Web評論誌「コーラ」39号/哥とクオリア 第54章 夢/パースペクティヴ/時間(その54)

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Web評論誌「コーラ」
39号(2019/12/15)

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《かつてお前に教えたように言葉は時間と共にある。時間の中にしかない。だがなるほど文字は時間を超える。ここに文字の背理がある。文字、そして書物、そして図書館。本性を時間の中に置きながら、仮象において時間を超えているもの。時間の中で留まり続ける、時間を超えて在り続けるもの、ずっと在り続けるもの、継続するもの、続くもの、残るもの、それが私の関心の範囲だ。私の守るものだ。だがお前は違うものを追っていたんだね。お前は運動の中に身を置いている。(略)お前が学んできたものは、瞬間の中に存していて、流れる時の中にしかなくて、止めてしまうことが本質的に意味をなさないようなものだったんだ。》(高田大介『図書館の魔女 第二巻』)
■パースペクティヴの四つの次元、その動態
 
 夢のパースペクティヴの四次元をめぐる動態論の要点はふたつ、その一は「P4⇒P3」のヴァーティカルで力動的な関係性であり、その二は「P1⇔P2」のホリゾンタルで相互反転的な関係性にあります。
 このうち、「P4⇒P3」の垂直運動については、前章で参照した文献類のなかで、デュナミスからエネルゲイアへ、バーチュアルな潜勢態からアクチュアルな現勢態へ、作るものから作られたものへ、ゾーエー(生死未分の根源的生)からビオス(個体的生)へ、見えない型(不可能な統合・無)から見えない形(潜在的統合)もしくは見える型(可能的統合)へ、等々、様々な言い方で、(微妙な概念的ニュアンスの差異をはらみながら)、論じられていました。
(私はここで「P4⇒P3」があらわすヴァーティカルで力動的な関係性と「デュナミスからエネルゲイアへ、ゾーエーからビオスへ、…」の関係性とが同型だと主張しているのであって、「P4=デュナミス、ゾーエー、…」「P3=エネルゲイア、ビオス、…」と主張しているのではない。)
 また、「P1⇔P2」の水平運動については、(「P4⇒P3」ほど多彩でないにしても)、自己と他者との水平的で間主体的なあいだをめぐる議論のなかで言及されていたし、それに、第52章で取りあげた木岡伸夫氏の風景論において、可視的次元の「原風景=型」と「表現的風景=形」との間に成り立つ関係性──第49章で引用した文章で、「種々の差異としての〈形〉から統一的な〈型〉が誕生し、またその逆に〈型〉から無数の〈形〉が導出される、という相互反転の過程」(『風景の論理──沈黙から語りへ』)と規定されていたもの──は、水平的と形容していいと思います。
 これらは、以前取りあげた、中沢新一氏の「生起と喩」のメカニスムの議論に通じています(第33・34章参照)。いや、そもそもそうした議論が、「伝導体」における垂直軸と水平軸の関係性という、これまで断続的に考察してきた、この論考群の究極のテーマと言えるものに直結していることは、あらためて言及するまでもない事柄でした。
 ここで、パースペクティヴの四つの次元をめぐる話題に関連して指摘しておくべき論点、というか(独断的な)仮説が、これもふたつあります。その第一は、すでに述べたように、垂直・水平のふたつの運動からなる夢のパースペクティブの動態において、その要の位置を占めるのが、第三次元のパースペクティブ(P3)であるということです。そして、このことの実質的な意味合いが、第二の論点=仮説にダイレクトにつながっていきます。
 それは、P3を中核とする、P4とP3の「あいだ」、P3とP1の「あいだ」、P3とP2の「あいだ」、さらにP3を舞台とする、P1とP2の「あいだ」に、(「時制」「感情」「様相」「人称」の四つの文法カテゴリーの成立にかかわる夢体験の諸相、すなわち)、「時間の変容」「他者への変身」「虚構の現実化」「自己の分裂」という夢の体験の四つのフェーズ(第50章参照)が立ちあがり、そして、(話が入れ子式に込みいってきますが)、これら諸過程の起点となる「P4⇒P3」の垂直運動が生みだす「原本的」な時間体験が、いま述べた四つの体験フェーズの特質に応じてそれぞれ異なる方向に分岐していく、というものです[*1・2]。
 それでは、これより、以上の四つのプロセス、すなわち「P4⇒P3」、「P3⇒P1」、「P3⇒P2」、「P1⇔P2」(/P3)の垂直・水平両面にわたるムーブメントの相互の関係性と、そこに立ちあがる四つの体験フェーズに特有の時間体験の実質について、節をあらためて概観し、生の素材を蒐集することにします。
 
★第52章[パースペクティヴの四つの次元、その静態]より引用。
★和歌における起点・始まりは「心」にあり。故に、「表層=言分け=詞」に対して「深層=身分け=心」をP1とする。
 
【P2】
・表層のパースペクティヴ
・「言分け」─言語的次元のパースペクティヴ
・言語的伝導空間
・虚と実が分離し、始まりと終わりと筋をもった物語が成立
・「知覚的眺望」の世界(P3と共有)
 
【P1】
・深層のパースペクティヴ
・「身分け」─前言語的・身体的次元のパースペクティヴ
・身体的伝導空間
・「私・いま・ここ」からのパースペクティヴ─経験的次元
・私と他者のパースペクティヴ─経験的な構造の問題
・「感覚的眺望」の世界(P3と共有)
 
【P3】
・最深層のパースペクティヴ
・「気分け」─リズム的・倍音的次元のパースペクティヴ
・リズム的伝導空間、誦習による伝承
・「私・いま・ここ」からのパースペクティヴ─超越論的な構造の問題
・私と他者のパースペクティヴ─自他未分化のパースペクティヴ
・パースペクティヴの交換
・生命現象でも言語現象でもなく、同時に生命的かつ言語的な現象であるようなものの次元
・通態的、邂逅的、中動態的な世界
・複眼的、非人称的、虚想的「眺望」の世界
・物語的・感情的「相貌」の世界
 
【P4】
・超深層(基底層)のパースペクティヴ
・「地(時)分け」─地平的・風土的次元のパースペクティヴ
・完了形による語りの遂行によって過去が後から製作(想起)される場所
・非顕在的、潜在的、可能的な世界
 
[*1]「時間の変容」以下の四つの(渡辺恒夫氏オリジナルの)項目は、現実世界の側から見た夢世界の体験の実質を示している。第50章で示唆したように、現実世界の原理が変容して夢世界の体験となるのではなく、これとは逆に、夢世界の原理が変容して現実世界の体験が出来あがる(たとえば、現実世界の時間のあり様は夢の時間の変容態である)のだとしたら、これらの表現は逆倒的である。
 あるいは、こんなふうに考えることができるかもしれない。「P4⇒P3」から「P1⇔P2」へ到る夢のパースペクティヴの移行は、夢から覚醒して現実の意識に戻る(現実の意識を構築する)プロセスにほかならないのだと。すなわち、死の眠りから深い眠りへの移行(P4⇒P3)を通じて時間が生起し、深い眠りから浅い眠りへの移行(P3⇒P1)によって感情が萌し(あるいは他の身体に移入し)、深い眠りからの覚醒(P3⇒P2)を経て夢の語らいが始まり、夢と現を往還するまどろみ(P1⇔P2)のうちに覚醒した意識が浮上する、といった具合に。
 
