Web評論誌「コーラ」42号/哥とクオリアア/ペルソナと哥 第58章 映画/モンタージュ/記憶(その4)

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Web評論誌「コーラ」
42号(2020/12/15)

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■和歌的なものの基本フォーマット─物と心、詞と姿
 
 映画的なもの、あるいは、「メカニカルな側面」(「知覚=移動カメラ」と「想起=モンタージュ」の水平軸)と「心的現象の側面」(記憶の垂直軸)、もしくは、変換や転換や翻訳に際して「残るもの」と「失われるもの」(牧野成一『日本語を翻訳するということ──失われるもの、残るもの』)の二元性を旨とする映画的構造をもったもの。そのひとつの典型が、この論考群で考察の対象(というか、素材)としてきた王朝和歌であって、このことが意味するのは、ここまで議論してきた事柄、すなわち、映画とは夢のパースペクティヴの引用で、パースペクティヴがひらく空間の内部において、移動カメラが切りとったイメージ群が、遠景化(ロング・ショット)や近景化(クローズアップ・ショット)、焦点移動(トラッキング・ショット)、等々の技法によってモンタージュされ、作品化され、それが観客の心的現象として投射され、感情移入されて、映画的なものが完成する、これら一連のプロセスが、そっくりそのまま王朝和歌の世界にもあてはまる、ということにほかなりません。
 というわけで、この章では、和歌的構造の前段、その制作におけるメカニカルな側面をめぐって、和歌におけるモンタージュの存在様態、いいかえれば、映画の技法とパラレルな関係性をもったレトリック[*]の駆使による「歌の姿」の造形のメカニズムを考察し、次章で、後段の、和歌の受容における心的現象の側面、すなわち「歌の心」の生成もしくは「歌の道の深き心」(俊成)の伝承について論じることにします。
 
 はじめに、和歌的なものの基本フォーマットをめぐって、そのメカニカルな側面をあらわす座標空間を、「心/物」の横軸(水平軸)と「姿/詞」の縦軸をつかって図示しておきたいと思います。それは、和歌の形式面であり技術面を示す平面、いわば和歌におけるモンタージュの空間です。(図中の「α,β,γ,δ」は本来、論脈によって中身が充填されるオープンな概念で、ここに挙げたのはその一例。)
 映画においてモンタージュされるのは、移動カメラが切りとったフレームやショットのイメージ群でしたが、和歌にあっては言葉、精確には、和歌の世界における「想起のリスト」(あるいは「らいふ・いんできす」)とも称すべき「歌詞(うたことば)のリスト」に登録された語群がこれに相当します。「移動カメラ」ならぬ「身体なき意識」が、物象と心象の世界を自在に飛び交い蒐集した「詞」(クオリア憑きの言葉)を素材に、本歌取り、見立て、縁語、掛詞といったレトリックを駆使してこれらを組み合わせ、「辞」をつかって組み立て、「たゞよみもあげ、うちもながめたるに、艶にもをかしくも聞こゆる姿」(「民部卿家歌合」跋文)をつくりあげること、これが、和歌におけるモンタージュのはたらきにほかなりません。
 
   《図》モンタージュの空間(和歌)
 
          【詞】
          │
        γ │ α
          │
  【心】━━━━━┿━━━━━【物】
          │
        δ │ β
          │
          【姿】
 
 ※α=声,β=声自体,γ=意味,δ=意味自体
 
[*]たとえば「掛詞」のレトリックは「オーバーラップ」に通じている。「掛詞の場合、「同音」という等価性は、並行するのでもなく、連続するのでもなく、表裏に重なり行くことになる。映画でいえばオーバーラップである。」(尼ヶ崎彬『日本のレトリック』156頁)
 また、ヤーコブソンは「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」で次のように書いている。「D.W.グリフィスの作品以来、映画芸術は、アングルや遠近法や“撮影画面[ショット]”の焦点を変える高度に発達した技術をもってして、演劇の伝統と手を切り、いまだかつてなかったほど多種多様な提喩的な“大写し”や、換喩的な“仕掛け”を広く取りそろえた。チャーリー・チャップリンの映画などでは、このやり方に代って、こんどは“重ね溶明[ラップ・ディゾルヴ]”を用いての新奇な、隠喩的な“モンタージュ”──映画的直喩──が代置された。」(『一般言語学』41頁)
 これらの文献から「和歌のレトリックと映画の技法の同類性」を考える手がかりが得られる。「メトニミー型レトリック=トラッキング・ショット」「メタファー型レトリック=オーバーラップ、フェイドアウト、フェイドイン」「シネクドキ型レトリック=クローズアップ・ショット」といったかたちで。(「オクシモロン型レトリック」という類型が考えられるかもしれない。たとえば、死の界域から俯瞰する眼あるいは末期の眼による「ロング・ショット」。)
 
