をこの固定点へと導こうと努めているとみなされてきたが、いまやこの関係は逆転され、既在こそが弁証法的転換の場となり、目覚めた意識が突然出現する場となるべきなのである。》(『パサージュ論──V』[K1, 2])
 道籏泰三著『ベンヤミン解読』によると、ベンヤミンは、無意識的・主客融合的な「想起(Eingedenken)」ないし「経験(Erfahrung)」と、意識に浸透され主観的に構成された「追想(Erinnerung)」ないし「体験(Erlebnis)」とを区別した。「「想起」とは、かつて生じたことをはっきりした意識のなかに呼び起こすことではなくて、むしろ過去の思い出が、プルーストの言うように、無意識の淵よりおのずからふと甦ってくることをいう。」(142頁)
《過去のなかに未来を垣間見ようとするベンヤミンの「想起」は、言ってみれば、…逆向きのデジャ・ヴュであり、未来を予示している過去のこだまを現在がふとキャッチする現象のようなものである。(略)
 ベンヤミンによれば、出来事のなかには、それとは知られぬままに未来がひそんでおり、デジャ・ヴュとは、過去のうちにひそんでいたこの未来が、ふと現在とこだましつつ、現在に立ち現われてくる現象である。「想起」という作業もこれと同じであり、「想起」を通して呼び出された過去の破片からは、未来の忘れ物、すなわちわれわれの現在が忘れていった貴重な忘れものが顔をのぞかせているのだ。過去の迷宮での彼の屑拾いは、この埋れた忘れものを、それとしてしかとつかみ上げ、それによって「いま」を再認識、再確認するとともに、未来を新たに切り開いてゆこうとする行為に他ならない。》(『ベンヤミン解読』146頁)
 ベンヤミンの「想起」は、おそらくドゥルーズの「第三の時間」に通じている。
 檜垣前掲書(27-29頁)によると、第三の時間は、「現在という経験の場面を、そしてそれを形成する記憶という水準を成立させるために、超越論的な審級として要請される」のだが、しかしそれは「たんなる空虚な形式」であるだけでなく、「経験不可能な経験の原型として、ある種のイマージュ化が果たされている」。「直線としての時間が永劫回帰の時間となり、それ自身として一種の迷宮を描きだす。経験から明らかに逸脱した、この超越論的領域のイマージュ化」。そこでは、「時間の蝶番が外れ、「タナトス」として想定される無限に開かれた時間が描かれる」のだが、「無限の時間をダイレクトに表現すること、それは狂うことでもある」。
 
■イマージュの世界から象徴の世界へ
 
 川端康成の『雪国』の冒頭に、夜汽車の窓ガラスに映った「悲しいほど美しい声」の娘・葉子と夕景色がオーバーラップする情景を描いた美しい文章があります。
《鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顫えたほどだった。》(新潮文庫『雪国』10頁)
 私はここで、不遜ながら文豪が用いたのと同じ言葉をつかって、ひとつの決意を語っておきたいと思います。すなわち、これより「この世ならぬ象徴の世界」へ入り、そして、後方にとり残してきた多くの「瓦礫」や「屑」を拾い集め、救出し、(モンタージュして?)、貫之現象学B層の世界を切りひらいていきたいと。
 
 モンタージュの空間から心的現象が立ちあがるプロセスの概観を通じて、私は、ふたつの概念を手に入れることができました。ただしそれは、まだ精錬されない生の素材(瓦礫あるいは屑)にすぎず、これらを極め、自家製の「概念」に鍛えあげていくのは、これからの課題です。
 そのひとつ、プロセスの前段から浮上してきたのが「アウラ」です。さまざまな論点に関連づけることができる、とても豊饒な含みと射程をもった概念ですが、B層との関係でいえば、「人称」の秘密に深くかかわってくるだろうと思います。(というか、そのような問題意識をもって、「アウラ」について考察してみたいということです。)プロセスの後段からは、(コペルニクス的転回のもとでの)「想起」の概念が浮上してきました。同様に、B層との関係からは、「時制」の秘密に深く関係していると考えます。
 このふたつの概念は、いずれもベンヤミンに由来する(ジル・ドゥルーズにも関係する)ものであると同時に、三浦雅士氏が言語成立の条件として述べた「俯瞰しながらその見ている対象に身を移す能力」のうち、「アウラ」が「相手の身になること」に、(つまり、〈私〉と〈他者〉の反転可能性あるいは憑依可能性に)、そして「想起」が「自他をともに一望する俯瞰する目」に、(これを時間的パースペクティヴにおきかえて、逆向きのデジャ・ヴュあるいは(時間的な)遠心化作用に)、それぞれかかわってきます。
 貫之現象学B層の関心から言えば、「様相」や「感情」がどうなっているのか、が気になるところです。「様相」について言えば、たとえば、フレームの外部につながる「現実」[*]といった、(常套化したモンタージュを批判した)アンドレ・バザン的なテーマが、この論点に深くかかわってくることでしょう。
 「感情」については、まだここで論じる準備がととのっていませんが、ただ、「不気味なもの」には内容がないこと、すなわち、内容(ヒッチコックのモンタージュにおいて封印されたショットBやC)が与えられると不気味さが消失すること、そして、「体験体験」(永井均)というアイデア、「アプリオリな形式」としての第二の時間や「空虚な形式」としての第三の時間、さらには「死の欲動(タナトス)」が向かう場所、「演示」や「展示」や「振る舞い」が表現するもの、等々の、「事象内容・実在性(リアリティ)」をもたない「現実性(アクチュアリティ)」をめぐる問題群が、私が考想している第四の文法カテゴリーとしての「感情」に深いところでかかわってくる、とだけはこの場で書き記しておきたいと思います。
 
 ──多くの論点を(瓦礫や屑のように)放置したまま、貫之現象学A層をめぐる議論を閉じます。
 
[*]加藤幹朗著『映画とは何か』第X章「アメリカ映画のトポグラフィ D・W・グリフィスのアメリカン・インディアン初期映画」から。
《[人でも馬でもしばしば(フル・ショットではなく)その半身しか画面にとらえられない──引用者註]グリフィスの映画では、フレームの外部にとどまるのこりの半身が稼働している「現実」世界の外部が暗示され、そのことでいやおうなく空間的延長が実感される。それが今日の眼からすればナイーヴな印象をあたえるかどうかはともかく、固定キャメラ(演劇的フレーム)という当時の技術的、慣習的限界のなかで果敢にも空間延長の実験にあたったグリフィスの前衛ぶりをこそ讃えるべきである。そこをつたって無法者どもが爪先からフレーム・インしてくる白い岩肌(『娘と無法者』)は、一見、主人公の背後でただ観客の視線を遮っているだけに見えるかもしれないが、実は物語映画のなかで重層的な役割をはたしているのである。それはもはや書き割りの壁ではない、新しい三次元的な壁、生々しい「現実」としか言いようのないものへの確かな一歩を踏みだした映画的壁なのである。》(『映画とは何か』213-214頁)
 
(43号に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」42号(2020.12.15)
<哥とクオリアア/ペルソナと哥>第59章 映画/モンタージュ/記憶(その5)
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