[*2]フロイトは『メタサイコロジー論』に次のように書いている。「無意識(Ubw)系の諸過程は、‘無時間的’である。すなわち、その諸過程は時間的に秩序づけられているのではなく、また時間の経過によって変化しない。そもそも、それらは時間との関係を持っていない。時間との関係もまた、意識(Bw)系の仕事と結びついている。」(十川幸司訳、講談社学術文庫86頁)
 この文章をこの場で引用した趣旨は、死の眠りから深い眠りへの移行を通じて時間が生起する(死の眠りは無時間的である)ことの「傍証」のためであって、フロイトの「第一局所論」つまり「無意識/前意識/意識」に夢のパースペクティヴの動態を(「P4(⇒P3)/P3(⇒P1)/(P1⇔)P2」といったかたちで)擬えたいからではない。(擬えるなら井筒俊彦由来の「無分節/分節U(深層の言語、コトバ)/分節T(表層の言語、日常言語)」の方がふさわしい。)
 
■垂直的エクスタシスと水平的エクスタシス
 
 まず、四つのプロセスの相互関係について。
 私はこれを、次の二段階で考えています。第一段階は「P3」の誕生と成長の出来事、第二段階は「P3」を舞台として展開される世界形成の物語、と見ていいでしょう。
 
【第一段階】
○超深層・基底層のパースペクティブ(P4)がひらく無(死、幽[かみ])の界域から最深層のパースペクティブ(P3)がひらく律動的伝導空間へ(P4⇒P3)、喩ならぬ湯が、「自然の勢い」である「ゆ」が湧出する。
○この原初の垂直運動によって「有」の界域が生起する、「有」出する。(ただし、「無から有へ」と言葉で表記される「無」は、すでにして「有」の界域に属している。「無」はつねに「後から」見いだされる、完了形の語りによって想起=製作される「地平」のように?)
 
○最深層のパースペクティブ(P3)がひらく律動的伝導空間、この見えない世界、「有」の界域のうちの沈黙の領域において新たなふたつの垂直運動が、原初の垂直運動(P4⇒P3)の反復もしくは模倣・引用として生起する(P3⇒P1,P3⇒P2)。
○その結果、新たなふたつのパースペクティヴ(P1,P2)がその原初の胚芽的な姿を(「身」もしくは「コトバ」として)現し、これらはやがて(第二段階に至って)世界を形づくる構造軸に生長していく。(あたかも、中動態の世界(P3)から受動態の世界(P1)と能動態の世界(P2)が生まれ出てくるように?)
○この第二の垂直運動が生み出すふたつのパースペクティヴを、超深層・基底層のパースペクティブ(P4)が下支えする。「P4⇒P3」×「P3⇒P1」=「P4⇒P1」、「P4⇒P3」×「P3⇒P2」=「P4⇒P2」というふたつの力のベクトルの合成を通じて。
 
【第二段階】
○最深層のパースペクティヴ(P3)がひらく律動的伝導空間から(同空間を通路・媒介として、超深層・基底層のパースペクティブ(P4)から湧出する力の供給を得て)二つの伝導空間へ、すなわち深層のパースペクティヴ(P1)がひらく身体的伝導空間と表層のパースペクティヴ(P2)がひらく言語的伝導空間が立ちあがり、水平的で反転的な相関関係《素材1参照》を切り結ぶ。「P1⇔P2」/(P3)。
(「深層」のパースペクティヴ(P1)と「表層」のパースペクティヴ(P2)の関係がなぜ「水平的」なのか。その理由は、「深層/表層」といっても「超深層/最深層」の垂直性から見れば、所詮は「有」の界域における平面的な関係性にすぎないから。あるいは、深層の「P1」と表層の「P1'」、深層の「P2'」と表層の「P2」といった概念を導入して、より「理論的」な説明を加えることもできる。)
○見えない世界から見える世界へ、沈黙の領域から語りの領域へ、「瞬間の中に存していて、流れる時の中にしかなくて、止めてしまうことが本質的に意味をなさないようなもの」と「本性を時間の中に置きながら、仮象において時間を超えているもの」とが通態し邂逅する中動態的な世界(P3)から、「聲」と「文字」もしくは「ウタ」(生命的次元)と「カタリ」(言語的次元)が分岐する世界(P1,P2)へ、。
○あるいは、非連続性、同一的同質性、可逆性を本質とする仮想的で垂直的(=形而上学的・神秘主義的)なエクスタシスの(狭義には「P4⇒P3」の、広義にはこれに「P3⇒P1」と「P3⇒P2」を加えたヴァーティカルで力動的な)時間から、連続性、純粋な異質性、不可逆性を本質とする現実的で水平的(=存在論的・現象学的)なエクスタシスの(「P1⇔P2」のホリゾンタルで相互反転的な)時間へ《素材2参照》。
 
○深層のパースペクティヴ(P1)と表層のパースペクティヴ(P2)が世界を構造づける二本の軸に、すなわち「P1/P3」(精確には「P1/(深層の)P3'」)の水平軸と「P4/P2」(同じく「(最深層の)P4'/P2」)の垂直軸に生長する。
○この二軸の交差によって形づくられる平面「P4/P2」×「P1/P3」は、第48章で導入した「無/有」×「概念/体験」もしくは「地/図」×「論理/現象」の「アナロジーの伝導体」に重なる《素材1余録参照》。
 