■和歌のモンタージュ、その実例
 
 和歌制作におけるモンタージュの実例を、尼ヶ崎彬氏の著書『縁の美学──歌の道の詩学U』から、ふたつ引きます。
 
 その1.あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を独りかも寝ん
 
 尼ヶ崎氏いわく、和歌とは、貫之が定義したように「心に思ふこと」(主意、後景となる話題)を「見るもの聞くもの」(花鳥風月、前景となる景物)に付託して「言ひいだせる」ものであり、ある物(山鳥の尾=前景)を別のあるもの(独り寝=後景)として見る「見立て」は付託の一形式である。
《…この歌は、形式的には独り寝を話題として語るために山鳥の尾という物を引き合いにだしたものであるが、その効果は山鳥が博物学的な存在から、独自の思いを籠めた眼差しで眺められる存在となる点にある。景物は話題をある意味で染めるために導入されるのではなく、むしろ景物を染めるために話題が導入されているのである。
 ここで私たちは、付託の一形式としての見立ての考察から、付託一般の考察へと話を拡大しなければならない。なぜなら、景物を見る視点としての話題を提供することは、見立てのみならず、掛詞などによってもできるからである。》(『縁の美学』89-90頁)
 こうして尼ヶ崎氏は、「認識装置」としての見立てから「美的装置」としての見立てへと議論を進める。「団十郎の飛び六方」(前景の演示)を「弁慶の疾走」(後景のストーリー)として見る態度から、「弁慶の疾走」としての「団十郎の飛び六方」を見る方向へ。
《…この歌においては、何らかの話題が口実として背後にあること、そのことが重要なのである。なぜならこれによって「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の」という言葉続きは単なる言葉の遊戯ではなく、ある意味に支えられた存在となるからである。
 こうして私たちは、付託のもう一つの機能を見出す。それは単に美しい、あるいは面白いにすぎない詞の組み合わせに、背後からの話題という支えを与えることである。この時話題は、それを巡ってある認識を語るものというより、前景で存分に言葉に見得を切らせ、六方を踏ませるための口実にすぎない。
 当然ながら、このような歌では、話題について明確な認識が伝えられる必要はない。むしろ話題に意識が没入することは前景の言葉の組み立てを味わうのに妨げとなるであろう。それゆえ、話題については一貫した意味が構成されにくいように曖昧な記述を行い、ただ景物を思いによって染めるという機能だけは確保する、という戦略が生まれる。これを極限まで推し進める時、幽玄体と呼ばれた定家の次のような歌ができる。》(『縁の美学』92頁)
 ここで尼ヶ崎氏が掲げる歌は「さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫」[*1]で、このような、伝統的な「心」にではなく「表層」に価値を置く歌を評価する新しい基準、すなわち歌の「姿」の優位をうちたてたのが、定家の父俊成であった(93頁)。
 