 素材1.大石昌史氏の論考「余情の美学──和歌における心・詞・姿の連関」から。
《定家は『毎月抄』において、…和歌の「十体」とは別に、その理想的な「姿」を「秀逸体」として説明している。(略)このように和歌の「姿」は、単なる比喩の水準を超えて、視覚的に明晰な具体的イメージとして語られている。
 しかし、余情を伴う幽玄なる「姿」は、心と詞、すなわち、思考・感情・意志といった精神的内容と音声あるいは文字による感覚的形式という、一方が現れれば他方は消えるという反転的な関係に立つところの、本質的に異質なもの同士の危うい均衡の上に成り立っている。(略)このように矛盾をはらむものであるが故に、余情を伴う幽玄なるものは、恒常的な「形」ではなく、逸脱し・揺れ動き・移ろい行く「姿」と呼ばれるのである。そこには、西洋における作者の意図に基づいて有機的に統一された「作品」を基準とする芸術観とは異なる、作品の周縁に漂う風・薫り・響きといった「空」なるものに即した日本独特な芸術観が示されている。
 心と詞が相関する「姿」は、「表現されているもの」と「表現されていないもの」、あるいは、対象の空間的な並存と時間的な継起とが反転的に相関することにおいて力動的に立ち現れる。このような力動的な姿は、「消えゆくもの」(無化する有)であると同時に「立ち現れるもの」(有化する無)であり、それが伴う「余情」は、有と無とが反転する予感もしくは残響、実在感と虚無感とが動的に共存する無常感として意識される。存在の「空しさ」の自己否定的な現出が、対象の個別的形象性を逸脱した空間的周縁性・時間的前後性としての余情を形成する。「心余りて詞足らず」と特徴づけられる余情を伴った和歌の姿は、有と無とが反転的に交錯するところのけっして一つに重なり合うことのない隔たり(ずれ)を保った力動的な交わりにおいて、心と詞、意味と残響、形象と情動とによって多層的に二重化される。「物」を、感覚が捉える実物そのままにでも、精神が捉える抽象化された形においてでもなく、動きつつあるままに「姿」として捉えることは、物のなかに「心」を見ることになる。「形」が物の合理的・客観的な本質と捉えられるのに対して、「姿」は物と心(外的形態と内的原理)との曖昧な混交物である。形が主客の対立(相関)において外なるものとして知覚・認識されるのに対して、姿は主客の融合(反転)において内面もしくは背後から現出する。活動(行為)する対象の形が、背景をなす地平(活動を規定する因果的な関係性、あるいは、行為を動機づける感情や想い)と共に捉えられることによって、それは、時間と空間、心と物、内と外との間を「動きつつある形」として、過去の運動の軌跡(記憶)を自らの周りに残像として残しながら、将来の運動の準備(期待)のために、その輪郭を揺動させつつある「余情を伴った姿」へと変ずる。》(慶應義塾大学『哲學』第118集、191-192頁)
 大石氏はつづけて、「姿(figure)」が「地(ground)」に対する「図」あるいは「人物」を意味す言葉であることに着目し、「歌論において心と詞という反転的な関係に立っものの相関として比喩的に語られた「姿」について、「図と地」あるいは「対象と地平」という相関的な関係に立つものの反転に即して考察し、その重層的なあり方を支える理論的な基盤を明らかにする」。
《以上のような[ビューラーやフッサールの──引用者註]諸理論が示すところの、顕在性と潜在性とによって特徴づけられる「図と地」「対象と地平」との関係は、心と詞の反転的な相関関係とは異なり、相関的な反転、すなわち並存的な相関関係を前提とした継起的な反転関係と捉えられる。ここでは反転するもの同士の等価性=相関性が前提とされており、継起的に交互に意識(顕在化)される図と地(対象と地平)とが、多次元的に重層化された形においてではあるが、意識に対して並存(同時的に存在)する可能性が示唆されている。詩においては、意識の反転を通じて、図と地、対象と地平とが相関的に並存し、相互に意味規定される。これがヤコブソンの言うとことの「換喩が隠喩的」、「隠喩が換喩的」な「色彩を帯びる」ことの実情であり、詩の解釈・体験においては, 意識と対象、対象と対象との間で、相関と反転、並存と継起とが交錯・重層化され、換喩的な隣接性と隠喩的な類似性とが交差する揺動状態において、対象(図)が、地平(地)との差異性において、そこから分離されて現出するとともに、地平との同一性において、それへと帰入する。》(慶應義塾大学『哲學』第118集、194頁)
 余録。私はかねてから「姿=動きつつある形」のアイデアを、(三浦哲哉氏の「動くイメージ」や芳川泰久氏の「時間の兆す平面」などとあわせて)定家論理学の世界につながる「映画としての和歌」の鍵概念として使いたいと考えてきた。
 いま、少し先走って若干の思いつきを書き残しておくならば、大石氏の議論に出てくる「心、詞、形(物)、姿」は、ほぼそのままの順序で「P1,P2,P3,P4」に置き換えて考えることができる。精確に言えば、置き換えて考えることによって見えてくるもの(理論的成果)がある。
 私の「理論」によれば、垂直軸「ヴァーチュアル(空)/アクチュアル(現)」と水平軸「イマジナリー(虚)/リアル(実)」の交差によって、すなわち「空/現」×「虚/実」の操作によって形成される「伝導体」を、「姿/詞」×「心/物」として「解釈」したものが「哥の伝導体」である。
 いまこの「哥の伝導体」の定式に、先ほどの「心、詞、形(物)、姿」と「P1,P2,P3,P4」の対応関係をあてはめると、「P4/P2」×「P1/P3」は「姿/詞」×「心/物」の「哥の伝導体」そのものとなって、本文で「P4/P2」×「P1/P3」は「無/有」×「概念/体験」もしくは「地/図」×「論理/現象」の「アナロジーの伝導体」に重なると述べたことと食い違う。
 私は、この「ズレ」のうちに「動きつつある形」(もしくは定家の「詠みつつある心」)の概念を解明する手がかりが、(たとえば、この「ズレ」こそが「感情」の伝導をもたらす契機となるのだといった「理論」づけ、あるいは、「アナロジーの伝導体」が「夢(のパースペクティヴ)の伝導体」に移行することによって、「哥の伝導体」をめぐる第二の型が成り立つのだといった「解釈」が)、得られるのではないかと直観している。
 しかし、このことは、大石氏の議論における「姿=図」の位置づけと、私の(哥の伝導体における)「姿」と(アナロジーの伝導体における)「図」の位置づけとの食い違いをどう処理するか、整合性を図るべきか、そうすることで何か見えてくるもの(理論的成果)があるか、等々を充分吟味したうえで、慎重に考えていかなければいけない。
 
 素材2.九鬼周造「時間の観念と東洋における時間の反復」から。
《最近、時間の存在・現象学的(onto-phe'nome'nologique)構造を特徴づけるために「エクスタシス」(extase[Eksstase])という言葉が使われている。時間は「エクスタシス」すなわち「脱自」(「自己の外に」あること:e'tre “hors de soi”)の三つの様態をもつ。未来、現在、過去がそれである。時間の特徴はまさにそれらのエクスタシスの完全な統一、時間の「エクスタシス的統一」(som “unite' extatique[ekstatische Einheit]”)(マルティン・ハイデッガー『存在と時間』、三二九頁)に存する。この意味でのエクスタシスはいわば‘水平的’(horizontale)である。しかるに、輪廻の時間に関して、われわれはなお他に‘垂直的’(verticale)であるようなエクスタシスがあるということができる。各々の現在は、一方には未来に、他方には過去に、同一の今を無数にもっている。それは無限に深い厚みをもった瞬間である。しかし、このエクスタシスはもはや‘現象学的’(phe'nome'nologique)ではなく、むしろ‘神秘主義的’(mystique)である。それゆえ、エクスタシスという言葉はいくらかその古来の意味を取り戻すのである。ところで、時間の現象学的エクスタシスと神秘主義的エクスタシスとの相違は主に二つの点にある。まず、前者においては各構成契機の‘連続性’(continuite')ということが本質的であるのに対して、後者においては逆に、各構成契機間に‘非連続性’(discontinuite')が存していて、各契機は一種の遠隔作用によってのみ連結されている。次に、前者においては、各契機は‘純粋な異質性’(he'te'roge'ne'ite' pure)を示し、したがって時間は不可逆的である。後者においては、エクスタシスの各契機は‘同一的同質性’(homoge'ne'ite' identique)をもち、それゆえ互いに交換されることができる。時間はこの意味で可逆的である。これらの本質的相違を認めたうえで次のように言うことができる。水平面は‘存在論的・現象学的’エクスタシス(extase ontologique-phe'nome'nologique)を、垂直面は‘形而上学的・神秘主義的’エクスタシス(extase me'taphysique-mystique)を表す。水平面は現実面で、垂直面は仮想面であるが、この二面の交差が時間の特有の構造にほかならない。》(小浜善信訳、岩波文庫『時間論』15-17頁)
■インメモリアルな過去─夢の時間(その1)
 
 次に、夢のパースペクティヴの動態をかたちづくる四つのプロセスに固有の体験、とりわけ時間体験の実質について。
 このことを考えるための手がかりとして、九鬼周造が論じた四つの時間論《素材3参照》のアイデアを用いたいと思います。
 
★「第一の時間論」(ベルクソン)
 :過去(記憶)に重点を置く生物学的時間論
★「第二の時間論」(ハイデガー)
 :未来(予料、見通し、先取)に重点を置く倫理学的時間論
★「第三の時間論」(フッサール)
 :直観としての現在に重点を置く心理学的時間論
★「第四の時間論」(九鬼周造)
 :可想的(仮想的)な永遠の今を主張する形而上学的時間論
 