 その2.来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
 
 尼ヶ崎氏いわく、物象の序詞を上句に置き、下句で主意となる思いを表す、万葉以来の素朴な手法や枕詞の使用例が少なくなり、物象と思いが複雑に絡み合うようになった中世期に登場したのが「本歌取り」で、本歌から取られた句と物象と主意とが、断片の寄せ集めによるコラージュではなく緊密な言葉の連鎖となるのは、依然として言葉の組み立て(モンタージュ)の中心的技法であった「掛詞」と「縁語」のおかげである(25頁)。
《この歌は万葉集の長歌「淡路島松帆の浦に/朝なぎに玉藻刈りつつ/夕なぎに藻塩焼きつつ……」を本歌としている。この光景が、来ぬ人を待って身をこがす恋の思いと、掛詞によって重ね合わされている。一首の構成は、初句と結句に恋を述べ、間の二・三・四句に本歌の言葉を解体して散らしている。もし初句と第二句の、あるいは第四句と結句の繋がりが切れていれば、全体の流れは滞るだろう。しかし「来ぬ人」と「待つ」、「焼かれる藻塩」と「焦がれる」とは言葉の縁によって自然に結びつく。そして「待つ」が「松帆の浦」との、塩の「焦がれる」が恋ゆえに思い「焦がれる」こととの掛詞であることによって、恋から風景へ、風景から恋へという二度にわたる話題の転換は自然に果たされる。読者(或いは聞き手)は、言葉の形式上の進行が緊密な連鎖によってなめらかでありながら、内容の上では、塩焼く浜の夕景色と、それを含む古典の世界と、新たに語られる恋の思いとが、縄のように絡み合い、回転ドアのように交替してゆくのを経験するだろう。
 ただの詞(散文)が、伝えるべき一つの内容を文法的統辞によって表すものだとすれば、和歌は複数の素材を非文法的統辞によって組み立てるものである。聞き手(ないし読み手)は走り、止まり、跳躍する言葉の運動を経験する。だがその運動は一貫した動きでなければならない。少なくとも和歌では、一群の言葉は脈絡もなく衝突するものであってはならない。三十一字の初めから終わりまで、非文法的であろうとも、何らかの関係によって結合し、滑らかに流れてゆかねばならない。(略)そのために隣接する言葉は、縁によってしっかりと繋がりながら、内容において異様な飛躍を試みねばならなかった。知覚のレベルでの連続と解釈のレベルにおける飛躍。この二重性が和歌の修辞の基本であり、これを好む美意識が中世にあれほど連歌を隆盛させたのである。》(『縁の美学』26-27頁)
 ここで言われる「和歌の修辞の基本」すなわち「知覚のレベルでの連続と解釈のレベルにおける飛躍」の「二重性」は、前章で述べた、映画のモンタージュ空間における「知覚」と「想起」の二重性につながっている。
《和歌は三十一字という短詩型であるにもかかわらず、なぜか複数の素材[少なくとも「心に思ふこと」と「見るもの聞くもの」という二つの素材──引用者註]を織り込むのが当然のこととされてきた。(略)複数の素材を文法を無視して組み合わせて、なお作品としての統一感を与える一つの方法は、言葉の全体を明確な図式の枠に嵌め込むことである。西洋や中国の韻律図式がそれである。だが日本人は漢詩の厳格な平行性の効果を知りながら、語と語の連想関係によって言葉を繋いでゆくことを選んだ。枕詞、歌枕、縁語、掛詞、本歌取などの修辞はみな、散り散りになろうとする言葉を何とか縁によって繋ぎとめとうとする手段であるとも言えるだろう。
 詩の言葉を図式として見るとは、全体を一度に見渡して構造を把握することであり、一群の言葉を一つのゲシュタルトとして認知することである。これはいわば、作品を空間的構築物として捉える態度である。一方言葉の縁を発見するとは、常に語と語との関係という歌の細部の繋がりだけに注目するものである。全体は見えない。ABCという語の連鎖において、AB間、BC間に縁があれば、AC間に何の関係がなくとも、ABCはひとつながりであるとみなされる。それはAとCとを同時に見ないからである。言い換えれば、歌を読む(聞く)とは、ABCを同時に一覧することではなく、AからBへ、BからCへという推移を経験することなのである。この推移を滑らかに行わせるものが、言葉の縁に他ならない。ここにあるのは、時間の中で出没する作品の細部を順次経験しようとする態度である。》(『縁の美学』28-29頁)
 ここに出てくる「全体を一度に見渡して構造[=枠]を把握する」ことは「神の視点」に、「語と語の連想関係[=縁]によって言葉を繋いでゆく」ことは「虫の視点」に通じる。前者は「空間」的構築物に、後者は推移すなわち「時間」の経験につながると尼ヶ崎氏は書いているが、「枠」(平行性の図式、西洋・中国における詩歌の文法)=空間的経験、「縁」(連想のネットワーク、日本における詩歌の文法)=時間的経験、と単純に一般化できるほど話は簡単ではない[*2・3]。
 
[*1]定家詠「さむしろや」をめぐって、尼ヶ崎氏は『花鳥の使──歌の道の詩学T』で次のように論じている。かつて(第41章で)取りあげたことがあるが、和歌(本歌取り歌)におけるモンタージュの窮極のかたちをめぐる(もうひとつの)優れた実例分析だと思うので、ここにその「完全版」を再掲する。
《一見して、語の統辞関係が解体されているのがわかる。「風・ふけて」「月を・かたしく」などという語の結合は意味をなさないし、一首全体の文脈も、なだらかな意味の流れとしてつきあえるような統一性をもっていない。しかし、文脈の中での語の機能が明らかでないということは、逆に見れば、語の意味が文脈による限定を免れるということである。語の一つ一つは裸で放り出されて我々と対面し、その語が含意しうる(暗示しうる)あらゆる意味やイメージの中で浮遊する。そして一つの語が、我々の視点に応じて、同時に多くの意義や面影を帯びることができるのである(「さむしろ」=寒い、狭筵。「風ふけて」=夜更けて、風吹きて)。
 しかも、統辞関係の解体にも拘らず、その語彙の断片は、十分に本歌[さむしろに衣かたしき今宵もや我をまつらん宇治の橋姫]を示唆し、その風情を想起させる。文の表面上の非構成にも拘らず、本歌を知る享受者の意識の中では、意味統合は完全に再現されているのである。つまり、既に本歌の風情を知る者にとって、新歌の非文法性は、その風情の喚起を妨げない。
 そして喚起された本歌の風情が、文脈として新歌の各語の機能を限定してゆく。「風・ふけて」「月を・かたしく」という非文法的表現も、既に与えられた本歌の風情に付加された新しい風情としてその意味を生ずる。我々は、約束の人を待つうちに更けゆく夜、次第に傾く月、やがて宇治川を寒く吹き渡る風、橋姫の片敷く衣に白く輝く月影などのイメージを本歌の風情を基礎として想像することができるだろう。》(『花鳥の使』135頁)
[*2]このことについては、尼ヶ崎氏自身が次のように論じている。
 いわく、西洋の幾何学式庭園は「神の眼から鳥瞰した図形の美しさ」をめざす空間芸術で、日本の回遊式庭園は「時間的変容を経験する芸術」だとされるが、イギリス式庭園(非幾何学的な回遊式庭園)の例もあるのだから、この対比は決定的ではない。ただ、西洋では全体を枠づける構造から出発しようとする傾向があるのに対し、日本では時間的経験の流れ具合を重視して、細部の連鎖と変容に注意する傾向があったくらいのことは言えるだろう(『縁の美学』32-33頁)。
 これに関連して(具体的には、尼ヶ崎氏の議論に出てきた「構造」という概念をめぐって)、三浦雅士氏が『孤独の発明 または言語の政治学』で次のような議論を展開している。
 いわく、言語は聴覚ではなく視覚に基盤を置いている。言語が「構造」として捉えられるところにその事実が端的に示されている。感動は言語現象であり、視覚の領域において生成する。音楽的感動でさえも仔細に検討すれば視覚的なものとして生成する。小林秀雄が止観や禅にこだわったのも同じ理由からである。(459-460頁)
 またいわく、カンブリア紀の視覚革命によって(つまり、眼によって)時間と空間が生まれた、時間の対象化は時間の図式化、構造化すなわち空間化によって成り立ち、空間の対象化も生命という時間によって成り立った。言語革命は視覚革命に匹敵する。視覚革命によって生命に与えられた能力をそっくりそのまま外在化したものが言語なのだ。言語革命が人間にもたらした最大のものは死の領域、死者たちの広大な領域である。(474-476頁)
 
[*3]あるいは、「全体を一度に見渡して構造を把握する」ことは「俯瞰する眼」に、「語と語の連想関係によって言葉を繋いでゆく」ことは「相手の身になる」能力に通じる、と解釈することもできる。その場合、前者が空間的経験につながり、後者は時間的経験につながると見ることに説得力が増す。
 
■和歌のモンタージュ、その静態と動態
 
 以上の実例分析をふまえて、若干の想像的考察をくわえます。
 
 ……和歌的モンタージュ空間における【物】(可視領域)と【心】(不可視の領域)の付託関係を見る視点が、【物】⇒【心】の見立て(認識装置)から【心】⇒【物】の見立て(美的装置)へと移動する。物象と思いが複雑に絡みあう。それと同時に、物的イメージと心的イメージの媒介であり、表現の媒体であり、伝導の媒質であった【詞】がその透明性(不可視性)を喪失し、響きと匂いと象(カタチ)をもった第二の【物】として可視領域に浮上する。
 そして【物】と【心】と【詞】、物象と心象(思い、主意)と語・句、あるいは「声」と「意味」と「形(文字)」が、掛詞や縁語といった修辞、背景世界(本歌取りにおける古典世界)の「含み」や「引用」、辞(てにをは)のはたらきを介して連接され、モンタージュされ、第二の【心】とも言うべき【姿】が不可視の領域に胚胎する。(前々節の《図》が完成する。)
 やがて【姿】⇒【詞】から【詞】⇒【姿】への転換、あたかも【物】と【心】の付託関係における視点移動(見えないものの認識から見えるものの美的表現へ)を逆倒的に転用したプロセスを経て、【姿】は可視領域(記憶の領域?)へと現成し、前景化し、【詞】はふたたび不可視の領域(死の領域)へと沈みこみ、後景化していく[*1]。……
 
 さて、これらのことを念頭に、これより、和歌的モンタージュ空間の静態と動態を概観し、そこから垂直方向にたちあがる「記憶」の考察へと進んでいきたいと思います。起点となるのは、映画=和歌は夢のパースペクティブの引用である、という命題です。前々章で、パースペクティブの意義をめぐって、移動する視点と不動の光源(一者、白光)との関係性から、狭義、広義、最広義の三分類を試みました。その議論を整理のうえ再掲します。
 
T.狭義のパースペクティヴ =不動のパースペクティヴ
U.広義のパースペクティヴ =不動のパースペクティヴ+動く視点
V.最広義のパースペクティヴ=不動の光源+不動のパースペクティヴ+動く視点
 