 以下、(私の直感が告げ知らせるところにしたがって)、この時間論の四分類に対応させながら、夢のパースペクティヴの動態「P4⇒P3,P3⇒P1,P3⇒P2,P1⇔P2(/P3)」にかかわる四つの体験フェーズを並べ替え、それぞれにつきごく簡単に素描していきたいと思います。
 が、その前にひとつ議論を挿みます。前章で取りあげた『心という難問』のなかで、野矢茂樹氏は次のように書いていました。再度、引きます。
《ある一時点における知覚も、その時点だけの孤立した断片ではありえない。知覚は時間の流れの中に位置し、さまざまな可能性に取り巻かれている。私は、この点にこそ、知覚において〈空間〉〈身体〉と並ぶ〈意味〉という要因を見出す。この時間性と可能性を、眺望論は十分に捉え得ていなかったのである。
 そこで、知覚を取り巻く時間性と可能性という要因を取り出すため、「物語」という言葉を用いることにしたい。物語は現在の知覚を過去と未来の内に位置づける。そしてまた、私たちは現実の物語だけでなく、反事実的な可能性の物語も語り出すだろう。知覚はこうした物語のひとコマとして意味づけられる。物語に応じて異なった意味づけを与えられる知覚のこの側面が、「相貌」である。》(『心という難問』200頁)
 私の以下の議論の起点が、ここにあります。
 まず、知覚における「意味」の要因が根ざす領域を、私は、「P3」(最深層のパースペクティヴ)がひらく律動的伝導空間と見定め、また、「身体」の要因を「P1」(深層のパースペクティヴ)がひらく身体的伝導空間に、「空間(的位置関係)」を「P2」(表層のパースペクティヴ)がひらく言語的伝導空間に、それぞれあてはめて考えています。
 ここで、前節で述べた、表層次元における「P1'」と深層次元における「P2'」を導入し、より簡便に、知覚にかかわる「意味/身体/空間」の要因を、夢のパースペクティヴにかかわる「最深層/深層/表層」の領域に対応させてもいいでしょう。そうすると、野矢氏がいう「知覚的眺望」は「P3/(P1+)P2'/(P1'+)P2」の系列における第三項を、「感覚的眺望」は「P3/P1(+P2')/P1'(+P2)」の系列の第二項を、そして「相貌」は「P3/P1(+P2')/(P1'+)P2」の系列の初項を、それぞれ主たる棲息地とするパースペクティヴ現象であると規定することができます。
 ところで、野矢氏によると、「物語に応じて異なった意味づけを与えられる知覚の側面」が「相貌」であり、「感情を反映した知覚のあり方」は「物語を反映した知覚のあり方」の一種、すなわち「相貌」として捉えることができるのでした。
《日本語で感情を表わす語彙は驚くほど少ない。(略)悲しみのあり方はあまりにも千差万別である。だからそれをタイプ分けすることを日本語は放棄した。その代わり、悲しみはその理由に応じて千差万別であることをそのまま受け入れたのである。(略)悲しみの理由は無限に多様であるから、理由によって悲しみのあり方を特定することで、無限に多様な悲しみの質を表現できる。あとは、「少し悲しい」「とても悲しい」と、悲しみの大きさを副詞を用いて表わせばよい。このように、感情のあり方が感情を表わす語彙そのものによってではなく、その感情の理由によって表現されるということは、感情のあり方と感情の理由とが本質的な関係にあることを示唆しているだろう。(略)
 では、感情を反映した知覚のあり方は相貌だろうか。私は「相貌」を、「物語によって決定される知覚の側面」と規定した。感情はその理由と本質的に結びついており、理由は記述に依存している。そして記述は物語を開く。(略)つまり、異なる理由で悲しんでいる人は、それぞれ異なる物語を生きているのである。それゆえ、感情を反映した知覚のあり方は、物語を反映した知覚のあり方として、すなわち、相貌として捉えることができる。》(『心という難問』226-228頁)
 この野矢氏の理論を夢のパースペクティヴ論に導入すると、次のようになります。
@最深層の「P3」から、深層の「P1」と表層の「P2」に向かってふたつの「力」が発出する。
Aそれは「時間性」と「可能性」のふたつの要因からなる「物語」のベクトルである。
B「P1」に向かうベクトルは、「理由」を本質としその「記述」によって開かれる「感情」の物語(「聲」もしくは「ウタ」による、濃厚に「時間性」を帯びた物語)である。
C「P2」に向かうベクトルは、「反事実的な可能性」を含む物語(「文字」もしくは「カタリ」による、「可能性」の様相を帯びた物語)である。
 これらのことを前提として、以下、四つの「夢の体験フェーズ」に固有の体験、とりわけ時間体験の実質を粗描していきます。
 
 
【夢の体験フェーズT】
〇「P3⇒P1」
 律動的伝導空間から身体的伝導空間へ、「リズム・倍音」から「聲」へ、私と他者(死者)が「感情」を介して実存的に重ね合わされる、融合する、相互に変身を繰りかえす、「永遠化された過去、今によみがえってくる過去」《素材4参照》の物語が発出する。
〇「P4⇒P3」×「P3⇒P1」=「P4⇒P1」
 無(死、幽[かみ])の界域からの力の供給を得て、「夢の体験フェーズT」に特有の「第一の時間論=過去(記憶)に重点を置く生物学的時間論」が「第四の時間論=可想的(仮想的)な永遠の今を主張する形而上学的時間論」と合流し、「神話的なアウラ」を帯びた(「多重人称・原人称」的で)「インメモリアル」な神話的過去《素材5参照》の体験が発生する。
 