 狭義のパースペクティブは、和歌的モンタージュ空間の静態を、すなわち、@視点(身体なき意識)の稼働フィールドと、A「様相」(現実、潜在、可能、不可能)と「感情」[*2]からなるフィールドの特質を決定します。さらに、広義のパースペクティブが、B「人称」と「時制」(現在、過去、未来)の内部における自在な視点移動(=推論)を導入して、和歌的モンタージュ空間の動態が完成します。そして、最広義のパースペクティヴによって、その「立体化」が図られる。すなわち、和歌的モンタージュの生産物である「記号」(インデックス、イコン、シンボル、マスク)の生成を通じて、「記憶」がたちあがってくるわけです。
 夢のパースペクティブをめぐって、これまでに、ふたつのヴァージョンを見てきました。第一の分類は、「表層、深層、最深層、超深層(基底層)」の四つの次元において(第53・54章参照)、第二の分類は、「換喩(メトニミー)型、隠喩(メタファー)型、提喩(シネクドキ)型、逆喩(オクシモロン)型」の四つの型において(第56章)、それぞれパースペクティブをとらえるものでした。このうち、和歌的モンタージュ空間の静態にかかわるのが第一の分類です。ここに、ひとつの試案として、前々節の《図》で用いた記号「α,β,γ,δ」に四つの次元のパースペクティブをあてはめた対応関係を示しておきます。
 
◎「α」:表層のパースペクティヴ (P2)⇒言語的伝導空間
◎「γ」:深層のパースペクティヴ (P1)⇒身体的伝導空間
◎「δ」:最深層のパースペクティヴ(P3)⇒律動的伝導空間
◎「β」:超深層のパースペクティヴ(P4)⇒無・死・幽の界域
 
 夢のパースペクティブをめぐる第二の分類は、これを「本歌取り、見立て、縁語、掛詞」の和歌的レトリックに関連づけることで、和歌的モンタージュ空間の動態を俯瞰する、見晴らしのいい眺望点に立つことができます。ここでも、ひとつの試案として、(かのアナロジーの四型(第48章参照)を意識しながら)、和歌的モンタージュの四態、そのそれぞれの骨格を粗描しておきたいと思います。
 
【モンタージュU】⇔【物】
〇メトニミー型パースペクティヴの引用
 ⇒言語的伝導空間(無・死・幽の界域を含む)内での「視点移動」
〇「本歌取り」(A∧B:「インダクション」)
 =「表現」(「すでに在るもの」の記号化(浄化))
 ⇒時間・空間的隣接性に着目した「インデックス」の生成
 
【モンタージュT】⇔【詞】
〇メタファー型パースペクティヴの引用
 ⇒言語的伝導空間と身体的伝導空間の間の「視点移動」
〇「見立て」(A⇒B:「アブダクション」)
 =「伝達」(同位相下の変換、隣接位相間の移動)
 ⇒現実世界と可能世界を結ぶ類似性に着目した「イコン」の生成
 
【モンタージュV】⇔【心】
〇シネクドキ型パースペクティヴの引用
 ⇒重なり合う身体的伝導空間と律動的伝導空間の間の「視点移動」
〇「縁語」(A∨B:「ディダクション」)
 =「反復」(異なるレヴェル間の生成変化(変態))
 ⇒「類−種」の包摂関係にかかわる「シンボル」の生成
 
【モンタージュ〇】⇔【姿】
〇オクシモロン型パースペクティヴの引用
 ⇒律動的伝導空間と無・死・幽の界域との間の虚なる「視点移動」
〇掛詞(¬A=A:「プロダクション」)
 =「表出」(「これまで存在しなかったもの」の創造)
 ⇒「生−死」の反転関係にかかわる「マスク」の生成
 
[*1]「【姿】(不可視の領域)/【詞】(可視領域)」が和歌的モンタージュ空間の縦軸をなすのに対して、「【姿】(記憶=可視領域)/【詞】(死=不可視の領域)」はモンタージュ空間を俯瞰し、あるいはこれを下支えする垂直軸をかたちづくる。
 私の考想では、貫之以前の「【心】/【物】」の(カミの領域にかかわる)垂直軸が水平化して横軸(第一のスクリーン)となり、「【姿】/【詞】」の縦軸の生成を通じて和歌的モンタージュ空間(貫之現象学のメカニカルな側面)が設営される。この「【姿】/【詞】」の縦軸が、見えないものの認識から見えるものの美的表現へという逆倒的な「視点移動」を介して垂直化したとき、すなわち貫之現象学における心的現象の側面(第二のスクリーン)が生成したとき、狭義の定家論理学(俊成系譜学)を包含する広義の貫之現象学が完成する。
 そして「【姿】/【詞】」の垂直軸の水平化とともに、狭義の貫之現象学(「【心】/【物】」の縦軸)を包含する広義の定家論理学が誕生する。定家の有心から世阿弥の無心と芭蕉の虚心が立ちあがり、定家論理学が完成する。さらに、芭蕉の虚心を契機として「【心】/【物】」の縦軸が垂直化し、貫之以前、万葉以前の縄文的なものが「回帰」し、子規による「革新」が始まる。
 
[*2]第四の文法的カテゴリーとしての「感情」について、この論考群ではいまだ論証抜きの仮説の段階にとどまり、その実質は朦朧としている。いずれ貫之現象学のB層をめぐる議論のなかで、「強い」私的言語の第四の類型として主題的にとりあげる予定だが、その際には先賢の説として、デカルト・スピノザの感情論や大森荘蔵の天地有情の哲学などとと並び、岡潔の情緒論を念頭におきたいと思っている。
 以下は、森田真生氏が『数学する身体』第二章のエピグラフに引用した岡潔の文章で、出典は『岡潔集第四巻』(または角川ソフィア文庫『一葉舟』)所収の「梅日和」。
 
 過去なしに出し抜けに存在する人というものはない。
 その人とはその人の過去のことである。
 その過去のエキス化が情緒である。
 だから情緒の総和がその人である。
 
 場違いな追い書きをひとつ。
 言葉だけの呈示にとどまり、内容が空疎な概念は「感情」だけではない。「生産(production)」や「伝導(conduction)」という推論の第四、第五の類型、「仮面記号(mask)」の実質、等々。これらについてもいずれ貫之現象学のB層・C層をめぐる議論のなかで解明していきたい。
 
■和歌のモンタージュ、その静態と動態(承前)
 
 和歌的モンタージュの四態で、「本歌取り、見立て、縁語、掛詞」のレトリックと等号でむすんだ「表現、伝達、反復、表出」についての説明(それらは以前、第11章や第48章でとりあげた)は、丸山圭三郎著『言葉と無意識』を出典とするものです。丸山氏は、「無意識の解放」と名づけられた同書の最終節で、臨床心理学による心の病の治療を、「もし豊饒な生の働きをおさえて、均衡のとれた社会的人格を強制するのが治療であるとすれば、これは治療というよりは科学による新たな抑圧であるといわねばならないだろう。」(224-225頁)と批判し、このような「抑圧」から「深層意識と無意識を開放すること」を目指す治療の可能性について、フロイトの議論を踏まえ、ふたつの方向で論じています。そのひとつが、「表現=カタルシス(浄化)」です。
《ところで、このカタルシスは、下意識の解放でありその〈表現〉である限り、先に批判したアメリカ式臨床心理学が、患者を、アリストテレス=デカルト的論理の支配している表層意識へと無理矢理引き戻すのとは全く異なる方向にある、と言えるだろう。
 しかしこれがあくまでもパトスの‘表層のロゴス化’という〈表現〉であって、次に見るような深層意識における〈表出〉ではないところに問題を残している。〈表出〉とは、「すでに在[あ]るもの」に表現の衣をまとわせることではなく、連続体としての欲動[ピュルシオン]を非連続化する根源的な働きのことである。前章で述べたカオスのコスモス化、〈無意識〉のパトス化、つまりは‘深層のロゴス化’だからである。〈表現〉には解放感はあっても〈表出〉のもつ快楽はともなわない。カタルシスがもたらす下意識の解放は、その意味では、私の考える〈無意識の解放〉の前段階に過ぎないのではあるまいか。》(『言葉と無意識』227頁)
 無意識の解放(治療)の第二の、そして最終的な方法は、「表出=昇華」です。
《〈昇華 sublimation〉とは、もともと化学用語であり、「固体が液体を経[へ]ずに気化する現象」とその逆の「気体が液体を経ずに固体となる現象」をさしていう。したがってこの飛躍的な運動は、もはや等質的・同位相下の〈変換 transformation〉とか隣接する位相間の移動ではなく、異レヴェル間の生成変化へと拓[ひら]かれる〈変態 de'formation〉がもたらす「カオス・破局であると同時に秩序・リズムの萌芽」状態(J・ドゥルーズ『感覚の論理』)としての〈意味生成 signifiance〉である。
 そうしてみると、これは私たちが前章で見たカオスの〈言分[ことわ]け〉の運動そのものであって、〈言分[ことわ]け〉られる欲動は、性的エネルギーをも包摂するよりひろい生[レーベン]のエネルギーと考えることができよう。これはまたニーチェの言う〈力への意志 Wille zur Macht〉でもあり、これこそが自らの差異を肯定し、生のあらゆる多様性・偶然性を肯定するために、これを隠蔽している〈重圧の魔〉に永続的に否[ノン]を言いつづける力なのだ。
 この創造への意志は、これまで存在しなかったものを作り出す〈至高 sublime(←sublimation)〉な行為の原動力となり、カオスを新たに言分[ことわ]けて意味化する。〈昇華〉とは、生の新たな可能性への挑戦でもあり、‘身’の深層にある下意識・潜意識のみならず欲動という名の‘無意識の解放’であって、私のいうカオスのコスモス化という多様な運動自体なのである。》(『言葉と無意識』229-230頁)
 丸山氏の議論のうち、「等質的・同位相下の〈変換 transformation〉とか隣接する位相間の移動」とされるもの、(それは、「表現」をめぐるもうひとつの説明と解釈していいのかもしれませんが)、これを私は「伝達」の概念規定としてとらえ、また、「異レヴェル間の生成変化へと拓かれる〈変態 de'formation〉がもたらす「カオス・破局であると同時に秩序・リズムの萌芽」状態」とされるもの、(それは、丸山氏自身によって、「表出」をめぐるもうひとつの説明とされたものですが)、これをあえて「反復」の概念規定として採用しました。
(「反復」については、かつて(第11章)、新宮一成氏が『夢分析』のなかで、「初めての夢という名に値する夢があるとしたら、それは、自己が自己の現実を言葉によって初めてとらえたときの驚きを含む夢のことである。この驚きを再現しようとすることが、我々が夢を語り合うことの最も深い動機である以上、その夢がたとえ今朝見られたのであっても、それはやはり初めての夢と呼ばれるのにふさわしいのである。」と書いていたことに触発されて、この「初めての夢」の反復、すなわち「一回性をもった出来事を何度でも初めて「今、ここ」で経験すること」と定義した。)
 つまり、「伝達、反復」は、「表現、表出」とは別ヴァージョンの対概念として、私が(勝手な思いをこめて)導入したものであって、しかも、かつて(第48章)、「伝達」は「模倣」と表記する方がふさわしいのではないか、「反復」は端的に「引用」と言い換えることもできるのではないか、と自問自答したように、いまだ煮え切れないところがあります。
 そのとき私の念頭にあったのは、淺沼圭司氏が『映ろひと戯れ──定家を読む』で展開した議論でした。淺沼氏は、その「あとがき」で、芸術制作にかかわる「対象/主体/媒体」の三つの契機を指摘し、それらの優越関係にそくして、制作のあり方(技法)を次の四つに分類しているのです(本稿第13章参照)。
 