 素材3.九鬼周造「文学の形而上学」から。
《過去に重点を置く第一の時間論と、未来に重点を置く第二の時間論とを比較すれば、第一の時間論は生物学的であり、第二の時間論は倫理学的であるともいえないことはない。有機体には時間の不可逆性が印されていて、生物は老いていく。樹木の幹は年々太くなっていく。生物に印されている時間は過去の連続ということである。それゆえに過去に重点を置く時間論は生物学的といい得る。それに反して、未来に重点を置く時間論は倫理学的といっても差支えない。未来が現実性を帯びて決定力を有つことができるのは意識が未来を先取するからである。一体、ものは原因が先にあって後に結果が生ずる。しかるに意識は一定の結果を目的として未来の領域で先取して、その目的実現のための手段を逆に導き出してくることができる。そこに見られるものは意志活動であるから、時間の本質を未来にありとする時間論は倫理学的色彩を帯びたものである。次に第三の時間論は時間現象の現在における原始的印象に立脚するものであるから心理学的な時間論ということができるし、それに対して可想的な永遠の今を主張する第四の時間論は形而上学的な時間論と言って差し支えないであろう。》(岩波文庫『時間論』145-146頁)
 素材4.若松英輔氏は『小林秀雄 美しい花』で、『ドストエフスキーの生活』序章「歴史について」のよく知られた一節、「子供が死んだという歴史上の一事件の掛替えの無さを、母親に保証するものは、彼女の悲しみの他はあるまい」をめぐって、次のように書いている。
「子供を喪った母親にとって亡き児は、「歴史」の世界に生きている。ここでの「歴史」は単なる過去を指すのではない。永遠化された過去、今によみがえってくる過去にほかならない。」(471-472頁)
「歴史は史料のなかにだけあるのでも、新たに生まれる史料のなかに出現するのでもない。それは感情のなかに生き、感情によみがえる。」(472-473頁)
「情動は、人間が独りでいるときにのみ、感じ得るものだといってよい。むしろ人は、生ける感情にふれるとき、どれほど多数の人間のなかにいたとしても突如として実存的孤独の地平に立つことを強いられる。/「情」という文字は「こころ」と読み、「感く」と書いて「うごく」と読む。そう小林は『本居宣長』で述べているが、ドストエフスキーの評伝を書いているときすでに同質の感覚はあった。他者の目には見えないところで心が感[うご]くこと、それがここでいう感情である。河上[徹太郎]との最後の対談でも小林はこう[「歴史の魂はエモーションにしか掴めない」と──引用者註]語った。」(473頁)
「母親にとって、亡くなった子供は決して過ぎ去ることのない存在であり続けている。そのことを深く感じるとき、彼女はこの世にいる者からは遠く離れ、歴史の世界に生きている死者と、言葉によってではなく悲しみという非言語的なもう一つの「言葉」によって交わり、語り合い、心を通わせる。」(474頁)
 素材5.坂部恵著『かたり──物語の文法』から。
《…科学が特定の視点からはまったく自由ないわば〈無人称性〉(ないしより正確には〈無限人称性〉といったほうがよいかもしれない)をすくなくとも理想とするのにたいして、詩は、むしろ逆に、(とりわけ、それが演じられ、語られ、朗誦されることによって)、あくまでつまるところ人称的なものの時に神話的アウラを帯びたいわば生きた味わいをその生命ないし魅力のゆえんとしてもち、その意味で無人称でもあるいは一息に無限人称でもあってはならず、どちらかといえば、(〈かたり〉の〈緊張緩和〉の相関効果としての)〈多重人称〉(ないしわたくしがかつて使った表現でいえば〈原人称〉)をその発話の特質としてもつと考えられるのである。》(ちくま学芸文庫『かたり』158-159頁)
 
《…物語の〈図柄〉を際立たせる〈前景の時制〉としての‘アオリストは、…他のすべての時制にたいして例外をなし、まさに、(むしろ、〈回顧時制〉の特質としての)画定的な定まった(definite)過去の一回的でかつ繰り返しの不可能、逆転不可能な出来事を述べることをその特別な役割としてもつ’。
 したがって、ここは微妙なところだがあえて割り切っていうとすれば、〈背景の時制〉とアオリストの使い分けは、過去の出来事そのもののあれこれのありかたのちがいにかかわるというよりも、むしろ、当の過去の出来事にたいするひとの態度のとりかたのちがいにより多くかかわる。‘未完了過去や条件法で述べられる過去の出来事が、原理的に繰り返し可能で、別様でもありえ、時間を逆転して呼び返すことが可能であると見なされるのにたいして、アオリストで述べられる〈むかし〉は、もはや二度と呼び返すすべのない既定性と、一種魂の故郷の味わいをもった神話的なアウラを帯び、通常の記憶ないし思い出を絶してそれらとは別の秩序に属する〈インメモリアル〉な時の後光をなにほどかうけながら、集団や個人の心性のうちに生きまたよみがえるのである’。(ベルクソンが、この種の記憶を〈純粋追憶〉の名で呼んだことは、周知のとおり。)
 アオリストがときに〈語部の時制〉と呼ばれるのもむべなるかなということになろう。
〈かたり〉という発話態度は、おそらく、いまにいたるまで、通常の(無限定な)過去とは質的に区別された、神話的な過去との地下水脈による結び付きの記憶を、かろうじてにもせよ、処々で保ちつづけているにちがいない。》(ちくま学芸文庫『かたり』163-164頁)
■未来完了・前未来─夢の時間(その2)
 
【夢の体験フェーズU】
○「P3⇒P2」
 律動的伝導空間から言語的伝導空間へ、「リズム・倍音」から「文字」へ、「反事実的な可能性」が実現し、虚構(死後の世界)が現実化する、時間が逆流し、未来が過去をつくる《素材6・7参照》。
○「P4⇒P3」×「P3⇒P2」=「P4⇒P2」
 無(死、幽[かみ])の界域からの力の供給を得て、「夢の体験フェーズU」に特有の「第二の時間論=未来(予料、見通し、先取)に重点を置く倫理学的時間論」が「第四の時間論=可想的(仮想的)な永遠の今を主張する形而上学的時間論」と合流し、未来完了、前未来形の語り《素材6・7参照》が発生する。
 
 素材6.佐々木健一氏は『日本的感性──触覚とずらしの構造』で、ともに百人一首に採られた三條院の「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」と藤原清輔の「ながらへばまたこの頃やしのばれむ鬱しと見し世ぞ今は恋しき」を比較して次のように論じている。
《かれ[清輔]は、上三句で三條院と同じ内容をうたい、下二句において、並行関係による説明を加えている(これがなぜ本歌取りと見做されないのかは、面白い問題である)。この構成では、下二句の内容の方が身近なものでなければならない。しかし、辛い過去を時間の経過が癒すというその認識は、実は、三條院の示した未来完了的知覚をもとにして、初めてありえたものではあるまいか。(略)末期の目を以て見ようとする態勢が、ここに見られる《現在→過去→過去における未来としての現在から見たその過去⇒未来から見た過去としての現在》という複雑な時間意識を生んだのである。
 この時間的想像力の動きは、日本的感性に親しいものである。その特徴が現在を機軸として、過去と未来の時間相を交換させているからである。現在に残る過去の記憶が粘着性の感性に基づくものであることは、何度も語ってきたことであり、更に繰り返すことはあるまい。この殆ど身体的な基盤に加え、文化的な裏づけもある。日本語の特性に基づいて、日本の文化は《今ここ》の直接性に基礎を置き、それゆえに美的=直感的な性格を濃厚にしている。》(『日本的感性』206-207頁)
 ここで述べられた「現在→過去→過去における未来としての現在から見たその過去」⇒「未来から見た過去としての現在」という未来完了・前未来的な時間意識(時間的想像力)は、むしろ逆かもしれない。つまり「未来から見た過去としての現在」⇒「現在→過去→過去における未来としての現在から見たその過去」という時間意識を介して、過去が「いま・ここ」において製作されているのかもしれない(ベンヤミンの「歴史哲学のコペルニクス的転換」のように?)。
 
 素材7.内田樹著『死と身体──コミュニケーションの磁場』に引用された、ラカン「精神分析における言葉と言語活動の機能と領域」(『エクリ』)の内田訳(145-146頁)。
「◆語りの時制
 言語活動の機能は、情報を伝えることにはない。思い出させることである。
 わたしが言葉を語りつつ求めているのは、他者からの応答である。わたしを主体として構成するのはわたしの問いかけである。」
 
「わたしを他者に認知してもらうためには、わたしは「かつてあったこと」を「これから生起すること」[ママ]めざして語るほかないのである。[…]わたしは言語活動を通じて自己同定を果たす。それと同時に、対象としては姿を消す。わたしの語る歴史=物語のなかでかたちをとっているのは、実際にあったことを語る単純過去ではない。そんなものはもうありはしない。いま現在のわたしのうちで起きたことを語る複合過去でさえない。歴史=物語のなかで実現されるのは、わたしがそれになりつつあるものを、未来のある時点においてすでになされたこととして語る前未来なのである。」
 
《前未来形で前倒しできる最遠にして最後の時点は「死んだ後の自分」です。それ以上先には行けません。「死んだ後の自分」を「現在」に想定し、そこから自分の過去や「これから死ぬまで」に経験した(ことになっている)さまざまの出来事を静かに回想的に語れる人、自分についての物語を語り終えた時点、つまり「死んだ後の自分」という前未来形の消失点から「今」を見ることのできる人。そういう人のことを古来、ぼくたちは賢者、名人、聖人というふうに呼んできたんじゃないでしょうか。》(『死と身体』147-148頁)
 ──内田氏が言う「消失点」は、「眺望点」「相貌点」「詠歌点」に次ぐ第四の「視点」である。
《前未来形で自分を語るというのは人間の生存戦略上、たいへんにすぐれた方法です。(略)
 というのは、動物と人間を決定的に分けるのは「死んだ後」という環境をありありと想像する力、ほとんどそれだけだからです。だからこそ、約五万年前に人類の祖先は「祭礼」をおこなうという習慣を獲得したことによって、他の霊長類から分岐したわけです。
 「死者は存在する」「死後の世界はある」という信憑によって、人間はサルから人間に進化しました。「霊的境位」というようなものは「未来にフライングする」能力、勢い余って「自分が死んだ後の自分に出会う」という「粗忽長屋」の住人のような破天荒な想像力なしにはけっして思い描くことのできないものですから。》(『死と身体』150頁)
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 ちなみに本文で用いた「逆流する時間」や「未来が過去をつくる」(過去は未来がつくる)は同書第3章「死んだ後のわたしに出会う──身体と時間」の小見出し(123頁,126頁)を借用したもの。
 
■回帰する時間─夢の時間(その3)
 
【夢の体験フェーズV】
○「P1⇔P2」
 言語的伝導空間と身体的伝導空間が表層・深層にわたって反転的に相関し、外界(表)と心象風景(裏)が二重写しになる《素材8参照》、「日本的遠近法」《素材9参照》が成立する。
○「P3⇒P1」+「P3⇒P2」⇒「P1⇔P2」(/P3)
 律動的伝導空間を媒介として、「夢の体験フェーズV」に特有の「第三の時間論=直観としての現在に重点を置く心理学的時間論}が「第四の時間論=可想的(仮想的)な永遠の今を主張する形而上学的時間論」と間接的・可想的(仮想的)に接触し、「いま・ここ」に向かって時間が回帰する《素材10参照》。
 
 素材8.樋口桂子著『日本人とリズム感──「拍」をめぐる日本文化論』から。
《日本には視点を操作して情景を浮かび上がらせることに長けた歌が多かった。視点の移動によって外界と心象風景が二重映しになり、イメージが絵画化される。そこでもまた、私とあなたの共有部分の橋渡しをする「ソ」の役割が大きく働いていたのである。
 とりわけ「本歌取り」はこの力を用いて日本独自の詩歌の形式をつくり上げた。》(『日本人とリズム感』207頁)
 ここで言われる「ソ」とは、コソアド言葉のうち「ア」(遠景)と「コ」(近景)の間の漠然とした中間地帯(中景)を指す語だが、「位置の指示というよりも、私からもあなたからも対象を離してゆく、という‘作用の’指示詞であり、それによって何か特別な意味を生み出そうとする「力の指示詞」であるという要素が大きい」(189頁)。
《「ソ」は、私にもあなたにも見えながら、同時に私からもあなたからも近く、処理が可能という位置にあることを‘意識させる’ことによって、私と相手の間に共有の、中間地帯となるような‘場’にあることの力を発揮するのである。私にもあなたにも直接的であるような共有の場をつくりだすのもまた「ソ」の力なのである。》(『日本人とリズム感』190頁)
 たとえば、(J−ポップの歌詞における「私」のように)「日本語はただちに主体の位置をあちらへこちらへと、あるいはその間へと動かして理解することができる」が、それはそこに「ソ」の力が働いているからである(206-207頁)。また、和歌の本歌取りの効果は、本歌と本歌取り歌を繋ぐ「ソ」の力に負うところが大きい(208頁)。
《本歌取りは明確な本歌の提示をすることで成り立つ歌の一分野をつくりあげた。(略)
 そしてこのとき本歌取りは「ソ」の力を徐々に引き出していった。あるいは本歌取りは「ソ」の場を見据えることによって、詩歌の一形式を生み出したと言える。新しいジャンルは、日本語の「ソ」の力を表層に引き出した。現実の、目の前にある「コ」に親しみ、それに接触したいと強く望む古代に対して、本歌取りは中世の日本語の抽象化に方し、これを進行させた。接触性の「コ」に満ちていた歌世界は、中世になると「コ」から一歩離れて「ソ」の領域を広げることになる。中世は言語の抽象化を進めた時代であったが、それは日本語の「ソ」の力の顕在化という別の面を暴露したときでもあった。》(『日本人とリズム感』209-210頁)
 
《古代の万葉の人々は「もの」を愛し、眼前のものを愛し、「コ」を愛した。しかしただ眼前の「もの」にのみ惹きつけられていたわけではない。そもそも眼前の「もの」は変化を必定とする。日本人の時間に対する観念は次第に移り行くものの姿を眺めることに傾斜していった。時間は「うつる」ものである。(略)
 大野晋は、状態が変化して別の状態になることを、溶ける(‘ト’ク)、崩壊していくという意味で捉え、そこから、「とき」の意識が生まれたと考えた[『日本語をさかのぼる』188頁]。眼前の「もの」はいくら執着しても、変化し、逃げて行く。むしろ、「もの」は変化してゆくものである。万葉人はゆるやかな変化の状態にあるからこそ、眼前の「もの」を強く慈しんだとも言える。「コ」はすでにそこに、その先にある「ソ」の場と「ソ」の力の種を宿していた。》(『日本人とリズム感』211頁)
 
《日本的な感性の目は、「もの」が変化し別の「もの」に変わってゆくところに注がれることになる。こうして平安のころには、現物の「コ」を超えて、ものの本来の姿である「心」に向かう。さらにウチの中のさらにその下にある、ものの「裏」側を見ることへと人々の重心は移っていく。裏の原義は「心」と同じところにある。裏を見ることは、心の底にある真の姿のあるものを見ようとすることである。表を見ながら裏を見る。表層を見ながらその心の奥底に向かう。意識のベクトルはねじれた次元に置かれている。裏へと向かう視線は裏へと向かうと同時に、静的な情景を好む傾向と融合して、日本人の感性をかたどっていった。》(『日本人とリズム感』212頁)
 いまひとつ、同書から引く。樋口氏によると、『平家物語』を語る琵琶法師たちは、直接的な自分の体験を語るのではないが、「物語る構造と語りの過去形の使い方によって、聴き手に過去を生々しく追体験させてくれるような仕組みを編み出した」。
《現在、語り本系の中で一般的に用いられている「覚一本」に従うなら、琵琶法師たちは語りにあたって、「〜と聞こゆ」、「〜と聞こえし」、「〜と伝う給る」、「とかや」などという言い方を用いている。つまり彼らは、「〜という話でした」、「〜と伝わっています」、「〜だったそうです」という形を語尾に用いて物語を語った。文の終わりを間接体験の「けり」で括るのではなく、「〜けると(ぞ)聞こえし」と、二重の括り方を編み出した。つまり、「〜けるとぞ聞こえし」、「〜けると(ぞ)聞こえし」あるいは「聞こえしかば」を使って、「このような噂があった」という世間の噂を、‘私が伝える’、という言い方でさまざまな出来事を語った。過去の出来事があり、それを間接体験の「‘けり’」や「‘ける’」に「聞こえ‘し’」(=という噂を私は聞きました)を付け加えて、それを‘自分が’直接、‘体験したこと’として括った。この形式は話に客観的な事実という位相を与えながら、同時に聴き手が語りの中に感情移入できるような情感を仕込むことができた。》(『日本人とリズム感』254頁)
 