◎「表現」:対象的契機=主体的契機
◎「表出」:対象的契機<主体的契機
◎「模倣」:対象的契機>主体的契機
◎「引用」:対象的契機<媒体的契機,主体的契機<媒体的契機
 
■引用と展示、あるいはモンタージュと切断
 
(淺沼氏の「対象/主体/媒体」は、私が考えている貫之現象学の「A層/C層/B層」にほぼそのまま重なり合うのではないかと思われるが、それはここでは措くとして)、これらのうち、媒体的契機が優越する「引用」をめぐって、淺沼氏は、『制作について──模倣、表現、そして引用』の第四章「表現の解体あるいは引用への道筋」で、「その統一の根拠を媒体そのものにもつ作品とは、いったいどのようなものなのだろうか、あるいはむしろ、そのような作品は実際に存在可能なのだろうか」(269頁)と問いを立て、そして、モネ晩年の、たとえばオランジェリ美術館蔵の「睡蓮」の連作やマルモッタン美術館所蔵の「睡蓮」連作のためのスケッチなどに予告的に示され、あるいは萌芽としてふくまれていた「表現の自己解体とそのあとに絵画がたどるだろう道筋」(281頁)について検討し、音楽や文学(小説)といった他の領域についても敷衍したあとで、次のように括っています。
《[表現解体の]「はて」における各領域の制作のありかたは、きわめて多様であり、ひとつの枠でくくることはできないが、それらに共通するものとして、既存のものごとを、それにたいするなんらかの操作によって、べつのものごとに変換すること、一言でいえばひろい意味での「引用」をあげることができるのではないだろうか。そして、そのことからいえば、表現の解体にいたる道筋とは、「引用」に通じる道筋だったのかもしれない。ところで、「引用」と密接に関連するものとして、ヴァルター・ベンヤミンのいう「展示価値」(der Ausstellungswert)をあげることができるだろう。なぜなら、「展示」とは、既存の対象(作品)を、それがおかれている脈絡──聖域としての本来の場──から切りはなし、まったくべつの脈絡──ひらかれた場──におくことによって、あらたな対象に転化すること──あらたな価値を付与すること──にほかならず、その点であきらかに「引用」に通じるのだから。》(『制作について──模倣、表現、そして引用』340-341頁)
 ここで言われる「広い意味での引用」に通じる「展示」をめぐって、淺沼氏は「ベンヤミン小論──理論史の観点から」(山田幸平編著『現代映画思想論の行方』所収)で、次のように論じています。
 いわく、ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」(淺沼訳による読みくだしでは「芸術作品を機械技術的な手段によって複製することが可能な時代においては、芸術作品そのものはどのようなありかたをするのか」)において、「展示価値」を「礼拝価値」ないし「アウラ」と対置していること、また、アウラ的な芸術作品が「起源的なものの感覚へのあらわれ」として、「エイコーン」としてとらえられるのに対して、「なんらかの材料の主観による形成によって生じ、主観にたいしてあたえられる形象」であり「純粋な表面」である複製は「パンタスマ」としてとらえられるべきである。
 またいわく、ソシュールが「語において重要なのは、音そのものではなく、語を他の語から区別することを可能にする音声上の差異である」云々と述べたように、「複製=パンタスマの価値とは、「展示」による相互的な差異化によって顕在化した感性的性質であり、その差異に根拠をもつ意味作用にほかならないだろう」(15頁)。