《盲目の琵琶法師たちは語の選択によって、平家の物語の一つひとつの出来事を、はるか過去の触れることのできないものではなく、過去と現在を感情的に接近したものとして、過去の世界を自分の中で追体験させる、いわば「ソ」の場をつくり出していたのである。》(『日本人とリズム感』256頁)
(樋口氏が言う「ソ」と前章で一瞥した「ゆ」(「〜と聞こゆ」の「ゆ」)、それに「ま」を組み合わせると、たとえば垂直的な「ゆ」(深浅)と水平的な「ソ」(遠中近)、その両者の「間」=「ま」といった図式を考えることができる。そこに素材9の「渡る(渡す)」や「眺め(詠め)」などを加えることで、「日本的パースペクティヴ」なるものの構図を仕上げることができるかもしれない。)
 
 素材9.佐々木健一著『日本的感性──触覚とずらしの構造』によると、「西洋のルネサンス期に確立した透視画法が、遠景と近景を連続的につなげる中景に関わる遠近法である」のに対して、「日本的遠近法」は、(長谷川等伯の「松林図屏風」のように)「中景を省略することによる効果」を利用している。「このような空間把握に関連して、和歌の表現においてかなめとなっているのは、「〜渡る」という広がりを表わす補助動詞である。」(152-153頁)
《一八〇度身体を回転させて得られる人麻呂[東(ひんがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月西渡(かたぶ)きぬ]や蕪村[菜の花や月は東に日は西に]の空間とは異なり、永福門院のうた[月かげはもりの梢にかたぶきてうす雪しろしありあけの庭]にうたわれているのは、歌人の前方に奥行きとして広がっている空間である。また透視図法の場合、視点に位置する画家は、情景の外に居て、その情景を対象的に見ている科学的な「眼」である。それに対して、この日本的遠近法の視点に位置する歌人は、思いを彼方へと「渡す」動勢のもとである。ここで重要なのは、世界のなかに屹立するランドマークの存在とは別に、見渡すわたしのまなざしに固有の空間構造が秘められている、ということである。中景を飛ばして遠景を近景と結ぶその構造こそ、日本的感性に固有の空間性と見ることができる。》(『日本的感性』155頁)
 素材10.長井英子氏は「「夢幻能」における時間」(東京大学宗教学年報,1987.1.20)[https://ci.nii.ac.jp/naid/120001507080/]で、かの「反射視点」(小西甚一)をめぐって、「シテが自らを3人称で語ることによって表現されるものは何であろうか」と問うている。
《再現される過去の事件の一定の経過は、もはや変更のできない一箇の閉じた世界を形成している。事件は主人公であるシテにとって決して新しい経験ではない。展開するのは、過去の時間直線から切り取られた一定の時間持続、一定の順序に従って回帰する過去の事件である。それはワキの住む世界である歴史的現在に何かの影響を及ぼすことは全くない。目撃者の特異な心的状態に映し出された時間の円環である。そのような時間的特異性を直線的、歴史的現在と対比させるために、特殊な人称の用法が利用されたのではないだろうか。》(26頁)
 長井氏は、「シテが自らを3人称で語ること」すなわち「反射視点」と同様に、「再現される過去の特殊性を表現」している「仕方話」へと話題を転じる。
《『忠度』後段では後シテ忠度の霊が、自分の歌が詠人知らずとなったことへの無念さを語る。次いで霊は一の谷の合戦で命を落した時の有様を物語るが、この際シテは生前の忠度と、彼を討った六弥太の2役を演ずる。討たれたシテは「六弥太心に思ふやう、いたはしやかの人の御死骸を見奉れば……」と、六弥太に転じるのである。『実盛』においても、既に死んでいる実盛が敵方の家臣となって自らの首を洗う所作をする。このような奇妙さが、歴史的現在から見た異次元の情景、つまり回帰的出来事を表現するのに効果を上げているように考えられる。
 永積安明氏の「修羅物と平家の物語──世阿弥の『忠度』をめぐって──」では次のような解釈がなされている。「もはや忠度の死を嘆くのは六弥太でも、もちろん忠度でもない。そこには箙につけた短冊にしたためられていた『行き暮れて木の下影を宿とせば……』の和歌そのものの感動を体現している、シテの忠度をかりたある主体があって、それを舞歌二曲において表現しているにほかならない。」本論ではその「主体」を、回帰する時間の特殊性と解釈したい。それは既に死者となった語り手の個人的枠を脱し、死者をめぐる変更不可能な事件の経緯全体をシテの姿を借りて表現しているのである。つまり、この時点のシテには事件の中のあらゆる人物、あらゆる情景が集約されていることになる。》(27頁)
(「死者のパースペクティヴ」がひらく「回帰する時間」の世界と歴史的現在における「インメモリアルな過去」の再現(デジャヴュ)。第Uフェーズの時間体験と第Tフェーズの時間体験が、第Vフェーズの時間体験において邂逅する。)
 
■永遠の今─夢の時間(その4)
 
【夢の体験フェーズW】
○「P4⇒P3」
 無(死、幽[かみ])の界域から有の界域(律動的伝導空間)へ、「いま・ここ」における完了形の「語り」を通じて超深層・規定層のパースペクティヴが分節化される、「いま・ここ」において製作(想起)される、原生状態の時間(地平)が出現する。
〇「P4⇒(「P1⇔P2」/)P3」
 「夢の体験フェーズW」に特有の「第四の時間論=可想的(仮想的)な永遠の今を主張する形而上学的時間論」のうえに、「夢の体験フェーズV」における「回帰する時間」が無限に堆積し、潜在的かつ実在的な「永遠の今」《素材11参照》が生起する、その形相的・イデア的単一性ゆえに「自我の分裂」や「他者への変身」といった夢の変容体験が発出する《素材12参照》。
 
 素材11.九鬼周造「時間の観念と東洋における時間の反復」から。(なお、ここで言われる三つの時間概念は素材3で述べられた四つの時間論とは異なる論脈のもの。)
《さて、ここ[輪廻の時間概念、回帰的時間の概念──引用者註]にあるのは永遠に繰り返される同一的時間の観念である。そこには、体験された時間や可測的時間のほかに、何か特殊な、おそらく第三の時間概念がある。この概念はギリシアにおいてピュタゴラス派によって。そしてとりわけストア派の終末論によって採りあげられた大宇宙年(la grande anne'e)の概念である。かれらは、世界は正確に同じ細部を保ったまま再生すると言った。ソクラテスはアテネに生まれ、クサンティッペと結婚し、毒を仰いで死に、そしてこのことは無際限に新たに繰り返されていくであろう。周期的に繰り返されるような大宇宙年は、それゆえ、もしフッサール氏の術語の使用が許されるなら、「‘形相的単体性’」(eidetische Singularita:t,singularite' eide'tique)、「イデア的単体性」(singularite' ide'ale)の実現されたようなものと見なすことができる。すべての大宇宙年は同一で、相互に絶対的に同一である。それらの特徴は、一つのエイドスの見本(exemplaires d'un EIDOS)。すなわち相互に完全に同一でありながらしかも多数でありうるといったような見本であること以外にはない。大宇宙年には、それゆえ、固有の意味での個体性という性格がない。こうして、それらはライプニッツの‘不可弁別即同一の原理’(principium identitatis indiscernibilium)が支配する領域外にある。そのゆえに、それらの絶対的同一性がそれらの数的多性に矛盾しないのである。したがって、各々の瞬間、各々の現在は、異なった時間の同一の今である。》(小浜善信訳、岩波文庫『時間論』14-15頁)
 素材12.坂部恵『不在の歌──九鬼周造の世界』から。
《大宇宙年の特性としてあげられていた、〈形相的単体性〉(eidetische Singularita:t)、すなわち、一つのエイドスの見本として、「互いに全然同一でありながら数の上で多であることができる」という特徴は、こうして、ある意味では、ひとつの閉じた小宇宙としての我の特性でもありうることになるだろう。
 ‘こうした垂直に無限の厚みをもった必然的な同一性ないし、峻厳な宿命の観念は、一見してそうおもわれるように、ひとを深い安心立命に誘うものではなく、むしろ、まったく逆に、すでに述べたように、みずからの同一性と差異についての深い厚みをもった両義性の境域へ、ということは、端的いえば、みずからの同一性についての深刻な不安と懐疑へとひとを誘う’。》(『不在の歌』126頁)
 
《ピュタゴラスが、道端でたまたま出会った犬のうちに自分のかつての友人の生まれ変わりを認めたといった、輪廻の時間にまつわる挿話は、周造ものちの邦語版の「形而上学的時間」で引くところだが、わたくしは、これを一歩進め「互いに全然同一でありながら数の上で多であることができる」形相的単体性の概念とあらためて重ね合わせるとき、極限の場合として、一般に言って、‘他者のうちに自己の分身を見る可能性’が導き出されて来ることに、ここであえて注目してみたいのである。
 こうした同一性と差異のもっとも親密なたわむれから生じて来るのは、いうまでもなく、〈分身〉、〈双子〉、〈二元性〉、〈エロス〉(さらには、〈如来蔵〉、〈我のうちなるキリスト〉などにまでおよぶ)一連のテーマである。》(『不在の歌』128-129頁)
■もう一つのパースペクティヴ類型論、余話として
 
 『言語学の教室──哲学者と学ぶ認知言語学』のなかで、西村義樹氏が、「メトニミー」という現象を、「フレーム」(百科事典的な知識のまとまり)の中の「焦点の移動」でもって説明する自説を紹介しています。いわく、「ある言語表現の複数の用法が、単一の共有フレームを喚起しつつ、そのフレーム内の互いに異なる局面ないし段階を焦点化する現象」(161頁)。どういうことかというと、たとえば「しみる」という動詞のメトニミーをめぐって、共著者・野矢茂樹氏から「冷たい水が歯にしみる」と「歯がしみる」の場合はどうなのか、と質問を受けた西村氏は、次のように答えています。
《この二つの「しみる」の用法は、「水や煙などの刺激が身体に作用して、その結果として痛みなどの感覚が生じる」というフレームを共通に呼び起こすのですが、この共有フレームのうち、「冷たい水が歯にしみる」では前半、つまり原因である冷たい水の作用に、「歯がしみる」では後半、つまり結果としての痛みに、それぞれ意味の焦点がある、と言えるでしょう。》(『言語学の教室』163頁)
(「しみる」という語を目にすると、私の脳裡には、この論考群で何度か言及した大岡信の議論が浮かびあがってくる。それは『詩の日本語』に出てくるもので、大岡氏はそこで、「しみる」感覚の系譜が日本詩歌の歴史に「一本のけざやかな線」をつくっていて、「この感覚が、単に肌にしみる程度の触覚の次元から、精神的にぐんと深められてゆくのが中世詩歌の大きな特徴」だと書いている。
 興味深いのは、「しみる」のは水や煙といった、ヴァレリーにとって夢がそうであったような「液体の相」に属するもの、流動するものであることで、というのも、精神的に深められていく、つまり身の深層(こころ)に「しみる」感覚にとってのそれ(流動するもの)は「ことば」、それも「ふたつ以上の文字がなだらかにつながってはじめて成立する文字」(石川九楊『日本論──文字と言葉がつくった国』123頁)であり「流動美はひらがなの基本的な構造そのもの」(同)であるとされるその「ひらがな」にほかならないと思うからだ。ただ、ここでこの論点を深堀りするのは場違いの振舞いなので、この話題はこのあたりで切りあげることにして)、ここに出てきた「フレーム」という語は、「メタファー」の創造性について述べた別の箇所で、西村氏によって「経験領域」と言い換えられます。
《メタファーの場合には少なくとも二つの経験または知識の領域が関わっています。何かを別の何かに、つまり、Aという経験領域に属するものをBという経験領域に属するものに見立てるという場合に、AとBがもともと同じ種類のものだったら見立てる意味がないので、少なくとも二つの区別される異なる経験領域が必要になってくるわけです。》(『言語学の教室』205頁)
 ここに、「ひねこびた生徒」役の野矢氏から、「たとえば「海が怒っている」だと〈海〉と〈怒り〉ですね」云々のつっこみが入る。
《そうです、新しいメタファーの場合には、BはAと類似性があるとはそれまで思われていなかったもののはずですから、そこに創造性が認められることになります。「夜」と「底」という二つを初めて結びつけて「夜の底」[川端康成]という言い方を作り出すわけです。
 それに対してメトニミーの場合には、基本的には一つの領域の中で、つまり一つのフレームの中で、焦点のずれが起こる。新規のメトニミーの場合でもその点は同じで、フレームそのものは旧来のままで、いままで焦点を当てられていなかったところに新たに焦点が当てられるようになるんですね。とはいえ、フレームそのものは変わらないので、その点では、まったく無関係と思われていた二つの領域を初めて結びつけるような新しいメタファーには創造性の点で太刀打ちできない、ということになると思います。》(『言語学の教室』206頁)
 面白いので、つい余分なところまで引用しました。私は、「焦点」(焦点化、焦点移動)と「フレーム」(経験領域)を、「パースペクティブ」の現象を構成する二つの要素(パースペクティヴのはたらきとそれによってひらかれる世界)として考えてみたいのです。
 そして、夢世界のパースペクティブを「メトニミー」型(単一のフレーム内での焦点移動)、現実世界のパースペクティブを「メタファー」型(複数のフレーム間の焦点移動=見立て)と分類し、そこに、夢世界と現実世界(覚醒世界)の中間地帯に生起する、いわば「目覚め」のパースペクティヴを、すなわち「シネクドキ」型(重なり合うフレーム間の焦点移動)のパースペクティヴとでも名づけられる第三の類型を導入してみたいと思うのです。
 さらに妄想をたくましくして、第四の類型が考えられるかもしれません。それは、永遠の眠り、終わらない夢、「死」あるいは「幽(かみ)」の領域にかかわる「オクシモロン」型(不在のフレーム内での虚焦点の移動?)のパースペクティブと呼べるでしょう。
 以上、(次章へつなぐ)余話として。
 
(40号に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。

Web評論誌「コーラ」39号(2019.12.15)
<哥とクオリア>第54章 夢/パースペクティヴ/時間(その5)(中原紀生)
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