《「展示」は、起源からの切り離しであり、切り離されたもの(断片)の任意の配列にほかならないのだから、あきらかに「引用」としてとらえられるだろう──ベンヤミン自身も「引用の根拠には切断(das Unterbrechen)がある」と述べている。断片は、それを超えたもの──起源的なもの──によってその位置をあらかじめ定められてはいないのだから、ひたすら相互に戯れるだけであり、その戯れによって織りなされたものは「テクスト」としてとらえられるだろう。映画──複製技術による制作──の所産、「アウラ」を失った芸術作品とは、「テクスト」にほかならない。ベンヤミンは、「アウラ」の否定と「展示(引用)」による「作品」から「テクスト」への転換に、ダダイズムと映画の共通性をみたのではないだろうか。》(『現代映画思想論の行方』18頁)
 ……モンタージュの根拠には切断がある。あるいは、モンタージュとは(もっとひろい意味での)引用である。……
 
 ベンヤミン=淺沼的な意味での「展示=(ひろい意味での)引用」の概念は、(市川浩氏が言うところの「間テキスト空間」、すなわち全体を内蔵しない未完結の断片群によって星雲状に構成された「錯綜体」の概念(第46章参照)につながるものであると同時に)、【モンタージュT】が担う「伝達・模倣」の機能に関係してくるものだと思います。
 ここで、言葉遣いの乱れを気にせず、強引な単純化をほどこして「引用」の概念を拡張し、類型化すると、次のようになるでしょうか。この「引用」の四類型をめぐる当面の使い道は想定していませんが、いずれ、おそらく貫之現象学のC層あたりで、(たとえば歴史をめぐる議論のなかで)、「引用=無意志的編集」といった切り口で再考することになるでしょう。[*]
 
【引用U】=表現(浄化)
【引用T】=伝達・模倣・展示
【引用V】=反復・引用
【引用〇】=表出(昇華)
 
[*]使い道のない追い書きをひとつ。
 かつて(第42章で)試みた「象/像/喩/肖」のイマージュの四分類を再考し、強引に引用の四類型と重ね合わせると、次のようになる。(「A領域、M領域、B領域、C領域」の出典は井筒俊彦著『意識と本質』。)
 
【イマージュU】=「像」
 ・A領域(表層意識)に現象する狭義の「像」
 ・「実物」(オリジナル)に対する「写し」(コピー)の関係にある像
 ・「インデックス」としての像
 
【イマージュT】=「喩」
 ・M領域(A領域とB領域の中間地帯)に稼働する広義の「像」
 ・「喩」的関係にある広義の「象」(形象化された元型)
 ・「イコン」(「オリジナル」が受肉した「コピー」)としての喩
 
【イマージュV】=「象」
 ・B領域(言語アラヤ識)に生起する最広義の「像」
 ・「体」(生きたるもの)の「はたらき」として立ち上がる狭義の「象」
 ・「シンボル」としての元型(「コピー」なき「オリジナル」)
 
【イマージュ〇】=「肖」
 ・C領域(無意識)に棲息する最狭義の「象」
 ・「仮面、マスク」(「オリジナル」なき「コピー」)
 ・もしくは「人の手によらない聖像、アケイロポイエートス」(「オリジナル」が自動転写された「コピー」)
 
(59章に続く)

★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」42号(2020.12.15)
<哥とクオリアア/ペルソナと哥>第58章 映画/モンタージュ/記憶(その4)
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